前漢紀前漢孝昭皇帝紀 元平元年 前74年

  • 春二月、詔して口賦銭を十分の三減らした。
  • 庚辰、月ほどの大きさの流星が西に流れ、多くの星がこれに従った。乙丑、犬のような形で朱色、尾の長さ三丈の雲が現れ、天の川に沿って西へ動いた。
  • 五行の記録ではこう解する。月ほどの大星は大臣の象である。天は東行を順、西行を逆とする。これは大臣が権を行使して社稷を安んずる兆しである。星占では「太白が散じて天狗となり、突発の事となる。突発の身の禍は時を選ばない。大臣が権柄を運用して社稷を安んじよう」とある。
  • 夏四月癸未、帝が未央宮で崩じた。嗣子はなかった。

昌邑王の即位と廃位

  • 大臣が後継を議した。武帝の子で存命なのは広陵王胥だけだったが、胥はもともと素行に問題があって先帝に用いられておらず、霍光は不安だった。
  • ある郎が上書して「周の大王は太伯を廃して王季を立て、文王は伯邑考を廃して武王を立てた。ふさわしい者を立てればよく、長を廃して少を立ててもよい。広陵王は宗廟を承けるべきではない」と言い、霍光の意にかなった。霍光はこの書を丞相楊敞らに示し、その郎を即日九江太守に抜擢した。
  • 皇太后の詔を承けて昌邑王の賀を迎えた。賀は武帝の孫で昌邑哀王の子である。
  • 六月壬申、昭帝を平陵に葬った。賀は即位したが淫乱な行いをした。霍光は憂え、禍が及ぶことを恐れて大司農田延年に相談し、王を廃そうとした。
  • 延年は言った。「伊尹は太甲を廃して殷の宗廟を安んじ、後世に忠と称された。将軍がそうなされば漢の伊尹です」。霍光は延年を給事中に引き、車騎将軍張安世とともに謀を定めた。
  • このころ天が曇り、昼夜二十余日にわたって日月が見えなかった。賀が外出しようとすると、光禄大夫の夏侯勝が車の前に立ちふさがって諫めた。「天が長く曇って雨が降らないのは、臣下に上を謀る者があるからです。陛下はどこへ行かれるのですか」。賀は怒って夏侯勝を縛り、獄吏に引き渡した。
  • 霍光は張安世が漏らしたと疑ったが、安世は実際には知らなかった。そこで夏侯勝を召して問うと、勝は「洪範に、皇の不極はその罰として常に曇るとあります。つまり下の者が上を伐つのです」と答えた。霍光と安世は大いに驚き、以後、経術の士を重んじるようになった。
  • 霍光は丞相以下の群臣を未央宮に召して会議し、「昌邑王の行いは淫乱で社稷を危うくしかねない。どうするか」と述べた。群臣は皆顔色を失い、答える者がなかった。
  • 田延年が席を離れて前に進み、剣に手をかけて言った。「先帝が将軍に幼い孤児を託されたのは、将軍が忠賢で劉氏を安んじられるからです。今、下は沸き立ち社稷は危うい。もし漢家の嗣が絶えたら、将軍は死んでも地下で先帝にどう見えるのか。今日の議は踵を返す猶予もありません。後から応じる群臣は、剣で斬らせていただきます」。
  • 霍光は「九卿が私を責めるのはもっともだ」と謝し、議する者は皆叩頭して大将軍の命に従うと述べた。
  • 霍光は皇太后に奏上した。皇太后は珠襦を着けて武帳の中に座り、群臣以下が順に殿に上がった。昌邑王を召して詔を聴かせ、その罪状を奏上した――喪に服して斬衰を着ながら悲哀の心なく、道中で素食をせず、従官に人の子女を略取させて宿舎に引き入れた。昌邑の従官・騶奴三百人を引き入れ、常に宮禁の中に置いて殿中で戯れ笑った。書を作って「皇帝が侍中の君卿に問う。御史府令の高昌に黄金千斤を持たせて君卿に贈る。妻十人を娶れ」と言った。大行の柩が前殿にあるのに楽府の楽器を出し、昌邑の楽人を入れて鼓吹・俳優・歌舞をさせた。法駕に乗って北宮に駆け、皇太后の小馬車を召して官奴に騎乗させ遊び戯れた。昭帝の宮人の蒙らと淫乱し、諸侯王・列侯の墨綬を取ってあわせ佩び、昌邑の郎官だった者を免奴とした。即位二十七日で、使者が入り乱れて節を持ち諸官署に詔して徴発したことが合計千百二十七件。荒淫迷惑で帝王の義を失っている。五刑のうち不孝より大きい罪はなく、周の襄王が母に仕えられなかったとき春秋は天下から絶ったとした。昌邑王は宗廟を承けるべきではなく、廃すべきである。担当官に太牢をもって高廟に告げ祀らせたい――と。皇太后は「可」と詔した。
  • 王は「天子に諫争の臣が七人あれば、無道であっても天下を失わない」と言ったが、霍光は「皇太后が廃位を詔された。もはや天子とは称せぬ」と応じた。王は玉璽の組綬を解いて皇太后に奉り、退出した。群臣が見送ると、王は西に向かって拝し「臣は愚かで漢の事に堪えません」と言い、乗輿の副車に乗った。
  • 霍光は昌邑邸まで送り、謝して言った。「王が自ら天下から絶たれたのです。臣らは王に背きはしても社稷に背くことはできません」。霍光は涙を流して去った。
  • 王は昌邑に帰され、湯沐邑二千戸を賜った。昌邑の群臣は輔導の務めを果たさなかったとして三百余人が誅殺された。ただし中尉の王吉(字は子陽)と郎中令の龔遂(字は少卿)は、忠実にたびたび諫めたことにより死罪一等を減じられた。
  • 河南の王式(字は翁思)は賀の師で、事を取り調べた使者が「なぜ諫書がないのか」と責めた。式は答えた。「臣は詩三百五篇を王に授けました。忠臣孝子の篇に至っては繰り返し王に説かぬことはなく、危亡・失道の君に至っては涙を流して王に説かぬことはありませんでした。臣は詩三百五篇をもって王を諫めたのです。どうして諫書がないと言えましょう」。これも死罪を減じられ、世の儒宗となった。
  • もともと賀が国にいたころ、狩猟を好んで節度がなかった。王吉は上疏して諫めた。「大王は経術を好まず遊興を好まれ、車の軾に伏し轡を握って馳せ止まず、口は叱咤に疲れ、手は手綱と鞭に労し、身は車に疲れる。朝は霜霧を冒し、昼は埃塵をかぶり、夏は酷暑に焼かれ、冬は風雪に打たれる。これは性命を養い仁義を隆んにする道ではありません。広い建物の下、敷物の上で、明師が前に、勧め諭す者が後にあって、上は唐虞の隆盛、下は殷周の盛時に及び、仁聖の風を考え治国の道を学べば、喜び勇んで食を忘れ日々に徳を新たにできます。その楽しみは、どうして馬の轡と鑣の間にとどまりましょうか」。
  • 王が放縦で道を失うたびに王吉は諫争し、龔遂もしばしば直諫して禍福を陳べ、号泣して直言をやめなかった。王が「郎中令はなぜ泣くのか」と問うと、遂は「臣は社稷が危ういのを痛むのです」と答え、面と向かって王の過ちを指摘した。王は耳をふさいで走り去り、「郎中令はうまく人に恥をかかせる」と言った。国中の者は皆これを畏れ憚った。
  • 王が召されたときも王吉と龔遂は重ねて諫めたが、王は用いず、ついに廃位に至った。
  • そこで衛太子の孫の病巳を迎えて立てた。これが孝宣帝である。

史論(荀悅曰)

  • 昌邑王の廃位は哀れむべきことだ。書経に「殷王紂は自ら天から絶った」とあり、易に「災いを自ら招く」とある。自業自得ということである。
  • 君主には六種ある。身が正しく性は仁、心は明で志は堅く、人のために動いて自分のために動かないのが「王主」。己に克ち身を省み、問うことを好んで力行し、義に従って情に流されないのが「治主」。事に勤め業を守って怠惰にならず、公を先にして私を先にしないのが「存主」。悖逆と争いが交錯し公私が並び行われ、得たり失ったりで道に純でないのが「哀主」。情が義に勝り私が公より多く、制度に限度なく政令が常を失うのが「危主」。讒邪を親しみ用い忠賢を追放し、情をほしいままにして礼度を顧みず、遊興に出入して儀禁に拘らず、賞賜を私して公の用を越え、忿怒で罰して法制を越え、非を押し通し過ちを飾り、知っても改めず、忠信を塞ぎ直諫を誅殺するのが「亡主」。
  • ゆえに王主は興隆と太平を招き、治主は政を行え、存主は国を保てる。哀主は難がなければどうにか全うできるが、難があれば危うい。危主は難がなければ幸いにも免れるが、難があれば亡ぶ。亡主は必ず亡ぶだけである。
  • 王主は人のためにして後に自分の利があり、治主は義に従って後に情が満たされ、存主は公を先にして後に私が立つ。だから亡主の行いに従って存主の福を求め、危主の政を行って治主の業を求め、哀主の跡を踏んで王主の功を求めても、得られはしない。
  • 善をなすのが最も容易なのは人主であり、業を立てるのが最も難しいのも人主である。至福が最も大きく加わるのも人主であり、至禍が最も深く加わるのも人主である。最も容易な行いをもって最も難しい業を立てるのは得な計であり、至福を興して至禍を隆んにするのは実に厚い。その要点は遠くにはなく、何を心に保つかにあるだけだ。才が下でもどうにかなり得る。
  • しかし前後を見渡すと、中程度の器量の君主の周囲は乱亡を免れないことが多い。宴安に溺れ、へつらいに誘われ、情欲に放たれて、考えないという咎のためである。仁は遠いだろうか。心に保てば至る。だから昔の明王は戦々兢々として虎の尾を踏むように慎み、勤め謙り日が傾くまで働き、朝夕怠らなかった。この理に達していたのだ。
  • 六主があるように六臣もある。道をもって君に仕え、身を顧みず、節に達し方に通じ、功を立て教化を興すのが「王臣」。忠順で失なく、朝夕怠らず、理に順い和を保って上の徳を輔けるのが「良臣」。顔を犯し意に逆らい、過失を指摘して屈せず、直諫して非を止め死罪も避けないのが「直臣」。法を奉じ職を守るだけで働きのないのが「具臣」。へつらい取り入り、意に順い阿諛するのが「嬖臣」。険しく傾き讒害し、下を誣い上を惑わし、権を専らにし寵を独占し、利だけを務めるのが「佞臣」。
  • 君があって臣がない場合も、臣があって君がない場合もある。ともに善なら治まり、ともに悪なら乱れ、混じれば争う。だから明主は用いる者を慎む。六主に軽重があり六臣に難易がある。存亡成敗の機はここにある。深く見極めねばならない。

史論(讃曰)

  • 本紀に言う。昔、周の成王は幼くして統を継ぎ、管叔・蔡叔ら四国の流言による変があった。孝昭も幼年で即位し、燕王・蓋長公主・上官氏の逆乱の謀があった。成王が周公を疑わなかったように、孝昭も最後まで霍光に任せ、それぞれ時に応じて大業を成した。
  • 武帝の奢侈の弊と度重なる出兵の後を承け、国内は疲弊し戸口は半減していた。霍光は時務の要を知り、徭役を軽くし賦を薄くして民を休息させた。始元・元鳳の間には匈奴と和親し百姓は充実した。賢良・文学を挙げて民の苦しみを問い、塩鉄を議し酒の専売を廃した。昭という尊号は、まことにふさわしいものである。