前漢紀前漢孝武皇帝紀六 征和四年 前89年

隕石と封禅

  • 春正月、東萊に行幸して大海に臨んだ。
  • 二月丁酉、雍に隕石が落ちた。そのとき空は晴れわたって雲もなかったが、蒼黄色の紅い気が飛ぶ鳥のように成陽宮の南に集まった。星が雍に落ち、その音は四百余里に聞こえ、落ちて石となった。色は黒く砥石のようであった。
  • 三月、鉅鹿に行幸し、帰りに泰山に立ち寄って封禅の礼を修めた。庚寅、明堂で高祖を祀り、癸巳、石閭で禅を行った。
  • 夏六月、帰って甘泉に立ち寄った。
  • 丁巳、大鴻臚の田千秋が丞相となった。田千秋には他に才能や学術はなかったが、篤実で知恵があり、その地位にあって前後の数人の丞相よりまさっていると自ら称した。

輪台の詔

  • このころ天子は兵事に疲れ、武帝自身も悔いていた。
  • 搜粟都尉の桑弘羊が丞相・御史大夫とともに奏上した。輪台より東はもと国のあった所で、灌漑できる田がある。その周辺の小国は錐や刀にも乏しく、黄金・鉄・綿・絹を貴ぶので、これらで穀物と交換できる。愚考しますに、屯田の兵卒を輪台に遣わし、校尉二人を置いて溝渠を通し、一年田を耕せば穀物の蓄えができます。移住を志願する民を募って耕地に送り、蓄えを増やして生業とさせ、少しずつ亭を築き城を連ねて西へ進み、西方諸国に威を示し烏孫を助けるのが便宜です、と。
  • 武帝は詔を下して過去の悔いを深く述べた。
  • 先に担当官が民の賦を増やして辺境の費用に充てようとしたが、それは老弱や身寄りのない者を苦しめることだ。いままた輪台での屯田を請うている。
  • かつて朕が明らかでなかったために、軍を興して遠くを攻め、貳師将軍を遣わした。古は出師にあたって卿大夫が謀に加わり、蓍と亀で占い、吉でなければ行わなかった。あのときも群臣をあまねく召し、また筮したところ、大過の卦を得て、爻は九五にあり「匈奴は困り敗れる」と出た。方士が星気を占い、大卜が蓍と亀で占って、みな吉で、匈奴は必ず破れる、機を失うなと言った。諸将を占っては貳師が最も吉と出た。朕は自ら貳師を出発させ、決して深入りするなと命じた。
  • ところが謀も卦の兆しもすべて逆さまとなり、貳師の軍は敗れ、士卒は離散してほぼ全滅した。その悲痛は常に朕の心にある。
  • いま担当官が遠く輪台に屯田し、亭や烽火台を築こうと請うているが、これはただ天下をいっそう騒がせるだけで、民を憂える所以ではない。朕は聞くに忍びない。
  • 当今の務めは、苛酷・暴虐を禁じ、勝手な賦課をやめ、本業に努めて農を勧め、武備を欠かさぬようにすること、それだけである、と。
  • これによって二度と軍を出さず、丞相を富民侯に封じて農耕を勧めた。以後、田は多く開墾され、兵事は休止した。

史論(本志曰)

  • 孝武の世は、匈奴を制することを図って、匈奴が西方諸国を併せ従え南の羌と結ぶのを憂えた。そこで河曲に四郡を並べ立て、玉門関を開いて西域に通じ、匈奴の右腕を断ち、南の羌と月支を隔てた。単于は援けを失って遠く漢北に遁れ、漠南に王庭がなくなった。
  • ちょうど文帝・景帝が無為で民を養った五代の後を承け、天下は豊かで財力に余裕があり、士馬は強盛だった。だから多くの財貨を積むことができ、犀・象・玳瑁を見れば犍為・朱崖など七郡を開き、蒟醬や竹杖に心を動かされれば牂牁・越雋を開き、天馬や葡萄のことを聞けば大宛・安息に通じた。
  • これ以後、明珠・文貝・犀・象・翠羽の珍しい品が後宮に満ち、氍毺・琪瑠・葡萄・龍文・魚目・汗血の名馬が黄門に満ち、巨象・獅子・猛獣・大鳥の群れが外の苑囿に満ち、遠方の珍しい品が四方から集まった。
  • そこで上林を広く開き、昆明池を掘り、千門万戸の宮を営み、神明台・通天台を立て、甲乙の帳を造り、隋の珠や荆の璧で飾り立てた。天子は黼黻の衣を負い翠の被いを重ね、玉の几に寄りかかってその中に居た。酒の池と肉の林を設けて四夷の客をもてなし、巴渝・都盧・海中碭極・漫演・魚龍・角抵の戯を演じて見せた。
  • 賄賂や贈答は万里にわたって送り交わされ、軍旅の費用は数え切れなかった。費用が足りなくなると、酒を専売し、塩と鉄を官営とし、白金を造り皮幣を作り、船や車に課税し、六畜にまで租を及ぼした。民の力は尽き財貨は涸れ、そこへ凶年が重なって群盗が各地に起こり、道路は通じなくなった。直指の使者が初めて派遣され、繍衣をまとい斧鉞を持って郡国で斬り捨て、そうしてやっと鎮まった。
  • こうして晩年にはついに輪台の地を棄て、哀痛の詔を下した。これこそ聖人の悔いというものではないか。
  • そもそも西域に通ずるには、近くは隴堆、遠くは葱嶺があり、身が熱し頭が痛む地、懸度の険がある。淮南王や杜欽・揚雄の論は、いずれもこれは天地が区域を分け内外を隔てるための境なのだとする。
  • 『書』に「西戎はすなわち序す」とあるのは、禹はただそのままに序列づけただけで、威徳が盛んでなければ貢物を献じさせることはできないという意味である。
  • 西戎の諸国はそれぞれ君長を持ち、兵は貧弱で統一されていない。匈奴に属してはいるが親しみ従っているわけではなく、匈奴はその馬や家畜・毛織物を取れるだけで、統率して進退をともにさせることはできない。漢とは隔たって道のりも遠く、得ても益にならず、失っても損にならない。盛徳はこちらにあるのだから、あちらに取るべきものはない。
  • 匈奴が患いとなって久しい。漢が興って以来、忠言と良策の臣が、廟堂の上で策を練り論じ合わなかったことがあろうか。しかしその要点をまとめれば二つに帰する。縉紳の儒者は和親を守れと言い、甲冑の士は征伐せよと言う。いずれも一時の利害に偏った見方で、匈奴の始めから終わりまでを究めてはいない。
  • 昔、和親の論は婁敬に発した。当時は天下が定まったばかりで、平城の難に遭った直後だったので、その言に従った。孝惠・高后はこれを守って違えなかったが、匈奴の侵略は衰えず止まず、単于はかえって驕慢になった。
  • 孝文に至って関市を通じ、漢の女を娶らせ、贈り物を厚くして年に千金を費やしたが、匈奴はしばしば約束に背き、辺境はたびたびその害を被った。そこで文帝は中年に至り、前後を思い合わせて辺境に益がないと感じ、憤然と発奮して、自ら戎服をまとい鞍馬に乗り、六郡の良家の勇力ある士を従えて上林で馳射し、戦陣を演習し、天下の精兵を集めて広武に軍を置いた。馮唐を顧みて将帥を論じ、深く嘆息して古の名臣を思った。これこそ和親が無益であることの明らかな証である。
  • 董仲舒は四代の事を親しく見ながら、なお旧来の文言を守ろうとし、その要点にいくらか加えて言った。義は君子を動かし、利は貪欲な者を動かす。匈奴のような相手は仁義で論ずることはできない。ただ説き伏せられるとすれば、厚い利で結び、天に誓わせることだけである。だから厚い利を与えてその心を篤くし、天に誓って約を固くし、愛する子を人質に取ってその心を縛る。匈奴が翻ろうとしても、重い利を失うのをどうする、上天を欺くのをどうする、愛子を殺されるのをどうする。賦を集め賄賂を送っても三軍の費用には及ばず、城郭の堅固さも誠実な士の約束と変わりはしない。辺境の城を守る臣の父兄は帯を緩めてくつろぎ、幼子は食をふくんでいられる。胡の馬が長城をうかがわず、羽檄が中国を走らないなら、天下にとって好都合ではないか、と。
  • だが董仲舒の論を吟味し、実際の事跡と照らし合わせれば、当時の実情に合わず、後世に対しても欠けるところがあると分かる。
  • 武帝のときは、征伐して暴を挫きはしたが、失った士馬もおおむね釣り合うほどだった。河南の野を開いて朔方郡を建てたが、造陽より北の九百余里は棄てた。匈奴の民が漢に降るたびに、単于もそのつど漢の使者を抑留して報復した。その荒々しさがこの程度でさえこうなのだから、どうして愛子を人質に出すだろうか。これが当時の実情に合わないという点である。
  • もし人質を置かず空しく和親を約するだけなら、それは孝文がすでに悔いた過ちを繰り返し、匈奴の際限のない欺きを助長するだけである。
  • 辺境を守る武略の臣を選ばず、砦や烽火台を整え塞を備える設備を修めず、長い戟や強い弩の武具を研がず、敵を待ち受ける備えを頼りとせずに、民から賦を取り立て、遠くまで賄賂を送り、百姓を削り取って仇敵に貢ぎ、甘言を信じて空約束を守り、それで胡の馬がうかがってこないことを期待するのは、誤りではないか。
  • 後世に至って匈奴が衰弱すると、子を遣わして侍らせるようになった。だが単于はときにその子を棄ててまで財利を貪り、約束を顧みなかった。略奪して得るものは年に億万を数えるのに、和親の贈り物は千斤に過ぎない。どうして人質を棄てて重い利を取らずにいようか。董仲舒の言はこの点で誤っている。
  • そもそも先王は中土を測って封畿を立て、九州を分け、五服を列し、土地の貢物を均しくし、内外を分け、刑政を修め、あるいは文徳を示した。遠近によって取るべき態度が異なるからである。だから『春秋』は諸夏を内とし夷狄を外とする。
  • 夷狄の人は貪欲で利を好み、髪を垂らし衣を左前に着る。人の顔をして獣の心を持ち、中国とは服章を異にし、習俗を異にし、飲食も同じでなく、言葉も通じない。だから聖王は禽獣として扱い、盟約を結ばず攻伐にも赴かなかった。約せば賄賂を費やして欺かれ、攻めれば軍を疲れさせて仇を招く。その土地を得ても耕して食えず、その民を得ても撫でて養えないからである。
  • だから明王は外にして内に入れず、疎んじて親しまず、政教をその民に及ぼさず、正朔をその国に加えず、来れば懲らして防ぎ、去れば備えて守った。義を慕って貢献してくれば礼と譲をもって接し、繋ぎ止めて絶やさず、非は相手の側にあるようにした。これが聖人が蛮夷を制御する常道である。
  • 秋七月辛酉の晦、日食があり、鉤のような形を残して欠けた。