前漢紀前漢孝武皇帝紀六 征和二年 前91年

公孫賀の獄死

  • 春正月、丞相の公孫賀が獄に下されて死んだ。当時、朝廷は事が多く、大臣が厳しく責められていた。はじめ公孫賀は頭を地につけ涙を流して印綬を受けまいとしたが、武帝は許さなかった。公孫賀は恐れて「禍はここから始まる」と言った。
  • 公孫賀の子の公孫敬声が罪を得て獄に下された。当時、詔によって京師の大侠である陽陵の朱安世を捕らえようとしていたが捕まらなかった。公孫賀は自ら願い出て朱安世を捕らえ、それで子の罪を贖おうとし、武帝は許した。果たして朱安世を捕らえたが、朱安世は大笑いして「丞相の禍は一族に及ぶぞ」と言い、獄中から上書して、公孫敬声が陽石公主と密通したこと、および巫者に馳道で祭祀を行わせ桐の人形を埋めて武帝を呪詛したことを告発した。
  • 事件は担当官に下されて取り調べられ、公孫賀は犯した罪を徹底的に追及され、ついに父子ともに獄中で死に、一族は誅された。
  • 涿郡の鉄官が鋳造のために金属を溶かしたところ、みな天に飛び上がった。
  • 三月丁巳、涿郡太守の劉屈氂が丞相となった。
  • 夏四月、大風が吹いて家を吹き飛ばし木を抜いた。
  • 閏月、諸邑公主と陽石公主がいずれも巫蠱の罪に連座して死んだ。
  • 甘泉宮に行幸した。

江充と巫蠱の禍

  • 秋七月、使者の江充を遣わして太子の宮で巫蠱を掘らせた。
  • 巫蠱の禍は朱安世に始まり江充によって成った。江充は趙の人で、敬粛王の上客であった。趙の太子の劉丹は、江充が自分の隠し事を王に告げたと疑い、江充を捕らえようとしたが捕まらず、その父兄をことごとく殺した。江充は逃げて関に入り、上書して趙の太子を告発し、死罪に当たるとされたが、たまたま赦に会って免れた。
  • 江充は体格が大きく容貌も堂々としていた。はじめ武帝は江充を見て非凡と思い、側近に「燕の国にはもとより奇士が多い」と言い、江充を直指使者として三輔の盗賊を取り締まらせた。
  • 江充が武帝に従って甘泉から帰る途中、太子の家人が馳道の中を車で行くのに出くわした。江充はこれを役人に引き渡し、車馬を没収するよう奏上した。太子が人をやって謝罪させても聞き入れず、そのまま奏上した。武帝は「人臣たる者はこうあるべきだ」と言い、大いに信任して水衡都尉に昇進させた。
  • のち武帝が江充に巫蠱の事件を扱わせると、江充は胡の巫を連れて地を掘り桐の人形を探し、その他の怪しい徴証があればただちに捕らえて拷問し、焼き鏝で灼いて無理に自白させた。民は互いに巫蠱だと引き合いに出し、大逆不道として弾劾され、死んだ者は数万人に上ったが、その冤罪を訴える者はいなかった。
  • 江充は太子と隙があり、武帝が一朝崩じたら太子に誅されると恐れて、宮中に巫蠱の気があると言い出した。武帝は案道侯の韓説、黄門の蘇文らに江充を助けさせた。江充はまず後宮のあまり寵のない夫人から取り調べ、順に皇后に及び、ついに太子の宮に及んで、桐の人形を得たと称した。

太子の挙兵

  • 太子少傅の石徳が太子に言った。「陛下は重病で甘泉におられます。皇后や諸吏の家が伺いを立てても返答がありません。陛下の生死も分からぬのに姦臣がこの有様です。太子は秦の扶蘇のことをお考えにならないのですか。いまや身の潔白を明かす手立てがありません。江充を捕らえてその奸計を徹底的に糾すべきです」と。
  • 壬午、太子は食客に偽って使者を装わせ、江充らを捕らえさせた。韓説は抵抗して殺され、蘇文は逃げて甘泉に帰った。
  • 太子は人をやって太后に告げた。太后は武庫の兵器と長楽宮の衛士を動員した。太子は自ら臨んで江充を罵り、「趙の亡命者め、趙国で父子を乱してまだ足りず、いまわが父子を乱すか」と言い、江充を斬って引き回し、百官に「江充は謀反した」と告げ、胡の巫を上林の中で焼いた。
  • 長安は騒乱となり、太子が謀反したと言われた。武帝はこれを聞いて怒り、丞相に詔して三輔の近県の兵を動員し謀反人を捕らえさせた。
  • 太子は恐れ、使者を遣わして詔を偽り、長安の中都官の囚人・徒刑者を赦し、武庫の兵器を出し、北軍を監督する使者の任安を召して北軍の兵を動員させようとした。任安は節を受け取ったが、そのまま軍門を閉ざして太子に応じようとしなかった。
  • 太子はやむなく四方の市の人々を駆り集めて数万人となり、丞相の軍と出会って五、六日戦った。死者は数万人に及び、血が流れて溝に入った。
  • 庚寅、太子は敗れて逃げ、南へ走り、覆盆の城門から脱出できた。皇后は自殺した。
  • 司直の田仁は担当の城門を閉ざさず、太子を逃がした罪に問われた。丞相は斬ろうとしたが、御史大夫の暴勝之が「司直は二千石ですから、まず上奏して裁可を仰ぐべきです」と言ったので丞相は思いとどまった。
  • 武帝はこれを聞いて激怒し、暴勝之を責め問うた。「司直が謀反人を逃がしたのだから、丞相が斬るのは当然だ。大夫の分際でどうして勝手に止めたのか」と。暴勝之は自殺した。
  • 任安は太子の節を受け取って二心を抱いた罪に問われ、田仁とともに腰斬に処された。太子の賓客はみな誅され、太子に従って挙兵した者は謀反の法で一族を誅された。役人や兵で拷問に加わった者はみな燉煌に移された。

史論(荀恱曰)

  • 任安を斬ったのは、後の人に悪事をやり通させ、途中で考えを改める道を閉ざすことになる。『易』に「遠くまで行かぬうちに立ち返れば、大きな悔いに至らず、大いに吉である」とある。

壺関三老の上書

  • 太子が城外にあった間、長安城の諸城門に初めて屯兵を置いた。太子が赤い節を持っていたので、節を改めて黄色の毛を加えた。
  • 武帝の怒りは激しく、群臣は憂え恐れて手立てを知らなかった。壺関の三老が上書して言った。
  • 臣は聞きます、父は天のごとく、母は地のごとく、子は万民のごとしと。天が平らかで地が安らかであれば陰陽は調和して万物は茂り、父が慈しみ母が愛せば家は中庸を得て子は孝順になります。陰陽が和さなければ万物は損なわれ、父子が和さなければ家は滅びます。
  • 昔、孝己は孝でありながら謗られ、伯奇は仁でありながら追放されました。骨肉の至親である父子が互いに疑うのは、なぜか。積もり積もった中傷が生むのです。
  • いま皇太子は漢の嫡嗣であり、万世の業を承け、祖宗の重きを継ぐ、皇帝の親しい宗子です。江充は町中の卑しい下役にすぎません。陛下がこれを取り立てて至尊の命を執らせたため、太子を追い詰め、偽りを構え、親戚を隔てました。太子は進んでは陛下に会えず、退いては乱臣に苦しめられ、ひとり冤罪を抱き憤りを結んで訴える先もなく、憤りに堪えず起って江充を殺し、恐れて逃げたのです。子が父の兵を盗んで難を救おうとしたのは、我が身を免れようとしただけです。臣はひそかに、そこに邪心はなかったと考えます。
  • 『詩』に「讒言する人は際限がなく、四方の国を乱す」とあります。かつて江充が趙の太子を讒したことは、天下の誰が知らぬでしょう。その罪はもとより誅戮に値します。陛下はよく調べもせず、太子を深く咎め、激しい怒りを発して大軍を挙げて攻め、さらに三公自らに軍を率いさせました。知者は物を言えず、弁士も説けません。臣はひそかにこれを痛みます。
  • どうか陛下、心を寛くしお気持ちを慰め、太子の罪を咎めるのをおやめになり、速やかに兵を収め、太子を長く亡命させないでください。臣は思いに堪えず、一日の命を投げ出して、建章の闕下で処分をお待ちします、と。
  • 上書が奏されると武帝は感じて悟った。

太子の死と冤罪の晴れ

  • 八月辛亥、太子は湖で死んだ。太子は逃げて世話になった家は貧しく、履を織って太子に食を供していた。太子には旧知の者があり、ひそかにその者を頼ろうとしたところ発覚し、役人が太子を包囲して捕らえようとした。太子は部屋を閉ざして自ら首をくくった。男子の張富昌という兵卒が足で戸を蹴り開け、新安の令の李寿が駆け寄って抱き、縄を解いた。家の主人は戦って死に、二人の皇孫もともに殺された。
  • のちに巫蠱の事件の多くが事実でないと分かり、武帝は太子に罪がなかったと知った。そこで李寿を抱侯に、張富昌を蹋踶侯に封じた。
  • さらに高廟の令の田千秋が改めて太子の冤を訴えて言った。「臣は夢に白髪の翁を見ました。翁は臣に上言せよと教えました。子が父の兵をもてあそんだ罪は赦されてよい。天子の子が過って人を殺したとて、何の罪がありましょうか、と」。
  • 武帝は悟って「これは高廟の霊が、おまえを使って朕を目覚めさせたのだ。おまえはこのままわが輔佐となれ」と言い、田千秋を抜擢して大鴻臚に任じた。そして江充の一族を誅し、蘇文を横橋の上で焼き、湖で太子に刃を向けた者はみな一族を誅した。湖に思子台を作った。天下はこれを聞いて悲しんだ。
  • 癸亥、地震があった。
  • 九月、大鴻臚の商丘成が御史大夫となった。
  • 趙の敬粛王の末子の劉偃を平干王に立てた。
  • 匈奴が上谷・五原に侵入し、官吏や民を殺し掠奪した。