前漢紀前漢孝武皇帝紀六 太始二年 前95年

杜周の酷吏ぶり

  • 春正月、回中に行幸した。
  • 秋、大旱魃。
  • 九月、死罪の者を募って銭五十万を納めさせ、死罪一等を減じた。
  • 御史大夫の杜周が卒した。杜周は南陽の人で、役人として峻厳酷薄であった。廷尉となると詔獄の案件が非常に多く、投獄された二千石の官は新旧入り混じって常に百余人を下らなかった。郡国から年に千余通の告発が上がることもあり、大きな案件では罪の証人が数百人、小さいものでも数十人が連座し、遠くは数千里、近くは数百里から呼び出された。
  • 詔獄で審理する際は、告発状に基づいて責め、服さなければ笞打って決着させた。そのため罪ありと聞けば皆逃げ隠れし、長く獄につながれる者は十余年に及び、赦されてもまた互いに告発し合った。おおむね誣告によって不道の罪とされ、廷尉および中都官の詔獄で罪に問われた者は六、七万人、役人が追加した分を含めれば十余万人に達した。
  • あるとき冬に審理が終わらぬうちに立春となり、寛大の令が下った。杜周は地を踏んで「あと数十日あれば片づいたものを」と嘆いた。その酷薄さはこのようであった。
  • 御史大夫となってからは、二人の子が黄河を挟んで郡守となり、資産は巨万を積んだ。民の治め方はみな酷薄であったが、末子の杜延年、字は幼公だけは寛厚な行いをしたという。
  • 光禄大夫の暴勝之が御史大夫となった。

白渠と用水の利

  • 趙中大夫の白公が渠を掘って涇水を引いた。起点は池陽の谷口、末は櫟陽の渭水に入り、長さ百里、四千五百余頃の田を灌漑した。そこで白渠と名づけられ、民は豊かになってこう歌った。「田はどこにあるか、池陽の谷口。鄭国が先で白渠が後。鍬を挙げれば雲となり、渠を切れば雨となる。水は竈の下を流れ、魚は釜に跳び込む。涇水一石には泥が数斗。灌ぎながら肥やし、わが稲や黍を育て、京師の百万余の口を養う」と。この二つの渠の恵みを言ったものである。
  • 鄭国渠のいわれはこうである。昔、韓は小国で水と土に苦しみ、秦が東へ攻めてくるのを恐れて、秦を疲れさせようと鄭国を遣わして説かせた。涇水を引き、中山より西から壺口に至り、北山沿いに渠を通して東は洛水に注ぐ、三百余里の水路で田を灌漑せよ、というものである。工事の途中で真意が発覚し、秦は鄭国を殺そうとした。鄭国は「はじめ臣は謀略として献策しましたが、渠が完成すれば秦の利にもなります。臣は韓のために数年の命を延ばし、秦のために万世の功を建てるのです」と言った。秦はもっともだと考え、ついに渠を完成させた。四万余頃の田を灌漑し、収穫はどこも一畝で一鍾となり、関中は肥沃な野となって凶年の憂いがなくなり、秦はこれによって富強となった。そこでこれを鄭国渠と名づけた。
  • 昔、魏の文侯のとき、西門豹が鄴の令となって名声があった。文侯の曽孫の襄王が群臣と酒を飲んだとき、王が「わが臣がみな西門豹のような臣であってほしい」と祝した。史起が進み出て言った。「魏氏の田の割り当ては百畝ですが、鄴だけは三百畝です。それは悪い田だからです。漳水がそばにあるのに、西門豹はそれを用いることを知りませんでした。知っていて行わなかったのなら不仁、知らなかったのなら不智です。仁と智において西門豹は尽くしていません。どうして手本とするに足りましょう」と。
  • そこで史起を鄴の令とし、ついに漳水を切って鄴を灌漑し、魏の河内を富ませた。民はこれを歌って「鄴に良き令があり、その名は史公。漳水を切って鄴のあたりを灌ぎ、永く塩気の地であった所に稲や粱が生える」と言った。百姓は豊かに足り、民の暮らしは安らかになった。いずれも水利の大きな効を言うものである。