前漢紀前漢孝武皇帝紀四 元狩二年 前121年

霍去病の隴西出撃

  • 冬十月、雍に行幸して五畤を祀った。
  • 春三月戊寅、丞相の公孫弘が薨去した。壬辰、御史大夫の李蔡が丞相となり、張湯が御史大夫となった。
  • 驃騎将軍の霍去病が一万騎を率いて隴西から出撃し、烏盭を越えて濮を討ち、狐奴に登り、五国を経て匈奴単于の子を生け捕りにした。転戦すること五日、鄢耆山を過ぎて千余里、短兵で渡り合って皋蘭のもとで敵を殲滅し、敵の侯王を斬り、混邪王とその相国・都尉を捕らえ、休屠王が天を祭る金人を接収した。
  • 霍去病は衛青の姉の少児の子である。父の霍仲孺は県の役人で、平陽公主の家に仕えていたときに少児と密通して霍去病が生まれた。霍去病は初め侍中として嫖姚校尉となり、衛青に従って匈奴を撃って功を立て、冠軍侯に封ぜられていた。この戦功で封邑千二百戸を加増された。

夏の出撃と李広の奮戦

  • 夏、余吾水の中から馬が生じ、南越が調教した象と人の言葉を話す鳥を献上した。
  • 将軍の霍去病と公孫敖が北地から二千余里出て、居延を過ぎ、三万余級を斬首・捕虜とした。
  • 匈奴が鴈門に侵入し、数百人を殺し掠奪した。衛尉の張騫と郎中令の李広を右北平から出撃させた。李広は四千余騎を率い、張騫とは別の道を進んだ。
  • 匈奴の数万騎が李広を包囲し、軍中は震え上がった。李広は子の李敢に数十騎を従えさせ、匈奴の騎兵の中を真っ直ぐ突き抜けさせ、その左右から回って戻らせた。李敢は「胡の騎兵など与しやすいものです」と報告し、これで兵の心が落ち着いた。
  • 李広は円陣を組んで外向きに構えた。匈奴が激しく攻め、矢が雨のように降って漢兵の半数以上が死に、矢も尽きかけた。李広は弓を引き絞ったまま射ずに構え、自ら大矢で敵の裨将を射て数十人を殺した。匈奴は次第に囲みを解いて去った。日暮れには将兵は顔色を失っていたが、李広だけは平生のとおりだった。
  • 翌朝もまた力戦し、そこへ張騫が一万騎を率いて到着したので匈奴は退いた。李広の騎兵はほぼ全滅し、身一つで免れたが、敵も三千余人を殺していた。
  • 帰還後、李広は殺した数と失った数が相殺されて、罪もなく賞もなしとされた。張騫は期日に遅れた罪で斬刑に当たるところを贖罪して庶人となり、李広も庶人となった。

李広と覇陵尉

  • 李広はある夜、田野で遊んで酒を飲んで帰る途中、覇陵の尉に咎められて止められた。従者が「元の李将軍だ」と言うと、尉は「今の将軍でさえ夜行はできない。まして元将軍が何事か」と言い、李広を亭のもとに泊まらせた。
  • 間もなく匈奴が遼西に侵入したので、李広は召されて右北平太守に任ぜられた。李広はあの尉を一緒に連れて行きたいと願い出て、任地に着くとこれを斬った。

江都王建の暴虐

  • 江都王の劉建が罪を得て自殺した。
  • はじめ父の易王が薨去したとき、劉建は喪中の外舎にいながら、易王の寵姫だった淖姫ら十九人と、妹の劉信・臣らを召して姦通した。
  • 劉建は章台に遊んだとき、子どもを小舟に乗せ、その舟を踏んで転覆させ、四人を溺れさせて二人を死なせた。また雷陂に遊んだとき、大風の日に郎二人を小舟で波間に出させ、舟が転覆して溺れ、浮き沈みするのを見て大笑いして楽しみ、ついに全員死なせた。
  • 宮中の女に過ちがあれば裸にして太鼓を打たせ、あるいは木の上に置き、長い者は三十日たってやっと衣を許した。また狼の牙で殺させ、劉建はそれを見て笑った。人を閉じ込めて餓死させることもあり、罪なく殺された者は三十五人に及んだ。
  • 劉建は人と獣を交わらせて子を生ませようとし、宮女に雄羊や犬と交わらせた。
  • 罪が多いと自覚し、国中の者が告発しようとしていたため、劉建はついに謀反を企て、黄屋の車蓋を作り、皇帝の璽を刻み、漢の節を偽作し、閩越に賄賂を贈って急のときの援助を約束した。父が天子から賜った旌旗を掲げて出入りしていた。
  • のち事が発覚し、担当官は「劉建は無道であり、桀紂の悪でもここまでには至らない。謀反の法で誅すべきだ」と奏上した。廷尉と宗正が取り調べに向かうと、劉建は自殺した。

史論(本傳云)

  • 魯の哀公は「寡人は深宮の中に生まれ、婦人の手で育ち、憂いも恐れも知らなかった」と言った。まことにそのとおりで、これでは危亡を免れようとしても免れられない。だから古人は安逸を鴆毒とし、徳がないのに富貴であることを不幸と呼んだ。
  • 漢が興ってから諸侯王の多くが驕り淫らで道を失ったのは、放縦に溺れる境遇に置かれたからそうなったのである。凡人でさえ習俗に縛られるのだから、まして哀公のような立場の者はなおさらである。ただ大いなる雅正の人だけが抜きん出て群を離れることができ、河間献王がそれに近かった。

膠東王と混邪王の降伏

  • 膠東王の劉寄が薨去した。淮南王が謀反したとき、劉寄はうすうすその事を聞き知り、ひそかに戦備を整えていた。のちに淮南王の事件を裁いた際、武帝は取り調べで出た供述を伏せさせた。劉寄は後に自ら傷み悔いて発病して死に、祠を立てることも憚った。のちに武帝は劉寄の長子の劉賢を王に立てた。
  • 秋、匈奴の混邪王が四万余人を率いて降り、列侯に封ぜられた。
  • 単于は「混邪王と休屠王はしばしば漢に破られた」と怒り、二人を誅そうとしたので、二王は漢に降ることを謀った。休屠王が後になって悔いたため、混邪王はこれを殺してその衆を併せ、あわせて四万余人で降った。
  • 五つの属国を置いて彼らを住まわせ、その地に武威郡・酒泉郡を置いた。

金日磾

  • 休屠王の子の日磾は、母の閼氏、弟の倫とともに官に没収され、黄門に送られて馬の世話をした。休屠王が天を祭る金人を作っていたことから金氏と称した。
  • 武帝が後庭に遊んで馬を見たとき、後宮には人が満ち、飼育係数十人はみな盗み見ようとしたが、日磾だけは見ようとせず、しかも彼の馬は肥えて良かった。日磾は身の丈八尺二寸、容貌は厳かで美しかった。武帝は不思議に思って問い、事情を答えると、その日のうちに馬監に任じ、のちに光禄大夫・侍中とした。
  • 武帝は日磾を深く信愛し、賜与は累計千金に及び、外出には車に同乗し、宮中では帷幄に侍らせた。外戚や側近はみな「陛下はどこかの胡の小僧を得て、かえって重んじておられる」と言ったが、武帝はいよいよ厚遇した。
  • 日磾の母は二人の子をよく躾けた。母が病死すると、武帝はその姿を甘泉宮に描かせた。日磾は参内のたびに母の画像を拝んで泣き、それから立ち去った。
  • 日磾の二子はともに武帝のお気に入りだった。のちに一方が成長して不謹慎になり、殿下で宮女とふざけたのを日磾は見つけて、その場で殺した。武帝は激怒したが、日磾が事情を述べると、涙を流して心中日磾を敬った。
  • 日磾は側近くに仕えること数十年、一度も無礼な目を向けたことがなく、武帝が宮女を賜っても近づこうとしなかった。その慎み深さはこのようであった。