前漢紀前漢孝武皇帝紀三 元狩元年 前122年

白麟の獲得と改元

  • 冬十月、雍に行幸して五畤を祀り、一角で五蹄の白麟を獲た。また枝が横に出てまた上で合わさる奇木があった。
  • 武帝が群臣に問うと、謁者の終軍が答えた。「昔、武王が黄河を渡る途中、白魚が王の舟に飛び込みました。いま郊祀の礼はまだ神祇に届いていないのに獣を獲て供物とできたのは、天が享受を示し、上に通じた符合です。六羽の鶂が退き飛んだのは逆、白魚が舟に登ったのは順です。明暗の兆しは、上は飛鳥を乱し、下は淵の魚を動かし、それぞれ類によって推せます。いま野獣の角が並び合したのは、根本を同じくすることの表れ、枝が内へ寄り合うのは外に隔てのないことの表れです。このような瑞応であれば、髪の結いを解き左衽を改め、冠帯を着け衣裳を整えて、教化を慕ってくる者が現れましょう。恭しく構えて待つべきです。この明るい時に合わせて日を改め定め、元号を改めて告げ、白茅を江淮に苞み、めでたい号を営丘に発して、輝かしい治績に応じ、記録する者に書き記させるべきです」と。
  • これにより元朔を改めて元狩とした。
  • この年、北地で匈奴の名王が一党を率いて降った。

淮南王安の謀反

  • 十一月、淮南王劉安と衡山王劉賜が謀反し、誅された。
  • 劉安は読書を好み、賓客や方術の士数千人を招いた。内書二十一篇のほか外書も多数、さらに神仙や錬金の術を説く中書八巻を著した。武帝は劉安を父の世代の親族として厚く尊重していた。かつて劉安が入朝したとき、武帝は『離騷』の賦を作らせた。劉安は朝に詔を受けて食事時には書き上げ、武帝はしばしば宴を共にして日暮れになってようやく散会した。
  • 建元六年に彗星が現れたとき、ある者が劉安に「天下で大きな兵乱が起こるでしょう」と言った。劉安は、武帝にまだ太子がなく、天下に変事があれば諸侯が争うことになると考え、武器を整え金銭を蓄え、郡国の遊士・群臣・賓客に賄賂を配った。江淮の間には軽薄な者が多く、みだりに妖しい言葉で劉安に諂った。劉安はまた父の厲王が流されたことに心を動かされてもいた。
  • のち劉安は、匈奴撃つべしと申し出た雷被らを妨げ、明詔を握りつぶした罪に問われ、本来は棄市に当たるところを三県削られるにとどまった。これによって劉安の恨みは深まり、謀反の企ては激しくなった。

伍被との問答

  • 乱を起こそうとした劉安は、中郎の伍被を呼んで謀を語ろうとし、「将軍」と呼びかけた。伍被は「王よ、どうしてそのような亡国の言葉を口にされるのか。昔、伍子胥が呉王を諫めたが用いられず、『いまに姑蘇の台に鹿が遊ぶのが見える』と言った。いま臣は、王宮に荆棘が生い茂り露が衣を濡らすのが見える」と答えた。劉安は伍被の父母を捕らえて三か月投獄した。
  • 王が再び伍被を召して「将軍は寡人に承知してくれるか」と問うと、伍被は「否。臣はただ大王のために計を立てるだけです」と答えた。
  • 王が「天下は治まっているか乱れているか」と問うと、伍被は「ひそかに見るに、朝廷の綱紀は筋が通り、陛下の施政は古の道に従っています。太平とまでは言えませんが、なお治まっているというべきです」と答えた。
  • 王が「公は大将軍をどんな人物と見るか」と問うと、伍被は答えた。「大将軍は士大夫を礼で遇し、士卒に恩があり、皆が喜んで用いられます。山谷を上り下りするのも飛ぶようで、体力は人並みはずれ、常に士卒の先に立ちます。休息が要るときにようやく宿営し、井戸を掘って水が出てから飲み、軍が引くときは士卒が全員河を渡ってから自分が渡ります。賜った金銭はすべて部下に分け与えます。古の名将でもこれに及びません」と。王は不快になった。
  • 王がさらに「公は呉王の挙兵を誤りだと思うか」と問うと、伍被は答えた。「呉王は劉氏の祭酒の号を賜り、肘掛けと杖を受けて朝見を免ぜられ、四郡の民と数千里の地を擁して西へ挙兵しましたが、敗れて還り、身は滅び祭祀は絶えて天下の笑い者になりました。呉が大勢を擁して成功しなかったのはなぜか。まことに天に逆らい理に背き、時機を見なかったからです」と。
  • 王は言った。「男子が死をもって守るのは一言だけだ。それに呉王に謀反の何がわかろう。いま樓緩に軽装の兵で城皋の口を押さえさせ、周被に潁川の兵を率いさせて轘轅に拠らせ伊闕の道を守らせ、陳定に南陽の兵を発して武関を守らせれば、河南太守には洛陽が残るだけだ。恐れるに足りぬ。城皋の口を絶てば天下は通じなくなるという。大河の険に拠って天下の兵を招く。公はどう思う」と。伍被は「臣にはその禍は見えますが、福は見えません」と答えた。
  • のち王は謀が漏れるのを恐れて伍被に言った。「わしはこのまま兵を発したい。天下は労苦しているという声がある。諸侯にも行いを失った者が多く、みな自ら疑っている。わしが挙兵して西へ向かえば必ず応ずる者があろう。応ずる者がなければ引き返して衡山を略取する。勢いとして発たざるを得ない」と。
  • 伍被は答えた。「衡山を略して廬江に至り、潯陽の船を得て下雉の城を守り、九江の浦を押さえ豫章の口を塞ぎ、強弩を長江に臨ませて南郡から下るのを禁じ、東は会稽を保ち南は強勢な越と通じ、江淮の間で頑強に構えれば、寿命を数年延ばすことはできましょう。しかし福は見えません」と。
  • 王が「陳勝・呉広は腕を振り上げて叫んだだけで、戯に至るころには百二十万の衆になった。いまわが国は小さいが精兵二十万は出せる。なぜ福がないと言うのか」と問うと、伍被は答えた。「臣は伍子胥のような誅を避けようとは思いません。どうか王は呉王のような聞き方をなさいませぬよう。
  • 昔、秦は無道で天下を残虐に扱い、儒者を殺し詩書を焼き、礼義を棄てて刑法に任せ、海辺の穀物を運ばせて江西まで届けさせました。当時、男は懸命に耕しても糧食が足らず、女は紡いでも身を覆う布が足りませんでした。蒙恬を遣って東西数千里の長城を築かせ、兵を野ざらしにし、屍が野に満ち血が千里に流れました。ここで民は力尽き、乱を望む者が十戸のうち五戸。
  • また徐福を海に遣って神仙を求めさせ、童男童女三千余人と五穀の種・百工を伴わせましたが、徐福は平原の大沢に至って留まり王となって帰りませんでした。ここで民は怨み痛み、乱を望む者が十戸のうち六戸。
  • また尉佗に五嶺を越えさせて百越を攻めさせましたが、佗は中国の疲弊を知って止まり、南越の王となりました。行った者は帰らず、赴いた者は戻らず、ここで民心は離れて瓦解し、乱を望む者が十戸のうち七戸。
  • 百万の民を動員して阿房宮を造り、収穫の大半を税に取り、閭左の者まで辺境の守りに出しました。父は子を、兄は弟を案じられず、政は苛酷で刑は惨く、民はみな首を伸ばして待ち耳を澄ませ、悲しみ叫んで天を仰ぎ胸を叩いて上を怨み、乱を望む者が十戸のうち八戸。
  • そこで陳勝・呉広が叫び、劉邦と項羽が起こって天下が響き合い、民が枯れた田が雨を待つように望んだからこそ、行伍の間から起こって帝王の業を成せたのです。
  • いま大王は高祖が天下を易く得たことばかり見て、近い世の呉楚をご覧にならない。当今、陛下は海内を統べ天下を一つにし、口に出さずとも声は雷電より疾く、令を発せずとも教化は神の如く行き渡り、心に思うだけで威は千里を動かし、下が上に応ずるのは影や響きのようです。大将軍の才能は章邯や楊熊の比ではありません。まして大王の兵は呉楚の十分の一にも及ばず、天下の安寧は秦のときの万倍です。王が陳勝を引き合いに論じられるのは、ひそかに誤りと存じます。
  • 臣は聞きます、箕子は故国を過ぎて悲泣し麦秀の歌を作り、紂が比干を用いなかったのを痛みました。孟子は『紂は天子として貴かったが、その死は匹夫にも及ばなかった』と言いました。これは紂が先に自ら天下から絶ったのであり、死んだ日に天が去ったのではありません。臣はひそかに、大王が千乗の君の位を棄て、命を絶てとの書を賜り、群臣に先んじて東宮で死なれることを悲しむのです」と。
  • 伍被は涙を流して立ち上がった。
  • のち王がまた伍被を召して「公の言うとおりなら、僥倖はまったく望めぬのか」と問うと、伍被は答えた。「どうしてもというなら、愚かな計がございます。いま諸侯に異心はなく、民に怨みの気はありません。朔方の地は広く肥えているのに移住者が足りず土地が埋まりません。そこで丞相・御史の偽書を作って詔と偽り、郡国の豪傑や耏罪以上の者を、赦令によって家産五十万以上ならみな朔方郡へ移すとし、さらに兵卒を徴発して期日を急がせるのです。また左右都尉・司空・上林・都中官・詔獄官の偽の文書を作って、諸侯の太子や寵臣を罪に落とすのです。そうすれば民は怨み諸侯は恐れます。そこへ弁士を差し向けて説けば、あるいは僥倖があるやもしれません」と。
  • 王は「それならできる。もっともわしはそこまでせずとも済むと思うが」と言い、皇帝の玉璽、丞相・御史大夫・中二千石・将軍・都官の令丞、および近隣の郡の太守・相・都尉の印綬を偽造し、漢の使者が節を持ってくるのに乗じ、法官を装って伍被の計のとおりにしようとした。
  • さらに人をやって罪を得たと偽らせて西へ行かせ、大将軍と丞相に仕えさせ、いざ挙兵となれば大将軍衛青を刺殺し、丞相公孫弘を説き伏せるつもりで、「そうすれば覆いを剥ぐようなものだ」と言った。
  • また「汲黯は直諫を好み、節を守って義に死ぬ男だ。ただ汲黯だけが厄介だ」と言った。国内の兵を動員したいが丞相や二千石が従うまいと考え、宮中で失火を装い、丞相や二千石が消火に来たところを殺す計も練った。さらに人に羽檄を持たせて南方から来させ、「南越の兵が攻め入った」と叫ばせ、それを口実に兵を発しようともした。
  • のち王が別件で大臣の多くを逮捕・投獄したため、任せる者がなくなり、挙兵に踏み切れなかった。
  • 伍被は事が発覚したと知って自ら役人のもとへ出頭し、淮南王と謀反を企てた経緯をこのとおり申告した。武帝は伍被の言葉が漢を称える立派なものだったので誅すまいとしたが、廷尉の張湯が「伍被こそ謀反の計の首謀者であり、赦されるべき罪ではない」と争ったため、ついに伍被は一族もろとも誅され、淮南王は自殺し、連座して死んだ者は数万人に及んだ。

厳助と衡山王

  • はじめ厳助が南越に使いした際、淮南王と結びついた。淮南王が入朝したときには厚く賄賂を贈られ、私的に議論を交わしていた。廷尉張湯は、厳助は腹心の臣でありながら外で諸侯と交わったのだから誅すべきだとし、厳助は罪に問われて棄市となった。
  • 担当官が、衡山王は淮南王の実弟であるから追捕すべきだと請うたが、武帝は「諸侯はそれぞれ自国を本とするのだから連座させるべきではない」と言った。
  • ちょうどそのとき衡山王の企てが発覚した。もと衡山王はひそかに淮南王の謀を知っており、淮南王に自国を併呑されるのを恐れ、淮南王が西へ兵を発したら自分は江淮の間で挙兵してそこを取ろうと考え、ひそかに淮南王と申し合わせて反乱の備えを整えていた。公卿が請うて宗正と大行を遣り衡山王を取り調べさせたところ、王はこれを聞いて自殺した。

その他

  • 十二月、大雪が降り、民に凍死者が出た。
  • 夏四月、天下に大赦した。
  • 乙卯、劉拠を皇太子に立てた。
  • 謁者を遣わして天下を巡行させ、九十歳以上の民、および鰥・寡・孤・独、三老、孝悌、力田に、それぞれ差をつけて絹帛を賜った。
  • 五月乙巳の晦、日食があり、太陽の横(左)から欠けた。太史が占って言った。およそ日食が上から欠けるのは君を失う兆し、横から欠けるのは臣を失う兆し、下から欠けるのは人民を失う兆しである、と。
  • 匈奴が上谷に侵入し、数百人を殺した。