前漢紀前漢孝武皇帝紀三 元朔五年 前124年

右賢王を襲う

  • 春、大旱魃。
  • 車騎将軍衛青が三万騎を率いて高闕から、驍騎将軍公孫賀・游撃将軍蘇建・強弩将軍李蔡が朔方から、将軍李息・将軍張次公が右北平から出撃し、あわせて十余万騎で匈奴の右賢王を攻めた。
  • 右賢王は漢軍が遠くて来られまいと高をくくって酒を飲んでいた。衛青は夜通し直進して右賢王を包囲した。右賢王は仰天し、数百騎を連れて囲みを破り北へ逃げ、辛うじて身一つで免れた。右賢王配下の裨将十余人、男女一万五千余人、家畜数千万頭を得て、軍を還して塞上に駐屯した。
  • 詔により陣中で衛青を大将軍に拝し、封邑八千七百戸を加え、その三子を列侯に封じた。衛青は子の封爵を固辞したが、武帝は許さなかった。
  • 将軍公孫賀・李蔡、護軍都尉公孫敖、校尉の李朔・趙不虞・戎奴、都尉韓説も、いずれも功により列侯に封ぜられた。

汲黯と衛青

  • 衛青が大将軍となって寵遇が極まると、公卿以下だれもが拝礼したが、汲黯だけは対等の礼で接した。人がこれを咎めると、汲黯は「大将軍ほどの尊貴な人に、拝せず会釈するだけの客がいてこそ、かえって重みが増すのではないか」と答えた。衛青はこれを聞いて汲黯を立派だと考えた。

制度と人事

  • 夏六月、詔して礼官に学を勧めさせ、礼を明らかにし教化を尊び、埋もれた人材を挙げて賢才に列させた。
  • 秋、匈奴が代に侵入し、都尉を殺した。
  • 冬十一月乙丑、丞相の薛光が免ぜられ、御史大夫の公孫弘が丞相となって平津侯に封ぜられた。それまで丞相で侯位にある者はなく、公孫弘に至って初めて丞相に拝すると同時に封侯された。丞相が封侯されるのは公孫弘から始まる。

史論(荀恱曰)

  • 丞相に拝したその場で封ずるのは正しい典礼ではない。封爵は必ず功績によるべきで、地位によるとは聞かない。孔子は「褒めるべき者がいるなら、必ず試したうえでのことだ」と言った。褒めるにさえ試験を要するのだから、まして賞においてはなおさらである。『易』には「鼎の足が折れて公の食物をひっくり返せば、その刑罰は重く凶である」とある。任に堪えず鼎の中身をひっくり返せば刑が加えられるのだから、まして封爵においてはなおさらである。

公孫弘の人物

  • 公孫弘はもと海辺で豚を飼い、四十過ぎてから『春秋』を学んだ。博士となったが匈奴への使いが武帝の意にかなわず罷免され、後に賢良に応じて挙げられ、武帝に高く評価された。徒歩の身から起こって数年で宰相の位に至り、そのとき八十歳であった。
  • 公孫弘は客館を建てて賢人を招き、ともに政務を議した。博士に弟子の定員を置いたので、学ぶ者はいよいよ増えた。旧友や賓客はみな彼に衣食を仰いだが、自身は木綿の夜具に粗末な玄米飯、おかずは一品だけで、家に余財がなかった。
  • 主爵都尉の汲黯は、しばしば武帝の前で公孫弘を面と向かって難詰した。「公孫弘は我々と議論して決めたことを、陛下の前に出ると裏返して意に迎合する。大不忠だ」と。武帝が問うと、公孫弘は「臣を知る者は忠と見、知らぬ者は不忠と見るのです」と答えた。
  • 汲黯はさらに「公孫弘は三公の位にありながら木綿の夜具を用いている。偽善だ」と言った。武帝が問うと、公孫弘は答えた。「管仲は斉の相として三帰の奢りがありながら桓公を覇者にしましたが、上は君を僭しませんでした。晏子は斉の相として肉を重ねず、妾に絹を着せず、それで斉は治まりましたが、下は民に比しました。いま臣の木綿の夜具はまことに偽りで、名を得ようとしてのことです。それに汲黯の忠がなければ、陛下はこの言葉をお聞きになれなかったでしょう」と。武帝は公孫弘を謙譲の人と見て、ますます厚遇した。
  • 公孫弘は慎み深く篤実で、継母によく孝を尽くした。議論は筋が通り、法文の実務に通じ、事案を処理するのに儒術で飾った。朝議のたびに両論を並べて君主自身に選ばせ、面と向かって折伏したり朝廷で争ったりはしなかった。しかし外面は寛容でも内心は深く、疑い深かった。主父偃はかつて公孫弘と隙があり、ついに私怨を報いられた。
  • 公孫弘は董仲舒と同門だったが学識では及ばず、董仲舒は公孫弘を諂う者と見ていた。膠西王は放縦で、しばしば長吏を害していたが、公孫弘はその膠西王の相に董仲舒を推した。膠西王はかねて董仲舒が賢者だと聞いており、よく遇した。董仲舒は自ら身を正して下を率い、赴任した先はよく治まった。