前漢紀前漢孝景皇帝紀 中元二年 前148年

  • 春、次のように定めた。諸侯王が薨じたとき、および列侯が初めて封ぜられ、または国に赴くときは、大鴻臚が謚と誄と策を奏する。列侯が薨じたとき、および諸侯王の太傅が初めて任ぜられるときは、大行が謚と誄と策を奏する。王が薨じたときは光禄大夫を遣わして弔い、襚を贈り、祠り、喪事を監督して嗣を立てる。列侯が薨じたときは太中大夫を遣わして弔い、祠り、喪事を監督して嗣を立てる。国での葬儀に民を徴発して柩を挽き、穴を掘り土を戻し塚を造らせるのは三百人を超えてはならない。事が終われば解く。

臨江王榮の死と郅都

  • 春二月、臨江王榮が宗廟の壖垣を侵して宮を作った罪に問われた。天子が榮を召したので、臨江の官属が北門の外で送別したところ、車に乗る際に軸が折れた。父老たちは泣いて「我が王はもう帰ってこられまい」と言った。
  • 邸に着くと王は中尉の郅都のもとに出頭し、郅都が責め問うたので王は恐れて自殺した。藍田に葬られたとき、数千万羽の燕が土をくわえて塚の上に置いた。百姓はこれを憐れんだ。子がなく国は除かれた。
  • 郅都は河東の人で、剛勇で気概があり、公平廉直であった。常々「親に背いて君に仕える以上、節を奉じて職に死ぬべきで、妻子を顧みたりはしない」と言っていた。
  • かつて天子に従って上林に入ったとき、賈姫が厠にいるところに野猪が入り込んだ。天子が郅都に目配せしたが動かない。天子が自ら武器を取って賈姫を救おうとすると、郅都は前に伏して言った。一人の姫を失っても、また一人の姫が入るだけです。陛下が自らを軽んじられても、高廟と太后をどうなさるのか、と。天子は引き返し、猪も賈姫を傷つけなかった。
  • 郅都が中尉となったとき、丞相の條侯は至って尊く傲慢であったが、郅都はこれに揖するだけであった。貴戚や宗室は目を側めて見、「鷹」と呼んだ。
  • 当時、濟南の瞷氏は三百余家あり、豪猾で放縦、二千石の官も抑えられなかった。郅都が濟南の相となると瞷氏の首謀者を誅し、郡中は震え上がり、道に落ちた物も拾わなくなった。近隣十余郡は郅都を大府のごとく畏れた。
  • のち鴈門太守となると匈奴は鴈門に近づかなかった。胡王は郅都をかたどった人形を作って騎射させたが、誰も当てられなかった。畏れられることこれほどであった。
  • 匈奴が中傷したため法に問われた。帝は釈放しようとしたが、太后は臨江王の死を怨んでいたので、ついに郅都は斬られた。
  • 当時、寗成と周陽由もみな厳酷な治め方をした。寗成が濟南都尉となったとき、郅都は前任の都尉であった。歴代の都尉は歩いて府門に入り、吏を通して県令のように謁見していたが、寗成は着任するとまっすぐ郅都を凌いでその上に出た。しかし郅都は日ごろその評判を聞いていたので、かえって親交を結んだ。のち寗成が中尉となると、郅都に倣った治め方をしたが、廉潔さでは及ばなかった。以後、吏の治め方は多く寗成・周陽由に倣うようになった。
  • 当時、季布の弟の季心もまた任俠で、約束を守り気概があった。関中の数千里に名が響き、士は争ってその為に死のうとした。季心は中尉司馬となったが、郅都が中尉であっても手出しできなかった。
  • 夏四月、西方に彗星が現れた。皇子の越を廣川王、寄を膠東王に立てた。
  • 秋七月、郡守の呼称を太守に、尉を都尉に改めた。
  • 九月、楚と趙で相や傅として職に殉じた四人の子を列侯に封じた。甲戌の晦、日食があった。