異変
- 冬十月、膠東の下密の七十余歳の人に角が生え、角には毛があった。本志は言う。老人は呉王を象り、年七十は七国を象る。人に角が生えるはずがないのは、諸侯が兵を挙げて京師に向かうはずがないのと同じで、七国が反する前兆である、と。
- 十一月、白い項の烏と黒い項の烏が楚国の苦県で闘い、白項の烏が敗れて泗水に落ち、死んだものが半数を超えた。
- 十二月、呉の城門がひとりでに傾き、大船がひとりでに覆った。本志はこれを金が木を害する災とし、呉の地は船を家とするので、天が「国家はまさに傾覆する」と戒めたものとする。
- 春正月、淮陽王の正殿が火災に遭った。
七国の乱の発端
- 呉王濞、膠西王卬、楚王戌、趙王遂、濟南王辟光、淄川王賢、膠東王熊渠がみな謀反した。
- はじめ天子がまだ太子だったころ、呉王の太子が入朝して太子と博打を打ち、道を争って無礼を働いた。太子は博局を投げつけて呉太子を死なせた。喪を呉に送ると、呉王は怒って「天下は一家だ、なぜここに葬る必要がある」と言い、長安に送り返した。以後、病と称して朝せず、密かに逆心を抱いた。
- 当時、齊の鄒陽と淮陰の枚乘がともに呉に遊説していた。枚乘が諫めて言った。一筋の糸で千鈞の重さを繋ぎ、上は限りなく高く懸け、下は測り知れぬ深みに垂らせば、どれほど愚かな者でも切れると知る。君の行いは累卵より危うく、天に上るより難しい。行いを改めれば掌を返すより易しく、泰山より安らかである。天命の寿を極め尽きせぬ楽しみを享受し、万乗の権を全うしようとするのに、掌を返すほど容易な道を取らず、泰山の安きに居ずして累卵の危うきに乗り、天に上る難きに走る。これが愚臣の大いに惑うところだ、と。
- 鄒陽もしばしば諫めたが呉王は聞かず、枚乘と鄒陽はともに去って梁に遊んだ。
- 晁錯は天子に説いた。呉王は驕り恣で密かに逆謀を抱いている。今削っても反し、削らなくても反す。削れば反乱は早く来て禍は小さく、削らなければ反乱は遅く来て禍は大きい、と。そこで楚と趙が罪を得て先に削られた。
- 呉王は禍が身に及ぶのを恐れ、すでに使者となって自ら膠西王に会い、謀を合わせ、使者を発して諸侯と約し、七国が同謀した。南は南越に使いし、北は匈奴と連携した。
- 呉王は国中に令を下した。寡人は六十二歳、自ら将となる。末子は十四歳、これも士卒に先立つ。諸君は年上でも寡人と同じ、年下でも小児と同じだ。皆立て、と。
- また郡国に書を回して言った。漢の賊臣晁錯が諸侯の地を侵奪した。陛下は病がちで気ままな側近に阻まれ実情を察せられない。兵を挙げてこれを誅したい。我が国は小さいが精兵五十万を得られる。南越は兵の半分を分けて寡人に従う、これで三十万を得る。趙王はもとより胡王と約がある。寡人は衣食を節し金銭を積み甲兵を修め糧食を蓄えること、夜を日に継いで三十余年になる。寡人の金銭は天下に行き渡り、諸侯王が日々用いても尽きない。今、大将を捕えた者には金五千斤と万戸の邑を賜う。城邑を挙げて降る者は万戸に封じ、万人を率いて降る者は大将軍の科に準ずる。その他も差をつけて爵を授ける、と。
晁錯の誅殺
- 呉楚謀反の報告が天子に届くと、晁錯は天子自ら兵を率い、自分は留まって守るべきだと議した。策はまだ定まらなかった。
- 晁錯は日ごろ袁盎と仲が悪く、盎はかつて呉の相だったから呉王の謀を知っていたはずなのに隠して言わず、事態をここまで至らしめたと言い、盎を裁こうとした。計画がまだ定まらぬうちに、盎はひそかにこれを聞き、夜に竇嬰を通じて拝謁を求め、呉が反した理由を述べようとした。
- 晁錯はちょうど天子と兵糧の調達を協議していた。天子が盎に問うと、盎は「呉王には何もできません」と答えた。天子は「呉王は山に即して銭を鋳、海を煮て塩を作り、天下の豪傑を誘い、白髪の身で事を起こした。なぜ何もできぬと言うのか」と問うた。
- 盎は答えた。呉王に銅と塩の利があるのは事実だが、どこに豪傑を誘えたというのか。呉王が本当に豪傑を得ていたなら、彼らは義に転じさせて反させなかったはずだ。呉が誘ったのは無頼の子弟、亡命者、銭を私鋳する姦人ばかり。だから互いに誘い合って反したのだ、と。晁錯は「盎の見立てはよい」と言った。
- 天子が策を問うと、盎は左右を退けるよう願った。天子が人を退けたが晁錯だけが残った。盎が「臣の申すことは人臣の耳に入れられません」と言うので晁錯も退けられた。晁錯は東廂に走り避け、深く恨んだ。
- 盎は答えた。呉楚は晁錯がほしいままに諸侯の地を削ったから、まず共に錯を誅して故地を回復すれば兵を収めると言っている。今の計はただ錯を斬り、使者を呉楚七国に遣わしてその罪を赦し故地を返すことである。そうすれば刃に血を塗らずに兵はみな解ける、と。
- 天子は長く黙し、ついにその計に従って晁錯を東市で斬り、袁盎を太常に任じて呉へ使者に立てた。
- 呉王は「私は東帝になるつもりだ」と言い、盎を脅して将にしようとした。盎が聞かないので、一人の都尉に五百人で盎を囲み守らせ、殺そうとした。
- はじめ盎が呉の相だったころ、従吏がひそかに盎の侍婢と通じたことがあった。吏は恐れて逃げたが、盎は自ら馬を駆って追い、その侍婢と侍児を与えた。今、盎が拘束されたとき、その従吏がたまたま盎を守る位置におり、司馬となっていた。そこで夜、盎とともに逃げ帰った。
枚乘の再諫
- 枚乘が書を献じて呉王を諫めた。
- 昔、秦は西に胡戎の難を防ぎ、北に榆中の関を備え、南に羌笮の塞を防ぎ、東に六国の鋒に当たった。六国は信陵君の名望に乗り、蘇秦の合従の要を明らかにし、荊軻の威を借りて力を合わせ心を一つにして秦に備えた。それでも結局は秦が六国を滅ぼして天下を併せた。なぜか。地の利が違い、民の軽重が等しくなかったからである。
- 今、漢は全秦の地を占め、六国の衆を兼ね、戎狄を修めて南は羌笮を朝せしめている。その地は秦の十倍、民は百倍であり、大王もよくご存じのはずだ。
- 今、佞諛の臣は骨肉の義も民の軽重も国の大小も論ぜず、呉の禍を作り出そうとしている。これが臣が大王のために憂えるところである。
- 呉の兵を挙げて漢に立ち向かうのは、蠅や蚋が牛の群れに取りつき、腐肉が利剣の刃に当たるようなものだ。今なら刃を交え始めたばかりで済む。天下は呉が職を失った諸侯を率いて先帝の遺詔を問うたと聞いた。今、漢は自ら三公を誅して前の過ちを謝った。これで大王の威は天下に加わり、功は湯武を越えた。
- 呉は諸侯の位にありながら実は天子より富み、隠れた名分でありながら中国以上の暮らしをしている。これが臣が大王のために喜ぶところである。
- 今、大王が兵を返して急ぎ帰れば、なお十のうち半分は保てる。そうしなければ、漢は呉に天下を呑む心があると知って激怒し、羽林・黄頭の兵が江を下って大王の都を襲い、東海の地を奪い、呉の糧道を絶つ。梁王は車騎を備えて戦射を習い、粟を積んで固く守り、滎陽を押さえて呉の飢えを待つ。大王が都に帰ろうとしても、もはやできまい。
- 今、大王は千里の国を離れて十里の内に縛られ、張氏・韓氏の将や北地・弓高の兵が左右を宿衛し、兵は壁を下れず軍は休息できない。臣はひそかに哀れむ、と。呉王は聞かなかった。
周亞夫の出征
- 二月辛巳朔、日食があった。邯鄲で犬と豕が交わった。本志はこれを、趙王遂が乱れて同類を失い、外に匈奴と通じたことが犬豕の行いに似たものとする。
- 絳侯周勃の子の亞夫が太尉となり、三十六軍を率いて呉楚を撃った。竇嬰は大将軍となり、金五十斤を賜った。竇嬰はその金を廡下に並べ、軍吏が通るたびに用の分だけ取らせ、自分の家には一銭も入れなかった。竇嬰は滎陽に屯した。曲周侯の酈寄は趙を撃ち、将軍の欒布は齊を撃った。
- 太尉が覇上に至ったとき、趙渉が布衣のまま道を遮って説いた。呉楚は将軍の出兵を聞いて必ず崤・澠の険阻な地に伏兵と刺客を置いている。用兵は神速と秘密を尚ぶ。将軍はここから右に折れて関を出、藍田に向かい武関を出て洛陽を指せばよい。一二日の違いでしかないのに、まっすぐ武庫に入って鉦を鳴らし鼓を打てば、諸侯はこれを聞いて将軍が天から降ったと思うだろう、と。
- 亞夫はこれに従った。のちに崤・澠の間を捜索させると果たして呉の伏兵が見つかり、趙渉を護軍とした。
- 亞夫は洛陽に至って劇孟に会い、喜んで「七国が事を起こしながら孟を用いなかった。彼らに何もできないとわかる」と言った。劇孟は洛陽の人で、任俠として魯の朱家に似た行いをした。
- 亞夫が父の食客である鄧都尉に策を問うと、こう答えた。呉楚の兵は鋭く、正面から鋒を争うのは難しい。兵を東北に引いて昌邑に壁を築き、梁を呉に委ねるがよい。呉は必ず精鋭を尽くして梁を攻める。将軍は深い溝と高い塁を築いて戦わず、軽兵を出して淮水と泗水の合流点を絶ち、呉の糧道を断つ。呉と梁を互いに疲弊させ糧食を尽きさせ、こちらは全きをもってその虚を制する。呉は必ず破れる、と。亞夫はこれに従った。
- 呉が梁を攻め、梁王は急を告げて亞夫に救援を請うたが亞夫は行かない。梁王が上書して救援を請い、天子が亞夫に梁を救えと詔したが、亞夫は詔を奉ぜず昌邑に固く壁を築き、淮泗口の兵に呉の糧道を絶たせた。
- 楚は糧が尽きて挑戦したが亞夫は最後まで出なかった。夜、軍中が驚いて味方同士が攻め合い、騒ぎが帳下にまで及んだが、亞夫は固く臥して起きず、しばらくして自ずと収まった。呉が夜に営壁の東南を攻めると、亞夫は西北に備えさせ、呉の精兵は果たして西北に殺到したが入れなかった。
- 呉楚は飢えて兵を引いて去り、亞夫は精兵を出して追撃し大いに破った。
- このとき弓高侯の韓頽當が将軍として呉楚を撃ち、功は諸侯の第一であった。呉王は軍を捨てて壮士数千人とともに江南に逃れ、丹徒に拠った。
- 三月、呉楚は平定された。越人が呉王の首を斬って降った。
楚と諸国の顛末
- 呉が梁を囲んだとき、梁の将の張羽と韓安国が防いだ。張羽はよく力戦し、韓安国はよく重厚に構えたので、呉兵は進めなかった。
- 楚王戌の軍は大敗し、戌は自殺した。戌ははじめ呉と通謀し、大中大夫の申公と白公が諫めたが聞かず、二人を胥靡の刑に処し、赭衣を着せて市で杵臼を舂かせた。
- はじめ魯に穆生がおり、申公・白公とともに元王に従って浮丘伯に詩を学んだ。浮丘伯は荀卿の門人である。元王は常にこの三人を礼遇した。穆生は酒を飲まないので、いつも醴を用意していた。王戌の代になってある朝、醴が用意されなかった。穆生が去ろうとすると、申公と白公が止め、「先王のためではないのか」と言った。穆生は答えた。先王の礼は、我ら三人によって道が存していたからである。今それを忽せにするのは道を失うことだ。道を失った君と長く共にはいられぬ。易に「幾を知るは其れ神か」という。去らなければ楚の人は私を市で首枷にかけるだろう、と。そして病と称して去った。申公と白公だけが留まったため、難に遭った。
- 膠東・膠西・濟南・甾川・趙の王はみな誅に伏した。廣川王を移して趙王とした。
齊と濟北
- はじめ七国が反したとき齊も連なったが、齊王は城を守って動かなかった。濟南・膠東・淄川の三国の兵が共に齊を囲んだ。齊王は路中大夫を天子への使者に立てた。天子は「堅く守れ」と齊に返報させた。
- 路中大夫が帰る途中、三国の将が捕えて盟わせ、言葉を逆にして「呉はすでに漢を破った」と言わせようとした。大夫は承諾したが、城下に至って齊王を望み見ると、「漢は百万の兵を発し、太尉に呉楚を撃ち破らせ、今まさに兵を率いて齊を救いに来る。必ず堅く守れ」と叫んだ。三国の兵は大夫を殺した。
- 齊は囲まれて危急となり、ひそかに三国と約を結ぼうとしたがまだ定まらぬうちに路中大夫が至ったので、再び堅く守った。
- 漢の将は齊が当初は謀に加わっていたと聞き、齊を撃とうとした。齊王の將閭は恐れて自殺した。天子は齊が脅迫されたのであってその罪ではないとして、その太子の壽を齊王に立てた。
- 濟北王志も当初は諸侯と通謀し、後に堅く守った。齊王が自殺しながらも嗣が立てられたと聞き、志も自殺しようとした。齊人の公孫蠼がこれを止め、梁王に説いた。
- 濟北の地は東に強い齊と接し、南は呉越に当たり、北は燕趙を脅かす、四分五裂の国である。権力は自守に足らず、勢いは寇を防ぐに足りない。傾くのも失うのも同じことだ。呉に通じたのは本心の計ではない。
- 昔、鄭の祭仲は宋人に許して公子突を立て、君を全うした。春秋はこれを賢しとする。生をもって死に代え、存をもって亡に代えたからである。もし濟北が先に実情を露わにしていたら、呉は必ずまず濟北を屠り、燕趙を招いてこれを束ねたであろう。そうなれば山東の合従は結ばれて隙がなかった。
- 今、呉楚の王は諸侯の兵を練り、徒衆を駆って天子と覇を争った。濟北だけが節を励まし堅く守って降らず、呉を寄る辺なく助けもない状態にし、一歩ずつ孤立して進ませ、瓦解土崩して敗れても救う者がないようにした。これは濟北の力によらぬとは言えまい。ちっぽけな濟北が諸侯と強さを争ったのは、子羊や子牛が虎狼を防ぐようなものだ。職を守り志を曲げなかった、誠一と言ってよい。
- これほどの功でありながらなお上に疑われている。大王にはよくお考えいただきたい、と。梁の孝王は喜んで馳せ報じ、濟北王は罪に問われず甾川に転封された。
- 衡山王を移して濟北王とした。呉が反したとき衡山王勃は堅く守って二心がなかったので、謚を貞王とした。廬江王賜を移して衡山王とした。
- はじめ呉楚の使者が淮南に至ったとき、淮南王は兵を出して応じようとした。その相が「王が必ず応じられるなら、臣が将となりましょう」と言い、王が兵を委ねると、相はそれで城を守って呉楚を防いだ。そこへ漢の救援軍が至ったので、淮南王は無事でいられた。
晁錯の父と鄧公の言
- はじめ晁錯が制を改めて諸侯の地を削ったとき、錯の父が穎川から来て諫め止めた。錯は「そうしなければ社稷が安んじません」と答えた。父は「劉氏は安泰でも晁氏は危うい」と言い、帰り去って「私は禍が身に及ぶのを見るに忍びない」と言い、薬を飲んで死んだ。その十余日後に呉楚が反し、晁氏は族滅された。
- はじめ謁者僕射の鄧公が校尉として呉楚を撃ち、帰って軍事を上書した。天子が「呉楚は晁錯の死を聞いて兵を収めたか」と問うと、こう答えた。呉楚は数十年謀ってきた。地を削られて怒りを発し、錯を誅すのを名目としたにすぎず、その意は錯にはない。そもそも晁錯は諸侯の強大を憂えて削減を請い、京師を安んじようとした。万世の利である。計画が始まったばかりで大戮を受けた。内には忠臣の口を塞ぎ、外には諸侯のために讐を報いた。臣はひそかに陛下のためにこれを取りません、と。天子は長く嘆息して「公の言はよい。私も後悔している」と言った。
戦後の処置
- 夏六月、元王の子の平陸侯禮を楚王に立て、元王の後を継がせた。
- はじめ諸侯は自ら吏を任命でき、御史大夫以下の官属は天子に準じていた。国家が置くのは丞相だけで、黄金の印であった。呉楚の反乱の後、諸侯の権を奪って二千石の官を国家が置き、丞相の名を改めて相とし、銀印とした。その後は租税による衣食を得るだけとなり、貧しくて牛車に乗る者も出た。
- 当時、欒布は功があって鄃侯に封ぜられ、燕の相となって治績を上げ、民は生祠を立てた。
- 皇子の湍を膠西王、勝を中山王に立て、民に爵一級を賜った。
- 淮陽王余を移して魯王とし、汝南王非を移して江都王として、もとの呉国を治めさせた。非は十五歳で才気があり、呉が反したとき上書して呉を撃つことを願い出て、天子は非に将軍の印を賜った。呉が破れると軍功によって天子の旌旗を封賜された。
史論(荀恱曰)
- 江都王に天子の旌旗を賜ったのは行き過ぎである。盛徳と第一の功があり天子に匹敵する勲功があってはじめて異例の物を受けるのであって、それに当たるのは周公のような人である。およそ功には賞があるだけでよい。孔子は「必ずや名を正さんか」と言った。器と名だけは人に貸してはならず、人君の司るところである。名は外に設けられ、実は内でこれに応じる。事は始めに制せられ、志は終わりに成る。ゆえに王者はこれを慎むのである。