前漢紀前漢孝文皇帝紀下 七年 前157年
- 春正月辛未朔、日食があった。
- 夏六月、竇廣國を章武侯に封じ、中軍尉の周亞夫を車騎将軍に任じた。
文帝の崩御と遺詔
- 巳亥、帝が未央宮で崩じた。遺詔に言う。
- 万物は生まれれば必ず死ぬ。死は天地の理、物の自然であって、深く哀しむには当たらない。今の世は皆生を喜び死を憎み、厚く葬って家産を破り、重い喪服で身を損なう。朕はこれを取らない。
- 朕は不徳の身で社稷を保ち、君王の上に託されて二十余年、過ちで先帝の遺徳を辱めることを畏れ、年の長くないことを思い、全うできぬことを懼れてきた。今こうして天寿を全うでき、また高廟に供養されることになった。不明な朕にとってこれは喜ばしいことで、何の悲哀があろうか。
- 天下の吏民は三日の臨をもって喪服を釈け。娶嫁・祠祀・飲酒・食肉を禁じない。喪事に当たる者も、臨に服する者も跣にならなくてよい。絰帯は三寸を超えず、車や兵器に布をかけず、民を発して哭かせない。宮殿中で臨に当たる者は朝夕それぞれ十五たび声を挙げ、礼が終われば止める。朝夕の臨でないときは勝手に哭いてはならない。大功は十五日、小功は十四日、纎は七日で喪服を釈く。ここに定めのないことも、すべてこの令に準じて行い、天下に布告して朕の意を明らかに知らせよ。
- 覇陵の山川はもとのままとし、手を加えてはならない。寵愛した愼夫人以下少使に至るまで、嫁ぐことを許せ、と。
- 巳巳、皇帝を覇陵に葬った。
史論(荀恱曰)
-
書に高宗が諒闇に三年言わなかったとあり、孔子は古の人は皆そうだったと言った。三年の喪は天下に通じる喪で、由来は久しい。今これを廃して大いなる教化を欠くのは礼にかなわない。とはいえ国家の重きを思い権柄の扱いを慎むならば、諒闇を行わなくとも、その大体を存するだけで可としてよい。
-
乙卯、もと韓王信の子である頽當とその孫の嬰が、部衆を率いて来降した。頽當を弓高侯、嬰を襄城侯に封じた。
史論(讃曰)
- 本紀に言う。孝文皇帝は宮室・苑囿・車馬・御服に何も増やさず、不便があればすぐに緩めて民を利した。自身は黒く粗い絹の衣を着、寵愛した愼夫人ですら衣の裾を地に引かせず、幃帳に刺繍を用いず、質朴を示した。露台の造営を百金の費えを惜しんで取りやめた。覇陵の造営はすべて瓦器を用い、金銀銅錫の飾りを許さず、山をそのまま用いて墳を築かなかった。
- 南越王の尉佗が自ら帝を称したときは徳をもって懐柔し、匈奴が約を背いたときは辺境の守備を固めるにとどめ、兵を発して深入りせず百姓を煩わさなかった。呉王が病と偽って朝せぬときは机と杖を賜った。群臣の袁盎らの諫言が厳しくても常に受け入れ、張武らが賄賂の金銭を受けたときは、かえって手厚く賞賜を加えてその心を恥じ入らせた。
- ひたすら徳をもって民を化すことに努めたので、海内は富み栄え、礼義が興り、断獄は数百件にとどまり、ほとんど刑を用いない域に達した。大いなる業を顕して漢の太宗となった。まことに盛んなことである。
- 楊雄に言葉がある。文帝は自ら帝の尊厳を屈して亞夫の軍令に従った。それなのになぜ廉頗・李牧を用いることができなかったのか。あの将には感激するところがあったのだろう、と。