前漢紀前漢高祖皇帝紀 七年 前200年

白登の囲み

  • 冬十月、上は自ら太原を征した。匈奴の冒頓単于が漢を拒んだ。匈奴の様子を窺いに行った漢の使者十組はみな「撃ちやすい」と言った。上が婁敬を遣わすと、帰って「匈奴は痩せ弱った者ばかり見せている。伏兵がありそうだ。撃ってはならない」と言った。上は怒って「斉の虜め、妄言を吐いて我が軍を阻む」と言い、械につないだ。
  • 上が平城に至ると、匈奴は果たして上を白登で七日囲んだ。陳平の謀を用いて匈奴の閼氏夫人を説き、囲みの一角を開かせて上は脱出した。その計は秘され、世に伝わらない。士卒はこれを歌って「平城の下、禍いは甚だ苦し。七日食わず弓弩を引くこともできず」と言った。
  • 上は帰ると婁敬に謝して「公の言を用いなかったので平城で苦しんだ」と言い、先の使者十余人を斬り、敬を二千戸に封じて建信侯と号した。
  • これより先、月の暈が昴・参・畢を七重に囲んだ。本志では、昴と畢の間は天街であり、街の北は羌胡、街の南は中国、昴は匈奴、畢は辺境の兵にあたるので、平城の一件の前兆であるとする。
  • 匈奴が代を攻め、代王喜は国を棄てて洛陽に帰り、廃されて邰陽侯となった。辛卯、皇子如意を代王に立てた。

長安遷都と朝儀の制定

  • 春二月、上は平城から還り、蕭何が長安に極めて壮麗な宮室を造営しているのを見て怒り、「造営が度を過ぎている」と言った。何は「天子は四海を家とする。壮麗でなければ皇威を重からしめられない。しかも後世にこれを越えるものを造らせないためです」と答えた。そこで長安に遷都した。
  • このとき威儀が定まっておらず、群臣は功を争い、酔って叫び、剣を抜いて柱を撃つ者もあった。上はこれを憂えた。博士の叔孫通が礼儀の制定を請うと、上は「私が行える程度にせよ」と言った。通は弟子百余人とともに朝儀を作った。長楽宮で大朝会を開き、車騎・旌旗・兵衛を並べ、群臣は位に列し、百官は職を執り、礼を成して終わった。慎み畏まらない者はなかった。上は嘆じて「私は今日はじめて皇帝の貴さを知った」と言い、通を泰常に任じて金五百斤を賜い、弟子はみな郎中とした。
  • 夏四月、洛陽に行幸した。婁敬が匈奴と和する計を進め、魯元公主を単于に嫁がせることを請うた。単于はそれによって女婿となり、子ができれば外孫となるので、後世には次第に臣とできるという。上は実行しようとしたが、呂后が涙を流して固く留めることを請うたのでやめた。代わりに宗室の女を公主として単于に嫁がせ、和親を結び、毎年金や幣帛を贈った。