前漢紀刻兩漢紀序

史書の役割と春秋

  • 史書は王道を述べ人の道すじを見分け、事跡を明らかにして手本と戒めを示すもので、聖人にとっての耳目、後世にとっての鏡である。
  • 是非善悪が戒めと励ましの用をなさず、興廃を見通せないなら、どれほど珍奇な見聞や飾り立てた文辞を並べ名工を称しても、採るべきところはない。
  • 史官の設置は軒轅氏(黄帝)に始まり、虞・夏・商・周のことは『詩』『書』に載る。王者の跡が絶えて人倫が廃れると、孔子が周公の制度にならって百王の法を立て『春秋』を作った。『春秋』は事を記す経書の的である。
  • しかし後世は篤実な史筆が遠のき素朴な文が失われ、後の作者でこの理に達する者は稀である。良史の才と称される者も議論は聖人の意に外れ、物識りの著作も前代の史を明らかにしきれていない。まして文情がこの二家に及ばぬ者はなおさらである。

荀悅と袁宏の人となり

  • 漢の侍中荀悅、晋の太守袁宏は、性は静かで文辞に華があり、蔵書は七閣の秘籍を管掌し、学識広く才は抜きん出て、文章はその時代の第一人者と目された。
  • 荀悅は潁川で病と称して仕えず、若年から荀彧(文若)に礼敬された。袁宏は牛渚で高い志を抱き、謝尚と夜明けまで語り合った。
  • 荀悅は曹操が権を握るのを憤り、明哲の識見によって事の兆しを先に見抜いた。厚遇されても阿ることなく、まっすぐな節を守った。『申鑒』を著しては仁義に基づいて君の可否を論じ、「北征賦」を賦しては孔子の風流に思いを遡らせた。心中の遠大な志を文として吐き出したのである。

荀悅の書の内容

  • その書の要点は、道義に達し法式を明らかにし、名教の根本を篤くして帝王の道の奥深いところを開くことにある。
  • 災異を論ずるときは洪範の吉凶に基づいて天と人との関わりを述べ、夷狄を論ずるときは古の謀に基づいて華夷の守りを厳しくする。
  • 六臣・三諌の説は主君にめぐりあう難しさを惜しみ、三遊・四弊の説は士を養う道の過ちを嘆く。典経・儒家の論は文教化育の任を説き、井田・封建・中正の論は和合を願う思いを述べる。
  • 忠邪の別には盛衰の兆しを示し、王覇の別には徳と刑の分かれ目を分析し、礼は天命を承けて政を立てる端緒を究め、楽は人倫を和らげ習俗を導く根本にかなう。営造や愛玩の品、彫刻や彩色については珍奇を貴ぶことへの戒めとし、内寵と外戚については佞幸が寵を極めることへの戒めとする。
  • 言葉は多く経書に準拠し、議論は聖人の意に背かない。著作者としてほぼ理想に近いといえる。

「書」体と「紀」体、両漢紀の価値

  • 史書には二つの体がある。「書」体は司馬遷に始まり、「紀」体は左氏に由来する。
  • 「書」体は広く豊かで区分が明快な一家の言であり欠かせないが、平易で率直、簡潔に要をまとめ、辞は約やかで事は詳しいという点では「紀」体に分がある。
  • 杜預は「事を記す者は日を月に、月を季節に、季節を年に繋ぐ。遠近を示し同異を分けるためである」と言った。
  • 『両漢紀』は左氏の体である。荀悅の文は典雅で流麗、西京(前漢)の絶えた響きを遠く継ぎ、袁宏の文は深く重厚で正しく、江左(東晋)の華美な風潮を洗い流した。まことに学芸の宝玉、史家の設計図である。

伝来の経緯と刊行

  • ただ刊行が広まらず埋もれてしまった。かつて何大復(何舍人)が荀氏の書の抄本を徐太宰家から得て高陵で刻し、涇野の呂公が序して「自分はかつて史館にいて荀氏の書を何度も尋ねたが見られず、校合の副本がないことを恨んだ」と述べた。袁氏の書はさらに見ることが稀である。
  • 宋の紹興年間、汝陰の王銍は、班固・范曄の史書に比べて欠け裂けて伝わらないと言った。まして今日ではなおさらである。
  • 支硎の楊公がかつて先父の五嶽山人を訪ね、荀・袁の書に話が及んで感嘆し、「以前、雲間の朱氏で宋刻本を見た。まことに天府の秘蔵本である。借り受けを乞わなかったのが悔やまれ、今はもう再び見ることができない」と語った。
  • ひと月と経たぬうちに一編を売りに来た者があり、それが朱氏の本であった。先父は財を傾けて購入したが、序して刻す暇のないまま世を去った。
  • 神品には帰すべき所があり、張華の剣を得たようなものである。その珍しい姿をまだ世に輝かせていないのに私蔵するわけにはいかず、あらためて版刻して永く流布させることにした。父祖の志を承けての仕事だが、粗末な文章では著者の意を尽くせまい。

公論の難しさ

  • 蓍策は公の言を立てるためのもの、権衡は公の正しさを立てるためのもの、書契は公の信を立てるためのものである。
  • しかし誉れはまぐれで得られ、譏りは外から降りかかる。心と行いの間は奥深くて察しがたく、わずかな瑕が美玉を覆い隠し、まがいの朱が正しい紫を覆ってしまうのは古よりのことである。
  • これこそ荀悅(仲豫)に志を果たせなかったという言葉があり、袁宏(彦伯)に無念の嘆きがあった理由である。
  • 嘉靖の戊申の年、夏四月朔日、士雅山人の呉郡・黃姬水が撰した。