殘唐五代史演義傳第五十七回 幼主、臣と称し契丹に降る (幼主稱臣降契丹)

幼主の降伏

  • 火中の幼主を救ったのは侍御官の彭義であった。目覚めた幼主は李崧の進言に従い、李崧を使者として契丹の陣営に降伏の上表を送った。上表では「孫男石重貴」と自称し、運命窮まって降伏を願い、天子の恩情を乞う旨を述べた。
  • 契丹主はこれを見て激怒し、晋主を斬ろうとするが、述律太后が「幼主を殺しても中国の君主にはなれない」と諫め、契丹主は降伏を受け入れて李崧を釈放、晋主に来降を命じた。
  • 晋主は群臣を率いて契丹主を迎え入城させ、階下に拝伏した。

石重貴と景延廣・桑維翰のその後

  • 契丹主は石重貴の袍服を脱がせ素服とし、封禪寺に幽閉した。
  • 景延廣は契丹主に「両国不和の元凶」と罵られ檻車に囚われ、辱めに耐えかね自ら喉を突いて死んだ。
  • 桑維翰は契丹主から忠臣として遇され、城東に手厚く葬られた。

幼主・太后の流謫

  • 幼主と太后は寺内で幽閉され食にも困窮した。やがて契丹主は晋主を負義侯に降封し、太后とともに黄龍府へ移すことを命じ、即日出発させた。
  • 晋は高祖以来二代、十二年で滅亡した。史臣は、齊王が桑維翰の忠言を退け景延廣の妄策を用い、内政を怠って外は強胡を挑発し、驕奢を極めて朝政を乱し、契丹侵入に至っても遊興を改めず、ついに国を滅ぼしたのは自業自得であると断じた。
  • 麗泉はこれを読んで、称臣割地は天命ではなく晋祖自らが招いた禍いであり、桑維翰の遜辞も景延廣に阻まれ、身も国も滅んだのは哀れだと詩に詠んだ。

契丹の北帰

  • 東方各地で群盗が蜂起し乱れる中、契丹主は晋の百官に「中国の統治は難しい、暑さも厳しいので北へ帰り別の策を講じる」と告げ、蕭翰を洛陽の節度使に留めて北へ引き揚げた。
  • 晋の文武百官数千人が府庫の財宝を運んで契丹に従い、これを見た人々は皆涙を流した。

評語

卓吾子は評して言う。桑維翰の策は帝に臣従を称させ謝罪し、領土を割いて賂を厚くすることに過ぎず、目前の危難を救うだけで、後日の禍いを防ぐには及ばなかった、と。