殘唐五代史演義傳第五十回 石敬瑭、長安にて即位する (石敬瑭長安即位)
論功行賞
敬瑭は張后を処刑したことを喜んだ。公主が現れ、冷宮での恩人・李玉英への恩賞を願い出ると、敬瑭は馮丞相の邸に身を寄せていた玉英を探し出し、珠冠を与えて宮中への出入りを許し、公主とともに富貴を享受させた。
即位の勧め
翌日、敬瑭は旧臣を長朝殿に集め、唐室の子孫を探して迎位させようとしたが、舒必達は「大唐にはもはや後継者はなく、天運は明公にある」と即位を勧めた。敬瑭は再三辞退したが、契丹主も「仇敵は滅び、汝の器量は真に中原の主たるにふさわしい、天子に立てたい」と勧め、敬瑭はついに固辞しきれなくなった。
契丹主による冊立
契丹主は自ら冊書を作り、敬瑭を皇帝に立て、国号を大晉、元号を天福とし、自ら衣冠を解いて授けた。敬瑭は幽・薊・瀛・莫・涿・檀・順・新・媯・儒・武・雲・応・寰・朔・蔚の十六州を割いて契丹に報謝の礼とし、毎年錦幣三十万を納めることを約した。契丹主はこれを受けて帰国した。
高祖即位後の施政
敬瑭は高祖皇帝と称し、明宗の旧制に倣って法制を整えた。趙瑩を翰林承旨、桑維翰を翰林学士権知樞密院事、劉知遠を侍衛馬軍都指揮使、景延廣を歩軍都指揮使に任じ、永寧公主を皇后に立てた。他の功臣にもそれぞれ論功行賞を行った。当時は藩鎮の多くが未だ服さず、兵火の後で国庫も窮乏、契丹の要求も止まなかった。桑維翰は「誠意を尽くして藩鎮を懐柔し、卑辞厚礼で契丹に事え、兵を訓練して武備を整え、農桑を勧めて倉廩を実らせ、通商減税で財を豊かにすべき」と進言し、晉王はこれを喜んで受け入れた。
王延政の反乱
天福二年二月、信州刺史謝天然が「王延政が閩の建州で帝を称し、国号を大殷として宮を置き妃を立て、朝廷に背いて南方の辺境を侵し始めた」と報告し、洛陽に緊急事態が伝えられた。晉王は誰を出師させるか検討することとなった。
唐は莊宗から数えて三姓四代・十四年で滅び、石敬瑭が位に即いて国号を晉と改めたことで、殘唐の統もここに絶えた(詩:莊宗の兵馬は消え、明宗の仁徳で歳は豊かだったが、石郎の兵が出て潞王が死に、天下は晉朝に帰したと詠む)。
評語
卓吾子曰く、契丹に父として事え幽・薊十六州を献じたため、その地は四百三十二年もの間異民族に陥ることとなった。これは石敬瑭と桑維翰の責である。敬瑭はこれによって国を得、維翰はこれによって相位を得た。とはいえ敬瑭は唐室の子孫に禅位しようと再三辞退したことは無視できない。押し切られて即位し国号を晉と改めた。ああ、唐代はここに絶えたのである。