殘唐五代史演義傳第四十五回 潞王、位を奪い天下に登る (潞王奪位登天下)
閔帝の即位と潞王の反乱
- 明宗の崩御後、馮道が政を執り、明宗の次子從厚を立てて閔帝とし、応順元年と改元、明宗を微陵に葬った。
- 潞王從珂は從厚の即位を知ると鳳翔で挙兵し、官軍は次々に降伏、西京留守王思同を討ち取って洛陽まで進撃した。閔帝は城を捨てて逃れ、潞王は間もなく即位した。
從珂の出自と即位
- 從珂はもと王氏の生まれで明宗の養子。若くして明宗に従い戦功を重ね人望を得ていたため、朝廷の権臣に忌まれていた。閔帝が從珂を風翔から河東へ移そうとしたことが挙兵の契機となった。
- 從珂は陝に至ると康義誠らの投降を受け、洛陽入りして馮道以下百官に迎えられて即位、廢帝と号し清泰と改元した。逃れていた閔帝は衛州で王巒により毒殺を図られたが飲まず、結局縊死させられた。
- 廢帝は三関の守りを固めるため、石敬瑭に桑維翰・劉知遠・趙瑩・柴研らを添えて五万の兵で守備に当たらせた。石敬瑭はもと西夷の出で明宗に仕え、かつて明宗を危地から救った功により永寧公主を娶っていた。
永寧公主と張皇后の確執
- 廢帝の皇后張氏はもと妓女の出であったが、廢帝が潞王であった頃に見初めて娶り、即位後に皇后となった。
- 清泰三年の元旦、酒宴の席で永寧公主が晋陽の駙馬石敬瑭のもとへ帰ることを願い出るが、廢帝は酒に酔って謀反を疑うような戯言を言い、代わりに嫂である張皇后への挨拶を命じた。
- 公主は出身の卑しい張后を軽んじており、朝陽宮を訪ねても迎えを受けず立腹、無礼を強く責め立てた。張后は身分の上下を説いて応じたが、公主がなおも金笏で打とうとすると、態度を変えてなだめすかし事なきを得た。
- その夜、張后は廢帝に公主から辱められたと涙ながらに訴え、宮女を証人に立てて公主の非礼を主張した。廢帝がこの後どう裁定するかは次回に続く。
評語
卓吾子曰く、潞王從珂はもと王氏で明宗の養子であり、これで国姓は三たび変わったことになる。洛陽入りの際に約束した恩賞も府庫が空で民財を搾り取って賄ったため民心は離れ、乱を望む者が多かった。閔帝を弒した罪も深く、さらに石敬瑭の乱を招くに至っては、後の禍を免れようもなかった。