殘唐五代史演義傳第二十五回 晋王、田令孜を勘問する (晉王勘問田令孜)

田令孜の逃避策

僖宗は晋王が本当に謀反したものと信じ込み、迫る軍に対して迎撃の将を求めた。鎮東将軍艾祐が父の仇として名乗り出たが、田令孜は「艾祐は実戦経験がなく、存孝のような猛将には敵わない」として、諸将を退けて西祁州へ避難することを進言した。令孜は夜のうちに帝を連れ出し、わずかな供とともに寶雞山へ逃れた。

寶雞山での餓死

寶雞山に籠った帝と令孜のもとへ朱温の軍が押し寄せ、包囲された。令孜は「密計は帝と二人だけで」と称して側近を遠ざけ、田龍・田虎に守らせて外部との連絡を断った。帝の食事はすべて令孜に奪われ、七日間飲まず食わずのまま、水を求めて叫びながら息絶えた。時に文德元年夏六月であった。

晋王の進軍と令孜の悪計露見

李嗣源の上奏を握りつぶされたと知った晋王は激怒し、存孝に五万の兵を与えて長安に進軍させた。しかし「晋王謀反」の噂が流れており、晋王自ら真偽を確かめるため寶雞山へ向かった。朱温の将尚讓が迎え撃つも、存孝・薛阿檀の攻撃と晋王自身の奇襲により梁軍は敗走し、朱温は汴梁へ逃げ帰った。

令孜の処断

令孜は田龍・田虎に晋王・存孝を捕らえさせようとしたが、二将とも存孝に討ち取られた。太子李琦は宝物を携えて晋王に助けを乞い、帝の死を告げた。晋王は令孜を捕らえて詰問すると、令孜は観念し、朱温への加担・偽の詔書発行・帝を欺いて寶雞山に追いやり餓死させた経緯を全て自供し、階段に頭を打って死んだ。晋王は令孜の遺体を四つに裂かせた。

昭宗の即位

晋王は僖宗の柩を長安へ送り、百官が喪に服した。長安にいた李嗣源は帝崩御を知り、柩を出迎えた。太子少保の孔緯が太子の即位を強く主張し、太子は即位して龍紀元年、昭宗と号した。晋王には黄金万両・蜀錦百匹が賜られ、太原へ帰陣した。

朱温の新たな企み

滄州節度使王鐸が汴梁付近を通過するとの報に、朱温はこれを討とうとしたが、楊彥洪は「大義名分のない討伐は非難を招く」として、王鐸の娘・如翠を朱温の世子の妻に迎える策を進言した。承知させれば王鐸の精兵十万を味方につけられ、拒めば力ずくで従わせればよいという企みであった。

評語

卓吾子曰く、権奸の臣はいつの世にもいるが、田令孜のように僖宗を寶雞山で餓死させるに至った者はいない。寵任すべき人物を誤れば、朝廷のみならず家庭においても禍を招く。よく戒めとすべきである。