通鑑紀事本末郭威、後漢を簒奪する(劉旻の河東割拠を付す)(郭威簒漢(劉旻據河東附))

後漢の隱帝が執政三人を誅したことから郭威が挙兵し、後周を建てるまでと、劉崇が晉陽に拠って北漢を立てた経緯。楊邠・史弘肇・王章と側近の李業らの対立が乾祐三年(950年)の誅殺を招き、郭威は南下して隱帝は乱兵に殺された。劉贇擁立が澶州の兵変で覆り、廣順元年(951年)に郭威が即位、劉崇も晉陽で帝を称して契丹に臣従し、晉州侵攻に失敗する。顯德元年(954年)、世宗柴榮が高平で北漢・契丹軍を破り、晉陽を囲んだが落とせずに退き、北漢主劉旻はその年のうちに病死した。

年表(16件)

後漢高祖乾祐元年正月〜三月(948年・隱帝の即位と李濤の失脚)

  • 高祖は魏王承訓が死んで以来、悲しみが度を越し、正月に発病した。危篤に際して蘇逢吉・楊邠・史弘肇・郭威を召して顧命を託し、「承祐は幼く弱い。後事は卿らに委ねる」と言って崩じた。
  • 二月、皇子の承祐を周王・同平章事とし、皇后を皇太后と尊び、遺制を宣して周王が即位した。
  • 蘇逢吉らは宰相として官吏の昇進補任を多く行ったが、楊邠は国費の空費だとして多くを抑えたので、逢吉らは不満を抱いた。三月、李濤が上疏して「今は関西が乱れ、外の防衛が急務です。二人の樞密使はいずれも佐命の功臣で、位は高くとも家は富んでいません。要害の大鎮を授けるべきです。樞機の務めは陛下の目の前にあれば裁決しやすく、逢吉と禹珪は先帝以来の任にあり委ねられます」と述べた。楊邠と郭威はこれを聞いて太后のもとで泣いて訴え、「臣らは先帝に従って艱難の中から起ちました。今、天子は人の言を容れて臣らを外へ捨てようとしています。まして関西に事があるのに、どうして自ら安逸を取って社稷を顧みずにいられましょう。もし臣らが職に堪えぬというなら、せめて山陵を過ぎるまで留めてください」と言った。太后は怒って帝を責め「国家の勤め古き臣を、なぜ人の言を聞いて逐うのか」と言い、帝は「これは宰相の申したことです」と答えて宰相を詰問した。濤は「この疏は臣が一人で書いたもの、他の者は関与していません」と言い、政務を解かれて私第へ帰らされた。

乾祐元年四月〜七月(948年・楊邠の専権)

  • 四月、帝は側近と謀り、太后が李濤の離間に怒っているのを受け、二人の樞密使をさらに登用して帝の意ではないことを示そうとした。側近も二蘇(逢吉・禹珪)の専断を憎み、その権を奪おうとして共に勧めた。かくて楊邠を中書侍郎兼吏部尚書・同平章事とし樞密使は元のまま、郭威を樞密使とし、王章にも同平章事を加えた。
  • 中書の任官も諸司の奏事も帝はすべて邠の裁量に委ねたので、三人の宰相は手を拱くばかりで政事はことごとく邠が決した。邠の可否を経ていない案件は誰も施行できず、政務は滞った。三宰相が人事の案を出しても、邠の意に沿わなければ簿尉のような末職ですら通らなかった。
  • 邠はもともと書生を好まず、常に「国家は倉が満ち兵が強いことが急務だ。文章や礼楽など気にするに足らぬ」と言った。二蘇が自分を排したのを恨み、彼らの任官が濫に過ぎて世に非難されていたのを正そうとして、任命に極端に慎重となり、士大夫の中には漢の興隆から滅亡まで一つの官も得られぬ者すらあった。門蔭や百司からの入仕もすべて廃した。これは邠の愚かさによるものだが、当時の人は二蘇の不公平が招いたものだとも咎めた。
  • 七月、郭威に同平章事を加えた。

隱帝乾祐二年(949年・帝の驕縦)

  • 三つの叛乱が平らいだ後、帝はしだいに驕り放埒になり、側近と馴れ合った。飛龍使の後匡贊と茶酒使の郭允明が諂って寵を得、帝は彼らと謎かけや卑猥な言葉を交わすのを好んだ。太后がしばしば戒めても帝は意に介さなかった。七月、太常卿の張昭が儒臣を近づけて経訓を学ぶよう上言したが、聞かれなかった。

乾祐三年四月〜五月(950年・将相の対立)

  • 四月、楊邠が樞密使の解任を願い、帝が中使を送って引き止めた。宣徽北院使の吳虔裕が傍らで「樞密は重地、長く居るのは難しい。後から来る者に交替させるべきで、相公が辞退されるのは正しい」と言い、帝は不快に思って虔裕を鄭州防禦使に出した。
  • 契丹が最近入寇して河北を横行しているのに諸藩鎮は自守するだけで防ぐ者がないため、朝廷は郭威を鄴都に鎮させ諸将を督して契丹に備えさせようと議した。史弘肇は威に樞密使を兼ねさせようとし、蘇逢吉は先例がないと言った。弘肇は「樞密使を領すれば臨機に処置でき、諸軍は畏服して号令が行われる」と主張し、帝は結局弘肇の議に従った。弘肇は逢吉が異を唱えたのを恨み、逢吉は「内から外を制するのが順である。今、逆に外から内を制してよいものか」と言った。かくて威は鄴都留守・天雄節度使とされ樞密使も元のままとされ、河北の兵甲・銭穀は郭威の文書を見ればただちに応じよと詔された。
  • 翌日、朝廷の貴顕が竇貞固の邸で会飲した際、弘肇は大杯を挙げて威に注ぎ、「昨日の廷議で、なぜあれほど意見が食い違ったのか。今日は弟のために飲む」と声を荒らげた。逢吉と楊邠も杯を挙げて「国家の事だ、気にするな」と言うと、弘肇はまた声を張り「国家を安定させるのは長槍と大剣だ。毛の筆など何の役に立つ」と言った。王章が「筆がなければ財賦はどこから出てくるのか」と返した。ここから将と相の間に隙が生じた。
  • 郭榮を貴州刺史・天雄牙内都指揮使とした。榮はもと柴姓で、父の守禮は郭威の妻の兄である。威に子がなかった頃に養って子としていた。
  • 五月、郭威は出発の挨拶に帝へ言った――「太后は先帝に長く従って天下の事を多く経験されています。陛下はお若い、事があれば太后の教えを受けてから行われるべきです。忠直な者を近づけ讒佞な者を遠ざけ、善悪の判別を明らかになさいませ。蘇逢吉・楊邠・史弘肇はみな先帝の旧臣で忠を尽くして国に殉じております。心を推して任せられれば必ず過ちはありません。国境の事は臣が愚駑を尽くし、御用に背かぬようにいたします」と。帝は襟を正して謝した。
  • 王章が朝廷の貴顕を集めて酒宴を開き、酒たけなわで酒令の遊びをした。史弘肇はこれに不案内で、隣の席の閻晉卿がしきりに教えた。蘇逢吉がからかって「傍らに閻という姓の人がいる、罰杯を憂えることはあるまい」と言った。弘肇の妻の閻氏はもと酒家の妓であり、弘肇は逢吉が当てこすったと思って激怒し、卑しい言葉で罵った。逢吉は応じず、弘肇が殴ろうとすると逢吉は立ち去り、弘肇は剣を探して追おうとした。楊邠が泣いて「蘇公は宰相です。公が殺せば天子をどこに置くのですか。よく考えてください」と止め、弘肇は馬に乗って去った。邠は轡を並べて邸まで送り届けてから帰った。将相の仲は水火のごとくになった。帝は王峻に酒宴を設けさせて和解させようとしたが果たせなかった。逢吉は外鎮に出て避けようとしたが、「吾が朝廷を去れば、史公は一人を差し向けるだけで吾を粉々にできる」と言って思いとどまった。王章も鬱々として外官を求めようとしたが、楊・史が固く止めた。

乾祐三年(950年・四人の執政と積もる怨み)

  • 即位以来、楊邠が機政を総べ、郭威が征伐を主り、史弘肇が宿衛を掌り、王章が財賦を掌った。邠はかなり公平忠実で、退朝後は私的な来客もなく、四方からの贈物は断らないものの余れば献上した。弘肇が京城を取り締まったので、道に落ちた物を拾う者もなかった。
  • 当時は契丹の蹂躙の後を承けて公私とも困窮していた。章は取りこぼしを拾い集め、出すのを惜しんで府庫を満たした。三つの叛乱が結んで数年にわたり兵を出しても供給は絶えず、事が平らいだ後には賞賜のほかになお蓄えが残っていた。おかげで国家はどうにか安定した。だが章の取り立ては苛烈で、旧制で田税一斛につき二升を余分に納める「雀鼠耗」があったのに、さらに二升を「省耗」として加えさせた。銭の出入りは八十を百としていたのを、納入は八十、支出は七十七として「省陌」と称した。塩・礬・酒・麴の禁を犯せば、わずかな量でも罪はみな死であり、百姓は怨嗟した。
  • 章はとりわけ文臣を嫌い、「この連中に算木を持たせても縦横も分からぬ、何の役に立つ」と言い、俸禄は軍に回せない粗悪な物で支給し、吏がすでに高く見積もっているのを章はさらに水増しした。
  • 帝の側近の佞臣がしだいに権を握り、太后の親戚も朝政に干渉したが、邠らはたびたびこれを抑えた。太后の旧友の子が軍職を求めると弘肇は怒って斬った。武德使の李業は太后の弟で、高祖に内帑を掌らせられ、帝の即位後はとりわけ寵任されていた。宣徽使が欠けたとき業は自分がと望み、帝も太后も執政に諷したが、邠と弘肇は「内使の昇進には順序があり、外戚が越えて就くことはできない」として止めた。内客省使の閻晉卿は次に宣徽使となる順だったのに長く補されなかった。樞密承旨の聶文進、飛龍使の後匡贊、翰林茶酒使の郭允明はみな帝の寵を得ていたが久しく昇進せず、共に執政を怨んだ。平盧節度使の劉銖は青州から帰って長く朝請に列しながら任官されず、常に執政に食ってかかった。
  • 帝が三年の喪を終えて音楽を聴き、伶人に錦の衣と玉帯を賜った。伶人が弘肇のもとへ礼に行くと、弘肇は怒って「士卒は辺境を守って苦戦してもまだ賜り物がない。汝らに何の功があってこれを得るのか」と言い、すべて奪い返して官に納めた。帝が寵愛する耿夫人を后に立てようとすると、邠は早すぎるとし、夫人が死んで后の礼で葬ろうとすると、邠はまた不可とした。
  • 帝は年ごとに壮んになり、大臣に制せられるのを厭うようになった。邠と弘肇が帝の前で議事した折、帝が「よく考えてくれ、人に言われぬように」と言うと、邠は「陛下は黙っておられればよい、臣らがおります」と言った。帝は不満を積もらせ、側近が隙を突いて「邠らは専横で、いずれ乱を起こします」と讒言し、帝はこれを信じた。ある夜、作坊の鍛冶の音を聞いて急な兵かと疑い、明け方まで眠れなかった。
  • 蘇逢吉は弘肇と隙があり、李業らが弘肇を怨んでいるのを知って、しきりに言葉で煽った。帝はついに業・文進・匡贊・允明と邠らの誅殺を謀り、議が定まってから太后に告げた。太后は「こんな事を軽々しく起こしてよいものか。宰相と議すべきです」と言ったが、傍らの業が「先帝はかつて『朝廷の大事は書生に謀るな、懦弱で人を誤らせる』と申されました」と言った。太后が重ねて諫めると、帝は憤って「国家の事は閨房の知るところではない」と言い、袖を払って出た。

乾祐三年十一月(950年・執政三人の誅殺と郭威の挙兵)

  • 十一月、業らは謀を閻晉卿に告げた。晉卿は事が成らぬのを恐れて弘肇の邸へ知らせに行ったが、弘肇は他の口実で会わなかった。
  • 翌朝、邠らが入朝すると、甲士数十が廣政殿から出て、邠・弘肇・章を東の廊下で殺した。文進は急ぎ宰相と朝臣を崇元殿に並ばせ、「邠らは謀反により誅された、卿らと共に慶したい」と宣した。また諸軍の将校を萬歳殿の庭に召し、帝が自ら諭して「邠らは朕を子供扱いしてきた。朕は今ようやく汝らの主になれた。汝らも横暴な心配から解放されたのだ」と言い、皆は拝謝して退いた。前節度使や刺史らも殿に上げて諭し、使者を分遣して邠らの親戚・党与・従者を捕らえ、ことごとく殺した。
  • 弘肇はとくに侍衞歩軍都指揮使の王殷を厚遇していたので、邠らの死後、帝は孟業に密詔を持たせて澶州と鄴都へ遣わし、李洪義に殷を殺させ、郭崇威・曹威に郭威と監軍の王峻を殺させようとした。洪義は太后の弟である。あわせて高行周・苻彦卿・郭崇義・慕容彦超・薛懷讓・吳虔裕・李穀を急ぎ入朝させ、蘇逢吉に樞密院を代行させ、劉銖に開封府、李洪建に侍衞司、閻晉卿に侍衞馬軍を預けた。洪建は業の兄である。
  • 内外の人心は憂え恐れた。蘇逢吉は弘肇を憎んではいたが李業らの謀には加わっておらず、変を聞いて驚愕し、「事が急すぎた。主上が一言でも問うてくださっていれば、ここまでにはならなかった」と人に漏らした。
  • 業らは劉銖に郭威と王峻の家を誅させ、銖は残虐を極めて嬰児すら助けなかった。李洪建には王殷の家を誅させたが、洪建はただ人を置いて見張らせ、食事も与えた。
  • 使者が澶州に至ったが、李洪義は臆病なうえ王殷が既に察しているのではと恐れて手を出せず、孟業を殷に引き合わせた。殷は業を捕らえ、陳光穗に密詔を持たせて郭威に示した。威は樞密の吏である魏仁浦を呼んで詔書を見せ「どうすべきか」と問うた。仁浦は「公は国の大臣で功名は日ごろから明らかであり、そのうえ強兵を握り重鎮に拠っておられます。それが一朝にして小人どもに陥れられ、思いもよらぬ禍が降りかかった。これは弁明で解けるものではありません。この情勢では座して死を待つわけにはいきません」と答えた。
  • 威は郭崇威・曹威と諸将を召し、楊邠らの冤死と密詔のことを告げて言った――「吾は諸公と荊棘を切り開いて先帝に従い天下を取り、託孤の任を受けて力を尽くして国家を衛ってきた。今、諸公が死んだのに、吾一人生きていられようか。君らは詔書を奉行して吾の首を取り天子に報じ、累を及ぼさぬようにせよ」と。郭崇威らはみな泣いて「天子は幼い。これは必ず側近の小人どもの仕業です。この輩を得意にさせて国家が安泰でいられましょうか。崇威は公に従って入朝し、自ら申し開きをし、鼠輩を洗い流して朝廷を清めたい。一介の使者に殺されて千載の悪名を受けるべきではありません」と言った。翰林天文の趙修已も「公が空しく死んで何になりますか。衆心に従って兵を擁して南下なさい。これは天の啓示です」と言った。
  • 郭威は養子の榮を鄴都に留めて鎮させ、郭崇威に騎兵で先駆させ、自ら大兵を率いて続いた。慕容彦超は食事中に詔を得て、匙も箸も捨てて入朝し、帝は軍事をすべて彼に委ねた。吳虔裕も入朝した。
  • 帝は郭威の南下を聞いて迎撃を議した。前開封尹の侯益は「鄴都の戍兵の家族はみな京師にいます。官軍を軽々しく出すべきではありません。城を閉じて鋒を挫き、その母や妻を城に登らせて呼びかけさせれば、戦わずして降らせられます」と言った。慕容彦超は「侯益は老いぼれて臆病者の計を献じている」と言い、帝は益と閻晉卿・吳虔裕・張彦超に禁軍を率いさせて澶州へ向かわせた。
  • この日、郭威は既に澶州に至り、李洪義が迎え入れ、王殷が拝謁して慟哭し、部下の兵を率いて従った。郭威が河を渡ると、帝は内養の鸗脫を偵察に遣わしたが、威は捕らえて表を鸗脫の襟に入れて帰した。表には自ら――「臣は昨日詔書を得て、首を伸ばして死を待ちました。郭崇威らが臣を殺すに忍びず、『これはみな陛下の側近で権を貪って飽かぬ者が臣を讒したのだ』と言い、臣を逼って南行させ、闕に詣でて罪を請えと言うのです。臣は死を求めても得られず、力で抑えられません。臣は数日で闕廷に至ります。陛下が臣に罪ありとされるなら、どうして刑を逃れましょう。もし本当に臣を讒した者があるなら、軍前に引き渡して衆心を快くしてください。臣は諸軍を撫諭して鄴都へ退き帰らせます」と記した。
  • 郭威は滑州へ向かい、義成節度使の宋延渥が迎えて降った。延渥は洛陽の人で、妻は高祖の娘の永寧公主である。威は滑州の庫の物を取って将士を労い、「侯令公が諸軍を督して南から来ると聞く。今これに出会って交戦すれば入朝の義に反する。戦わなければ彼に屠られる。吾は汝らの功名を全うしたい。先の詔を奉行してくれ。吾は死んでも恨まぬ」と諭した。皆は「国家が公に背いたので、公が国に背いたのではありません」と言い、万人が争って奮い立ち、私怨を報いるような勢いであった。「侯益ごときに何ができようか」と。王峻が衆に「吾は公の指示を得た。京城を落としたら十日間の略奪を許す」と触れると、皆は躍り上がって喜んだ。
  • 鸗脫が大梁に至った。それ以前に帝は自ら澶州へ行こうと議していたが、郭威が既に河上にあると聞いて止めていた。帝はひどく悔い恐れた顔で、竇貞固に「先ごろのことは、あまりに慌ただしかった」と漏らした。李業らが府庫を傾けて諸軍に賜るよう請い、蘇禹珪が不可としたが、業は帝の前で禹珪を拝して「相公、天子のために府庫を惜しまれるな」と言った。かくて禁軍に一人二十緡、下軍にはその半分を賜り、北にいる将士には家族に支給し、家信を通じさせて誘った。
  • 郭威の軍が封丘に至り、人心は震え上がった。太后は泣いて「李濤の言を用いなかった。滅ぶのも当然だ」と言った。慕容彦超は自らの驍勇を恃んで帝に「臣には北の軍などブヨ同然です。陛下のためにその首魁を生け捕りましょう」と言ったが、退いて聶文進に北から来た兵の数と将校の名を尋ねると、かなり恐れて「これも手強い賊だ、侮れぬ」と言った。
  • 帝は袁㠖・劉重進らに禁軍を率いさせて侯益らと赤岡に屯させた。㠖は袁象先の子である。彦超は大軍を七里店に屯した。翌日、東北の軍が劉子陂で遭遇した。帝が自ら出て軍を労おうとすると、太后は「郭威は我が家の勤め古き者だ。死が身に迫ったのでなければ、ここまではしまい。ただ兵を按じて城を守り、詔を飛ばして諭し、その志を見よ。必ず筋の通った申し開きがあり、君臣の礼はまだ保てる。軽々しく出てはならぬ」と言ったが、帝は従わなかった。扈従の軍はきわめて盛んで、太后が使いをやって聶文進を「よくよく気をつけよ」と戒めると、「臣がおります限り、郭威が百人いても擒にできます」と答えた。
  • 日暮れまで両軍は戦わず、帝は宮に還った。慕容彦超は大言して「陛下、明日は宮中に事もありますまい。どうかもう一度お出ましになって臣が賊を破るのをご覧ください。臣は戦うまでもなく、叱りつけて営に帰らせてやります」と言った。翌日、帝が再び出ようとするのを太后は力を尽くして止めたが聞かれなかった。
  • 陣を敷くと、郭威は衆に「吾は小人どもを誅しに来たのであって、天子に敵対するつもりはない。決して先に動くな」と戒めた。しばらくして慕容彦超が軽騎で真っ直ぐ突撃し、郭崇威と李榮が騎兵で拒んだ。彦超は馬が倒れて危うく捕らわれかけ、兵を引いて退き、麾下は百余人が死んだ。これで諸軍は気を奪われ、次々に北軍に降った。侯益・吳虔裕・張彦超・袁㠖・劉重進はみな密かに郭威に会いに行き、威はそれぞれ営へ帰した。威は宋延渥に「天子は今、危うい。公は近親だ、牙兵を率いて御輿を衛られよ。そして陛下に、隙を見て早く臣の営へお越しくださるようお伝えせよ」と言った。延渥が御営に着く前に乱兵が雲のように騒ぎ、進めず引き返した。
  • 日暮れには南軍の多くが北へ帰し、慕容彦超は麾下十余騎で兖州へ逃げ帰った。その夕、帝はただ三人の宰相と従官数十人と七里寨に泊まり、他はみな逃げ散った。
  • 翌朝、郭威は高い板の上に天子の旌旗を望んで、下馬し兜を脱いで赴いたが、着いたときには帝は既に去っていた。帝は馬を駆って宮へ帰ろうとし、玄化門に至ったところ、門上の劉銖が帝の左右に「兵馬はどこだ」と問い、そのまま左右を射た。帝は轡を返して西北へ向かい、趙村で追兵に追いつかれ、下馬して民家に入ったところを乱兵に殺された。蘇逢吉・閻晉卿・郭允明はみな自殺し、聶文進は身一つで逃げたが軍士に追われて斬られ、李業は陝州へ、後匡贊は兖州へ逃げた。
  • 郭威は帝が弑されたと聞いて号泣し「老夫の罪だ」と言った。威が玄化門に至ると劉銖が城外へ雨のように矢を射たので、威は迎春門から入って私第に帰り、何福進に兵で明德門を守らせた。
  • 諸軍が大掠奪を行い、一晩中あちこちで火の手が上がった。軍士が白再榮の邸に押し入って再榮を捕らえ財をすべて奪ったが、そのうえで「我らはかつて麾下で使われた身だ。一朝にしてここまで無礼を働いた以上、どの面下げてまた公にお会いできようか」と言い、首を刎ねて去った。吏部侍郎の張允は家財が万を数えるほどあったが吝嗇で、妻にも任せず、いつも多くの鍵を自ら衣の下に結び、歩けば佩玉のように鳴った。その夕、仏殿の天井裏に隠れたが、登る者が増えて板が壊れて落ち、軍士に衣を奪われて凍死した。
  • 作坊使の賈延徽は帝に寵せられており、魏仁浦の隣家だったが、仁浦の住まいを併せて広げようと、しばしば帝に仁浦を讒言して危うく命に関わるところだった。ここに至って延徽を捕らえて仁浦に引き渡す者があったが、仁浦は「乱に乗じて怨みを報いるのは吾のせぬことだ」と辞退した。郭威はこれを聞いて仁浦を一層厚く遇した。
  • 右千牛衞大將軍の趙鳳は「郭侍中が兵を挙げたのは君側の悪を誅して国家を安んじるためだ。それを鼠輩がこの有様とは、これこそ賊だ。侍中の意ではあるまい」と言い、弓矢を執って胡床に腰かけ路地の入口に座り、略奪に来る者を射殺したので、その里の人々はみな無事であった。
  • 劉銖と李洪建が捕らえられた。銖は妻に「吾が死ねば、汝も人の婢になるのか」と言い、妻は「公のなさったことからすれば当然でしょう」と答えた。
  • 王殷と郭崇威が「略奪を止めなければ、今夕には空城になってしまいます」と言い、威は諸将に部を分けて禁じさせ、従わぬ者は斬らせて、夕刻にようやく収まった。竇貞固と蘇禹珪は七里寨から逃げ帰り、郭威が人を出して探し当て、まもなく元の位に復した。貞固は宰相として楊・史の専権と李業らの乱に遭ったが、ただ重々しく振る舞って自らを全うしただけであった。
  • 郭威は有司に命じて隱帝の柩を西宮に移させた。魏の高貴郷公の先例に倣って公の礼で葬るよう請う者があったが、威は許さず「倉卒の際に御輿を保衛できなかった、吾の罪はもう大きい。まして君を貶められようか」と言った。
  • 太師の馮道が百官を率いて郭威に謁見すると、威は道を見てなお拝礼した。道は平時と同じように拝を受け、静かに「侍中、此度の行はご苦労でしたな」と言った。

乾祐三年十一月〜十二月(950年・劉贇の擁立と澶州の兵変)

  • 郭威は百官を率いて明德門で太后に起居し、「軍国の事は多い、早く嗣君を立てられたい」と奏した。太后は誥を下し、郭允明が弑逆して神器に主がなくなったので、河東節度使の劉崇と忠武節度使の劉信はいずれも高祖の弟、武寧節度使の劉贇と開封尹の劉勲は高祖の子だから、百官が議して適任を択べ、とした。贇は崇の子だが、高祖が愛して実子同様に養っていた。
  • 郭威と王峻が萬歳宮で太后に会って勲を嗣君にと請うと、太后は「勲は長く痩せ病んで起き上がれぬ」と答えた。威が出て諸将に伝えると諸将は面会を求め、太后は左右に臥床ごと運ばせて諸将に見せ、諸将はようやく信じた。かくて郭威と峻は贇の擁立を議し、百官を率いて表を上って贇に大統を継がせるよう請い、太后は誥を下して日を択び法駕を備えて贇を迎え即位させるよう命じた。郭威は馮道と王度・趙上交を徐州へ迎えに遣わすよう奏した。
  • 郭威は三叛の討伐の折、朝廷の詔書が軍事の処置をすべて機宜に適っているのを見て、使者に「誰がこの詔を書いたのか」と問い、翰林學士の范質だと聞いて「宰相の器だ」と言っていた。入城して探し当て、大いに喜んだ。折しも大雪で、威は自分の紫袍を脱いで着せ、太后の誥と新君を迎える儀注を起草させたところ、慌ただしい中で討論し撰定したものがみな適切であった。
  • 隱帝はかつて張永德を遣わして昭義節度使の常思に生辰の贈物を賜らせていた。永德は郭威の婿である。楊邠らが誅された際、密かに思に永德を殺すよう命じたが、思は日ごろ郭威に非凡なところが多いと聞いていたので、永德を囚えて情勢を見た。威が大梁を落とすと、思は永德を釈放して詫びた。
  • 郭威が群臣を率いて「皇帝が闕に到るまで十日ほどかかります、太后が臨朝聴政されますよう」と上言し、太后は臨朝して、王峻を樞密使、袁義を宣徽南院使、王殷を侍衞馬歩軍都指揮使、郭崇威を馬軍、曹威を歩軍の都指揮使とし、李穀に三司を預けた。
  • 劉銖・李洪建とその一党はみな市で梟首されたが、その家は赦された。郭威は公卿に「劉銖は吾の家を屠った。吾がまたその家を屠れば、怨讐は繰り返して際限がない」と言い、これで数家が助かった。王殷はしばしば洪建の助命を請うたが、郭威は許さなかった。後匡贊は兖州に至って慕容彦超に捕らえられて献じられた。李業は陝州に至ったが、兄の保義節度使洪倍は家に匿うことができず、業は金を懐にして晉陽へ逃げようとして絳州で盗に殺され金を奪われた。
  • 邢州の鎮将が、契丹主が数万騎で入寇し内丘を五日攻めても落とせず死傷が多かったこと、戍兵五百が叛いて契丹を城内に引き入れて屠られたこと、饒陽も陥ちたことを奏した。太后は郭威に大軍で撃たせ、国事は竇貞固・蘇禹珪・王峻に、軍事は王殷に委ねた。十二月、郭威は大梁を発ち、范質を樞密副使とした。
  • 劉贇は鞏廷美と楊温に徐州を守らせ、馮道らと西へ向かった。道中の仗衛はみな王者のもので、左右は万歳を唱えた。郭威は滑州に至って数日留まり、贇が使者を送って諸将を慰労すると、命を受ける際に将たちは顔を見合わせて拝もうとせず、私かに「我らは京師を屠った、その罪は大きい。もし劉氏が再び立てば、我らに種は残るまい」と語り合った。威はこれを聞いて直ちに兵を澶州へ向け、蘇禹珪を宋州へ遣わして嗣君を迎えさせた。
  • 郭威は河を渡って澶州に宿った。翌朝、出発しようとすると将士数千が突然大騒ぎした。威が門を閉じさせると、将士は垣を越え屋根に登って入り、「天子は侍中が自らおなりください。将士は既に劉氏と仇になっている、立てるわけにはいきません」と言った。黄色の旗を裂いて威の体に被せる者があり、皆で抱え上げて万歳を叫び、地を揺るがした。そのまま威を擁して南へ向かった。威は太后に牋を上って、漢の宗廟を奉じ太后を母として仕えたいと請うた。
  • 韋城で書を下して大梁の士民を撫諭し、「昨日、河上を離れてから道中で秋毫も犯していない、憂え疑うな」と告げた。七里店に至ると竇貞固が百官を率いて出迎え拝謁し、そのまま勧進した。威は臯門村に営した。
  • 劉贇は既に宋州に至っていた。王峻と王殷は澶州の兵変を聞いて郭崇威に七百騎で行かせて阻ませ、馬鐸に兵を率いて許州の巡検に当たらせた。崇威が突然宋州に至って府門の外に陣を敷くと、贇は大いに驚き門を閉じて楼に登って詰問した。崇威は「澶州で兵変があり、郭公は陛下がご存じないのを慮って崇威を宿衛に遣わされました、他意はありません」と答えた。贇が召しても崇威は進もうとせず、馮道が出て話すとようやく楼に登った。贇が崇威の手を執って泣くと、崇威は郭威の意を伝えて安心させ、しばらくして退出した。
  • 当時、護聖指揮使の張令超が部兵を率いて贇の宿衛にあたっていた。徐州判官の董裔が贇に説いた――「崇威の目つきと振る舞いを見るに、必ず異心があります。道々、郭威が既に帝になったと言われているのに、陛下が深入りして止まらぬのは、禍が来ましょう。急ぎ張令超を召して禍福を諭し、夜に兵で崇威を襲ってその兵を奪わせ、翌日、睢陽の金帛を掠めて士卒を募り、北へ晉陽に走るのです。彼らは京邑を定めたばかりで我らを追う暇はありません。これが上策です」と。贇はためらって決しなかった。その夕、崇威が密かに令超を誘い、令超は衆を率いて帰属したので、贇は大いに恐れた。
  • 郭威は贇に「諸軍に逼られました」と書を送り、馮道を先に呼び戻して、趙上交と王度を残して侍らせた。道が辞去するとき、贇は「寡人がここまで来たのは、公が三十年の旧相だから疑わなかったからだ。今、崇威が吾の衞兵を奪った。事は危うい。公はどうするおつもりか」と言った。道は黙っていた。客将の賈貞がしきりに道に目配せして殺そうとしたが、贇は「汝ら軽はずみをするな。これは馮公の関わるところではない」と言った。崇威は贇を外館に移し、その腹心の董裔・賈貞ら数人を殺した。
  • 太后は誥を下して贇を廃して湘陰公とした。馬鐸が兵を率いて許州に入り、劉信は惑乱して自殺した。太后は誥を下して侍中(郭威)に監国させ、百官と藩鎮が相次いで勧進の表を上った。監国の営で歩軍の将校が酔って「先には澶州の騎兵が擁立した。今度は歩兵も監国を擁立したい」と揚言し、斬られた。

後周太祖廣順元年正月(951年・後周の建国)

  • 正月、漢の太后が誥を下して監国に符と璽を授け、皇帝に即位させた。監国は臯門から宮に入り崇元殿で即位し、「朕は周室の裔、虢叔の後である」として国号を周と定め、改元して大赦した。楊邠・史弘肇・王章らにはみな官を贈り、官費で葬り、子孫を探して登用した。倉場・庫務の納入担当官吏が升目の余りや目減り分を取ることを禁じ、旧来の余剰献上もすべて廃した。窃盗と姦の罪は晉の天福元年以前の刑名によることとし、反逆でない罪人については親族の誅殺や家財没収を行わないこととした。唐の莊宗・明宗、晉の高祖の陵にそれぞれ守陵戸十戸を置き、漢の高祖陵の職員と時節の供物、守陵戸は従来通りとした。
  • 唐末以来、盗が多いため律文を用いず峻法を定め、窃盗で贓物三匹以上は死、晉の天福年間には五匹に引き上げ、夫のある女との姦は強姦・和姦を問わず男女とも死とされ、漢の法では窃盗は一銭以上でみな死、罪が反逆でなくとも往々にして族誅・家財没収が行われていた。帝は即位してまずこの弊を改めた。
  • また楊邠は、功臣や国戚で方鎮となった者の多くが吏務に不案内なため、三司の軍将を都押牙・孔目官・内知客に補していたが、彼らは勅命による任命を恃んで専横を極め節度使も制しきれなかったので、これもすべて廃した。
  • 漢の李太后は西宮に移り、昭聖皇太后の尊号を上られた。王峻に同平章事を加え、劉皥に漢の隱帝の喪を主らせた。

廣順元年正月(951年・劉崇の自立と李驤の死)

  • 河東節度使の劉崇は隱帝の遇害を聞いて挙兵南下しようとしたが、湘陰公(贇)を迎え立てると聞いて止め、「我が子が帝になるのだ、他に何を求めよう」と言った。太原少尹の李驤が密かに説いた――「郭公の心を見るに、結局は自ら取るつもりです。公は急ぎ兵を率いて太行を越え孟津を押さえ、徐州相公が即位されてから鎮へ帰られる方がよい。そうすれば郭公も動けません。でなければ売られます」と。崇は怒って「腐儒めが我が父子を離間しようとする」と言い、左右に引き出させて斬った。驤は「吾は経済の才を負いながら愚か者のために謀った。死は甘んじて受ける。家に老妻がいる、共に死なせてほしい」と叫んだ。崇はその妻もろとも殺し、そのうえで朝廷に奏して二心なきことを示した。
  • 贇が廃されると、崇は使者を遣わして贇を晉陽へ返すよう請うた。詔で「湘陰公は近ごろ宋州にいる。今まさに京師へ迎え取り、必ず落ち着き先を得させる。公は憂えるな。公が力を合わせて輔けてくれるなら王爵を加え、永く河東に鎮させる」と答えた。
  • 鞏廷美と楊温は贇の失位を聞き、贇の妃の董氏を奉じて徐州に拠り、河東の援軍を待って守った。帝は贇に書で諭させ、廷美と温は降りたくとも殺されるのを恐れた。帝は重ねて贇に書を送り、「この者たちが主に心を尽くしたことを思えば、その忠義を賞するに足る。どうして悔い改めよなどと責められようか。新しい節度使が入城したら、それぞれ刺史に任じよう。公からさらに詳しく伝えてくれ」と述べた。
  • 帝は百官を率いて西宮で漢の隱帝の挙哀と成服を行い、すべて天子の礼によった。
  • 慕容彦超が使者を送って入貢し、帝はその疑懼を慮って詔を賜って慰めた。「今、兄の事はもうここまで来た。言葉は多くしたくない。弟が支え、共に億兆を安んじてくれることを望む」と。
  • 湘陰公(贇)が宋州で殺された。
  • 同じ日、劉崇は晉陽で皇帝に即位し、なお乾祐の年号を用いた。領有するのは并・汾・忻・代・嵐・憲・隆・蔚・沁・遼・麟・石の十二州の地であった。鄭珙を中書侍郎、趙華を戸部侍郎としてともに同平章事とし、次子の承鈞を侍衞親軍都指揮使・太原尹、李存瓌を城州防禦使、張元徽を馬歩軍都指揮使、陳光裕を宣徽使とした。北漢主は李存瓌と張元徽に「朕は高祖の業が一朝にして地に墜ちたので、やむを得ずこの位号を称しているだけだ。よく考えれば、吾が何の天子であり、汝らが何の節度使であろうか」と言った。このため宗廟も建てず、祭祀も家人の作法によった。宰相の俸禄は月にわずか百緡、節度使は二十緡で、その他はごくわずかな支給しかなく、そのため国中に清廉な吏は少なかった。客省使の李光美はかつて直省を務めて故実に通じており、北漢の朝廷の制度はみな光美から出た。北漢主は湘陰公の死を聞いて哭し「吾は忠臣の言を用いなかったためにこうなった」と言い、李驤のために祠を立てて年ごとに祭った。
  • 馮道を中書令、竇貞固に侍中、蘇禹珪に司空を加えた。

廣順元年(951年・北漢と契丹の同盟、晉州侵攻)

  • 北漢主の即位に際し、契丹主が聿撚に劉承鈞への書を持たせ、北漢主は承鈞に返書させて、本朝が滅んだので帝位を継いだと述べ、晉室の先例に倣って援助を求めた。契丹主は大いに喜んだ。北漢主は兵を陰地・黄澤・團栢に屯し、承鈞を招討使、白從暉を副、李存瓌を都監として歩騎一万で晉州を侵させた。從暉は吐谷渾の出である。
  • 郭崇威は名を崇に、曹威は英に改めた。
  • 二月、皇子の榮を鎮寧節度使とし、朝士を選んでその僚佐とし、王敏を節度判官、崔頌を觀察判官、王朴を掌書記とした。
  • 北漢兵が五道から晉州を攻めたが、節度使の王晏は城を閉じて出なかった。劉承鈞は臆病と見て蟻のように取りついて城に登ったが、晏が伏兵で奮撃して北漢兵は千余人が死傷した。承鈞が安元寶に晉州の西城を焼かせようとしたが元寶は降ってきたので、承鈞は隰州攻めに転じた。隰州刺史の許遷が孫繼業に長壽材で迎撃させ、北漢の将程筠らを捕らえて殺した。まもなく北漢兵は州城を数日攻めたが落とせず、死傷が多く引き上げた。
  • 契丹主が臬骨支と朱憲を遣わして即位を賀した。田敏を契丹に遣わし、北漢主も李𧦬を契丹に遣わして援兵を乞うた。
  • 慕容彦超に中書令を加え、魚崇諒を兖州へ遣わして意向を伝えた。彦超が謝表を上ると、三月、詔で報じた――「先に前朝が徳を失い少主が讒を用い、慌ただしい中で卿を闕に召したとき、卿は直ちに馳せ参じ、二晩で京に着いた。国難を救って身を顧みず、君の召しを聞いて駕を待たなかった。ついに天が漢の祚を亡ぼし兵は梁郊で散り、降将敗軍が相次いで至ると、卿は直ちに馬首を返して龜陰へ帰った。主のため時のため、終始一貫していた。いわゆる危乱に忠臣の節を見、疾風に勁草の心を知るというものだ。臣たる者がみなこうであれば、国を持つ者で誰が用いたくないことがあろう。卿が言うところの、朕が河朔に潜んでいた際や浚郊で難を平らげた時に、示諭の言を奉らなかったことも、人を行闕へ遣わさなかったことも、まして主に仕える道がどうしてそんなものであろうか。もし漢朝に二心があったなら、どうして周室に忠信でいられよう。これを恐れとするのは、行き過ぎではないか。卿はただ力を尽くし心を推して民を安んじ国を体し、朕に仕えることを故君に仕えたごとくにせよ。そうすれば黎庶が安んじるばかりか、社稷もこれを頼む。ただ表率を堅くせよ、交替を議することはない。心からの誠は、この言に尽きている」と。
  • 王彦超が徐州を落として鞏廷美を殺したと奏した。
  • 北漢の李𧦬が契丹に至り、契丹主は拽剌梅里を返礼に遣わした。四月、契丹主は使者を北漢に遣わし、周の使者田敏が来て歳ごとに銭十万緡を送ると約したことを告げた。北漢主は鄭珙に厚い贈物を持たせて詫び、自ら「姪皇帝」と称して「叔天授皇帝」に書を致し、冊礼を求めた。
  • 五月、姚漢英らを契丹に遣わしたが、契丹は留めて帰さなかった。北漢の鄭珙が契丹で死んだ。
  • 六月、王峻を左僕射兼門下侍郎、范質と李穀を中書侍郎としてともに同平章事とし、穀はなお三司を預かった。竇貞固と蘇禹珪は罷めて本官を守り、范質が樞密院の事に参知し、翟光鄴が樞密副使を兼ねた。帝がまだ河中を討っていた頃から人望はすでに帝に集まっており、当時轉運使だった李穀に、帝はしばしば含みのある言葉で諷したが、穀はただ人臣として節を尽くすとだけ答えた。帝はこれを賢しとし、即位すると真っ先に宰相に用いた。当時、国家は新造で四方は多事であり、王峻は夜も日も心を尽くして知る限りのことを行い、軍旅の謀に益するところが多かった。范質は明敏で記憶に優れ、慎んで法度を守り、李穀は沈毅で器量と識見があり、帝の前で議論するときは辞気が慷慨し、たくみな譬えで主意を開いた。
  • 契丹が述軋らを遣わして北漢主を「大漢神武皇帝」、その妃を皇后として冊命し、北漢主は名を旻と改めた。
  • 七月、北漢主は衞融らを契丹に遣わして冊礼を謝し、あわせて兵を請うた。八月、漢の隱帝を潁陵に葬った。

廣順元年九月〜十二月(951年・契丹の内乱と晉州の攻防)

  • 九月、北漢主が李存瓌に兵を率いさせ團栢から侵入させ、契丹も兵を出して合流しようとした。契丹主が九十九泉で酋長らと議したところ、諸部はみな南侵を望まなかったが、契丹主は強行した。ところが新州の西の火神淀に至ったところで、燕王述軋と偉王の子の太寧王漚僧が乱を起こして契丹主を弑し述軋を立てた。契丹主德光の子の齊王述律は南山へ逃げ、諸部が述律を奉じて述軋を攻めた。漚僧はこれを殺してその一族党与も除き、述律を帝に立てて應曆と改元した。述律は火神淀から幽州に入り、使者を北漢に告げた。北漢主は王得中を遣わして即位を賀し、また叔父として仕え、晉州を撃つための兵を請うた。契丹主は年少で遊戯を好み国事を顧みず、毎夜明け方まで飲んで寝て、日中にようやく起きたので、国人は「睡王」と呼んだ。のち名を明と改めた。
  • 十月、潞州巡検の陳思讓が虒亭で北漢兵を破った。
  • 契丹が蕭禹厥に奚と契丹の兵五万を率いさせて北漢兵と合流して侵入させ、北漢主も自ら二万を率いて陰地関から晉州を侵し、城北に軍して三面に寨を置き昼夜攻めた。遊兵は絳州にまで及んだ。当時、王晏は既に鎮を離れ、王彦超はまだ着いておらず、巡検使の王萬敢が晉州を代行し、史彦超・何徽と共に防いだ。
  • 十一月、帝は北漢と契丹の兵がなお晉州にあるため、王峻を行営都部署として救援に向かわせ、諸軍はみなその節度を受け、臨機の処置と将吏の自選を許した。帝は自ら城西まで見送った。
  • 王峻は陝州に十日留まった。帝は晉州が危ういと憂え、自ら澤州の道から出て峻と合流して救おうと議し、使者を送って峻に告げ、十二月には三日後に西征する詔を下した。使者が陝に着くと、峻は使者に託して帝に言上した――「晉州は城が堅く容易には抜けません。劉崇の兵鋒は今まさに鋭く力ずくで争うべきではありません。兵を駐めてその気の衰えるのを待っているので、臣が怯えているのではありません。陛下は即位されたばかりで軽々しく動かれるべきではありません。もし車馬が汜水を出れば、慕容彦超が兵を率いて汴に入り、大事は去ります」と。帝はこれを聞いて自ら耳を摘んで「危うく事を誤るところだった」と言い、親征を取りやめた。
  • 泰寧節度使の慕容彦超は徐州の平定を聞いて疑懼をいよいよ深め、亡命者を集め薪と糧を蓄え、密かに北漢と書を通じたが、吏がその書を得て報告した。また人を商人に化けさせて唐に援を求めた。帝が鄭好謙を遣わして慰諭し誓いを交わしたが、彦超はいよいよ落ち着かず、たびたび鄭麟を闕に遣わして偽りの誠意を示しながら実は機密を探らせた。また高行周の書を献じて、その文言がみな朝廷を謗り彦超と結ぼうとする意である、と言い立てた。帝は笑って「これは彦超の偽作だ」と言い、書を行周に見せ、行周は謝恩の表を上った。彦超の叛意はますます露わになり、帝は張凝に兵を率いさせて鄆州の巡検に備えさせた。
  • 王峻が絳州に至り、晉州へ向かった。晉州の南に蒙阬があり最も要害だったので、峻は北漢兵に押さえられることを憂えていたが、この日、前鋒が既に蒙阬を越えたと聞いて「吾が事は成った」と喜んだ。
  • 慕容彦超が入朝を願い出、帝はその偽りを知りながら許したが、彦超はすぐまた領内に盗が多いのでまだ鎮を離れられぬと言った。
  • 北漢主は晉州を長く攻めても落とせず、大雪に遭って民は山寨に立て籠もり、野に掠めるものもなく、軍は食に窮した。契丹兵も帰心が起き、王峻が蒙阬に至ったと聞いて営を焼いて夜逃げした。峻は晉州に入り、諸将が急追を請うたが、峻はためらって決しなかった。翌日ようやく仇弘超・藥元福・陳思讓・康延沼に騎兵で追わせ、霍邑で追いついて奮撃し、北漢兵は崖や谷に落ちて死ぬ者が多かった。霍邑の道は狭く、延沼が臆病で急追しなかったため北漢兵は越えることができた。藥元福は「劉崇は全軍を挙げ胡騎を伴って来て晉・絳を呑む志であった。今、気力が衰えて狼狽して逃げている。この機に打ち払わねば必ず後患となる」と言ったが、諸将は進もうとせず、王峻もまた使いを出して止めたので引き返した。契丹は晉陽に着くまでに人馬の三、四割を失い、蕭禹厥は功のないのを恥じて大酋長一人を市に釘づけにし、十日後に斬った。北漢主はこれ以来、進取の意を失った。北漢は土地が痩せ民は貧しく、内には軍国を養い外には契丹に貢ぐため賦役が重く、民は生きるすべもなく、周の領内へ逃げる者が多かった。

廣順二年(952年・慕容彦超の滅亡)

  • 正月、慕容彦超は郷兵を城に入れ、泗水を引いて壕に注ぎ、攻守の備えとした。また多くの旗幟を諸鎮の将に授け、群盗を募って隣境を掠奪させたので、各地からその反状が報告された。沂・密の二州を泰寧軍から外し、曹英を都部署、史延超を副、向訓を都監、藥元福を行営馬歩都虞候として彦超を討たせた。帝は元福が宿将であることから、英と訓に軍礼で会わせぬよう命じ、二人は元福を父のように遇した。
  • 唐主が五千を下邳に出して彦超を援けたが、周兵が来ると聞いて沭陽に退き屯した。徐州巡検使の張令彬が撃って大破し、殺したり溺死させたりした者は千余人、将の燕敬權を捕らえた。彦超は周が新造だから揺すぶりやすいと考え、北に北漢と契丹を招き、南に唐人を誘って辺境を侵させ、朝廷が奔命に暇なくなった隙に乗じて動くつもりだった。だが北漢と契丹が晉州から北へ走り、唐兵が沭陽で敗れて、彦超の勢いは挫けた。
  • 王峻が晉州から還って謁見した。曹英らが兖州に至って長い囲いを設け、慕容彦超がしばしば出撃したが藥元福がことごとく撃退したので、彦超は出られなくなった。十余日で囲いが完成し、進んで攻めた。
  • 彦超が叛こうとした当初、判官の崔周度が諫めた――「魯は詩書の国で、伯禽以来、諸侯に覇を唱えたことはありませんが、礼義で守ったので長く世を保てました。公は国家に私怨があるわけでもないのに、なぜ自ら疑われるのですか。まして主上は懇ろに諭しておられます。備えを撤して誠を帰せば、座して泰山の安きを享けられます。杜中令(重威)が襄陽を安んじたことや李河中(守貞)が結局何を成したか、ご覧になっていないのですか」と。彦超は怒り、周度が司馬の閻弘らを庇っていると称して市で斬った。
  • 四月、帝は曹英らが久しく兖州を落とせぬため親征の詔を下し、李穀に東京留守と開封府を、鄭仁誨に大内都點檢を、郭崇に在京都巡検を代行させた。
  • 五月、帝は大梁を発って兖州に至り、人をやって彦超に降伏を呼びかけさせたが、城上の者は不遜な言葉を返した。そこで諸軍に進攻を命じた。
  • これより先、術者が彦超を欺いて「鎮星が角・亢に至る。角・亢は兖州の分野であり、その下には福がある」と言ったので、彦超は祠を立てて祈り、民家にみな黄色の幡を立てさせた。彦超は貪吝な性で、官軍の攻撃が急でも珍宝を埋めて隠していたので、人々に闘志はなく、将卒が相次いで降った。官軍が城を落としたとき、彦超はちょうど鎮星の祠に祈っていたが、衆を率いて力戦して勝てず、鎮星の祠を焼いて妻とともに井戸に身を投げて死んだ。子の繼勲は逃げたが追い詰められて殺された。官軍は大掠奪を行い、城中の死者は一万近くに及んだ。顔衎に兖州の事を預け、泰寧軍を防禦州に降格した。

顯德元年正月〜三月(954年・高平の戦い)

  • 正月、帝(周太祖)が崩じ、晉王榮が即位した。
  • 北漢主は太祖の崩御を聞いて大いに喜び、大挙して侵入することを謀り、契丹に兵を請うた。二月、契丹は楊衮に一万余騎で晉陽へ赴かせ、北漢主は自ら三万を率い、白從暉を行軍都部署、張元徽を前鋒都指揮使として、契丹と共に團栢から潞州へ向かった。
  • 北漢兵が梁侯驛に屯すると、昭義節度使の李筠は穆令均に歩騎二千で迎え撃たせ、自らは大軍で太平驛に塁を構えた。張元徽は令均と戦って偽って敗走し、令均が追ったところ伏兵が起きて令均は殺され、士卒千余が捕斬された。筠は上黨へ逃げ帰って城に籠もった。筠はもと李榮といい、今上の名を避けて改めたものである。
  • 世宗は北漢主の入寇を聞いて自ら兵を率いて防ごうとした。群臣は「劉崇は平陽から逃げ帰って以来、勢いは縮こまり気は沮んでおり、自ら来ることはありますまい。陛下は即位されたばかりで山陵も間近、人心は揺れやすく、軽々しく動かれるべきではありません。将に命じて防がせるべきです」と口をそろえたが、帝は「崇は我が大喪につけこみ、朕が年少で新たに立ったのを侮り、天下を呑む心がある。これは必ず自ら来る。朕が行かぬわけにはいかぬ」と言った。馮道が強く争うと、帝は「昔、唐太宗は天下を定めるのに自ら出征しなかったことはない。朕がどうして安逸を貪れようか」と言った。道は「陛下が唐太宗になれるかどうかは存じませんが」と言い、帝が「我が兵力の強さをもってすれば、劉崇を破るのは山が卵を押し潰すようなものだ」と言うと、道は「陛下が山になれるかどうかは存じません」と言った。帝は不快になった。ただ王溥だけが出征を勧め、帝はこれに従った。
  • 三月、北漢が勝ちに乗じて潞州に迫った。苻彦卿に磁州の固鎮から北漢軍の背後へ出るよう詔し、郭崇を副とし、王彦超に晉州から東へ出て北漢軍を迎え撃たせ、韓通を副とした。また樊愛能・何徽・白重贊・史彦超・苻彦能に兵を率いて先に澤州へ向かわせ、何訓を監とした。
  • 帝は馮道に太祖の柩を山陵へ送らせ、鄭仁誨を東京留守として大梁を発ち、懷州に至った。帝が強行軍で急進しようとすると、控鶴都指揮使の趙晁が鄭好謙に「賊の勢いは今まさに盛んだ。持重して鋒を挫くべきだ」と私かに言い、好謙が帝に伝えた。帝は怒って「汝はどこからこんな言葉を得た。必ず人にそそのかされたのだ。その人を言えば生かす、でなければ必ず死だ」と言い、好謙が実を告げると、帝は晁と共に州の獄につないだ。
  • 帝は澤州を過ぎて州の東北に宿った。北漢主は帝の到着を知らず、潞州を攻めずに通り過ぎて南下し、その夕、高平の南に軍した。
  • 翌日、前鋒が北漢兵と遭遇して撃ち、北漢兵は退いた。帝は逃げられるのを慮って諸軍に急進を促した。北漢主は中軍を巴公原に布き、張元徽をその東、楊衮を西に置き、軍容はかなり厳整であった。当時、河陽節度使の劉詞の率いる後軍がまだ着いておらず、味方の心は危ぶんだが、帝の志気はいよいよ鋭かった。白重贊と李重進に左軍を率いて西に、樊愛能と何徽に右軍を率いて東に、向訓と史彦超に精騎を率いて中央に置き、張永德に禁兵で帝を衛らせた。帝は馬に甲を着けて自ら陣に臨み戦いを督した。
  • 北漢主は周軍の少ないのを見て契丹を呼んだことを悔い、諸将に「吾は漢軍だけで破れる。契丹など要らぬ。今日は周に勝つだけでなく、契丹を心服させることもできよう」と言い、諸将も同意した。楊衮は馬を進めて周軍を望んでから退いて北漢主に「手強い敵です。軽々しく進んではなりません」と言った。北漢主は髯を逆立てて「時を失ってはならぬ。公は黙って吾の戦いぶりを見ておられよ」と言い、衮は黙り込んで不快に思った。
  • 当時、東北の風が強かったが、にわかに南風に転じた。北漢の副樞密使の王延嗣が司天監の李義に北漢主へ「今こそ戦うべき時です」と言わせ、北漢主は従った。樞密直學士の王得中が馬にすがって「李義は斬るべきです。この風向きで、どうして我らを助けるものでしょうか」と諫めたが、北漢主は「吾の計は決した。書生は妄言するな、汝を斬るぞ」と言い、東軍に先に進めと指図した。
  • 張元徽が千騎で周の右軍を撃った。戦ってまもなく、樊愛能と何徽が騎兵を率いて先に逃げ、右軍は潰え、歩兵千余が甲を脱いで万歳を唱えて北漢に降った。帝は軍勢が危ういのを見て、自ら親兵を率いて矢石を冒して戦いを督した。
  • 太祖皇帝(趙匡胤)は当時、宿衛の将であり、同僚に「主上がこれほど危うい。我らが死力を尽くさずにいられようか」と言い、また張永德に「賊は気が驕っている、力戦すれば破れる。公の麾下には左手で射られる者が多い。兵を率いて高みに乗じて西へ出て左翼となられよ。私は兵を率いて右翼となって撃つ。国家の安危はこの一挙にある」と言った。永德は従い、それぞれ二千を率いて進み戦った。
  • 太祖皇帝が士卒に先んじて敵の鋒に突っ込み、士卒も死に物狂いで戦って一人が百人に当たらぬ者はなく、北漢兵は総崩れになった。内殿直の馬仁瑀は衆に「御輿を敵にさらして、我らを何に使うのか」と言い、馬を躍らせて弓を引き大声を上げ、続けざまに数十人を斃したので士気はさらに上がった。殿前右番行首の馬全乂も帝に「賊の勢いは極まりました、いずれ我らの擒です。陛下は轡を按じて動かず、諸将が破るのをご覧ください」と言い、数百騎で敵陣に突入した。
  • 北漢主は帝が自ら陣に臨んだと知り、張元徽を褒賞して勝ちに乗じて進ませた。元徽が前へ出て陣を掠めたところ馬が倒れ、周兵に殺された。元徽は北漢の驍将であり、北軍はこれで気を奪われた。折しも南風がいよいよ強く、周兵が争って奮い、北漢兵は大敗した。北漢主が自ら赤い旗を掲げて兵を収めようとしたが止められなかった。楊衮は周兵の強さを恐れて救わず、しかも北漢主の言葉を恨んで全軍を保って退いた。
  • 樊愛能と何徽は数千騎で南へ逃げ、弓に矢をつがえ刃を抜いて輜重を掠め、人夫は驚いて逃げ散り、失われた物は甚だ多かった。帝が近臣と親軍の校を遣わして諭し止めさせたが従わず、使者が軍士に殺されることもあり、「契丹が大挙して来た。官軍は敗れ、残りはもう虜に降った」と言いふらした。劉詞が道中で愛能らに会い、愛能らが止めたが詞は従わず北上した。当時、北漢主にはなお一万余の残兵があり、澗を隔てて陣していた。夕暮れに詞が着いて諸軍と共に撃ち、北漢兵はまた敗れ、王延嗣が殺された。高平まで追撃し、屍が山谷に満ち、捨てられた御物や輜重・器械・家畜は数え切れなかった。
  • この日、帝は野営し、歩兵で敵に降った者を捕らえてみな殺した。樊愛能らは周兵の大勝を聞いて士卒とともに少しずつ戻ってきたが、夜明けまで戻らぬ者もあった。
  • 帝は高平で兵を休め、北漢の降卒数千を選んで「效順指揮」とし、唐景思に率いさせて淮上を守らせ、残り二千余には旅費を与えて帰らせた。李穀は乱兵に逼られて山谷に隠れ、数日して出てきた。
  • 帝は潞州に至った。北漢主は高平から粗末な衣に笠をかぶり、契丹から贈られた黄騮に乗って百余騎で雕窠嶺から逃げ帰った。夜道に迷って村民を案内に雇ったが、誤って晉州の方へ百余里も進んでから気づき、案内人を殺した。昼夜北へ走り、着いた先で食を得ても箸を上げぬうちに「周兵が来た」と伝わってそのたび慌てて去った。北漢主は老いて力尽き、馬上に伏したまま昼夜駆けて支えきれぬほどであったが、かろうじて晉陽に入った。
  • 帝は樊愛能らを誅して軍政を粛正しようとしたが決しかねた。行宮の帳中で昼寝していたとき、傍らに侍していた張永德にこの件を尋ねた。永德は「愛能らはもとより大功もなく節鉞を忝くしながら、敵を望んで先に逃げました。死んでも責は塞げません。まして陛下がまさに四海を平定なさろうとしているのに、軍法が立たなければ、熊羆の士や百万の衆があっても、どうして用いられましょうか」と答えた。帝は枕を地に投げて大声で「よし」と称え、直ちに愛能・徽とその部下の軍使以上七十余人を捕らえ、「汝らはみな累朝の宿将で戦えぬわけではない。それが今、風を望んで逃げたのは他でもない、朕を珍しい商品として劉崇に売ろうとしたからだ」と責め、ことごとく斬った。帝は何徽が先に晉州を守った功を思って免じようとしたが、法は廃せぬとして共に誅し、ただ棺車を与えて帰葬させた。これ以来、驕った将と怠けた卒はようやく恐れを知り、姑息な政治は行われなくなった。
  • 高平の功を賞し、李重進・向訓・張永德・史彦超に鎮を加えた。張永德が太祖皇帝の智勇を盛んに称えたので、帝は太祖皇帝を殿前都虞候に抜擢し嚴州刺史を領させた。馬仁瑀を控鶴弓箭直指揮使、馬全乂を散指揮使とし、他にも数十人の将校が昇進し、士卒から軍廂を主る者に抜擢された者もあった。趙晁の囚を釈いた。
  • 北漢主は散った兵を収め、甲兵を修め城と堀を整えて周に備えた。楊衮は衆を率いて代州に屯した。北漢主は王得中に衮を送らせ、あわせて契丹に救いを求めた。契丹主は得中を帰して、兵を出して晉陽を救うと約した。

顯德元年三月〜十一月(954年・晉陽包囲と撤退)

  • 苻彦卿を河東行営都部署兼知太原行府事、郭崇を副、向訓を都監、李重進を馬歩都虞候、史彦超を先鋒都指揮使として歩騎二万で潞州を発たせ、王彦超と韓通には陰地関から入って彦卿と合流して進むよう詔した。また劉詞を随駕部署、白重贊を副とした。
  • 四月、北漢の盂縣が降り、苻彦卿は晉陽城下に軍した。王彦超が汾州を攻めると北漢の防禦使董希顔が降った。康延沼に遼州、田瓊に沁州を攻めさせたがいずれも思うに任せなかったところ、供備庫副使の李謙溥が単騎で遼州刺史の張漢超を説き、漢超は降った。
  • 太祖(郭威)を嵩陵に葬り、廟号を太祖とした。
  • 当初、帝が苻彦卿らを北征させたのは晉陽城下で兵威を示すためで、攻め取ることは議していなかった。ところが北漢の領内に入ると、その民が争って食物を持って周の軍を迎え、劉氏の賦役の重さを泣いて訴え、軍需を供して晉陽攻めを助けたいと願い、北漢の州県も相次いで降った。帝はこれを聞いて初めて併呑の志を抱き、使いを送って諸将と議させたが、諸将はみな「秣も糧も足りません、いったん班師して再挙を待つべきです」と言った。帝は聞き入れなかった。
  • やがて数十万の軍が太原城下に集まると、軍士の略奪は避けられず、北漢の民は失望して山谷に立て籠もり自衛した。帝はこれを聞いて詔を飛ばして略奪を禁じ農民を安撫し、今年の租税徴収を止め、粟を納めた民には官を授けることとし、澤・潞・晉・絳・慈・隰と山東の近い諸州の民に糧を運ばせた。李穀を太原へ遣わして秣と糧を計らせた。
  • 太師中書令の馮道が死んだ。道は若くして孝謹で知られ、唐の莊宗の代に顕貴となり、以後、代を重ねて将相・三公・三師の位を離れなかった。人となりは倹しく寛弘で、人はその喜怒を測れず、滑稽で智略に富み、浮沈しながら世に容れられた。かつて『長樂老叙』を著して歴朝の栄達ぶりを自ら述べ、当時の人はしばしばその徳量を推した。

史論(歐陽脩論曰)

  • 歐陽脩は、礼義廉恥は国の四維であり、これが張られなければ国は滅ぶという原則から馮道を裁く。礼義は人を治める大法、廉恥は人を立てる大節であり、大臣でありながら廉恥がなければ、天下が乱れず国家が亡びないはずがない。『長樂老叙』の自慢げな記述こそ、その無廉恥の証であり、そこから天下国家の有様も知れる、と断ずる。そのうえで、五代を通じて節を全うした士は三人、事に死んだ臣は十五人しか見出せず、しかもみな武人であったことに触れ、儒者に人がいなかったのではなく、高節の士が乱世を嫌って出仕を拒んだか、天下の君が顧みるに足らず招き得なかったのだろうかと問う。最後に、虢州司戸參軍の王凝が任地で病死したのち、貧しい妻の李氏が幼子を連れ夫の遺骨を負って帰る途中、開封の旅舎で宿を拒まれ、主人に腕を引かれて外へ出されると、天を仰いで慟哭し「女の身で節を守れず、この手を人に執られるとは」と言って斧で自らの腕を断った故事を挙げ、身を惜しまず恥を忍んで生き延びる士たちは、この一婦人の風を聞いて少しは恥じるべきだと結ぶ。

史論(臣光曰)

  • 司馬光も馮道を厳しく退ける。天地の位に則って聖人が礼を制し法を立て、内には夫婦、外には君臣の別を置いた。婦が夫に従って生涯改めず、臣が君に仕えて死んでも二心を抱かないのが人道の大倫であり、これを廃せばこれ以上の乱はない、というのが前提である。范質が馮道を「厚徳・稽古、宏才・偉量、朝代が移り変わっても人に非難されず、巨山のごとく動かなかった」と称えたのに対し、光は、正しい女は二夫に従わず忠臣は二君に仕えぬのであって、女として正しくなければ容色や機織りの巧みさがあっても賢とするに足りず、臣として忠でなければ才智や治績があっても貴ぶに足りない、大節が欠けているからだ、と反論する。道は宰相として五朝八姓に歴仕し、旅籠の主人が通り過ぎる客を見るように君主を眺め、朝の仇敵が暮れには君臣となっても、顔色も言葉も変えて恥じるところがなかった。この大節では、小さな善があっても称えるには足りない。
  • 「唐室の滅亡以来、群雄が争って帝王の興廃は長くて十余年、短ければ三、四年だった。忠智の者にも如何ともしがたく、臣節を失ったのは道一人ではない。道だけを責められようか」という弁護に対しては、こう答える。忠臣は公を我が家のように憂え、危うきを見れば命を投げ出し、君に過ちがあれば強く諫め、国が敗亡すれば節を尽くして死ぬ。智士は国に道があれば現れ、道がなければ隠れ、あるいは山林に跡を絶ち、あるいは下僚に甘んじる。ところが道は、尊寵では三師の首位、権任では諸相の筆頭にありながら、国が存すれば曖昧に手を拱いて位を盗み禄を無為に食み、国が亡べば身の安全を図って苟くも免れ、新しい君を迎えて勧進した。君主は興亡が相次いだのに、道だけは富貴のまま変わらなかった。これこそ姦臣の最たるもので、他の者と比べられるものではない、と。
  • さらに「道は乱世に身を全うし害を遠ざけられた、それも賢ではないか」という見方には、君子には殺身成仁はあっても生を求めて仁を害することはない、身を全うし害を遠ざけることだけを賢とできようか、それなら盗跖が天寿を全うし子路が醢にされたのは、いったいどちらが賢いのか、と切り返す。
  • 最後に、これは道一人の咎ではなく当時の君にも責がある、と付け加える。不正の女を中くらいの士でさえ妻にするのを恥じ、不忠の人を中くらいの君でさえ臣とするのを恥じる。前朝に仕えて、忠を言えば君に背いて仇に仕え、智を言えば社稷を廃墟にした者を、後の君が誅しも棄てもせず、また宰相に用いた。その者がどうして我に忠を尽くし、用に堪えようか、と。

顯德元年五月〜(954年・撤兵と北漢主の死)

  • 苻彦卿が、北漢の憲州刺史韓光愿と嵐州刺史郭言がいずれも城を挙げて降ったと奏した。王彦超と韓通が石州を落として刺史の安彦追を捕らえ、沁州刺史の李廷誨も降った。帝は潞州を発って晉陽へ向かい、北漢の忻州監軍の李勍が刺史の趙臯と契丹の通事楊耨姑を殺して城ごと降り、勍が忻州刺史とされた。
  • 五月、帝は晉陽の城下に至り、旗幟は城を巡って四十里に連なった。楊衮は北漢の代州防禦使の鄭處謙が周に通じていると疑い、軍議に呼んで謀ろうとしたが、處謙は察して行かなかった。衮が胡騎数十に城門を守らせると、處謙はこれを殺して門を閉じて衮を拒んだ。衮は契丹へ逃げ帰り、契丹主は功のないのを怒って囚えた。處謙は城ごと降り、代州に靜塞軍を置いて處謙を節度使とした。
  • 契丹数千騎が忻・代の間に屯して北漢を援けたので、苻彦卿らに歩騎一万余で撃たせた。彦卿が忻州に入ると契丹は忻口に退いた。汾州に寧化軍を置き、石・沁の二州を属させた。
  • 代州の将、桑珪と解文遇が鄭處謙を殺し、契丹と密通していたと誣告した。苻彦卿が増兵を請い、李筠と張永德に三千を率いて赴かせた。契丹の遊騎がしばしば忻州城下に至り、彦卿は諸将と陣を敷いて待った。史彦超が二千騎で先鋒となって契丹と戦い、李筠が続いて契丹二千を殺したが、彦超は勇を恃んで軽々しく進み、大軍から離れすぎて衆寡敵せず契丹に殺された。筠はかろうじて身一つで逃れ、周兵の死傷は甚だ多かった。彦卿は忻州に退き、まもなく晉陽へ引き返した。
  • 府州防禦使の折德扆が州の兵を率いて来朝し、府州に永安軍を再置して德扆を節度使とした。
  • 当時、東は懷・孟から西は蒲・陝に至るまで大いに兵と人夫を徴発して晉陽を攻めたが落とせず、長雨で士卒は疲れ病み、史彦超も死んだので、引き上げが議された。
  • 王得中は契丹から帰る途中、周兵が晉陽を囲んでいたため代州に留まっていたが、桑珪が鄭處謙を殺した際に囚えられて周軍に送られた。帝は釈放して自分の馬を賜り、「虜の兵はいつ来るのか」と尋ねた。得中は「臣は楊衮を送る命を受けただけで、他に求めることはありません」と答えた。ある者が「契丹は公に兵を出すと約したのに、公が実を告げず、契丹兵が来たら、公は危ういのでは」と言うと、得中は嘆息して「吾は劉氏の禄を食み、老母は囲みの中にいる。もし実を告げれば周人は必ず兵を出して険を押さえて拒む。そうなれば家も国も共に亡ぶ。吾一人が生きて何になろう。身を殺して家国を全うする方が得るものが多い」と言った。帝は得中が欺いたとして縊り殺した。
  • 帝は晉陽を発った。匡國節度使の藥元福が「進軍は易く、退軍は難しい」と言い、帝は「朕はひとえに卿に委ねる」と答えた。元福は兵を整えて隊列を組み殿軍を務めた。北漢は果たして兵を出して追尾したが、元福が撃退した。しかし撤退は慌ただしく、城下に置いた数十万の秣と糧はすべて焼き捨てられ、軍中は流言に驚き、互いに掠奪する者もあって、軍需の損失は数え切れなかった。得た北漢の州県も、周が置いた刺史らはみな城を捨てて逃げた。ただ代州の桑珪だけは、既に北漢に叛いた身で周にも帰れず、城に籠もって守ったが、北漢が兵を送って抜いた。
  • 帝は潞州・鄭州を経て嵩陵に詣で、大梁に至った。帝は衆議を退けて北漢を破って以来、政事は大小となくすべて自ら決し、百官は上の決定を受け取るだけになった。河南府推官の高錫が上書して諫めた――「四海の広さ、万機の多さは、堯舜でも一人では治められず、必ず人を択んで任せました。今、陛下がすべてを自ら行われると、天下は陛下の聡明睿智が百官の任を兼ねられるとは言わず、みな陛下が偏狭で疑い深く、群臣を一切信じないのだと言うでしょう。人を知り公正な者を宰相に、民を愛し訴訟を聴ける者を守令に、財を豊かにし食を足せる者に金穀を掌らせ、情を原ねて法を守れる者に刑獄を掌らせるのがよろしい。陛下はただ明堂に垂拱してその功過を見て賞罰されればよいのです。それで天下が治まらぬ心配がありましょうか。どうして君の尊さを下げて臣の職を代わり、貴い位を屈して賤しい事に自ら当たられるのか。政の本を失うことにはなりませんか」と。帝は従わなかった。
  • 北漢主は憂憤して病み、国事をすべて子の承鈞に委ねた。
  • 帝は高平で北漢主と対峙した際、李彦崇に江猪嶺を守らせて北漢主の帰路を塞がせていたが、彦崇は樊愛能らの南走を聞いて兵を退き、北漢主は果たしてその道から逃げた。八月、彦崇を率府副率に貶した。
  • 十一月、北漢主は病篤く、子の承鈞に監国させ、まもなく死んだ。契丹に喪を告げ、契丹は劉承訓を遣わして承鈞を帝に冊命し、承鈞は名を鈞と改めた。北漢の孝和帝は孝謹な性で、位を継ぐと政に励み、民を愛し士を礼し、領内はどうにか安定した。契丹主への表ではつねに「男」と称し、契丹主は詔で「兒皇帝」と呼んだ。

顯德三年四月(956年・世祖の埋葬)

  • 北漢は神武帝(劉旻)を交城の北山に葬り、廟号を世祖とした。