通鑑紀事本末後晋の石氏、唐を簒奪する(石晉簒唐)
後唐の潞王李従珂と河東節度使石敬瑭が互いを猜疑し、ついに決裂するまでの経緯。李従珂は敬瑭を河東に還したものの疑いを深め、呂琦・李崧の契丹和親策は薛文遇の反対で潰える。清泰三年(後晉天福元年、936年)、帝が敬瑭を天平節度使へ移そうとすると、劉知遠・桑維翰の勧めで敬瑭は挙兵を決意し、契丹を頼む方針を固めた。張敬達が晉安郷に営を構え、安審信・安元信・安重栄らが晉陽へ奔る。
年表(3件)
- 後唐潞王
- 清泰元年(・石敬瑭を河東に還す)934年李従珂が石敬瑭をあらためて河東節度使とする
- 清泰二年(・猜疑の深まり)935年張敬達を北面行営副総管として代州に屯させ敬瑭の権を分ける
- 後晉高祖
- 天福元年(・和親策の挫折と反目)936年敬瑭を天平節度使に移す制が出て挙兵に至る
後唐潞王清泰元年(934年・石敬瑭を河東に還す)
- 帝(潞王・李従珂)と石敬瑭はいずれも勇力と事に長けたことで知られ、明宗に左右として仕えたが、心では競い合ってもとより互いに好んでいなかった。
- 帝が即位すると、敬瑭はやむを得ず入朝した。山陵が終わっても帰ることを言い出せなかった。
- 当時、敬瑭は長く病んで痩せ衰えており、太后と魏国公主がたびたびそのために口添えした。鳳翔の旧将佐の多くは帝に留め置くよう勧めたが、韓昭胤と李専美だけは、趙延寿が汴にいるのだから敬瑭を猜疑すべきでないとした。帝も敬瑭の骨と皮ばかりの姿を見て憂えず、「石郎は近しい親戚であるだけでなく、若いころから私と艱難をともにした。今、私が天子となった以上、石郎でなければ誰に託そう」と言い、あらためて河東節度使とした。
清泰二年(935年・猜疑の深まり)
- 夏六月、河東節度使・北面総管の石敬瑭は鎮へ還ると、ひそかに自全の計を立てた。
- 帝は外事を尋ねるのを好み、常に端明殿学士の李専美、翰林学士の李崧、知制誥の呂琦・薛文遇、翰林天文の趙延乂らを中興殿の庭で交代で宿直させ、語り合って夜半に及ぶこともあった。
- 当時、敬瑭の二子は内使であり、曹太后は晉国長公主の母だった。敬瑭は太后の左右に賂を贈って帝の密謀を窺わせ、事の大小を問わずすべて知っていた。
- 敬瑭は賓客の前でしばしば自ら痩せ衰えて帥には堪えないと言い、朝廷に忌まれぬことを願った。
- 当時、契丹はしばしば北辺を侵し、禁軍の多くは幽・并にあった。敬瑭と趙徳鈞は兵の増派と糧の輸送を求めて朝夕引きも切らなかった。
- 甲申、詔で河東の蓄えある者から菽粟を借り上げた。乙酉、詔で鎮州に絹五万匹を総管府へ納めさせて軍糧を買い、鎮・冀の人の車千五百乗を徴発して代州へ糧を運ばせ、さらに詔で魏博に買い付けさせた。当時は水旱で民は飢えていたが、敬瑭は使者を送って厳しく督促した。山東の民は流散し、乱の兆しがここに始まった。
- 敬瑭が大軍を率いて忻州に屯したとき、朝廷が使者を送って軍士に夏衣を賜い、詔を伝えて撫諭した。軍士が万歳を呼ぶこと数度に及び、敬瑭は恐れた。幕僚で河内の段希堯が唱え出した者を誅すよう請い、敬瑭は都押衙の劉知遠に命じて挟馬都将の李暉ら三十六人を斬って晒させた。希堯は懐州の人である。帝はこれを聞いていっそう敬瑭を疑った。
- 秋七月乙巳、武寧節度使の張敬達を北面行営副総管として兵を率いて代州に屯させ、石敬瑭の権を分けた。
後晉高祖天福元年(936年・和親策の挫折と反目)
- 春正月癸丑、唐主は千春節にあたって酒宴を設けた。晉国長公主が寿を上げて終わり、晉陽へ帰ることを告げると、帝は酔って「なぜしばらく留まらぬ。急いで帰るのは石郎と反しようというのか」と言った。石敬瑭はこれを聞いていっそう恐れた。
- 三月、石敬瑭は洛陽および諸道にある自分の財貨をことごとく集めて晉陽へ送り、軍費の助けにすると言い訳した。人は皆その異志を知った。
- 唐主は夜に近臣とくつろいで語った。「石郎は朕にとって至親であり疑うべきところはない。ただ流言がやまぬ。万一、和を失ったらどう解けばよいか」。皆答えなかった。
- 端明殿学士・給事中の李崧は退いて同僚の呂琦に言った。「我らは深く恩を受けている。どうして衆人と同じに一様に様子を窺っていられよう。どんな計があるか」。
- 呂琦が言った。「河東にもし異謀があれば、必ず契丹を結んで後援とします。契丹の母は贊華が中国にいるためたびたび和親を求めております。ただ萴剌らを求めて得られぬので和が成らぬだけです。今、まことに萴剌らを帰して和を結び、毎年、礼幣として十余万緡ほどを贈れば、彼は必ず喜んで命を承けましょう。そうすれば河東が跳梁しようとしても何もできません」。
- 崧は「それが私の志だ。ただし銭穀はみな三司から出る。張相とも謀るべきだ」と言い、張延朗に告げた。延朗は「学士の計なら、河東を制せるだけでなく辺境の費も十分の九を省ける。これに勝る計はない。もし主上が聴き従われるなら、老夫に用意を責められよ。庫財のほかからかき集めて供したい」と言った。
- 別の夕、二人が密かに帝に言うと、帝は大いに喜んでその忠を称え、二人はひそかに契丹への書を草して命を待った。
- しばらくして帝はその謀を樞密直学士の薛文遇に告げた。文遇は答えた。「天子の尊をもって身を屈して夷狄に仕えるのは、辱めではありませんか。しかも虜がもし先例に倣って公主を娶ることを求めたら、何と言って拒まれますか」。そのうえで戎昱の昭君詩の「安危を婦人に託す」の句を誦した。帝の意はこれで変わった。
- ある日、帝は急ぎ崧と琦を後楼に召し、大いに怒って責めた。「卿らは皆、古今に通じ、人主を佐けて太平を致そうというのに、今こんな謀をなすのか。朕の娘はまだ乳臭い。卿らはこれを沙漠に棄てようというのか。しかも士を養う財を虜の庭へ送るとは、その意はどこにある」。
- 二人は恐れて汗が背を浸し、「臣らの志は愚を尽くして国に報いることにあり、虜のために計ったのではありません。陛下、お察しください」と言い、幾度も拝謝した。帝は罵り責めてやまなかった。
- 呂琦は息が切れて拝礼を少し止めた。帝が「呂琦は強情だ。朕を人主と見ているのか」と言うと、琦は「臣らの謀が善くなかったのです。陛下はその罪を治められればよい。多く拝して何になりましょう」と言った。帝の怒りはやや解け、拝礼をやめさせ、それぞれに巵酒を賜って退がらせた。以後、群臣はあえて和親の策を口にしなくなった。丁巳、琦を御史中丞とした。疎んじたのである。
- はじめ石敬瑭は唐主の意を試そうとして、たびたび表して自ら病弱を述べ、兵権を解いて他鎮へ移ることを乞うた。帝は執政と議してその請を容れ、鄆州へ移そうとした。房暠・李崧・呂琦らは皆力を尽くして不可と諫め、帝は長く迷った。
- 五月庚寅の夜、李崧は急用で外におり、薛文遇だけが宿直していた。帝が河東の事を議すると、文遇は言った。「諺に『道端に家を建てれば三年たっても成らぬ』と申します。この事は聖旨で断ぜられるべきです。群臣はそれぞれ我が身のために謀り、どうして言を尽くしましょう。臣の見るところ、河東は移しても反し、移さなくても反します。旦暮のうちのことです。事に先んじて図るに如くはありません」。
- これに先立ち術者が、国家は今年、賢佐を得て奇謀を出し天下を定めるだろうと言っていた。帝は文遇こそそれだと考え、その言を聞いて大いに喜んだ。「卿の言は殊にわが意を開いた。成敗は私が決して行う」。ただちに人事の案を作らせて学士院に付し、制を草させた。
- 辛卯、敬瑭を天平節度使とし、馬軍都指揮使・河陽節度使の宋審虔を河東節度使とした。制が出ると、両班は敬瑭の名を呼ぶのを聞いて顔を見合わせて色を失った。甲午、建雄節度使の張敬達を西北蕃漢馬歩都部署とし、敬瑭に鄆州へ赴くよう促した。
- 敬瑭は疑い恐れて将佐に諮った。「私が二度目に河東へ来たとき、主上は面と向かって終身、代わりを任じぬと許された。今にわかにこの命がある。今年の千春節に公主に言われたことのせいではないか。私が乱を起こすのではなく朝廷が起こすのだ。どうして手を束ねて道中で死ねようか。今はひとまず表を出して病と称し、その意を見よう。私を寛くしてくれるなら私は仕えよう。私に手を加えるなら、私も図を改めるまでだ」。
- 幕僚の段希堯は極言して拒んだが、敬瑭はその朴直さゆえに責めなかった。節度判官で華陰の趙瑩は鄆州へ赴くよう勧め、観察判官で平遥の薛融は「融は書生で軍旅に習っておりません」と言った。
- 都押牙の劉知遠は言った。「明公は長く兵を将いて士卒の心を得ておられます。今、形勝の地に拠り、士馬は精強です。兵を挙げて檄を伝えれば帝業は成せます。どうして一枚の制書のために自ら虎口に飛び込まれるのか」。
- 掌書記で洛陽の桑維翰は言った。「主上が即位した当初、明公は入朝されました。主上とて、蛟龍を深淵に放ってはならぬことを知らぬはずがありません。それでもついに河東をあらためて公に授けたのは、天が公に利器を貸したのです。明宗の遺愛は人に残っており、主上は庶孽の身で代わったので群情は付いておりません。公は明宗の愛婿です。今、主上は反逆者として遇しております。頭を下げて謝って免れるものではありません。ただ力を尽くして自全の計を立てるべきです。契丹主はかねて明宗と兄弟の約を結んでおり、今、部落は雲・応の近くにあります。公がまことに心を推し節を屈して仕えられれば、万一急があっても朝に呼べば夕に至ります。何を成らぬと憂えましょう」。敬瑭の意はここで決した。
- これに先立ち朝廷は敬瑭を疑い、羽林将軍で宝鼎の楊彦詢を北京副留守としていた。敬瑭は事を挙げるにあたり彦詢にも実情を告げた。彦詢は「河東の兵糧がどれほどか存じません。朝廷に敵し得ますか」と言った。左右が彦詢を殺すよう請うと、敬瑭は「副使一人ぐらい私が自ら保証する。おまえたちは言うな」と言った。
- 戊戌、昭義節度使の皇甫立が敬瑭の反を奏した。敬瑭は表して、帝は養子であって祀を承けるべきでないとし、位を許王に伝えるよう請うた。帝は手ずからその表を裂いて地に投げ、詔で答えた。「卿は鄂王にとってもとより疎遠ではない。衛州の事は天下がみな知っている。許王を担ぐ言など、誰が信じよう」。
- 壬寅、制で敬瑭の官爵を削奪した。乙巳、張敬達に太原四面排陣使を兼ねさせ、河陽節度使の張彦琪を馬歩軍都指揮使、安国節度使の安審琦を馬軍都指揮使、保義節度使の相里金を歩軍都指揮使、右監門上将軍の武廷翰を壕寨使とした。
- 丙午、張敬達を太原四面兵馬都部署、義武節度使の楊光遠をその副部署とした。丁未、さらに張敬達に太原行府事を知らせ、前彰武節度使の高行周を太原四面招撫排陣等使とした。光遠が出発すると定州で軍が乱れ、牙将で千乗の方太が討ち平らげた。
- 張敬達は兵三万を率いて晉安郷に営した。戊申、敬達が、西北先鋒馬軍都指揮使の安審信が叛いて晉陽へ奔ったと奏した。審信は金全の弟の子で、敬瑭と旧交があった。
- これに先立ち雄義都指揮使で馬邑の安元信は部下六百余人を率いて代州を戍っていた。代州刺史の張朗はよく遇していた。元信が密かに朗に「私の見るところ石令公は長者だ。事を挙げれば必ず成る。公はひそかに人をやって意を通じ、自ら全うされてはどうか」と説いたが、朗は従わず、これで互いに猜疑した。元信は朗を殺そうと謀ったが果たせず、その衆を率いて審信のもとへ奔った。審信はそこで麾下数百騎を率い、元信とともに百井を掠めて晉陽へ奔った。
- 敬瑭が元信に「そなたは何の利害を見て強きを捨て弱きに帰したのか」と問うと、答えた。「元信は星を知り気を識るわけではありません。ただ人事で決したまでです。およそ帝王が天下を御するのに信より重いものはありません。今、主上は令公に大信を失われました。親しく貴い者すら自ら保てぬのに、まして疎く賤しい者はどうでしょう。その亡ぶのは足を上げるほどの間に待てます。どこが強いのですか」。敬瑭は喜んで軍事を委ねた。
- 振武西北巡検使の安重栄は代北を戍っていたが、歩騎五百を率いて晉陽へ奔った。重栄は朔州の人である。
- 宋審虔を寧国軍節度使として侍衛馬軍都指揮使に充てた。