通鑑紀事本末孟知祥、蜀に拠る(孟知祥據蜀)
後唐の西川節度使・孟知祥が蜀に拠る志を抱いて軍備を整え、監軍の李厳を斬って朝廷と隔たり、安重誨が閬州に節鎮を置いて圧迫したことから東川の董璋と結んで挙兵する。石敬瑭の討伐軍を剣州で退けたのち董璋と決裂し、これを撃ち破って両川を併せ、蜀王を経て皇帝に即位、没後は子の孟昶が立つ。926年から935年まで。
年表(8件)
- 後唐明宗
- 天成元年(・軍備の増強)926年孟知祥が蜀に拠る志を抱いて諸営を増置し、趙季良を留めて副使とする
- 天成二年(・李厳を斬る)927年西川都監として来た李厳を責めて斬り、口勅を偽ったと誣奏する
- 天成三年〜四年(928-・朝廷との軋轢)929年閬州に保寧軍を置いて李仁矩を鎮させ、圧迫を恐れた董璋が孟知祥と婚を結ぶ
- 長興元年(・両川の挙兵)930年董璋が閬州を落として李仁矩を殺し、孟知祥も遂州を攻めて両川が挙兵する
- 長興元年冬(・剣門の攻防)930年石敬瑭が剣門を落とすが剣州で趙廷隠・李肇に敗れ、安重誨が自ら督戦に向かう
- 長興二年(・唐軍の撤退と両川の割拠)931年遂州が陥ちて夏魯奇が自殺し、石敬瑭は営を焼いて北へ帰り、両川が利州・夔州を得る
- 長興三年(・董璋の敗死と両川の統一)932年董璋が成都を襲って鶏踪橋で大敗し梓州で斬られ、孟知祥が東川を兼領する
- 長興四年〜潞王
- 清泰二年(933-・蜀王から皇帝へ)935年孟知祥が蜀王に冊立されたのち成都で帝位に即き、没して子の昶が継ぐ
後唐明宗天成元年(926年・軍備の増強)
- 秋七月、孟知祥はひそかに蜀に拠る志を抱き、庫を調べて鎧甲二十万を得た。左右牙などの兵十六営、あわせて一万六千人を置き、牙城の内外に営させた。
- はじめ郭崇韜は蜀の騎兵を左右驍鋭など六営、計三千人に分け、歩兵を左右寧遠など二十営、計二万四千人に分けていた。
- 八月、孟知祥は左右衝山など六営、計六千人を増置して羅城の内外に営させ、さらに義寧など二十営、計一万六千人を置いて管内の州県に分けて戍らせ現地で食わせた。また左右牢城の四営、計四千人を置いて成都境内に分け戍らせた。
- 秋九月壬戌、孟知祥は左右飛棹兵六営、計六千人を置き、長江沿いの諸州に分け戍らせて水戦を習わせ、夔峡に備えた。
- はじめ魏王・継岌と郭崇韜は蜀中の富民から犒賞銭五百万緡を出させ、金銀・繒帛での納入も認め、昼夜督責したため自殺する者もあった。軍に給した残りがなお二百万緡あった。
- ここに至って任圜が三司を判じ、成都の富饒を知って、塩鉄判官・太僕卿の趙季良を孟知祥への官告国信兼三川都制置転運使として遣わした。
- 冬十月、季良が成都に至った。蜀人はすべて渡すまいとしたが、知祥は「府庫は他人が集めたものだ。送ってよい。だが州県の租税は鎮兵十万を養うためのもの。決して渡せぬ」と言った。季良はただ庫の物を出させただけで、あえて制置転運の職務を口にできなかった。
- 安重誨は、知祥と東川節度使の董璋がいずれも険要に拠って強兵を擁しているので、長引けば制しにくくなると恐れた。しかも知祥は荘宗の近い姻戚だったので、ひそかに図ろうとした。客省使・泗州防禦使の李厳が自ら西川監軍となることを請い、必ず知祥を制せると言った。己酉、厳を西川都監、文思使で太原の朱弘昭を東川副使とした。
- 李厳の母は賢明で、厳に「おまえは先に蜀を滅ぼす謀を開いた。今日また行けば、必ず死で蜀人に報いることになろう」と言った。
天成二年(927年・李厳を斬る)
- 春正月、孟知祥は李厳が来てその軍を監すると聞いて憎んだ。奏して止めるよう請う者もあったが、知祥は「その必要はない。私には迎える手立てがある」と言い、吏を綿・剣へ送って出迎えさせた。
- 折しも武信節度使の李紹文が没した。知祥は、かつて密詔で便宜従事を許されていると自ら言い、壬戌、西川節度副使・内外馬歩都指揮使の李敬周を遂川留後として急ぎ道に就かせ、そのうえで表で報告した。
- 厳は先に使者を成都へ送った。知祥は自分が厳に旧恩があるので、恐れて自ら引き返すことを期待し、甲兵を盛んに並べて示した。だが厳は意に介さなかった。
- 孟知祥は李厳をきわめて厚く礼遇した。ある日、厳が知祥に謁すると、知祥は言った。「公は先に王衍への使いから帰って兵を出して蜀を伐つよう請うた。荘宗は公の言を用い、ついに両国ともに亡ぶに至った。今また公が来て蜀人は恐れている。しかも天下はみな監軍を廃したのに、公だけが来てわが軍を監するのはなぜか」。
- 厳は恐れおののいて哀れみを求めたが、知祥は「衆の怒りは抑えられぬ」と言い、そのまま引き下ろして斬った。
- さらに左廂馬歩都虞候の丁知俊を召した。知俊が大いに恐れると、知祥は厳の屍を指して「昔、厳が使いに立ったときそなたはその副だった。ならば旧友だ。私のために葬ってやれ」と言った。
- そこで「厳は口勅と偽って『臣に代わって闕へ赴かせる』と宣し、また将士への優賞を勝手に許しました。臣はただちに誅しました」と誣奏した。
- 内八作使の楊令芝は用事で蜀に入り、鹿頭関に至って厳の死を聞いて逃げ帰った。朱弘昭も東川でこれを聞いて恐れ、洛陽へ帰ろうと謀った。折しも軍事があって董璋が彼を入奏させたので、弘昭は偽って辞退したうえで発ち、これで難を免れた。
- 三月、帝は客省使の李仁矩を西川へ遣わし、詔を伝えて孟知祥と吏民を安んじ諭した。甲戌、成都に至った。
- これに先立ち孟知祥は牙内指揮使で文水の武漳を送って、妻の瓊華長公主と子の仁贊を晉陽へ迎えに行かせた。鳳翔に至ると李従曮が知祥の李厳殺害を聞いて止め、朝廷に報じた。帝は蜀へ帰ることを許し、丙申、成都に至った。
- 塩鉄判官の趙季良は孟知祥と旧交があり、知祥は季良を留めて副使とすることを奏した。朝廷はやむを得ず、四月、季良を西川節度副使とした。李昊が蜀に帰り、知祥は観察推官とした。
天成三年〜四年(928-929年・朝廷との軋轢)
- 三年春三月、孟知祥はしばしば董璋と塩の利を争った。璋が商旅を誘って東川の塩を西川へ売り込ませたので、知祥は憂えて漢州に三つの場を置いて重く課税し、年に銭七万緡を得た。商旅はもはや東川へ行かなくなった。
- これに先立ち詔で西川の兵を発して夔州を戍らせることになり、孟知祥は左粛辺指揮使の毛重威に三千人を率いさせて派遣した。まもなく知祥は夔・忠・万の三州はすでに平定したとして、戍兵を召し還して糧運を省くことを奏したが、帝は許さなかった。知祥はひそかに人をやって誘い、重威はその衆を率いて喊声を上げて逃げ帰った。帝がその罪を調べさせると、知祥が請うて免じた。
- 四年夏五月、帝は南郊を祀ろうとして客省使の李仁矩に詔を持たせて両川に諭し、西川に銭百万緡を献じさせようとした。いずれも軍用不足を理由に辞し、西川は五十万緡、東川は十万緡を献じた。
- 仁矩は帝が藩鎮にいたころの客将で、安重誨に厚遇されており、恩を恃んで驕慢だった。梓州に至ると董璋が宴を設けて招いたが、日中になっても行かず、妓を抱いて酣飲していた。璋は怒り、従卒が兵を執って駅に押し入り、仁矩を階下に立たせて罵った。「公は西川が李客省を斬ったとだけ聞いて、私にはできぬとでも思うのか」。仁矩は涙を流して拝して請い、辛うじて免れた。その後、仁矩に厚く賂を贈って謝した。仁矩は帰って璋の不法を訴えた。
- まもなく帝はあらためて通事舎人の李彦珣を東川へ遣わしたが、境に入って小さな非礼があり、璋はその従者を拘えた。彦珣は逃げ帰った。
- 秋九月、東川を戍っていた鄜州の兵が本道へ帰るとき、董璋は勝手にその壮健な者を留め、痩せて老いた者を選んで帰し、そのうえ甲兵を没収した。
- 冬十月辛亥、閬・果の二州を割いて保寧軍を置き、壬子、内客省使の李仁矩を節度使とした。
- これに先立ち西川は常に芻糧を出して峡路へ送っていたが、孟知祥は本道の兵が多くて他鎮に供しがたいと辞した。詔は許さずしばしば督促したが、甲寅、知祥は財力が乏しいとして詔に従わないと奏した。
- 十二月、安重誨は李仁矩を閬州に鎮させると、綿州刺史の武虔裕とともに兵を率いて赴任させた。虔裕は帝の旧吏で、重誨の外従兄である。重誨は仁矩に董璋の反状を探らせ、仁矩は誇張して奏した。朝廷はさらに武信節度使の夏魯奇に遂州の城隍を修め甲兵を整えさせ、兵を増して戍らせた。璋は大いに恐れた。
- 当時、綿・龍を割いて節鎮とするとの噂が流れ、孟知祥も恐れた。璋はもとより知祥と隙があって音信を通じたことがなかったが、ここに至って使者を成都へ送り、その子に知祥の娘を娶らせたいと請うた。知祥は許し、力を合わせて朝廷に抗することを謀った。
長興元年(930年・両川の挙兵)
- 春正月、董璋が兵を送って剣門に七つの寨を築いた。辛巳、孟知祥は趙季良を梓州へ送って修好した。
- 二月乙未朔、趙季良が成都へ帰り、孟知祥に「董公は貪欲・残忍で勝ちを好み、志は大きいが謀は浅い。ついには西川の患いとなりましょう」と言った。
- 都指揮使の李仁罕と張業が宴を設けて知祥を招こうとした。二日前に、二将が宴の日に知祥を害そうと謀っていると告げる尼があった。知祥が問い詰めたが証拠はなかった。丁酉、言い出した軍校の都延昌・王行本を突き止めて腰斬した。戊戌、宴に赴くにあたり左右をすべて退けて単身で仁罕の邸へ行った。仁罕は叩頭して涙を流し、「老兵はただ死を尽くして徳に報いるのみです」と言った。これで諸将は皆親しみ従い服した。
- 壬子、孟知祥と董璋がともに上表し、両川では朝廷が閬中に節を建て、綿・遂に兵を増したと聞いて憂え恐れぬ者がないと言った。上は詔書で慰め諭した。
- 董璋は綿州刺史の武虔裕が自分の動きを窺うことを恐れ、夏四月甲午朔、行軍司馬を兼ねさせると表して府廷に囚えた。戊戌、孟知祥に中書令を兼ねさせた。
- 五月、董璋は民兵を閲して集め、いずれも髪を切り顔に入れ墨した。さらに剣門の北に永定関を置き、烽火を並べた。
- 孟知祥はたびたび表して雲安など十三の塩監を西川に隷させ、塩の代価で寧江の屯兵を養うことを請うた。辛卯、許された。董璋は兵を送って遂・閬の鎮戍を掠めた。
- 秋七月戊辰、両川は朝廷が続けて兵を送って遂・閬に屯させたので、あらためて論奏した。以後、東北の商旅であえて蜀に入る者は少なくなった。
- 董璋の子・光業は宮苑使として洛陽にいた。璋は書を送った。「朝廷はわが支郡を割いて節鎮とし、兵三千を屯させた。これは私を殺すつもりだ。おまえは枢要に会って私のためにこう言え。もし朝廷がさらに一騎でも斜谷に入れたら、私は必ず反する。おまえとはこれで訣別だ」。光業は書を枢密承旨の李虔徽に示した。
- まもなく朝廷はさらに別将の荀咸に兵を率いさせて閬州を戍らせた。光業は虔徽に「この兵が着く前に父は必ず反します。私は身を惜しむのではなく、朝廷に調発の煩いをかけることを恐れます。この兵を止めていただきたい。父は他意なきことを保証します」と言った。虔徽が安重誨に告げたが、重誨は従わなかった。
- 璋はこれを聞いてついに利・閬・遂の三鎮に反すると報じ、あわせて、すでに兵を集めて三鎮を攻めようとしていると言った。重誨は「臣はかねてこうなると知っておりました。陛下が寛容にして討たれなかったからです」と言い、帝は「私が人に背いたのではない。人が私に背いたなら討つ」と言った。
- 九月癸亥、西川進奏官の蘇愿が孟知祥に、朝廷が大挙して兵を発し両川を討とうとしていると告げた。知祥は副使の趙季良に諮った。季良は「東川に先に遂・閬を取らせ、そのうえで兵を併せて剣門を守れば、大軍が来ても内を顧みる憂いはありません」と言い、知祥は従った。
- 使者を送って董璋に同時挙兵を約した。璋は利・閬・遂の三鎮に檄を移してその朝廷への離間ぶりを数え上げ、兵を率いて閬州を撃った。
- 庚午、知祥は都指揮使の李仁罕を行営都部署、漢州刺史の趙廷隠をその副、簡州刺史の張業を先鋒都指揮使とし、兵三万で遂州を攻めさせた。別将の牙内都指揮使・侯弘実を先登、指揮使の孟思恭に兵四千を率いさせて璋と会して閬州を攻めさせた。
- 東川の兵が閬州に至ると、諸将は皆「董璋は長く反謀を蓄え、金帛で士卒を釣っております。鋭気は当たるべからず。溝を深くし塁を高くしてくじくべきです。十日もせず大軍が至れば賊は自ら走りましょう」と言った。だが李仁矩は「蜀兵は懦弱だ。どうしてわが精卒に当たれよう」と言って出戦し、兵は交える前に潰えて帰った。董璋が昼夜攻め、庚辰、城は陥ちた。仁矩は殺され、その一族は滅ぼされた。
- はじめ璋が梁の将だったころ、指揮使の姚洪はその麾下にいた。ここに至って洪は千人を率いて閬州を戍っていた。璋が密書で誘うと、洪は厠に投げ捨てた。城が陥ちると璋は洪を捕えて責めた。「私はそなたを行間から引き立てた。今日、なぜ背く」。
- 洪は答えた。「老賊め、おまえは昔、李氏の奴として馬糞を掃き、肉の一片をもらって恩に感じきれぬ身だった。今、天子はおまえを用いて節度使とした。何がおまえに背いたのか。それで反するのだ。おまえこそ天子に背いている。私がおまえから何の恩を受けて背いたというのか。おまえは奴の器量でもとより取るに足らぬ。私は義士だ。どうしておまえのすることに堪えられよう。私はむしろ天子のために死ぬ。人の奴と並んで生きることはできぬ」。
- 璋は怒って前で鑊を煮え立たせ、壮士十人にその肉を切り取らせて自ら食わせた。洪は死ぬまで罵り声をやめなかった。帝は洪の二子を近衛に置き、その家に厚く給した。
- 丙戌、制を下して董璋の官爵を削り、兵を起こして討った。丁亥、孟知祥に西南面供饋使を兼ねさせ、天雄節度使の石敬瑭を東川行営都招討使、夏魯奇をその副とした。
- 璋は孟思恭に兵を分けて集州を攻めさせたが、思恭は軽率に進んで敗れて帰った。璋は怒って成都へ送り返し、知祥はその官を免じた。
- 戊子、石敬瑭に東川の事を権知させた。庚寅、右武衛上将軍の王思同を西都留守兼行営馬歩都虞候として伐蜀の前鋒とした。
長興元年冬(930年・剣門の攻防)
- 冬十月癸巳、李仁罕が遂州を囲み、夏魯奇は城に拠って固守した。孟知祥は都押牙の高敬柔に資州の義軍二万を率いさせて長城を築いて囲ませた。魯奇が馬軍都指揮使の康文通を出戦させたが、文通は閬州の陥落を聞いてその衆を率いて仁罕に降った。
- 戊戌、董璋が兵を率いて利州へ向かったが、雨に遭って糧運が続かず閬州へ還った。知祥はこれを聞いて驚き、「閬中を破ったのはまさにまっすぐ利州を取るためだ。その帥は武でないから必ず風を望んで逃げ去る。その倉廩を得て漫天の険に拠れば、北軍はついに西へ行って武信を救えぬ。今、董公は僻遠の閬州にいて剣閣を遠く棄てた。策ではない」と言い、兵三千を送って剣門を守らせようとしたが、璋は固辞して「ここはすでに備えがある」と言った。
- 丁未、董光業の一族が誅された。
- 孟知祥は旧蜀の鎮江節度使・張武を峡路行営招収討伐使として水軍を率いて夔州へ向かわせ、左飛棹指揮使の袁彦超をその副とした。癸丑、東川の兵が徴・合・巴・蓬・果の五州を陥れた。
- 十一月戊辰、張武が渝州に至り、刺史の張環が降った。そのまま瀘州を取り、先鋒将の朱偓に兵を分けて黔・涪へ向かわせた。
- 石敬瑭が散関に入った。階州刺史の王弘贄、温州刺史の馮暉は前鋒馬歩都虞候の王思同、歩軍都指揮使の趙在礼とともに兵を率いて人頭山の後ろから出て剣門の南を過ぎ、引き返して剣門を襲い、壬申、これを落とした。東川兵三千を殺し、都指揮使の斉彦温を捕え、拠って守った。暉は魏州の人である。
- 甲戌、弘贄らが剣州を破ったが、大軍が続かないので、その廬舎を焼き資糧を取って剣門へ還って保った。乙亥、詔で孟知祥の官爵を削った。
- 己卯、董璋が成都へ使者を送って急を告げた。知祥は剣門の失陥を聞いて大いに恐れ、「董公はやはり私を誤らせた」と言った。庚辰、牙内都指揮使の李肇に兵五千を率いて赴かせ、「道を倍して行き、先に剣州に拠れ。北軍は何もできまい」と戒めた。
- また使者を遂州へ送って趙廷隠に一万を率いて剣州に会屯させ、さらに旧蜀の永平節度使・李筠に兵四千を率いて龍州へ向かい要害を守らせた。当時は寒く士卒は恐れて様子を窺い進まなかった。廷隠は涙を流して諭した。「今、北軍の勢は盛んだ。そなたらが力戦して敵を退けねば、妻子はみな人のものになるぞ」。衆心はここで奮い立った。
- 董璋は閬州から両川の兵を率いて木馬寨に屯した。
- これに先立ち西川の牙内指揮使で太谷の龐福誠と昭信指揮使の謝鍠が来蘇村に屯していた。剣門の失陥を聞いて互いに「北軍がさらに剣州を得たら二蜀の勢は危うい」と言い、急ぎ部兵千余人を率いて間道から剣州へ向かった。着いたとたん官軍万余人が北山から大挙して下ってきた。日暮れに二人は謀った。「衆寡敵せぬ。夜が明ければ我らは皆殺しだ」。
- 福誠が夜に数百の兵を率いて北山に登り、官軍の営の後ろで大いに喊声を上げ、鍠が残りの衆を率いて短兵で正面から急撃した。官軍は大いに驚き、営を空けて逃げ去り、あらためて剣門を保って十余日出なかった。
- 孟知祥はこれを聞いて喜んだ。「私ははじめ、弘贄らが剣門を落としてまっすぐ剣州に拠りその城を堅守するか、あるいは兵を率いて梓州へ直行するかと思った。そうなれば董公は必ず閬州を棄てて逃げ帰り、わが軍は援を失って遂州の囲みも解かねばならぬ。内外に敵を受けて両川は震動し、勢いは危うくなるところだった。ところが剣州を焼き払って糧を運んで東へ帰り、剣門に兵を止めて進まぬ。わが事は成った」。
- 官軍は道を分けて文州へ向かい龍州を襲おうとしたが、西川の定遠指揮使・潘福超と義勝都頭で太原の沙延祚に敗られた。
- 甲申、張武が渝州で没し、知祥は袁彦超に代わってその兵を将いさせた。朱偓が涪州に近づくと、武泰節度使の楊漢賓は黔南を棄てて忠州へ逃げた。偓は豊都まで追って還り、涪州を取った。知祥は成都支使の崔善を武泰留後とした。
- 董璋は前陵州刺史の王暉に兵三千を率いさせて李肇らと会し、剣州の南山に分屯させた。
- 十二月壬辰、石敬瑭が剣門に至り、乙未、進んで剣州の北山に屯した。趙廷隠は牙城の後ろの山に陣し、李肇と王暉は河橋に陣した。敬瑭が歩兵を率いて廷隠を撃つと、廷隠は射手五百人を選んで敬瑭の帰路に伏せ、甲を按じて待った。矛や矟が触れ合おうとしたところで旗を揚げ喊声を上げて撃ち、北軍は退いて走り、転がり落ちて山を下った。俘斬は百余人。敬瑭はさらに騎兵に河橋を衝かせたが、李肇が強弩で射て騎兵は進めなかった。
- 薄暮、敬瑭は兵を引いて去り、廷隠が追尾して伏兵と合わせて撃ち破った。敬瑭は剣門に還って屯した。
- 石敬瑭は蜀を征しても功がなく、軍前から来る使者の多くが道は険しく狭く進軍がはなはだ難しいと言った。関右の人は輸送に疲れ、しばしば山谷に隠れて集まって盗賊となった。上は憂え、壬子、近臣に「誰か私の事を成せる者はいるか。私が自ら行くほかないか」と言った。
- 安重誨は「臣は機密の職に忝なくおりながら軍威が振るいません。臣の罪です。臣が自ら行って督戦したい」と請い、上は許した。重誨はただちに拝辞し、癸丑、出発して日に数百里を馳せた。西方の藩鎮はこれを聞いて惶駭せぬ者がなく、銭帛・芻糧を昼夜運んで利州へ送り、山谷で斃れる人畜は数えきれなかった。
- 当時、上はすでに重誨を疎んじていた。石敬瑭はもともと西征したくなかったので、重誨が上の側を離れると、ようやくたびたび表を上って蜀は伐つべきでないと論じ、上もかなりもっともと思った。
- 先に夔州を戍っていた西川の兵千五百を、上はことごとく放って帰らせた。
長興二年(931年・唐軍の撤退と両川の割拠)
- 春正月壬戌、孟知祥が表を奉って謝した。庚午、李仁罕が遂州を陥れ、夏魯奇は自殺した。
- 癸酉、石敬瑭があらためて兵を率いて剣州に至り北山に屯した。孟知祥が夏魯奇の首を晒して見せた。魯奇の二子は敬瑭に従って軍中にあり、泣いてその首を取って葬りたいと請うた。敬瑭は「知祥は長者だ。必ずそなたらの父を葬るだろう。身と首が離れたままよりよかろう」と言い、果たして知祥は収めて葬った。敬瑭は趙廷隠と戦って利あらず、あらためて剣門へ還った。
- 鳳翔節度使の朱弘昭が、安重誨は怨望しており行営へ至らせてはならぬと奏し、また石敬瑭に書を送って迎えて止めさせた。敬瑭も、重誨が至れば人情に変が生じることを恐れると上言した。宣徽使の孟漢瓊も重誨の過悪を言い、詔で召し還された。
- 二月己丑朔、石敬瑭は遂・閬がすでに陥ちて糧運が続かないので、営を焼いて北へ帰った。軍前からその旨が孟知祥に告げられた。知祥はその書を隠して趙季良に「北軍がしだいに進んでくる。どうしよう」と言った。季良は「綿州より先へは行かず必ず逃げます」と言い、知祥が理由を問うと、「我は逸で彼は労。彼は千里に軍を懸けて糧が尽きた。逃げずにおれましょうか」と答えた。知祥は大笑して書を見せた。
- 両川の兵が石敬瑭を追って利州に至った。壬辰、昭武節度使の李彦琦は城を棄てて走り、甲午、両川の兵が利州に入った。孟知祥は趙廷隠を昭武留後とした。
- 廷隠は使者を送って知祥に密かに言った。「董璋は詐りが多く、憂いはともにできても楽しみはともにできません。いずれ必ず公の患いとなります。剣州へ来て軍を労うのに乗じて図られたい。両川の衆を併せれば天下に志を得られます」。知祥は許さなかった。璋は廷隠の営に入って泊まって去った。廷隠は嘆じて「わが謀に従われなかった。禍難はまだ終わらぬ」と言った。
- 庚子、孟知祥は武信留後の李仁罕を峡路行営詔討使とし、水軍を率いて東へ地を略させた。
- 乙巳、趙廷隠と李肇が剣州から引き揚げ、兵五千を残して利州を戍らせた。丙午、董璋も東川へ還り、兵三千を残して果・閬を戍らせた。
- 丁巳、李仁罕が忠州を陥れた。三月己未朔、万州を陥れ、庚申、雲安監を陥れた。李仁罕が夔州に至ると、寧江節度使の安崇阮は鎮を棄てて楊漢賓とともに均・房から逃げ帰った。壬戌、仁罕が夔州を陥れた。
- 夏四月己酉、天雄節度使・同平章事の石敬瑭に六軍諸衛副使を兼ねさせた。
- 五月己亥、詔を下し、重誨が孟知祥・董璋・銭鏐を離間したことを重誨の罪とした。
- 丙午、帝は西川進奏官の蘇愿と東川軍将の劉澄をそれぞれ本道へ帰らせ、安重誨が専断で兵を興して討たせたが、今すでに罪に伏したと諭させた。
- 冬十一月癸巳、蘇愿が成都に至った。孟知祥は朝廷にいる甥や姪がみな無事と聞き、使者を送って董璋に、ともに上表して謝罪したいと告げた。璋は怒って「孟公の親戚はみな無事だから帰附するのがよかろう。璋はすでに族滅されている。今さら何を謝すのか。詔書はすべて蘇愿の腹の中だ。劉澄がどうして関与できよう。璋がそれを知らぬとでも思うのか」と言った。これで二人はふたたび怨敵となった。
- 乙未、李仁罕が夔州から兵を率いて成都へ還った。
- 十二月、昭武留後の趙廷隠が孟知祥に、利州の城と塹はすでに完成したこと、先に剣州で牙内都指揮使の李肇と功をともにしたことを告げ、昭武を肇に譲りたいと願った。知祥は褒め諭して許さなかったが、廷隠が三度譲ったので、癸酉、廷隠を成都へ召し還して肇を代えた。
長興三年(932年・董璋の敗死と両川の統一)
- 春正月、孟知祥は朝廷の恩意が優厚なのに、董璋が綿州の路を塞いで使者を入朝させて謝させないので、節度副使の趙季良らと謀って峡江から使者を出して上表しようとした。掌書記の李昊は「公が東川と謀らず単独で使者を送れば、いずれ約に背いた責めはこちらにかかります」と言った。そこであらためて使者を送って告げたが、璋は従わなかった。
- 二月、趙季良は諸将と議して、昭武都監で太原の高彦儔に兵を率いて壁州を攻め取らせ、山南の兵が山後の諸州へ入るのを絶とうとした。孟知祥が僚佐に諮ると、李昊が言った。「朝廷は蘇愿らを西へ帰らせたのに、まだ返礼していません。今、兵を送って侵せば、公がもし墳墓と甥姪を顧みぬというなら、いっそ檄を伝えて兵を挙げまっすぐ梁・洋を取ればよい。壁州など何になりましょう」。知祥はやめた。季良はこれで昊を憎んだ。
- 孟知祥は三度使者を送って董璋を説き、主上が両川に礼を加えられたのだから、表を奉って謝罪せねば再び討伐を招くと言ったが、璋は従わなかった。三月辛丑、李昊を梓州へ遣わして利害を極論させた。璋は昊に会うと罵り怒って許さなかった。昊は帰って知祥に「璋は謀議に応じません。しかも西川を窺う志があります。公は備えられるべきです」と言った。
- 夏四月、東川節度使の董璋が会議して成都を襲うことを謀ると、皆「必ず落とせます」と言った。前陵州刺史の王暉は「剣南は万里、成都が最大です。今は盛夏、師を出す名分もありません。必ず成功しません」と言ったが、璋は従わなかった。
- 孟知祥はこれを聞いて馬軍都指揮使の潘仁嗣に三千人を率いて漢州へ行って探らせた。璋は境に入って白楊林鎮を破り、戍将の武弘礼を捕え、声勢はきわめて盛んだった。知祥は憂えた。
- 趙季良が言った。「璋は勇はあるが恩がなく、士卒は懐きません。城を守れば落としにくいが、野戦なら擒にできます。今、巣穴を守らぬのは公の利です。璋の用兵では精鋭はみな前鋒にあります。公は弱兵で誘い、勁兵で待つべきです。はじめは小敗しても後には必ず大捷します。璋はかねて威名があり、今、兵を挙げてにわかに至って人心は危懼しております。公は自ら出て防ぎ、衆心を強められるべきです」。
- 趙廷隠も季良の言をもっともとし、「璋は軽率で謀がない。兵を挙げても必ず敗れる。公のために擒にしましょう」と言った。辛巳、廷隠を行営馬歩軍都部署として三万を率いて拒ませた。
- 五月壬午朔、廷隠が入って辞したところへ董璋の檄書が至り、あわせて季良・廷隠・李肇へ宛てた書があり、「季良と廷隠は自分と通謀し、自分を招いて来させた」と誣していた。知祥が書を廷隠に渡すと、廷隠は見ずに地に投げ、「反間にすぎません。公に副使と廷隠を殺させようというだけです」と言い、再拝して発った。知祥は「事は必ず成る」と言った。
- 肇はもともと字が読めず、見せられて「璋は私に反せと教えているのだ」と言い、その使者を囚えた。それでも衆を擁して自全の計を立てた。
- 璋の兵が漢州に至り、潘仁嗣は赤水で戦って大敗し、璋に捕えられた。璋はそのまま漢州を落とした。
- 癸未、知祥は趙季良と高敬柔を残して成都を守らせ、自ら兵八千を率いて漢州へ向かい、弥牟鎮に至った。趙廷隠は鎮の北に陣した。
- 甲申の夜明け、廷隠は鶏踪橋に陣し、義勝定遠都知兵馬使の張公鐸がその後ろに陣した。まもなく璋は西川の兵の盛んなのを望み見て退いて武侯廟の下に陣した。璋の帳下の驍卒が大いに喊いて「日中に我らを晒して何になる。なぜ速やかに戦わぬ」と言い、璋はそこで馬に乗った。
- 前鋒が交わり始めると、東川の右廂馬歩都指揮使・張守進が知祥に降り、「璋の兵はこれだけで後続はありません。急ぎ撃つべきです」と言った。知祥は高い塚に登って督戦した。
- 左明義指揮使の毛重威と左衝山指揮使の李瑭が鶏踪橋を守ってともに東川兵に殺された。趙廷隠は三戦して利あらず、牙内都指揮副使の侯弘実の兵も退いた。知祥は恐れて馬鞭で後陣を指した。張公鐸が衆を率いて大呼して進むと、東川の兵は大敗し、死者は数千人。東川の中都指揮使・元璝、牙内副指揮使・董光演ら八十余人を捕えた。
- 璋は胸を打って「親兵はみな尽きた。私は何に頼ればよい」と言い、数騎で逃げ去った。残る七千人は降り、潘仁嗣も取り戻した。知祥は兵を率いて璋を五侯津まで追い、東川馬歩都指揮使の元瓌が降った。西川の兵が漢州の府第に入って璋を探したが見つからず、士卒が璋の軍資を争ったので、璋は走って免れた。趙廷隠は赤水まで追い、さらにその卒三千人を降した。
- この夕、知祥は雒県に宿し、李昊に東川の吏民への榜文を草させ、また璋を労問する書も草させ、梓州へ行って約に背いた理由を問い、討たれるべき罪を問うと言わせた。
- 乙酉、知祥は赤水で廷隠と会し、そのまま西へ還り、廷隠に兵を率いて梓州を攻めさせた。
- 璋は梓州に至り、輿に担がれて入った。王暉が迎えて「太尉は全軍で出征されたのに、今、帰った者は十人もいない。どうしたことか」と問うたが、璋は涙を流して答えられなかった。府第に至って食事をしていると、暉と璋の甥で牙内都虞候の延浩が兵三百を率いて大いに喊いて入った。
- 璋は妻子を連れて城に登り、子の光嗣は自殺した。璋は北門の楼に至って指揮使の潘稠を呼んで乱兵を討たせようとしたが、稠は十人の兵を率いて城に登り、璋の首を斬り、あわせて光嗣の首を取って王暉に渡した。暉は城を挙げて迎え降った。趙廷隠が梓州に入り、府庫を封じて知祥を待った。李肇は璋の敗北を聞いてようやくその使者を斬って報告した。
- 丙戌、知祥が成都に入った。丁亥、あらためて兵八千を率いて梓州へ向かい、新都に至ると趙廷隠が董璋の首を献じた。己丑、玄武を発ち、趙廷隠が東川の将吏を率いて迎えた。
- 壬辰、孟知祥が病み、癸巳、危篤となった。中門副使の王処回が左右に侍り、料理人が食事を出せば必ず器を空にして出させて衆心を安んじた。
- 李仁罕が遂州から来ると、趙廷隠が板橋で迎えた。仁罕は東川の功を称えず廷隠を侮り、廷隠は大いに怒った。
- 乙未、知祥の病が癒え、丁酉、梓州に入った。戊戌、将士を犒賞し終えて、知祥は李仁罕と趙廷隠に「二将のどちらがここを鎮すべきか」と言った。仁罕は「令公がふたたび蜀州をくださるなら行きましょう」と言い、廷隠は答えなかった。知祥は愕然として退き、李昊に牒を草させ、二将のどちらかが推す者があればその一人を留後とせよと命じた。
- 昊は「昔、梁祖も荘宗もみな四鎮を兼領されました。今、二将が譲らぬのですから、公が自ら領されるのが便宜です。公は速やかに府へ還り、あらためて趙僕射と議されるべきです」と言った。
- 孟知祥は李仁罕を遂州へ帰らせ、趙廷隠を東川巡検として留め、李昊に梓州の軍府事を代行させようとした。昊は「二虎がまさに争っております。僕はあえて命を受けられません。公に従って還りたい」と言い、都押牙の王彦銖を東川監押とした。
- 癸卯、知祥が成都に至り、趙廷隠もまもなく兵を率いて西へ還った。知祥は李昊に「私は東川を得たが、患いはいっそう深い」と言った。昊が理由を問うと、「私が梓州を発ってから仁罕の書状を七通得た。いずれも『公が自ら東川を領されるべきです。さもなくば諸将は服しません』とある。廷隠は、もともと東川を引き受けるつもりはなかったが、仁罕が譲らなかったので争心が生じたと言う。君は私のために廷隠に諭せ。あらためて閬州を保寧軍とし、果・蓬・渠・開の四州を加えて鎮させる。私は自ら東川を領して仁罕の望みを絶つ」と言った。
- 廷隠はなお不平で、仁罕と闘って勝った者が東川を得たいと請うたが、昊がよく解きほぐしてようやく命を受けた。六月、廷隠を保寧留後とした。戊午、趙季良が将吏を率いて知祥に東川を兼鎮するよう請い、許された。季良らはさらに知祥に王を称して制書を代行し功臣を賞するよう請うたが、許さなかった。
- 董璋が兵を起こして知祥を攻めたとき、山南西道節度使の王思同が報告した。范延光は上に「もし両川が一人の賊に併せられ、衆を撫して険を守れば、取るのはいっそう難しくなります。争っているうちに早く図るべきです」と言い、上は思同に興元の兵で密かに進取を図らせた。
- まもなく璋の敗死を聞くと、延光は言った。「知祥は蜀全体に拠りましたが、士卒はみな東方の人です。知祥は彼らが帰郷を思って変を起こすことを恐れ、朝廷の重みに頼ってその衆を威圧しようとしております。陛下が意を屈して撫されねば、彼は自ら新たにする道がありません」。
- 上は「知祥はわが旧友だ。人に離間されてここに至った。何の屈意があろう」と言い、供奉官の李存瓌を遣わして知祥に詔を賜った。「董璋は狐狼のごとくで自ら族滅を招いた。卿の丘園と親戚は皆安全に保たれている。家世の美名を成し、君臣の大節を守るべきである」。存瓌は克寧の子で、知祥の甥である。
- 秋七月庚寅、李存瓌が成都に至り、孟知祥は拝して泣いて詔を受けた。乙未、知祥は存瓌を帰らせ、表を上って謝罪し、あわせて福慶公主の喪を告げた。以後ふたたび藩を称したが、驕り高ぶりはいっそう増した。
- 八月甲子、孟知祥は李昊に武泰の趙季良ら五留後のために表を草させ、知祥を蜀王として墨制を行わせることを請い、なお自ら旌節を求めさせた。昊は言った。「近ごろ諸将は方鎮を攻め取ってその地を有しております。今また自ら朝廷の節鉞と明公の封爵を求めれば、軽重の権はみな群下にあることになります。明公が自ら請われても構わぬではありませんか」。
- 知祥は大いに悟り、あらためて昊に自分のために表を草させ、墨制を行って両川の刺史以下を補任することを請い、また表して季良ら五留後を節度使とすることを請うた。
- はじめ安重誨が両川を図ろうとして以来、知祥が李厳を殺してからは、刺史を任じるたびに東の兵で護送させ、小州でも五百人を下らず、夏魯奇・李仁矩・武虔裕はそれぞれ数千人で、いずれも牙隊の名目だった。知祥が遂・閬・利・夔・黔・梓の六鎮を落とすと、得た東兵はおよそ三万人にのぼった。朝廷が召し還すことを恐れ、表してその妻子を求めた。
- 九月、孟知祥は子の仁贊に行軍司馬を代行させ、両川の牙内馬歩都軍事を都総轄させた。
- 冬十月己酉朔、帝はあらためて李存瓌を成都へ遣わし、およそ剣南は節度使・刺史以下の官まで知祥に任命させ、事後に奏聞させることとし、朝廷はもはや人を任じないこととした。ただ戍兵の妻子は送らなかったが、その兵も召し還さなくなった。
長興四年〜潞王清泰二年(933-935年・蜀王から皇帝へ)
- 四年春二月、孟知祥は墨制で趙季良らを五鎮の節度使とした。癸亥、孟知祥を東西川節度使・蜀王とした。
- 秋七月、盧文紀と呂琦を蜀王冊礼使とし、あわせて蜀王に一品の朝服を賜った。知祥は自ら九旒の冕と九章の衣を作り、車服・旌旗はみな王者に擬した。八月乙巳朔、文紀らが成都に至り、戊申、知祥は袞冕を着けて儀衛を整えて駅へ行き、階を降りて北面して冊を受け、玉輅に乗り、府門に至って歩輦に乗り換えて帰った。文紀は簡求の孫である。
- 冬十二月、孟知祥は明宗の崩御を聞いて僚佐に「宋王は柔弱で、政をとる者はみな胥吏の小人だ。その乱は座して待てる」と言った。
- 潞王清泰元年閏正月、蜀の将吏が蜀王・知祥に帝を称するよう勧め、己巳、知祥は成都で皇帝の位に即いた。
- 二月癸酉、蜀主は武泰節度使の趙季良を司空兼門下侍郎・同平章事とし、節度使はそのまま領させた。蜀主は中門使の王処回を樞密使とした。
- 秋七月、蜀主は風疾を病んで一年を越え、ここに至って悪化した。甲子、子の東川節度使・同平章事・親衛馬歩都指揮使の仁贊を太子として監国させ、司空・同平章事の趙季良、武信節度使の李仁罕、保寧節度使の趙廷隠、樞密使の王処回、捧聖控鶴都指揮使の張公鐸、奉鑾粛衛指揮副使の侯弘実を召して遺詔を受けて輔政させた。
- この夕、蜀主が没した。秘して喪を発せず、王処回は夜に義興門を開いて趙季良に告げ、泣きやまなかった。季良は正色して「今、強将が兵を握って専ら時変を窺っております。速やかに嗣君を立てて覬覦を絶つべきです。どうして泣き合っているだけでよいのですか」と言った。処回は涙を収めて謝した。
- 季良は処回に、李仁罕に会ってその言葉つきを見極めたうえで告げよと教えた。処回が仁罕の邸に至ると、仁罕は備えを構えて出てきたので、実を告げなかった。
- 丙寅、遺制を宣し、太子の仁贊に昶と改名させた。丁卯、皇帝の位に即いた。
- 冬十二月甲申、蜀は文武聖徳英烈明孝皇帝を和陵に葬り、廟号を高祖とした。
- 二年春二月戊寅、蜀主は母の李氏を尊んで皇太后とした。太后は太原の人で、もと荘宗の後宮であり、蜀の高祖に賜わったものである。