通鑑紀事本末契丹の侵入(契丹入冦)

耶律阿保機が八部を併せて契丹を統一し、皇帝を称して韓延徽を謀主に国制を整え、盧文進を得て幽州以北を荒らすまでと、晋王・李存勖が幽州の囲みを解き新城・望都でこれを破ったこと、阿保機の死後に述律后が次子・徳光を立てたこと、王都の叛乱に呼応した契丹軍が王晏球・趙徳鈞に大敗するまで。907年から932年まで。

年表(11件)

後梁太祖開平元年(907年・契丹の勃興と晉王との盟約)

  • 夏五月、契丹が臣の袍笏梅老を送って通好し、帝は太府少卿の高頎を返礼に遣わした。
  • はじめ契丹には八部があり、部ごとに大人がいて、互いに約して一人を推して王とし、旗鼓を立てて諸部に号令した。三年ごとに順に交代する定めだった。咸通の末に習爾という者が王となって領域が大きくなり、その後は欽徳が王となって中原の多難に乗じてしばしば辺境を侵した。
  • 阿保機が王となるとひときわ雄勇で、五姓の奚、七姓の室韋、達靼をいずれも役属させた。阿保機は邪律氏で、その強さを恃んで交代を受け入れようとしなかった。
  • しばらくして阿保機が黄頭室韋を撃って帰る途中、七部が国境で待ち構え、約束どおりにせよと迫った。阿保機はやむなく旗鼓を渡したが、「私は王となって九年、漢人を多く得た。一族を率いて古漢城に住み、漢人とともに守って別に一部をなしたい」と言い、七部はこれを許した。漢城は旧後魏の滑塩県で、土地は五穀に適し塩池の利があった。
  • その後、阿保機はしだいに兵で七部を撃ち滅ぼし、あらためて併せて一国とした。さらに北は室韋・女真を侵し、西は突厥の故地を取り、奚を撃ち滅ぼした。奚王をあらためて立てたうえで契丹にその兵を監督させた。東北の諸夷は皆これを畏れ服した。
  • この年、阿保機は三十万の衆を率いて雲州に侵入した。晉王(李克用)は和を結び、東城で対面して兄弟の約を結び、帳中に招いて酒を尽くし手を握って歓を尽くし、この冬にともに梁を撃つと約した。
  • 晉王に「来たところを捕えられます」と勧める者があったが、王は「仇敵をまだ滅ぼさぬうちに夷狄に信を失うのは、自ら亡びる道だ」と言った。阿保機は十日ほど留まって去り、晉王は金と絹数万を贈り、阿保機は馬三千匹と雑畜万を報いに残した。
  • だが阿保機は帰ると盟に背いて梁に付いた。晉王はこれを恨んだ。

後梁太祖開平二年(908年・冊命の要求)

  • 夏五月己丑、契丹王の阿保機が使者を高頎に随行させて入貢し、あわせて冊命を求めた。帝はあらためて司農卿の渾特を遣わして手詔を賜い、ともに沙陀を滅ぼしたうえで封冊を行うと約した。

均王貞明二年(916年・皇帝を称し韓延徽を得る)

  • はじめ燕の人々は劉守光の残虐に苦しみ、軍士の多くが逃げて契丹へ帰した。守光が幽州で囲まれると、その北辺の士民も多く契丹に掠奪され、契丹は日ごとに強大になった。
  • 契丹王の阿保機は自ら皇帝と称し、国人はこれを天皇王と呼んだ。妻の述律氏を皇后とし、百官を置いた。ここに至って神冊と改元した。
  • 述律后は勇敢果断で権謀に富み、阿保機が兵を用い衆を御するにあたって常にその謀に加わった。かつて阿保機が砂漠を越えて党項を撃つ折、述律后を残して帳を守らせた。黄頭・臭泊の二室韋が虚に乗じて兵を合わせて掠めようとしたが、后は察知して兵を整えて待ち、来たところを奮撃して大破した。これで名は諸夷に響いた。
  • 述律后には母と姑がいたが、いずれも榻に踞したまま后の拝を受けさせ、后は「私は天を拝むだけで人は拝さぬ」と言った。
  • 晉王はまさに河北を経営しており、契丹を結んで後援としたく、常に阿保機に叔父の礼、述律后に叔母の礼で仕えた。
  • 劉守光は末年に衰え困り、参軍の韓延徽を契丹へ送って援を求めた。契丹主は延徽が拝礼しないことに怒り、留めて野で馬を牧させた。延徽は幽州の人で智略があり、文章もかなり書けた。述律后が契丹主に「延徽は節を守って屈しません。今の世の賢者です。牧夫として辱めてどうします。礼遇して用いるべきです」と言った。
  • 契丹主は延徽を召して語り、喜んでそのまま謀主とし、事あるごとに諮った。延徽は契丹に、牙を建てて府を開き、城郭を築き市里を立てて漢人を住まわせ、それぞれに配偶を得させて荒田を開墾させることを教えた。これで漢人はそれぞれ生業に安んじ、逃亡する者は減った。契丹が諸国を威服させたのには延徽の助けがあった。
  • まもなく延徽は晉陽へ逃げた。晉王は幕府に置こうとしたが、掌書記の王緘が憎んだ。延徽は身の危うさを感じ、東へ帰って母を見舞いたいと請い、真定を通って同郷の王徳明の家に泊まった。
  • 徳明が行き先を問うと、延徽は「今、河北はすべて晉のもの。やはり契丹へ行くべきだ」と答えた。徳明が「叛いてまた行けば、死を招きませんか」と言うと、延徽は「彼は私が去ってから手や目を失ったようなもの。今行けば手も目も元通りになる。どうして私を害そうか」と言った。母を見舞ってからそのまま契丹へ入った。
  • 契丹主は到着を聞いて大いに喜び、天から降ってきたかのようにその背を撫でて「先にはどこへ行っていた」と問うた。延徽が「母を思い、帰参を告げても許されぬかと恐れて、私かに帰りました」と答えると、契丹主はいっそう厚遇した。帝を称すると延徽を相とし、累進して中書令に至った。
  • 晉王が契丹へ使者を送ったとき、延徽は晉王に書を託した。「英主を慕わぬのではなく、故郷を思わぬのでもありません。留まらなかったのは、まさに王緘の讒言を恐れたからです」。あわせて老母を託した。「延徽がここにいるかぎり、契丹は必ず南へ牧しません」。同光の世を通じて契丹が深く侵入して寇をなさなかったのは延徽の力である。

貞明三年(917年・幽州の攻防)

  • 晉王は弟の威塞軍防禦使・存矩に募兵させた。存矩は五百騎を得て自ら送り、青州の盧文進を裨将とした。兵が叛いて存矩を殺し、文進はその衆を率いて契丹へ奔った。
  • はじめ幽州の北七百里に渝関があり、その下に海に通じる渝水があった。関の東北は海沿いに道があり、狭いところはわずか数尺、傍らはみな乱山で高く険しく越えられない。進牛口に至るまでかつて八つの防禦軍を置き、土兵を募って守らせた。田租はすべて軍食に充て、薊には納めなかった。幽州は毎年、絹と綿を送って戦士の衣に供した。毎年早く収穫して野を清め壁を固めて契丹を待ち、契丹が来れば壁を閉じて戦わず、去るのを待って驍勇を選び険を扼して迎え撃った。契丹は常に失利して走った。土兵はみな自分の田園のために力戦し、功があれば勲を賜い賞を加えられた。これで契丹はあえて軽々しく侵入できなかった。
  • ところが周徳威が盧龍節度使となると、勇を恃んで辺備を修めず、ついに渝関の険を失った。契丹はいつも営州・平州の間で放牧するようになった。徳威はさらに幽州の名のある旧将を忌んで、しばしば殺した。
  • 呉王が使者を送って契丹主に猛火油を贈り、「城を攻めるのにこの油で火を放てば楼櫓を焼けます。敵が水を注げば火はいっそう熾んになります」と言った。契丹主は大いに喜び、ただちに三万騎を選んで幽州を攻めようとした。
  • 述律后は嘲笑して「油を試すために一国を攻めるものですか」と言い、帳前の樹を指して「この樹の皮を剥いだら生きられますか」と問うた。契丹主が「無理だ」と言うと、后は「幽州城も同じことです。私はただ三千騎をその傍らに伏せて四野を掠め、城中に食がなくなるようにするだけです。数年もせず城は自ら困るでしょう。どうしてこんなに急いで軽挙する必要がありますか。万一勝てなければ中国の笑い者になり、我らの部落も解体します」と言い、契丹主はやめた。
  • 三月、盧文進が契丹兵を率いて新州を急攻した。刺史の安金全は守れず城を棄てて走り、文進は部将の劉殷を刺史として守らせた。晉王は周徳威に河東と鎮定の兵を合わせて攻めさせたが、十日たっても落とせなかった。契丹主が三十万の衆を率いて救援し、徳威は衆寡敵せず契丹に大敗して逃げ帰った。
  • 契丹は勝ちに乗じて進み、幽州を囲んで百万の衆と称した。氈車と毳幕が山沢に満ちた。盧文進が攻城を教え、地道を掘って昼夜四面から進んだ。城中は地下を掘って油を燃やして迎え撃った。契丹はまた土山を築いて城に迫り、城中は銅を熔かして注ぎ、日に千を数えるほど殺したが攻撃はやまなかった。
  • 周徳威は間使を晉王のもとへ送って急を告げた。王はちょうど梁と河上で対峙しており、兵を分ければ手薄になり、救わねば失う恐れがあり、憂色を面に出して諸将に諮った。李嗣源・李存審・閻宝だけが救援を勧めた。王は喜んで「昔、太宗は李靖一人を得て頡利を擒にした。今、私には猛将が三人いる。何を憂えることがあろう」と言った。
  • 存審と宝は「虜には輜重がなく長くは保ちません。野に掠める物がなくなり食が尽きて自ら還るのを待ち、その後を追って撃つべきです」と言った。李嗣源は「周徳威は社稷の臣です。今、幽州は朝夕をも保てず、内から変が生じることを恐れます。虜の衰えを待つ暇はありません。臣が自ら前鋒となって赴きたい」と言った。王は「公の言が正しい」と言い、その日のうちに兵を整えさせた。
  • 夏四月、晉王は嗣源に兵を率いて先行させ、淶水に軍した。閻宝が鎮定の兵で続いた。
  • 秋七月、晉王は嗣源と宝の兵では契丹に敵しないと考え、辛未、あらためて李存審に兵を率いて増援させた。
  • 八月、契丹が幽州を囲んで二百日近くになり、城中は危急に困窮した。嗣源・宝・存審の歩騎七万が易州で合流した。
  • 存審は「虜は多く我は少ない。虜は騎兵が多く我は歩兵が多い。平原で遭遇すれば、虜が万騎でわが陣を蹂躙し、我らは全滅する」と言った。嗣源は「虜に輜重はないが、我らは行けば必ず糧食を運ぶ。平原で遭遇すれば虜が糧を掠め、戦わずして潰える。山中を潜行して幽州へ向かい、城中と勢を合わせるに如くはない。途中で虜に遭えば険に拠って拒めばよい」と言った。
  • 甲午、易州から北へ行き、庚子、大房嶺を越えて谷川に沿って東へ進んだ。嗣源は養子の従珂とともに三千騎で前鋒となり、幽州まで六十里で契丹に遭った。契丹は驚いて退き、晉兵は翼のように追随した。契丹は山上を行き、晉兵は谷底を行き、谷口に至るたびに契丹が迎え撃った。嗣源父子は力戦してようやく進んだ。
  • 山口に至ると契丹は万余騎で前を遮り、将士は色を失った。嗣源は百余騎で先に進み、兜を脱いで鞭を揚げ、契丹の言葉で「おまえたちは理由もなくわが疆域を犯した。晉王は私に百万の衆を率いてまっすぐ西楼に至り、おまえたちの種族を滅ぼせと命じた」と呼ばわり、そのまま馬を躍らせ檛を振るって三度その陣に突き入り、契丹の酋長一人を斬った。後軍がそろって進むと契丹兵は退き、晉兵はようやく脱出できた。
  • 李存審は歩兵に木を伐って鹿角を作らせ、一人一枝を持たせて、止まればそのまま塁とした。契丹の騎兵が塁を巡って過ぎると、塁中から万弩を放って射た。流れ矢が日を蔽い、契丹の人馬の死傷が路を塞いだ。
  • 幽州近くに至ると契丹が陣を敷いて待った。存審は歩兵をその後ろに陣させて動くなと戒め、まず弱兵に柴を曳かせ草を燃やして進ませた。煙塵が天を蔽い、契丹はその多少を測れなかった。そこで鼓を打って喊声を上げて合戦し、存審は後陣を促して起こって乗じさせた。契丹は大敗し、その衆を巻き上げて北の山から去り、車・帳・鎧・武器・羊馬を野に満ちるほど棄てた。晉兵が追い、俘斬は万を数えた。
  • 辛丑、嗣源らが幽州に入り、周徳威はこれを見て手を握って涙を流した。
  • 契丹は盧文進を幽州留後とし、後にはさらに盧龍節度使とした。文進は常に平州に居て、奚の騎兵を率いて毎年北辺に入り、吏民を殺し掠めた。晉人は瓦橋から糧を運んで薊城へ送ったが、兵で護っても掠奪を免れなかった。契丹が侵入するたび文進は漢の兵卒を率いて先導した。盧龍の巡属の諸州はこれで荒廃した。

貞明四年(918年・撒剌阿撥の来奔)

  • はじめ契丹主の弟・撒剌阿撥は北大王と号し、国内で乱を起こそうと謀ったが露見した。契丹主は責めて「そなたと私は手足のようなものだ。それがこんな心を起こした。私がそなたを殺せば、そなたと何が違おう」と言い、囚えて一年で釈した。
  • 撒剌阿撥はその衆を率いて晉へ奔り、晉王は厚遇して仮子として養い、刺史に任じた。胡柳の戦いで妻子を連れて来奔した。

龍徳元年(921年・王郁の誘いと南侵)

  • 趙王・王鎔の養子の張文礼は趙王を殺したのち、間使を送って盧文進を通じ契丹に援を求めた。契丹主はすでに盧文進に出兵を許していたが、王郁がさらに説いた。「鎮州は美女が雲のごとく、金帛は山のごとくです。天皇王が速やかに向かわれれば皆わがものです。さもなくば晉王のものになりましょう」。
  • 契丹主はもっともと思い、手持ちの衆をことごとく発して南下した。述律后は諫めた。「我らには西楼の羊馬の富があり、その楽しみは尽きません。どうして師を労して遠く出て、危うきに乗じて利を求める必要がありますか。晉王の用兵は天下に敵なしと聞きます。もし危敗があれば悔いても及びません」。契丹主は聴かなかった。
  • 十二月辛未、幽州を攻めたが、李紹宏が城に拠って自守した。契丹は長駆して南下し涿州を囲み、十日で落として刺史の李嗣弼を捕えた。進んで定州を侵し、王都は晉に急を告げた。晉王は鎮州から親軍五千を率いて救い、神武都指揮使の王思同に兵を率いて狼山の南に戍らせて拒がせた。

龍徳二年(922年・新城・望都の勝利)

  • 春正月甲午、晉王が新城の南に至った。斥候が「契丹の前鋒は新楽に宿営し、沙河を渡って南下します」と報じ、将士は皆色を失った。逃げ去る士卒があり、主将が斬っても止められなかった。
  • 諸将は皆「虜は国を挙げて来ました。我らは寡兵で敵しません。しかも梁の寇が内に侵入していると聞きます。ひとまず魏州へ還師して根本を救うべきです」と言い、鎮州の囲みを解いて西の井陘に入って避けることを請う者もあった。晉王は迷って決しかねた。
  • 中門使の郭崇韜が言った。「契丹は王郁に誘われ、もともと貨財目当てで来たのであって、鎮州の急難を救えるわけではありません。王は新たに梁兵を破って威は夷夏に振るっております。契丹は王の到着を聞いて心はくじけ気は抜けております。その前鋒をくじけば必ず逃げましょう」。
  • 李嗣昭も潞州から来て「今、強敵が前にあります。進むのみで退いてはなりません。軽々しく動いて人心を揺るがせてはなりません」と言った。晉王は「帝王の興るには天命がある。契丹ごときが私をどうできよう。私は数万の衆で山東を平定した。今こんな小虜に遭って避けたら、どんな顔で四海に臨めるか」と言った。
  • そこで自ら鉄騎五千を率いて先に進み、新城の北に至った。半ば桑林を出たところで契丹の万余騎がこれを見て驚いて走った。晉王は軍を二つに分けて追い、数十里行って契丹主の子を捕えた。折しも沙河の橋は狭く氷は薄く、契丹で落ちて溺死する者はきわめて多かった。
  • この夕、晉王は新楽に宿した。契丹主の車帳は定州城下にあったが、敗兵が至ると衆を挙げて退いて望都を保った。晉王が定州に至ると、王都が馬前に迎謁して府第で宴を開き、愛娘を王子・継岌に嫁がせたいと請うた。
  • 戊戌、晉王は兵を率いて望都へ向かい、契丹が迎え撃った。晉王は親軍千騎で先に進んだが、奚の酋・禿餒の五千騎に遭って囲まれた。晉王は力戦して四度出入りし、午から申まで解けなかった。李嗣昭がこれを聞いて三百騎を率いて横撃し、虜が退いて王はようやく脱出できた。そのまま兵を放って奮撃し、契丹は大敗した。追撃して易州に至った。
  • 折しも大雪が十日続いて平地で数尺積もり、契丹の人馬は食なく死者が道に相次いだ。契丹主は手を挙げて天を指し、盧文進に「天は私にここまで至らせなかった」と言い、北へ帰った。
  • 晉王は兵を率いて追尾し、その行き止まりの野宿の跡を見た。地に藁が敷かれ、回りをめぐって方正で、まるで揃えて切ったようで、去ったあとも一枝も乱れていなかった。王は嘆じて「虜の法の厳しさはここまでか。中国の及ばぬところだ」と言った。
  • 晉王は幽州に至って二百騎に契丹の後を追わせ、「虜が境を出たらすぐ還れ」と言った。ところが騎兵は勇を恃んで追撃し、ことごとく捕えられた。二騎だけが別の道から逃れた。
  • 契丹主は王郁を責めて縛って帰り、以後その謀を聴かなかった。晉の代州刺史・李嗣肱は兵を率いて媯・儒・武などの州を平定し、山北都団練使に任じられた。
  • この年、契丹は天賛と改元した。

後唐荘宗同光元年〜三年(923-925年・辺境の反復侵入)

  • 同光元年春三月、契丹が幽州に侵入した。晉王が郭崇韜に帥を諮ると、崇韜は横海節度使の李存審を薦めた。当時、存審は病臥していた。己卯、存審を盧龍節度使に移し、病身を輿で鎮に赴かせ、蕃漢馬歩副総管の李嗣源に横海節度使を領させた。
  • 夏閏四月甲午、契丹が幽州を侵し、易・定に至って還った。
  • 二年春正月甲辰、幽州が契丹の入寇が瓦橋に及んだと奏した。天平軍節度使の李嗣源を北面行営都招討使、陝州留後の霍彦威をその副、宣徽使の李紹宏を監軍とし、兵を率いて幽州を救わせた。
  • 契丹が塞を出たので李嗣源を召して旋師させ、泰寧節度使の李紹欽と沢州刺史の董璋に瓦橋を戍らせた。李存審が契丹の退去とあらためて新州を得たことを奏した。
  • 三月乙巳、鎮州が契丹の来寇の兆しを報じた。詔で横海節度使の李紹斌と北京左廂馬軍指揮使の李従珂に騎兵を率いて道を分けて備えさせ、天平節度使の李嗣源を邢州に屯させた。紹斌は本姓を趙、名を行実といい幽州の人である。
  • 庚戌、幽州が契丹の新城侵入を奏した。夏五月、幽州が契丹の来寇の兆しを報じた。甲寅、横海節度使の李紹斌を東北面行営招討使として大軍を率いて河を渡って北へ向かわせた。契丹は幽州東南の城門の外に屯し、虜騎が満ちて糧運の多くが掠奪された。
  • 秋七月、契丹はその強盛を恃んで使者を送り、帝に幽州を求めて盧文進を置こうとした。当時、東北の諸夷はいずれも契丹に役属していたが、勃海だけが服さなかった。契丹主は入寇を謀りつつ、勃海が後ろを掣することを恐れ、まず兵を挙げて勃海の遼東を撃ち、将の禿餒と盧文進を送って営州・平州などに拠って燕地を騒がせた。
  • 九月、契丹が勃海を攻めたが功なく還った。丁巳、幽州が契丹の侵入を報じた。冬十月、易・定が契丹の侵入を報じた。十二月己巳、宣武節度使の李嗣源に宿衛兵三万七千を率いて汴州へ赴かせ、そのまま幽州へ行って契丹を防がせた。
  • 三年春正月、契丹が幽州に侵入した。二月、上は契丹を憂え、郭崇韜と謀った。威名ある宿将はほとんど尽き、李紹斌は位望がもとより軽いので、李嗣源を真定に移して紹斌の後援とすることを考え、崇韜も大いに便宜と考えた。

明宗天成元年(926年・阿保機の死と徳光の擁立)

  • 春正月、契丹主は女真と勃海を撃つにあたり、唐が虚に乗じて襲うことを恐れた。戊寅、梅老・鞋里を送って修好した。
  • 秋七月、契丹主は勃海を攻めて夫余城を落とし、あらためて東丹国と名づけた。長子の突欲に東丹を鎮させて人皇王と号し、次子の徳光に西楼を守らせて元帥太子と号した。
  • 帝は供奉官の姚坤を送って契丹に喪を告げた。契丹主は荘宗が乱兵に害されたと聞いて慟哭し、「わが朝定児よ。私はまさに救おうとしていたのに、勃海がまだ落ちず果たせなかった。わが子をここに至らせてしまった」と言って哭きやまなかった。虜の言う「朝定」は華言の「朋友」に当たる。
  • また坤に「今の天子は洛陽の急を聞いて、なぜ救わなかった」と問うた。坤が「地が遠くて及びませんでした」と答えると、「なぜ自ら立った」と問うた。坤が帝の即位の由来を述べると、契丹主は「漢人は言い飾るのを好む。多くを語るな」と言った。
  • 突欲が側に侍って「牛を牽いて人の田を踏み荒らしたからといって、その牛を奪ってよいものか」と言った。坤は「中国に主がなく、唐の天子はやむを得ず立ったのです。天皇王が初めて国を有たれたのと同じで、どうして強いて取ったと言えましょう」と答え、契丹主は「道理はその通りだ」と言った。
  • さらに「わが子はもっぱら声色と遊猟を好み、軍民を恤まなかったと聞く。ここに至ったのも当然だ。私はそれを聞いて以来、一家を挙げて酒を飲まず、伶人を放ち鷹犬を解き放った。もしわが子のした通りにすれば、自ら亡ぶだけだ」と言った。
  • また「わが子と私は代々の旧誼はあったが、しばしば私と戦った。今の天子には怨みがなく、修好するに足る。もし大河の北を私にくれるなら、私は二度と南を侵さぬ」と言った。坤が「これは使臣の一存で決められません」と言うと、契丹主は怒って囚えた。十日余りしてあらためて召し、「河北は難しかろう。鎮・定・幽州でもよい」と言い、紙筆を与えて文書にせよと促した。坤は応じず、殺そうとしたが、韓延徽が諫めてあらためて囚えた。
  • 辛巳、契丹主・阿保機が夫余城で没した。述律后は諸将および統御しにくい酋長の妻を召して「私は今、寡居となった。そなたたちも私に倣わぬわけにいくまい」と言い、さらにその夫を集めて泣きながら「そなたたちは先帝を思うか」と問うた。「先帝の恩を受けた身、どうして思わずにおられましょう」と答えると、后は「まことに思うなら、行って会うがよい」と言い、そのまま殺した。
  • 八月丁亥、述律后は末子の安端少君に東丹を守らせ、長子の突欲とともに契丹主の喪を奉じてその衆を率いて夫余城を発した。
  • 庚子、幽州が契丹の辺境侵入を報じ、斉州防禦使の安審通に兵を率いて防がせた。
  • 九月、述律后は中子の徳光を愛して立てようとし、西楼に至って突欲とともに馬に乗って帳前に立たせ、諸酋長に「二子とも私は愛している。どちらを立てるべきか分からぬ。そなたたちが立てるべき者を択んでその轡を執れ」と言った。酋長はその意を知り、争って徳光の轡を執り、「元帥太子にお仕えしたい」と歓呼した。后は「衆の望むところだ。私がどうして違えられよう」と言い、そのまま立てて天皇王とした。
  • 突欲は憤って数百騎を率いて唐へ奔ろうとしたが、巡邏に遮られた。述律后は罪せず東丹へ帰らせた。天皇王は述律后を尊んで太后とし、国事はすべてその決するところとなった。太后はさらにその姪を納れて天皇王の后とした。
  • 天皇王は孝謹な性質で、母が病んで食べなければ自らも食べず、母の前に侍って応対が旨に適わず母が眉を揚げて見ると、恐れて避け、あらためて召されるまであえて会わなかった。韓延徽を政事令とした。姚坤の帰国復命を許し、臣の阿思没骨餒を送って喪を告げた。
  • 冬十月庚子、幽州が契丹の盧龍節度使・盧文進の来奔を奏した。はじめ文進は契丹のために平州を守っていたが、帝は即位すると間使を送って、代が替わったのだから遺恨はないと説いた。文進の部下はみな華人で帰国を思っていたので、平州を戍る契丹の兵を殺し、その衆十余万・車帳八千乗を率いて来奔した。
  • 十二月癸巳、盧文進を義成節度使・同平章事とした。

天成二年〜三年(927-928年・王都の叛乱と契丹の敗北)

  • 二年秋九月壬申、契丹が修好を請い、使者を送って返報した。
  • 三年春正月、契丹が平州を陥れた。
  • はじめ義武節度使兼中書令の王都は易・定を鎮して十余年、刺史以下の官を自ら任じ、租賦もすべて本軍に充てていた。安重誨が政をとると、しだいに法制で裁いた。帝も王都が父の位を簒ったことから憎んでいた。当時、契丹がしばしば塞を犯し、朝廷は幽・易の間に多くの兵を屯し、大将が往来した。王都はひそかに備え、しだいに猜疑の隔たりが生じた。
  • 王都は朝廷に他鎮へ移されることを恐れ、腹心の和昭訓が自全の計を勧めた。都は盧龍節度使の趙徳鈞に婚を求め、また成徳節度使の王建立が安重誨と隙があると知って使者を送って兄弟の契りを結び、ひそかに河北の旧状に復することを謀った。建立は表向き許して密奏した。
  • 都はさらに蝋書を青・徐・潞・益・梓の五帥へ送って離間し、また人を送って北面副招討使・帰徳節度使の王晏球を説いた。晏球が従わないので、金を晏球の帳下に贈って図らせたが成らなかった。
  • 四月癸巳、晏球が都の反状を報告し、詔で宣徽使の張延朗と北面の諸将に討伐を議させた。庚子、詔で王都の官爵を削奪した。壬寅、王晏球を北面招討使・権知定州行州事、横海節度使の安審通を副招討使、鄭州防禦使の張虔釗を都監とし、諸道の兵を発して定州を討たせた。
  • この日、晏球は定州を攻めて北関城を落とした。都は重い賂で奚の酋・禿餒に救いを求めた。五月、禿餒が万騎で定州へ突入し、晏球は退いて曲陽を保った。都と禿餒がそれを攻めると、晏球は嘉山の下で戦って大破した。禿餒は二千騎で定州へ逃げ帰り、晏球は城門まで追って進攻し、西関城を得た。定州の城は堅くて攻められないので、晏球は西関城を修築して行府とし、三州の民に税を納めさせて軍食に供して守った。
  • 王晏球は契丹が兵を発して定州を救うと聞き、大軍を率いて望都へ向かい、張延朗に兵を分けて退いて新楽を保たせた。延朗はそのまま真定へ行き、趙州刺史の朱建豊を残して新楽城を修めさせた。契丹はすでに別の道から定州へ入っており、王都とともに夜に新楽を襲って破り、建豊を殺した。
  • 乙丑、王晏球と張延朗が行唐で合流し、丙寅、曲陽に至った。王都は勝ちに乗じて衆を挙げ、契丹の五千騎と合わせて万余人で曲陽に晏球らを迎え撃った。丁卯、城南で戦った。
  • 晏球は諸将校を集めて命じた。「王都は軽率で驕っている。一戦で擒にできる。今日こそ諸君が国に報いる時だ。弓矢はすべて棄てて短兵で撃て。振り返る者は斬る」。そこで騎兵が先に進み、檛を振るい剣を揮ってまっすぐその陣を衝いて大破した。屍が野を蔽い、契丹の死者は半ばを越え、残りは北へ走った。都と禿餒は数騎でかろうじて免れた。盧龍節度使の趙徳鈞が北走する契丹を迎え撃ち、ほとんど生き残る者がなかった。
  • 秋七月壬戌、契丹があらためて酋長の惕隠に七千騎を率いさせて定州を救った。王晏球は唐河の北で迎え撃って大破した。甲子、追って易州に至った。当時、長雨で水が増しており、契丹で唐に捕えられ斬られた者、溺死した者は数えきれなかった。
  • 契丹が北走する道は泥濘で、人馬は飢え疲れて幽州の境に入った。八月甲戌、趙徳鈞が牙将の武従諫に精騎を率いて迎え撃たせ、兵を分けて要害を扼し、惕隠ら数百人を生け捕った。残りの衆は村落に散り、村民が白い棍棒で撃った。脱して帰国できた者は数十人にすぎなかった。これで契丹は気をくじかれ、あえて軽々しく塞を犯さなくなった。
  • はじめ荘宗が河北を巡ったとき小児を得て宮中で養い、成長すると李継陶という姓名を賜った。帝は即位すると解き放った。王都はこれを得て黄袍を着せて城壁の間に座らせ、王晏球に「これは荘宗の皇子だ。すでに帝位に即かれた。公は先朝の厚恩を受けたのに、思わぬのか」と言った。晏球は「公がこんな小細工をして何になる。私は今、公に二つの策を教える。衆を挙げて決戦するか、手を束ねて出降するかだ。他に生を求める道はない」と言った。
  • 閏月戊申、趙徳鈞が契丹の俘虜・惕隠らを献じた。諸将は皆誅すことを請うたが、帝は「この者らはみな虜中の驍将だ。殺せば虜は望みを絶つ。生かして辺患を緩めるに如くはない」と言い、惕隠ら酋長五十人を赦して親衛に置き、残り六百人はことごとく斬った。
  • 契丹が梅老・季素らを送って入貢した。
  • はじめ盧文進が来降すると、契丹は蕃漢都提挙使の張希崇を代えて盧龍節度使とし、平州を守らせ、親将に三百騎で監視させた。希崇はもと書生で、幽州の牙将となって契丹に捕われた。温和な性質で、契丹の将はしだいに親しみ信じた。
  • 希崇は部曲と南へ帰ることを謀った。部曲は泣いて「帰ることは寝食にも忘れません。しかし虜は多く我らは少ない。どうしましょう」と言った。希崇は「私がその将を誘って殺せば、兵は必ず潰えて去る。ここから虜の帳まで千余里、知らせが行って徴兵するころには我らは遠く去っている」と言い、衆は賛成した。
  • そこでまず穽を掘って石灰を詰め、翌日、虜の将を招いて飲ませ、酔ったところで従者もろとも殺して穽に投げ入れた。その営は城北にあったので、急ぎ兵を発して攻めると契丹の衆は皆潰えて去った。希崇はその部下二万余口をことごとく率いて来奔し、詔で汝州刺史とされた。
  • 冬十月、王都は定州に拠って守備は堅く監視は厳しく、諸将でしばしば城を翻して官軍に応じようと謀る者があったがいずれも果たせなかった。帝が使者を送って王晏球に攻城を促した。晏球は使者と馬を並べて城を巡り、指して言った。「城はこのように高く険しい。たとえ城主が外兵の登城を許しても、梯や衝の及ぶところではない。徒に精兵を多く殺すだけで賊には損がない。こんなことをして何になる。三州の租を食み、民を愛し兵を養って待つに如くはない。彼らは必ず内から潰える」。帝は従った。

天成四年〜長興三年(929-932年・王都の滅亡と突欲の来奔)

  • 四年春正月、王都と禿餒は囲みを突いて走ろうとしたが出られなかった。二月癸丑、定州都指揮使の馬譲能が門を開いて官軍を入れ、都は一族を挙げて焼身し、禿餒と契丹二千人が捕えられた。辛亥、王晏球を天平節度使とし、趙徳鈞とともに侍中を兼ねさせた。禿餒は大梁に至って市で斬られた。
  • 夏四月、契丹が雲州を侵した。五月、契丹が雲州を侵した。
  • 長興元年冬十一月、契丹の東丹王・突欲は自ら職を失ったとして、部曲四十人を率いて海を越え登州から来奔した。
  • 二年春三月辛酉、契丹の東丹王・突欲に東丹の姓と慕華の名を賜い、懐化節度使・瑞慎等州観察使とした。その部曲および先に俘とした契丹の将・惕隠らにも皆姓名を賜い、惕隠は狄の姓と懐恵の名とした。秋九月己亥、あらためて東丹慕華に李賛華の姓名を賜った。
  • 三年、はじめ契丹の舎利・萴剌と惕隠はいずれも趙徳鈞に捕えられていた。契丹がしばしば使者を送って返還を請い、上は群臣に諮った。徳鈞らは皆「契丹が数年、辺を犯さず和を求めるのは、この者らが南にいるからです。放てば辺患が再び生じます」と言った。
  • 上が冀州刺史の楊檀に問うと、「萴剌は契丹の驍将で、かつて王都を助けて社稷を危うくしようとしました。幸いに捕えたのに、陛下がその死を免じられただけでも十分な恩です。契丹はこれを失って手足を喪ったようです。彼は朝廷に数年いて中国の虚実を知っております。帰らせれば患いは必ず深い。塞を出たとたん南へ向けて矢を放ちましょう。悔いても及ばぬことを恐れます」と答え、上はやめた。檀は沙陀の人である。
  • 上は李賛華に河南の藩鎮を授けようとしたが、群臣は皆不可とした。上は「私はその父と兄弟の約を結んだ。だから賛華は私に帰した。私も老いた。後世の継体の君が招こうとしても呼び寄せられようか」と言った。夏四月癸亥、賛華を義成節度使とし、朝士を選んで僚属として補佐させた。賛華はただ悠々と自ら奉ずるだけで政事には与らず、上は嘉した。時に不法があっても問わず、荘宗の後宮の夏氏を妻とした。
  • 賛華は人の血を飲むのを好み、姫妾の多くは腕を刺して吸わせた。婢僕は小さな過ちでも目をえぐられ、あるいは刀で切られ火で灼かれた。夏氏はその残虐に堪えられず、離婚して尼となることを願い出た。
  • 五月、契丹の使者・迭羅卿が帰国を告げた。上は「朕の志は辺を安んずることにある。その求めに少しも副わぬわけにはいかぬ」と言い、萴骨舎利を送ってともに帰らせた。契丹は萴剌を得られなかったため、以後しばしば雲州と振武を侵した。
  • はじめ契丹が強くなると、盧龍の諸州はどこも掠奪され、幽州の城門の外まで虜騎が満ちた。涿州から幽州へ糧を運ぶたび、契丹は閻溝に多く兵を伏せて奪った。趙徳鈞が節度使となると閻溝に城を築いて戍らせ、良郷県とし、糧道はやや通じた。
  • 幽州の東十里より外は人が薪取りも放牧もできなかったが、徳鈞は州の東五十里に潞県の城を築いて戍らせ、州近くの民はようやく耕作できるようになった。ここに至ってさらに州の東北百余里に三河県の城を築いて薊州への運路を通じた。虜騎が来て争ったが、徳鈞は撃退した。九月庚辰朔、三河の築城完了を奏し、辺境の人々はこれに頼った。