通鑑紀事本末王建、蜀に拠る(王建據蜀)
唐末、宦官の田令孜の養子となった王建が、閬州を奪って自立し、宦官田令孜と西川節度使陳敬瑄の拠る成都を攻め落とすまでの経緯。招討使韋昭度を追い返して両川の実権を握り、彭州の楊晟、東川の顧彦暉を次々に破って三蜀を平定し、興元・洋州まで版図を広げる。880年から907年までの28年間で、唐の滅亡とともに帝位に即き大蜀を建てるまでを描く。
年表(18件)
- 僖宗
- 廣明元年(・打毬で決まった三川)880年田令孜の兄陳敬瑄が打毬の勝負で西川節度使となる
- 中和三年秋七月(・王建の従駕)883年王建が衆を率いて行在に投じ田令孜の養子となる
- 光啟元年〜二年(885-)886年楊復恭が令孜の一党を排し王建を利州刺史に出す
- 光啟三年(・閬州占拠)887年周庠の策で王建が閬州を襲って占拠し、のち成都攻めに転じる
- 文德元年(・韋昭度の派遣)888年昭宗が韋昭度を西川節度使とし陳敬瑄の官爵を削る
- 昭宗
- 龍紀元年889年王建が新繁で山行章を大破し、行章は降伏を請う
- 大順元年(・諸州の帰順)890年嘉州・戎州・雅州など諸州が相次いで王建に降る
- 大順二年(・成都陥落)891年韋昭度を追い返した王建が成都を落とし西川留後を称する
- 景福元年(・彭州の包囲と王先成の献策)892年王先成の七か条を容れて彭州の民を招安する
- 景福二年(・陳敬瑄・田令孜の死)893年王建が謀反を口実に陳敬瑄を殺し田令孜を獄死させる
- 乾寧元年(・彭州陥落)894年彭州が陥り楊晟が斬られる
- 乾寧二年〜三年(895-・東川攻略の始まり)896年楸林で東川軍を破り、許存を降して王宗播とする
- 乾寧四年(・東川平定)897年梓州を包囲し顧彦暉が自殺、東川を併呑する
- 光化元年〜三年(898-)900年王宗滌が東川節度使となり、王建は両道都指揮制置使を兼ねる
- 天復元年〜二年(901-・興元奪取と王宗滌の死)902年興元を奪うが、功高き王宗滌を讒言により縊り殺す
- 天復三年(・蜀王)903年星宿山で大閲兵し、爵を蜀王に進められる
- 天祐元年〜三年(904-・行臺の設置)906年昭宗弑逆を受けて蜀に行臺を立て墨制で官を任じる
- 後梁太祖
- 開平元年(・大蜀の建国)907年王建が皇帝に即位し国号を大蜀とする
僖宗廣明元年(880年・打毬で決まった三川)
- 春三月庚午、左金吾大将軍の陳敬瑄を西川節度使とした。敬瑄は許州の人で、田令孜の兄である。かつて崔安潜が許昌を鎮していたとき、令孜が敬瑄のために兵馬使の職を求めたが、安潜は許さなかった。敬瑄は令孜の縁で左神策軍に籍を置き、数年で大将軍まで累進した。
- 令孜は関東の群盗が日ごとに盛んになるのを見て、密かに蜀への行幸を考え、敬瑄とその腹心である左神策大将軍の楊師立・牛勗・羅元杲を三川に鎮させるよう奏した。帝は四人に打毬をさせて三川を賭けさせ、敬瑄が第一の籌を取ったので、西川節度使として崔安潜に代えた。
- 夏六月庚寅、陳敬瑄が成都に着いた。
中和三年秋七月(883年・王建の従駕)
- 左驍衛上将軍の楊復光が河中で没すると、八都将の鹿晏弘らはそれぞれ衆を率いて散り、王建・韓建・張造・晋暉・李師泰もそれぞれ衆を率いて従った。田令孜が密かに人を送って厚い利を示して誘うと、王建と韓建は数千の衆を率いて行在へ逃れた。令孜は皆を養子とし、巨万の賜与を与え、諸衛将軍に任じてそれぞれの衆を率いさせ、「随駕五都」と号した。
光啟元年〜二年(885-886年)
- 元年秋九月戊申、陳敬瑄を三川および峡内諸州の都指揮制置等使とした。
- 二年夏四月、田令孜は枢密使の楊復恭を左神策中尉・観軍容使に推し、自らは西川監軍使として陳敬瑄を頼った。復恭は令孜の一党を排し、王建を利州刺史として外に出した。
光啟三年(887年・閬州占拠)
- 春三月、山南西道節度使の楊守亮は利州刺史の王建の驍勇を妬み、たびたび召したが、建は恐れて行かなかった。
- 前龍州司倉の周庠が建に説いた。「唐の命運は尽きようとし、藩鎮は互いに食い合っていますが、いずれも雄才も遠略もなく、多難を収められません。公は勇にして謀があり、士卒の心を得ている。大功を立てるのは公をおいて誰でしょう。ただし葭萌は四方から攻められる地で長く安んじられません。閬州は地が僻遠で人は富み、楊茂実は陳敬瑄・田令孜の腹心で職貢を修めていない。その罪を上表して兵を起こして討てば、一戦で擒にできます」。
- 建は従い、渓洞の酋豪を募って八千の衆を得、嘉陵江を下って閬州を襲い、刺史の楊茂実を追い出して占拠し、防禦使を自称した。亡命者を受け入れて軍勢はいよいよ盛んになり、守亮は抑えられなかった。
- 部将の張虔裕は「公は天子が微弱なのに乗じて一方の州を専有しています。もし唐室が再興したら公は種も残りません。使者を送って天子に表を奉り、大義を掲げて兵を動かせば、成らぬことはありません」と説いた。部将の綦母諫も、士を養い民を愛して天下の変を待つよう説き、建はいずれも従った。
- かつて建は東川節度使の顧彦朗とともに神策軍にいて賊を討った仲だった。建が閬州に拠ると、彦朗はその侵掠を恐れてたびたび使者を送って贈り物をし、軍糧を供給したので、建は東川を犯さなかった。
- 陳敬瑄は顧彦朗と王建が親しいのを憎み、兵を合わせて自分を図ることを恐れ、冬十一月、田令孜に相談した。令孜は「建は私の子だ。楊興元(守亮)に容れられぬから賊をしているだけ。一筆書いて呼べば麾下に呼べる」と言い、使者に書を持たせて召した。
- 建は大喜びして梓州へ行き、彦朗に「十軍の阿父からお召しがあったので参ります。ついでに陳太師にお目にかかって大きな州を一つ頂ければ、私の願いは足ります」と言い、家族を梓州に留め、麾下の精兵二千と甥の宗鐬、養子の宗瑶・宗弼・宗侃・宗弁を率いて西へ向かった。
- 建が鹿頭関に至ると、西川参謀の李乂が敬瑄に「王建は虎です。なぜ家に招き入れるのか。あれが公の下風に立ちましょうか」と言った。敬瑄は後悔して急ぎ人を送って止めさせ、守備を増強した。
- 建は怒って関を破って進み、綿竹で漢州刺史の張頊を破って漢州を落とし、学射山に進軍してさらに蚕北で西川の将・句惟立を破り、徳陽も落とした。敬瑄が使者を送って責めると、建は「十軍の阿父が私を召したのに、門まで来て拒まれた。顧公にも重ねて疑われ、退いても帰る先がない」と答えた。
- 田令孜が楼に登って慰め諭すと、建は諸将とともに清遠橋の上で髪を剃って並んで拝し、「もう帰る先がありません。阿父にお別れして賊になります」と言った。
- 顧彦朗は弟の彦暉を漢州刺史とし、兵を出して建を助け、成都を急攻したが三日で落とせず退いて漢州に屯した。敬瑄は朝廷に急を告げ、詔で中使を送って和解させ、また李茂貞にも書で建を諭させたが、いずれも従わなかった。
文德元年(888年・韋昭度の派遣)
- 春三月、王建が彭州を攻めたが陳敬瑄が救援したので引き揚げた。建は西川を大掠し、十二州がその害を被った。
- 夏五月、陳敬瑄が王建と攻め合っているため貢賦は途絶えた。建は成都がなお強く、退いても掠める先がないので兵を収めようとしたが、周庠と綦母諫は不可とした。庠は「邛州は城も塹も完備し、食糧は数年分ある。ここに拠って根拠地とすべきです」と述べた。
- 建は「私は長く軍中にいて用兵を見てきたが、天子の重みに拠らなければ衆心は離れやすい。敬瑄の罪を数えて上表し、朝廷に大臣を帥として派遣させ、それを補佐するほうが功を成しやすい」と言い、庠に表を草させ、敬瑄討伐で罪を贖いたいと請い、あわせて邛州を求めた。顧彦朗も上表して建の罪を赦し、敬瑄を他鎮に移して両川を鎮めるよう請うた。
- かつて黄巣の乱で、帝(昭宗)は寿王として僖宗に従って蜀へ向かった。事は急で諸王の多くは徒歩だった。山谷で寿王は疲れきって進めず、磻石の上に横たわった。田令孜が後から来て急がせると、王は「足が痛む。軍容、馬を一頭くれぬか」と言った。令孜は「この深山でどこに馬があるか」と言い、鞭で王を助け起こして進ませた。王は令孜を顧みたまま何も言わなかったが、心に恨みを刻んだ。
- 即位すると帝は人を送って西川軍を監させたが、令孜は詔を奉じなかった。帝はちょうど藩鎮の跋扈を憤り、威で制しようとしていたところへ彦朗と建の表を得た。令孜が恃むのは敬瑄だけだと考え、六月、韋昭度に中書令を兼ねさせて西川節度使・両川招撫制置等使とし、敬瑄を龍武統軍として召還した。
- 王建は新都に布陣した。当時、綿竹の土豪・何義陽、安仁の費師懃らが各地で兵を擁して自衛し、多い者は一万、少ない者でも千人いた。建が王宗瑶を送って説かせると、皆衆を率いて建に付き、建は資糧を給して軍勢を立て直した。
- 陳敬瑄と田令孜は韋昭度の到来を聞き、兵を整え城を修めて防いだ。
- かつて感義節度使の楊晟は興州・鳳州を失って文・龍・成・茂の四州に拠っていた。王建が西川を攻めると、田令孜は晟が自分の旧将であることから威戎軍節度使の名を借りさせて彭州を守らせた。建が彭州を攻めると、敬瑄は眉州刺史の山行章に五万を率いさせて新繁に塁を築いて救わせた。
- 十二月丁亥、韋昭度を行営招討使、山南西道節度使の楊守亮を副、東川節度使の顧彦朗を行軍司馬とし、邛・蜀・黎・雅を割いて永平軍を置き、王建を節度使として邛州を治所とし、行営諸軍都指揮使を兼ねさせた。戊子、陳敬瑄の官爵を削奪した。
昭宗龍紀元年(889年)
- 春正月戊申、王建が新繁で山行章を大破し、殺害・捕獲は一万近く、行章はかろうじて身一つで逃れた。楊晟は恐れて三交に移屯し、行章は濛陽に屯して建と対峙した。
- 冬十二月甲子、建が広都で山行章と西川の騎将・宋行能を破り、行能は成都へ逃げ帰り、行章は眉州に退いて守った。壬申、行章は建に降伏を請うた。
大順元年(890年・諸州の帰順)
- 春正月壬寅、王建が邛州を攻めた。陳敬瑄は大将の楊儒(彭城の人)に三千を率いさせて刺史の毛湘の守りを助けさせた。湘は出戦してたびたび敗れた。楊儒は城に登って建の兵の盛んなのを見て「唐の命運は尽きた。王公は衆を統べるのに厳しくとも残虐ではない。民を庇うに足りようか」と嘆じ、部下を率いて出て降った。建は養子として王宗儒と改名させた。
- 乙巳、建は永平節度判官の張琳を邛南招安使として留め、兵を率いて成都へ戻った。琳は許州の人である。
- 陳敬瑄は兵を分けて犀浦・郫・導江などの県に寨を置き、城中の民戸から一丁ずつ徴発し、昼は二重の壕を掘り竹木を伐り塼石を運ばせ、夜は城に登って拍子木を打ち巡警させ、休ませなかった。韋昭度は唐橋に、王建は東閶門の外に陣し、建は昭度にきわめて謹んで仕えた。
- 辛亥、簡州の将・杜有遷が刺史の員虔嵩を捕えて建に降り、建は有遷に州事を掌らせた。
- 夏四月乙丑、敬瑄が蜀州刺史の任従海に二万を率いさせて邛州を救わせたが敗れ、従海が蜀州を挙げて建に降ろうとしたので敬瑄は殺し、徐公鉥を蜀州刺史に代えた。丙寅、嘉州刺史の朱実が州を挙げて建に降った。丙子、僰道の土豪・文武堅が戎州刺史の謝承恩を捕えて建に降った。
- 六月丁巳、茂州刺史の李継昌が衆を率いて成都を救おうとしたが、己未、王建が撃って斬った。辛酉、資簡都制置応援使の謝従本が雅州刺史の張承簡を殺し、城を挙げて建に降った。
- 秋八月、建は漢州に退いて屯した。
- 陳敬瑄は富民の財を括って軍に供し、徴督院を置いて桎梏と鞭で脅して自己申告させ、財のある者は贓を隠したように扱い、少なく申告すれば厳しく徴収したので、誰も生きた心地がしなかった。
- 九月、邛州刺史の毛湘はもと田令孜の腹心の吏だった。王建が急攻して食糧は尽き、救兵も来ない。壬戌、湘は都知兵馬使の任可知に「私は田軍容に背くに忍びない。だが吏民に何の罪があろう。おまえは私の首を持って王建に帰れ」と言い、沐浴して刃を待った。可知は湘とその二子を斬って建に降り、士民は皆泣いた。
- 甲戌、建は永平の旌節を掲げて邛州に入り、節度判官の張琳に留後を掌らせ、城壕を修め、夷獠を撫し、蜀州・雅州を経営した。冬十月癸未朔、建は兵を率いて成都へ戻り、蜀州の将・李行周が李公鉥を追い出して城を挙げて建に降った。
大順二年(891年・成都陥落)
- 春二月、韋昭度は諸道の兵十余万で陳敬瑄を討ったが三年たっても落とせず、輸送も続かなくなり、朝議は兵を止めようとした。三月乙亥、制で敬瑄の官爵を復し、顧彦朗と王建にそれぞれ衆を率いて鎮へ帰らせることとした。
- 夏四月、成都城中は食に乏しく、棄てられた子が路に満ちた。民に密かに行営へ入って米を買い城へ運ぶ者があり、巡邏がこれを捕えて韋昭度に報告すると、昭度は「城中が飢えきっているのに、救わずにいられようか」と言って釈して咎めなかった。陳敬瑄に報告する者もあったが、敬瑄は「私は飢えた者を救う術がないのが恨めしい。彼らがそうしてくれるなら禁じるな」と言った。
- これで売り歩く者はしだいに増えたが、運べるのは一斗か一升で、直径一寸・深さ五分に切った竹筒で量って売り、一筒が百余銭だった。餓死者が散乱し、軍民は強い者が弱い者を虐げ、将吏が斬っても止められない。そこでさらに酷刑を設け、胴を断ち、斜めに割いたが、死者は相次いでも行う者は絶えず、人の目も耳も慣れて恐れなくなった。
- 吏民は日ごとに窮して降伏を謀る者が多く、敬瑄はその一族一党をすべて捕えて殺し、惨酷を極めた。内外都指揮使・眉州刺史の徐耕(成都の人)は情け深く、数千人の命を救った。田令孜が「公は生殺を掌りながら一人も刑さない。異心でもあるのか」と言うと、耕は恐れて夜、捕虜を引き出して市で殺した。
- 王建は罷兵の制書を見て「大功が成りかけているのに、なぜ棄てるのか」と言い、周庠に諮った。庠は韋昭度を朝廷へ帰らせ、単独で成都を攻めて取ることを勧めた。建は上表して「陳敬瑄と田令孜の罪は赦せません。命を賭して成功を図りたい」と述べた。昭度はどうしようもなく、東へ帰れずにいた。
- 建は昭度に説いた。「今、関東の藩鎮は互いに食い合っています。これこそ腹心の病です。相公は早く廟堂に帰って天子と図られるべきだ。敬瑄など疥や癬にすぎず、時をかけて制すればよい。責めは建が負って片づけます」。昭度はなお迷って決しなかった。
- 庚子、建は密かに東川の将・唐友通らに命じて昭度の腹心の吏・駱保を行府の門で捕えさせ、肉を切って食い、「軍糧を盗んだ」と称した。昭度は大いに恐れ、ただちに病と称して印と節を建に授け、牒で三使留後兼行営招討使とし、その日のうちに東へ帰った。建は新都まで送り、馬前に跪いて杯を捧げ、涙ながらに拝して別れた。だが昭度が剣門を出るや、兵で守らせて東からの軍を二度と入れなかった。昭度は京師に至って東都留守とされた。
- 建は成都を急攻し、城を巡る烽と塹は五十里に及んだ。犬の屠殺を業とする王鷂という者が、罪を得たふりをして城に逃げ込み、上下を離間させたいと願い出た。建が送り出すと、鷂は陳敬瑄・田令孜に会っては「建の兵は疲れ食は尽き、まもなく逃げます」と言い、外へ出れば市で茶を売りながら密かに建の英武と軍勢の強盛を吹聴した。これで敬瑄らは守備を怠り、衆心は不安に陥った。
- 建はさらに将の鄭渥(京兆の人)に偽って降らせて探らせた。敬瑄は将として城壁を守らせたが、渥はまた偽って建のもとへ帰り、建は城中の虚実をすべて知った。渥を親従都指揮使とし、王宗渥と改名させた。
- 秋八月、建の攻撃はいよいよ急になり、敬瑄は出戦するたび敗れ、管内の州県はおおむね建に取られた。威戎節度使の楊晟が時おり食を送っていたが、建が新都と彭州を押さえて道が絶えた。敬瑄が出て士卒を励ましても誰も応じなかった。
- 辛丑、田令孜が城に登って建に「老夫は先にそなたを厚遇したのに、なぜここまで苦しめるのか」と言った。建は「父子の恩をどうして忘れましょう。ただ朝廷が私に交代を受けぬ者を討てと命じた以上、こうせざるを得ません。太師が考えを改めてくださるなら、建に他の望みはありません」と答えた。
- その夕、令孜は自ら両川の印と節を携えて建の営へ行って渡し、将士は皆万歳を叫んだ。建は涙を流して謝し、もとどおり父子となることを請うた。壬寅、敬瑄が城を開いて建を迎え、癸卯、建は入城して西川留後を自称した。
- かつて陳敬瑄が朝命を拒んだとき、田令孜はその軍政を盗もうとして「三兄は尊いお身で、軍務は煩わしい。すべて私に任せられよ。日々の記録は差し上げます。兄は高く構えて安逸に過ごされればよい」と言った。敬瑄はもともと智も能もなく、喜んで許し、以来、軍事はすべて自分の手を離れ、ついに滅びた。
- 建は上表して敬瑄の子の陶を雅州刺史とし、敬瑄を陶の任地に随行させた。翌年、罷めて帰らせ、新津に住まわせ、一県の租賦で養った。
- 癸丑、建は士卒を分けて諸州で食を得させ、文武堅を王宗阮、謝従本を王宗本と改名させた。陳敬瑄の将佐で器量ある者は建がみな礼遇して用いた。
- 九月、東川節度使の顧彦朗が没し、軍中は弟の彦暉を留後に推した。
- 冬十月癸未、永平節度使の王建を西川節度使とし、甲申、永平軍を廃した。
- 建は西川を得ると政事に心を用い、直言を容れ、施しを好み士を楽しませ、人を用いてそれぞれの才を尽くさせ、謙虚倹素だった。ただし猜疑が多く殺すことを好み、功名ある諸将の多くは事にかこつけて誅された。
- 十二月、顧彦暉を東川節度使とし、中使の宋道弼を送って旌節を賜った。楊守亮は楊守厚に道弼を捕えさせて旌節を奪い、兵を出して梓州を攻めた。癸卯、彦暉は王建に救援を求め、甲辰、建は将の華洪・李簡・王宗侃・王宗弼を送って東川を救わせた。
- 建は密かに諸将に「そなたらが賊を破れば彦暉は必ず軍を犒う。行営で返礼の宴を開き、そこで捕えよ。二度手間はいらぬ」と言った。宗侃が守厚の七寨を破ると守厚は綿州へ逃げ帰り、彦暉は犒いの礼を整え、諸将が返礼の宴を開いた。ところが宗弼が建の謀を彦暉に告げたので、彦暉は病と称して辞退した。
景福元年(892年・彭州の包囲と王先成の献策)
- 威武節度使の楊晟が楊守亮らと王建攻撃を約し、二月丁丑、晟は兵を出して新繁・漢州の境を掠め、将の呂蕘に二千を率いさせて楊守厚と合流して梓州を攻めさせた。建は行営都指揮使の李簡に蕘を撃たせて斬った。
- 辛丑、王建は族子の嘉州刺史・王宗裕、雅州刺史・王宗侃、威信都指揮使・華洪、茂州刺史・王宗瑶に五万を率いさせて彭州を攻めさせた。楊晟は迎え撃って敗れ、宗裕らが包囲した。
- 楊守亮が将の符昭を送って晟を救わせ、まっすぐ成都へ向かって三学山に陣した。建は急ぎ華洪を呼び戻し、洪は駆けつけたが後軍はまだ集まらないので、数百人で夜、昭の営から数里の地に行き、しきりに更鼓を打たせた。昭は蜀軍が大挙して来たと思い、夜のうちに逃げた。
- 三月、左神策勇勝三都都指揮使の楊子実・子遷・子釗はいずれも守亮の養子で、渠州から兵を率いて楊晟を救おうとしたが、守亮の敗北を悟り、壬子、二万の衆を率いて王建に降った。
- 楊晟は楊守貞・楊守忠・楊守厚に書を送って東川を攻めさせ、彭州の包囲を解こうとした。守貞らはこれに従い、神策督将の竇行実が梓州に戍っていたので守厚が密かに内応を誘った。守厚が涪城に至ったとき行実の企てが漏れ、顧彦暉が斬ったので守厚は逃げた。守貞・守忠の軍は着いても行き先がなく、綿州と剣州の間をさまよった。
- 王建が将の吉諫に守厚を襲わせて破り、癸亥、西川の将・李簡が鍾陽で守忠を迎え撃って三千余人を殺害・捕獲した。夏四月、簡はさらに銅鉾で守厚を破って三千余人を殺害・捕獲し、一万五千人を降した。守忠も守厚も逃げた。
- 秋七月、王建の彭州包囲が長引き、民は皆山谷に逃げ隠れた。諸寨は毎日出て捕虜と略奪をし、これを「淘虜」と呼んだ。都将がまず良い者を選び、残りを士卒が分けるのが常だった。
- 軍士の王先成(新津の人)はもと書生で、乱世で兵となった者だったが、諸将のなかで北寨の王宗侃が最も賢明と見て、説きに行った。
- 「彭州はもともと西川の管内です。陳敬瑄と田令孜が楊晟を招いて四州を割いて与え、勝手に観察使としてともに朝命を拒みました。今、陳・田は平らぎ、晟だけがなお拠っています。州民は皆、西川こそ本府であり司徒(王建)こそその主だと知っています。だから大軍の到着時、民は城に入らず山谷に避けて招安を待ったのです。ところが軍が来て数か月、招安の命は聞こえず、軍士がかえって掠める。盗賊と変わりません。資財を奪い畜産を追い立て、老弱や婦女を分けて奴婢とし、父子兄弟を離散させて怨ませています。山中の者は暑さと雨にさらされ、蛇や虎に傷つけられ、孤立して飢え渇いても訴える先がない。彼らははじめ楊晟を主でないとして従わなかったのに、今、司徒が慈しまねば、かえって楊氏を懐かしむことになります」。
- 宗侃は心を痛め、思わず何度も座を前へ寄せて問うた。先成は続けた。
- 「さらに悪いことがあります。今、諸寨は毎朝六、七百人を山へ淘虜に出し、夕暮れに帰る。守備の意識がまるでない。城中に人がいないから助かっているだけです。万一、知恵者が策を立て、隙に乗じて突いてきたら——まず精兵千人を門内に伏せ、城に登って淘虜の者が遠ざかったのを見計らい、弓弩手と礮をそれぞれ百人ずつ出して寨の一面を攻め、続いて役卒五百に薪と土を負わせて壕を埋めて道を作り、そのうえで精兵を出して奮撃し寨を焼く。同時に三方の城下にも兵を出して示威すれば、諸寨はそれぞれ自衛に追われて助け合えず、城中はさらに兵を繰り出せます。これで敗れずにいられましょうか」。
- 宗侃ははっとして「まことにあり得る。どうすればよい」と言った。先成は箇条書きにして王建に上申することを請い、宗侃はただちに草させた。要旨は、この件は四面すべてに関わるが宗侃の管掌は北面だけなので、上申が容れられるなら牙の命令として施行してほしい、というものだった。七か条は次のとおり。
- 一、山中の百姓を招安すること。
- 二、諸寨の軍士と子弟が一人たりとも淘虜に出ることを禁じ、諸寨の周囲七里以内は樵採と放牧を許し、その境を越えた者は斬ること。
- 三、招安寨を置き、数千人を収容して招いた百姓を住まわせること。宗侃は自分の部下から慎重で有能な将校を招安将に選び、三十人に昼夜武器を持って巡衛させたいと請うた。
- 四、招安の事は一人に総括させること。牓帖が下れば諸寨がそれぞれ軍士を山へ入れて招安に向かうだろうが、百姓が彼らを見れば鼠が狸を見たように怯えて誰も来ない。招くには方法がある。帖を宗侃に下してこの事を専管させてほしい。
- 五、四寨の指揮使に厳命して、先に捕虜とした彭州の男女老幼をすべて集めさせ、父子兄弟夫婦で名乗り合った者はただちに一緒にし、人数を記して招安寨へ送ること。一人でも私に匿った者は斬る。あわせて府中の諸営にも厳しく捜させ、軍前から先に送り返された者にも資糧を与えて招安寨へ送ること。
- 六、招安寨の中に九隴の行県を置き、前南鄭令の王丕を県令代行として曹局を設け、百姓を撫し治めること。そのうえで子弟の壮健な者を選んで帖を与え、自ら山へ入って親戚を招かせる。司徒が侵掠を厳禁し、先に軍士に捕われた者も皆安堵を得たと知れば、必ず歓呼踊躍して連れ立って山を下り、子が母に帰るように数日で全員出てきます。
- 七、彭州の土地は麻に適し、百姓は山に入る前に多くを漚して蓄えていた。県令に諭させて田里に帰らせ、漚した麻を出して売り資糧とさせれば、必ず次第に生業に復します。
- 建はこれを得て大喜びし、申し出のとおりすべて実行した。翌日、牓帖が届くと威令は赫然として犯す者はなく、三日で山中の民は争って招安寨へ来て市のような賑わいとなった。寨に入りきらず拡張し、市も立ち、麻を出して売る者も現れた。民は村落に略奪の憂いがないと知ると、しだいに県令に暇を告げて生業に戻り、一月余りで招安寨は空になった。
- 秋八月辛丑、李茂貞が興元を攻め落とし、楊復恭・楊守亮・楊守信・楊守貞・楊守忠・満存は閬州へ逃げた。
- 冬十二月壬午、王建が将の華洪を送って閬州の楊守亮を撃たせ、破った。建は節度押牙の鄭頊(延陵の人)を朱全忠のもとへ遣わした。全忠が剣閣について問うと、頊はその険しさを極力述べたが、全忠は信じなかった。頊が「申し上げずにいて公の軍機を誤らせては困りますので」と言うと、全忠は大笑した。
景福二年(893年・陳敬瑄・田令孜の死)
- 春正月、東川留後の顧彦暉は王建と隙が生じていた。李茂貞は彦暉を懐柔して自分に付かせようと、あらためて節を賜るよう奏請し、詔で彦暉を東川節度使とした。茂貞はさらに知興元府事の李継密を送って梓州を救わせた。まもなく建が兵を送って利州で東川・鳳翔の兵を破ると、彦暉は和を求め、茂貞と絶交すると申し出て、建は許した。
- 二月甲戌、西川節度使の王建に同平章事を加えた。
- 建はたびたび陳敬瑄と田令孜の誅殺を請うたが朝廷は許さなかった。夏四月乙亥、建は人に敬瑄が乱を謀っていると告げさせ、新津で殺した。また田令孜が鳳翔と書を通じていると告げさせ、獄に下して死なせた。
- 建は節度判官の馮涓に上表を草させ、「匣を開いて虎を出せば、孔宣父も他人を責めなかった。道で蛇を斬ったのは、叔孫敖が自分の利のためではない。専殺は本来、閫外で行うものではないが、機を逃せば的を外すことを恐れた」と述べさせた。涓は馮宿の孫である。
乾寧元年(894年・彭州陥落)
- 夏五月、王建が彭州を攻め、城中は人が人を食った。彭州の内外都指揮使・趙章が出て降り、王先成が女牆まで通じる龍尾道を築くよう請うた。丙子、西川の兵が城に登ったが、楊晟はなお衆を率いて力戦し、刁子都虞候の王茂権が斬った。
- 彭州馬歩使の安師建を捕え、建は将にしようとしたが、師建は泣いて「私は楊司徒と生死を共にすると誓いました。二度と日月を戴くに忍びません。速やかな死こそご恩です」と辞した。再三諭しても従わないので殺し、礼をもって葬って祭った。趙章を王宗勉、王茂権を宗訓、王釗を宗謹、李綰を王宗綰と改名させた。
- 秋七月、綿州刺史の楊守厚が没し、その将・常再栄が城を挙げて王建に降った。
乾寧二年〜三年(895-896年・東川攻略の始まり)
- 二年秋九月、王建は簡州刺史の王宗瑶らに兵を率いさせて難に赴かせ、甲戌、綿州に布陣した。
- 冬十一月、雅州刺史の王宗侃が利州を攻め落とし、刺史の李継顒を捕えて斬った。
- 十二月甲申、閬州防禦使の李継雍、蓬州刺史の費存、渠州刺史の陳璠がそれぞれ部兵を率いて王建のもとへ走った。
- 建は「東川節度使の顧彦暉は兵を出して難に赴かず、しかも輜重を掠奪した。瀘州刺史の馬敬儒を送って峡路を断たせている」と奏し、討伐を請うた。戊子、華洪が楸林で東川の兵を大破し、数万を捕殺して楸林寨を落とした。
- 丙申、建が東川を攻めたが別将の王宗弼が東川の兵に捕えられ、顧彦暉は養子とした。戊戌、通州刺史の李彦昭が部兵二千を率いて建に降った。
- 三年春正月、西川の将・王宗夔が龍州を攻め落として刺史の田昉を殺した。閏月丁亥、果州刺史の張雄が王建に降った。
- 夏五月丙戌、帝は中使を梓州へ送って両川を和解させた。王建は詔を奉じて成都へ戻ったが、なお兵を連ねて解かなかった。
- 荊南節度使の成汭がその将・許存とともに長江を遡って地を略し、沿江の州県をすべて取った。武泰節度使の王建肇は黔中を棄てて残衆を収めて豊都を守り、存はさらに西へ兵を進めて渝州・涪州を取った。汭は将の趙武を黔州留後、存を万州刺史とした。趙武がたびたび豊都を攻め、王建肇は守りきれず、存とともに王建に降った。
- 建は存の勇略を忌んで殺そうとしたが、掌書記の高燭が「公はまさに英雄を総攬して覇業を図るところ。窮して帰ってきた者をなぜ殺すのか」と言った。建は存を蜀州に戍らせ、密かに知蜀州の王宗綰に観察させた。宗綰が「存は忠勇で謙厚、良将の才があります」と密かに言ったので、建は許し、王宗播と改名させた。
- 秋八月癸丑、王建を鳳翔西面行営招討使とした。
乾寧四年(897年・東川平定)
- 春二月戊午、王建は邛州刺史の華洪、彭州刺史の王宗祐に五万を率いさせて東川を攻めさせ、戎州刺史の王宗謹を鳳翔西面行営先鋒使として玄武で鳳翔の将・李継徽らを破った。継徽はもと楊姓、名は崇本で、李茂貞の養子である。
- 庚申、建は決雲都知兵馬使の王宗侃を応援開峡都指揮使として八千を率いて渝州へ、決勝都知兵馬使の王宗阮を開江防送進奉使として七千を率いて瀘州へ向かわせた。辛未、宗侃が渝州を取って刺史の牟崇厚を降し、癸酉、宗阮が瀘州を落として刺史の馬敬儒を斬り、峡路が初めて通じた。鳳翔の将・李継昭が梓州を救おうとして偏将を残して剣門を守らせたが、西川の将・王宗播が撃って捕えた。
- 夏四月、右諫議大夫の李洵を両川宣諭使として王建と顧彦暉を和解させた。
- 五月丙戌、王建は節度副使の張琳に成都を守らせ、自ら五万を率いて東川を攻め、華洪を王宗滌と改名させた。
- 六月、李茂貞が「王建は東川を攻め、数年にわたり兵を連ねて詔命に従わない」と上表した。甲寅、建を南州刺史に貶し、乙卯、茂貞を西川節度使とした。
- 癸亥、王建が梓州の南寨を落として将の李継寧を捕えた。丙寅、宣諭使の李洵が梓州に至り、己巳、張杞砦で建に会った。建は旗を執る者を指して「戦士の気持ちは奪えません」と言った。
- 王建と顧彦暉は五十余戦を交え、九月癸酉朔、梓州を包囲した。蜀州刺史の周徳権が建に説いた。「公が彦暉と東川を争って三年、士卒は矢石に疲れ、百姓は輸送に困じています。東川では群盗が多くの州県を占拠しています。彦暉は臆病で謀がなく、目先の安泰を図って皆に厚い利を約束し、その救援を恃んで堅守して落ちないのです。今、人を送って賊帥に禍福を諭し、来る者には官を賞し、服さぬ者には兵で威せば、彼の頼みがかえって我らの用となります」。建は従い、彦暉の勢いはいよいよ孤立した。徳権は許州の人である。
- あらためて王建を西川節度使・同平章事とした。
- 冬十月壬子、知遂州の侯紹が二万を、乙卯、知合州の王仁威が千人を、戊午、鳳翔の将・李継溥が援兵二千を率いて、いずれも王建に降った。
- 建の梓州攻めがいっそう急になり、庚申、顧彦暉は宗族と養子を集めて酒を飲み、王宗弼を建のもとへ帰らせ、酒がまわると養子の瑶に自分と同席の者を殺させ、そのうえで自殺した。建が梓州に入ると城中の兵はなお七万いた。建は王宗綰に兵を分けて昌州・普州などを従わせ、王宗滌を東川留後とした。
- 十二月壬戌、建は梓州から戻り、戊辰、成都に着いた。
光化元年〜三年(898-900年)
- 元年春正月、兵部尚書の劉崇望を同平章事・東川節度使とした。夏五月、朝廷は王建がすでに王宗滌を東川留後としたと聞き、崇望を召し返して兵部尚書とし、宗滌を留後とした。
- 秋九月己丑、東川留後の王宗滌が王建に「東川の封疆は五千里、文書の往復に数か月かかることもあります。遂・合・瀘・渝・昌の五州を分けて別に一鎮としていただきたい」と述べ、建は上表した。冬十月丁巳、王宗滌を東川節度使とした。
- 三年春二月庚申、西川節度使の王建に中書令を兼ねさせた。夏六月癸亥、東川節度使の王宗滌に同平章事を加えた。秋七月甲寅、王建を西川節度使兼東川・信武軍両道都指揮制置等使とした。
天復元年〜二年(901-902年・興元奪取と王宗滌の死)
- 元年春三月、東川節度使の王宗滌が病を理由に交代を求め、王建は馬歩使の王宗裕を留後とするよう上表した。
- 閏六月、道士の杜従法が妖言で昌・普・合の三州の民を惑わせて乱を起こし、王建は王宗黯に東川・武信の兵と合流して討たせた。龍臺鎮使の王宗侃らが従法を討って平定した。
- 二年春二月、西川の兵が利州に至り、昭武節度使の李継忠は鎮を棄てて鳳翔へ逃げた。王建は剣州刺史の王宗偉を利州制置使とした。
- 秋八月、西川軍が興元を通過させてほしいと請うたが、山南西道節度使の李継密は兵を三泉に戍らせて拒んだ。辛丑、西川の前鋒将・王宗播が攻めたが落とせず山寨に退いて守った。腹心の吏・柳修業が「公は一族を挙げて人に帰したのに、死に物狂いで戦わずして、どうやって身を保つのか」と言った。
- 宗播は兵に「私はおまえたちと決戦して功名を取る。さもなくばここで死ぬ」と告げ、金牛・黒水・西県・褒城の四寨を破った。軍校の秦承厚は西県を攻めたとき矢が左目を貫いて右目まで達し、鏃が抜けなかったが、王建が自ら傷を舐めると膿が出て鏃が抜けた。
- 宗播が馬盤寨に屯すると、継密は敗れて漢中へ逃げ帰った。西川軍は勝ちに乗じて城下に至り、王宗滌が衆を率いて先登し、ついに落とした。継密は降伏を請い、成都へ移され、兵三万・騎五千を得た。宗滌は漢中に入って屯した。
- 王建は「継密は三輔を荒らした賊だが、降ったのだから殺すに忍びない」と言い、姓名を王万弘に復した。しかし建がなかなか召見しないので諸将は侮り、万弘は終日酒に浸り、俳優にまで嘲られ、憂憤に堪えず酔って池に身を投げて死んだ。
- 詔で王宗滌を山南西道節度使とした。宗滌は勇略があり衆心を得ていたので、王建はこれを忌んだ。建が府門を作って朱で塗り、蜀の人が「画紅楼」と呼んだのを、建は宗滌の姓名(華洪)に応じる兆しだと考えた。王宗佶らもその功を妬み、流言をこしらえた。
- 建は宗滌を成都に召して詰責した。宗滌は「三蜀はほぼ平らぎました。大王が讒言を容れて功臣を殺すのなら、それもよいでしょう」と言った。建は親随馬軍都指揮使の唐道襲に命じて夜、酒を飲ませてから縊り殺した。成都は市を閉じ、営々と涙を流し、親戚を喪ったようだった。建は指揮使の王宗賀に興元留後を代行させた。道襲は閬州の人で、はじめ舞童として建に仕え、のちしだいに謀議に加わるようになった。
- 九月戊申、武定節度使の李思敬が洋州を挙げて王建に降った。冬十月、建は興州を攻め落とし、軍使の王宗浩を興州刺史とした。
天復三年(903年・蜀王)
- 夏四月、王建は李茂貞の弱体に乗じて秦州・隴州へ出兵し、判官の韋荘を入貢させ、あわせて朱全忠とも好誼を修めた。全忠は押牙の王殷を答礼に送り、建が宴を設けると、殷は「蜀の甲兵はまことに多いが、ただ馬が乏しい」と言った。
- 建は顔色を変えて「当道は山河が険阻で騎兵の使いどころがないだけだ。馬も乏しくはない。押牙、しばし留まられよ。ともに閲しよう」と言い、諸州の馬を集めて星宿山で大閲兵を行った。官馬八千、私馬四千、部隊はきわめて整い、殷は感服した。建はもと騎将だったので、蜀を得てから文・黎・維・茂の各州で胡馬を買い、十年でこの数に達したのである。
- 秋八月庚辰、西川節度使・西平王の王建を守司徒とし、爵を蜀王に進めた。
天祐元年〜三年(904-906年・行臺の設置)
- 元年春二月、帝は密使に御札を持たせて王建に難を告げた。建は邛州刺史の王宗祐を北路行営指揮使として鳳翔の兵と合して車駕を迎えさせたが、興平で汴の兵に遭って進めず戻った。建はこのときから墨制で官を任じるようになり、「車駕が長安に還られたら上表する」と称した。
- 王建の賦斂は重く、誰も物申せなかった。馮涓は建の誕生日に頌を献じ、まず功徳を讃えたあとで生民の苦しみを述べた。建は恥じて謝し、「君のような忠諫があれば功業に何の憂いがあろう」と言って金帛を賜り、以後、賦斂はやや軽くなった。
- 二年冬十一月、昭宗の喪に際して朝廷が告哀使の司馬卿を宣諭に送っていたが、このとき初めて蜀の境に入った。西川掌書記の韋荘が建のために謀り、武定節度使の王宗綰に卿へこう伝えさせた。「蜀の将士は代々唐の恩を受けている。昨年、乗輿の東遷を聞いて二十通の表を上ったが、いずれも返答がない。まもなく汴から来た士卒があり、先帝がすでに朱全忠の弑逆に遭われたと聞いた。蜀の将士は日夜、枕を戈にして先帝の仇を報じることを思っている。今、使者が何を宣諭に来られたのか分からぬ。舎人は自ら進退をお考えあれ」。卿は引き返した。
- 三年冬十月丙戌、王建は蜀に行臺を立てた。建は東に向かって舞蹈し号泣して、「大駕が東遷されて以来、制命が通じない。李晟・鄭畋の故事に倣って行臺を仮に立て、制を承けて封拝したい」と述べ、牓帖で管内の藩鎮・州県に告げ諭した。
後梁太祖開平元年(907年・大蜀の建国)
- 秋九月、蜀王は将佐を集めて称帝を議した。皆が「大王は唐に忠でしたが、唐はすでに亡びました。これこそ『天が与えるのに取らぬ』というものです」と言った。馮涓ひとりが「蜀王として制を称するにとどめられたい。朝廷が興れば臣を称するのに遅くはなく、賊がいる間は悪に与しない」と献議したが、王は従わず、涓は門を閉じて出仕しなくなった。
- 王は安撫副使・掌書記の韋荘の謀を用い、吏民を率いて三日間哭した。己亥、皇帝に即位し、国号を大蜀とした。辛丑、前東川節度使兼侍中の王宗佶を中書令、韋荘を左散騎常侍・判中書門下事、閬州防禦使の唐道襲を内枢密使とした。荘は韋見素の孫である。
- 蜀主は書物こそ読まなかったが、書生と語り合うのを好み、その道理を大まかに理解した。当時、唐の名族の多くが乱を避けて蜀にあり、蜀主は礼遇して用い、旧例を整えさせたので、その典章文物には唐の遺風があった。
- 蜀主の長子・校書郎の宗仁は幼くして病のため廃され、次子の秘書少監・宗懿を遂王とした。