通鑑紀事本末藩鎮の連兵(涇原の変・李懐光の叛を付す)(藩鎮連兵(涇原之変・李懐光之義附))
乾元元年(758年)に平盧の軍士が節度使を廃立したのを端緒として、河北に李宝臣・田承嗣・李正己・李懐仙らの藩鎮が根を張り、朝廷の令が及ばなくなる。徳宗が李惟岳の継承を認めなかったことから田悦・李納・朱滔・王武俊が連兵し、四王を僭称、李希烈も帝を称した。建中四年(783年)には涇原の兵が長安で乱を起こして朱泚を推戴し、徳宗は奉天へ逃れて包囲され、段秀実は笏で泚を撃って死んだ。興元元年(784年)の罪己の詔で王武俊らが帰順し、李晟が長安を回復、李懐光も翌年河中で自尽して、貞元年間に藩鎮はようやく落着するまでの四十四年間。
年表(11件)
- 粛宗
- 乾元元年――節度使廃立の始まり758年平盧の李懐玉が主帥の子を殺して侯希逸を推し、軍士による節度使廃立が始まる
- 代宗
- 宝応元年〜広徳二年(762–)――河北の藩鎮成立764年史朝義の降将の薛嵩・田承嗣・李懐仙・李宝臣にそのまま河北の節度を授ける
- 永泰元年――河朔の割拠765年李懐玉が侯希逸を逐って李正己となり、河朔の諸鎮は貢賦を納めず互いに婚姻で結ぶ
- 大暦三年〜十四年(768–)――田承嗣の跋扈779年田承嗣が相衛の四州を併呑し、諸道の討伐を受けながらも謝罪だけで官爵を復される
- 徳宗
- 建中元年――劉文喜の乱780年原州築城をめぐって劉文喜が涇州に拠り、部将の劉海賓に殺されて乱は収まる
- 建中二年――李惟岳の継承をめぐって781年帝が李惟岳の継襲を許さず、田悦・李正己と結んで叛くが、馬燧らが臨洺で大破する
- 建中三年――洹水の戦いと四王の僭称782年馬燧が洹水で田悦を破る一方、朱滔・王武俊が離反し、四鎮が王を僭称する
- 建中四年――顔真卿の使いと李希烈の僭号783年涇原の兵が長安で乱を起こして朱泚を立て、帝は奉天に囲まれ、段秀実が笏で泚を撃って死ぬ
- 興元元年――罪己の詔784年罪己の詔で王武俊・田悦・李納が王号を去り、李晟が長安を回復して車駕が還る
- 貞元元年――盧杞の再起用をめぐって785年袁高らの抗議で盧杞の起用が澧州別駕に留まり、馬燧らが河中を落として李懐光は自尽する
- 貞元二年〜十七年(786–)――藩鎮の落着801年李希烈が部将に毒殺され、韓滉の漕米で関中が救われ、諸鎮は子孫の継承に落ち着く
粛宗乾元元年(758年)――節度使廃立の始まり
- 冬十二月、平盧節度使の王玄志が薨じた。帝は中使を遣わして将士を撫慰させ、あわせて軍中が誰を立てたいと望んでいるかを探らせ、その者に旌節を授けさせた。高麗人の李懐玉は禆将であったが、玄志の子を殺して侯希逸を平盧軍使に推した。希逸の母は懐玉の伯母であったので、懐玉が立てたのである。朝廷はそこで希逸を節度副使とした。節度使が軍士によって廃立されるのは、ここに始まる。
史論(臣光曰)
- そもそも民には生まれつき欲があり、主がなければ乱れる。ゆえに聖人は礼を定めてこれを治めた。天子・諸侯から卿・大夫・士・庶人に至るまで、尊卑に分があり大小に序列があって、綱と条が互いに支え合い、腕と指が互いに動かし合うようである。だからこそ民は上に仕えて事をなし、下の者が上を窺うことがない。周易に「上は天、下は沢、これを履という。象にいわく、君子はもって上下を弁じ民の志を定む」とあるのは、このことである。
- およそ人君が臣民を保てるのは、八つの権柄が自分の手にあるからだ。もしそれを手放せば、彼我の勢いは等しくなる。何をもって下を使えようか。粛宗は唐の中衰に遭い、幸いにして国を回復した。ならば上下の礼を正して四方を綱紀すべきであった。ところが一時の安きを偸み、久しい患いを思わなかった。将帥を任命し藩鎮を統べさせるのは国の大事である。それを一介の使者に委ね、兵たちの情に従わせ、賢か不肖かも問わず、ただ彼らが望む者に授けた。
- これより後、積み重なった慣習が常となり、君臣ともにそれを守って良策と思い込み、これを「姑息」と呼んだ。ついには副将や士卒が主帥を殺したり追ったりしても罪を問わず、かえってその地位を授けるまでになった。とすれば爵禄も廃置も、殺生も与奪も、みな上から出ずに下から出る。乱が生ずるのに、どこに限りがあろうか。
- そもそも国家を保つ者は善を賞して悪を誅する。ゆえに善をなす者が励まされ、悪をなす者が懲らされる。人の下にありながらその上を殺し追う――これ以上の悪があろうか。それを旄を擁し鉞を執らせ、一方の長とする。これは賞である。賞をもって悪を励ませば、悪はどこまで行き着くか分からない。
- 書に「なんじの謀を遠くせよ」といい、詩に「謀の遠からざる、これをもって大いに諫む」といい、孔子は「人に遠慮なければ必ず近憂あり」と言った。天下の政をなしながら、もっぱら姑息を事とすれば、その憂患は数え上げられようか。
- こうして下の者は常に横目で上を窺い、隙あらば攻めて族滅しようとし、上の者は常におびえて下を恐れ、隙あらば襲って屠ろうとする。争って先手を打って志を遂げようとするだけで、互いに保ち養って共に利し永く存続する計はない。これで天下の安きを求めても、得られようか。その禍の階梯をたどれば、ここに始まるのである。
- そもそも古は軍を治めるのに必ず礼を本とした。ゆえに晋の文公は城濮の戦いで、その軍の年長者と年少者に礼があるのを見て、用いるに足ると知った。今、唐は軍を治めて礼を顧みず、士卒が副将を陵ぎ、副将が将帥を陵ぐようにさせた。ならば将帥が天子を陵ぐのは自然の勢いである。これによって禍乱が相次いで起こり、兵革は息まず、民は塗炭に落ちて訴える先もなく、およそ二百余年に及んだ。
- そののち大宋が命を受け、太祖ははじめて軍法を定め、階級によって上下を承けさせ、少しでも違犯があればみな斧鑕に伏させた。それゆえ上下に序があり、令は行われ禁は止まり、四方の従わぬ者を征して服さぬものがなく、国内は治まり、万民は増え育って今日に至った。みな軍を治めるに礼をもってしたからである。まさに謀を後世に遺すことの遠大さではないか。
代宗宝応元年〜広徳二年(762–764年)――河北の藩鎮成立
- 宝応元年冬十一月、史朝義が衛州で敗れたとき、鄴郡節度使の薛嵩は相・衛・洺・邢の四州を挙げて陳鄭澤潞節度使の李抱玉に降り、恒陽節度使の張忠志は恒・趙・深・定・易の五州を挙げて河東節度使の辛雲京に降った。丁酉、忠志を成徳軍節度使として五州を統べさせ、姓を賜って李宝臣と名づけた。もと宝臣の禆将の王武俊が降伏を勧めた縁で、節度使に復してからは武俊を先鋒兵馬使に抜擢した。武俊はもと契丹の人で、初めの名を没諾干といった。
- 広徳元年(763年)春正月、史朝義が幽州へ兵を発しに行くと、その将の田承嗣は莫州の留守として城ごと降り、朝義の范陽節度使の李懐仙もまた降を請うた。
- 閏月癸亥、史朝義の降将の薛嵩を相・衛・邢・洺・貝・磁の六州節度使、田承嗣を魏・博・徳・滄・瀛の五州都防禦使とし、李懐仙はもとの地のまま幽州盧竜節度使とした。当時、河北の諸州はみなすでに降っており、嵩らは僕固懐恩を迎えてその馬前に拝し、味方として働かせてほしいと請うた。懐恩も賊が平定されれば寵が衰えることを恐れ、嵩らと李宝臣を分けて河北を帥いさせることを奏請し、自分の党の助けとした。朝廷もまた兵革に厭き苦しんで、無事でありさえすればと願い、そのまま授けたのである。
- はじめ長安の人の梁崇義は羽林の射生から来瑱に従って襄陽に鎮し、累進して右兵馬使となった。崇義は勇力があって鉄を巻き鉤を伸ばすほど、沈毅で口数少なく、衆心を得ていた。瑱が入朝するとき、諸将に分かれて諸州を戍らせたが、瑱が死ぬと戍っていた者はみな襄陽へ逃げ帰った。行軍司馬の龐充は兵二千を率いて河南に赴く途中、汝州で瑱の死を聞き、兵を率いて還って襄州を襲った。左兵馬使の李昭が拒み、充は房州へ走った。崇義は鄧州から戍兵を率いて帰り、昭および副使の薛南陽と互いに長を譲り合って久しく決しなかった。衆はみな「兵は梁卿でなければ主れぬ」と言い、ついに崇義を帥に推した。崇義はほどなく昭と南陽を殺し、その次第を奏聞した。帝は討てず、三月甲辰、崇義を襄州刺史・山南東道節度留後とした。
- 夏五月丁卯、制して河北の諸州を分け、幽・莫・媯・檀・平・薊を幽州の管、恒・定・趙・深・易を成徳軍の管、相・貝・邢・洺を相州の管、魏・博・徳を魏州の管、滄・棣・冀・瀛を青淄の管、懐・衛・河陽を澤潞の管とした。
- 六月庚寅、魏博都防禦使の田承嗣を節度使とした。承嗣は管内の戸口のうち壮健な者をみな兵籍に入れ、老弱だけに耕作させ、数年の間に十万の衆を得た。さらにその驍健な者一万を選んで自衛とし、これを牙兵と呼んだ。
- 広徳二年(764年)春正月、魏博節度使の田承嗣が管内を天雄軍と名づけることを奏し、許された。
永泰元年(765年)――河朔の割拠
- 夏五月、平盧節度使の侯希逸は淄青に鎮していたが、遊猟を好み塔や寺を営んだので、軍も州もこれに苦しんだ。兵馬使の李懐玉は衆心を得ていたので、希逸はこれを忌み、事にかこつけて軍職を解いた。希逸が巫と城外に泊まったとき、軍士は門を閉ざして入れず、懐玉を奉じて帥とした。希逸は滑州へ走り、上表して罪を待った。詔して赦し、京師に召し還した。
- 秋七月壬辰、鄭王の邈を平盧淄青節度大使とし、懐玉に留後を知らせ、正己の名を賜った。
- 当時、成徳節度使の李宝臣、魏博節度使の田承嗣、相衛節度使の薛嵩、盧竜節度使の李懐仙は安史の残党を収めてそれぞれ数万の精兵を擁し、兵を整え城を修め、文武の将吏を自ら任命し、貢賦を納めず、山南東道節度使の梁崇義および正己とみな婚姻を結んで互いに表裏をなした。朝廷はもっぱら姑息を事として制することができず、名は藩臣といっても繋ぎ止めているだけであった。
大暦三年〜十四年(768–779年)――田承嗣の跋扈
- 大暦三年(768年)夏六月壬辰、幽州兵馬使の朱希彩と経略副使で昌平の朱泚、泚の弟の滔が、ともに節度使の李懐仙を殺し、希彩が留後を自称した。閏月、成徳節度使の李宝臣が将に兵を率いさせて希彩を討ったが敗れ、朝廷はやむなく許した。庚申、王縉に盧竜節度使を領させ、丁卯、希彩に幽州留後を知らせた。冬十一月丁亥、希彩を節度使とした。
- 大暦七年(772年)、盧竜節度使の朱希彩は位を得てから朝廷に不遜となり、将卒に残虐であった。孔目官の李懐瑗が衆の怒りに乗じて隙を窺って殺した。衆が誰に従うべきか分からずにいると、経略副使の朱泚は城の北に陣し、その弟の滔が牙内の兵を率いて、ひそかに百余人に衆の中で「節度使は朱副使でなければならぬ」と大声で言わせ、衆はみな従った。泚はそこで権知留後となり、使者を遣わして状を奏した。冬十月辛未、泚を検校左常侍・幽州盧竜節度使とした。
- 大暦八年(773年)春正月、昭義節度使・相州刺史の薛嵩が薨じた。子の平は十二歳。将士が脅して帥にしようとし、平は偽って承知したが、やがて叔父の㟧に譲り、夜、父の喪を奉じて郷里へ逃げ帰った。壬午、制して㟧に留後を知らせた。
- 秋八月辛未、幽州節度使の朱泚が弟の滔に精騎五千を率いさせて涇州へ防秋に赴かせた。安禄山の反以来、幽州の兵が働いたことはなかったので、滔が来ると帝は大いに喜び、労いと賜与が甚だ厚かった。
- 九月、魏博節度使の田承嗣が安・史父子のために祠堂を建てて「四聖」と称し、あわせて宰相の位を求めた。帝は内侍の孫知古に、使いのついでにそれとなく毀たせた。冬十月甲辰、承嗣に同平章事を加えて褒めた。
- 大暦九年(774年)春三月戊申、皇女の永楽公主を魏博節度使の田承嗣の子の華に嫁がせることとした。帝はその心を固く結びたかったのだが、承嗣はいよいよ驕り高ぶった。
- 夏六月、盧竜節度使の朱泚が弟の滔に上表させて入朝を請い、あわせて自ら歩騎五千を率いて防秋に当たりたいと請うた。帝は許し、あらかじめ京師に大邸を築いて待った。九月庚子、泚は京師に至った。
- 冬十月、魏博節度使の田承嗣が昭義の将吏を誘って乱を起こさせた。
- 大暦十年(775年)春正月丁酉、昭義兵馬使の裴志清が留後の薛㟧を逐い、その衆を率いて承嗣に帰した。承嗣は救援と称して兵を率いて相州を襲って取り、㟧は洺州へ走って上表して入朝を請い、許された。
- 乙巳、朱泚が上表して闕下に留まることを請い、弟の滔に幽州盧竜留後を知らせるよう請い、許された。
- 昭義の禆将の薛択が相州刺史、薛雄が衛州刺史、薛堅が洺州刺史であったが、いずれも薛嵩の一族である。戊申、帝は内侍の孫知古を魏州へ遣わして田承嗣に各自の封疆を守るよう諭させたが、承嗣は詔を奉じない。癸丑、大将の盧子期を遣わして洺州を取らせ、楊光朝に衛州を攻めさせた。
- 二月乙丑、田承嗣が衛州刺史の薛雄を誘い、雄が従わぬので刺客に殺させ、その家を皆殺しにした。相・衛の四州の地をことごとく占拠して長吏を自ら置き、その精兵と良馬を掠めてすべて魏州に帰し、孫知古に迫ってともに磁・相二州を巡らせ、将士に耳を切り顔を傷つけさせて承嗣を帥とするよう請わせた。丙子、華州刺史の李承昭に昭義留後を知らせた。三月乙巳、薛㟧が闕下に詣って罪を請い、帝は許して問わなかった。
- はじめ成徳節度使の李宝臣と淄青節度使の李正己はともに田承嗣に軽んじられていた。宝臣の弟の宝正は承嗣の娘を娶って魏州にいたが、承嗣の子の維と毬を打っていたとき、馬が驚いて誤って維に当たり、維は死んだ。承嗣は怒って宝正を囚え、宝臣に告げた。宝臣は教育が行き届かなかったと詫び、杖を封じて承嗣に渡して打たせようとしたが、承嗣はそのまま宝正を杖殺した。これによって両鎮は仲違いした。承嗣が命に背くと、宝臣も正己もみな上表して討伐を請うた。帝もその隙に乗じて承嗣を討とうとした。
- 夏四月乙未、詔して承嗣を永州刺史に貶し、あわせて河東・成徳・幽州・淄青・淮西・永平・汴宋・河陽・澤潞の諸道に兵を発して魏博に臨ませ、承嗣がなお従わなければただちに進討させることとし、罪は承嗣とその甥の悦に止め、その他の将士・弟姪は自ら抜け出せば一切問わぬこととした。当時、朱滔はまだ恭順で、宝臣および河東節度使の薛兼訓とともに北を攻め、正己は淮西節度使の李忠臣らとともに南を攻めた。
- 五月乙未、承嗣の将の霍栄国が磁州を挙げて降った。丁未、李正己が徳州を攻めて抜いた。李忠臣が永平・河陽・懐澤の歩騎四万を統べて衛州に進攻した。
- 六月辛未、田承嗣は将の裴志清らに冀州を攻めさせたが、志清はその衆を率いて李宝臣に降った。甲戌、承嗣は自ら冀州を囲んだ。宝臣は高陽軍使の張孝忠に精騎四千を率いさせて防がせ、宝臣の大軍も相次いで至ると、承嗣は輜重を焼いて逃げた。孝忠はもと奚の人である。
- 田承嗣は諸道の兵が四方から集まり、部将の多くが叛いたので恐れ、秋八月、使者を遣わして上表し、身を束ねて朝廷に帰したいと請うた。己丑、承嗣は将の盧子期に磁州を侵させた。
- 九月、李宝臣と李正己が棗強で合流し、進んで貝州を囲んだ。田承嗣が兵を出して救った。両軍がそれぞれ士卒を饗応したが、成徳の賞は厚く平盧の賞は薄かった。終わってから平盧の士卒に怨みの言葉が出たので、正己は変を恐れて兵を引いて退き、宝臣も退いた。李忠臣はこれを聞いて衛州を解いて南へ黄河を渡り、陽武に駐屯した。宝臣は朱滔と滄州を攻めたが、承嗣の従弟の庭玠が守り、落とせなかった。
- 冬十月、盧子期が磁州を攻めて城が陥りかけたが、李宝臣と昭義留後の李承昭がともに救い、清水で子期を大破して捕らえ、京師に送って斬った。河南の諸将もまた陳留で田悦を大破した。
- 田承嗣は恐れた。はじめ李正己が使者を魏州に遣わしたとき、承嗣はこれを囚えていたが、ここに至って礼を尽くして帰し、使者を遣わして境内の戸口・甲兵・穀帛の数をすべて記して与えて言った。「承嗣は今年八十六。いつ死ぬか分からぬ。子らは不肖、悦もまた気弱です。今日ある物はすべて公のために守っているだけのこと。どうして公の軍旅を煩わすに値しましょう」。そして使者を廷に立たせて南に向かって拝し、書を授けた。さらに正己の像を描いて香を焚いて仕えた。正己は喜んで兵を按じて進まず、これによって河南の諸道の兵もみな進めなくなった。承嗣は南を顧みる憂いがなくなり、北方に専念できるようになった。
- 帝は李宝臣の功を嘉して中使の馬承倩に詔を持たせて労わせた。帰るとき、宝臣がその宿舎に赴いて縑百匹を贈ったが、承倩は罵って道に投げ捨てた。宝臣はその左右に恥じ入った。兵馬使の王武俊が宝臣に説いた。「今、公は軍中にあって新たに功を立てられた。それでもあの小僧はあの態度です。まして寇が平らいだのちに、一幅の詔書で闕下に召し戻されれば、一匹夫にすぎません。承嗣を放って自分の資本とするに如くはありません」。宝臣はこうして寇を弄ぶ心を抱いた。
- 承嗣は范陽が宝臣の郷里で、常々欲しがっていることを知り、石に「二帝は功を同じくして勢いは万全、田を将いて侶となし幽燕に入る」という讖文を刻ませ、ひそかに宝臣の領内に埋め、望気の者に「あそこに玉の気がある」と言わせた。宝臣が掘って得ると、さらに客を遣わして説かせた。「公は朱滔とともに滄州を取ろうとされているが、得ても地は国に帰し、公のものにはなりません。公が承嗣の罪を赦してくださるなら、滄州を公に献じましょう。そのうえで公に従って范陽を取り、お役に立ちたい。公が精騎で前駆し、承嗣が歩卒で続けば、落とせぬはずがありません」。宝臣は喜び、符讖に合うと思い、そこで承嗣と通謀してひそかに范陽を図った。承嗣も国境に兵を並べた。
- 宝臣は朱滔の使者に言った。「朱公は姿かたちが神のようだと聞く。画像を得て見たい」。滔が与えると、宝臣は射堂に置き、諸将に見せて「まことに神人だ」と言った。滔が瓦橋に陣すると、宝臣は精騎二千を選び、夜通し三百里を駆けて襲わせ、「射堂の姿の者を取れ」と命じた。当時、両軍は睦まじかったので、滔は変を予想せず、あわてて出て戦って敗れたが、たまたま別の服を着ていて助かった。宝臣は勝ちに乗じて范陽を取ろうとしたが、滔は雄武軍使で昌平の劉怦に留守府を守らせ、宝臣は備えがあると知ってあえて進まなかった。
- 承嗣は幽州と恒州が戦を交えたと聞くと、ただちに軍を率いて南へ還り、宝臣に使いをやって言わせた。「河内に警急があり、公にお供する暇がない。石の讖文はわしが戯れに作ったものだ」。宝臣は恥じ怒って退いた。宝臣は朱滔と隙が生じたので、張孝忠を易州刺史として精騎七千を率いさせて備えた。
- 十一月丁酉、田承嗣の将の呉希光が瀛州を挙げて降った。十二月、田承嗣が入朝を請い、李正己がしばしばそのために上表して自新を許すよう乞うた。
- 大暦十一年(776年)春二月庚辰、田承嗣がまた使者を遣わして上表し入朝を請うた。帝はそこで詔を下して承嗣の罪を赦し、官爵を復し、家族とともに入朝することを許し、その部下で朝命を拒んだ者も一切問わぬこととした。
- 夏五月、汴宋留後の田神玉が卒した。都虞候の李霊曜が兵馬使で濮州刺史の孟鑒を殺し、北の田承嗣と結んで援けとした。癸巳、永平節度使の李勉に汴宋など八州の留後を兼ねさせた。乙未、霊曜を濮州刺史としたが、霊曜は詔を受けない。六月戊午、霊曜を汴宋留後として使者を遣わして宣慰した。秋七月、田承嗣が兵を遣わして滑州を侵し、李勉を破った。
- 李霊曜は留後となるといよいよ驕慢になり、その一党をことごとく管内八州の刺史・県令とし、河北の諸鎮に倣おうとした。八月甲申、詔して淮西節度使の李忠臣、永平節度使の李勉、河陽三城使の馬燧に討たせ、淮南節度使の陳少遊、淄青節度使の李正己もみな兵を進めて霊曜を撃った。
- 汴宋兵馬使・摂節度副使の李僧恵は霊曜の謀主であった。宋州牙門将の劉昌が僧の神表を遣わしてひそかに僧恵を説き、僧恵が呼んで計を問うと、昌は泣いて逆順を陳べた。僧恵はそこで汴宋の牙将の高憑・石隠金とともに神表に表を奉じて京師に詣らせ、霊曜討伐を請うた。九月壬戌、僧恵を宋州刺史、憑を曹州刺史、隠金を鄆州刺史とした。
- 乙丑、李忠臣と馬燧が鄭州に陣した。霊曜が兵を率いて迎え撃つと、両軍は不意を衝かれて栄沢に退き、淮西の軍士は十のうち五、六が潰え去り、鄭州の士民はみな驚いて東都へ逃げ込んだ。忠臣が淮西へ帰ろうとすると、燧は固く反対して言った。「順をもって逆を討つのだ。落とせぬことを何で憂えよう。どうして自ら功名を棄てるのか」。そして壁を堅くして動かなかった。忠臣はこれを聞いて散った兵を少しずつ収め、数日でみな集まり、軍勢はまた振るった。
- 戊辰、李正己が鄆・濮の二州を落としたと奏した。壬申、李僧恵が雍丘で霊曜の兵を破った。冬十月、李忠臣と馬燧が進んで霊曜を撃ち、忠臣は汴水の南、燧は北を行き、しばしば霊曜の兵を破った。壬寅、陳少遊の前軍と合流し、汴州城の西で霊曜と大戦した。霊曜は敗れて城に入って固く守り、癸卯、忠臣らが囲んだ。
- 田承嗣は田悦に兵を率いさせて霊曜を救わせ、匡城で永平・淄青の兵を破り、勝ちに乗じて汴州に進み、乙巳、城の北数里に陣した。丙午、忠臣は禆将の李重倩に軽騎数百を率いさせて夜のうちにその営に入らせ、縦横に貫いて数十人を斬って帰らせた。営中は大いに驚いた。忠臣と燧は大軍でこれに乗じ、鬨をあげて突入すると、悦の衆は戦わずして潰え、悦は身一つで北へ走り、将士の死者は数えきれぬほど重なった。霊曜はこれを聞いて門を開いて夜逃げし、汴州は平定された。重倩はもと奚の人である。丁未、霊曜は韋城に至り、永平の将の杜如江が捕らえた。
- 燧は忠臣が暴戻なのを知って自分の功を譲り、汴城に入らず軍を西の板橋に駐屯させた。忠臣は入城して果たしてその功を独占した。宋州刺史の李僧恵が功を争うと、忠臣は会合の折に撃ち殺し、さらに劉昌も殺そうとしたが、昌は逃れて免れた。甲寅、李勉が李霊曜を械にかけて京師に送り、斬った。
- 十二月丁亥、李正己と李宝臣にともに同平章事を加えた。戊戌、昭義節度使の李承昭が病篤しと上表し、澤潞行軍司馬の李抱真に磁・邢両州の留後を兼ね知らせた。庚戌、淮西節度使の李忠臣に同平章事を加え、あわせて汴州刺史を領させ、治所を汴州に移した。
- 大暦十二年(777年)春三月乙卯、兵部尚書・同平章事・鳳翔懐澤潞秦隴節度使の李抱玉が薨じ、弟の抱真がそのまま懐澤潞留後を領した。
- 田承嗣はついに入朝せず、また李霊曜を助けたので、帝はあらためて討伐を命じた。承嗣はまた上表して謝罪し、帝もどうすることもできなかった。庚午、承嗣の官爵をすべて復し、入朝には及ばぬこととした。
- 冬十二月丙戌、朱泚が涇州から京師に還った。庚子、朱泚に隴右節度使を兼ねさせ、河西・澤潞行営を知らせた。
- 平盧節度使の李正己はもと淄・青・斉・海・登・莱・沂・密・徳・棣の十州の地を持っていたが、李霊曜の乱で諸道が兵を合わせて攻めた際、得た地はそれぞれ自分のものとした。正己はさらに曹・濮・徐・兗・鄆の五州を得たので、青州から鄆州に治所を移し、子で前淄州刺史の納に青州を守らせた。癸卯、納を青州刺史とした。正己は刑罰が厳しく、いたるところ二人で語り合うこともできなかったが、法令は統一され、賦は均等で軽かった。兵十万を擁して東方に雄拠し、隣藩はみなこれを畏れた。
- このとき田承嗣は魏・博・相・衛・洺・貝・澶の七州、李宝臣は恒・易・趙・定・深・冀・滄の七州に拠り、それぞれ五万の衆を擁し、梁崇義は襄・鄧・均・房・復・郢の六州に拠って二万の衆を持ち、互いに根を張り絡み合っていた。朝廷に仕えるといっても法令は用いず、官爵・甲兵・租賦・刑殺はみな自分で決めた。帝は寛仁でその為すに任せた。朝廷が城一つを修め兵一人を増やしただけで彼らは怨言を吐き、猜疑と見なした。朝廷は常にそのために工事をやめたが、彼らは自分の領内で塁を築き兵を修めて休む日がなかった。それゆえ中国にあって名は藩臣といっても、実は蛮貊の異域と同じであった。
- 大暦十三年(778年)秋八月乙亥、成徳節度使の李宝臣が本姓の張に復することを請い、許された。
- 大暦十四年(779年)春二月癸未、魏博節度使の田承嗣が薨じた。子は十一人あったが、甥の中軍兵馬使の悦に才があるとして軍事を知らせ、諸子に補佐させた。甲申、悦を魏博留後とした。
- 淮西節度使の李忠臣は貪欲残忍で色を好み、将吏の妻や娘で美しい者の多くを無理に犯した。軍政はすべて妹婿の節度副使の張恵光に委ね、恵光は勢いを笠に着て横暴を働き、軍も州も苦しんだ。忠臣はさらに恵光の子を牙将としたが、その横暴は父以上であった。左廂都虞候の李希烈は忠臣の一族の子で衆に信服されており、衆心の怨りに乗じて、三月丁未、大将の丁暠らとともに恵光父子を殺して忠臣を逐った。忠臣は単騎で京師へ走った。帝はその功に免じて検校司空・同平章事のまま京師に留め、希烈を蔡州刺史・淮西留後とし、永平節度使の李勉に汴州刺史を兼ねさせ、汴・潁の二州を加えて汴州に鎮を移した。
- 成徳節度使の張宝臣は本姓に復することを請ったものの、かえって不安になり、あらためて姓を賜るよう請うた。夏四月癸未、また李姓を賜った。
- 五月戊子、淮西留後の李希烈を節度使とした。辛卯、河陽鎮遏使の馬燧を河東節度使とした。六月庚戌、朱泚を鳳翔尹とした。秋九月甲戌、淮西を淮寧と改めた。
徳宗建中元年(780年)――劉文喜の乱
- はじめ左僕射の劉晏が吏部尚書、楊炎が侍郎であったころ、二人は仲が悪かった。元載の死には晏の力が働いていた。帝が即位すると、晏が長く財利の権を掌っていたので衆はこれを憎み、転運使を罷めるべきだと上言する者が多かった。炎はそこで建言した。「尚書省は国政の本です。近ごろ諸使を置いてその権を分け奪っております。今こそ旧に復すべきです」。帝は従い、正月甲子、詔して天下の銭穀をみな金部・倉部に帰し、晏の転運・租庸・青苗・塩鉄などの使を罷めた。
- 二月丙申朔、黜陟使十一人に分かれて天下を巡らせた。これより先、魏博節度使の田悦は朝廷に仕えてなお恭順であった。河北黜陟使の洪経綸は時務に暗く、悦の軍が十万と聞いて、四万を罷めて農に還らせよという符を下した。悦は表向き命に従って符のとおり罷めたが、やがて罷免される者を集めて激怒させて言った。「お前たちは長く軍中にあり、父母妻子がある。今日にわかに黜陟使に罷められて、何をもって衣食を得るのか」。衆は大いに哭した。悦はそこで家財を出して賜り、それぞれ部伍に還らせた。こうして軍士はみな悦に恩を感じ、朝廷を怨んだ。
- 楊炎が元載の遺策を用いて原州に築城することを奏した。帝は中使を涇原節度使の段秀実に遣わして利害を尋ねさせた。秀実は、今は辺備がまだ手薄で事を起こして寇を招くべきではないと答えた。炎は怒り、自分を妨げるものと見なして、秀実を召して司農卿とした。丁未、邠寧節度使の李懐光に四鎮北庭行営・涇原節度使を兼ねさせて原州に軍を移し、四鎮北庭留後の劉文喜を別駕とした。
- 帝は楊炎の言により、奏事が事実でないことにかこつけて、己酉、劉晏を忠州刺史に貶した。癸丑、澤潞留後の李抱真を節度使とした。
- 楊炎は原州に築城して秦・原を回復しようとし、李懐光を前に置いて工事を督させ、朱泚と崔寧にそれぞれ一万を率いさせて後ろで援けさせ、詔を涇州に下して築城の道具を用意させた。涇州の将士は怒って言った。「我らが国家の西門の屏となって十余年。はじめ邠州に居てようやく農桑を営み土着の安らぎを得たのに、涇州に移されて茨を払い軍府を立て、席の温まる間もなくまた塞外に投げ出される。我らに何の罪があってここまでされるのか」。李懐光は邠寧の帥になるとすぐに温儒雅らを誅し、軍令は厳峻であった。涇原を兼ねると、諸将はみな恐れて「あの五将に何の罪があって殺されたのか。今またここへ来る。我らに憂いがないはずがあろうか」と言った。
- 劉文喜は衆心の不安に乗じて涇州に拠って詔を受けず、上疏してあらためて段秀実を帥とするよう求め、さもなくば朱泚をと言った。癸亥、朱泚に四鎮北庭行軍・涇原節度使を兼ねさせて懐光に代えた。
- 劉文喜はまた詔を受けず、自ら旌節を得ようとした。夏四月乙未朔、涇州に拠って叛き、子を人質として吐蕃に送って援けを求めた。帝は朱泚と李懐光に討たせ、さらに神策軍使の張巨済に禁兵二千を率いさせて助けた。
- 五月、朱泚らが涇州に劉文喜を囲み、出入りを断ったが、壁を閉ざして戦わず、久しく落とせなかった。天は旱で、徴発と輸送に内外は騒然とした。朝臣が上書して文喜を赦して疲れた人々を休ませるよう請うことは数えきれなかったが、帝はみな聴かずに言った。「小さな禍根も除かずして、何をもって天下に令しよう」。
- 文喜がその将の劉海賓を入奏させた。海賓は帝に言った。「臣は陛下の潜邸の部曲です。どうして叛く者に付きましょうか。必ず陛下のためにその首を梟して献じます。ただ文喜が今求めているのは節だけです。どうか陛下、しばらくお与えください。文喜が必ず気を緩めれば、臣の計が施せます」。帝は言った。「名器は人に貸せぬ。お前が功を立てられるならもとより結構だが、わが節は渡せぬ」。海賓を帰らせて文喜に告げさせ、攻撃は元のままとした。帝は御膳を減らして軍士に給し、城中の将士で春の衣を受けるべき者には賜与を従前どおりとした。こうして衆は帝の意が動かせぬと知った。当時、吐蕃はちょうど唐と睦まじかったので兵を発さず、城中は勢い窮まった。庚寅、海賓は諸将とともに文喜を殺して首を届けたが、原州の築城はついに実現しなかった。
- 帝の即位以来、李正己は内心不安で、参佐を入朝させて奏事させた。折しも涇州の勝報が届いたので、帝はその者に文喜の首を見せてから帰らせた。正己はいよいよ恐れた。
- 六月、術士の桑道茂が上言した。「陛下は幾日もせずしばらく離宮の厄がありましょう。臣が望むに奉天に天子の気があります。その城を高く大きくして非常に備えるべきです」。辛丑、京兆に丁夫数千を発して六軍の士と合わせて奉天の城を築かせた。
- 秋七月、荊南節度使の庾準が楊炎の意を迎え、忠州刺史の劉晏が朱泚に書を送って救いを求め、その言葉に怨望が多いと奏し、さらに州兵を召し補って朝命を拒もうとしていると奏した。炎はこれを事実として証立てた。帝はひそかに中使を忠州へ遣わして縊り殺させ、己丑になってから死を賜う詔を下した。天下はこれを冤とした。
- 八月丁未、盧竜隴右涇原節度使の朱泚に中書令を兼ねさせ、盧竜・隴右節度はもとのままとした。舒王の謨を四鎮北庭行軍・涇原節度大使とし、涇州の牙前兵馬使で河中の姚令言を留後とした。謨は邈の子で、早くに父を失い、帝が子として遇していた。
建中二年(781年)――李惟岳の継承をめぐって
- 春正月戊辰、成徳節度使の李宝臣が薨じた。宝臣は軍府を子で行軍司馬の惟岳に伝えたかったが、惟岳が若く暗弱なので、あらかじめ制しがたい諸将を誅した。深州刺史の張献誠らに至っては十余人が同日に死ぬこともあった。宝臣が易州刺史の張孝忠を召しても孝忠は行かず、その弟の孝節に召しに行かせても、孝忠は孝節に宝臣へこう伝えさせた。「諸将に何の罪があって首を並べて戮せられるのか。孝忠は死を恐れてあえて参らぬが、あえて叛きもせぬ。ちょうど公が入朝なさらぬのと同じ気持ちだ」。孝節が「そんなことを言えば孝節は必ず死にます」と泣くと、孝忠は「行けば二人とも命を落とす。わしがここにいる以上、必ずお前を殺しはすまい」と言った。帰ってみると、宝臣は果たして罪にしなかった。
- 兵馬使の王武俊は位は低かったが勇があったので、宝臣はとくに親愛し、娘をその子の士真に嫁がせた。士真もまた宝臣の側近と厚く結んでいた。それゆえ孝忠と武俊だけが身を全うできた。
- 宝臣が薨じると、孔目官の胡震と家僮の王它奴が惟岳に喪を秘するよう勧め、二十余日、宝臣の表を偽って惟岳の継襲を求めた。帝は許さず、給事中で汲の人の班宏を遣わして宝臣の病を見舞わせ、あわせて諭させた。惟岳が宏に厚く賄賂を贈っても、宏は受けずに帰って報じた。惟岳はそこで喪を発して自ら留後となり、将佐に共同で奏させて旌節を求めたが、帝はまた許さなかった。
- はじめ宝臣は李正己・田承嗣・梁崇義と結んで土地を子孫に伝えることを約していた。ゆえに承嗣が死んだとき、宝臣は力を尽くして朝廷に請い、田悦に節を授けさせ、代宗も従ったのである。悦は襲位の当初は朝廷に仕えて礼が甚だ恭しかったが、河東節度使の馬燧は必ず反すると上表して、あらかじめ備えるよう請うていた。ここに至って悦がしばしば惟岳のために継襲を請うと、帝は前の弊を改めようとして許さなかった。
- ある者が諫めた。「惟岳はすでに父の業に拠っております。それに従って任命しなければ必ず乱を起こしましょう」。帝は言った。「賊はもともと乱を起こす資本がない。みなわが土地を借り、わが位号を仮りて衆を集めているのだ。かつて彼らの望みどおりに任命したことは多い。それでも乱はいよいよ増した。とすれば爵命は乱を止めるに足らず、かえって乱を助長するばかりだ。ならば惟岳は必ず乱を起こす。任命してもせずとも同じことだ」。ついに許さなかった。
- 悦はそこで李正己とそれぞれ使者を惟岳のもとへ遣わし、ひそかに兵を整えて命を拒むことを謀った。魏博節度副使の田庭玠が悦に言った。「お前は伯父の遺業に頼っている。ただ謹んで朝廷に仕えて座して富貴を享ければよいではないか。なぜ理由もなく恒・鄆と組んで叛臣となるのか。お前は兵が起こって以来、逆乱した者で誰か家を保てた者があるか見てみるがよい。どうしてもお前の志を行うなら、まずわしを殺せ。わしに田氏の族滅を見せてくれるな」。そして病と称して家に臥した。悦が自ら詫びに行っても庭玠は門を閉じて入れず、ついに憂えて卒した。
- 成徳判官の邵真は李惟岳の謀を聞いて泣いて諫めた。「先の相公は国の厚恩を受けられた。大夫が喪服の身でにわかに国に背こうとされるのは、まことにいけません」。そして惟岳に李正己の使者を捕らえて京師に送り、あわせて討伐を請うよう勧めた。「そうすれば朝廷は大夫の忠を嘉し、旄鉞もおそらく得られましょう」。惟岳はそのとおりだと思い、真に奏を草させた。ところが長史の畢華が言った。「先公は二道と好みを結んで二十余年。どうして一朝にして棄てられましょう。それにその使者を捕らえたところで、朝廷が信ずるとは限りません。正己が突然襲って来れば、孤軍で援けなく、どう当たるのですか」。惟岳はまたこれに従った。
- 前定州刺史の谷従政は惟岳の伯父にあたる。胆略があり書もよく読み、王武俊らもみな敬い憚っていたが、宝臣に忌まれたので病と称して門を閉ざしていた。惟岳もこれを忌んで事を図らず、日夜ただ胡震・王它奴らと計議し、金帛を多く散じて将士を喜ばせていた。
- 従政が惟岳に会って言った。「今、海内に事はない。都から来る者はみな天子は聡明英武で太平を致そうとの志があり、諸侯の子孫が土地を専らにするのを深く望まぬと言う。お前は真っ先に詔命に背いた。天子は必ず諸道を遣わして討たせよう。将士が賞を受ける折にはみな大夫のために死力を尽くすと言おうが、ひとたび戦って勝てなければ各自が命を惜しみ、誰が離心を抱かずにおろう。権のある大将は危うきに乗じ隙を窺い、みなお前を取って自分の功にしようと思うだろう。しかも先の相公が殺した高位の大将はほぼ百を数える。崩れかけたとき、その子弟で仇を報いようとする者がどれほどいるか。さらに相公は幽州と隙があり、朱滔兄弟は常々我らに歯噛みしている。今、天子は必ず滔を将とする。滔とわが方は柝の音が届くほど近い。命を聞けば疾駆して来るさまは、虎狼が獣を得たようであろう。どうして当たれるか」。
- 「昔、田承嗣は安・史父子に従って反し、百戦を経て凶悍は天下に鳴った。詔に背いて兵を挙げ、自ら無敵と称した。それが盧子期が捕らえられ呉希光が国に帰すると、承嗣は天を指して涙を垂れ、身の置き所がなくなった。先の相公が兵を按じて進まず、その取りなしをしてくれたおかげで、先帝の寛仁が赦して誅さなかったのだ。さもなくば田氏に種など残ったであろうか。まして、お前は富貴に生まれ育ち、歯も髪もまだ若く、艱難を経ていない。それが左右の言を信じ、承嗣の真似をしようというのか」。
- 「お前のために計るなら、将佐に辞して惟誠に軍府を摂領させ、自らは入朝して宿衛に留まることを乞い、あわせて惟誠にひとまず摂事させ、恩命は聖旨に委ねると申し上げるに如くはない。帝は必ずお前の忠義を喜ぶ。たとい大位は得られずとも栄禄は失わず、永く憂いはない。さもなくば大禍が来る。悔いても及ばぬぞ。わしもお前が日ごろわしを疎んじ忌んでいるのは知っているが、舅と甥の情、事が急なので言わずにおれぬのだ」。惟岳とその左右はその言の切実さを見て、いよいよ憎んだ。従政はまた門を閉ざして病と称した。
- 惟誠は惟岳の庶兄である。謙虚篤厚で書を好み、衆心を得ており、その同母の妹が李正己の子の嫁であった。この日、惟岳は惟誠を正己のもとへ送った。正己は張姓に復させ、そのまま淄青に仕えさせた。惟岳が王它奴を従政の家に遣わして起居を探らせると、従政は薬を飲んで卒した。死に臨んで言った。「わしは死を憚らぬ。ただ張氏が今や族滅するのを哀しむ」。
- 劉文喜が死んだとき、李正己や田悦らはみな不安になった。劉晏が死ぬと正己らはいよいよ恐れ、互いに言い合った。「我らの罪悪が、どうして劉晏と比べられよう」。折しも汴州の城が狭いので東方に広げたところ、人々は帝が東封しようとしているから汴州に築城するのだと噂した。正己は恐れて兵一万を発して曹州に駐屯させ、田悦もまた兵糧を集めて備え、梁崇義・李惟岳と遠く呼応した。河南の士民は騒然として驚いた。
- 永平軍はもと汴・宋・滑・亳・陳・潁・泗の七州を領していたが、丙子、宋・亳・潁を分けて別の節度使とし、宋州刺史の劉洽をこれに充て、泗州を淮南に隷属させた。また東都留守の路嗣恭を懐・鄭・汝・陝四州河陽三城節度使とし、十日後にはさらに永平節度使の李勉に洽と嗣恭の二道を都統させ、あわせて鄭州を割いて隷属させ、かつて将であった者を選んで諸州の刺史とし、正己らに備えた。
- 楊炎は劉晏を殺してから朝野の反感を買った。李正己はしばしば上表して晏の罪状を問い、朝廷を譏った。炎は恐れ、腹心を諸道に分け遣わして、宣慰を名目に、実は節度使にひそかに「晏は昔、姦邪に付いて独孤后を立てるよう請うた。帝がそれを自ら憎んで殺したのだ」と告げさせた。帝はこれを聞いて憎み、これによって炎を誅する志を抱いたが、隠して表さなかった。乙巳、炎を中書侍郎に移し、盧杞を門下侍郎に抜擢して、ともに同平章事とし、炎に専任しないようにした。丙午、汴宋軍の名を宣武と改めた。
- 梁崇義は李正己らと結んではいたが兵勢は弱く、礼儀は最も恭しかった。入朝を勧める者があると、崇義は言った。「来公は国に大功があった。上元中、宦官に讒せられて命を引き延ばして遅れ、代宗が位を継ぐと馬を待たずに入朝したが、それでも族誅を免れなかった。わしは年久しく咎が積もっている。どうして行けよう」。淮寧節度使の李希烈がしばしば討伐を請うので、崇義は恐れていよいよ武備を修めた。流人の郭昔が崇義の変を告げると、崇義はこれを聞いて罪を請うた。帝は崇義のために昔を杖打って遠くへ流し、金部員外郎の李舟を襄州へ遣わして旨を諭し安んじさせた。
- 舟はかつて使いとして劉文喜のもとへ行き、禍福を陳べたところ文喜に囚われたが、たまたま帳下の者が文喜を殺して降った。諸道の跋扈する者はこれを聞いて、舟は城を覆し将を殺す者だと言い合った。襄州に至ると崇義はこれを憎み、舟はまた崇義に入朝を勧めて言葉がかなり切直だったので、崇義はいよいよ不快であった。諸道に宣慰の使者を遣わした折、舟がまた襄州に赴くと、崇義は境を拒んで入れず、軍中が疑い恐れているので他の使者に代えてほしいと上言した。当時、両河の諸鎮はちょうど猜疑を抱いていたので、帝は恩信を示して安んじようとし、夏四月庚寅、崇義に同平章事を加え、妻子にもことごとく封賞を加え、鉄券を賜り、御史の張著に手詔を持たせて召し、あわせてその禆将の藺杲を鄧州刺史とした。
- 五月、田悦は李正己・李惟岳と計を定めて兵を連ねて命に背くことを決め、兵馬使の孟祐に歩騎五千を率いさせて北の惟岳を助けさせた。薛嵩が死んだとき田承嗣が洺・相の二州を奪い取り、朝廷は邢・磁の二州と臨洺県だけを得ていた。悦は山を境としたいと思い、「邢・磁は両の眼がわが腹中にあるようなもの。取らねばならぬ」と言い、兵馬使の康愔に八千人を率いさせて邢州を囲み、別将の楊朝光に五千人で邯鄲の西北に柵を築かせて昭義の救兵を断ち、自ら数万を率いて臨洺を囲んだ。邢州刺史の李共と臨洺の将の張伾は壁を堅くして守った。
- 貝州刺史の邢曹俊は田承嗣の旧将で、老いて謀があった。悦は牙官の扈㟧を寵信して曹俊を疎んじていたが、臨洺を攻めるにあたり曹俊を召して計を問うた。曹俊は言った。「兵法に十をもって囲み五をもって攻めるといいます。尚書は逆をもって順を犯すのですから、勢いはなおさら釣り合いません。今、堅城の下に兵を据えれば、糧は尽き兵は尽きる。自ら滅びる道です。一万の兵を崞口に置いて西からの師を遏めれば、河北二十四州はみな尚書のものとなりましょう」。諸将は自分たちと違うことを憎んでともにそしり、悦はその策を用いなかった。
- 六月、張著が襄陽に至ると、梁崇義はいよいよ恐れ、兵を並べて会った。藺杲は詔を得てもあえて開かず、馳せて崇義に会って命を請うた。崇義は著の前で号泣したが、ついに詔を受けず、著は復命した。
- 癸巳、李希烈の爵を進めて南平郡王とし、漢南漢北兵馬招討使を加え、諸道の兵を督して崇義を討たせた。楊炎が諫めて言った。「希烈は董秦の養子で、親任は比類なかったのに、ついに秦を逐ってその位を奪いました。人となりは狼のごとく残忍で親しむところがない。功もないのになお強情で法に従わぬ者です。崇義を平らげさせたら、何をもって制するのですか」。帝は聴かず、炎が強く争ったので、帝はますます不快になった。
- 荊南の牙門将の呉少誠が梁崇義を取る策を李希烈に売り込み、希烈は少誠を前鋒とした。少誠は幽州潞の人である。
- このとき、内は関中から西は蜀漢、南は江淮・閩越、北は太原に至るまで、いたるところ兵を出していた。しかも李正己が兵を遣わして徐州の甬橋・渦口を扼し、梁崇義が襄陽で兵を構えたので、輸送路はみな絶えた。人心は震え恐れ、江淮の進奉船千余艘が渦口に泊まってあえて進まなかった。帝は和州刺史の張万福を濠州刺史とした。万福は渦口へ馳せつけ、馬を岸上に立てて進奉船を出させた。淄青の将士は岸に停まって睨むばかりで動けなかった。
- 壬子、懐鄭河陽節度副使の李芃を河陽懐州節度使とし、京畿の五県を割いて隷属させた。
- 秋七月、李希烈は長雨を理由に進軍しなかった。帝が怪しむと、盧杞がひそかに言った。「希烈が遷延するのは楊炎のせいです。陛下はどうして炎一日の名を惜しんで大功を損なわれるのですか。しばらく炎の相を免じて希烈を喜ばせ、事が平らいでからまた用いても差し支えありません」。帝はそのとおりだと思い、庚申、炎を左僕射として政事から退けた。
- 辛巳、邠寧節度使の李懐光に朔方節度使を兼ねさせた。
臨洺の戦い
- 癸未、河東節度使の馬燧、昭義節度使の李抱真、神策先鋒都知兵馬使の李晟が臨洺で田悦を大破した。
- このとき悦は臨洺を数か月攻めても落とせなかった。城中は食糧が尽きかけ、府庫は空になり、士卒の死傷は多かった。張伾は愛娘を着飾らせて将士の前に出して拝させ、言った。「諸君の守戦の苦労は甚だしい。伾の家には他に何もない。どうかこの娘を売って将士一日の費えとしてくれ」。衆はみな哭して「死力を尽くします。賞のことなど申しません」と言った。
- 李抱真が朝廷に急を告げ、詔して馬燧に歩騎二万を率いて抱真とともに悦を討たせ、さらに李晟に神策の兵を率いて同行させ、また幽州留後の朱滔に惟岳を討たせた。燧らは軍がまだ険を出ぬうちに、まず使者に書を持たせて悦に穏やかな言葉で諭させた。悦は燧が自分を恐れていると思って備えを設けなかった。
- 燧は抱真と兵を合わせて八万で壺関を東へ下り、邯鄲に陣して悦の支軍を撃って破った。悦はちょうど臨洺を急攻しており、李惟岳の兵五千を分けて楊朝光を助けさせた。翌日、燧らは進んで朝光の柵を攻めた。悦が一万余を率いて救うと、燧は大将の李自良らに双岡で防がせ、「悦を通したら必ずお前を斬る」と命じた。自良らが力戦して悦の軍が退くと、燧は火車を押し出して朝光の柵を焼き、朝光を斬って五千余級を獲た。
- 五日後、燧らは臨洺に進軍した。悦は全軍を挙げて力戦し、百余合に及んだが、悦の兵は大敗して一万余級を斬られ、悦は夜のうちに兵を率いて逃げ、邢州の囲みも解けた。
- このとき平盧節度使の李正己はすでに薨じ、子の納が隠して勝手に軍務を執っていた。悦は納および李惟岳に救いを求め、納は大将の衛俊に一万を率いさせ、惟岳は三千人を遣わして救わせた。悦は散った兵を収めて二万余人を得、洹水に陣し、淄青の軍がその東、成徳の軍がその西にあって首尾相応じた。馬燧は諸軍を率いて進んで鄴に駐屯し、河陽の兵を求めて助けとしたいと奏し、詔して河陽節度使の李芃に兵を率いて合流させた。
- 八月、李納がはじめて喪を発し、父の位を襲うことを奏請したが、帝は許さなかった。
- 梁崇義が兵を発して江陵に至ったが、四望で大敗して帰り、そこで襄・鄧に兵を収めた。李希烈は軍を率いて漢水沿いに上り、諸道の兵と合流した。崇義は将の翟暉・杜少誠を遣わして蛮水で迎え撃たせたが、希烈は大破して疎口まで追い、また破った。二将が降を請うと、希烈はその衆を率いて先に襄陽に入らせ、軍民を慰め諭させた。崇義は城を閉ざして守ったが、守る者が門を開いて争って出るのを禁じられず、崇義は妻とともに井戸に身を投げて死んだ。首は京師に送られた。
- 范陽節度使の朱滔が李惟岳を討とうとして莫州に陣し、張孝忠は精兵八千を率いて易州を守っていた。滔は判官の蔡雄を遣わして孝忠を説かせた。「惟岳は乳臭い小僧のくせに朝命を拒んでおります。今、昭義・河東の軍はすでに田悦を破り、淮寧の李僕射は襄陽を落とした。河南の諸軍が朝夕に北へ向かうのを計れば、恒・魏の滅亡は立ったまま待てるほどです。使君がまことに真っ先に易州を挙げて朝廷に帰されれば、惟岳を破る功は使君から始まります。これぞ禍を転じて福となす策です」。孝忠はそのとおりだと思い、牙官の程華を滔のもとへ遣わし、録事参軍の董稹に表を奉じて闕下に詣らせた。滔もまた上表して推薦し、帝は喜んだ。
- 九月辛酉、孝忠を成徳節度使とし、惟岳には喪を護って帰朝するよう命じたが、惟岳は従わなかった。孝忠は滔に恩を感じ、子の茂和に滔の娘を娶らせて深く結んだ。
- 壬戌、李希烈に同平章事を加えた。
- はじめ李希烈が梁崇義討伐を請うたとき、帝は朝士に対してしきりにその忠を称えた。黜陟使の李承が淮西から還って帝に言った。「希烈は必ずわずかな功は立てましょう。ただ功のあとで驕り高ぶって臣従せず、かえって朝廷に兵を用いる煩わしさをもたらすことを恐れます」。帝はそうは思わなかった。ところが希烈は襄陽を得るとそのまま占拠して自分のものとした。帝はそこで承の言を思い出した。当時、承は河中尹であった。甲子、承を山南東道節度使とした。帝は禁兵をつけて送ろうとしたが、承は単騎で鎮に赴くことを請うた。襄陽に至ると希烈は外の館に置いて万方に脅したが、承は死を誓って屈しなかった。希烈はそこで領内の物をことごとく掠めて去った。承が一年治めると軍府はやや整った。希烈は牙将を襄州に留めて掠めた財を守らせており、これによってしばしば使者の往来があった。承もまた腹心の臧叔雅を許・蔡に往来させ、希烈の腹心の周曽らと厚く結んで、ひそかに希烈を図った。
- 冬十月、徐州刺史の李洧は李正己の従兄である。李納が宋州を侵したとき、彭城令で太原の李庚が洧に州を挙げて国に帰すよう説き、洧は従った。摂巡官の崔程に表を奉じて闕下に詣らせ、あわせて口頭で奏させた。「徐州だけでは納に抗しきれません。徐・海・沂三州の観察使を領させてほしい。まして海・沂の二州は今みな納のものです。洧は刺史の王渉・馬万通とかねて約束がありますから、朝廷の詔書さえ得られれば必ず成功します」。程は外から来たので、宰相は一人だと思い、まず張鎰に告げた。鎰が盧杞に告げると、杞は先に自分に告げなかったことに怒って、その請いを容れなかった。戊申、洧に御史大夫を加えて招諭使に充てた。
- 十一月辛酉、宣武節度使の劉洽、神策都知兵馬使の曲環、滑州刺史で襄平の李澄、朔方大将の唐朝臣が徐州で淄青・魏博の兵を大破した。
- これより先、李納は将の王温を遣わして魏博の将の信都崇慶と会して徐州を攻めさせた。李洧は牙官で温の人の王智興を闕下に遣わして急を告げさせた。智興は足が速く、五日とかからず着いた。帝はそのために朔方の兵五千を発して唐朝臣に率いさせ、洽・環・澄とともに救わせた。そのとき朔方軍は装備が届かず旗も服も粗末だったので、宣武の者は「乞食どもに賊が破れるか」とあざけった。朝臣はその言葉で士卒を激怒させ、あわせて「都統の令がある。先に賊の営を破った者に、営中の物をすべて与える」と言った。士はみな憤って争って奮い立った。
- 崇慶と温は彭城を二十日攻めても落とせず、納に増兵を請うた。納は将の石隠金に一万を率いさせて助け、劉洽らと七里溝で対峙した。日が暮れかかり、洽が軍を少し退かせると、朔方馬軍使の楊朝晟が唐朝臣に言った。「公は歩兵で山を背にして陣し両軍を待たれよ。私は騎兵で山の曲がりに伏せる。賊は孤軍で勢い弱しと見て必ず打ちかかる。私が伏兵でその腰を断てば必ず破れます」。朝臣は従った。
- 崇慶らは果たして騎二千を率いて橋を越えて西へ官軍を追撃した。伏兵が起こって横から撃つと、崇慶らの兵は中断され、狼狽して引き返し、橋に拠って官軍を拒んだ。その兵に橋を争って渡れず水を渡る者があった。朝晟はそれを指して「あれが渡れるなら、わしが渡れぬはずがない」と言い、水を渡って撃つと、橋に拠っていた者はみな逃げた。崇慶らの兵は大潰し、洽らが乗じて八千級を斬り、溺死した者は半ばを越えた。朔方の軍士はその輜重をすべて得て、旗も服も鮮やかになり、そこで宣武の者に言った。「乞食どもの功は宋州の者と比べてどうだ」。宣武の者はみな恥じた。
- 官軍は勝ちに乗じて徐州城下まで追い、魏博・淄青の軍は囲みを解いて走った。江淮の漕運はようやく通じた。己巳、詔して李惟岳の官爵を削り、その部下で降る者を募って赦し賞することとした。
- 甲申、淮南節度使の陳少遊が兵を遣わして海州を撃ち、その刺史の王渉が州を挙げて降った。
- 十一月、李納の宋州刺史の馬万通が降を乞い、丁酉、密州刺史とした。馬燧に魏博招討使を加えた。
建中三年(782年)――洹水の戦いと四王の僭称
- 春正月、河陽節度使の李芃が兵を率いて衛州に迫った。田悦の守将の任履虚は偽って降り、やがてまた叛いた。
- 馬燧ら諸軍が漳水のほとりに駐屯すると、田悦は将の王光進に月城を築かせて長橋を守らせ、諸軍は渡れなかった。燧は鉄鎖で数百輛の車を連ね、土嚢を積んでその上流を塞いだ。水が浅くなって諸軍は渡渉した。
- 当時、軍中は糧に乏しく、悦らは壁を深くして戦わなかった。燧は諸軍に十日分の糧を持たせて進み、倉口に駐屯して悦と洹水を挟んで陣した。李抱真と李芃が「糧が少ないのに深く入るのはなぜか」と問うと、燧は答えた。「糧が少なければ速戦が利だ。今、三鎮が兵を連ねて戦わぬのは、我が師を疲れさせようというのだ。我らが軍を分けてその左右を撃てば、悦は必ず救う。すると我らは腹背に敵を受けて戦は不利になる。ゆえに軍を進めて悦に迫る。いわゆる『必ず救うところを攻める』というものだ。彼がもし出て戦えば、必ず諸君のために破ってみせよう」。
- そこで三つの橋を架けて洹水を越え、日々挑戦したが悦は出なかった。燧は諸軍に夜半に起きて食事をさせ、ひそかに軍を洹水沿いにまっすぐ魏州へ向かわせ、「賊が来たら止まって陣せよ」と命じた。百騎を残して営中で太鼓を打ち角笛を鳴らさせ、あわせて薪を抱え火を持って諸軍がすべて発したら鼓角をやめてその傍らに隠れ、悦の軍が渡り終えるのを見計らって橋を焼くよう命じた。
- 軍が十里ばかり行くと、悦はこれを聞いて淄青・成徳の歩騎四万を率いて橋を越えて背後を襲い、風に乗じて火を放ち、鬨をあげて進んだ。燧は兵を按じて動かさず、まず前方の草を百歩にわたって払って戦場とし、陣を整えて待ち、勇士五千余人を募って前列とした。悦の軍が至ると火が止み気勢が衰えた。燧は兵を放って撃ち、悦の軍は大敗した。神策・昭義・河陽の軍がやや退いたが、河東軍の勝ちを見て引き返して戦い、また破った。敗走を追って三橋に至ると、すでに焼かれていた。悦の軍は乱れて水に飛び込み、溺死した者は数えきれず、二万余級を斬り、三千余人を捕らえ、屍が三十余里にわたって重なった。悦は残兵千余人を収めて魏州へ走った。
- 馬燧は李抱真と折り合いが悪く、平邑の浮図に兵を据えて遷延して進まなかった。悦は夜に南郭へ至ったが、大将の李長春は門を閉ざして入れず官軍を待った。久しくして夜が明けかけると、長春はようやく門を開いて入れた。悦は長春を殺し、城に籠もって守った。城中の士卒は数千に満たず、死んだ者の親戚の号哭が街に満ちた。
- 悦は憂え恐れ、佩刀を持ち馬に乗って府の門の外に立ち、軍民をことごとく集めて涙を流して言った。「悦は不肖の身ながら、淄青・成徳の二丈人の推薦を蒙って伯父の業を継ぎ守ってきた。今、二丈人が世を去られてもその子が継襲を許されぬ。悦は二丈人の大恩を忘れられず、力も量らず朝命を拒み、敗れてここまで来て、士大夫の肝脳を地に塗らせた。みな悦の罪である。悦には老母があって自ら死ねぬ。どうか諸公、この刀で悦の首を斬り、提げて城を出て馬僕射に降り、自ら富貴を取られよ。悦とともに死ぬには及ばぬ」。そう言って馬から身を投げた。将士は争って前に出て抱きとめて言った。「尚書が兵を挙げられたのは義に殉じたのであって、私のためではありません。一勝一敗は兵家の常。我らは代々恩を受けております。どうしてそんなお言葉を聞くに忍びましょう。尚書のために一戦し、勝てなければ死をもって続けたい」。悦は「諸公が悦の敗戦を見捨てぬとは。悦は死んでも地下で厚意を忘れぬ」と言い、諸将とそれぞれ髪を切って兄弟の契りを結び、生死を同じくすることを誓った。
- 府庫の物をすべて出し、富民の財を集めて百余万を得て士卒に賞し、衆心はようやく定まった。あらためて貝州刺史の邢曹俊を召して部伍を整え守備を修めさせ、軍勢はまた振るった。
- 李納は濮陽に陣していたが河南の軍に迫られて濮州へ逃げ帰り、魏州に援兵を求めた。田悦は軍使の符璘に三百騎を率いさせて送った。璘の父の令奇が璘に言った。「わしは老いた。安・史の輩で叛乱した者は今みなどこにいるか。田氏が長く保てようか。お前はこの機に逆を棄て順に従え。それが父の名を後世に揚げることだ」。腕を噛んで別れた。璘はそこで副将の李瑶とともに衆を率いて馬燧に降った。悦はその一族を皆殺しにし、令奇は罵りながら死んだ。瑶の父の再春は博州を挙げて降り、悦の従兄の昂は洺州を挙げて降り、王光進は長橋を挙げて降った。悦が入城して十日余りしてから、馬燧ら諸軍はようやく城下に至って攻めたが落とせなかった。
- 丙寅、李惟岳は兵と孟祐に束鹿を守らせたが、朱滔と張孝忠が攻めて抜き、進んで深州を囲んだ。惟岳は憂え恐れた。掌書記の邵真がまた説いて、ひそかに表を作り、まず弟の惟簡を入朝させ、そののち命に従わぬ諸将を誅し、自ら入朝して、妻の父の冀州刺史の鄭詵に節度の事を権知させて朝命を待つよう勧めた。
- 惟簡が発つと、孟祐がその謀を知ってひそかに田悦に告げた。悦は大いに怒り、衙官の扈岌を惟岳のもとへ遣わして責めさせた。「尚書が兵を挙げたのは、まさに大夫のために旌節を求めるためで、自分のためではありません。今、大夫は邵真の言を信じて弟に表を奉じさせ、反逆の罪をことごとく尚書に帰して、自分の身の潔白を求めておられる。尚書が大夫に何の負い目があってこんな仕打ちを受けるのか。もしこちらのために邵真を斬られるなら、待遇は元のとおり。さもなくば大夫と絶交します」。
- 判官の畢華が惟岳に言った。「田尚書は大夫のために重囲に身を陥れております。大夫が一朝にしてこれに背くのは、不義も甚だしい。それに魏博・淄青は兵強く食は豊かで、天下に抗するに足ります。事はどうなるか分かりません。どうして急に二心の計を立てられるのですか」。惟岳はもとより臆病で前の計を守れず、邵真を引き出して扈岌の前で斬った。そして成徳の兵一万を発して孟祐とともに束鹿を囲んだ。
- 丙寅、朱滔と張孝忠が束鹿城下で戦い、惟岳は大敗して営を焼いて逃げた。兵馬使の王武俊は左右に陥れられ、惟岳は疑ったが、その才を惜しんで除くには忍びずにいた。束鹿の戦いで武俊を前鋒とすると、武俊はひそかに思った。「わしが朱滔を破れば惟岳の軍勢は大いに振るう。帰れば必ずわしを殺すだろう」。それゆえ戦いに力を入れず敗れたのである。
- 朱滔は勝ちに乗じて恒州を攻めようとしたが、張孝忠は兵を率いて西北へ行き義豊に陣した。滔は大いに驚き、孝忠の将佐もみな怪しんだ。孝忠は言った。「恒州には古参の将がまだ多い。侮ってはならぬ。迫れば力を合わせて死闘するが、緩めれば自ら互いを図る。諸君はまあ見ていよ。わが軍は義豊にいて、座して惟岳の滅びるのを待つのだ。それに朱司徒は口が大きいが識見は浅い。始めをともにはできても終わりをともにはできぬ相手だ」。こうして滔もまた束鹿に駐屯してあえて進まなかった。
- 惟岳の将の康日知が趙州を挙げて国に帰した。惟岳はいよいよ王武俊を疑い、武俊は甚だ恐れた。ある者が惟岳に言った。「先の相公は武俊に腹心を委ね、大夫を輔佐させ、そのうえ骨肉の親でもあります。武俊の勇は三軍に冠たるもの。今この危難の際にまた猜疑を加えられれば、武俊なしに誰に大夫のために敵を退けさせるのですか」。惟岳はそのとおりだと思い、歩軍使の衛常寧と武俊にともに趙州を撃たせ、また王士真に兵を率いて府中に宿らせて自衛とした。
- 淮南節度使の陳少遊が海・密の二州を抜いたが、李納がまた攻めて陥れた。
- 王武俊は恒州を出ると衛常寧に言った。「武俊は幸いにも虎口を出た。もう帰らぬ。北の張尚書に帰そう」。常寧は言った。「大夫は暗弱で左右を信任しております。その勢いを見るに、いずれ朱滔に滅ぼされましょう。今、天子の詔に、大夫の首を取った者にその官爵を与えるとあります。中丞はかねて衆に信服されておられる。出奔するより、矛を逆さにして大夫を取るに如くはない。禍を福に転ずるのは掌を返すようなものです。事がもし成らなければ、張尚書に帰しても遅くはありません」。武俊は深くそのとおりだと思った。
- 折しも惟岳の使いの謝遵が趙州城下に来たので、武俊は遵を引き入れて惟岳を取る謀に加えた。遵は帰ってひそかに王士真に告げた。閏月甲辰、武俊と常寧は趙州から兵を率いて還って惟岳を襲った。遵と士真が惟岳の命と偽って城門を開いて入れた。黎明、武俊は数百騎を率いて府門に突入し、士真が内から呼応して十余人を殺した。武俊は令した。「大夫は叛逆した。将士は順に帰せ。あえて拒む者は族滅する」。衆はあえて動かず、そこで惟岳を捕らえ、鄭詵・畢華・王它奴らを捕らえてみな殺した。武俊は惟岳が旧主の子であることから、生かして長安に送りたいと思ったが、常寧が「彼が天子に会えば、また叛逆の謀を中丞に帰しましょう」と言ったので、縊り殺して首を京師に送った。深州刺史の楊栄国は惟岳の姉婿だが、朱滔に降り、滔はその位を復させた。
- 二月戊午、李惟岳が任じた定州刺史の楊政義が降った。このとき河北はほぼ平定され、ただ魏州だけが落ちていなかった。河南の諸軍が濮州で李納を攻め、納の勢いは日ごとに窮した。朝廷は天下が幾日もせず平らぐと思った。
- 甲子、張孝忠を易・定・滄三州節度使、王武俊を恒冀都団練観察使、康日知を深趙都団練観察使とし、徳・棣の二州を朱滔に隷属させて鎮に還らせた。滔は深州を強く請うたが許されず、これによって怨みを抱き、深州に留まって駐屯した。
- 王武俊はもとより張孝忠を軽んじており、自ら李惟岳を手ずから誅した功は康日知の上だと思っていた。それが孝忠は節度使、自分は日知と同じ都団練使で、しかも趙・定の二州を失ったので、これも不満であった。さらに詔で糧三千石を朱滔に、馬五百匹を馬燧に給することとされた。武俊は、朝廷は旧知の者を節度使にしたくないのだ、魏博が落ちれば必ず恒・冀を取る、だから先に糧と馬を分けて弱めるのだと考え、詔を奉ずるのを疑って躊躇した。
- 田悦はこれを聞き、判官の王侑と許士則を間道から深州へ遣わして朱滔に説かせた。「司徒は詔を奉じて李惟岳を討ち、十日足らずで束鹿を抜き深州を下されました。惟岳の勢いが窮したからこそ、王大夫は司徒の勝勢に乗じて惟岳の首を梟せたのです。これはみな司徒の功。しかも天子は明らかに詔書を下し、司徒が得た惟岳の城邑はみな本鎮に隷属させるとされた。それを今、深州を割いて日知に与えるのは、自ら信を棄てることです」。
- 「それに今上は河朔を掃き清め、藩鎮の継承を許さず、ことごとく文臣を武臣に代えようとするお志です。魏が亡べば燕・趙がその次。魏が存すれば燕・趙に憂いはない。とすれば司徒がまことに魏博の危機を憐れんで救おうとされるなら、亡を存し絶を継ぐ義を得るだけでなく、子孫万世の利ともなりましょう」。さらに貝州を贈ることを約した。滔はもとより異志があり、これを聞いて大いに喜び、ただちに王侑を帰らせて魏州に報じ、将士に外援があることを知らせて士気を固めさせた。
- さらに判官の王郅を許士則とともに恒州へ遣わして王武俊に説かせた。「大夫は万死の計を出して逆首を誅し乱の根を抜かれました。康日知は趙州から出ておりません。どうして大夫と同日に功を論じられましょう。それを朝廷の褒賞はほぼ同じ。誰が大夫のために憤らずにおれましょう。今また糧と馬を隣道に支給する詔があると聞きます。朝廷の意は、大夫が善戦で無敵ゆえ後患となるのを恐れ、まず軍府を貧しく弱くしておいて、魏を平らげた日に馬僕射を北へ、朱司徒を南へ向けて共に滅ぼそうというのでしょう。朱司徒もまた自ら身を保てぬと見て、郅らを遣わして愚計を差し上げるのです。大夫とともに田尚書を救って存続させたい。大夫は糧と馬を自分の軍のために留め、朱司徒は深州を康日知に与えたくないので、大夫に差し上げたい。早く刺史を定めて守らせてください。三鎮が兵を連ねて耳目手足のごとく救い合えば、後日永く憂いはありません」。
- 武俊も喜んで承諾し、ただちに判官の王巨源を滔のもとへ遣わし、あわせて深州の事を知らせ、日を刻んで兵を挙げて南へ向かうことを約した。滔はまた人を遣わして張孝忠を説いたが、孝忠は従わなかった。
- 宣武節度使の劉洽が濮州の李納を攻めてその外城を落とした。納は城上で涙を流して自新を求め、李勉もまた人を遣わして説いた。癸卯、納は判官の房説に、同母弟の経と子の成務を伴わせて謁見させた。ところが中使の宋鳳朝が、納は勢い窮しているので許すべきでないと言ったので、帝は説らを禁中に囚え、納はついに鄆州に帰ってまた田悦らと合流した。朝廷は納の勢いがまだ衰えぬと見て、三月乙未、はじめて徐州刺史の李洧に徐・海・沂都団練観察使を兼ねさせたが、海・沂はすでに納のものだったので、洧はついに何も得られなかった。
- 李納が反した当初、任命した徳州刺史の李西華は守備が甚だ厳重であった。都虞候の李士真がひそかに西華を納に讒し、納は西華を府に召し還して士真を代わりとした。士真はまた偽って棣州刺史の李長卿を召び、長卿が徳州を通ったところで脅し、ともに国に帰した。夏四月戊午、士真と長卿を二州の刺史とした。士真が朱滔に援けを求めると、滔はすでに異志があり、大将の李済時に三千人を率いさせて徳州の守りを助けると称し、あわせて士真を深州に召んで軍事を議すると言い、来たところで留め、済時に実権を執らせた。
- 帝は中使を遣わして盧竜・恒冀・易定の兵一万を発して魏州で田悦を討たせようとした。王武俊は詔を受けず、使者を捕らえて朱滔に送った。滔は衆に言った。「将士で功のある者のために官と勲を奏請したがみな通らなかった。今、諸君と装備を整えてともに魏州へ向かい、馬燧を撃ち破って温飽を取ろうと思うがどうか」。誰も応じない。三度問うと、こう言った。「幽州の人は安史の反以来、南へ従った者で一人も帰れた者がない。今もその遺族は痛みが骨に染みております。まして太尉も司徒も国の寵栄を受け、将士もそれぞれ官と勲を蒙りました。まことに今の暮らしを保ちたいだけで、あえてこれ以上を望みません」。滔は黙って解散し、そののち大将数十人を誅して、士卒を厚く手なずけた。
- 康日知はその謀を知って馬燧に告げ、燧が奏聞した。帝は魏州がまだ落ちず、王武俊もまた叛いて力が及ばぬので、壬戌、滔に通義郡王の爵を賜って安んじようとした。だが滔の反謀はいよいよ甚だしく、兵を分けて趙州に陣して康日知に迫り、深州を王巨源に授け、武俊は子の士真を恒・冀・深三州留後として兵を率いて趙州を囲んだ。
- 涿州刺史の劉怦は滔と同郷で、その母は滔の伯母である。滔は怦に幽州留後を知らせていたが、滔が田悦を救おうとしていると聞いて書で諫めた。「今、昌平の故里は朝廷が太尉郷・司徒里と改めました。これも丈夫の朽ちぬ名です。ただ忠順を持し続ければ、事に成らぬものはありません。ひそかに思うに、近ごろ大を務め戦を楽しみ、成敗を顧みずして家は滅び身は屠られた者、それが安・史です。怦は近親の身でありながら黙って告げずにいれば、厚い知遇に背きます。司徒よ、お図りください。後悔を残されますな」。滔はその言を用いなかったが、忠を尽くしたことは嘉して、ついに疑わなかった。
- 滔は兵を起こそうとしたが、張孝忠が後患となることを恐れ、また牙官の蔡雄を遣わして説かせた。孝忠は言った。「昔、司徒が幽州を発つとき、人を遣わして孝忠に『李惟岳は恩に背いて逆をなす。孝忠が国に帰せばすなわち忠臣だ』と言われた。孝忠は生まれつき素直ゆえ、司徒の教えのとおりにした。今すでに忠臣となった以上、二度と逆を助けはせぬ。それに孝忠も武俊もともに夷落の出で、その心はよく知っている。あの男は翻り覆るのを最も好む。司徒よ、この言葉をお忘れなさるな。いずれ必ず思い当たられよう」。雄がなおも巧みな言葉で説こうとすると、孝忠は怒って捕らえて京師へ送ろうとし、雄は恐れて逃げ帰った。滔はそこで劉怦に兵を率いて要害に駐屯させて備えた。孝忠は城を修め兵を研ぎ、独り強敵の間にあって屈しなかった。
- 滔は歩騎二万五千を率いて深州を発し、束鹿に至った。翌朝、出発しようとして角笛が鳴り終わらぬうちに、士卒が突然大いに乱れて騒ぎ立てた。「天子は司徒に幽州へ帰れと命じられた。なぜ詔に背いて南へ田悦を救うのか」。滔は大いに恐れて駅の後堂に逃げ込んで隠れた。蔡雄と兵馬使の宗頊らが偽って士卒に「お前たち、騒ぐな。司徒の伝令を聞け」と言うと、衆はやや静まった。雄はさらに言った。
- 「司徒が范陽を発つとき、恩旨には李惟岳の州県を得れば司徒のものにしてよいとあった。司徒は幽州に絹綿が少ないゆえ、お前たちと力を尽くして血戦し深州を取り、その絹綿でお前たちの賦を軽くしようとされたのだ。ところが思いがけず国家は信を守らず、また深州を康日知に与えた。しかも朝廷はお前たちの功に対して絹十匹ずつを賜ったのに、魏州の西境ですべて馬僕射に奪われた。司徒は范陽にいるだけで富貴は十分。今度の南行はお前たちのためであって、自分のためではない。南へ行きたくなければ勝手に北へ帰れ。なぜ騒ぎ立てて軍礼を失うのだ」。
- 衆はこれを聞いて為すすべを知らず、そこで「勅使はなぜ軍士のために賞物を守ってくれなかったのか」と言い、勅使の院に入って引き裂いて殺した。さらに叫んだ。「司徒のこの遠征が士卒のためだと知っても、やはり詔を奉じて鎮に帰るに越したことはない」。雄は「ではお前たちはそれぞれ部伍に還れ。明朝また深州へ行き、数日休息してともに鎮に帰ろう」と言い、衆はようやく落ち着いた。
- 滔はただちに軍を深州に還し、ひそかに諸将に扇動者を探らせて二百余人を得てことごとく斬った。残る衆は震え上がり、そこであらためて兵を挙げて南へ向かった。誰もあえて逆らわず、進んで寧晋を取り、留まって王武俊を待った。武俊は歩騎一万五千を率いて元氏を取り、東の寧晋へ向かった。
- 武俊が李惟岳を誅した当初、判官の孟華を遣わして謁見させた。帝が河朔の利害を問うと、華は忠直で才略があり、応対も慷慨としていたので、帝は喜んで恒冀団練副使とした。ところが武俊と朱滔に異謀があると知り、帝は急ぎ華を帰らせて意を諭させた。華が着いたとき武俊はすでに出兵していた。華は諫めた。「聖意は大夫に甚だ厚い。忠義を尽くしさえすれば、官爵が高くならぬこと、土地が広くならぬことを何で憂えましょう。ほどなく天子は必ず康中丞を他鎮に移されます。深・趙はいずれ大夫のものとなるのに、なぜ急いで自ら逆乱と同じ道を選ばれるのですか。後日成らずして、悔いても及びません」。
- 華はかつて李宝臣の幕府にあって直言のため同僚に忌まれ、副使となってからはいよいよ憎まれた。彼らは武俊に言った。「華は軍中の隠された事を天子に奏し、内応を申し出たので抜擢されたのです。大夫の軍を覆すつもりです。備えられるべきです」。武俊は旧知ゆえ殺すに忍びず、職を奪って私邸に帰らせた。
- 田悦は援兵が近いことを恃み、将の康愔に一万余を率いて城西に出させ、馬燧らと御河のほとりで戦わせたが、大敗して帰った。
- このとき両河で兵を用いて月に百余万緡を費やし、府庫は数か月も保たなかった。太常博士の韋都賓と陳京が建議した。「貨と利の集まるところはみな富商にあります。富商の銭を調べ、一万緡を超える者にその余りを借りて軍に供してください。天下でせいぜい一、二千の商から借りれば数年分の費えが足りましょう」。帝は従い、甲子、詔して商人の銭を借りることとし、度支に条項を上げさせた。
- 判度支の杜佑は長安中の商賈の持つ貨を徹底的に調べ、申告が実でないと思えばすぐ笞で打った。人々は苦しみに耐えられず、縊れ死ぬ者もあった。長安は騒然として寇賊に遭ったようであった。それで得たのはわずか八十余万緡。さらに質屋の預り金を調べ、およそ銭・帛・粟・麦を蓄えている者からはみな四分の一を借り、その櫃や地下蔵を封じた。百姓はそのために市を閉じ、連れ立って宰相の馬を遮って訴える者は千万を数えた。盧杞ははじめ慰め諭したが、勢いが止められぬと見て、急ぎ馬を駆って別の道から帰った。商から借りた分と合わせてもわずか二百万緡で、人々の力はもう尽きていた。京は陳叔明の五世の孫である。
- 甲戌、昭義節度副使・磁州刺史の盧玄卿を洺州刺史兼魏博招討副使とした。
- はじめ李抱真が澤潞節度使、馬燧が河陽三城を領していたとき、抱真は懐州刺史の楊鉥を殺そうとし、鉥は燧のもとへ逃げた。燧は受け入れ、あわせて無罪を奏した。抱真は怒り、ともに田悦を討つに及んで、しばしば事あるごとに互いに恨みを抱き、二人の怨みの隙は深まって顔も合わせなくなった。これによって諸軍はぐずついて久しく功が挙がらず、帝はしばしば中使を遣わして和解させた。
- 王武俊が趙州に迫ると、抱真は麾下二千を分けて邢州を守らせた。燧は大いに怒って言った。「残る賊もまだ除かぬのに力を合わせるべきときに、兵を分けて自分の地を守るとは。わし一人で戦えというのか」。そして兵を率いて帰ろうとした。李晟が燧に説いた。「李尚書は邢と趙が地を接しているので兵を分けて守らせただけで、害はありません。今、公が急に引き揚げれば、衆は公をどう思いましょう」。燧は喜び、単騎で抱真の塁を訪ねて互いに恨みを解いて歓を結んだ。折しも洺州刺史の田昂が入朝を請うたので、燧は洺州を抱真に隷属させることを奏し、玄卿を刺史兼招討副使とするよう請うた。李晟の軍はもと抱真に隷属していたが、燧にも兼ねて隷属させるよう請い、協調を示した。帝はみな従った。
- 盧竜節度行軍司馬の蔡廷玉は判官の鄭雲逵を憎み、朱泚に言って莫州参軍に貶させた。雲逵の妻は朱滔の娘であったので、滔はあらためて奏して掌書記とした。雲逵は滔に廷玉を深く讒し、廷玉もまた検校大理少卿の朱体微とともに泚に言った。「滔は幽州の鎮にあって専断が多く、その性は長者ではありません。兵権を託せる相手ではない」。滔はこれを知って大いに怒り、しばしば泚に書を送って二人を殺すよう請うたが、泚は従わなかった。これによって兄弟にはかなり隙が生じた。滔が命を拒むに及び、帝は罪を廷玉らに帰して滔を喜ばせようとし、甲子、廷玉を柳州司戸、体微を万州南浦尉に貶した。
- 宣武節度使の劉洽が李納の濮陽を攻め、守将の高彦昭を降した。
- 朱滔が人に蝋書を髻の中に入れて朱泚に送り、ともに反しようとした。馬燧がこれを捕らえ、使者ともども長安に送った。泚はこれを知らない。帝は駅で泚を鳳翔から召び、来たところで蝋書と使者を示した。泚は恐懼して頓首して罪を請うた。帝は「千里も離れており、はじめから同謀ではあるまい。卿の罪ではない」と言い、そのまま長安の私邸に留め、名園・肥沃な田・錦綵・金銀を甚だ厚く賜ってその意を安んじ、幽州盧竜節度・太尉・中書令はいずれも従前のままとした。
- 帝は幽州の兵が鳳翔にいるので重臣に代えさせたいと思った。盧杞は張鎰が忠直で帝に重んじられるのを忌み、外に出して自ら朝政を専らにしようとして、こう答えた。「朱泚は名位がもとより高く、鳳翔の将校の官位もすでに高うございます。宰相たる信任の臣でなければ鎮撫できません。臣が自ら参りたい」。帝が俯いて言葉が出ずにいると、杞はまた言った。「陛下はきっと臣の容貌が醜くて三軍を服させられぬとお思いでしょう。もとより陛下のご判断に従います」。帝はそこで鎰を顧みて言った。「才は文武を兼ね、望みは内外に重い。卿に代わる者はない」。鎰は杞に排されたと知りながら、免れる言葉もなく、再拝して命を受けた。戊寅、鎰に鳳翔尹・隴右節度等使を兼ねさせた。
- 朱滔と王武俊が寧晋から南へ魏州を救いに向かった。辛卯、詔して朔方節度使の李懐光に朔方および神策の歩騎一万五千を率いて東へ田悦を討ち、あわせて滔らを拒ませた。滔が宗城まで来たとき、掌書記の鄭雲逵と参謀の田景仙が滔を棄てて降った。丁酉、河東節度使の馬燧に同平章事を加えた。辛亥、義武軍節度を定州に置き、易・定・滄の三州を隷属させた。
惬山の敗戦
- 朱滔と王武俊の軍が魏州に至ると、田悦は牛と酒を用意して出迎え、魏の人は歓呼して地を動かした。滔は惬山に陣した。この日、李懐光の軍も到着し、馬燧らは盛んな軍容で迎えた。滔は自分が襲われると思ってあわてて陣を出た。懐光は勇はあるが謀がなく、その営塁がまだ整わぬうちに撃とうとした。燧は将士を休ませて隙を窺うべきだと請うたが、懐光は「彼らの営塁ができれば後患となる。この時を失ってはならぬ」と言い、惬山の西で滔を撃って歩卒千余人を殺した。滔の軍は崩れて挫け、懐光は轡を按じて眺めて喜色を浮かべ、士卒は争って滔の営に入って宝貨を取った。
- そこへ王武俊が二千騎を率いて懐光の軍を横から衝き、軍は二つに分かれた。滔が兵を率いて続くと官軍は大敗し、押されて永済渠に落ちて溺死する者は数えきれず、人が互いを踏みつけ、その積み重なりは山のようで、水は流れを止めた。馬燧らはそれぞれ軍を収めて塁を保った。
- その夕、滔らは永済渠を堰き止めて王莽の故河に流し込み、官軍の糧道と帰路を断った。翌日、水は三尺余りに達した。馬燧は恐れ、使者を遣わして言葉を低くして滔に詫び、諸節度とともに本道に帰り、天子に奏して河北の事は五郎(滔)に委ねてもらいたいと求めた。滔は許そうとしたが、王武俊はいけないと言い、滔は従わなかった。
- 秋七月、燧は諸軍とともに水を渡って西へ退き、魏県を保って滔を拒んだ。滔はそこで武俊に詫びたが、武俊はこれによって滔を恨んだ。数日後、滔らもまた兵を率いて魏県の東南に陣し、官軍と水を隔てて対峙した。
- 李納が滔らに援けを求め、滔は魏博兵馬使の信都承慶に兵を率いさせて助けた。納は宋州を攻めたが落とせず、兵馬使の李克信・李欽遥を濮陽・南華に戍らせて劉洽を拒んだ。
- 甲辰、淮寧節度使の李希烈に平盧・淄青・兗・鄆・登・莱・斉州節度使を兼ねさせて李納を討たせ、また河東節度使の馬燧に魏博・澶相節度使を兼ねさせ、朔方邠寧節度使の李懐光に同平章事を加えた。
- 神策行営招討使の李晟が、率いる兵で北へ趙州の囲みを解き、張孝忠と勢いを合わせて范陽を図りたいと請い、帝は許した。晟は魏州から兵を率いて趙州へ向かい、王士真は囲みを解いて去った。晟は趙州に三日留まり、孝忠と兵を合わせて北の恒州を攻略した。
- 八月辛酉、涇原留後の姚令言を節度使とした。
- 盧杞は太子太師の顔真卿を憎み、外に出そうとした。真卿は杞に言った。「先の中丞(杞の父)の首が平原に届いたとき、真卿は舌で顔の血を舐めた。今、相公は忍んで容れてくださらぬのか」。杞は愕然と立って拝したが、恨みはいよいよ深くなった。
- 冬十一月己卯朔、淮南節度使の陳少遊に同平章事を加えた。
四王の僭称
- 田悦は朱滔の救援に恩を感じ、王武俊と議して滔を主と仰いで臣と称して仕えようとした。滔は許さず「惬山の勝ちはみな大夫と二兄の力だ。滔がどうして独り尊位に居られよう」と言った。そこで幽州判官の李子千、恒冀判官の鄭濡らが議して言った。「鄆州の李大夫とともに四国となり、みな王を称して年号は改めず、昔の諸侯が周家の正朔を奉じたようにし、壇を築いて同盟して、約に従わぬ者があればみなで討つべきです。さもなくば常に叛臣のまま、茫然として主もなく、兵を用いても名分がなく、功があっても官爵で賞せられない。将吏は何に拠りどころを求めましょうか」。滔らはみなそのとおりだと思った。
- 滔は冀王、田悦は魏王、王武俊は趙王を自称し、あわせて李納に斉王を称するよう請うた。この日、滔らは軍中に壇を築き、天に告げてこれを受けた。滔は盟主となって「孤」と称し、武俊・悦・納は「寡人」と称した。居所を「殿」、命令を「令」、群下の上書を「牋」、妻を「妃」、長子を「世子」といい、それぞれ治める州を「府」として留守を置いて元帥を兼ねさせ、軍政を委ねた。また東曹・西曹を置いて門下省・中書省に擬し、左内史・右内史を侍中・中書令に擬し、その他の官もみな朝廷に倣って名を変えた。
- 武俊は孟華を司礼尚書としたが、華はついに受けず、血を吐いて死んだ。兵馬使の衛常寧を内史監として軍事を委ねたが、常寧は武俊を殺そうと謀り、武俊は腰斬した。武俊が将の張終葵に趙州を侵させたが、康日知が撃って斬った。
- 李希烈は麾下の兵三万を率いて許州に鎮を移し、親しい者を李納のもとへ遣わしてともに汴州を襲うことを謀り、李勉に「すでに淄青を兼領した。任地へ行くのに道を借りたい」と告げさせた。勉は橋を修め饌を用意して待つと同時に、厳重に備えた。希烈はついに来なかった。またひそかに朱滔らと通じ、納もしばしば遊兵を汴水の向こうへ渡して希烈を迎えたので、東南の輸送はみな汴渠を通れなくなり、蔡水から上るようになった。
- 十二月丁丑、李希烈が天下都元帥・太尉・建興王を自称した。このとき朱滔らは官軍と数か月対峙していたが、官軍には度支の糧の輸送があり、諸道の増兵もあった。ところが滔と王武俊は孤軍で深く入り、もっぱら田悦の給養に頼っていたので、客も主も日ごとに困弊した。李希烈の軍勢が甚だ盛んと聞いてかなり不満を抱き、そこで相談して使者を許州へ遣わし、希烈に帝を称するよう勧めた。希烈はこれによって天下都元帥を自称したのである。
建中四年(783年)――顔真卿の使いと李希烈の僭号
- 春正月庚寅、李希烈は将の李克誠に汝州を襲って陥れさせ、別駕の李元平を捕らえた。元平はもと湖南判官で、いささか才芸があり、粗放で大言を吐き、兵を論ずるのを好んだ。中書侍郎の関播はこれを非凡と見て帝に薦め、将相の器としていた。汝州が許州に最も近いので元平を汝州別駕・知州事に抜擢したのである。元平は州に着くとすぐに職人を募って城を修めた。希烈はひそかに壮士を応募させ、役に就いた者が数百人に及んだが、元平は気づかなかった。希烈が克誠に数百騎を率いて突然城下に至らせると、応募していた者が内から呼応して元平を縛って連れ去った。
- 元平は小柄で髭がなく、希烈に会って恐怖のあまり小便を漏らして地を汚した。希烈は罵って言った。「盲の宰相が、お前ごときでわしに当たらせるとは、なんとわしを軽んじたことか」。判官の周晃を汝州刺史とし、また別将の董待名らを四方に出して掠奪させ、尉氏を取り鄭州を囲んだ。官軍はしばしば敗れ、斥候の騎は彭婆にまで及んで東都の士民は震え恐れ、山谷に隠れ、留守の鄭叔則は西苑に籠もった。
- 帝が盧杞に計を問うと、こう答えた。「希烈は年若い驍将で、功を恃んで驕り高ぶり、将佐も諫め止められません。まことに儒雅な重臣を得て聖上の恩沢を宣べ、逆順と禍福を陳べさせれば、希烈は必ず心を改めて過ちを悔い、軍旅を煩わさずして服させられましょう。顔真卿は三朝の旧臣、忠直剛毅で名は海内に重く、人の信服するところ。まさにその人です」。帝はそのとおりだと思い、甲午、真卿に許州へ赴いて宣慰するよう命じた。詔が下ると朝廷は色を失った。
- 真卿は駅で東都に至った。鄭叔則が「行けば必ず免れません。しばらく留まって後命を待たれよ」と言うと、真卿は「君命である。どうして避けられよう」と言って発った。李勉は「一人の元老を失うのは国家の恥です」と上表して留めるよう請い、また人を遣わして道で真卿を引き止めようとしたが間に合わなかった。真卿はその子への手紙に、ただ家廟を奉じ、遺された孤児を撫でよと言い残しただけであった。
- 許州に至って詔旨を宣べようとすると、希烈は養子千余人に取り囲ませて罵らせ、刃を抜いて突きつけ、今にも切り刻んで食おうという構えをさせた。真卿は足も動かさず顔色も変えなかった。希烈はあわてて身を挺して庇い、衆に退けと命じ、真卿を館に置いて礼遇した。
- 希烈は真卿を帰そうとしたが、たまたま李元平が座にあり、真卿がこれを責めたので、元平は恥じて立ち、ひそかに希烈に告げ口をした。希烈の意はそこで変わり、真卿を留めて帰さなかった。
- 朱滔・王武俊・田悦・李納がそれぞれ使者を希烈のもとへ遣わして上表し、臣と称して即位を勧めた。使者は希烈の前で拝舞して説いた。「朝廷は功臣を誅滅し、天下に信を失いました。都統は英武にして天より与えられ、功烈は世を蓋いますが、すでに朝廷に猜疑されており、韓信・白起の禍がありましょう。速やかに尊号を称して、四海の臣民に帰すべきところを知らしめてください」。
- 希烈は顔真卿を呼んで見せて言った。「今、四王が使いを遣わして推戴すること、謀らずして一致した。太師よ、この事勢を見よ。どうしてわし一人が朝廷に忌まれて身の置き所がないと言えようか」。真卿は言った。「それは四凶というものだ。何が四王か。相公は自ら功業を保って唐の忠臣となろうとせず、乱臣賊子と付き合って、彼らとともに滅びを求めるのか」。希烈は不快になり、真卿を扶けて出させた。
- 後日、また四使とともに宴を開いた。四使が「かねて太師のご重望を伺っておりました。今、都統が大号を称されようというときに太師が来られたのは、天が宰相を都統に賜ったのです」と言うと、真卿は叱って言った。「何が宰相か。お前たちは安禄山を罵って死んだ顔杲卿を知っているか。わが兄だ。わしは年八十、節を守って死ぬことだけを知っている。どうしてお前たちの誘惑と脅しを受けようか」。四使は二度と口をきけなかった。
- 希烈はそこで甲士十人に館舎で真卿を守らせ、庭に穴を掘って生き埋めにすると言った。真卿は平然と希烈に会って言った。「死生はもう定まっている。何を面倒なことをする。早く剣一振りを与えてくれれば、公の心にも快いことではないか」。希烈はそこで詫びた。
- 戊戌、左竜武大将軍の哥舒曜を東都汝州節度使とし、鳳翔・邠寧・涇原・奉天・好畤の行営兵一万余を率いて希烈を討たせ、さらに諸道に共に討たせた。曜が郟城まで来て希烈の前鋒将の陳利貞に遭って撃ち破ると、希烈の勢いはやや沮んだ。曜は哥舒翰の子である。
- 希烈は将の封有麟に鄧州を占拠させ、南路はついに絶えて貢献も商旅も通じなくなった。壬寅、詔して上津の山路を整えて駅を置いた。
- 二月丙寅、河陽三城と懐・衛州を河陽軍とした。丁卯、哥舒曜が汝州を落として周晃を捕らえた。
- 三月戊寅、江西節度使の曹王皋が李希烈の将の韓霜露を黄梅で破って斬った。辛卯、黄州を抜いた。当時、希烈の兵は蔡山に柵を構えて険しく攻めにくかったので、皋は西の蘄州を取ると言い触らして舟師を率いて江を遡った。希烈の将が兵を率いて江沿いに追いながら戦い、蔡山から三百余里離れたところで、皋はまた舟を放って流れに乗って下り、蔡山を急攻して抜いた。希烈の兵は救援に戻ったが間に合わず敗れた。皋はそのまま進んで蘄州を抜き、伊慎を蘄州刺史、王鍔を江州刺史とするよう上表した。
- 淮寧都虞候の周曽、鎮遏兵馬使の王玢、押牙の姚憺・韋清がひそかに李勉に内通した。李希烈が曽と十将の康秀琳に兵三万を率いさせて哥舒曜を攻めさせ、襄城に至ったとき、曽らはひそかに軍を返して希烈を襲い、顔真卿を奉じて節度使としようと謀り、玢・憺・清を内応とした。希烈はこれを知って別将の李克誠に騾軍三千を率いさせて襲わせ、曽らを殺し、あわせて玢・憺およびその一党を殺した。甲午、詔して曽らに官を贈った。
- はじめ韋清は曽らと約したとき、事が漏れても互いに引き合わぬことにしていたので、独り免れた。清はいずれ禍が及ぶことを恐れ、希烈に朱滔のもとへ行って援兵を乞いたいと説き、希烈は遣わした。襄邑まで来たところで逃げて劉洽のもとへ走った。
- 希烈は周曽らの変を聞いて数日壁を閉ざした。その一党で尉氏・鄭州を侵していた者もこれを聞いて逃げ帰った。希烈はそこで上表して罪を周曽らに帰し、兵を率いて蔡州に還り、表向きは悔い改めて順に従うように見せたが、実は朱滔らの援けを待っていたのである。顔真卿を竜興寺に置いた。
- 丁酉、荊南節度使の張伯儀が安州で淮寧の兵と戦い、官軍は大敗した。伯儀はかろうじて身を免れ、持っていた節を失った。希烈は人にその節と斬った首を顔真卿に見せた。真卿は号泣して地に身を投げ、気絶してまた蘇り、これより人と口をきかなくなった。
- 夏四月、帝は神策軍使の白志貞を京城召募使として禁兵を募り李希烈を討たせた。志貞は、かつて節度使・観察使・都団練使であった者は生死を問わず、その子弟に奴と馬を率いて自ら装備を整え従軍させ、五品の官を授けることを請うた。貧しい者は甚だ苦しみ、人心はここから揺らぎ始めた。
- 庚申、永平宣武河陽都統の李勉に淮西招討使を加え、東都汝州節度使の哥舒曜を副とし、荊南節度使の張伯儀を淮西応援招討使、山南東道節度使の賈耽と江西節度使の曹王皋をその副とした。帝は哥舒曜に進軍を督促した。曜は潁橋に至って大雨に遭い、襄城に退いて守った。李希烈が将の李光輝に襄城を攻めさせたが、曜が撃退した。
- 五月乙未、宣武節度使の劉洽に淄青招討使を兼ねさせた。
- 李晟は涿・莫の二州を取って幽州と魏州の往来の路を断とうと謀り、張孝忠の子の升雲とともに朱滔が任じた易州刺史の鄭景済を清苑に囲んだが、数か月落とせなかった。滔は司武尚書の馬寔を留守として歩騎一万余で魏の陣営を守らせ、自ら歩騎一万五千を率いて清苑を救った。李晟の軍は大敗して易州に退いて守り、滔は瀛州に軍を還した。張升雲は満城へ走った。折しも晟は病が重くなり、軍を率いて定州に退いて守った。
- 王武俊は、滔が李晟を破ったのちも瀛州に留まって魏橋に還らぬので、給事中の宋端を遣わして促した。端が滔に会って言葉がかなり不遜だったので、滔は怒って武俊に言わせた。「滔は熱病でしばらく南へ還れぬだけだ。それを大王二兄はいろいろ言われる。滔は魏博を救うために君に叛き兄を棄てること履を脱ぐがごとくであった。二兄がどうしても疑われるなら、ご随意に」。端が帰って報じると、武俊は馬寔に弁明した。寔がその状を滔に告げると、滔は「趙王は宋端が大王に無礼を働いたと知って深く責められた。まことに他意はない」と言った。武俊もまた承令官の鄭和を寔の使者に随わせて滔に詫び、滔は喜んで待遇を元のとおりにした。しかし武俊はこれによっていよいよ滔を恨んだ。
- 六月、李抱真が参謀の賈林を武俊の陣営に遣わし、偽って降らせた。武俊が会うと、林は言った。「林は詔を奉じて参ったので、降ったのではありません」。武俊が顔色を変えて理由を問うと、林は言った。「天子は大夫がかねて誠と功を著してこられたこと、また壇に登った日に胸を叩いて左右を顧み『わしはもと忠義に殉ずるつもりだったが天子が察してくださらぬ』と言われたことをご存じです。諸将もかつて共に大夫の志を上表しました。天子は使者に言われました。『朕の前の処置はまことに誤りだった。悔いても及ばぬ。友人同士が意を違えても謝ることはできる。まして朕は四海の主ではないか』」。
- 武俊は言った。「わしは胡人だ。将となってもなお百姓を愛することは知っている。まして天子がもっぱら人を殺すことを事とされようか。今、山東は兵を連ねて屍が野原のごとくだ。たとい勝ったところで誰と守るのか。わしは国に帰することを憚らぬ。ただすでに諸鎮と盟を結んだ。胡人は気性が真っ直ぐで、非が自分にあるようにはしたくない。天子がまことに詔を下して諸鎮の罪を赦されるなら、わしが真っ先に唱えて教化に従おう。諸鎮に従わぬ者があれば、辞を奉じて討ちたい。こうすれば上は天子に負かず、下は同列に負かぬ。五十日とかからず河朔は定まろう」。林を帰らせて抱真に報じ、ひそかに互いに約を結んだ。
- 庚戌、はじめて税間架・除陌銭の法を行った。当時、河東・澤潞・河陽・朔方の四軍が魏県に駐屯し、神策・永平・宣武・淮南・浙西・荊南・江西・鄂岳・湖南・黔中・剣南・嶺南の諸軍が淮寧の境を取り巻いていた。旧制では諸道の軍が境を出れば度支から支給を受ける。帝は士卒を厚く恤み、境を出るごとに酒肉を加給し、本道の糧はなおその家に給したので、一人で三人分の給を受けることになり、将士はこれを利として、それぞれ軍を出しては境を越えたところで止まった。月の費えは百三十余万緡で、通常の賦では賄えない。
- 判度支の趙賛はそこで二つの法を奏行した。いわゆる税間架とは、屋根の二架を一間とし、上等の屋は銭二千、中等は千、下等は五百を課すもの。役人が筆と算木を持って人の家に入って数を数え、屋が多いだけで他に資産のない者でも動もすれば数百緡を出すことになった。一間でも隠せば杖六十、告発者には銭五十緡の賞。いわゆる除陌銭とは、公私の給与および売買で一緡ごとに官が五十銭を留めるもの。他の物や物々交換も銭に換算して率を定める。百銭でも隠せば杖六十、罰金二千、告発者に銭十緡の賞。その賞銭はみな摘発された家から出させた。こうして愁いと怨みの声が遠近に満ちた。
- 秋八月丁未、李希烈が兵三万を率いて襄城の哥舒曜を囲んだ。詔して李勉および神策将の劉徳信に兵を率いて救わせた。乙卯、希烈の将の曹季昌が随州を挙げて降ったが、まもなくその将の康叔夜に殺された。
陸贄の上奏――関中の形勢
- はじめ帝は東宮にあったころ監察御史で嘉興の陸贄の名を聞き、即位すると召して翰林学士とし、しばしば得失を問うた。当時、両河で兵を用いて久しく決せず、賦役は日ごとに増した。贄は兵が窮し民が困じて内部に別の変が生ずることを恐れ、上奏した。その大意はこうである。
- 「敵に克つ要は将にその人を得るにあり、将を馭する方は権柄を握るにあります。将がその人でなければ兵が多くとも頼りにならず、権柄を失えば将が有能でも用いられません」。
- 「将が兵を使えず、国が将を馭せなければ、財を費やし寇を弄ぶ弊にとどまらず、収拾がつかずに自ら焼かれる災いもあります」。
- 「今、両河・淮西で叛乱の帥となっている者はわずか四、五人の凶人にすぎません。それでもその中には巻き添えを食って内心疑い恐れ、あわてて図を失い、勢いとして止められなくなった者もあるかと恐れます。まして残る衆はみな脅されて従っているだけ。命が全うできると知れば、どうして悪をなそうと願いましょうか」。
- 「目前の憂いを解かねば、あるいは思わぬ患いを起こします。人は邦の本であり、財は人の心です。その心が傷めば本が傷み、本が傷めば枝も幹も枯れます」。
- 「人が揺れて安んじなければ事変は測りがたい。ゆえに兵は拙くとも速きを貴び、巧みでも遅きを尚びません。本を靖んぜずに末を救おうとすれば、救おうとしたことが禍の起こるもととなります」。
- さらに関中の形勢を論じた。「王者は威を蓄えて徳を明らかにする。片方を廃せば危うい。重きに居て軽きを馭する。逆さに持てば道理に背く。王畿は四方の本です。太宗は府兵を列置して禁衛に隷属させ、およそ諸府八百余のうち関中にあるものがほぼ五百。天下を挙げても関中に及ばぬなら、重きに居て軽きを馭する意は明らかです」。
- 「太平が長引くにつれ武備は次第に衰え、府衛は名だけ残って兵は訓練されなくなりました。ゆえに禄山は逆さに持たれた権柄を盗み、外の重さの資に乗じて一挙に天を覆し、両京は守れなかった。それでも西辺に兵があり、諸厩に馬があり、州ごとに糧があったので、粛宗は中興できたのです。乾元以後、外の憂いが続いて全軍を東征させ、辺備は弛み禁軍も空になった。吐蕃が虚に乗じて深く侵入し、先皇帝は防ぐ手だてなく東へ避けられた。これはみな重きに居て軽きを馭する権を失い、根を深くし柢を固める慮りを忘れたからです」。
- 「内から寇されれば崤・函の険を失い、外から侵されれば汧・渭は戎の地となる。このときには四方の師があっても、一朝の患いを救えましょうか。陛下がこれを追想されて、寒心なさらぬはずがありましょう」。
- 「今、朔方・太原の衆は遠く山東にあり、神策・六軍の兵も相次いで関外に出ております。もし賊臣が寇を誘い、狡猾な虜が辺を窺い、隙を伺い虚に乗じて少しでも国境の砦を犯せば、これこそ愚臣のひそかに憂えるところです。陛下は何をもってこれを防がれるおつもりか」。
- 「聞くところでは、叛を伐つ当初、議者の多くはその事を易しと見て、征あって戦なく、役は時を越えず、兵はさほど多くを要さず、費えもさほど広くはなく、事において擾すことなく、人において労することはないと申しました。ところが兵は連なり禍は絡んで変故は測りがたく、日を引き月を長じて次第に当初の図と食い違ってきました」。
- 「先年、天下が患いとして、これを除けば太平に至れると誰もが言ったのは、李正己・李宝臣・梁崇義・田悦です。先年、国家が信ずるとして、これを任ずれば禍乱を除けると誰もが言ったのは、朱滔・李希烈です。ところが正己が死んで李納が継ぎ、宝臣が死んで惟岳が継ぎ、崇義が死んで希烈が叛き、惟岳が戮せられて朱滔が離れた。とすれば先年の患いは四つのうち三つが除かれたのに、患いはついに衰えない。先年信じた者が今は自ら叛いております」。
- 「これで知られます。国を立てる安危は勢いにあり、事に任ずる成否は人にある。勢いさえ安ければ異類も心を同じくし、勢いが危うければ舟中の者も敵国となる。陛下はどうして過去を鑑みて新たに図を巡らせ、廃れた権柄を修めて人を靖んじ、逆さに持った権を戻して国を固められぬのですか。それを孜々汲々として思いを極め神を労し、際限なき求めに殉じ、必ずしも得られぬ効を望んでおられる」。
- 「今、関中一帯は徴発すでに甚だしく、宮苑の内は備えと護りが十分でありません。万一、将帥のうちにまた朱滔や希烈のような者が現れ、辺塁に拠って豺狼を誘い入れるか、郊畿でひそかに発して城闕を驚かせば――これもまた愚臣がひそかに憂えるところです。陛下は何をもって備えられるおつもりか」。
- 「陛下がもし愚計をお聴きくださるなら、遣わされた神策・六軍の李晟らおよび節度使の子弟はすべて呼び戻し、涇・隴・邠・寧には厳重に封守するようにとだけ明らかに命じ、あわせてもう徴発はせぬと告げて、それぞれ安んじて住めると知らせてください。さらに恩詔を下して京城と畿県の間架などの雑税を罷めれば、すでに納めた者は怨みを解き、いま暮らす者は安らぎを得ましょう。人心が揺れねば邦の本はおのずと固まります」。帝は用いることができなかった。
- 九月丙戌、神策将の劉徳信と宣武将の唐漢臣が淮寧の将の李克誠と滬澗で戦って敗れた。当時、李勉は漢臣に一万を率いて襄城を救わせ、帝は徳信に諸将の家から応募した三千人を率いて助けさせた。勉は「李希烈の精兵はみな襄城にあり、許州は空です。許州を襲えば襄城の囲みはおのずと解けます」と奏し、二将を許州へ向かわせた。ところが数十里手前で、帝が中使を遣わして詔に背いたことを責めたので、二将はあわてて引き返し、斥候も出さなかった。克誠が伏兵で待ち伏せて大半を殺傷し、漢臣は大梁へ、徳信は汝州へ走った。希烈の遊兵は掠奪して伊闕にまで及んだ。勉はまた将の李堅に四千人を率いさせて東都の守りを助けさせたが、希烈が兵でその後ろを断ったので堅の軍は還れず、汴の軍はこれによって振るわなくなり、襄城はいよいよ危うくなった。
- 帝は淮寧を討つ諸軍が統一されていないので、庚子、舒王の謨を荊襄等道行営都元帥として名を誼と改め、戸部尚書の蕭復を長史、右庶子の孔巣父を左司馬、諫議大夫の樊沢を右司馬とし、その他の将佐もみな中外の人望ある者を選んだ。まだ発たぬうちに涇原の師が乱を起こしてやめとなった。復は蕭嵩の孫、巣父は孔子の三十七世の孫である。
涇原の兵変
- 帝は涇原などの諸道の兵を発して襄城を救わせた。冬十月丙午、涇原節度使の姚令言が兵五千を率いて京師に至った。軍士は雨を冒して寒さも甚だしく、多くは子弟を連れて来て厚い賜与を家に遺そうと期待していたが、着いても何一つ賜られなかった。
- 丁未、進発して滻水に至ると、詔して京兆尹の王翃に軍を犒わせたが、粗末な飯と菜の羹だけであった。衆は怒って蹴って覆し、そのうえ揚言した。「我らは敵に死のうというのに、食すら腹一杯食えぬ。どうして微かな命で白刃を拒めるか。瓊林・大盈の二庫には金帛が溢れていると聞く。いっそ皆で取るに如くはない」。そして甲を着け旗を張り、鬨をあげて京城へ引き返した。
- 令言は暇乞いのためまだ禁中にいたが、これを聞いて長楽阪へ馳せつけて出会った。軍士は令言を射た。令言は馬のたてがみに抱きついて乱兵の中へ突き入って叫んだ。「諸君は計を誤っている。東征して功を立てれば、富貴にならぬ心配などない。それをなぜ族滅の計を立てるのか」。軍士は聴かず、兵で令言を擁して西へ向かった。
- 帝は急ぎ命じて帛を一人二匹ずつ賜ったが、衆はいよいよ怒って中使を射た。また中使に宣慰させようとしたが、賊はすでに通化門の外に至っており、中使が門を出ると殺した。さらに金帛二十車を出して賜ろうとしたが、賊はすでに入城しており、喧噪はもう止められなかった。百姓は狼狽して逃げ惑ったが、賊は大声で告げた。「お前たちは恐れるな。お前たちの商貨も質物も奪わぬ。間架銭も陌銭も課さぬ」。
- 帝は普王の誼と翰林学士の姜公輔を遣わして慰め諭させたが、賊はすでに丹鳳門の外に陣し、集まって見物する庶民は万を数えた。
- はじめ神策軍使の白志貞が募兵を掌って東征したとき、死んだ者を志貞はみな隠して報告せず、ただ市井の富家の子から賄賂を取って補充した。名は軍籍にありながら身は市中にあって商いをしていた。司農卿の段秀実が「禁兵は精鋭でなく、その数もきわめて少ない。にわかに患難があれば何をもって当たるのか」と上言したが、聴かれなかった。ここに至って帝が禁兵を召して賊を防がせようとしても、ついに一人も来なかった。
- 賊はすでに閂を斬って入った。帝は王貴妃・韋淑妃・太子・諸王・唐安公主とともに禁苑の北門から出た。王貴妃は伝国の宝を衣に結び付けて従った。後宮・諸王・公主で従えなかった者は十のうち七、八であった。
- はじめ魚朝恩が誅されてから宦官は兵を掌らなくなったが、竇文場・霍仙鳴という者がかつて東宮で帝に仕えており、ここに至って宦官左右わずか百人を率いて従った。普王の誼を先駆とし、太子が兵を執って殿とした。司農卿の郭曙は部曲数十人と禁苑で狩りをしていたが、行幸を知って道の左で拝謁し、そのままその衆を率いて従った。曙は郭曖の弟である。右竜武軍使の令狐建はちょうど軍中で射を教えていたが、これを聞いて麾下四百人を率いて従い、建を後ろの殿とした。
- 姜公輔が馬を押さえて言った。「朱泚はかつて涇の帥でありながら弟の滔のために職を廃されて京師に置かれ、心中つねに不満を抱いております。臣はかねて、陛下が心を推して待遇できぬのなら殺して後患を残さぬに如くはないと申しました。今、乱兵が彼を主に奉ずれば制しがたくなります。どうか召して同行させてください」。帝はあわてていてその言を用いる暇がなく、「もう間に合わぬ」と言って発った。夜、咸陽に至り、飯を数口かき込んで通り過ぎた。
- 事は思いがけず起こったので、群臣はみな乗輿の行方を知らなかった。盧杞と関播は中書省の垣を越えて出た。白志貞・王翃および御史大夫の于頎、中丞の劉従一、戸部侍郎の趙賛、翰林学士の陸贄・呉通微らが咸陽で帝に追いついた。頎は于頔の従兄弟、従一は劉斉賢の従孫である。
- 賊は宮に入って含元殿に登り、大声で叫んだ。「天子はもう出た。めいめい富を求めよ」。そして騒ぎ立てて争って府庫に入り、金帛を運んで力の限り持ち去った。庶民もこれに乗じて宮に入って庫の物を盗み、出てはまた入り、夜通し止まなかった。入れぬ者は路上で奪い取った。諸坊の住民はそれぞれ連れ立って自衛した。
- 姚令言は乱兵と謀って言った。「今、衆に主がなければ長くは保てぬ。朱太尉が私邸に閑居しておられる。共に奉じよう」。衆は承諾し、数百騎を遣わして晋昌里の邸から朱泚を迎えた。夜半、泚は轡を按じ、松明を並べ、触れ回らせながら宮に入り、含元殿に居して警戒を厳しくし、権知六軍を自称した。
- 戊申の朝、泚は白華殿に移り、外に榜を出して言った。「涇原の将士は長く辺境にあって朝廷の礼に慣れず、みだりに宮闕に入って乗輿を驚かせ、西へ巡幸させることとなった。太尉がすでに権に六軍に臨んでいる。神策などの軍士および文武百官で禄を食む者は、みな行在に赴け。行けぬ者は本司に出頭せよ。三日を過ぎて照合しどちらにも名のない者は、みな斬る」。
- こうして百官が出て泚に会った。乗輿を迎えるよう勧める者があると泚は不快な顔をしたので、百官は少しずつ逃げ去った。源休は回紇への使いから帰って賞が薄かったことで朝廷を怨んでおり、泚に会うと人を退けて長時間密談し、泚のために成敗を陳べ符命を引いて僭逆を勧めた。泚は喜んだが、なお決しかねていた。宿衛の諸軍で白旗を掲げて降る者が闕前に甚だ多く列した。泚は夜に禁苑の門から兵を出し、朝には通化門から入れて絶え間なく往来させ、弓を張り刃を露わにして衆を威圧しようとした。
- 帝は桑道茂の言を思い出し、咸陽から奉天県へ行幸した。県の僚属は車駕が突然来たと聞いて山谷に逃げ隠れようとしたが、主簿の蘇弃が止めた。弃は蘇良嗣の兄の孫である。文武の臣も少しずつ相次いで到着した。
- 己酉、左金吾大将軍の渾瑊が奉天に至った。瑊はもとより威望があり、衆心はこれを恃んでやや安らいだ。
- 庚戌、源休は朱泚に十の城門を禁じて朝士を出さぬよう勧めた。朝士はしばしば服を替えて下僕を装ってひそかに脱出した。休はまた泚のために文武の士を説き誘って泚に付かせた。検校司空・同平章事の李忠臣は長く兵権を失っており、太僕卿の張光晟はその才を自負しながらいずれも鬱々として志を得ずにいたので、泚はことごとく起用した。工部侍郎の蒋鎮は逃げようとして落馬し足を傷めて泚に捕らえられた。これより先、休は才能、光晟は節義、鎮は清素、都官員外郎の彭偃は文学、太常卿の敬釭は勇略をもってみな当時の人に重んじられていたが、ここに至ってみな泚に用いられた。
- 鳳翔・涇原の将の張廷芝と段誠諫は数千人を率いて襄城を救いに向かっていたが、まだ潼関を出ぬうちに朱泚が長安に拠ったと聞き、大将の隴右兵馬使の戴蘭を殺して潰えて泚に帰した。泚はここに至って衆心が自分に帰したと思い、反謀はついに定まった。源休を京兆尹・判度支、李忠臣を皇城使とし、百司の供給や六軍の宿衛はみな乗輿に擬した。
- 辛亥、渾瑊を京畿渭北節度使、行在都虞候の白志貞を都知兵馬使、令狐建を中軍鼓角使とし、神策都虞候の侯仲荘を左衛将軍兼奉天防城使とした。
段秀実の義死
- 朱泚は司農卿の段秀実が長く兵権を失って必ず不満を抱いているだろうと考え、数十騎を遣わして召んだ。秀実は門を閉ざして拒んだが、騎士が垣を越えて入って兵で脅した。秀実は免れられぬと悟り、子弟に言った。「国家に患いがある。わしはどこへ避けよう。死をもって社稷に殉ずる。お前たちはめいめい生き延びよ」。そして泚に会いに行った。
- 泚は喜んで「段公が来た。わが事は成った」と言い、座を勧めて計を問うた。秀実は説いた。「公はもと忠義をもって天下に名を著された。今、涇の軍が犒賜の薄さゆえにわかに乱れ、乗輿を播越させた。犒賜が薄いのは有司の過ちであって、天子がどうしてご存じであろうか。公はこのことを将士に諭し、禍福を示して、乗輿を迎え奉って宮闕にお還しになるがよい。これこそ莫大な功です」。泚は黙って不快であったが、秀実も自分と同じく朝廷に廃された身と見て、心を推して委ねた。
- 左驍衛将軍の劉海賓、涇原都虞候の何明礼、孔目官の岐霊岳はみな秀実がかねて親しくしていた者である。秀実はひそかに彼らと泚を誅して乗輿を迎える謀を巡らせた。
- 帝がはじめ奉天に至ったとき、詔して近道の兵を召して援けとした。ある者が「朱泚は乱兵に立てられ、しかも来て城を攻めるでしょう。早く守備を修めるべきです」と上言すると、盧杞は歯噛みして言った。「朱泚は忠貞で群臣の及ぶところではありません。どうして乱に従ったなどと言って大臣の心を傷つけるのか。臣は一族百口をもって反せぬことを保証します」。帝もそのとおりだと思った。また群臣が泚に乗輿を迎えるよう勧めたと聞いて、詔して諸道の援兵が来たらみな三十里の外に陣させることとした。
- 姜公輔が諫めた。「今、宿衛は手薄です。防ぎの慮りは深くせねばなりません。泚が忠を尽くして迎えに来るなら、兵が多いことを何で憚りましょう。そうでないなら、備えあれば患いなしです」。帝はそこで援兵をことごとく城内に召し入れた。
- 盧杞と白志貞が帝に言った。「臣が朱泚の心跡を見るに、必ず逆をなすには至りません。どうか大臣を選んで京城に入れて宣慰させ、その様子をお探りください」。帝が従臣に問うと、みな恐れてあえて行こうとしなかった。金吾将軍の呉溆だけが行くことを請い、帝は喜んだ。溆は退いて人に言った。「その禄を食んでその難を避けて、どうして臣といえよう。わしは幸いにも外戚の身。行けば必ず死ぬと知らぬわけではないが、朝廷を挙げて難に赴く臣がなければ、聖情を寂しくさせるだけだ」。そして詔を奉じて泚のもとへ赴いた。泚の反謀はすでに決していたので、表向きは命を受けたふりをして溆を客省に置き、まもなく殺した。溆は呉湊の兄である。
- 泚は涇原兵馬使の韓旻に精兵三千を率いさせ、大駕を迎えると言い触らして、実は奉天を襲わせた。当時、奉天の守備は手薄であった。段秀実は岐霊岳に「事は急だ」と言い、姚令言の符を偽らせて、旻にひとまず還れ、大軍とともに発つべしと命じさせた。令言の印をひそかに取らせようとしたが間に合わず、秀実は司農の印を逆さに押して符とし、足の速い者を募って追わせた。旻は駱駅まで来て符を得て還った。
- 秀実は同謀の者に言った。「旻が帰ればわしらは皆殺しだ。わしは直に泚に打ちかかって殺す。成らなければ死ぬまで。ついに彼の臣にはなれぬ」。そして劉海賓・何明礼にひそかに軍中の士と結んで外から呼応させようとした。旻の兵が至ると泚と令言は大いに驚いたが、岐霊岳が一人でその罪を引き受けて死に、秀実らには及ばなかった。
- この日、泚は李忠臣・源休・姚令言および秀実らを召して即帝の事を議した。秀実は勃然と立ち上がり、源休の象牙の笏を奪い、進み出て泚の顔に唾して大罵した。「狂賊め。わしはお前を万段に斬れぬのが恨みだ。どうしてお前に従って反するものか」。そして笏で泚を撃った。泚が手を挙げて防いだので、わずかに額に当たっただけだったが、血が飛び散って地に落ちた。泚と秀実はもみ合い、その場は騒然として左右は突然のことに為すすべを知らなかった。海賓はあえて進めず、混乱に乗じて逃れた。忠臣が前に出て泚を助けたので、泚は這うようにして逃れ出た。秀実は事が成らぬと知り、泚の一党に言った。「わしはお前たちの反に与しない。なぜわしを殺さぬ」。衆は争って前に出て殺した。泚は片手で血を受け、片手で衆を止めて言った。「義士だ。殺すな」。秀実はすでに死んでいた。泚は甚だ哀しんで哭し、三品の礼をもって葬った。海賓は喪服を着て逃げたが、二日後に捕らえられて殺された。それでも何明礼を引き合いに出さなかった。明礼は泚に従って奉天を攻めたが、あらためて泚を殺そうと謀ってやはり死んだ。帝は秀実の死を聞き、任用が行き届かなかったことを悔いて、長い間涙を流した。
- 鳳翔節度使・同平章事の張鎰は儒者らしく緩やかな性質で身なりを飾るのを好み、軍事に慣れていなかった。帝が奉天にあると聞いて大駕を迎えようとし、服用の品や財貨を用意して行在に献じようとした。後営将の李楚琳は剽悍で軍中に恐れられ、かつて朱泚に仕えて厚遇されていた。行軍司馬の斉映と同僚の斉抗が鎰に「楚琳を除かねば必ず乱の首魁となります」と言い、鎰は楚琳に隴州へ出て駐屯するよう命じたが、楚琳は事にかこつけてすぐには発たなかった。鎰は迎駕のことで頭が一杯で、楚琳はもう去ったと思い込んでいた。楚琳は夜、その一党と乱を起こした。鎰は城から綱で下りて逃げたが、賊が追いついて殺した。判官の王沼らもみな死んだ。映は水門から出、抗は雇い人となって荷を負って逃げ、いずれも免れた。
- はじめ帝は奉天が狭いので鳳翔へ行幸しようとした。戸部尚書の蕭復はこれを聞いて急ぎ拝謁を請うて言った。「陛下、大変な誤りです。鳳翔の将卒はみな朱泚の旧部曲で、その中には必ず彼と悪を同じくする者がおります。臣は張鎰が長くは保てまいと憂えているほどです。どうして鑾輿を測り知れぬ淵に踏み込ませられましょう」。帝は「わしの行く計は決まっている。試しに卿のために一日留まろう」と言い、翌日、鳳翔の乱を聞いてやめた。斉映と斉抗はともに奉天に詣り、映を御史中丞、抗を侍御史とした。楚琳は自ら節度使となって朱泚に降り、隴州刺史の郝通は楚琳のもとへ走った。
朱泚の僭号と奉天の包囲
- 朱泚は白華殿から宣政殿に入って大秦皇帝を自称し、応天と改元した。癸丑、姚令言を侍中・関内元帥、李忠臣を司空兼侍中、源休を中書侍郎・同平章事・判度支、蒋鎮を吏部侍郎、樊系を礼部侍郎、彭偃を中書舎人とし、その他張光晟らにもそれぞれ官を拝した。弟の滔を皇太弟に立てた。
- 姚令言と源休がともに朝政を掌り、およそ泚の謀画・任免・軍旅・資糧はみな休に諮った。休は泚に、京城にいる宗室を誅して人望を絶つよう勧め、郡王・王子・王孫あわせて七十七人を殺した。まもなく蒋鎮を門下侍郎、李子平を諫議大夫として、ともに同平章事とした。鎮は憂え恐れ、いつも刀を懐にして自殺しようとし、また逃げようともしたが、気が弱くてついに果たせなかった。源休は泚に、隠れている朝士を誅してその他を脅すよう勧めたが、鎮が力を尽くして救ったので、それによって助かった者は甚だ多かった。樊系は泚のために冊文を撰し、書き終えてから毒を仰いで死んだ。大理卿で膠水の蒋沇は行在に赴こうとして賊に捕らえられ、官を強いられたが、絶食して病と称し、ひそかに逃れて免れた。
- 哥舒曜は食糧が尽きて襄城を棄てて洛陽へ走り、李希烈が襄城を陥れた。
- 右竜武将軍の李観が衛兵千余人を率いて奉天で帝に従った。帝はこれに募兵を委ね、数日で五千余人を得て大通りに並べた。旗鼓は厳整で、城の人はこれによって気を増した。
- 姚令言が東へ出たとき、兵馬使で京兆の馮河清を涇原留後、判官で河中の姚況に涇州の事を知らせていた。河清と況は帝が奉天へ行幸したと聞き、将士を集めて大いに哭し、忠義をもって激励し、甲兵と器械百余車を発して夜通し行在に運んだ。城中はちょうど甲も兵器もないことに苦しんでいたので、これを得て士気は大いに振るった。詔して河清を四鎮北庭行営涇原節度使、況を行軍司馬とした。
- 帝が奉天に至って数日、右僕射・同平章事の崔寧がようやく到着した。帝は大いに喜び、労わりも手厚かった。寧は退いて親しい者に言った。「主上は聡明英武で善に従うこと流れるがごとくだ。ただ盧杞に惑わされてここまで来た」。そう言って涙をこぼした。杞はこれを聞き、王翃と謀って陥れた。翃は帝に言った。「臣は寧とともに京城を出ましたが、寧はしばしば馬を下りて長々と用を足し、遅れて来ませんでした。日和見の意がありました」。折しも朱泚が詔を下して左丞の柳渾を同平章事、寧を中書令とした。渾は襄陽の人で、当時、山谷に逃れていた。翃は盩厔尉の康湛に、寧が朱泚に送った書を偽らせて献じた。杞はそれによって、寧は朱泚と盟を結んで内応する約束をしたから独り遅れて来たのだと讒言した。乙卯、帝は中使を遣わして寧を幕の下に導き、密旨を宣べると言って、二人の力士に後ろから縊り殺させた。中外はみなその冤を称した。帝はこれを聞いて、その家を赦した。
- 朱泚が使者を遣わして朱滔に書を送り、「三秦の地は日を指して平定できる。大河の北は卿に討ち滅ぼすことを委ねる。洛陽で卿と会おう」と言った。滔は書を得て西に向かって舞踏し、軍府に宣示し、諸道に牒を移して自ら誇った。
- 帝は中使を遣わして魏県の行営に難を告げた。諸将は互いに慟哭した。李懐光は衆を率いて長安へ赴き、馬燧と李芃はそれぞれ兵を率いて鎮に帰り、李抱真は臨洺に退いて駐屯した。
- 朱泚は自ら奉天に迫った。軍勢は甚だ盛んで、姚令言を元帥、張光晟を副とし、李忠臣を京兆尹・皇城留守、仇敬忠を同華等州節度使として東土を拓いて関東の師を防がせ、李日月を西道先鋒経略使とした。
- 邠寧留後の韓遊瓌、慶州刺史の論惟明、監軍の翟文秀が詔を受けて兵三千を率いて便橋で泚を拒もうとし、醴泉で泚に遭遇した。遊瓌が還って奉天へ向かおうとすると、文秀は言った。「我らが奉天へ向かえば賊も付いて来る。これは賊を引いて天子に迫らせることだ。ここに壁を留めるに如くはない。賊は必ず我らを越えて奉天へ向かうまい。もし顧みずに通り過ぎれば、奉天と挟み撃ちにできる」。遊瓌は言った。「賊は強く我らは弱い。賊が軍を分けて我らを繋ぎ止め、まっすぐ奉天へ向かえば、奉天の兵も弱い。挟み撃ちどころではない。わしが今急いで奉天へ向かうのは天子を衛るためだ。それに我が士卒は飢え凍え、賊には財が多い。彼が利で我が兵を誘えば、わしには禁じられぬ」。そして兵を率いて奉天に入った。泚もまた付いて来た。
- 官軍は出て戦って利あらず、泚の兵が門を争って入ろうとした。渾瑊と遊瓌は終日血戦した。門内に草を積んだ車が数輛あった。瑊は虞候の高固に甲士を率いさせ、長刀で賊を斬らせた。みな一騎当千で、車を引いて門を塞いで火をかけた。諸軍が火に乗じて賊を撃ち、賊はようやく退いた。夜になって泚は城の東三里に陣し、柝を打ち火を焚いて原野に満ちた。西明寺の僧の法堅に攻具を造らせ、仏寺を毀って梯や衝車とした。韓遊瓌は「寺の材はみな乾いた薪だ。火を用意して待てばよい」と言った。固は高侃の玄孫である。
- 泚はこの日から城を攻め続け、瑊・遊瓌らは昼夜力戦した。襄城を救うはずだった幽州の兵は泚が反したと聞いて潼関に突入して泚に帰し、普潤の戍卒もこれに帰して、衆は数万となった。
- 帝は陸贄と語って乱の理由に及び、深く自らを責めた。贄が「今日の患いを招いたのはみな群臣の罪です」と言うと、帝は「これも天命だ。人事によるのではない」と言った。贄は退いて上疏した。
- その大意はこうである。「陛下は志を国土の統一に一つにされ、四方の従わぬ者を征されました。凶徒の首は誅を免れ、逆将は相次いで乱を起こし、兵は連なり禍は絡んで三年に及ぼうとしております。徴兵は日ごとに増し、賦斂は日ごとに重くなり、内は京邑から外は辺境に至るまで、行く者には刃の憂いがあり、居る者には取り立ての苦しみがある。それゆえ叛乱が相次いで起こり、怨みの声がともに興り、非常の憂いは億兆の民が同じく慮っていました。ただ陛下だけが奥深く静かに構えて聞かれなかった。ついに凶悍な兵卒が白昼に堂々と闕を犯すに至ったのは、我らの隙に乗じ、人心の離れに乗じたからではありませんか」。
- 「陛下には股肱の臣があり、耳目の任があり、諫争の列があり、備衛の司がある。それが危うきを見て誠を尽くさず、難に臨んで死を効さなかった。臣が『今日の患いを招いたのは群臣の罪』と申したのが、どうして口先だけでありましょうか」。
- 「聖旨はまた国家の興衰はみな天命によるとされました。臣が聞くに、天の視聴はみな人に因ります。ゆえに祖伊は紂を責めて『わが生、命の天に在るあらずや』と言い、武王は紂の罪を数えて『すなわちいわく、われに命あり、その侮りを懲らすなし』と言いました。これもまた人事を捨てて天命に推すのは決してならぬ道理を示しています。易に『履を視て祥を考う』といい、また『吉凶とは失得の象なり』といいます。これこそ天命が人による意が明らかなところです」。
- 「してみれば聖哲の意、六経の帰するところはみな禍福は人によるとし、盛衰に命ありとは言いません。人事が治まって天命が乱を降したことはなく、人事が乱れて天命が康を降したこともありません。近ごろ征討は頻繁で、刑網はやや細かく、物力は尽き耗り、人心は驚き疑って、風濤の中にいるように騒然として定まりません。上は朝廷の列から下は庶民に至るまで、日夕に一族が集まって謀り、みな必ず変故があると憂えておりました。ほどなく涇原の叛卒が果たして衆庶の憂えたとおりになりました。京師の人は億を数えます。もとよりみなが算術を知り占書に通じているわけではない。とすれば寇を招いた理由は、必ずしもすべて天命に関わるものではありません」。
- 「臣が聞くに、治が乱を生ずることもあり、乱が治の資となることもある。難がなくて守りを失うこともあれば、難が多くて邦を興すこともある。今、乱を生じ守りを失った事は、過ぎたことで追えません。その資して治め邦を興す業は、陛下がよく励んで謹んで修められることにかかっております。何で乱れた人を憂え、何で厄運を畏れましょう。勤め励んで息まねば太平を致すに足ります。ただ妖気を洗い清めて宮闕に還るだけにとどまりません」。
王武俊の離反
- 田悦は王武俊に説いて馬寔とともに臨洺の李抱真を撃たせようとした。抱真はまた賈林を遣わして武俊に説かせた。「臨洺は兵が精鋭で備えもあり、侮れません。今、戦って勝って地を得ても利は魏博に帰し、勝てなければ恒冀が大いに傷つく。易・定・滄・趙はみな大夫の旧地です。先にそちらを取るに如くはありません」。武俊はそこで悦に辞して馬寔とともに北へ帰った。壬戌、悦は武俊を館陶まで送り、手を執って泣いて別れ、下は将士に至るまで贈り物が甚だ厚かった。
- これより先、武俊は回紇の兵を招いて李懐光らの糧道を絶たせようとしていた。懐光らはすでに西へ去っていたが、回紇の達干が回紇千人と雑虜二千人を率いてちょうど幽州の北境に至った。朱滔はそこで彼らを説いて、ともに河南へ赴き東都を取って朱泚に呼応しようとし、河南の子女と金帛を与えると約して賄賂とした。滔は回紇の女を側室に娶っており、回紇は滔を「朱郎」と呼んでいた。しかも掠奪の利を求めて承知した。
- 賈林がまた武俊に説いた。「古来、国家に患いがあっても、それによって改めて興らぬとは限りません。まして主上は九代の天子、聡明英武です。天下の誰が捨てて朱泚と事をともにしましょう。滔は盟主となって以来、同列を軽んじております。河朔にはもと冀国はなく、冀はまさに大夫の封域です。今、滔は冀王を称し、西は兄を頼み、北は回紇を引き入れる。その志は河朔をすべて呑んで王たらんとするもの。大夫が臣たろうとしても、できますまい。しかも大夫は勇猛で善戦、滔の比ではない。もともと忠義をもって手ずから叛臣を誅されたのに、当時の宰相の処置が宜しきを失い、滔に欺かれ誘われてこうなった。昭義と力を合わせて滔を取れば、その勢い必ず得られる。滔が亡べば泚はおのずと破れます。これは不世の功、禍を福に転ずる道です。今、諸道が集まって泚を攻めており、幾日もせず平定されましょう。天下が定まってから大夫が悔いて国に帰しても、もう遅いのです」。
- 当時、武俊はすでに滔と隙ができていたので、袖をまくり色をなして言った。「二百年の天子にすらわしは臣となれなかった。どうしてあんな田舎者に臣となれようか」。そしてひそかに抱真および馬燧と結んで兄弟の契りを結んだ。それでも表向きは滔に仕えて礼は甚だ謹み、田悦とそれぞれ使者を河間の滔のもとへ遣わして朱泚の尊号を祝し、あわせて馬寔の兵を借りてともに趙州の康日知を攻めたいと請うた。
- 汝鄭応援使の劉徳信は子弟の軍を率いて汝州にいたが、難を聞いて兵を率いて援けに入り、見子陵で泚の衆と戦って破った。東渭橋に輸送された積み粟があるので、癸亥、進んで東渭橋に駐屯した。
雲梯の攻防
- 朱泚が夜、奉天の東・西・南の三面を攻めた。甲子、渾瑊が力戦して退けたが、左竜武大将軍の呂希倩が戦死した。乙丑、泚はまた城を攻めた。将軍の高重捷が泚の将の李日月と梁山の隅で戦って破り、勝ちに乗じて敗走を追い、自ら士卒に先んじたが、賊の伏兵に捕らえられた。麾下十余人が死を顧みず奪い返そうとし、賊は防げずにその首を斬り、胴を棄てて去った。麾下が収めて城に入ると、帝は自ら撫でて哀しみを尽くして哭し、蒲を結んで首として葬り、司空を贈った。朱泚もその首を見て哭して「忠臣だ」と言い、蒲を束ねて胴として葬った。
- 李日月は泚の驍将であったが、奉天城下で戦死した。泚がその屍を長安に還して厚く葬ったが、その母はついに哭さず、罵って言った。「奚の下郎め。国家がお前に何の負い目があって反したのか。死ぬのが遅すぎたわ」。泚が敗れて賊の一党がみな族誅されたとき、日月の母だけは坐せられなかった。
- 己巳、渾瑊に京畿渭南北金商節度使を加えた。壬申、王武俊と馬寔が趙州城下に至った。
- はじめ朱泚が鳳翔に鎮していたとき、将の牛雲光に幽州の兵五百人を率いさせて隴州を戍らせ、隴右営田判官の韋皋に隴右留後を領させていた。郝通が鳳翔へ走ると、牛雲光は病と偽り、皋が来たところで伏兵で捕らえて泚に呼応しようとした。事が漏れて、その衆を率いて泚のもとへ走り、汧陽まで来て、泚が中使の蘇玉に詔書を持たせて皋に中丞を加えさせようとしていたのに出会った。玉が雲光に説いた。「韋皋は書生だ。君は私とともに隴州へ行くに如くはない。皋が幸いにも命を受ければ我らの味方、受けなければ君が兵で誅せばよい。子豚を取るようなものだ」。雲光は従った。
- 皋は城上から雲光に問うた。「先には告げずに去り、今また来たのはなぜか」。雲光は「先には公のお心を知らなかった。今、公に新しい任命がありましたので、また参って腹心をお預けしたい」と答えた。皋はそこでまず蘇玉を入れてその詔書を受け、雲光に言った。「大使にまことに異心がなければ、甲兵をことごとくお納めください。城中に疑いがなくなれば衆も入れられます」。雲光は皋を書生と侮って、甲兵をすべて渡して入った。翌日、皋は郡の館で玉・雲光およびその兵に宴を張り、甲を伏せて誅した。そして壇を築いて将士と盟って言った。「李楚琳は賊虐で本使を殺した。上に仕えぬ者が、どうして下を恤めよう。ともに討つべきだ」。兄の平弇を奉天へ遣わし、さらに使者を吐蕃に遣わして援けを求めた。
- 十一月乙亥、隴州を奉義軍とし、皋を節度使に抜擢した。泚はまた中使の劉海広に鳳翔節度使を約束させたが、皋は斬った。
- 霊武留後の杜希全、塩州刺史の戴休顔、夏州刺史の時常春が渭北節度使の李建徽と合流し、兵一万を合わせて援けに入り、奉天に近づいた。帝は将相を召してどの道から出させるかを議した。関播と渾瑊が言った。「漠谷の道は険しく狭く、賊に待ち伏せされる恐れがあります。乾陵の北を通り附柏城沿いに行かせ、城の東北の鶏子堆に陣して城中と掎角の勢いをなさせるほうがよい。あわせて賊の勢いも分けられます」。盧杞は言った。「漠谷は道が近い。賊に待ち伏せされたら城中から兵を出して応接すればよい。もし乾陵を通れば陵寝を驚かせる恐れがあります」。瑊は言った。「泚が城を囲んでから乾陵の松柏を斬ること昼夜を継いでおります。驚かせることはすでに多い。今、城中は危急で諸道の救兵は着かず、ただ希全らが来るのですから、係るところは軽くない。要地に陣を据えられれば泚は破れます」。杞は「陛下が師を行らせるのは、どうして逆賊と同じでありましょう。希全らに通らせるのは、自ら陵寝を驚かせることです」と言った。帝はそこで希全らに漠谷から進ませた。
- 丙子、希全らの軍が漠谷に至ると、果たして賊に待ち伏せされ、高きに乗じて大弩と巨石で撃たれ、死傷は甚だ多かった。城中から兵を出して応接したが賊に破られた。その夕、四軍は潰えて邠州に退いた。泚は城下でその輜重を検分し、従官たちは顔色を失った。休顔は夏州の人である。
- 泚は城攻めをいよいよ急にし、塹を穿って取り巻いた。泚は帳を乾陵の下に移し、城中の動きを見下ろしてすべて見えるようにし、しばしば使者を城の周りに回らせて士民を誘い、天命を知らぬと笑った。
- 神策河北行営節度使の李晟は病が癒え、帝が奉天に行幸したと聞いて衆を率いて駆けつけようとした。張孝忠は朱滔と王武俊に迫られ、晟を頼りとしていたので行かせたくなく、しばしば止めた。晟はそこで子の憑を残して孝忠の娘を娶らせ、また玉帯を解いて孝忠の親信に贈って説かせた。孝忠はそこで晟の西帰を許し、大将の楊栄国に精兵六百を率いさせて同行させた。晟は兵を率いて飛狐道から昼夜兼行して代州に至った。丁丑、晟に神策行営節度使を加えた。
- 王武俊と馬寔は趙州を攻めたが落とせず、辛巳、寔は瀛州に帰り、武俊は五里まで送って犒いと贈り物が甚だ厚かった。武俊も恒州に帰った。
- 朱泚が奉天を攻め囲んで一月、城中の物資も食糧も尽きた。帝がかつて足の速い者を城外に出して賊を偵察させようとしたとき、その者はしきりに寒さの厳しさを訴え、跪いて襦と袴を一つ乞うた。帝は探させたが手に入らず、痛ましく思いながら黙って遣わした。当時、御用に供せる粟はわずか二斛。賊の休息の隙を窺い、夜に人を綱で城外に下ろして蕪菁の根を採らせて献じた。
- 帝は公卿・将吏を召して言った。「朕は不徳ゆえ自ら危亡に陥った。当然のことである。公らに罪はない。早く降って家族を救うがよい」。群臣はみな頓首して涙を流し、死力を尽くすことを誓った。それゆえ将士は困窮しても鋭気は衰えなかった。
- 帝が奉天に行幸したとき、糧料使の崔縦が李懐光に援けに入るよう勧め、懐光は従った。縦は軍の物資をすべて集めて懐光とともに来た。懐光は昼夜道を倍して河中に至り、力が尽きて三日兵を休めた。河中尹の李斉運が力を尽くして軍士を犒って宴を張ると、なお遷延しようとした。崔縦は先に貨財を車に載せて河を渡り、衆に「河西に着いたらすべて分け与える」と言った。衆はこれを利として西へ蒲城に駐屯し、衆は五万に達した。斉運は李憕の孫である。
- 李晟は行きながら兵を収め、やはり蒲津から渡って東渭橋に陣した。はじめ四千の兵であったが、晟は統御に巧みで士卒と甘苦をともにしたので、人は喜んで従い、一月ほどで一万余人になった。
- 神策兵馬使の尚可孤は李希烈討伐のため三千人を率いて襄陽にいたが、武関から援けに入り、七盤に陣して泚の将の仇敬を破り、そのまま藍田を取った。可孤は宇文部の別種である。
- 鎮国軍副使の駱元光は先祖が安息の人で、駱奉先が養って子とした。兵を率いて潼関を守ること十年近く、衆に信服されていた。朱泚が将の何望之を遣わして華州を襲うと、刺史の董晉は州を棄てて行在へ走り、望之がその城を占拠して兵を集めて東の道を絶とうとした。元光は関下の兵を率いて望之を襲い、望之は長安へ逃げ帰った。元光はそこで華州に陣して士卒を募り、数日で一万余人を得た。泚がしばしば兵を遣わして元光を攻めたが、元光はみな撃退した。賊はこれによって東へ出られなくなった。帝はただちに元光を鎮国軍節度使とし、元光は兵二千を率いて西の昭応に駐屯した。馬燧は行軍司馬の王権とその子の彙に兵五千を率いさせて援けに入らせ、中渭橋に駐屯させた。
- こうして泚の一党が拠るのは長安だけとなった。援軍の遊騎はときに望春楼の下にまで至った。李忠臣らはしばしば兵を出したがみな敗れ、泚に救いを求めた。泚は民間が疲弊に乗じて襲うことを恐れ、遣わす兵はみな昼は伏せ夜に行かせた。
- 泚は内心長安を憂い、そこで奉天を急攻することとし、僧の法堅に雲梯を造らせた。高さも幅も数丈、兕の革で包み、下に巨大な車輪をつけ、上に壮士五百人を乗せられる。城中はこれを望んで怯えた。
- 帝が群臣に問うと、渾瑊と侯仲荘が答えた。「臣が雲梯を見るに、その勢いは甚だ重い。重ければ陥りやすい。臣はその来る方に向かって地道を掘り、薪を積み火を蓄えて待ちたい」。神武軍使の韓澄が言った。「雲梯は小技です。上の聖慮を煩わすには足りません。臣が防ぎましょう」。そして梯の向かってくる方角を測り、城の東北隅三十歩にわたって、脂・松脂・薪・葦を多く貯えた。
- 丁亥、泚は盛んに兵を出し鬨をあげて南城を攻めた。韓遊瓌は「これは我が力を分けようというのだ」と言い、兵を率いて東北を厳重に備えた。戊子、北風が甚だ激しかった。泚は雲梯を押し出し、上に湿した獣脂を施し水袋を吊るし、壮士を載せて城を攻め、轒輼車を翼として人をその下に置き、薪を抱え土を負って塹を埋めながら進んだ。矢も石も火炬も傷つけられない。賊は兵を合わせて城の東北隅を攻め、矢石は雨のごとく、城中の死傷は数えきれなかった。すでに城に登る者もあった。
- 帝は渾瑊と向き合って泣き、群臣はただ天を仰いで祈るばかりであった。帝は名を書き入れていない告身、御史大夫・実封五百戸以下の千余通を瑊に授けて決死の士を募って防がせ、あわせて御筆を賜って、その功の大小を見て名を書いて与えよと言い、告身が足りなければその身に書けと言った。そして「今こそ卿と別れよう」と言った。瑊は俯し伏して涙を流し、帝はその背を撫でてすすり泣き、こらえきれなかった。
- 当時、士卒は凍え飢え、甲冑も乏しかったが、瑊が撫でて諭し忠義をもって激励すると、みな鬨をあげて力戦した。瑊は流矢に当たったが戦い続け、はじめ痛いとも言わなかった。
- 折しも雲梯が地道を踏み、片方の車輪が陥って前にも後ろにも動けなくなり、火が地中から出て風向きも変わった。城上の人が葦の松明を投げ、松脂を撒き、脂を注ぐと、歓呼は地を震わせ、たちまち雲梯も梯上の者もみな灰燼となり、臭いは数里に及んだ。賊はそこで退いた。
- ここで三つの門からみな兵を出し、太子が自ら戦を督し、賊は大敗して死者数千人。将士で傷ついた者には太子が自ら傷を包んだ。夜に入って泚がまた攻めに来て、矢が御前三歩のところに落ちた。帝は大いに驚いた。
- 李懐光が蒲城から兵を率いて涇陽へ向かい、北山沿いに西へ進んだ。あらかじめ兵馬使の張韶を微服で忍ばせ、表を蝋丸に納めて行在へ届けさせた。韶が奉天に至ると、ちょうど賊が城を攻めていた。賊は韶を見て身分の低い者と思い、追い立てて民とともに塹を埋めさせた。韶は隙を見て塹を越え城下に至り、「わしは朔方軍の使者だ」と叫んだ。城上の人が縄を下ろして引き上げると、登り切ったときには身に数十本の矢を受けていた。衣の中から表を取り出して献じ、帝は大いに喜んで韶を輿に乗せて城の四隅を回らせ、歓声は雷のようであった。
- 癸巳、懐光が醴泉で泚の兵を破った。泚はこれを聞いて恐れ、兵を率いて長安へ逃げ帰った。衆は、懐光がまた三日来なければ城は守れなかったと言い合った。
- 泚が退くと従臣はみな祝した。汴滑行営兵馬使の賈隠林が進言した。「陛下は気が急すぎて物を容れられません。この性がお改まりにならなければ、朱泚が敗亡しても憂いは尽きますまい」。帝はこれを咎めず、大いに称えた。
- 侍御史の万俟著が金・商の輸送路を開き、重囲が解けると諸道の貢賦が相次いで届いて、用度はようやく振るった。
- 朱泚は長安に至ると籠城の計を立てるばかりだった。ときに人を城外から来させて走り回って「奉天は破れた」と叫ばせ、衆を惑わそうとした。泚は府庫の富に拠っていたので金帛を惜しまず将士を喜ばせ、城内にある公卿の家族にもみな月俸を給し、神策および六軍で車駕や哥舒曜・李晟に従った者にはみなその家に糧を給した。そのうえ器械の修繕を加えて日々の費えは甚だ広かったが、長安が平定されたとき府庫にはなお余りがあり、見る者はみな有司の苛斂を怨んだ。
- ある者が泚に「陛下はすでに命を受けられました。唐の陵廟を存すべきではありません」と言うと、泚は「朕はかつて北面して唐に仕えた。どうしてそんなことに忍びよう」と言った。また「百官が多く欠けております。兵で士人を脅して補ってください」と言うと、泚は「無理に授ければ人は恐れる。仕えたい者にだけ与えればよい。どうして戸を叩いて官を拝する必要があろう」と言った。
- 泚が用いたのは范陽・神策・団練の兵だけで、涇原の卒は驕ってみな用をなさず、掠め取った資貨を守るばかりで出て戦おうとせず、さらにひそかに泚を殺そうと謀ったが果たさずに終わった。
李懐光の不満
- 李懐光は性が粗放で、山東から難に赴く途中しばしば人に盧杞・趙賛・白志貞の姦佞を語り、「天下の乱はみなこの輩の仕業だ。わしは帝に会って誅を請う」と言っていた。奉天の囲みを解くと自らその功を誇り、帝は必ず特別の礼で迎えるだろうと思っていた。
- ある者が王翃と趙賛に言った。「懐光は道すがら憤り嘆いて、宰相の謀議が方を誤り、度支の賦斂は煩重、京尹の犒賜は刻薄、これが乗輿を播遷させた三臣の罪だと言っている。今、懐光は新たに大功を立てたのだから、帝は必ず襟を開いて誠を布き得失を尋ねられよう。その言が通れば危ないではないか」。翃と賛が盧杞に告げると、杞は恐れ、それとなく帝に言った。
- 「懐光の勲業は社稷の頼るところです。賊徒は胆を破ってみな守る心を失っております。勝ちに乗じて長安を取らせれば一挙に賊を滅ぼせます。これぞ竹を割く勢い。今、入朝を許せば必ず宴を賜って幾日も引き止めることになり、賊は京城で余裕をもって備えを固めましょう。図りにくくなるのを恐れます」。帝はそのとおりだと思い、懐光に詔して、まっすぐ軍を便橋に駐屯させ、李建徽・李晟および神策兵馬使の楊恵元と期日を刻んでともに長安を取るよう命じた。
- 懐光は数千里を誠を尽くして難に赴き、朱泚を破って重囲を解いたのに、目と鼻の先で天子に会えぬことになり、大いに不満を抱いて言った。「わしはもう姦臣に排された。先は知れている」。そして兵を率いて去り、魯店に二日留まってから進んだ。
- 淮南節度使の陳少遊は兵を率いて李希烈を討ち盱眙に駐屯していたが、朱泚の乱を聞いて広陵に帰り、塹と塁を修め甲兵を整えた。浙江東西節度使の韓滉は関所と橋を閉ざし、馬牛の国外持ち出しを禁じ、石頭城を築き、井戸を百近く穿ち、館舎数十を修め、塢壁を修めて建業から京峴まで楼と堞を連ね、車駕の渡江に備え、あわせて自らを固めた。少遊が兵三千を発して江北で大閲兵を行うと、滉もまた舟師三千を発して京口で武を耀かせて応じた。
- 塩鉄使の包佶は銭帛八百万を京師に納めようとしていた。陳少遊は賊が長安に拠って回復の見込みが立たぬとして、これを奪おうとした。佶が承知しないので少遊は殺そうとし、佶は恐れて妻子を書類の中に隠し、急ぎ江を渡った。少遊はその銭帛をことごとく収めた。佶には財を守る兵三千があったが、少遊はこれも奪った。佶はわずか数十人と上元に至ったが、また韓滉に奪われた。
- 当時、南方の藩鎮はそれぞれ境を閉ざして自守したが、曹王皋だけがしばしば使者を間道から遣わして貢献した。李希烈が汴・鄭を攻めて迫り江淮の路が絶えたので、朝貢はみな宣・饒・荊・襄から武関へ向かった。皋が駅を整え道を平らげたので、往来の使者は障りなく通れた。
陸贄の「上下の情を通ず」の疏
- 帝が陸贄に当今の急務を問うと、贄は、先の乱は上下の情が通じなかったことによるとして、下に接し諫めに従うよう勧め、上疏した。その大意はこうである。
- 「臣が思うに、当今の急務は群情を審らかに察することにあります。群情が甚だ望むところを陛下が先に行い、甚だ憎むところを陛下が先に除く。欲すると憎むとを天下と同じくして天下が帰さなかったことは、古今にありません。そもそも治乱の本は人心に繋がります。まして変故で動揺しているとき、危疑と向背の際にあってはなおさら。人が帰すれば立ち、人が去れば傾く。陛下がどうして群情を察してその好悪を同じくし、億兆を帰趣させて邦家を靖んじられぬことがありましょう」。
- 「近ごろひそかに世論を聞き群情をかなり究めました。四方は中と外の意が食い違うことを患い、百官は君臣の道が隔たることを患っております。郡国の志は朝廷に達せず、朝廷の誠は御前に上らない。上の沢は下に布かれず、下の情は上に届かない。真実は必ずしも知られず、知られたことは必ずしも真実でない。上下は互いに塞がり、真偽はその間に入り交じる。怨みは集まって囂々とし、誹りは騰がって籍々たり。疑いと隔たりをなくそうとしても、できましょうか」。
- 「天下の智を集めて聡明を助け、天下の心に順って教令を施せば、君臣は志を同じくする。何が従わぬことがあろう。遠近が心を帰す。誰と乱をなそうか」。
- 「慮りには愚かなようで道に近いものがあり、事には要でありながら迂遠に見えるものがあります」。
- 疏が奏されて十日、帝は何も施行せず、詰問もしなかった。贄はまた上疏した。その大意はこうである。
- 「臣が聞くに、国を立てる本は衆を得ることにあり、衆を得る要は情を見ることにあります。ゆえに仲尼は『人情は聖王の田なり』と言いました。治める道が生ずるところという意味です」。
- 「易に、乾が下で坤が上を泰といい、坤が下で乾が上を否といい、上を損じて下に益するを益といい、下を損じて上に益するを損といいます。そもそも天が下にあり地が上にあるのは位が乖いているのに、かえって泰というのは上下が交わるからです。君が上にあり臣が下にあるのは義に順っているのに、かえって否というのは上下が交わらぬからです。上が自らを約して人に裕かにすれば、人は必ず喜んで上を奉ずる。どうして益といわずにおれましょう。上が人を蔑ろにして自分にほしいままにすれば、人は必ず怨んで上に叛く。どうして損といわずにおれましょう」。
- 「舟は君の道、水は人の情です。舟は水の道に順えば浮かび、違えば沈む。君は人の情を得れば固く、失えば危うい。それゆえ古の聖王が人の上に居るときは、必ずその欲を天下の心に従わせ、あえて天下の人を自分の欲に従わせなかったのです」。
- 「陛下は習俗が治めの妨げとなることを憤り、平定を自ら担われ、威を明らかにして臨み、厳しい法制をもって流弊を断とうとされた。しかし久しく深く掘り進めれば、遠くの者は驚き疑って命に背き、死を逃れんとする乱が起こり、近くの者は畏れすくんで表面を繕い、罪を避ける態度が生ずる。君臣は意が乖き、上下は情が隔たる。君は治を致そうと務めるのに下は誅罰を防ぎ、臣が忠を納めようとしても上は欺きと大言を慮る。ゆえに睿誠は万物に布かれず、物情は睿聡に達しません」。
- 「臣は先年、御史を務めて朝謁を奉じましたが、半年ほどの間、陛下は奥深く高く居られて一度も旨を降して問われず、群臣は身をすくめて退き、事を列ねて奏することもありませんでした。宮中の階の上でさえ諭し合えぬのに、広い宇宙のことをどうして通じさせられましょう。たとい例に従って使臣に対し、別に宰輔を延いても、多くの意見が集まるのとは違い、公の場の言論とも異なる。まだ行われぬことは機密として論ずるなと戒め、すでに行われたことは既往として諫めるなという。次第に拘りが生じ、動もすれば猜疑に関わる。これによって人はそれぞれ情を隠して言うことを憚る。変乱が起ころうとして億兆が同じく憂えたのに、陛下だけが恬然として知らず、太平を致せると思っておられた」。
- 「陛下が今日ご覧になったことと往時に聞かれたこととを比べれば、どちらが真でどちらが虚か、何を得て何を失ったか。事の通塞は詳らかに備わり、人の情偽は尽く知られましょう」。
- 帝はそこで中使を遣わして諭させた。「朕はもとより誠を推すのを好み、諫めも受け入れられる。君臣は一体と思って、まったく警戒しなかった。誠を推して疑わなかったばかりに、姦人に弄ばれることが多かった。今の患害も、朕が思うに他でもない。その失はかえって誠を推したことにある。それに諫官は事を論ずるのに慎み隠すことが少なく、いつも自ら誇り、過ちを朕に帰して名を取る。朕は即位以来、奏対して事を論ずる者を甚だ多く見たが、おおむね皆が同じことを言い、道聴塗説にすぎず、質問を加えるとたちまち言葉に詰まる。もし奇才異能があれば、朕がどうして抜擢を惜しもう。朕はこれまでの事がただこうであるのを見てきた。それゆえ近ごろあまり人と対面しないのだ。接することに倦んだのではない。卿はこの意をよく汲め」。
- 贄は、人君が下に臨むには誠信を本とすべきであり、諫める者の言葉が拙くとも寛く容れて言路を開くべきで、威で震わせ弁で折れば臣下は何を言えようと考え、あらためて上疏した。その大意はこうである。
- 「天子の道は天と方を同じくします。天は地に悪しき木があるからといって発生をやめず、天子は時に小人があるからといって聴納をやめません」。
- 「ただ信と誠だけは、失えば補うすべがない。ひとたび誠ならざれば心は保たれず、ひとたび信ならざれば言は行われません。陛下が誠信を失って患害を招いたと仰せられたのは、臣はひそかにその言を過ちと思います」。
- 「智で馭すれば人は詐り、疑いを示せば人は苟且になる。上が行えば下は従い、上が施せば下は報いる。誠を自分に尽くさずして人に尽くさせようとすれば、衆は必ず怠って従わない。前に誠でなくて後に誠だと言えば、衆は必ず疑って信じない。これで知られます。誠信の道は片時も身から離せません。どうか陛下、慎んで守り、いっそう行ってください。悔いるべきものではないと存じます」。
- 「臣が聞くに、仲虺は成湯を賛えて過ちのないことを称えず、過ちを改めたことを称えました。吉甫は周の宣王を歌って闕けのないことを美とせず、闕けを補ったことを美としました。とすれば聖賢の意ははっきり明らかで、ただ過ちを改めるを能とし、過ちのないことを貴びません。人の行いには必ず過ち違いがあり、上智も下愚もともに免れぬからです。智者は過ちを改めて善に遷り、愚者は過ちを恥じて非を押し通す。善に遷れば徳は日に新たになり、非を押し通せば悪は積もっていきます」。
- 「諫官が慎み隠さず自ら誇るのは、まことに忠厚ではありません。しかし聖徳においてはもとより損なうところもない。陛下が諫めを納れて違われなければ、伝わることはかえって美を増します。陛下が諫めに背いて納れられなければ、どうして伝わるのを禁じられましょう」。
- 「大言でも実証がなければ用いるに及ばず、地味な言でも理に当たれば退けるに及ばない。言葉は拙くとも効の速い者は必ずしも愚かでなく、言葉が甘くて利の重い者は必ずしも智ではない。これはみな実で考え、終わりで慮る。その用は他でもなく、ただ善のあるところによるのです」。
- 「陛下が『近ごろ奏対して事を論ずる者はみな雷同、道聴塗説だ』と仰せられたことについて、臣はひそかに思います。多くの者の議は人情を見るに足り、行うべきことも、畏るべきこともあるはず。一概に軽んじ侮って省み納れられぬのはよろしくありません。陛下がまた『質問を加えるとたちまち言葉に詰まる』と仰せられたことについて、臣はただこう思います。陛下はその言葉を詰まらせても、その理を詰まらせてはおられません。その口を服させても、その心を服させてはおられません」。
- 「下たる者で忠を願わぬ者はなく、上たる者で治まりを求めぬ者はない。それでいて下は常に上の治まらぬことに苦しみ、上は常に下の忠ならざるに苦しむ。なぜか。二つの情が通じないからです。下の情で上に達したいと願わぬものはなく、上の情で下に知られたいと求めぬものはない。それでいて下は常に上に達しにくいことに苦しみ、上は常に下を知りにくいことに苦しむ。なぜか。九つの弊が除かれていないからです」。
- 「いわゆる九弊とは、上に六つ、下に三つあります。人に勝つのを好み、過ちを聞くのを恥じ、弁舌を振るい、聡明を誇り、威厳を厲しくし、強情をほしいままにする――この六つが君上の弊です。諂い諛い、日和見し、怯え弱る――この三つが臣下の弊です」。
- 「上が勝つのを好めば必ずへつらいの言葉を甘しとし、上が過ちを恥じれば必ず直諫を忌む。そうなれば下の諂う者は旨に順い、忠実の言は聞こえなくなる。上が弁を振るえば必ず人の言を遮って折り、上が明を誇れば必ず臆測して人を詐りと疑う。そうなれば下の日和見する者は自分の都合を図り、切磋の言は尽くされない。上が威を厲しくすれば情を降して物に接することができず、上が強情をほしいままにすれば咎を引いて規諫を受けることができない。そうなれば下の怯え弱る者は咎を避け、情理の説は申されない」。
- 「そもそも広大な区域、多くの生霊、深く重い宮闕、高卑の隔てをもってすれば、庶民から上へ、至尊の光景を目にできる者は億兆に一人もない。目にできた者のうち言議を交わせる者はまた千万に一人。幸いに交わせた者にも九弊がその間に居る。とすれば上下の情が通ずるのは稀です。上の情が下に通じなければ人は惑い、下の情が上に通じなければ君は疑う。疑えばその誠を納れず、惑えばその令に従わない。誠が納れられねば背きをもって応じ、令が従われねば刑を加える。下が背き上が刑する。敗れずして何を待ちましょう。これが乱多く治少なく、古来そうであった理由です」。
- 「昔、趙武は訥々として晋の賢臣となり、絳侯は木訥にして漢の元輔となりました。とすれば口の達者な者は事において必ずしも信ならず、言葉に詰まる者は理において必ずしも窮していない。人を知るのは堯舜も難しとしたところ。一問一答でどうしてその能を尽くせましょう。これで天下の情を察すれば実を失うことが多く、これで天下の士を軽んずれば必ず才を遺します」。
- 「諫める者が多ければ我が能を表し、諫める者が直なれば我が賢を示し、諫める者の狂誣は我が恕を明らかにし、諫める者の漏泄は我が従うことを彰す。このうち一つでもあればみな盛徳です。とすれば人君と諫者とは互いに益し合う道にある。諫者に爵賞の利があれば君にも治安の利があり、諫者に献替の名があれば君にも採納の名がある。それでもなお、諫者に中を失うことがあっても君に美ならざるはない。ただ諤々たる言の切ならざること、天下の聞こえぬことを恐れるばかり。こうなれば納諫の徳は輝きます」。帝はその言をかなり採用した。
- 李懐光は兵を据えて進まず、しばしば上表して盧杞らの罪悪を暴いた。世論も騒がしく杞らを咎めた。帝はやむを得ず、十二月壬戌、杞を新州司馬、白志貞を恩州司馬、趙賛を播州司馬に貶した。宦官の翟文秀は帝の信任する者であったが、懐光がまたその罪を言い、帝はこれも殺した。
- 乙丑、翰林学士・祠部員外郎の陸贄を考功郎中、金部員外郎の呉通微を職方郎中とした。贄は上奏して辞退した。「奉天に着いた当初、扈従の将吏には例により二階を加えられました。今、翰林だけが官を遷るのは。そもそも罰を行うに貴近を先にして卑遠を後にすれば令は犯されず、賞を行うに卑遠を先にして貴近を後にすれば功は遺されません。どうかまず大きな労を録し、次いで諸々に及ぼしてください。そうなれば臣もあえて独り辞退はいたしません」。帝は許さなかった。
- 帝は奉天にあって人を遣わして田悦・王武俊・李納を説き、その罪を赦し、官爵を厚く贈った。悦らはみなひそかに帰順を申し出たが、なお朱滔と絶つことはできず、それぞれ王を称したままであった。
- 滔はその虎牙将軍の王郅に悦を説かせた。「先日、八郎に急があったとき、滔と趙王は死を惜しまず力を尽くして救援に赴き、幸いにも囲みを解きました。今、太尉の三兄が関中で天命を受けられた。滔は回紇とともに助けに行きたい。どうか八郎も兵を整えて滔とともに河を渡り、ともに大梁を取っていただきたい」。悦は行きたくなかったが絶交するに忍びず、そこで承諾した。滔はさらに内史舎人の李琯を遣わして可否を確かめさせた。
- 悦は迷って決しかね、ひそかに扈㟧らを召して議した。司武侍郎の許士則が言った。「朱滔は昔、李懐仙に仕えて牙将となり、兄の泚および朱希彩とともに懐仙を殺して希彩を立てました。希彩がその兄弟を寵信したことは極まっていた。滔はさらに判官の李子瑗と謀って希彩を殺して泚を立てた。泚が帥となると、滔は泚に入朝を勧めて自分が留後となった。忠義を勧めるようでいて、実は権を奪ったのです。平生ともに謀り功をともにした李子瑗の徒のように、背いて殺した者は二十余人。今また泚と東西呼応している。滔が志を得れば泚さえ容れられますまい。まして同盟など。滔の人となりがこうである以上、大王はどうしてその肺腑を得て信じられましょうか」。
- 「彼は幽陵と回紇の十万の兵を郊外に駐屯させます。大王が出迎えればその場で捕らわれる。大王を囚えて魏国の兵を併せ、南へ河を渡って関中と呼応すれば、天下の誰が当たれましょう。そのとき大王は悔いても及びません。大王のために計るなら、表向き同行を許して裏で備えるに如くはない。厚く出迎えて労い、来たら他の理由にかこつけて将を遣わし兵を分けて随わせる。こうすれば大王は外に報徳の名を失わず、内に不意の憂いもありません」。扈㟧らもみなそのとおりだと思った。
- 王武俊は李琯が魏へ行ったと聞き、司刑員外郎の田秀を馳せさせて悦に会わせて言った。「武俊は先に宰相の処置が宜しきを失ったので身に禍が及ぶことを恐れ、また八郎が重囲に苦しんでいたので、滔と兵を合わせて救ったのだ。今、天子はまさに隠れた憂いの中にあって徳をもって我らを綏められる。我らがどうして過ちを悔いて帰さずにおれよう。九代の天子に仕えずして泚と滔に仕えるのか。しかも泚がまだ帝を称さぬときですら、滔は我らと肩を並べて王となりながら、もう我らを軽んじていた。まして彼に南で汴・洛を平らげさせ泚と連衡させれば、我らはみな虜となる。八郎よ、慎んで彼とともに南へ行くな。城を閉ざして守れ。武俊はその隙を窺い、昭義の兵と連ねて撃ち滅ぼしたい。八郎とともに再び河朔を清め、また節度使となって天子に仕えるのも、よいことではないか」。
- 悦の意はこれで決まり、滔には従行すると偽って前の約のとおりだと答えた。丁卯、滔は范陽の歩騎五万、私に従う者一万余、回紇三千人を率いて河間を発して南へ向かった。輜重は首尾四十里に及んだ。
- 李希烈が汴州の李勉を攻め、民を駆り立てて土木を運ばせ塁道を築いて城を攻めた。完成が遅いのに憤り、人ごと埋め込んで「濕薪」と呼んだ。勉は数か月籠城したが外の救いが来ず、その衆一万余を率いて宋州へ走った。庚午、希烈は大梁を陥れた。滑州刺史の李澄が城を挙げて希烈に降り、希烈は澄を尚書令兼永平節度使とした。勉は上表して罪を請うたが、帝はその使者に言った。「朕でさえ宗廟の守りを失った。勉は自ら安んずるがよい」。そして待遇を元のままとした。
- 劉洽が将の高翼に精兵五千を率いさせて襄邑を保たせたが、希烈が攻め落とし、翼は水に身を投げて死んだ。希烈は勝ちに乗じて寧陵を攻め、江淮は大いに震えた。陳少遊は参謀の温述を遣わして希烈に恭順を申し出て、「濠・寿・舒・廬はすでに備えを緩め、戈を収め甲を巻いて、伏してご指図を待ちます」と言い、さらに巡官の趙詵を遣わして鄆州の李納と結んだ。
- 給事中の孔巣父を淄青宣慰使、国子祭酒の董晉を河北宣慰使とした。
- 陸贄が帝に言った。「今、盗賊は天下に遍く、輿駕は播遷しております。陛下は痛切に自ら過ちを引いて人心を感じさせるべきです。昔、成湯は罪を自分に帰して勃興し、楚の昭王は善言によって国を復しました。陛下がまことに過ちを改めるのを吝しまず、言葉をもって天下に謝し、書詔に憚るところをなくされるなら、臣は愚かながら聖情に沿えましょう。不穏な者たちも心を改めて教化に向かいましょう」。帝はそのとおりだと思った。それゆえ奉天で下された書詔は、驕った将や悍しい卒でも聞いて感激して涙を拭わぬ者がなかった。
- 術者が、国家は厄運にあり、変更を加えて時数に応ずべきだと上言した。群臣が尊号に一、二字を加えることを請うたので、帝が陸贄に問うと、贄は不可として上奏した。その大意はこうである。「尊号の興りはもとより古の制ではありません。安泰の日に行ってもすでに謙譲を損ない、喪乱の時に襲うのはなおさら事の体を傷つけます」。
- 「嬴秦の徳が衰えて『皇』と『帝』を兼ねてはじめて総称としました。後代に流れては昏く偏った君に『聖劉』『天元』の号がありました。これで知られます。人主の軽重は名称にはない。減らせば謙譲の光あり古に稽える善があり、崇めれば能を誇り諂いを納れるとの譏りを受けます」。
- 「どうしても術数に従って変更が必要なら、美称を増して人心を失うよりは、旧号を退けて天の戒めを敬うに如くはありません」。帝はその言を納れ、ただ年号を改めるだけにした。
- 帝はまた中書が撰した赦文を贄に示した。贄は上言した。「人を動かすに言葉をもってするなら、感ずるところはすでに浅い。言葉がまた切実でなければ、誰が心に懐きましょう。今回の恩詔は、過ちを悔いる意を深くせざるを得ず、咎を引く辞を尽くさざるを得ません。疵と垢を洗い流し、鬱屈を宣べ通わせ、人々にそれぞれ望むところを得させれば、従わぬ者がありましょうか。改革すべき事条は、謹んで別状にして同時に進めます。それ以外にもなお憂えるところがある。ひそかに思うに、過ちを知るのは難しくなく、過ちを改めるのが難しい。善を言うのは難しくなく、善を行うのが難しい。たとい赦文が至精であっても、それは過ちを知り善を言うにとどまります。どうか聖慮をさらにその難きところに向けてください」。帝はそのとおりだと思った。
興元元年(784年)――罪己の詔
- 春正月癸酉朔、天下に赦して改元した。制にいわく――
- 「治めを致し化を興すには必ず誠を推すことにあり、己を忘れて人を済うには過ちを改めるのを吝しまぬ。朕は大いなる構えを嗣ぎ、万邦に君臨しながら宗祧の守りを失い、草莽に身を置いた。徳に率わなかったことを思わねば、誠に既往を追えぬ。永く咎を思い、将来に立ち直ることを期する。その義を明らかに徴して天下に示す」。
- 「小子は徳を継げぬことを懼れ、あえて怠り荒むことはない。しかし深宮の中に長じて経国の務めに暗く、積み重ねた習いに溺れやすく、安きに居て危うきを忘れ、稼穡の艱難を知らず、征戍の労苦を恤まなかった。沢は下に究まらず、情は上に通ぜず、事はすでに塞がり隔たって人は疑いを懐いた。それでもなお自ら省みることに昧く、ついに戎を興した」。
- 「四方に師を徴し、千里に糧を転じ、車を賦し馬を籍し、遠近は騒然とした。行く者は荷を負い、居る者は送り、衆庶は労れ止まった。あるいは一日に幾度も鋒刃を交え、あるいは連年甲冑を解かず、祀りには主が欠け、家には寄る辺がない。死生は流離し、怨気は凝り結ぶ。力役は息まず、田畑は荒れ果て、暴令は誅求に峻しく、疲れた民は機の上まで空になった。溝壑に転がり死に、郷閭を離れ去り、邑里は丘墟となり、人煙は絶えた」。
- 「天は上で譴めたのに朕は悟らず、人は下で怨んだのに朕は知らなかった。次第に乱の階に至って変は都邑に興り、万品は序を失い、九廟は震え驚いた。上は祖宗に累を及ぼし、下は蒸庶に負う。心を痛め顔を赧め、罪はまことに予にある。永く言うに愧じ悼み、泉谷に墜ちる思いである。今より中外の上る書奏には、二度と『聖神文武』の号を言うな」。
- 「李希烈・田悦・王武俊・李納らは、みな勲旧をもってそれぞれ藩維を守ってきた。朕の撫馭が方を誤ってその疑い恐れを招いた。みな上がその道を失って下がその災いに罹ったのである。朕がまことに君でなかった。人に何の罪があろう。その管する将吏らも一切、元のとおりに待遇せよ。朱滔は朱泚に連坐するとはいえ、路は遠く必ずしも同謀ではあるまい。その旧勲を念って寛大を旨とする。順を効すことができれば、これもまた新たにしよう」。
- 「朱泚は天常を反易し、名器を盗み、陵寝を暴し犯した。言うに忍びぬ。祖宗に罪を得た。朕はあえて赦さぬ。その脅されて従った将吏・百姓らは、官軍が京城に到る前に逆を去って順を効し、あわせて本道・本軍に散り帰る者は、みな赦の例に従え。諸軍・諸道で奉天に赴き、および京城回復に進む将士には、みな『奉天定難功臣』の名を賜う。加えられた墊陌銭・税間架・竹木茶漆・榷鉄の類はことごとく停め罷めよ」。
- 赦が下ると四方の人心は大いに喜んだ。帝が長安に還った翌年、李抱真が入朝して帝に言った。「山東で赦書を宣布したとき、士卒はみな感じて泣きました。臣は人情がこのようであるのを見て、賊は平らげるに足らぬと知りました」。兵部員外郎の李充を恒冀宣慰使とした。
- 朱泚は国号を漢と改め、漢元天皇を自称して天皇と改元した。王武俊・田悦・李納は赦令を見てみな王号を去り、上表して謝罪した。
- ただ李希烈だけは兵の強さと財の豊かさを恃んで帝を称そうと謀り、人を遣わして顔真卿にその儀を問わせた。真卿は「老夫はかつて礼官を務めたが、記憶にあるのは諸侯が天子に朝する礼だけだ」と言った。希烈はついに皇帝の位に即き、国号を大楚、武成と改元し、百官を置いて、その一党の鄭賁を侍中、孫広を中書令、李緩と李元平を同平章事とし、汴州を大梁府として境内を四節度に分けた。
- 希烈は将の辛景臻を遣わして顔真卿に言わせた。「節を屈しないなら自ら焼け」。そして庭に薪を積んで油を注いだ。真卿は火に向かって進み、景臻はあわてて止めた。
- 希烈はまた将の楊峰に赦を持たせて陳少遊および寿州刺史の張建封に賜ろうとした。建封は峰を捕らえて軍中に引き回し、市で腰斬した。少遊はこれを聞いて驚き恐れた。建封は少遊が希烈と通じていた事情を詳しく奏聞し、帝は喜んで建封を濠・寿・廬三州都団練使とした。
- 希烈はそこで将の杜少誠を淮南節度使とし、歩騎一万余を率いてまず寿州を取り、そののち江都へ向かわせた。建封は将の賀蘭元均・邵怡に霍丘の秋柵を守らせ、少誠はついに通れず、南へ蘄・黄を侵して江路を断とうとした。
- 当時、帝は包佶に自ら江淮の財賦を督して江を遡って行在に赴くよう命じていた。蘄口に至って少誠の侵入に遭った。曹王皋が蘄州刺史の伊慎に兵七千を率いさせて拒ませ、永安戍で戦って大破し、少誠は身一つで逃れ、一万級を斬った。包佶はようやく進むことができた。のち佶は入朝して陳少遊が財賦を奪ったことを詳しく奏した。少遊は恐れて部内から厚く取り立てて償った。
- 李希烈は夏口が上流の要地であるとして、驍将の董侍に決死の士七千人を募らせて襲わせた。鄂州刺史の李兼は旗を伏せ鼓を臥せ、門を閉ざして待った。侍が家の材を取り壊して門を焼こうとすると、兼は士卒を率いて出て戦い、大破した。帝は兼を鄂岳沔都団練使とした。こうして希烈は東は曹王皋を畏れ、西は李兼を畏れて、二度と江淮を窺う志を持てなくなった。
朱滔と田悦の決裂
- 朱滔が兵を率いて趙の境に入ると王武俊は大いに犒いを用意し、魏の境に入ると田悦の供応は倍して豊かで、迎えの使者が道に相望んだ。丁丑、滔が永済に至り、王郅を遣わして悦に会わせ、館陶で会して同行して渡河することを約させた。
- 悦は郅に会って言った。「悦はもとより五兄に従って南行したい。ところが昨日、軍を出そうとしたら将士が兵を勒して悦を出さず、こう言うのだ。『国の兵は新たに破れ、戦い守ること一年を越え、蓄えは尽きた。今、将士は凍え飢えるのを免れぬ。どうして全軍で遠征できよう。大王が日々自ら撫でていてさえ安んじられぬのに、城邑を捨てて去れば、朝出て暮れには必ず変がある』と。悦の志に二心があるのではない。将士をどうしよう。すでに孟祐に歩騎五千を備えさせて五兄に従わせ、飼葉の役に当たらせる」。そして司礼侍郎の裴抗らを遣わして滔に詫びさせた。
- 滔はこれを聞いて大いに怒って言った。「田悦、逆賊め。かつて重囲の中で命は髪の毛ほどであったとき、わしに君に叛き兄を棄てさせて兵を発し昼夜駆けつけさせ、幸いにも生き延びた。わしに貝州を与えると言ったが、わしは辞して取らなかった。わしを天子に推そうとしたが、わしは辞して受けなかった。それが今、恩に背いてわしを誤らせ、遠くまで来させておいて、言葉を飾って出て来ぬ」。その日のうちに馬寔を遣わして宗城・経城を攻め、楊栄国に冠氏を攻めさせ、いずれも抜いた。さらに回紇を放って館陶を掠め、幕舎・器皿・車牛を奪って去った。悦は城を閉ざして守った。壬午、滔は裴抗らを帰し、兵を分けて吏を置き平恩・永済を守らせた。
- 朱滔は兵を率いて北へ貝州を囲み、水を引いて取り巻いた。刺史の邢曹俊は城に籠もって守った。滔は范陽と回紇の兵を放って諸県を大いに掠め、また武城を抜き、徳・棣の二州に通じさせて軍糧を供給させ、馬寔に歩騎五千を率いさせて冠氏に駐屯させ魏州に迫った。
瓊林・大盈庫
- 帝は行宮の廡の下に諸道の貢献の物を貯え、「瓊林・大盈庫」と榜を掲げた。陸贄は、戦守の功に賞賜がまだ行われぬうちに私の別庫を設ければ士卒は怨んで闘志を失うと考え、上疏して諫めた。その大意はこうである。
- 「天子は天と徳を同じくし、四海を家とします。どうして公の道を曲げ廃して私の貨を集め、至尊の身を降して有司の職を代わり、万乗を辱めて匹夫の蓄えに倣う必要がありましょう。法を欠き人を失い、姦を誘い怨みを集める。これで事を制するのは、過ちではありませんか」。
- 「先ごろ六師が城に下りたとき、何一つ蓄えがなく、外は凶徒を防ぎ内は危うい城壁を守って、昼夜息まず五十日近くに及び、凍えと飢えが交々襲い、死傷は枕を並べました。それでも命を尽くし力を合わせてついに大難を平らげたのは、まことに陛下がその身を厚くせず私欲を持たれず、甘いものを絶って兵卒と同じくし、食を割いて功労に与えられたからです。厳しい統制がなくとも人が離れなかったのは懐かせたところがあったから。厚い賞がなくとも人が怨まなかったのは、そもそも無かったからです」。
- 「今は攻囲もすでに解け、衣食も豊かになった。それなのに謡言と誹りが起こり、軍情がやや阻まれているのは、勇夫の常として利を嗜み功を誇るのに、患難はともに憂えながら好楽をともに利しないからではありませんか。よほど淡白な者でなければ、怨みごとを言わずにいられましょうか」。
- 「陛下がまことに重囲の折の憂いを近く思い、平居の専らな欲を戒め、二庫にある貨賄をことごとく出して功ある者に賜り、珍しい物を得るたびにまず軍賞に給されるなら、乱は必ず靖まり賊は必ず平らぐ。ゆるゆると六竜の車を駕して都邑に還られましょう。天子の貴きが、どうして貧しさを憂えることがありましょう。これぞ小さな蓄えを散じて大きな蓄えを成し、小さな宝を損じて大きな宝を固めることです」。帝はただちにその榜を除かせた。
- 蕭復がかつて帝に言った。「宦官は艱難以来、多く監軍となり、恩を恃んで横暴です。この者どもは宮掖の事を掌るべきで、兵権や国政を委ねるべきではありません」。帝は不快であった。また言った。「陛下が位に即かれた当初、聖徳は広く行き渡っておりました。楊炎と盧杞を用いてから朝政が乱れ、今日に至ったのです。陛下がまことに睿慮を改められるなら、臣はあえて力を尽くさぬはずがありません。もし臣に阿って苟且に免れよと仰せられるなら、臣にはできません」。またかつて盧杞とともに奏事したとき、杞が帝の意に順ったので、復は正色して「盧杞の言は正しくありません」と言った。帝は愕然とし、退いて左右に「蕭復は朕を軽んじる」と言った。
- 戊子、復を山南東西・荊湖・淮南・江西・鄂岳・浙江東西・福建・嶺南等道宣慰安撫使に充てた。実は疎んじたのである。やがて劉従一と朝士がしばしば復の留任を奏請した。帝は陸贄に言った。「朕は遷幸以来、江淮の遠方では伝聞が実際より大げさになっているかもしれぬと思い、重臣を遣わして宣慰させようとして宰相と朝士に諮ったところ、みなそれがよいと言った。ところが今こうも覆る。朕はそのために幾日も憂え恨んでいる。復が行きたがらず議者に奏させたのだろうか。卿は蕭復をどんな人と見るか。行きたがらぬ意はどこにあるのか」。
- 贄は上奏した。「復は痛切に自ら修め励んで清貞を慕っております。用いても行き渡らぬところはあるでしょうが、行いは保証できます。これほど軽々しく詐ることは、復は決していたしません。かりに復が留まりたがったとして、従一がどうして付き合いましょう。今の言い分は矛盾しております。どうか陛下、はっきりお問いただしください。もし蕭復に請うところがあったのなら、従一がどうして隠せましょう。従一に食い違いがあるのなら、蕭復が疑われるいわれはない。陛下は何を憚って明らかにされず、ただこう憂え恨まれるのですか。明らかにすれば惑わず、弁ずれば冤はない。惑いは、詐りを予期して明らかにせぬことより甚だしいものはなく、冤は、疑われて弁じさせぬことより痛いものはありません。これでは真偽が入り交じり忠邪が分かれなくなります。これこそ上に居て下を馭する要の枢です。どうか陛下、意を留めてください」。帝はついに明らかにしなかった。
- 辛卯、王武俊を恒・冀・深・趙節度使とした。壬辰、李抱真と張孝忠にともに同平章事を加えた。丙申、田悦に検校右僕射を加え、山南東道行軍司馬の樊沢を本道節度使、前深趙観察使の康日知を同州刺史、李納を鄆州刺史・平盧節度使とした。戊戌、劉洽に汴滑宋亳都統副使を加えて都統の事を知らせ、李勉はその衆をことごとく授けた。
- 二月戊申、詔して段秀実に太尉を贈り、諡を忠烈とし、その家を厚く恤んだ。当時、賈隠林はすでに卒しており、左僕射を贈って、その直言できたことを賞した。
- 李希烈は兵五万を率いて寧陵を囲み、水を引いて注いだ。濮州刺史の劉昌が三千人で守った。滑州刺史の李澄がひそかに使者を遣わして降を請い、帝は澄を汴滑節度使とすることを許した。澄はなお表向き希烈に仕えていた。希烈は疑い、養子六百人を遣わして白馬を戍らせ、澄を召してともに寧陵を攻めさせた。澄は石柱に至ってその衆に偽って騒がせ、営を焼いて逃げ、さらに養子たちにそれとなく掠奪させておいて、ことごとく捕らえて斬り、希烈に報告した。希烈は罪に問えなかった。
- 劉昌は寧陵を守ること四十五日、甲を脱がなかった。韓滉が将の王栖曜に兵を率いさせて劉洽を助けて希烈を拒ませた。栖曜は強弩数千を率いて汴水を泳ぎ、夜に寧陵城に入り、翌日、城上から希烈とその座の幕を射た。希烈は驚いて「宣・潤の弩手が来た」と言い、囲みを解いて去った。
李懐光の叛意
- 朱泚が奉天から敗れ帰ってから、李晟は長安を取ろうと謀った。劉徳信は晟とともに東渭橋に駐屯していたが、晟の統制を受けなかった。晟は徳信が営中に来たときに滬澗の敗戦および通過した先での掠奪の罪を数えて斬り、そのまま数騎で徳信の軍に駆け入ってその衆を労った。あえて動く者はなく、そのまま併せ率いて軍勢はいよいよ振るった。
- 李懐光は朝廷を脅して盧杞らを逐ってから内心不安になり、ついに異志を抱いた。また李晟が独り一面を担うのを憎み、功を成すことを恐れて、晟と軍を合わせることを奏請し、詔で許された。晟と懐光は咸陽の西の陳濤斜で会したが、塁がまだ完成しないうちに泚の衆が大挙して来た。晟は懐光に言った。「賊がもし宮苑を固守すれば、日を重ね時を経て攻め取りにくい。今、巣穴を離れてあえて出て戦いを求めている。これは天が賊を明公に賜ったのだ。逃してはならぬ」。懐光は「軍は着いたばかりで馬に飼葉もやらず士も飯を食っておらぬ。どうして急に戦えようか」と言った。晟はやむなく塁に就いた。
- 晟は懐光と出軍を同じくするたび、懐光の軍士は人の牛馬を多く掠めたが、晟の軍は秋毫も犯さなかった。懐光の軍士は自分たちと違うのを憎んで獲物を分け与えたが、晟の軍はついに受けなかった。
- 懐光は咸陽に数か月駐屯して遷延して進まず、帝はしばしば中使を遣わして促したが、士卒が疲弊しているのでしばらく休ませ隙を窺うのだと言い訳した。諸将がしばしば長安を攻めるよう勧めても懐光は従わず、ひそかに朱泚と通謀して、その形跡がかなり露わになった。李晟はしばしば変を恐れて併呑されると奏し、東渭橋に軍を移すことを請うた。帝はなお懐光が心を改めてその力を用いられることを望み、晟の奏を握って下さなかった。
- 懐光は戦の期日を延ばそうとし、あわせて諸軍を激怒させるため、「諸軍の糧賜は薄く、神策だけが厚い。厚薄が均しくなければ進んで戦えません」と奏した。帝は財用が窮しており、糧賜をみな神策並みにすれば給しきれず、そうしなければ懐光の意に逆らって諸軍が不満を抱くと恐れ、陸贄を懐光の営へ遣わして宣慰させ、あわせて李晟を召してその事を議させた。
- 懐光は晟に自ら減額を乞わせて士心を失わせ、その功を挫こうとして言った。「将士は戦闘を同じくしているのに糧賜が異なる。何をもって力を協せられようか」。贄は何も言わずにしばしば晟を顧みた。晟は言った。「公は元帥であり号令を専らにできます。晟は一軍を率いて指図を受けるだけ。衣食の増減については公が裁されるべきです」。懐光は黙り、自分から減らすのも嫌で、そのままになった。
- 当時、帝は崔漢衡を吐蕃に遣わして兵を発させようとした。吐蕃の相の尚結賛は、蕃の法では兵を発するには主兵の大臣を信とする、今の制書には懐光の署名がないのであえて進めぬと言った。帝は陸贄に懐光を諭させたが、懐光は固執して不可とし、こう言った。「もし京城を落とせば吐蕃は必ず兵を放って焼き掠める。誰が遏められよう。これが一の害。前に詔旨があって、城を落とした士卒には一人百緡の賞を募った。彼らが兵五万を発すれば、詔に拠って五百万緡の賞を求めよう。どこから出せる。これが二の害。虜の騎は来ても必ず先には進まず、兵を勒して自ら固め、我が兵勢を観て、勝てば従って功を分け、敗れれば従って変を図る。譎詐は多端、親しみ信じられません。これが三の害」。ついに勅に署名せず、尚結賛も進軍しなかった。
- 陸贄が咸陽から還って上言した。「賊泚は誅を免れて宮苑に立て籠もり、勢いは窮し援けは絶えて、日を引いて命を偸んでおります。懐光は順に仗る師を統べ勝ちを制する気に乗じて、鼓を鳴らして刈り取るのは枯れ木を折るより易いはず。それが寇が走っても追わず、師が疲れても用いない。諸帥が進み取ろうとするたびに懐光がその謀を沮む。この事情はまったく解しがたい。陛下は全く庇い護るお心で曲げて聴き従っておられますが、その為すところを見るに感じてもおりません。別の方策を講じて次第に制することを思われず、ただ姑息をもって安きを求められるなら、いずれ変故は測りがたい。これこそ事機の危迫の秋。尋常の易しさで処すべきではありません」。
- 「今、李晟が移軍を奏請し、たまたま臣が命を銜んで宣慰に参ったとき、懐光がこの事に触れたので、臣はそこで宜しきを広く問いました。懐光は『李晟が別に行きたいなら、わしもまったく必要としない』と申しました。臣はなお翻すことを慮り、その軍の盛強さを褒めますと、懐光は大いに自ら誇り、いよいよ晟を軽んずる意を見せました。臣がさらにくつろいだ調子で『帰った日に聖旨のお尋ねがあれば、事の可否をどう決めましょう』と問うと、懐光はすでに軽々しく言った手前、途中で変えられぬと思ったのか、『恩命で去らせるなら差し支えない』と申しました。約束は三度に及び、詳しく確かめました。悔いようとしても言い逃れは難しいでしょう」。
- 「伏して望みます。ただちに李晟の表を中書に下し、奏のとおりに勅を下し、別に懐光に手詔を賜って移軍の事情をお示しください。その手詔の大意は――『昨、李晟の奏を得た。軍を城の東に移して賊の勢いを分けたいという。朕はもと卿に相談させようとしていたが、たまたま陸贄が帰って奏し、卿がこれに言及し、去らせても差し支えないと言ったと申す。そこで本軍に勅してその請いを許した』と。こうすれば言葉は婉やかで直く、理は順って明らか。たとい異心を蓄えていても、どうして怨みを起こせましょう」。帝は従った。晟は咸陽から陣を組んで進み、東渭橋に帰った。
- 当時、鄜坊節度使の李建徽と神策行営節度使の楊恵元はなお懐光と営を連ねていた。陸贄はまた上奏した。
- 「懐光の管する師徒は、独りで凶寇を制するに足ります。ぐずついて進まぬのは他に理由がありましょう。患うのは強すぎて傍らの助けを要さぬことです。近ごろまた李晟・李建徽・楊恵元の三節度の衆をその営に付けられましたが、成功に益なく、ただ事を生ずるばかり。なぜか。四軍が塁を接し、群帥は心を異にする。勢力を論ずれば高卑は懸絶し、職名に拠れば互いに統属しない。懐光は晟らの兵が少なく位が下であるのを軽んじ、その制が意に従わぬのを憤る。晟らは懐光が寇を養い姦を蓄えるのを疑い、その事が多く己を陵ぐのを怨む。平時には互いに讒言を防ぎ、戦おうとすれば互いに功を分けられるのを恐れる。齟齬して和せず、嫌隙はついに構えられる。同処させれば必ず両立しません。強き者は悪が積もって後に亡び、弱き者は勢いが危うくて先に覆る。覆亡の禍は足を挙げるほどの間に期せられます。旧寇はまだ平らがず新患がまさに起こる。憂難の切なるところ、まことに心を痛めます」。
- 「太上は慝を萌さぬうちに消し、その次は失を兆しの始めに救います。まして事情がすでに露わで禍難が成ろうとしているのに、委ねて謀らずして、どうして乱を寧んじられましょう。李晟は機を見て変を慮り、先に東へ移ることを請いました。建徽と恵元は勢いがいよいよ孤弱となり、呑まれるのは理の必然。他日たとい良図があっても自ら抜け出せぬことを恐れます。その危急を拯うのは今このときだけです」。
- 「今、李晟が行きたいと願うのに乗じて、そのまま軍を合わせて同行させ、『晟の兵はもとより少ないから、賊泚に遮られるのを慮り、この両軍を借りて互いに掎角とする』と口実を設けてください。あわせてあらかじめ旨を諭してひそかに支度を促し、詔書が営に至ればその日のうちに路につかせる。懐光の意は欲しなくとも、計の施しようがありますまい。これがいわゆる『人に先んずれば人の心を奪う』『疾雷は耳を掩うに及ばず』というものです。闘いを解くには離さねばならず、焼けを救うには疾からねばならぬ。理はこれに尽きます。どうか陛下、お図りください」。
- 帝は言った。「卿の見立てはきわめて善い。だが李晟が軍を移して懐光は不満を免れなかった。さらに建徽と恵元を東へ遣わせば、それを口実にかえって調停しにくくなるのを恐れる。しばらくまた時を待とう」。
- 辛酉、王武俊に同平章事兼幽州盧竜節度使を加えた。
- 李晟は、懐光の反状はすでに明らかで、緩急に備えるべきであり、蜀漢への路を塞がせてはならぬと考え、禆将の趙光銑らを洋・利・剣三州の刺史として、それぞれ兵五百を率いさせて未然に防ぐことを請うた。帝は疑って決しかね、自ら禁兵を統べて咸陽へ行幸し、慰撫を名目に諸将の進討を促そうとした。ある者が懐光に「これは漢の高祖が雲夢に遊んだ策です」と言い、懐光は大いに恐れて反謀はいよいよ甚だしくなった。帝が今にも行こうとすると、懐光の言葉はいよいよ不遜になった。帝はなお讒人が仲を裂いているのかと疑い、甲子、懐光に太尉を加え実封を増し鉄券を賜り、神策右兵馬使の李卞らを遣わして旨を諭させた。
- 懐光は使者の前で鉄券を地に投げて言った。「聖人はこの懐光を疑われるのか。人臣が反すれば鉄券を賜る。懐光は反しておらぬ。今、鉄券を賜るのは、反させようというのだ」。その言葉つきは甚だ不遜であった。
- 朔方左兵馬使の張名振が軍門で大声で叫んだ。「太尉は賊を目にしながら撃たせず、天使を待遇して敬わぬ。果たして反する気か。功は太山より高いのに一朝にして棄て、自ら族滅を取る。富貴は他人のものとなる。何の益がある。わしは今日、必ず死をもって争う」。懐光はこれを聞いて言った。「わしは反しない。賊がまさに強いゆえ鋭を蓄えて時を待つのだ」。
- 懐光は大言して「天子のおられるところには必ず城隍がなくてはならぬ」と言い、兵を発して咸陽に築城させ、ほどなく軍を移して拠った。張名振が言った。「先には反せぬと言われたのに、今日、軍を抜いてここへ来られたのはなぜか。なぜ長安を攻めて朱泚を殺し富貴を取って、軍を率いて邠へ還られぬのか」。懐光は「名振は心を病んでいる」と言い、左右に引き出させて殺した。
- 右武鋒兵馬使の石演芬はもと西域の胡人で、懐光が養って子としていた。懐光がひそかに朱泚と通謀すると、演芬はその客の郜成義を行在へ遣わして告げ、都統の権を罷めるよう請わせた。成義が奉天に至って懐光の子の璀に告げると、璀はひそかに父に告げた。懐光は演芬を召して責めた。「わしはお前を子とした。それがなぜわが家を破ろうとする。今日わしに背いて死んでも心残りはないのか」。演芬は言った。「天子は太尉を股肱とされ、太尉は演芬を心腹とされた。太尉が天子に背かれた以上、演芬がどうして太尉に背かずにおれましょう。演芬は胡人ゆえ異心を持てず、ただ一人に仕えることだけを知る。かりそめにも賊の名を免れて死ぬなら、死んでも心残りはありません」。懐光は左右に切り刻んで食わせた。みな「義士だ。楽に死なせよう」と言い、刀でその喉を断って去った。
- 李卞らが還って懐光の驕慢の様を告げると、行在ははじめて門の出入りを厳しくし、従臣はみなひそかに支度をして待った。
- 乙丑、李晟に河中同絳節度使を加えた。帝はなお薄いと思い、丙寅、さらに同平章事を加えた。
- 帝が梁州へ行幸しようとすると、山南節度使で塩亭の厳震はこれを聞いて使者を奉天に遣わして迎え、また大将の張用誠に兵五千を率いさせて盩厔まで来て護衛させようとした。用誠は懐光に誘われてひそかに通謀していた。帝はこれを聞いて憂えた。折しも震が続けて牙将の馬勛に表を奉じさせた。帝がその事情を語ると、勛は言った。「速やかに梁州へ行って厳震の符を取り、用誠を府に召し還します。召に応じなければ、臣が殺しましょう」。帝は喜んで「卿はいつまたここへ来られるか」と言い、勛は日時を刻んで去った。
- 震の符を得ると、壮士五人を請うてともに駱谷を出た。用誠は事が漏れたと知らず、数百騎で迎えた。勛は用誠とともに駅に入った。寒い日だったので、勛は駅の外に多く藁火を焚かせ、軍士はみな火に当たりに行った。勛はそこでゆったりと懐から符を取り出して用誠に示し「大夫がお召しです」と言った。用誠は驚いて立ち上がって逃げようとしたが、壮士が後ろからその手を執って捕らえた。用誠の子が勛の後ろから斬りつけて頭を傷つけたが、壮士がその子を格殺し、用誠を地に倒し、その腹に跨がって刀を喉に当てて「声を出せば死ぬ」と言った。
- 勛はその営に入った。士卒はすでに甲を着け兵を執っていた。勛は大声で言った。「お前たちの父母妻子はみな漢中にある。一朝にしてそれを棄て、張用誠とともに反して、お前たちに何の利がある。大夫はわしに用誠を取れと命じられ、お前たちは問わぬ。自ら族滅を取るな」。衆はみな恐れ入って服した。勛は用誠を梁州に送り、震は杖殺し、副将にその衆を率いさせた。勛はその首を包んで行在に復命した。期日に遅れることわずか半日であった。
- 李懐光は夜に人を遣わして李建徽と楊恵元の軍を襲って奪った。建徽は逃れ、恵元は奉天へ走ろうとしたが、懐光は兵を遣わして追って殺した。懐光はさらに宣言した。「わしは今、朱泚と連和する。車駕はしばらく遠く避けられよ」。
- 懐光は韓遊瓌が朔方の将で兵を掌って奉天にいるので、書を送って変を起こすよう約した。遊瓌はひそかにこれを奏した。翌日、また書で促すと、遊瓌はまた奏した。帝はその忠義を称え、そこで策を問うた。遊瓌は答えた。「懐光は諸道の兵を統べているゆえ、衆を恃んで乱をなすのです。今、邠寧には張昕、霊武には寧景璿、河中には呂鳴岳、振武には杜従政、潼関には唐朝臣、渭北には竇覦がおり、みな守将です。陛下がそれぞれにその衆と地を授け、懐光の官を尊んでその権を罷めれば、行営の諸将はそれぞれ本府の指図を受けることになります。懐光は独り立ちして、どうして乱をなせましょう」。
- 帝が「懐光の兵権を罷めたら朱泚はどうする」と言うと、こう答えた。「陛下はすでに将士に、城を落とせば特別の賞を約されました。将士は天子の命を奉じて賊を討ち富貴を取るのです。誰が願わぬでしょう。邠府の兵は万を数えます。かりに臣がこれを率いても泚を誅すに足りる。まして諸道に必ず義に仗る臣がありましょう。泚は憂えるに足りません」。帝はそのとおりだと思った。
- 丁卯、懐光は将の趙昇鸞を奉天に入れ、その夕に別将の達奚小俊に乾陵を焼かせ、昇鸞を内応として乗輿を驚かせ脅すことを約した。昇鸞は渾瑊のもとに詣って自ら告げ、瑊は急ぎ奏聞し、あわせて梁州行幸を決するよう請うた。帝は瑊に戒厳を命じたが、瑊が出て部署を整え終わらぬうちに、帝はすでに城を出て西へ向かい、戴休顔に奉天を守らせた。朝臣・将士は狼狽して扈従した。戴休顔は軍中に「懐光はすでに反した」と触れ、そのまま城に上って守った。
- 朱泚が帝を称したとき、兵部侍郎の劉迺は病んで家に臥していた。泚が召しても起たず、蒋鎮を遣わして説かせた。二度行って誘い脅せぬと知ると、鎮は嘆じて言った。「鎮も曹に列なりながら、生を捨てられずにここまで来た。どうしてさらに自分の生臭さで賢者を汚せようか」。すすり泣いて帰った。迺は帝が山南へ行幸したと聞いて胸を打って大声をあげ、身を床に投げ、数日食わずに卒した。
- 太子少師の喬琳は帝に従って盩厔に至ったが、老病で山の険しさに堪えぬと称し、髪を剃って僧となり仙遊寺に隠れた。泚はこれを聞いて長安に召して吏部尚書とした。こうして隠れていた朝士の多くが出て泚に仕えるようになった。
- 懐光は将の孟保恵・静寿・孫福達に精騎を率いさせて南山へ向かわせ、車駕を遮らせた。盩厔で諸軍糧料使の張増に出会った。三将は言った。「あの方はわしらに不臣をさせようとする。追いつけなかったと報告すればよい。せいぜい将にしてもらえぬだけだ」。そして増に目をやって「軍士がまだ朝飯を食っておらぬが、どうする」と言った。増はその衆に偽って「ここから東へ数里に仏寺がある。わしはそこに糧を貯えてある」と言った。三将は衆を率いて東へ向かい、掠奪させた。これによって百官で従行した者はみな駱谷に入ることができた。三将は追いつけなかったと懐光に報じ、みな退けられた。
- 李晟は除官の制を受けて拝して哭し、命を受けて将佐に言った。「長安は宗廟のあるところ、天下の根本である。諸将がみな従行すれば、誰が賊を滅ぼすのか」。そして城隍を修め甲兵を整えて京城回復の計を立てた。
- これより先、東渭橋には粟十余万斛があったが、度支が李懐光の軍に給してほぼ尽きていた。当時、懐光と朱泚は兵を連ねて声勢は甚だ盛んで、車駕は南へ行幸し、人情は騒然としていた。晟は孤軍で二つの強寇の間にあり、内に資糧なく外に救援なく、ただ忠義で将士を感激させるだけであった。ゆえにその衆は少なく弱くとも鋭気は衰えなかった。
- また書を懐光に送り、辞も礼も低く遜って、尊崇を示しつつ禍福を諭し、功を立てて過ちを補うよう勧めた。それゆえ懐光は恥じ入って撃つに忍びなかった。晟は言った。「畿内は兵と飢饉のあとといえども、なお賦を取れる。兵を据えて寇を養うほど大きな患いはない」。そこで判官の張彧に京兆尹を仮らせ、四十余人を選んで官を仮らせ、渭北の諸県の飼葉と粟を督させた。十日とかからずみな有り余るほどとなり、そこで涙を流して衆に誓い、賊を平らげる志を決した。
田緒の弑逆
- 田悦は兵を用いてしばしば敗れ、士卒の死者は十のうち六、七に及び、その下はみな厭き苦しんでいた。帝は給事中の孔巣父を魏博宣慰使とした。巣父は弁が立ち博識で、魏州に至ってその衆に逆順と禍福を陳べたので、悦も将士もみな喜んだ。
- 兵馬使の田緒は田承嗣の子で、凶険で過失が多かった。悦は殺すに忍びず、杖打って拘えていた。悦が国に帰してからは内外の警備を撤していた。
- 三月壬申朔、悦が孔巣父と宴を張ったとき、緒は弟や甥の前で怨言を吐いた。甥が止めると緒は怒って殺し、やがて悔いて「僕射は必ずわしを殺す」と言った。その夕、悦が酔って寝所に帰ると、緒は左右とひそかに後ろの垣を穿って入り、悦とその母・妻ら十余人を殺した。そして左右を率いて刀を執り、中門の内の夾道に立って朝を待った。
- 夜明けに悦の名で行軍司馬の扈㟧、判官の許士則、都虞候の蔡済を召して事を議すると言った。府署は奥深く、外では変を知らなかった。士則と済が先に来て、召し入れられて斬り殺された。緒は夜が明けて事が露見するのを恐れ、門を出た。悦の親将の劉忠信がちょうど列を整えていた。緒は大声で衆に言った。「劉忠信が扈㟧と謀反し、昨夜、僕射を刺し殺した」。衆は大いに驚いて騒ぎ立て、忠信が弁明する間もなく、衆は引き裂いて殺した。
- 扈㟧が来て戟門に至って乱に遭い、将士を呼んで諭すと、従う者が三分の一に及んだ。緒は恐れて城に登って立ち、大声で衆に言った。「緒は先の相公の子。諸君は先の相公の恩を受けた。緒を立ててくれるなら、兵馬使には銭二千緡、大将にはその半ば、下は士卒まで一人百緡を賞す。公私の貨を尽くして五日のうちに用意する」。ここで将士は向きを変えて扈㟧を殺し、みな緒に帰し、軍府はようやく定まった。そこで孔巣父に命を請い、巣父は緒に軍府を権知させた。
- 数日後、衆はようやく緒が五兄を殺したことを知り、悔い怒ったが、緒はすでに立っておりどうにもならなかった。緒はさらに悦の親将の薛有倫ら二十余人を殺した。李抱真と王武俊が兵を率いて貝州を救おうとしていたが、乱を聞いてあえて進まなかった。
- 朱滔は悦の死を聞いて喜び、「悦は恩に背いた。天が緒の手を借りたのだ」と言い、ただちに執憲大夫の鄭景済らに歩騎五千を率いさせて馬寔を助けさせ、兵一万二千を合わせて魏州を攻めた。寔は王莽河に陣し、騎兵と回紇を放って四方に掠奪させた。滔はまた別に人を城内に入れて緒を説き、本道節度使にすると約束させた。緒は危迫していたので随軍の候臧を貝州に遣わして滔に恭順を伝えた。滔は喜んで臧を帰らせ、速やかに盟約を定めるよう促した。
- そのとき緒は城内の部署をすでに定めていた。李抱真と王武俊もまた使者を緒に遣わし、悦の在世のときの約のとおり救援すると告げた。緒は将佐を召して議した。幕僚の曽穆と盧南史が言った。「兵を用いるには威武を尚ぶとはいえ、やはり仁義を本としてこそ功があります。今、幽陵の兵は殺戮と掠奪をほしいままにし、白骨が野を覆っております。先の僕射が徳に背いたとして、その民に何の罪がありましょう。今は盛強でも、その滅亡はつま先立ちで待てるほどです。まして昭義と恒冀がちょうど攻めようとしている。どうして目前の急のために人に従って反逆をなすのですか。朝廷に帰命するに如くはありません。天子はまさに外に塵を蒙っておられる。魏博の使者が至れば必ず喜ばれ、官爵は踵を返すうちに参りましょう」。緒は従い、使者に表を奉じさせて行在に詣らせ、城を守って命を待った。
韓遊瓌の邠州挙兵
- 帝が奉天を発つとき、韓遊瓌はその麾下八百余人を率いて邠州に還った。李懐光は李晟の軍が次第に盛んになるのを憎み、軍を咸陽から東渭橋に向けて襲おうとした。三度その衆に令したが衆は応ぜず、ひそかに言い合った。「我らとともに朱泚を撃つなら力の限り働く。反するつもりなら、死んでも従えぬ」。
- 懐光は衆を強いられぬと知って賓佐に計を問うた。節度巡官で良郷の李景略が言った。「長安を取り朱泚を殺し、軍を諸道に散じて還し、単騎で行在に詣られよ。そうすれば臣節も欠けず、功名も保てましょう」。頓首して懇請し涙を流したので、懐光は許した。ところが都虞候の閻晏らが東の河中を保って去就をゆっくり図るよう勧めた。
- 懐光はそこでその衆に説いた。「今日は涇陽に駐屯し、妻子を邠から召び、着いたらともに河中へ行く。春の装備が整ってから長安を攻めても遅くはない。東方の諸県はみな富裕だ。軍が発つ日、お前たちの掠奪に任せる」。衆は承諾した。懐光は景略に言った。「先の議は軍衆が従わぬ。お前は速やかに去れ。さもなくば害される」。数騎に送らせた。景略は軍門を出て慟哭して言った。「思いもよらぬ、この軍が一朝にして不義に陥ろうとは」。
- 懐光は使者を邠州に遣わし、留後の張昕に留めてある兵一万余と行営将士の家族をことごとく発して涇陽に会させ、あわせて将の劉礼らに三千余騎を率いさせて脅して移させようとした。
- 韓遊瓌が昕に説いた。「李太尉は功高くして自ら棄て、すでに禍の機を踏まれた。中丞は今日、自ら富貴を求められる。遊瓌は麾下を率いてお従いしたい」。昕は言った。「昕は微賤の身、李太尉のおかげでここまで来た。背くに忍びぬ」。遊瓌はそこで病と称して出ず、ひそかに諸将の高固・楊懐賓らと結んだ。
- 当時、崔漢衡が吐蕃の兵を率いて邠の南に陣していた。高固が「昕が衆を率いて去れば邠城は空になる」と言い、渾瑊の書を偽って吐蕃を召び、少しずつ邠城に迫らせた。昕らは恐れてついに出られなかった。昕らは従わぬ諸将を殺そうと謀った。遊瓌はこれを知り、先に高固らと兵を挙げて昕を殺し、楊懐賓に表を奉じさせて奏聞し、あわせて人を遣わして崔漢衡に告げた。漢衡は詔を偽って遊瓌に軍府の事を知らせ、軍中は大いに喜んだ。
- 懐光の子の旻が邠にいたので遊瓌は帰した。ある者が「旻を殺さねば何をもって自らを明らかにするのか」と言うと、遊瓌は言った。「旻を殺せば懐光は怒り、その衆が必ず来る。旻を放って追い払うに如くはない」。
- 当時、楊懐賓の子の朝晟は懐光の軍中にあって右廂兵馬使であった。これを聞いて泣いて懐光に告げた。「父が国に功を立てたのですから、子は誅されるべきです。兵を掌るわけにはまいりません」。懐光は囚えた。
- こうして遊瓌は邠寧に、戴休顔は奉天に、駱元光は昭応に、尚可孤は藍田に駐屯し、みな李晟の指揮を受けた。晟の軍声は大いに振るった。
- はじめ懐光がまだ強かったころ、朱泚は畏れて書を送って兄として仕え、関中を分けて帝となり永く隣国となることを約していた。懐光が反を決して乗輿を南へ追いやると、その部下の多くが叛いて勢いはいよいよ弱まった。泚はそこで懐光に詔書を賜って臣の礼で待遇し、あわせてその兵を徴した。懐光は恥じ怒り、内は麾下の変を憂え、外は李晟の襲撃を恐れて、ついに営を焼いて東へ走り、涇陽など十二県を掠めて鶏犬も残さなかった。富平に至ると、大将の孟渉と段威勇が数千を率いて李晟のもとへ走った。
- 将士は道々散り失せながら河中に至った。ある者が河中守将の呂鳴岳に橋を焼いて拒むよう勧めたが、鳴岳は兵が少なくて支えきれぬと恐れて受け入れた。河中尹の李斉運は城を棄てて走った。懐光は将の趙貴先を遣わして同州に塁を築かせた。刺史の李紓は恐れて行在へ走り、幕僚の裴向が州事を摂り、貴先のもとへ詣って逆順の理を責めた。貴先は感じ悟って降を請い、同州はこれによって全うされた。向は裴遵慶の子である。
- 懐光は将の符嶠に坊州を襲って拠らせた。渭北守将の竇覦が猟団七百を率いて囲むと、嶠は降を請うた。詔して覦を渭北行軍司馬とした。
- 丁亥、李晟に京畿・渭北・鄜坊・丹延節度使を兼ねさせた。
- 庚寅、車駕が城固に至った。
- 帝は道中、瓜や果物を献ずる民があったので、散試官を授けようとして陸贄に諮った。贄は上奏して、爵位は常に慎み惜しむべきで軽々しく用いてはならぬ、始まりが小さくとも流弊は必ず大きくなる、瓜果を献じた者には銭帛を賜るべきで官で酬いるべきではないと述べた。帝が「試官は虚名だ。事に損はない」と言うと、贄はまた上奏した。その大意はこうである。
- 「兵が起こって以来、財賦が賜与に足りず、そこで職官の賞が興りました。青や朱の袍が下役に入り交じり、金や紫が輿丁にまで普く施される。当今の病はまさに爵が軽いことにある。法を設けて貴くしてもなお重からぬのを恐れるのに、自ら棄てて、どうして人を励ませましょう」。
- 「そもそも人を誘う方法は名と利だけです。名は虚に近いが教えにおいては重く、利は実に近いが徳においては軽い。実利だけを専らにして虚をもって補わなければ、耗り尽きて物力が足りず、虚名だけを専らにして実をもって副えなければ、でたらめになって人情が向かわない。ゆえに国家の命秩の制には職事官・散官・勲官・爵号があります。しかし務めを掌って俸を授かるのは職事の一官だけ。これがいわゆる実利を施して虚名を寓するものです。勲・散・爵号の三つに繋がるのはおおむね服色と資蔭にとどまる。これがいわゆる虚名を仮りて実利を助けるものです」。
- 「今の員外・試官は勲・散・爵号にかなり似ており、授けても禄を費やさず、受けても定員を占めません。しかし鋭鋒に突き患難を排する者にはこれで賞し、筋力を尽くし勤めを効した者にもこれで酬いております。もし瓜果を献じた者にも試官を授ければ、彼らは必ず言い合いましょう。『わしは身命を忘れて官を得た。この者は瓜果を進めて官を得た。とすれば国家はわが身命を瓜果と同じに見ているのだ』と。人を草木のように見て、誰がまた用をなしましょう。今、陛下はすでに実利をもって励ますことがなく、そのうえ虚名を重んじずにみだりに施される。人が拠るところがなくなれば、後に功を立てた者に何をもって賞とされるのですか」。
- 贄は翰林にあって帝に親しく信任され、艱難の中では宰相があっても大小の事は帝が必ず贄と謀った。ゆえに当時これを「内相」と呼んだ。帝は行くも止まるも必ず同行させた。梁・洋の道は険しく、かつて贄とはぐれて一晩経っても着かなかったことがある。帝は驚き憂えて涙を流し、贄を見つけた者に千金の賞を出すと募った。久しくして到着すると、帝は大いに喜び、太子以下がみな祝した。
- しかし贄はしばしば直諫して帝の意に逆らった。盧杞は貶官されたものの帝は心中庇っており、贄が杞の姦邪が乱を招いたと極言したので、帝は表向き従っても内心かなり不快であった。ゆえに劉従一も姜公輔もみな下から抜擢して登用されたのに、贄は恩遇こそ厚くとも宰相にはなれなかった。
- 壬辰、車駕が梁州に至った。山南は土地が痩せ民は貧しく、安史以来、盗賊が攻め掠めて戸口は大半減っていた。十五州を節制していても租賦は中原の数県に及ばない。大駕が留まると糧の用がかなり窮した。帝は西の成都へ行幸しようとした。厳震が帝に言った。「山南の地は京畿に接しております。李晟がまさに回復を図り、六軍を頼りとして声援としております。もし西川へ行幸されれば、晟に回復の期はなくなりましょう」。衆議はまだ決しなかったが、折しも李晟の表が届いた。「陛下が漢中に駐まられるのは、億兆の心を繋ぎ賊を滅ぼす勢いを成すためです。もし小を図って大を捨て、都を岷・峨に遷されれば、士庶は望みを失い、猛将謀臣があっても施しようがありません」。帝はそこで思いとどまった。
- 厳震は万方に手を尽くして財賦を集め、民を困窮させずに供給を欠かさなかった。牙将の厳礪は震の従祖弟であるが、震は輸送を掌らせ、事は甚だよく整った。
- はじめ奉天の囲みが解けると李楚琳が使者を遣わして入貢した。帝はやむなく鳳翔節度使に任じたが内心憎んでいた。議者は、楚琳は凶逆で翻り覆る者ゆえ防がねば窺い狙われると言い、これによって楚琳の使者が幾組来ても帝はみな引見せず、留めて帰さなかった。漢中に着くとすぐ渾瑊を楚琳に代えて鳳翔に鎮させようとした。陸贄が上奏した。
- 「楚琳が帥を殺し賊を助けた罪はもとより大きい。しかし乗輿はまだ還らず、大悪はなお存し、勤王の師はことごとく畿内にあります。急を宣べ速やかに告げるには、時を刻んで争うことになる。商嶺の道は迂遠で、駱谷はまた盗に扼されている。かろうじて王命が通ずるのは襃斜だけです。この路がまた阻まれれば、南北はついに絶えます。諸鎮が危疑する勢いのなかで二人の逆賊の誘いと脅しの間に居り、洶々たる群情はそれぞれ向背を抱いている。もし楚琳が恨みを発して公然と猖狂に及び、南は要衝を塞ぎ東は巨猾を引き入れれば、我が咽喉は塞がり心と背骨は分かれます」。
- 「今、楚琳が両端を窺っているのは、天がその心を誘ったのです。ゆえに帰路が通じ、大業を済うことができる。陛下はまことに深く念を入れ、厚く撫循されるべきです。彼の迷いを保たせておくだけで事は足ります。どうしても日ごろの行いを精しく求め、古い疵をほじくり返されるなら、過ちを改めても愆を補えず、自ら新たにしても罪を贖えぬということになる。今の将吏に、どうして疵瑕のまったくない者がありましょう。人は皆が省みて思い、誰が疑い畏れずにおれましょう。まして命に背いた輩や脅されて従った者たちは、自ら恩に背いたと知って、どうしてあえて教化に帰しましょうか。この隙は小さくない。速やかに図られるべきです。伏して願います。英主の大略を思われ、小を忍ばぬことで興復の業を損なわれますな」。帝は釈然として悟り、楚琳の使者を厚遇し、優詔を賜って慰めた。
- 丁酉、宣武節度使の劉洽に同平章事を加えた。己亥、行在都知兵馬使の渾瑊を同平章事兼朔方節度使・朔方邠寧振武永平奉天行営兵馬副元帥とした。
- 庚子、詔して李懐光の罪悪を数え、朔方将士の忠順と功名を述べ、なお懐光の旧勲に免じて曲げて容赦し、その副元帥・太尉・中書令・河中尹および朔方など諸道の節度観察等使をみな罷免して太子太保を授け、その管する兵馬は本軍で功高く望み重い者一人を自ら挙げて統領させ、速やかに奏聞すれば旌旄を授けて人望に従うこととした。
- 夏四月壬寅、邠寧兵馬使の韓遊瓌を邠寧節度使とした。癸卯、奉天行営兵馬使の戴休顔を奉天行営節度使とした。
- 霊武守将の寧景璿が李懐光のために邸宅を造っていた。別将の李如暹が「李太尉は天子を逐った。景璿がそのために邸を造るのは、これも反である」と言い、攻めて殺した。
- 甲辰、李晟に鄜坊・京畿・渭北・商華副元帥を加えた。晟の家族百口および神策軍士の家族はみな長安にあったが、朱泚はこれを厚遇した。軍中で家のことを口にする者があると、晟は泣いて「天子はどこにおられる。家のことを口にできようか」と言った。泚が晟の親近の者に家書を持たせて「公の家は無事だ」と伝えさせると、晟は怒って「お前は賊のために間諜をするのか」と言い、その場で斬った。軍士はまだ春の衣を支給されず、盛夏になっても裘や褐を着ていたが、ついに叛く志を持たなかった。
- 乙巳、陝虢防遏使の唐朝臣を河中同絳節度使、前河中尹の李斉運を京兆尹として晟の軍糧と労役を供給させた。庚戌、魏博兵馬使の田緒を魏博節度使とした。
- 渾瑊が諸軍を率いて斜谷を出た。崔漢衡が吐蕃に出兵を勧めると、尚結賛は「邠の軍が出なければ我が後ろを襲われる」と言った。韓遊瓌はこれを聞いて将の曹子達に兵三千を率いさせて瑊の軍に合流させ、吐蕃は将の論莽羅依に兵二万を率いさせて従わせ、李楚琳は将の石鍠に卒七百を率いさせて瑊に従わせて武功を抜いた。
- 庚戌、朱泚が将の韓旻らに武功を攻めさせると、鍠はその衆を率いて降った。瑊は戦って利あらず、兵を収めて西原に登った。折しも曹子達が吐蕃とともに至って旻を撃ち、武亭川で大破して一万余級を斬り、旻はかろうじて身を免れた。瑊はそのまま兵を率いて奉天に駐屯し、李晟と東西呼応して長安に迫った。
- 朱泚と姚令言はしばしば人を遣わして涇原節度使の馮河清を誘ったが、河清はみなその使者を斬った。大将の田希鑒がひそかに泚と通じて河清を殺し、軍府を挙げて泚に付いた。泚は希鑒を涇原節度使とした。
- 帝が陸贄に問うた。「近ごろ山北から来る卑官には、おおむね良士がない。邢建という者があって賊の勢いを論説したが、その言葉は最も大げさで、事情を察するに偵察のようだ。今、一か所に留め置いた。この類がなお数人ある。追及しなければ姦計を成すのを恐れる。卿は試みに考えてどうするのがよいか」。贄は上奏し、今、宮闕が盗まれているなかで危険と遠路を冒して行在に赴く者があれば、量って恩賞を加えるべきで、どうして猜疑して拘禁できようかと述べた。その大意はこうである。
- 「一人の聴覧で宇宙の変態を窮めようとし、一人の防慮で億兆の姦欺に勝とうとすれば、智を役するほど精しくなっても、道を失うことはいよいよ遠くなります。項籍は秦の降卒二十万を納れながら、詐って再び叛くことを慮って一挙にみな坑にしました。その防ぎようはあまりに甚だしい。漢の高祖は豁達大度、天下の士が来ればみな納れて用い疑わなかった。その備えは疎かというべきです。それでいて項氏は滅び劉氏は栄えた。疑いを蓄えるのと誠を推すのとでは、その効はまことに同じではありません」。
- 「秦の始皇は厳粛で猜疑深かったので荊軻がその陰謀を奮い、光武は寛容で博厚だったので馬援がその真心を捧げた。虚心で人に接すれば人もまた付こうと思い、術数で物を馭すれば物はついに親しまない。付こうと思えば感じて喜び、寇讎でさえ心腹となる。親しまねば恐れて隔たり、骨肉でさえ仇となるのではありませんか」。
- 「陛下は智が万物に出て、臣下を軽んじて待つ心があり、思いは万機に周くて独り宇内を馭する意がある。謀は衆略を呑んで慎重に過ぎる防ぎがあり、明は群情を照らして事に先んずる察がある。厳しく百官を束ねて刑に任せて治を致す規があり、威で四方を制して力で残を勝つ志がある。これによって才能ある者は任じられぬことを怨み、忠誠の者は疑われることを憂え、勲業ある者は容れられぬことを懼れ、不穏を抱く者は討伐が及ぶことに迫られる。次第に離叛を招き禍災を構えることになりました。天子の為すところは天下が仰ぎ見る。小さなことでも慎むべきなのに、まして小さくないことは。どうか陛下、覆った車の轍を戒めとされよ。まことに宗社無疆の休びです」。
- 韓遊瓌が兵を率いて奉天で渾瑊と合流した。丙寅、平盧節度使の李納に同平章事を加えた。
朱滔の敗走
- 朱滔は貝州を百余日攻め、馬寔は魏州を攻めることまた四十日を越えたが、いずれも落とせなかった。賈林がまた李抱真のために王武俊に説いた。「朱滔の志は貝・魏を呑むことにあり、そのうえ田悦が害されました。もし十日も救わなければ魏博はみな滔のものとなります。魏博が下れば張孝忠も必ずその臣となる。滔が三道の兵を連ね回紇を加えて常山に臨めば、明公が宗族を保とうとしてもできましょうか。常山が守れなければ昭義は退いて西山を保ち、河朔はことごとく滔のものとなります。貝・魏がまだ落ちぬうちに昭義と兵を合わせて救うに如くはありません。滔が破れ亡べば関中は気を喪い、朱泚は幾日もせず梟せられ、鑾輿は正しきに反ります。諸将の功で、明公の右に出る者がありましょうか」。武俊は喜んで従った。
- 戊辰、武俊は南宮の東南に陣した。抱真は臨洺から兵を率いて合流し、武俊の営と十里を隔てて陣した。両軍はなお互いに疑っていた。翌日、抱真は数騎で武俊の営へ赴こうとした。賓客がみな諫め止めたが、抱真は行軍司馬の盧玄卿に兵を勒して待たせて言った。「わしのこの挙は天下の安危に係る。もし還らなければ、軍事を領して朝命を聴くのも君に頼む。将士を励まして讎の恥を雪ぐのも君に頼む」。言い終わって出発した。
- 武俊は厳重に備えて待った。抱真は武俊に会うと、国家の禍難と天子の播遷を述べ、武俊の手を取って哭し、涙は縦横に流れた。武俊も悲しみに堪えられず、左右も仰ぎ見ることができなかった。ついに武俊と兄弟の契りを結び、ともに賊を滅ぼすことを誓った。武俊は言った。「相公十兄の名は四海に高い。先には諭しを蒙って逆を棄て順に従い、葅醢の罪を免れ王公の栄を享けました。今また胡虜と隔てず、辱くも兄弟としてくださる。武俊は何をもって報いましょう。滔の恃むところは回紇だけ。恐れるに足りません。戦の日は、どうか十兄は轡を按じて臨みご覧ください。武俊が必ず十兄のために破ってみせます」。
- 抱真は退いて武俊の帳中に入り、酣然と長く眠った。武俊は感激していよいよ恭しく待遇し、心を指し天を仰いで「この身はすでに十兄に許した」と言った。そして営を連ねて進んだ。
- 山南は土地が暑い。帝は軍士がまだ春の衣を得ていないので、自らも袷の衣を着た。
- 五月、塩鉄判官で万年の王紹が江淮の繒帛を持って到着した。帝はまず将士に給してから自ら衫を着た。韓滉が使者を遣わして綾羅四十担を行在に献じ、さらに米百艘を運んで李晟に送った。当時、関中は兵と飢饉で米一斗が銭五百であったが、滉の米が届くと五分の四に下がった。
- 吐蕃は韓旻らを破ってから大いに掠めて去った。朱泚は田希鑒に厚く金帛を贈って賄賂とし、吐蕃はこれを受けた。韓遊瓌がこれを奏聞した。渾瑊もまた、尚結賛がしばしば人を遣わして日を刻んで共に長安を取ることを約したのに来ない、その衆はこの春大いに疫病にかかり、近ごろすでに兵を率いて去ったと聞くと奏した。
- 帝は李晟と渾瑊の兵が少ないので吐蕃を頼りに京城を回復しようと思っており、その退去を聞いて甚だ憂え、陸贄に問うた。贄は、吐蕃は貪欲狡猾で害あって益なく、引き去ってくれたのはまことに喜ぶべきだとして上奏した。その大意はこうである。
- 「吐蕃は遷延して様子を窺い、翻り覆ること多端で、深く郊畿に入りながらひそかに賊の使いを受けました。そのため群帥は進退に憂え慮り、捨てて独り前へ出れば怨みを抱いて後ろから乗じられるかと慮り、待って勢いを合わせようとすればその失信と遅滞に苦しむ。戎が帰らねば寇はついに滅びません」。
- 「将帥は陛下が信任されぬことを疑い、しかも蕃戎に功を奪われることを患う。士卒は陛下が旧労を恤まれぬことを恐れ、しかも蕃戎が利を専らにすることを畏れる。賊党は蕃戎が勝てば死ななければことごとく人に擒られると懼れる。百姓は蕃戎が来れば財があれば必ず尽く掠められると畏れる。それゆえ王化に順う者はその心が怠らざるを得ず、寇の境に陥った者はその勢いが堅からざるを得ないのです」。
- 「今、懐光は別に蒲・絳を保ち、吐蕃は遠く封彊を避けた。形勢はすでに分かれ、腹背に患いはない。瑊と晟ら諸帥の才力は伸ばせます」。
- 「ただ願わくは陛下、撫接に慎み、砥礪に勤められよ。中興の大業は旬月に期せます。犬羊の群れに眷々として将士の情を失われるべきではありません」。
- 帝はまた贄に言わせた。「卿の吐蕃の形勢についての言は甚だ善い。しかし瑊・晟の諸軍については規画を議して進み取らせねばならぬ。朕は使者を遣わして宣慰したい。卿は細かく条を疏して奏せよ」。
- 贄は、賢君は将を選んで任せ成果を責める、ゆえに功があるのだ、まして今、秦と梁は千里を隔て兵勢は定まらぬ、遠くから規画しても必ずしも宜しきに合わぬ、彼らが命に背けば君の威を失い、命に従えば軍事を害する、進退に絡まれて功を成しがたい、便宜の権を与え尋常でない賞をもって待つに如くはない、そうすれば将帥は感じ喜び智勇を伸ばせると考え、上奏した。その大意はこうである。
- 「鋒と鏑が原野で交わるのに、九重の中で策を決し、機会が須臾に変ずるのに、千里の外で計を定める。用捨は互いに障りとなり、良し悪しどちらも凶となります。上には肘を掣くとの譏りがあり、下には陣に死ぬ志がなくなる」。
- 「伝え聞くのと実際を指すのとは同じでなく、遠くから算ずるのと事に臨むのとは異なります」。
- 「かりにその中に情をほしいままにして命を干す者があったとして、陛下はそのとき詔に背いた罪を戮せられましょうか。とすれば命に背く者は果たして行われず、罰は命に従う者に及び、しかもその命が宜しきに合うとは限らない。いたずらに空言を費やし、ただ睿慮を労するばかり。益がないどころか、その損はまことに多い」。
- 「君上の権は特に臣下と異なります。ただ自ら用いぬからこそ、人を用いることができるのです」。
- 乙亥、李抱真と王武俊が貝州から三十里のところに陣した。朱滔は両軍が近づくと聞いて急ぎ馬寔を召び、寔は昼夜兼行して駆けつけた。
- ある者が滔に言った。「武俊は野戦に巧みです。その鋒に当たってはなりません。営を少し前に移して迫り、回紇にその糧道を絶たせ、我らは座して徳・棣の輸送を食み、営に依って陣し、利あらば進んで攻め、否なら入って保ち、その飢え疲れるのを待ってから制すべきです」。滔は疑って決しかねた。
- 折しも馬寔の軍が到着した。滔は翌日の出戦を命じた。寔は「軍士は暑さを冒して疲れております。数日休息してから戦いたい」と言った。常侍の楊布と将軍の蔡雄が回紇の達干を引いて滔に会わせた。達干は言った。「回紇は国にあって隣国と戦うとき、いつも五百騎で隣国の数千騎を破ること、葉を掃くようなものです。今、大王の金帛・牛酒を数えきれぬほど受けました。大王のために功を立てたいと思っておりましたが、今こそその時です。明日、大王は高丘に馬を駐めてご覧ください。回紇が大王のために武俊の騎を刈り取り、一騎も返しません」。布と雄が言った。「大王の英略は世を蓋い、燕薊の全軍を挙げて河南を掃き関中を清めようとされております。今、小敵を見て猶予して撃たれねば遠近の望みを失う。何をもって覇業を成されましょう。達干の請戦は正しい」。滔は喜んで出戦を決意した。
- 丙子の朝、武俊は兵馬使の趙琳に五百騎を率いさせて桑林に伏せさせ、抱真は後ろに方陣を布き、武俊は騎兵を率いて前に居て自ら回紇に当たった。回紇が兵を放って衝いてくると、武俊はその騎に馬を控えて避けさせた。回紇はその後ろへ突き抜け、引き返そうとしたところで武俊が兵を放って撃ち、趙琳が林中から出て横から撃った。回紇は敗走し、武俊が急追すると滔の騎兵も走り、自ら歩兵の陣を踏みにじった。歩騎ともに東へ走り、滔は制しきれず、その営へ走った。抱真と武俊は兵を合わせて追撃した。
- このとき滔は三万人を率いて出戦し、死者は一万余人、逃げ潰えた者もまた一万余人。滔はわずか数千人と営に入って固く守った。日が暮れて霧が濃くなり、両軍は進めなかった。抱真はその営の西北に、武俊は東北に陣した。滔は夜に営を焼き、兵を率いて南門から出て徳州へ向かって逃げ去った。掠め取った資貨を山のように棄てていったが、両軍は霧のため追えなかった。
- 滔は楊布と蔡雄を殺して幽州に帰った。心中恥じ入り、また范陽留守の劉怦が敗戦に乗じて自分を図ることを恐れた。ところが怦は留守の兵をことごとく発して道を挟むこと二十里、儀仗を整えて迎えた。府に入って向かい合い、悲しみと喜びが交わった。当時の人はこれを称えた。
- はじめ張孝忠が易州を挙げて国に帰したとき、詔して孝忠を義武節度使とし、易・定・滄の三州を隷属させた。滄州刺史の李固烈は李惟岳の妻の兄で、恒州へ帰ることを請うた。孝忠は押牙で安喜の程華を遣わしてその州の事を引き継がせた。固烈は軍府の綾・縑・珍貨を数十車に積んで発とうとした。軍士は大いに騒いで言った。「刺史が府庫の中身を掃いて行けば、将士は後で飢え凍える。どうするのだ」。そして固烈を殺してその家を皆殺しにした。程華は乱を聞いて穴から逃げ出したが、乱兵が探し当てて州事を知らせと請うた。華はやむなく従った。孝忠はこれを聞いてただちに華に滄州刺史を摂らせた。華はもとより寛厚で、心を推して将士を待遇したので、将士は安んじた。
- 折しも朱滔と王武俊が叛き、あらためて人を遣わして華を招いたが、華はみな従わなかった。当時、孝忠は定州にあり、滄から定へ行くには必ず瀛州を通るが、瀛は朱滔に隷属していて道は険しかった。滄州録事参軍の李宇が華に説いて利害を上表し、別に一軍とすることを請わせた。華は従い、宇に表を奉じて行在に詣らせた。帝はただちに華を滄州刺史・横海軍副大使・知節度事とし、名を日華と賜い、毎年義武に租銭十二万緡を供させた。
- 王武俊もまた人を遣わして誘った。当時、軍中は馬に乏しかったので、日華は使者に偽って「王大夫がどうしても味方に加えたいと言われるなら、二百騎を助けに出すべきだ」と言った。武俊が与えると、日華はその馬をすべて留めてその兵だけ帰した。武俊は怒ったが、ちょうど馬燧らと対峙していて攻め取れず、日華はこれによって全うされた。武俊が国に帰してから、日華は人を遣わして詫び、その馬代を償い、あわせて贈り物をした。武俊は喜んで再び交わりを結んだ。
長安の回復
- 庚寅、李晟は大いに兵を並べて京城回復を諭した。これより先、姚令言らはしばしば間諜を遣わして晟の進軍の期日を窺わせたが、みな巡邏の騎に捕らえられた。晟は彼らを引いて並べた兵を見せて言った。「帰って賊どもに伝えよ。努めて固く守れ、賊に不忠であってはならぬとな」。みな酒を飲ませ銭を与えて放った。そして兵を率いて通化門の外に至り、武を耀かせて還った。賊はあえて出なかった。
- 晟は諸将を召してどこから攻め入るかを問うた。みなまず外城を取って坊市を制圧し、そののち北の宮闕を攻めることを請うた。晟は言った。「坊市は狭く、賊が伏兵を置いて格闘すれば住民が驚き乱れる。官軍の利ではない。今、賊の重兵はみな禁苑の中に集まっている。苑の北から攻めてその腹心を潰すに如くはない。賊は必ず逃げ亡ぶ。そうすれば宮闕は損なわれず坊市も乱されぬ。策の上のものだ」。諸将はみな「善し」と言った。そこで渾瑊および鎮国節度使の駱元光、商州節度使の尚可孤に牒を出し、期日を刻んで城下に集合させた。
- 壬辰、尚可孤が泚の将の仇敬忠を藍田の西で破って斬った。
- 乙未、李晟は光泰門の外の米倉村に軍を移した。丙申、晟が自ら臨んで塁を築いていると、泚の驍将の張庭芝と李希倩が兵を率いて大挙して来た。晟は諸将に言った。「はじめ賊がひそかに隠れて出ぬことを憂えていた。今、死にに来た。これは天が我を助けたのだ。逃してはならぬ」。副元帥兵馬使の呉詵らに兵を放って撃たせた。当時、華州の陣営は北にあって兵が少なく、賊は力を合わせて攻めた。晟は牙前将の李演らに精兵を率いさせて救わせ、演らが力戦すると賊は敗走した。演らは追って勝ちに乗じて光泰門に入り、再び戦ってまた破った。夜になって晟は兵を収めて還り、賊の残る衆は白華門へ逃げ込んだ。夜、慟哭が聞こえた。希倩は李希烈の弟である。
- 丁酉、晟はまた兵を出した。諸将は西からの師が到着してから挟撃するよう請うたが、晟は言った。「賊はしばしば敗れてすでに胆を破っている。勝ちに乗じて取らずに備えを固めさせるのは策ではない」。賊がまた出て戦い、官軍はしばしば勝った。駱元光が滻水の西で泚の衆を破った。
- 戊戌、晟は光泰門の外に兵を陣し、李演と牙前兵馬使の王佖に騎兵、牙前将の史万頃に歩兵を率いさせて、まっすぐ苑の牆の神䴥村に迫らせた。晟はあらかじめ人に夜のうちに苑の牆を二百余歩開けさせていたが、演らが至ったときには賊がすでに柵を立てて塞ぎ、柵の中から官軍を刺し射て官軍は進めなかった。晟は怒って諸将を叱った。「賊をこのままにするなら、まず公らを斬るぞ」。万頃は恐れて衆を率いて先に進み、柵を抜いて入った。佖と演が騎兵を率いて続くと、賊の衆は大潰し、諸軍が道を分けてともに入った。
- 姚令言らはなお力戦した。晟は決勝軍使の唐良臣らに歩騎で押し詰めさせ、戦いながら進んで十余合、賊は支えきれなかった。白華門に至ったとき、賊の数千騎が官軍の背後に出た。晟は百余騎を率いて引き返して防ぎ、左右が「相公が来られたぞ」と叫ぶと、賊はみな驚いて潰えた。
- これより先、泚は張光晟に兵五千を率いさせて九曲に駐屯させていた。東渭橋から十余里である。光晟はひそかに晟に恭順を伝えていた。泚が敗れると光晟は泚に逃亡を勧め、泚は姚令言とともに残る衆を率いて西へ走った。なお一万近くあった。光晟は泚を城外まで送ってから還って晟に降った。晟は兵馬使の田子奇に騎兵で泚を追わせた。
- 晟は含元殿の前に陣し、右金吾の仗に舎して諸軍に令した。「晟は将士の力によって宮禁を清め得た。長安の士庶は久しく賊の庭に陥っていた。少しでも驚かせば、民を弔い罪を伐つ意ではない。晟と公らが家族と会うのは遅くない。五日の内は家に音信を通ずるな」。京兆尹の李斉運らに住民を安撫させた。
- 晟の大将の高明曜が賊の妓を取り、尚可孤の軍士が勝手に賊の馬を取ったので、晟はみな斬った。軍中は震え上がり、公私は安堵して秋毫も犯されなかった。遠い坊では一晩過ぎてはじめて官軍が入城したのを知る者もあった。
- この日、渾瑊・戴休顔・韓遊瓌もまた咸陽を落とし、賊三千余の衆を破り、泚が西へ走ったと聞いて兵を分けて待ち伏せた。
- 己亥、晟は京西兵馬使の孟渉を白華門、尚可孤を望仙門、駱元光を章敬寺に駐屯させ、晟は牙前三千人で安国寺に駐屯して京城を鎮めた。泚の一党の李希倩・敬釭・彭偃ら八人を市で斬った。
- 王武俊は朱滔を破ってから恒州に還り、上表して幽州盧竜節度使を辞退し、帝は許した。
- 六月癸卯、李晟が掌書記で呉の人の于公異に露布を作らせて行在に上らせた。「臣はすでに宮禁を粛清し、謹んで寝園に謁しました。鐘や磬は動かず、廟の姿は元のままです」。帝は涙を流して言った。「天が李晟を生んだのは社稷のためであって、朕のためではない」。
- 晟が渭橋にあったとき、熒惑が歳星を守ること久しくして退いた。賓佐がみな祝して「熒惑が舎を退いたのは皇家の福です。速やかに進兵なさるべきです」と言うと、晟は「天子が野に宿られている。臣下は敵に死ぬことを知るだけだ。天象は高く遠い。誰が知り得ようか」と言った。長安を落としてから彼らに言った。「先には拒んだのではない。わしは五星の進み遅れは定まらぬと聞いていた。万一また来て歳星を守れば、わが軍は戦わずして潰えたであろう」。みな「及びもつきません」と謝した。
- 朱泚は吐蕃へ走ろうとしたが、その衆は道々散り失せ、涇州に至ったときはわずか百余騎であった。田希鑒が城を閉ざして拒んだ。泚は「お前の節はわしが授けたものだ。どうして危うきに臨んで背くのか」と言い、その門を焼かせた。希鑒は節を取って火中に投げ「お前の節を返す」と言った。泚の衆はみな哭した。涇の卒はついに姚令言を殺して希鑒のもとに詣って降った。泚は独り范陽の親兵および宗族・賓客とともに北へ駅馬関へ向かった。寧州刺史の夏侯英が拒み、彭原の西城の屯に至ったとき、その将の梁庭芬が射て泚を穴の中に落とし、韓旻らが斬って涇州に詣って降った。源休と李子平は鳳翔へ走ったが、李楚琳が斬った。いずれも首を行在に送った。
- 帝は陸贄に詔を草させて渾瑊に賜り、奉天で失った裹頭内人を探させようとした。贄は上奏した。「今、巨盗をようやく平らげたばかりで、疲れた民や傷ついた兵をまだ撫でてもおられぬのに、真っ先に婦人のことを言われるのは、新たにされる期待に副うところではありません。始めをよく謀っても終わりを全うできることは稀です。始めから謀らねば、どうして終わりがありましょう」。瑊に賜る詔を奉ずるわけにはまいりません、と。帝はそこで詔を下さず、結局は中使を遣わして探させた。
- 乙巳、詔して吏部侍郎の班宏を宣慰使に充て、将士を労い蒸黎を撫諭させた。丙午、李晟は文武の官で朱泚に寵任された崔宣・洪経綸ら十余人を斬り、また節を守って屈しなかった劉迺・蒋沇らを上表した。己酉、李晟を司徒・中書令とし、駱元光と尚可孤にもそれぞれ官を進め、検校御史中丞の田希鑒を涇原節度使とした。
- 詔して梁州を興元府と改めた。甲寅、渾瑊を侍中とし、韓遊瓌・戴休顔にもそれぞれ官を進めた。
- 朱泚が敗れたとき、李忠臣は樊川へ走ったが捕らえられ、丙辰、斬られた。
- 帝が陸贄に問うた。「今、鳳翔に至れば迎駕の諸軍の形勢が甚だ盛んだ。これに乗じて人を遣わして李楚琳を代えさせるのはどうか」。贄は上奏した。「そうすれば事は脅し取るのと同じです。乱を除くという点では武ではなく、治めを務めるという点では誠ではありません。この時をもって巡幸されて、後にどこへ入られるのですか。議者はあるいはこれを権謀と申しましょうが、ひそかにその理を解しかねます」。
- 「そもそも権の義は権衡に類を取ります。今、輦路の通るところで真っ先に脅し奪いを行い、一人の帥を易えて万乗の義を損ない、一方を得て四海の疑いを結ぶ。これは軽いものを重んじ重いものを軽んずるということ。これを権というのは、逆さまではありませんか。道に反することを権とし、術数に任ずるを智とすれば、君上がこれを行えば必ず衆を失い、臣下がこれを用いれば必ず身を陥れる。歴代、喪乱が多く姦邪が長じたのは、これによる誤りです。京邑に枕を安んじてから一官を徴して授けるに如くはありません。彼は恩宥を喜んで駆けつける暇もありますまい。どうしてあえて拒めましょう。あらためて誅鋤に労することもありません」。
- 戊午、車駕が漢中を発った。
- 李晟は長安を統理して百司を整え、自ら鳳翔に至って迎え扈従することを請うたが、帝は許さなかった。内常侍の尹元貞が同・華への使いのついでに勝手に河中へ赴いて李懐光を招諭したので、晟は元貞が制を偽って勝手に元凶を赦したとして、その罪を裁くよう奏した。
- 秋七月丙子、車駕が鳳翔に至り、喬琳・蒋鎮・張光晟らを斬った。李晟は光晟が賊に臣従したとはいえ賊を滅ぼすのにかなり力があったとして助命を望んだが、帝は許さなかった。
- 副元帥判官の高郢がしばしば李懐光に帰順を勧め、懐光は子の璀を行在に遣わして謝罪させ、身を束ねて朝廷に帰したいと請うた。庚辰、詔して給事中の孔巣父に先の懐光を太子太保とする勅を持たせて河中へ遣わし、宣慰させ、朔方の将士はみな官爵を元のとおりに復させることとした。
- 壬午、車駕が長安に至った。渾瑊・韓遊瓌・戴休顔がその衆を率いて扈従し、李晟・駱元光・尚可孤がその衆を率いて奉迎した。歩騎十余万、旌旗は数十里に及んだ。晟は三橋で帝に謁見し、まず賊平定を祝し、次いで回復が遅れたことを謝し、路の左に伏して罪を請うた。帝は馬を駐めて慰撫し、そのために涙を拭い、左右に扶けて馬に乗せさせた。宮に至ってからは一日おきに勲臣に宴を賜り、賞賜は豊かで、李晟が第一、渾瑊が次、諸将相がまたその次であった。
- 曹王皋が将の伊慎・王鍔に安州を囲ませた。李希烈は甥の劉戒虚に歩騎八千を率いさせて救わせたが、皋は別将の李伯潜に応山で迎え撃たせ、千余級を斬って戒虚を生け捕り、城下に引き回すと安州はついに降った。伊慎を安州刺史とした。また希烈の将の康叔夜を厲郷で撃って走らせた。
河中の李懐光
- 丁亥、孔巣父が河中に至った。李懐光は素服で罪を待ち、巣父は止めなかった。懐光の左右には胡人が多く、みな「太尉には官がなくなった」と嘆じた。巣父はさらに衆に「軍中で誰が太尉に代わって軍事を領せるか」と宣言した。ここで懐光の左右は怒って騒ぎ立て、詔を宣べ終わらぬうちに衆が巣父と中使の啖守盈を殺した。懐光もこれを止めず、あらためて兵を整えて拒守の備えをした。
- はじめ粛宗が霊武にあったころ、帝は奉節王として李泌に文を学び、代宗の世には泌が蓬莱書院にいて、太子であった帝もこれと交わっていた。帝が興元にあったころ泌は杭州刺史であり、帝は急ぎ詔で召し、睦州刺史の杜亜とともに行在に詣らせた。乙未、泌を左散騎常侍、亜を刑部侍郎とし、泌には日々西省に詰めて下問を待つよう命じた。朝野はみな注目して付き従った。
- 帝が泌に問うた。「河中は京城に密接しており、朔方の兵はもとより精鋭と称され、達奚小俊のような者はみな万人の敵だ。朕は昼夜これを憂えている。どうしたものか」。泌は答えた。「天下の事には甚だ憂うべきものがあります。河中だけなら憂えるに足りません。そもそも敵を計るには将を計って兵を計りません。今、懐光は将であり、小俊の徒は兵にすぎません。何で意に介するに足りましょう。懐光は奉天の囲みを解きながら、朱泚という滅びかけの虜を取らず、かえって連和して李晟に取らせて功とさせました。今、陛下はすでに宮闕に還られたのに、懐光は身を束ねて罪に帰さず、鼠のように河中に伏している。魘われた人と同じです。ただ幾日もせずして帳下の者に梟せられ、諸将が手柄を挙げる機会もなくなることを恐れます」。
- 李希烈は李希倩が誅されたと聞いて憤り、八月壬寅、中使を蔡州に遣わして顔真卿を殺させた。中使が「勅がある」と言うと真卿は再拝した。中使が「今、卿に死を賜う」と言うと、真卿は「老臣は不甲斐なく、罪は死に当たります。ただ使者は何日、長安を発たれましたか」と問うた。使者が「大梁から来たので、長安からではない」と答えると、真卿は「では賊ではないか。何が勅か」と言った。そして縊り殺された。
- 李晟は、涇州は辺境に依り、しばしば軍帥を害して常に乱の根となっているとして、自ら赴いて治め、命に従わぬ者を除き、農に力を入れ粟を積んで吐蕃を防ぎたいと奏請した。癸卯、晟に鳳翔・隴右節度等使および四鎮北庭涇原行営副元帥を兼ねさせ、爵を進めて西平王とした。当時、李楚琳が入朝しており、晟はともに鳳翔へ行って斬り、逆乱を懲らしめたいと請うたが、帝は京師を回復したばかりで不穏な者を安んずることを務めるとして許さなかった。
- これより先、帝は渾瑊と駱元光に李懐光を討たせ、同州に陣させていた。懐光は将の徐庭光に精卒六千を率いさせて長春宮に陣して拒がせた。瑊らはしばしば敗れて進めなかった。当時、度支の用度が足りず、議者の多くが懐光を赦すよう請うたが、帝は許さなかった。
- 李懐光は妹婿の要廷珍に晋州、牙将の毛朝敡に隰州、鄭抗に慈州を守らせていたが、馬燧はみな人を遣わして説き下した。帝はそこで渾瑊に河中絳州節度使を加え、河中同華陝虢行営副元帥に充て、馬燧に奉誠軍晋慈隰節度使を加え、管内諸軍行営副元帥に充て、鎮国節度使の駱元光、鄜坊節度使の唐朝臣と兵を合わせて懐光を討たせた。
- はじめ王武俊が趙州の康日知を急攻したとき、馬燧は武俊に李抱真とともに朱滔を撃たせるよう詔することを奏請し、深・趙を武俊に隷属させ、日知を晋慈隰節度使に改めるよう請い、帝は従った。日知がまだ着かぬうちに三州が降ったので、帝は燧に兼ね領させた。燧は上表して三州を日知に譲り、あわせて「降によって授ければ、後に功ある者がこれに倣うのが常となるのを恐れます」と言った。帝は喜んで許した。燧は使者を遣わして日知を迎え、着くと府庫を記録して引き渡した。
- 甲辰、鳳翔節度使の李楚琳を左金吾大将軍とした。丙午、渾瑊に朔方行営元帥を加えた。
- 李晟は鳳翔に至り、張鎰を殺した罪を裁いて禆将の王斌ら十余人を斬った。
- 朱滔は王武俊に攻められてほとんど軍をなせず、上表して罪を待った。
- 癸未、馬燧が歩騎三万を率いて絳州を攻めた。
- 度支は李懐光の部下の将士数万が懐光とともに反したとして冬の衣を給さなかった。帝は言った。「朔方軍は代々忠義である。今は懐光に制せられているだけだ。将士に何の罪があろう」。冬十月己亥、詔して朔方および諸軍で懐光のもとにある者の冬衣と賞銭はみな別に貯え、道が少しでも通じたらすぐに給することとした。
- 李勉がしばしば上表して自ら貶されることを乞い、辛丑、勉の都統・節度使を罷め、検校司徒・同平章事はもとのままとした。
- 丙辰、李懐光の将の閻晏が同州を侵し、官軍は沙苑で敗れた。詔して邠州の軍を徴し、韓遊瓌が甲士六千を率いて赴いた。
- 乙丑、馬燧が絳州を抜き、兵を分けて聞喜・万泉・虞郷・永楽・猗氏を取った。
- 閏月丙子、涇原節度使の田希鑒を衛尉卿とした。李晟がはじめ鳳翔に至ったとき、希鑒は使者を遣わして挨拶した。晟は使者に言った。「涇州は吐蕃に近い。万一侵入されたら、州の兵だけで防げるか。兵を遣わして援けたいが、田尚書のお心が分からぬ」。使者が帰って告げると、希鑒は果たして援兵を請うた。晟は腹心の将の彭令英らを遣わして涇州を戍らせた。
- 晟はほどなく辺境巡視にかこつけて涇州へ赴いた。希鑒が出迎え、晟は轡を並べて入り、旧誼を語って歓を結んだ。希鑒の妻の李氏は晟を叔父として仕え、晟は希鑒を「田郎」と呼んだ。晟は三日分の食事を用意させ「巡撫が終わればすぐ鳳翔へ還る」と言ったので、希鑒はもう疑わなかった。
- 晟が宴を設けると、希鑒は将佐とともに晟の営に詣った。晟は外の廡に甲を伏せておいた。食事が済んで酒になったころ、彭令英が涇州の諸将を堂から下ろした。晟は「わしはお前たちと久しく別れていた。それぞれ姓名を名乗るがよい」と言い、こうして乱を起こした者の石奇ら三十余人を得た。責めて言った。「お前たちはしばしば逆乱をなし忠良を害した。もとより天地の容れぬところだ」。ことごとく引き出して斬った。
- 希鑒はまだ座にあった。晟は顧みて言った。「田郎にもまた過ちがないとはいえぬ。だが親しい間柄ゆえ、身と首を全うさせよう」。希鑒が「はい」と答えると、そのまま引き出して縊り殺し、その子の萼も殺した。晟はその営に入って希鑒を誅した意を諭し、衆は震え上がってあえて動く者はなかった。
- 李希烈は将の翟崇暉に全軍を挙げて陳州を囲ませたが久しく落とせなかった。李澄は大梁の兵が少なくて滑州を制しきれぬと知り、希烈から授かった旌節を焼いて衆に誓って国に帰した。甲午、澄を汴滑節度使とした。
- 宋亳節度使の劉洽が馬歩都虞候の劉昌と隴右幽州行営節度使の曲環らに兵三万を率いさせて陳州を救わせた。十一月癸卯、州の西で翟崇暉を破って三万五千級を斬り、崇暉を捕らえて献じ、勝ちに乗じて汴州へ進攻した。李希烈は恐れて蔡州へ逃げ帰った。
- 李澄が兵を率いて汴州へ向かい、城の北に至ったが、怯えてあえて進まなかった。劉洽の兵が城の東に至ると、戊午、李希烈の守将の田懐珍が門を開いて入れた。翌日、澄も入って浚儀に舎したが、両軍の士は日々いがみ合った。折しも希烈の鄭州守将の孫液が澄に降ったので、澄は兵を率いて鄭州に駐屯した。詔して都統司馬で宝鼎の薛珏を汴州刺史とした。
- 李勉が長安に至って素服で罪を待った。議者の多くは、勉は大梁の守りを失った以上なお宰相であるべきではないと言った。李泌が帝に言った。「李勉は公忠にして雅正、ただ用兵はその長ずるところではありません。大梁が守れなくなったとき、将士で妻子を棄てて従った者はほぼ二万人。衆心を得ていたことが見て取れます。しかも劉洽は勉の麾下から出た者。勉は睢陽に至ってその衆をすべて授けました。ついに大梁を平らげたのも勉の功です」。帝はそこで勉に位を復させた。
- 議者はまた、韓滉は鑾輿が外にあると聞いて兵を集め石頭城を修め、ひそかに異志を蓄えていると言った。帝は疑って李泌に問うた。泌は答えた。「滉は公忠清倹で、車駕が外におられる間も貢献を絶やしませんでした。しかも江東十五州を鎮撫して盗賊が起こらなかったのは、みな滉の力です。石頭城を修めたのは、滉が中原の版蕩を見て、陛下が永嘉の行いに及ばれると思い、迎え扈従する備えをしたのです。これこそ人臣の忠篤な慮り。どうしてかえって罪とできましょう。滉は性が剛厳で権貴に付かぬゆえ、誹謗が多いのです。どうか陛下、お察しください。臣はあえてその他意なきを保証します」。
- 帝が「外の議は騒がしく、章奏は麻のごとくだ。卿は聞かぬのか」と言うと、こう答えた。「もとより聞いております。その子の皋は考功員外郎ですが、今、親を訪ねて帰省することもできぬのは、まさに謗りが沸き立っているからです」。帝が「その子でさえこれほど恐れているのに、卿はどうして保証するのか」と言うと、「滉の用心は臣がよく知っております。どうか上章してその他意なきを明らかにし、中書に宣示して朝廷の衆にみな知らせていただきたい」と答えた。帝は「朕はまさに卿を用いようとしている。人はどうしてたやすく保証できよう。慎んで衆に背くな。あわせて卿の累となるのを恐れる」と言った。
- 泌は退いてついに章を上げ、一族百口をもって滉を保証した。後日、帝は泌に言った。「卿はついに上章したな。卿のために中に留めておいた。卿と滉が旧知なのは知っているが、自分の身を愛さぬわけにもいくまい」。泌は答えた。「臣がどうして旧知に私して陛下に背きましょう。ただ滉にまことに異心がないからです。臣の上章は朝廷のためであって、身のためではありません」。
- 帝が「どうして朝廷のためなのか」と問うと、こう答えた。「今、天下は旱と蝗、関中は米一斗が千銭、倉廩は尽きております。ところが江東は豊作です。どうか陛下、早く臣の章を下して朝廷の衆の惑いを解き、韓皋に面と向かって諭して帰省させ、滉を感激させて自ら疑う心をなくさせ、速やかに糧を運ばせてください。これが朝廷のためでなくて何でしょう」。帝は「善し。朕は深く諭った」と言い、ただちに泌の章を下し、韓皋に暇を告げて帰省させ、面と向かって緋の衣を賜って諭した。「卿の父には近ごろ謗言があった。朕は今その理由を知り、釈然として二度と信じぬ」。あわせて関中が糧に乏しいことを告げ、「卿の父に帰って伝えよ。速やかに送るように」と言った。
- 皋が潤州に至ると、滉は感じ喜んで涙を流し、その日のうちに自ら水辺に臨んで米百万斛を発し、皋には五日留まってすぐ朝廷に還れと言った。皋が母に別れを告げると啼く声が外まで聞こえた。滉は怒って呼び出して打ち、自ら江上まで送り、風濤を冒して発たせた。
- ほどなく陳少遊は滉が米を貢したと聞いて、二十万斛を貢した。帝は李泌に言った。「韓滉は陳少遊まで感化して米を貢させた」。泌は答えた。「少遊だけではありません。諸道が争って入貢しましょう」。
- 吏部尚書・同平章事の蕭復が使いから江淮を経て還り、李勉・盧翰・劉従一とともに帝に会った。勉らが退いてから復は独り留まって帝に言った。「陳少遊は将と相を兼ねる任にありながら真っ先に臣節を敗りました。韋皋は幕府の下僚でありながら独り忠義を建てました。どうか皋を少遊に代えて淮南に鎮させ、善悪を明らかにしてください」。帝はそのとおりだと思った。
- ほどなく帝は中使の馬欽緒を遣わして劉従一に耳打ちして去らせた。諸相が閤に還ると、従一は復のもとへ来て言った。「欽緒が旨を宣べ、従一と公に朝方の申し出た事を議して、そのまま奏して行えと。李・盧には知らせるなと申されました。何のことでしょうか」。
- 復は言った。「唐虞が岳牧を黜陟したのはみなの意が諧ってのこと。人に爵を与えるのは朝廷において士とともにする。李・盧が宰相たるに堪えぬなら罷めればよい。すでに相位にある以上、朝廷の政事をどうして同議せずにおられよう。独りこの一事だけ隠せますか。これこそ当今の最大の弊です。朝方、主上もこう仰せられたので、復はすでに面と向かって不可を陳べました。聖意がなおそのままとは思いませんでした。復は公と奏して行うのを惜しみはしませんが、次第に俗となるのを恐れて申し上げられずにおります」。ついに事を従一に語らなかった。従一が奏すると、帝はいよいよ不快になった。復はそこで上表して位を辞し、乙丑、罷めて左庶子となった。
- 劉洽が汴州を落として李希烈の起居注を得た。「某月某日、陳少遊が上表して帰順した」とあった。少遊はこれを聞いて恥じ恐れ、病を発した。十二月乙亥、薨じた。太尉を贈り、賻と祭は常の儀のとおりとした。
- 淮南の大将の王韶が自ら留後になろうとし、将士に自分を推させて軍事を知らせ、あわせて大いに掠奪しようとした。韓滉が使者を遣わして言わせた。「お前があえて乱をなすなら、わしは即日、全軍で江を渡ってお前を誅す」。韶らは恐れてやめた。帝はこれを聞いて喜び、李泌に言った。「滉は江東を安んずるだけでなく淮南まで安んじた。まことに大臣の器だ。卿は人を知るというべきである」。庚辰、滉に平章事・江淮転運使を加えた。滉は江淮の粟と帛を運んで入貢し、府に空の月がなく、朝廷はこれを頼りとした。使者の労い問いも相次ぎ、恩遇はここから深くなった。
貞元元年(785年)――盧杞の再起用をめぐって
- 春正月癸丑、顔真卿に司徒を贈り、諡を文忠とした。
- 新州司馬の盧杞は赦に遇って吉州長史に移された。人に「わしは必ずまた入る」と言った。ほどなく帝は果たして饒州刺史に用いようとした。給事中の袁高が制を草すべきところ、これを持って盧翰・劉従一に言った。「盧杞が宰相となって鑾輿を播遷させ、海内は傷ついた。それをどうしてにわかに大郡に遷すのか。どうか相公、執奏していただきたい」。翰らは従わず、別の舎人に制を草させた。乙卯、制が出ると、高はこれを執って下さず、そのうえ奏した。「杞は悪を極め凶を窮め、百官は仇のごとく憎み、六軍はその肉を食らいたいと思っております。どうしてまた用いられましょう」。帝は聴かなかった。
- 補闕の陳京・趙需らが上疏した。「杞は三年権を専らにし、百揆は序を失いました。天地の神祇の知るところ、華夏も蛮夷もともに棄てるところです。もし巨姦に寵を加えられれば、必ず万姓の心を失いましょう」。
- 丁巳、袁高がまた正殿で論奏した。帝が「杞はすでに二度の赦を経ている」と言うと、高は「赦はその罪を原すにとどまります。刺史とすべきではありません」と言った。陳京らもまた争ってやまず、「杞が執政のとき、百官は常に兵を首に当てられているようでした。今また用いられれば、姦党はみな手に唾して起ちましょう」と言った。帝は大いに怒り、左右は退き、諫める者も少しずつ引き下がった。京は顧みて言った。「趙需ら、退くな。これは国の大事だ。死をもって争うべきである」。帝の怒りはやや解けた。
- 戊午、帝が宰相に「杞に小州の刺史を与えるのはどうか」と言うと、李勉は「陛下が与えようとされるなら大州でもよろしゅうございます。ただ天下の失望をどうなさいますか」と言った。壬戌、杞を澧州別駕とし、袁高に言わせた。「朕はゆっくり卿の言を思うに、まことに至当であった」。また李泌に言った。「朕はすでに袁高の奏を可とした」。泌は言った。「幾日か、外の人はひそかに陛下を桓帝・霊帝になぞらえておりました。今、恩詔を承るに、堯舜も及ばぬところです」。帝は喜んだ。杞はついに澧州で卒した。高は袁恕己の孫である。
- 三月、李希烈が鄧州を陥れた。戊午、汴滑節度使の李澄を鄭滑節度使とした。代宗の娘の嘉誠公主を田緒に嫁がせた。
- 李懐光の都虞候の呂鳴岳がひそかに馬燧に通じたが事が漏れ、懐光は殺してその家を皆殺しにした。事は幕僚の高郢・李鄘に連座した。懐光が将士を集めて責めると、郢と鄘は堂々と逆順を述べて恥じも隠しもしなかった。懐光は囚えた。鄘は李邕の甥の孫である。
- 馬燧が宝鼎に陣し、陶城で懐光の兵を破って一万余級を斬り、兵を分けて渾瑊と合流して河中に迫った。
- 夏四月丁丑、曹王皋を荊南節度使とした。李希烈の将の李思登が随州を挙げて降った。
- 壬午、馬燧と渾瑊が長春宮の南で李懐光の兵を破り、そのまま塹を掘って官城を囲んだ。懐光の諸将は相次いで降った。詔して燧と瑊を招撫使とした。
- 五月丙申、劉洽が名を玄佐と改めた。
- 韓遊瓌が渾瑊に兵を請うてともに朝邑を取ろうとした。李懐光の将の閻晏が争おうとすると、士卒は邠の軍を指して「あれはわが父兄でなければわが子弟だ。どうして白刃を向け合えようか」と言った。その言葉が甚だ騒がしかったので、晏はあわてて兵を率いて去った。
- 懐光は衆心が従わぬと知り、偽って国に帰したいと称し、貨財を集め車馬を飾って、路が通じたら入貢すると言った。これによってまた十日ほど生き延びた。
- 六月辛巳、劉玄佐に汴州刺史を兼ねさせた。朱滔が病死し、将士は前涿州刺史の劉怦を奉じて軍事を知らせた。
- 当時、連年の旱と蝗で度支の資糧は尽き、言事者の多くが李懐光の赦免を請うた。李晟が上言した。「懐光を赦してはならぬ理由が五つあります。河中は長安から三百里しかなく、同州がその要衝に当たります。兵が多ければ信を示すことにならず、少なければ防ぐに足りません。にわかに東の一角を驚かせば何をもって制するのですか。これが一。今、懐光を赦せば必ず晋・絳・慈・隰を返さねばならぬ。渾瑊には赴く先がなくなり、康日知もまた移らねばならぬ。土地が定まらぬのに何をもって奨励されますか。これが二。陛下は一年兵を連ねて小醜を討たれ、兵力はまだ窮しておらぬのに、急にその反逆の罪を赦す。今、西に吐蕃、北に回紇、南に淮西があって、みな我が強弱を観ております。陛下が徳沢を施し黎元を愛されるとは思わず、兵が人に屈して自ら罷めたと思うでしょう。必ず競って窺い狙う心を起こします。これが三。懐光を赦せば朔方の将士はみな勲を叙し賞を行わねばならぬ。今、府庫はまさに空で、賞は望みを満たせません。これはいよいよ彼らを激して叛かせることです。これが四。河中を解いて諸道の兵を罷めても、賞典が挙がらなければ怨言が必ず起こります。これが五」。
- 「今、河中は米一斗が五百、飼葉も尽きかけ、垣根の間には餓死者が甚だ多い。しかもその軍中の大将はほぼ殺し尽くされております。陛下がただ諸道に詔して十日ほど囲み守らせれば、彼らは必ず内から潰える変が起こりましょう。どうして腹心の疾を養って他日の悔いとされますか」。あわせて兵二万を発して自ら資糧を備え、独りで懐光を討ちたいと請うた。
- 秋七月甲午朔、馬燧が行営から入朝して奏した。「懐光の凶逆はとりわけ甚だしい。赦せば天下に令する術がありません。どうかもう一月分の糧を賜れば、必ず陛下のために平らげます」。帝は許した。
- 壬子、劉怦を幽州盧竜節度使とした。
- 八月、馬燧が行営に至り、諸将と謀って言った。「長春宮を落とさねば懐光は取れぬ。長春宮の守備は甚だ厳しく、攻めれば日を重ねて長引く。わしが自ら行って諭そう」。そしてまっすぐ城下に赴き、懐光の守将の徐庭光を呼んだ。庭光は将士を率いて城上で並び拝した。燧はその心が屈したと知り、ゆっくり言った。「わしは朝廷から来た。西に向いて命を受けるがよい」。庭光らはあらためて西に向かって拝した。
- 燧は言った。「お前たちは禄山以来、国に殉じて功を立てること四十余年。どうして急に滅族の計を立てるのか。わしの言に従えば、禍を免れるだけでなく富貴も図れる」。衆は答えない。燧は襟を開いて「わしの言が信じられぬなら、なぜわしを射ぬ」と言った。将士はみな伏して泣いた。燧は「これはみな懐光の仕業だ。お前たちに罪はない。ただ堅く守って出るな」と言い、みな「承知」と答えた。
- 壬申、燧は渾瑊・韓遊瓌と進軍して河中に迫った。焦籬堡に至ると守将の尉珪が七百人で降った。その夕、懐光が火を挙げても諸営は応じなかった。
- 駱元光は長春宮の下にあって人を遣わして徐庭光を招いた。庭光はもとより元光を軽んじており、卒を遣わして罵らせ、さらに城上で胡人の役者に侮らせ、あわせて「わしは漢の将にしか降らぬ」と言った。元光が馬燧に告げると、燧は城下に戻った。庭光は門を開いて降った。燧が数騎で城に入って衆を慰撫すると、大声で「我らはまた王の民となった」と叫んだ。渾瑊は僚佐に言った。「はじめわしは馬公の用兵はわしに遠く及ばぬと思っていた。今こそわしが遠く及ばぬと知った」。詔して庭光を試殿中監兼御史大夫とした。
- 甲戌、燧は諸軍を率いて河の西に至った。河中の軍士は互いに驚いて「西城が甲を着けた」と言い、また「東城が隊を組んだ」と言った。たちまち軍士はみなその軍号を「太平」の字に替えた。懐光は為すすべを知らず、縊れて死んだ。
- はじめ懐光が奉天の囲みを解いたとき、帝はその子の璀を監察御史として寵遇が甚だ厚かった。懐光が咸陽に駐屯して進まなくなると、璀はひそかに帝に言った。「臣の父は必ず陛下に背きます。どうか早く備えてください。臣は聞くに、君と父は一つです。ただ今日の勢いでは、陛下はまだ臣の父を誅せられず、臣の父は陛下を危うくするに足ります。陛下は臣を厚遇されておりますし、臣は胡人で気性が真っ直ぐゆえ、申さずにいられぬのです」。
- 帝は驚いて言った。「卿は大臣の愛子だ。朕のために曲げて取り繕い、ひそかに奏してくれ」。璀は答えた。「臣の父が臣を愛さぬわけではなく、臣が父と宗族を愛さぬわけでもありません。ただ臣の力が尽きて引き戻せぬのです」。帝が「では卿はどんな策で自ら免れるのか」と問うと、こう答えた。「臣が申し上げたのは生を求めてのことではありません。臣の父が敗れれば臣も倶に死にます。どんな策がありましょう。臣に父を売って生を求めさせても、陛下はどうお使いになりますか」。
- 帝は「卿は死ぬな。朕のためにもう一度咸陽へ行って卿の父を諭し、君臣父子ともに全うするのがよいではないか」と言った。璀は咸陽に行って帰り、こう言った。「無益です。どうか陛下、備えられて人の言を信じられますな。臣は今、万方に説き諭しましたが、臣の父は『お前のような小僧に何が分かる。主上に信はない。わしは富貴を貪るのではない。ただ死を畏れるだけだ。お前はわしを死地に陥れるつもりか』と申しました」。
- のち李泌が陝へ赴くとき、帝は言った。「朕が再三、懐光を全うしたいと思ったのは、まことに璀を惜しんでのことだ。卿は陝に至ったら試みに朕のために招いてくれ」。泌は答えた。「陛下がまだ梁・洋へ行幸されぬ前なら、懐光はまだ降せました。今は違います。どうして人臣がその君を迫り逐っておきながら、またその朝に立てましょう。たとい彼が面の皮厚く恥じなくとも、陛下は朝に臨まれるたびにどんな心で彼をご覧になりますか。臣が陝に入って、かりに懐光が降を請うても、臣は受けられません。まして招くなど。李璀はもとより賢者ですから、必ず父とともに死にましょう。もし死なぬなら、それもまた貴ぶに足りません」。
- 懐光が死ぬと、璀はまず二人の弟を刃にかけ、そのうえで自殺した。朔方の将の牛名俊が懐光の首を斬って降った。河中の兵はなお一万六千人あった。燧はその将の閻晏ら七人を斬り、残りはみな問わなかった。燧が暇乞いして発ってから河中平定まで、すべて二十七日であった。燧は高郢と李鄘を獄から出し、いずれも幕下に置くことを奏した。
- 韓遊瓌が懐光を攻めたとき、楊懐賓は甚だ力戦した。帝は特にその子の朝晟を赦すよう命じ、遊瓌はそこで朝晟を都虞候とした。
- 帝が陸贄に、河中が平定された今、なお何を処置すべきか条を挙げて奏せよと言った。贄は、河中が平らいだ以上、必ず旨に迎合して事を生ずる者があり、「王師の向かうところ敵なし」として勝ちに乗じて淮西を討つよう請う者が出るだろう、そうなれば李希烈は必ずその部下および新たに帰順した諸帥を誘って「奉天で兵を息めた旨は困窮に迫られて言ったこと。朝廷が少し安らげば必ずまた誅伐する」と諭す、そうなれば四方で罪を負う者で自ら疑わぬ者はなく、河朔・青斉は必ず呼応する、兵は連なり禍は結び、賦役は繁く興り、建中の憂いがまた起こると考え、上奏した。その大意はこうである。
- 「福はしばしば求めるべきものではなく、幸いは常に望むべきものではありません」。
- 「臣はしばらく禍を生ずることを憂えるばかりで、あえて福を得たことを賀しません」。
- 「陛下は過ちを悔いる深い誠を懐き、非常の大号を下されました。宣べ揚げられた先々で、聞く者に涙を流さぬ者はありませんでした。王を僭称して叛いていた者は偽号を削って罪を請い、隙を窺って首鼠していた将は誠を純一にして勤めを効しました」。
- 「かつて討ってはいよいよ叛き、今は釈して悉く来た。かつては百万の師で力が尽き、今は咫尺の詔で化が洽った。とすれば聖王が治めの道を敷き暴人を服させるのは、徳に任じて兵に任じないことが明らかです。群帥が臣の礼に背いて天誅を拒んだのは、活きることを図って王たろうと図ったのではないことも明らかです。とすれば生を好んで物に及ぼすのは自ら生きる方であり、安きを施して物に及ぼすのは自ら安んずる術です。彼を死地に押しやってこちらの長生を求め、彼を危地に置いてこちらの長安を求める――古今にそんなことはありません」。
- 「一夫が率わなければ境全体が殃に罹り、一境が寧からねば普天が擾されます」。
- 「億兆の穢れた人、三、四の叛帥は、陛下の自新の旨に感じ、盛徳の言に喜んで、面を革め辞を易えて、ひとまず臣礼を修めております。しかし深い言、密かな議においては、もとよりまだ十分に坦然としてはおりません。必ず心を寄せ合って謀り、耳をそばだてて聴き、陛下の行われる事を観、陛下の誓われた言を考えましょう。言と事が符合すれば善に遷る心は次第に固まり、事が言に背けば禍を慮る態がまた興ります」。
- 「朱泚が滅んで懐光が戮せられ、懐光が戮せられて希烈が征される。希烈がもし平らげば、禍は次に及ぶ――そうなれば、かねて疑いを蓄え古い負い目を懐く者が、どうして心を動かさずにおれましょう」。
- 「今、皇運は中興し、天の禍もまさに悔いようとしております。逆賊の泚が上国に居座り、懐光が中畿を竊み保っていたのが、二年も経たぬうちに相次いで滅ぼされた。まことに衆悪が心を驚かす日であり、群生が観を改める時です。威はすでに行われましたが、恵はまだ洽っておりません。まことに上は天の眷みに副い、下は物情を収め、人を恤む恵を布いて威を済い、賊を滅ぼした威に乗じて恵を行われるべきです」。
- 「臣が必ず従うと保証しかねるのは、ただ希烈一人だけです。その私心を推せば従うことを願わぬわけではなく、その潜かな慮りを想えば追い悔いていないわけでもありますまい。ただ猖狂にして計を失い、すでに大名を竊んでしまった。陛下の全宥の恩を蒙っても、天地の間に自ら恥じずにいられぬだけのことです。たとい命に順わずとも、それは独夫にすぎません。内には兵を起こす名分がなく、外には助けを求める仲間がない。その計はせいぜい部曲を厚く撫でて年月を偸むばかり。心は跳ね回っても勢いは必ず及びません。陛下はただ諸鎮に各々封疆を守れと命じられればよい。彼は気を奪われ計を窮め、これぞ牢獄の類。人の禍がなければ鬼の誅があるでしょう。古にいわゆる『戦わずして人の兵を屈す』とは、このことでありましょうか」。
- 丁卯、詔して、李懐光にはかつて功があったとしてその男子一人を宥して後を継がせ、田宅を賜り、その首と屍を返して収葬させた。馬燧に侍中を兼ねさせ、渾瑊を検校司空とし、その他の将卒にもそれぞれ賞賜を加えた。諸道で淮西に接する者はそれぞれ封疆を守り、侵されぬ限り進討には及ばぬこととし、李希烈がもし降れば死なぬ扱いとし、その他の将士・百姓は一切問わぬこととした。
- 駱元光が徐庭光を殺した。渾瑊が河中に鎮して李懐光の衆をことごとく得た。朔方軍はこれより分かれた。
- 盧竜節度使の劉怦が病んだ。九月己亥、詔してその子で行軍司馬の済に節度事を権知させた。怦はほどなく薨じた。
貞元二年〜十七年(786–801年)――藩鎮の落着
- 貞元二年(786年)春正月、李希烈の将の杜文朝が襄州を侵し、二月癸亥、山南東道節度使の樊沢が撃って捕らえた。
- 三月、李希烈の別将が鄭州を侵したが、義成節度使の李澄が撃ち破った。希烈の兵勢は日ごとに窮し、折しも病になった。夏四月丙寅、大将の陳仙奇が医の陳山甫に毒殺させ、そのまま兵でその兄弟妻子をことごとく誅し、全軍を挙げて降った。甲申、仙奇を淮西節度使とした。
- 関中は倉廩が尽き、禁軍のなかには自ら頭巾を脱いで道で叫ぶ者があった。「軍に拘束しておいて糧を給さぬ。わしは罪人か」。帝は甚だ憂えた。折しも韓滉が米三万斛を陝に運んだ。李泌がただちに奏すると、帝は喜んで急ぎ東宮に行って太子に言った。「米が陝に届いた。わが父子は生きられる」。当時、禁中では酒を造っていなかったので、坊市から酒を取って楽しみ、また中使を遣わして神策・六軍に諭させると、軍士はみな万歳を唱えた。
- 当時、続く年の飢饉で兵も民もみな痩せて黒ずんでいたが、ここに至って麦がようやく熟し、市に酔った人が現れた。当時これを嘉瑞とした。急に腹一杯食べて死ぬ者がまた五分の一。数か月して人の膚の色はようやく元に戻った。
- はじめ帝は常侍の李泌と府兵の回復を議した。泌はそこで帝のために府兵の西魏以来の興廃の由来を歴述して言った。
- 「府兵は平時には田畑に安居でき、府ごとに折衝がこれを領し、折衝は農閑期に戦陣を教習しました。国家に事があって徴発するときは符契をもってその州および府に下して照合して発し、期日の場所に至れば将帥が閲兵し、教習の精しくない者があれば折衝を罪し、甚だしければ罪は刺史にまで及びました。軍が還れば勲を賜り賞を加え、道すがら解散する。行く者は近ければ一季を越えず、遠くとも一年を経ませんでした」。
- 「高宗が劉仁軌を洮河鎮守使として吐蕃を図ってから、はじめて長い戍りの役が生じました。武后以来、太平が久しく続いて府兵は次第に堕落し、人に賤しまれ、百姓はこれを恥じて、手足を蒸し焼いてまでその役を避けるようになりました。さらに牛仙客が財を積んで宰相となると辺将がこれに倣い、山東の戍卒は多く繒帛を携えていたので、辺将が誘って府庫に預けさせ、昼は苦役、夜は地牢に繋いで、死ぬのを利としてその財を没収しました。ゆえに天宝以後、山東の戍卒で帰れた者は十のうち二、三もない。その残虐はこのようでした。それでも外に叛き内を侮り帥を殺して自ら専らにする者がなかったのは、まことに田園を顧み恋い、宗族に累が及ぶことを恐れたからです」。
- 「開元の末から張説がはじめて長征の兵を募り、これを彍騎と呼び、その後さらに六軍となりました。李林甫が宰相となると、軍はみな人を募って充てるよう奏請しました。兵は土着せず宗族もなく、自らを重んじ惜しまず、身を忘れて利に殉ずる。禍乱はここから生じ、今に至るまで害となっております。かりに府兵の法が常に存して廃れなければ、どうしてこんな下が上を陵ぐ患いがありましょう。陛下が府兵の回復を思われるのは、まさに社稷の福。太平の日も近うございます」。帝は「河中を平らげてから卿と議そう」と言った。
- 貞元三年(787年)春二月戊寅、鎮海節度使の韓滉が薨じた。夏六月、陝虢観察使の李泌を中書侍郎・同平章事とした。
徳宗と李泌の問答
- 貞元四年(788年)春二月、李泌は自ら老衰を陳べ、独り宰相を務めて精力が尽きたと述べ、去ることが許されぬならもう一人宰相を置いてほしいと乞うた。帝は「朕は卿の労苦をよく知っている。ただその人を得ぬだけだ」と言った。
- 帝はくつろいだ折に泌と即位以来の宰相を論じて言った。「盧杞は忠清で剛毅、人は杞を姦邪というが、朕はまったくそうとは思わなかった」。泌は言った。「人が杞を姦邪といったのに陛下だけがその姦邪を覚られなかった。これこそ杞が姦邪たるゆえんです。もし陛下が覚られていたら、どうして建中の乱がありましょう。杞は私怨で楊炎を殺し、顔真卿を死地に押しやり、李懐光を激して叛かせました。陛下の聖明のおかげで竄逐され、人心は一気に喜び、天もまた禍を悔いた。さもなくば乱はどうして鎮まりましょう」。
- 帝は言った。「楊炎は朕を童子扱いした。事を論じて朕がその奏を可とすれば喜び、往復して問い難ずればたちまち怒って位を辞そうとする。その意を見るに、朕を語るに足らずとしていたのだ。それゆえ交わりを忍べなかった。杞のせいではない。建中の乱は術士があらかじめ奉天に築城することを請うていた。これは天命であって杞の致すところではない」。
- 泌は言った。「天命は他の者なら誰でも口にできますが、君と相だけは口にできません。君相こそ命を造るものだからです。命を口にすれば礼楽も刑政もみな用いるところがなくなる。紂は『わが生、命の天に在るあらずや』と言いました。これが商の亡んだゆえんです」。
- 帝は言った。「朕は人と道理を較べ量るのを好む。崔祐甫は性が偏狭で短気で、朕が難ずると応対が乱れた。朕は常にその短所を知って庇っていた。楊炎の論も採るべきところはあったが、気色は粗く傲慢で、難ずるたびに勃然と怒り、君臣の礼を失う。ゆえに会うたびに人を憤らせた。他の者はもうあえて言わない。盧杞は小心で、朕の言うことに従わぬことがなかった。しかも学がなく朕と往復できぬから、朕の思うところはいつも尽くせなかった」。
- 泌は答えた。「杞が言に従わぬことがなかったのは、どうして忠臣でありましょう。言って自分に逆らう者がない――これこそ孔子のいわゆる『一言、邦を喪う』というものです」。
- 帝は言った。「ただ卿だけはあの三人と違う。朕の言が当たっていれば卿はいつも喜色を見せ、当たっていなければいつも憂色を見せる。時に耳に逆らう言、たとえば先ほどの紂や邦を喪うの類があっても、朕が細かく思うにみな卿が事に先んじて言ったものだ。こうすれば治まり安らぎ、ああすれば危うく乱れる、と。言葉は深く切実でも気色は和順で、楊炎のような傲慢がない。朕が問い難じて往復しても、卿は辞も理も屈せず、しかも勝とうとする志がない。朕の心中を尽くさせておいて屈服させ、従わずにいられなくさせる。これが朕が卿を得たことをひそかに喜ぶゆえんだ」。
- 泌は言った。「陛下が用いられた宰相はなお多うございます。今、みなお論じにならぬのはなぜですか」。帝は言った。「彼らはみないわゆる宰相ではない。およそ宰相は必ず政事を委ねる者だ。玄宗のときの牛仙客や陳希烈を宰相といえようか。粛宗・代宗が卿を任じたのは、その名は受けずとも真の宰相であった。どうしても官が平章事に至った者を宰相というなら、王武俊の徒もみな宰相だ」。
- 貞元五年(789年)。はじめ帝は李懐光の功を思い、その一子を宥そうとしたが、子孫はみなすでに誅されていた。戊辰、詔して懐光の外孫の燕八八を懐光の後嗣とし、姓名を賜って李承緒とし、左衛率胄曹参軍に除し、銭千緡を賜って懐光の妻の王氏を養い、その墓の祀りを守らせた。
- 貞元七年(791年)春二月癸未、易定節度使の張孝忠が薨じた。
- 貞元八年(792年)春三月丁丑、山南東道節度使の曹成王皋が薨じた。
- 宣武節度使の劉玄佐は威略があった。その母は貴くなっても日々絹一匹を織り、玄佐に言った。「お前はもと寒微の身。天子がお前をここまで富貴になさった。必ず死をもって報いよ」。ゆえに玄佐は終始、臣節を失わなかった。庚午、玄佐が薨じた。
- 夏六月癸酉、平盧節度使の李納が薨じ、軍中はその子の師古を推して留後を知らせた。
- 貞元十二年(796年)春三月、魏博節度使の田緒は嘉誠公主を娶っていた。庶子が三人あり、季安が最も幼かったが、公主が子として副大使とした。夏四月庚午、緒が急死した。左右は隠して季安に軍事を領させた。年十五。乙亥、喪を発して季安を留後に推した。
- 貞元十七年(801年)夏五月丁巳、成徳節度使の王武俊が薨じた。秋七月辛巳、成徳節度副使の王士真を節度使とした。