通鑑紀事本末吐蕃の和平要請(吐蕃請和)

吐蕃が唐に婚を請うたことに始まり、和親と交戦を繰り返しながら開元年間に境界を定めるまでの百年。太宗は文成公主を棄宗弄讃に嫁がせて和親を開いたが、禄東賛・論欽陵父子が政を執ると吐蕃は吐谷渾を併呑し、大非川・青海で唐軍を大敗させ、安西四鎮を陥した。武后期に王孝傑が四鎮を回復し、賛普器弩悉弄が論欽陵一族を誅したことで吐蕃の勢いは衰える。中宗は金城公主を送ってふたたび和親し、玄宗の代には武街・石堡城などで唐が勝ちを重ねた末に和親が回復され、赤嶺に碑を立てて両国の境が定められた。

年表(29件)

唐太宗貞観八年(634年)

  • 冬十一月甲申、吐蕃の賛普の棄宗弄讃が使者を入貢させ、あわせて婚を請うた。
  • 吐蕃は吐谷渾の西南にあり、近世ようやく強くなって他国を蚕食し、領土は広大で兵は数十万。しかし中国と通交したことはなかった。その王を賛普と称し、俗として姓を言わず、王族はみな「論」、宦族はみな「尚」と呼んだ。棄宗弄讃は勇略があり、四隣に畏れられた。上は使者の馮徳遐を遣わして慰撫した。

貞観十二年(638年)

  • はじめ上が馮徳遐を吐蕃に遣わして慰撫させたとき、吐蕃は突厥も吐谷渾もみな公主を娶っていると聞き、使者を馮徳遐に随行させて入朝させ、多くの金宝を携えて上表し婚を求めた。上はまだ許さなかった。
  • 使者は帰って賛普の棄宗弄讃に「臣が初めて唐に至ったとき、唐は私をきわめて厚遇し、公主を娶ることを許しました。ところが吐谷渾王が入朝して離間したため、唐の礼遇は薄れ、婚も許されなくなりました」と言った。
  • 弄讃は兵を出して吐谷渾を撃った。吐谷渾は支えきれず青海の北に逃げ、民と家畜の多くを吐蕃に掠められた。吐蕃は進んで党項・白蘭の諸羌を破り、衆二十余万を率いて松州の西境に駐屯し、使者を送って金帛を貢ぎ「公主を迎えに来た」と称した。
  • まもなく進んで松州を攻めて都督の韓威を破り、羌の酋長の閻州刺史の別叢臥施と諾州刺史の把利歩利がともに州ごと叛いて帰属した。兵を連ねてやまず、その大臣で諫めても聴かれず縊死した者は八人に及んだ。
  • 壬寅、吏部尚書の侯君集を当弥道行軍大総管、甲辰、右領軍大将軍の執失思力を白蘭道、左武衛将軍の牛進達を闊水道、左領軍将軍の劉簡を洮河道の行軍総管とし、歩騎五万を督して撃たせた。
  • 吐蕃が城を攻めて十余日、牛進達が先鋒となって、九月辛亥、その不備を突き、松州城下で吐蕃を破り、千余級を斬った。弄讃は恐れて兵を引いて退き、使者を送って謝罪し、あわせて再び婚を請い、上は許した。

貞観十四年(640年)

  • 冬閏十月丙辰、吐蕃の賛普が相の禄東賛を遣わして金五千両および珍玩数百を献じて婚を請い、上は文成公主を嫁がせることを許した。

貞観十五年(641年)

  • 春正月甲戌、吐蕃の禄東賛を右衛大将軍とした。上は禄東賛が応対に善いことを嘉し、琅邪公主の外孫の段氏を娶らせようとした。
  • 禄東賛は辞して「臣の国には自分の妻がおり、父母が娶ってくれたもの、棄てられません。しかも賛普がまだ公主に謁していないのに、陪臣がどうして先に娶れましょう」と言った。上はいっそう賢としたが、厚恩で撫でようとして、ついにその志には従わなかった。
  • 丁丑、礼部尚書の江夏王道宗に節を持たせて文成公主を吐蕃に送らせた。賛普は大いに喜び、道宗に会って婿の礼を尽くした。中国の衣服と儀衛の美しさを慕い、公主のために別に城郭と宮室を築いて住まわせ、自ら絹の衣を着けて公主に会った。その国人はみな赭で顔を塗っていたが、公主が嫌ったので賛普は令を下して禁じた。またその猜疑と粗暴の性も次第に改め、子弟を国学に入れて詩書を学ばせた。

貞観二十三年(649年)

  • 上が吐蕃の賛普弄讃を駙馬都尉として西海郡王に封じた。賛普は長孫無忌らに書を送って「天子が即位されたばかりで、臣下に不忠の者があれば、兵を整えて国に赴き討ち除きます」と述べた。

高宗永徽元年(650年)

  • 夏五月壬戌、吐蕃の賛普弄讃が没した。その嫡子は早く死んでいたので、その孫を賛普に立てた。賛普は幼弱で、政事はみな国相の禄東賛が決した。禄東賛は明達で厳重、用兵に法があった。吐蕃が強大となり氐羌を威服させたのは、みなその謀による。

顕慶三年(658年)

  • 冬十月庚申、吐蕃の賛普が来て婚を請うた。

顕慶五年(660年)

  • 八月、吐蕃の禄東賛が子の起政に兵を率いて吐谷渾を撃たせた。吐谷渾が内附したからである。

龍朔三年(663年)

  • 夏五月、吐蕃と吐谷渾が互いに攻め合い、それぞれ使者を送って上表して曲直を論じ、代わる代わる援けを求めたが、上はいずれも許さなかった。
  • 吐谷渾の臣の素和貴が罪を得て吐蕃に逃げ、吐谷渾の虚実を詳しく述べた。吐蕃は兵を出して吐谷渾を撃って大破した。吐谷渾の可汗の曷鉢と弘化公主は数千帳を率いて国を捨てて涼州に逃げ、内地に移り住むことを請うた。
  • 上は涼州都督の鄭仁泰を清海道行軍大総管とし、右武衛将軍の独孤卿雲・辛文陵らを率いて涼・鄯の二州に分屯して吐蕃に備えさせた。
  • 六月戊申、また左武衛大将軍の蘇定方を安集大使として諸軍を節度させ吐谷渾の援けとした。
  • 吐蕃の禄東賛は清海に駐屯し、使者の論仲琮を入見させ、上表して吐谷渾の罪を陳べ、あわせて和親を請うた。上は許さず、左衛郎将の劉文祥を吐蕃に遣わし、璽書を降して責めた。

麟徳二年(665年)

  • 春二月丁卯、吐蕃が使者を入見させ、再び吐谷渾と和親することを請い、あわせて赤水の地での牧畜を求めたが、上は許さなかった。

咸亨元年(670年)――大非川の敗戦

  • 夏四月、吐蕃が西域十八州を陥し、また于闐とともに亀茲の撥換城を襲って陥した。亀茲・于闐・焉耆・疏勒の四鎮を廃した。
  • 辛亥、右衛大将軍の薛仁貴を邏娑道行軍大総管、左衛員外大将軍の阿史那道真と左衛将軍の郭待封を副として吐蕃を討たせ、あわせて吐谷渾を故地に送り返すことを援けさせた。
  • 秋八月、郭待封はもと薛仁貴と並び列していたので、吐蕃征討でその下に居ることを恥じ、薛仁貴の言うことにしばしば違背した。
  • 軍が大非川に至り、烏海へ向かおうとしたとき、薛仁貴は「烏海は険しく遠く、車の通行はきわめて難しい。輜重を伴えば機に乗じにくい。二万人を留めて大非嶺の上に二つの柵を作り、輜重をすべて柵内に置くべきである。我らは軽鋭を率いて道を倍して急行し、その不備を突けば必ず破れる」と言った。
  • 薛仁貴は部下を率いて先行し、河口で吐蕃を撃って大破し、斬獲はきわめて多く、進んで烏海に駐屯して郭待封を待った。郭待封は薛仁貴の策を用いず、輜重を率いてゆっくり進み、烏海に至らぬうちに吐蕃二十余万に遭遇して大敗し、走って戻り、輜重をすべて棄てた。
  • 薛仁貴は退いて大非川に駐屯した。吐蕃の相の論欽陵が四十余万の兵で撃ち、唐兵は大敗して死傷はほぼ全滅した。薛仁貴・郭待封と阿史那道真はともに身一つで免れ、欽陵と和を約して帰った。
  • 大司憲の楽彦瑋に勅して軍中でその敗状を調べさせ、械をつけて京師に送らせた。三人はみな死を免れて除名された。
  • 欽陵は禄東賛の子である。弟の賛婆・悉多于・勃論とともにみな才略があった。禄東賛が没して欽陵が代わって政を秉り、三人の弟は兵を率いて外にあり、隣国は畏れた。
  • 閏九月甲寅、左相の姜恪を涼州道行軍大総管として吐蕃を防がせた。

咸亨三年(672年)

  • 夏四月、吐蕃が大臣の仲琮を入貢させた。上が吐蕃の風俗を問うと、「吐蕃は地が痩せて気候は寒く、風俗は素朴で粗野です。しかし法令は厳整で上下は心を一つにし、議事は常に下から起こし、人の利とするところに従って行います。これが長続きするゆえんです」と答えた。
  • 上が吐谷渾を呑滅したこと、薛仁貴を破ったこと、涼州に迫ったことを詰ると、「臣は貢献を命ぜられただけです。軍旅の事は聞いておりません」と答えた。上は厚く賜って帰らせた。
  • 癸未、都水使者の黄仁素を吐蕃に遣わした。

上元二年(675年)

  • 春正月辛未、吐蕃が大臣の論吐渾弥を送って和を請い、あわせて吐谷渾と隣好を修め直すことを請うたが、上は許さなかった。

儀鳳元年(676年)

  • 春閏三月、吐蕃が鄯・廓・河・芳などの州を侵し、左監門衛中郎将の令狐智通に興・鳳などの州の兵を発して防がせた。
  • 己卯、詔して吐蕃が塞を犯したので中岳の封禅を停めた。
  • 乙酉、洛州牧の周王顕を洮州道行軍元帥として工部尚書の劉審礼ら十二総管を率いさせ、并州大都督の相王輪を涼州道行軍元帥として左衛大将軍の契苾何力らを率いさせて吐蕃を討たせたが、二王はいずれも出発しなかった。
  • 秋八月乙未、吐蕃が畳州を侵した。

儀鳳二年(677年)

  • 夏五月、吐蕃が扶州の臨河鎮を侵し、鎮将の杜孝昇を捕らえ、書を持たせて松州都督の武居寂を説いて降らせようとした。杜孝昇が固く拒んで従わないので、吐蕃軍は帰るとき杜孝昇を置いて去った。杜孝昇は改めて残る衆を率いて拒み守った。詔で杜孝昇を游撃将軍とした。
  • 冬十二月乙卯、詔して大々的に兵を出して吐蕃を討つこととした。

儀鳳三年(678年)――青海の敗戦

  • 秋七月、李敬玄が竜支で吐蕃を破ったと奏した。
  • 九月丙寅、李敬玄が十八万の兵で吐蕃の将の論欽陵と青海のほとりで戦って敗れ、工部尚書・左衛大将軍の彭城僖公の劉審礼が吐蕃に捕らえられた。
  • 当時、劉審礼が前軍を率いて深入りして濠のある所に駐屯し、虜に攻められた。李敬玄は臆病で兵を按じて救わず、劉審礼の戦没を聞いて狼狽して走り、承風嶺に駐屯し、泥の溝に拠って自ら固めた。虜は高い丘に兵を駐屯させて圧した。
  • 左領軍員外将軍の黒歯常之が夜に決死の士五百人を率いて虜の営を襲撃し、虜の衆は潰乱してその将の跋地設は兵を率いて逃げ去った。李敬玄はそこで残る衆を収めて鄯州に帰った。
  • 劉審礼の諸子が自ら縛って闕に至り、吐蕃に入って父を贖うことを請うた。勅で次子の易従を吐蕃に赴かせて見舞わせたが、着いたときには劉審礼はすでに病没していた。易従は昼夜、声を絶やさず号哭し、吐蕃も哀れんでその屍を返した。易従は裸足で背負って帰った。
  • 上は黒歯常之の功を嘉し、左武衛将軍に抜擢して河源軍副使に充てた。
  • 李敬玄が西征したとき、監察御史の原武の婁師徳が猛士を求める詔に応じて従軍した。敗れると、勅で婁師徳に散り失せた者を収集させ、軍はそこで持ち直した。そこで吐蕃への使者を命じた。吐蕃の将の論賛婆が赤嶺で迎え、婁師徳が上の意を宣べ禍福を諭すと、賛婆はきわめて喜び、そのため数年、辺境を犯さなかった。婁師徳は殿中侍御史に遷り、河源軍司馬として営田の事も知った。
  • 上は吐蕃を憂え、侍臣をことごとく召して謀った。和親して民を休ませようという者、厳重に守備を設けて公私が富み実ってから討とうという者、速やかに兵を出して撃とうという者があり、議はついに決せず、食を賜って帰らせた。
  • 太学生の宋城の魏元忠が封事を上って吐蕃を防ぐ策を言上した。その要旨は次のとおりである。
  • 国を治める要は文と武にあります。今、文を言う者は辞の華やかさを第一として経綸に及ばず、武を言う者は騎射を先として方略を知りません。これがどうして治乱の助けとなりましょう。ゆえに陸機は「弁亡論」を著しても河橋の敗を救えず、養由基は七枚重ねの札を射抜いても鄢陵の師を済えませんでした。これは已然の明らかな効験です。
  • 古語に「人に常の俗なく、政に治乱あり。兵に強弱なく、将に巧拙あり」とあります。ゆえに将を選ぶには智略を本とし、勇力を末とすべきです。今、朝廷の人選はおおむね将門の子弟や戦死者の家から取ります。彼らはみな凡人で、どうして城外の任に当たれましょう。李左車・陳湯・呂蒙・孟観はみな貧賤から出て殊功を立てました。その家が代々将であったとは聞きません。
  • そもそも賞罰は軍国の切実な務めです。もし功があって賞さず罪があって誅さなければ、堯舜でも治を致せません。議する者はみな「近日の征伐には賞の格式が空しくあるだけで実がない」と言います。思うに、小才の吏が大体を知らず、いたずらに勲功を惜しんで倉庫が空になることを恐れ、士が命を用いなければどれほどの損失かを知らぬからです。黔首(民)は微賤でも欺き罔うことはできません。どうして信ならぬ令を掲げ虚しい賞の科を設けて、その功を立てることを望めましょう。
  • 蘇定方が遼東を征し李勣が平壌を破って以来、賞は全く行われず、勲はなお滞ったままで、台郎一人を斬り令史一人を戮して勲ある人に謝したとも聞きません。大非川の敗で薛仁貴・郭待封らをただちに重く誅しませんでした。もし早く仁貴らを誅していれば、その他の諸将がどうして後に不利を招けたでしょう。臣は吐蕃の平定が旦夕に期し得るものではないことを恐れます。
  • また出師の要はすべて馬力に頼ります。臣は馬を飼うことの禁を開き、百姓がみな馬を飼えるようにすることを請います。官軍が大挙するときは州県の長吏に官銭で値を増して買わせれば、みな官のものとなります。かの胡虜が馬力を恃んで強いのですから、民間に売買させて飼わせるのは、彼の強を損じて中国の利とすることです、と。これに先立って百姓の馬の飼育を禁じていたので、魏元忠はこれを言ったのである。
  • 上はその言を善しとし、召見して中書省に直せしめ、仗内供奉とした。

調露元年(679年)

  • 春二月壬戌、吐蕃の賛普が没し、子の器弩悉弄が立った。生まれて八年である。
  • 当時、器弩悉弄はその舅の麴薩若とともに羊同に赴いて兵を発しており、弟が生まれて六年で論欽陵の軍中にいた。国人は欽陵の強さを畏れて弟を立てようとしたが、欽陵は承知せず、薩若とともに器弩悉弄を立てた。
  • 上は賛普が没して嗣主が定まらぬと聞き、裴行倹に隙に乗じて図らせようとした。裴行倹は「欽陵が政を執って大臣が睦まじい以上、図れません」と言い、そこで止めた。
  • 冬十月癸亥、吐蕃の文成公主が大臣の論塞調傍を遣わして喪を告げ、あわせて和親を請うた。上は郎将の宋令文を吐蕃に遣わして賛普の葬儀に会させた。

永隆元年(680年)

  • 秋七月、吐蕃が河源を侵し、左武衛将軍の黒歯常之が撃退した。常之を河源軍経略大使に抜擢した。
  • 常之は河源が要衝なので兵を増やして守らせたかったが、輸送が険しく遠い。そこで烽火台七十余か所を広く置き、屯田五千余頃を開いて年に五百余万石を収めた。これによって戦守に備えができた。
  • これに先立ち、剣南で兵を募り、茂州の西南に安戎城を築いて吐蕃と蛮を通じる路を断とうとした。吐蕃は先羌を嚮導としてその城を攻め落とし、兵で拠った。これによって西洱の諸蛮はみな吐蕃に降った。
  • 吐蕃は羊同・党項および諸羌の地をことごとく領有し、東は涼・松・茂・巂などの州に接し、南は天竺に隣し、西は亀茲・疏勒など四鎮を陥し、北は突厥に至り、地は方一万余里。諸胡の盛んなことでこれに比べるものはなかった。
  • 冬十月丙午、文成公主が吐蕃で薨じた。

開耀元年(681年)

  • 夏五月己丑、河源道経略大使の黒歯常之が兵を率いて良非川で吐蕃の論賛婆を撃って破り、その糧と家畜を収めて帰った。常之は軍にあること七年、吐蕃は深く畏れて辺境を犯そうとしなかった。

永淳元年(682年)

  • 秋七月、吐蕃の将の論欽陵が柘・松・翼などの州を侵し、詔で左驍衛郎将の李孝逸と右衛郎将の衛蒲山に秦・渭などの州の兵を発して道を分けて防がせた。
  • 冬十月、吐蕃が河源軍に侵入し、軍使の婁師徳が兵を率いて白水澗で撃ち、八戦八勝した。上は婁師徳を比部員外郎・左驍衛郎将・河源軍経略副使とし、「卿には文武の才がある。辞退するな」と言った。

則天皇后垂拱元年(685年)

  • 冬十一月癸卯、天官尚書の韋待価を燕然道行軍大総管として吐蕃を討たせた。

垂拱三年(687年)

  • 冬十一月、太后が韋待価に兵を率いて吐蕃を撃たせようとした。鳳閣侍郎の韋方質が旧制のとおり御史を監軍に遣わすことを奏請した。
  • 太后は「古の明君は将を遣わすとき、城外の事はすべて委ねた。近ごろ聞けば御史が監軍し、軍中の事は大小を問わずみな伺いを立てねばならぬという。下をもって上を制するもので、令典ではない。しかも、それでどうして功あることを責められようか」と言い、ついに罷めた。

永昌元年(689年)

  • 夏五月丙辰、文昌右相の韋待価を安息道行軍大総管として吐蕃を撃たせた。
  • 韋待価の軍が寅識迦河に至って吐蕃と戦って大敗した。折しも大雪で糧運が続かず、韋待価はもとより将領の才がなく、狼狽して拠り所を失い、士卒は凍え飢えて死亡がきわめて多く、そこで軍を引いて帰った。
  • 太后は激怒し、丙子、韋待価を除名して繡州に流し、副大総管・安西大都護の閻温古を斬った。安西副都護の唐休璟がその残る衆を収めて西土を安撫し、太后は唐休璟を西州都督とした。

天授二年(691年)

  • 夏五月、岑長倩を武威道行軍大総管として吐蕃を撃たせたが、中道で召し返し、軍はついに出なかった。

長寿元年(692年)――四鎮の回復

  • 春二月己亥、吐蕃の党項部落一万余人が内附し、十州を分置した。
  • 夏五月、吐蕃の酋長の曷蘇が部落を率いて内附を請うた。右玉鈐衛将軍の張玄遇を安撫使として精卒二万を率いて迎えさせた。六月、軍が大渡水の西に至ったが、曷蘇の事は漏れて国人に捕らえられた。別部の酋長の昝捶が羌蛮八千余人を率いて内附し、張玄遇はその部落に萊川州を置いて帰った。
  • はじめ新豊の王孝傑は劉審礼に従って吐蕃を撃ち、副総管となり、審礼とともに吐蕃に捕らえられた。賛普は王孝傑を見て泣き「容貌が我が父に似ている」と言って厚く礼遇した。後についに帰り、累遷して右鷹揚衛将軍となった。
  • 王孝傑は久しく吐蕃にいてその虚実を知っていた。折しも西州都督の唐休璟が亀茲・于闐・疏勒・砕葉の四鎮を回復することを請い、勅で王孝傑を武威軍総管とし、左武衛大将軍の阿史那忠節とともに兵を率いて吐蕃を撃たせた。冬十月丙戌、吐蕃を大破して四鎮を回復し、安西都護を亀茲に置いて兵を出して守らせた。

延載元年(694年)

  • 春二月、武威道総管の王孝傑が吐蕃の勃論賛刃と突厥可汗の俀子らを冷泉および大嶺でそれぞれ三万余人破り、砕葉鎮守使の韓思忠が泥熟俟斤ら一万余人を破った。

天冊万歳元年(695年)

  • 秋七月辛酉、吐蕃が臨洮を侵し、王孝傑を粛辺道行軍大総管として討たせた。

万歳通天元年(696年)――素羅汗山の敗戦と和議

  • 春正月甲寅、婁師徳を粛辺道行軍副総管として吐蕃を撃たせた。
  • 三月壬寅、王孝傑と婁師徳が吐蕃の将の論欽陵・賛婆と素羅汗山で戦って唐兵は大敗した。王孝傑は連坐して免ぜられ庶人となり、婁師徳は原州員外司馬に貶された。婁師徳は署名して移牒するときに驚いて「官爵が全部なくなったのか」と言い、やがて「よい、よい」と言って気に留めなかった。
  • 秋九月、吐蕃が再び使者を送って和親を請うた。太后は右武衛胄曹参軍の貴郷の郭元振を遣わして適否を察させた。
  • 吐蕃の将の論欽陵は安西四鎮の守備兵を撤することを請い、あわせて十姓突厥の地を分けることを求めた。郭元振は「四鎮と十姓は吐蕃と種類がもともと異なります。今、唐兵の撤退を請われるのは、併呑の志があるからではありませんか」と言った。欽陵は「吐蕃が土地を貪って辺患をなそうというなら、東に甘州・涼州を侵すはず。どうして万里の外に利を図りましょう」と答え、そこで使者を郭元振に随行させて入朝して請願させた。
  • 朝廷は疑って決しかねた。郭元振が上疏して論じた。欽陵が兵を罷め地を割くことを求めるのは利害の機です。まことに軽々しく処置できません。今、直ちにその善意を拒めば辺患は必ず深くなります。四鎮の利は遠く、甘州・涼州の害は近い。深く図らねばなりません。計をもって緩め、その和の望みを絶やさぬのがよろしい。
  • 彼が四鎮と十姓を甚だ欲しているのに対し、青海と吐谷渾もまた国家の要地です。今、返答としては「四鎮十姓の地はもともと中国に用のないもの。兵を遣わして守らせたのは西域を鎮撫し吐蕃の勢いを分けて東侵に力を併せられぬようにするためである。今、果たして東侵の志がないというなら、我が吐谷渾の諸部および青海の故地を返すべきだ。そうすれば五俟斤の部もまた吐蕃に帰そう」と言われるべきです。こうすれば欽陵の口を塞ぐに足り、しかも彼と絶交したことにもなりません。もし欽陵が少しでも違背すれば、非は彼にあります。
  • しかも四鎮十姓は帰服して年久しく、今その情の向背と事の利害を察せぬまま遥かに割いて棄てれば、諸国の心を傷つけることを恐れます。四夷を御する道ではありません、と。太后は従った。
  • 郭元振はさらに上言した。吐蕃の百姓は徭役と守備に疲れ、早く和親を願っております。欽陵は兵を統べて専制することを利として、独り帰服を望みません。もし国家が毎年、和親の使者を発し、欽陵が常に命に従わなければ、彼の国の人は欽陵を怨むこと日々に深く、国恩を望むこと日々に甚だしくなります。仮に大挙しようとしても、その徒はもとより難しくなりましょう。これもまた離間の始めであり、その上下を猜疑させて禍乱を内から起こさせられます、と。太后は深くそのとおりと思った。郭元振は名を震といい、字で通っていた。

聖暦二年(699年)――欽陵の滅亡

  • はじめ吐蕃の賛普の器弩悉弄はまだ幼く、論欽陵兄弟が事を執り、みな勇略があって諸胡は畏れた。欽陵は中央にあって政を秉り、諸弟は兵を握って方面に分拠し、賛婆は常に東辺にあって、中国の患いとなること三十余年に及んだ。
  • 器弩悉弄は次第に成長し、ひそかに大臣の論巌と誅殺を謀った。折しも欽陵が外に出たので、賛普は狩りに出ると偽って兵を集め、欽陵の親党二千余人を捕らえて殺し、使者を送って欽陵兄弟を召した。欽陵らは兵を挙げて命を受けず、賛普が兵を率いて討ち、欽陵の兵は潰えて自殺した。
  • 夏四月、賛婆が部下千余人を率いて降った。太后は右武衛鎧曹参軍の郭元振と河源軍大使の夫蒙令卿に騎兵を率いて迎えさせ、賛婆を将軍・帰徳王とした。欽陵の子の弓仁が統べていた吐谷渾七千帳を率いて降り、左玉鈐衛将軍・酒泉郡公を拝した。
  • 冬十月丁亥、論賛婆が都に至った。太后は寵遇して賞賜はきわめて厚く、右衛大将軍としてその衆を率いて洪源谷を守らせた。

久視元年(700年)

  • 秋閏七月丁酉、吐蕃の将の麴莽布支が涼州を侵し昌松を囲んだ。隴右諸軍大使の唐休璟が洪源谷で戦った。
  • 麴莽布支の兵と甲は鮮やかで華やかだった。唐休璟は諸将に「諸論(欽陵ら)がすでに死に、麴莽布支は将になったばかりで軍事に習熟していない。諸貴臣の子弟がみな従っている。見た目は精鋭のようだが、実は与しやすい。諸君のために破ってみせよう」と言い、甲を着けて先に陣に陥り、六戦してみな勝った。吐蕃は大いに逃げ、二千五百級を斬り、副将二人を捕らえて帰った。
  • 庚戌、魏元忠を隴右諸軍大使として吐蕃を撃たせた。

長安二年(702年)

  • 秋九月己卯、吐蕃が臣の論弥薩を送って和を求めた。
  • 癸未、論弥薩を麟徳殿で宴した。当時、涼州都督の唐休璟が入朝しており、宴に列していた。論弥薩がしばしば彼を窺うので太后が理由を問うと、「洪源の戦いで、この将軍は猛烈で敵なしでした。ゆえに面識を得たいのです」と答えた。太后は唐休璟を右武威・金吾の二衛大将軍に抜擢した。唐休璟は辺事に習熟し、碣石以西から四鎮を越えて万里にわたる山川の要害をみな記憶できた。
  • 冬十月戊申、吐蕃の賛普が一万余人を率いて茂州を侵し、都督の陳大慈が四度戦ってみな破り、千余級を斬った。

長安三年(703年)

  • 夏四月、吐蕃が使者を送って馬千匹・金二千両を献じて婚を求めた。
  • 吐蕃の南境の諸部がみな叛き、賛普の器弩悉弄が自ら率いて撃ったが、軍中で没した。諸子が立つのを争い、久しくして国人はその子の棄隷蹜賛を賛普に立てた。生まれて七年であった。

中宗景竜元年(707年)

  • 春三月庚子、吐蕃が大臣の悉蕭熱を入貢させた。
  • 夏四月辛巳、上が養っていた雍王守礼の娘の金城公主を吐蕃の賛普に嫁がせた。

景竜三年(709年)

  • 冬十一月乙亥、吐蕃の賛普が大臣の尚賛咄ら千余人を遣わして金城公主を迎えさせた。

睿宗景雲元年(710年)

  • 春正月、上が紀処訥に金城公主を吐蕃に送らせようとしたが辞退し、また趙彦昭に命じたが彦昭も辞退した。丁丑、左驍衛大将軍の楊矩に送らせた。己卯、上は自ら公主を始平まで送り、二月癸未、宮に帰った。
  • 公主が吐蕃に至ると、賛普はそのために別に城を築いて住まわせた。

玄宗開元元年(713年)

  • 冬十二月甲午、吐蕃が大臣を遣わして和を求めた。

開元二年(714年)――武街の戦い

  • 夏五月己酉、吐蕃の相の坌達延が宰相に書を送り、まず解琬を河源に遣わして二国の境界を正し、その後で盟を結ぶことを請うた。解琬はかつて朔方大総管だったので吐蕃が請うたのである。これに先立ち解琬は金紫光禄大夫で致仕していたが、改めて召して左散騎常侍を拝して遣わした。また宰相に坌達延への返書を命じて招き懐けた。解琬は上言して、吐蕃は必ずひそかに叛く計を抱いているので、あらかじめ十万の兵を秦・渭などの州に屯して備えるよう請うた。
  • 六月丙寅、吐蕃が宰相の尚欽蔵を遣わして盟書を献じた。
  • 秋八月乙亥、吐蕃の将の坌達延と乞力徐が十万の衆で臨洮軍と蘭州を侵し、渭源まで至って牧馬を掠め取った。薛訥に白衣で左羽林将軍を摂させて隴右防禦使とし、右驍衛将軍の常楽の郭知運を副使として、太僕少卿の王晙とともに兵を率いて撃たせた。辛巳、大々的に勇士を募って河・隴に赴かせ、薛訥のもとで教習させた。
  • はじめ鄯州都督の楊矩が九曲の地を吐蕃に与えた。その地は肥沃で、吐蕃はそこに就いて牧畜し、それによって侵入した。楊矩は悔い恐れて自殺した。
  • 冬十月、吐蕃が再び渭源を侵した。丙辰、上は詔を下して親征しようとし、兵十余万・馬四万匹を発した。
  • 甲子、薛訥が武街で吐蕃と戦って大破した。当時、太僕少卿・隴右群牧使の王晙が部下二千人を率いて薛訥と合流して吐蕃を撃った。坌達延は吐蕃十万を率いて大来谷に駐屯していた。王晙は勇士七百を選んで胡服を着せ、夜襲させ、その後方五里に鼓と角を多く置いた。前軍が敵に遭って大声を上げると、後方の者が鼓角を鳴らして応じた。虜は大軍が来たと思って驚き恐れ、自ら殺傷し合って死者は万を数えた。
  • 薛訥はこのとき武街におり、大来谷から二十里、虜軍がその中間を塞いでいた。王晙が再び夜に兵を出して襲うと虜は大潰し、ようやく薛訥の軍と合流できた。ともに洮水まで追撃し、また長城堡で戦って破った。前後で殺し捕らえた者は数万人。豊安軍使の王海賓が戦死した。
  • 乙丑、勅して親征を罷めた。戊辰、姚崇・盧懐慎らが「先ごろ吐蕃は黄河を境としておりましたが、神竜年間に公主を娶ってから黄河を越えて城を築き、独山・九曲の二軍を置きました。積石から三百里、また黄河に橋を架けております。今、吐蕃が叛いた以上、橋を毀ち城を抜くべきです」と奏し、従った。
  • 王海賓の子の忠嗣を朝散大夫・尚輦奉御として宮中で養った。
  • 乙酉、左驍衛郎将に金城公主を慰問させた。吐蕃が大臣の宗俄因矛を洮水に遣わして和を請うたが、対等国の礼を用いたので上は許さなかった。これより連年、辺境を犯した。

開元四年(716年)

  • 春二月、吐蕃が松州を囲んだ。癸酉、松州都督の孫仁献が城下で吐蕃を襲撃して大破した。
  • 秋七月、吐蕃が再び和を請い、上は許した。

開元五年(717年)

  • 秋七月壬寅、隴右節度使の郭知運が九曲で吐蕃を大破した。

開元六年(718年)

  • 冬十一月戊辰、吐蕃が上表して和を請い、舅と甥(唐と吐蕃)が自ら誓文に署名し、あわせて双方の宰相もその上に名を記すことを乞うた。

開元七年(719年)

  • 夏六月戊辰、吐蕃がまた使者を送って上が自ら誓文に署名することを請うたが、上は許さず、「先年、誓約はすでに定まった。もし信が衷心から出ぬなら、しばしば誓っても何の益があろう」と言った。

開元十年(722年)

  • 秋八月癸未、吐蕃が小勃律を囲んだ。王の没謹忙が北庭節度使の張嵩に救いを求め、「勃律は唐の西門です。勃律が亡べば西域はみな吐蕃のものとなります」と言った。
  • 張嵩は疏勒副使の張思礼に蕃漢の歩騎四千を率いて救わせた。昼夜道を倍して進み、謹忙と合撃して吐蕃を大破した。斬獲は数万。これより数年、吐蕃は辺境を犯そうとしなかった。

開元十五年(727年)

  • 春正月辛丑、涼州都督の王君㚟が青海の西で吐蕃を破った。
  • はじめ吐蕃は強さを恃んで書を送るのに対等国の礼を用い、辞の指すところは悖慢だったので、上の意は常に怒っていた。
  • 張説が上に言った。吐蕃は無礼です。まことに誅すべきですが、兵を連ねること十余年、甘・涼・河・鄯はその弊に堪えられません。師はしばしば勝っても、得たものは失ったものに償えません。彼が過ちを悔いて和を求めていると聞きます。その帰服を聴して辺人を安めていただきたい、と。上は「王君㚟と議してから」と言った。
  • 張説は退いて源乾曜に「君㚟は勇だが謀がない。常に僥倖を思っている。もし二国が和親すれば、彼はどうやって功を立てるのか。私の言は必ず用いられまい」と言った。王君㚟が入朝すると、果たして深入りして討つことを請うた。
  • 前の冬、吐蕃の大将の悉諾邏が大斗谷を侵し、進んで甘州を攻めて焼き掠めて去った。王君㚟はその兵の疲れを測って兵を整えて後を追った。折しも大雪で虜は凍死する者が多かった。積石軍から西に帰るとき、王君㚟は先に人を間道から虜の境に入れて道端の草を焼かせていた。悉諾邏が大非川に至って士馬を休ませようとしたが野草はすべてなく、馬は半ば以上死んだ。
  • 王君㚟は秦州都督の張景順とともに追い、青海の西で追いつき、氷に乗って渡った。悉諾邏はすでに去っていたが、その後軍を破って輜重と羊馬を万を数えるほど獲て帰った。王君㚟は功により左羽林大将軍に遷り、父の寿を少府監として致仕させた。上はこれによっていっそう辺功を事とするようになった。
  • 秋九月丙子、吐蕃の大将の悉諾邏恭禄および燭竜莽布支が瓜州を攻め落とし、刺史の田元献および河西節度使の王君㚟の父を捕らえ、進んで玉門軍を攻め、捕虜を放って涼州に帰らせ、王君㚟に「将軍は常に忠勇をもって国に許すという。なぜ一戦せぬのか」と伝えさせた。王君㚟は城に登って西を望んで泣き、ついに出兵しなかった。
  • 莽布支が別に常楽県を攻めた。県令の賈師順が衆を率いて拒み守った。瓜州が陥ちると悉諾邏が全兵で合わせて攻めること十日余り、吐蕃は力尽きて落とせず、人を送って降伏を説いたが従わなかった。吐蕃が「明府がどうしても降らぬなら、城中の財を集めて贈られよ。我らは退こう」と言うと、賈師順は士卒の衣を脱がせて見せた。悉諾邏は財がないと知って引き揚げ、瓜州城を毀った。賈師順はただちに門を開いて器械を収め守備を修めた。虜は果たして再び精騎を送って城中を見に来たが、備えがあると知って去った。賈師順は岐州の人である。
  • 閏月庚子、吐蕃の賛普が突騎施の蘇禄とともに安西城を囲んだが、安西副大都護の趙頤貞が撃破した。
  • 王君㚟が精騎を率いて粛州で吐蕃の使者を待ち伏せ、帰路、甘州の南の鞏筆駅に至ったとき、回紇の司馬の護輸が伏兵を突然起こして王君㚟を殺した。
  • 辛巳、左金吾衛大将軍の信安王禕を朔方節度等副大使とした。禕は李恪の孫である。朔方節度使の蕭嵩を河西節度等副大使とした。
  • 当時、王君㚟が敗れたばかりで河・隴は震え驚いていた。蕭嵩は刑部員外郎の裴寛を判官に引き、王君㚟の判官の牛仙客とともに軍政を掌らせ、人心は次第に安らいだ。裴寛は裴漼の従弟である。牛仙客はもと鶉觚の小吏で、才幹と軍功で累遷して河西節度判官となり、王君㚟の腹心だった。
  • 蕭嵩はまた建康軍使の河北の張守珪を瓜州刺史とすることを奏し、残る衆を率いて旧城を築かせた。板と枠を立てたばかりのとき吐蕃が突然至り、城中は顔を見合わせて色を失い、戦意を持つ者もなかった。
  • 張守珪は「彼は多く我は少ない。しかも傷ついた後で、矢と刃で持ちこたえられぬ。奇計で勝ちを取るべきだ」と言い、城上に酒を置いて音楽を奏させた。虜は備えがあると疑って攻めずに退き、張守珪は兵を放って撃ち、虜は敗走した。張守珪はそこで城市を修復し、流散した者を集めて、みな旧業に復させた。朝廷はその功を嘉し、瓜州を都督府として張守珪を都督とした。
  • 悉諾邏は威名がきわめて盛んだった。蕭嵩は吐蕃に反間を放って「中国と通謀している」と言わせた。賛普は召して誅し、吐蕃はこれによってやや衰えた。
  • 冬十二月戊寅、制して、吐蕃が辺患であるため隴右道および諸軍の団兵五万六千人、河西道および諸軍の団兵四万人、さらに関中の兵一万人を徴して臨洮に集め、朔方の兵二万人を会州に集めて秋の防備とし、冬の初めまで寇がなければ罷め、虜が侵入すれば互いに兵を出して腹背から撃つこととした。

開元十六年(728年)

  • 秋七月、吐蕃の大将の悉末朗が瓜州を侵し、都督の張守珪が撃退した。
  • 乙巳、河西節度使の蕭嵩と隴右節度使の張忠亮が渇波谷で吐蕃を大破した。張忠亮が追ってその大莫門城を抜き、擒獲はきわめて多く、その駱駝の橋を焼いて帰った。
  • 八月辛卯、右金吾将軍の杜賓客が祁連城下で吐蕃を破った。当時、吐蕃が再び侵入し、蕭嵩は杜賓客に強弩四千を率いて撃たせた。辰から日暮れまで戦い、吐蕃は大潰し、その大将一人を捕らえた。虜は散り走って山に逃げ、哭声が四方から聞こえた。

開元十七年(729年)

  • 春三月、瓜州都督の張守珪と沙州刺史の賈思順が吐蕃の大同軍を撃って大破した。
  • 甲寅、朔方節度使の信安王禕が吐蕃の石堡城を攻めて抜いた。
  • はじめ吐蕃が石堡城を陥して兵を留めて拠り、河右を侵し騒がせていた。上は禕に河西・隴右と協議して攻め取らせようとした。諸将はみな石堡が険に拠って道が遠く、攻めて克てなければ自ら帰れなくなるとして、兵を按じて隙を観るべきだと言った。
  • 禕は聞かず、兵を率いて深入りして急攻して抜き、なお兵を分けて要害に拠らせ、虜が前進できぬようにした。これより可竜の諸軍は遊撃で領域を千余里拓いた。上は聞いて大いに喜び、石堡城を「振武軍」と改名した。

開元十八年(730年)――和親の回復

  • 夏五月、吐蕃が使者を境上に遣わして書を致して和を求めた。
  • 秋九月、吐蕃はしばしば兵が敗れて恐れ、そこで和親を求めた。忠王友の皇甫惟明が奏事のついでにくつろいで和親の利を言った。上が「賛普はかつて私に悖慢な書を送ってきた。どうして捨てておけようか」と言うと、皇甫惟明は答えた。賛普は開元の初め、年はなお幼稚でした。どうしてこの書を作れましょう。おそらく辺将が偽って作り、陛下を激怒させようとしたのです。そもそも辺境に事があれば将吏はそれに乗じて官物を盗み隠し、妄りに功状を述べて勲爵を取れます。これはみな姦臣の利であって国家の福ではありません。兵が連なって解けず、日に千金を費やし、河西・隴右はこれによって困弊しております。陛下がまことに一使を命じて公主を見舞わせ、あわせて賛普と面と向かって約を結び、頭を地につけて臣と称させ、永く辺患を息ませられれば、夷狄を御する長策ではありませんか、と。
  • 上は喜び、皇甫惟明と内侍の張元方を吐蕃に遣わした。賛普は大いに喜び、貞観以来に得た敕書をすべて出して惟明に示した。
  • 冬十月、大臣の論名悉猟を惟明に随行させて入貢させた。その表に言う。甥(賛普)は代々公主を娶り、義は一家と同じです。中ごろ張玄表らが先に兵を興して侵掠したため、二境が交悪しました。甥は深く尊卑をわきまえております。どうして礼を失えましょう。まさに辺将の讒構によって舅に罪を得たのです。しばしば使者を入朝させましたが、みな辺将に遮られました。今、遠く使臣を降して公主を見舞わせていただき、甥は喜びと有難さに堪えません。もし旧好を修め直せれば、死んでも恨みはありません、と。これより吐蕃は再び帰服した。

開元十九年(731年)

  • 春正月辛未、鴻臚卿の崔琳を吐蕃に遣わした。崔琳は崔神慶の子である。
  • 吐蕃の使者が、公主が『毛詩』『春秋』『礼記』を求めていると称した。正字の于休烈が上疏して「東平王は漢の親族でありながら『史記』や諸子を求めても漢は与えませんでした。まして吐蕃は国の寇讎です。今これに書を与えて用兵の権略を知らせれば、いっそう変詐を生じます。中国の利ではありません」と論じた。
  • 事が中書門下に下されて議された。裴光庭らは「吐蕃は蒙昧頑迷で、久しく叛いて新たに服しました。その請いに応じて詩書を賜れば、次第に声教に染まり、化は外まで流れましょう。于休烈はただ書に権略・変詐の語があることを知って、忠信・礼義がみな書から出ることを知りません」と奏し、上は「善し」と言ってついに与えた。于休烈は于志寧の玄孫である。
  • 秋九月辛未、吐蕃が相の論尚它硉を入見させた。

開元二十一年(733年)

  • 春二月丁酉、金城公主が赤嶺に碑を立てて唐と吐蕃の境を分けることを請い、許した。