通鑑紀事本末隋の太子廃立(隋易太子)

隋の文帝が長子勇を太子に立てながら、その奢りと元妃の急死をめぐって独孤后の心が離れ、晋王広が倹素と仁孝を装って宇文述・楊約を通じ楊素を抱き込み、姫威の告発と楊素の獄によって勇を庶人に落として太子の座を奪うまで。続いて蜀王秀の廃黜、文帝の崩御と広の即位、勇の縊殺、漢王諒の挙兵と楊素による平定までの24年間。

年表(5件)

陳宣帝太建十三年(581年)春二月

  • 甲子、北周が隋王に禅位。隋王は太子勇を皇太子とし、子の雁門公広を晋王、俊を秦王、秀を越王、諒を漢王に封じた。

隋文帝開皇二十年(600年)――皇太子勇の失寵

  • 文帝は太子勇に軍国の政務を裁かせ、勇の意見は採用されることが多かった。勇は寛厚で気ままな性質、飾り気がなかった。文帝は倹約家で、勇が蜀の鎧を飾り立てたのを見て不快に思い、「古来、奢侈を好んで長続きした帝王はいない。皇太子たる者、倹約を第一とせよ」と戒めた。さらに自分の昔の衣服を一点ずつ残して折々に見て自戒していると語り、勇が今の地位に慣れて昔を忘れることを恐れ、自分が昔帯びていた小刀一振りと、勇が上士だったころ常食していた漬物入り醤一合を賜って、昔を思い出せと諭した。
  • のち冬至に百官がそろって東宮に参上し、勇は音楽を奏させて祝賀を受けた。文帝はこれを知って朝臣に「近ごろ冬至に内外の百官が連れ立って東宮に朝したというが、これは何の礼か」と問うた。太常少卿の辛亶は「東宮では『賀』であって『朝』とは言いません」と答えた。文帝は「祝賀ならせいぜい数十人が思い思いに行くものだ。役所が召集して一斉に集まり、太子が礼服を着け楽を設けて待つなど、あってよいことか」と言った。
  • そこで詔を下し、礼には等差があり君臣は混同できない、皇太子は嗣君の地位にあるとはいえ君臣の義では臣子である、地方長官が冬至の朝賀や貢物を別に東宮に上げるのは典礼に反するのですべて停止せよ、とした。これより勇への恩寵は衰え、疑いと隔たりが生じ始めた。
  • 勇は側室が多く、とくに昭訓の雲氏を寵愛し、正妃の元氏は寵を得なかった。元妃が心臓の病を得て二日で急死すると、独孤皇后は他に原因があると疑い、強く勇を責めた。以後、雲昭訓が内政を握った。雲氏は長寧王儼・平原王裕・安成王筠を、高良娣は安平王嶷・襄城王恪を、王良媛は高陽王該・建安王韶を、成姫は潁川王煚を生み、そのほか後宮が孝実・孝範を生んだ。皇后はますます不満を募らせ、人を遣って勇の過失を探らせた。
  • 晋王広はこれを知り、いっそう身を飾った。蕭妃とだけ暮らし、後庭に子ができても育てなかったので、皇后はしばしば広を賢と称した。要職の大臣にはみな心を尽くして交わり、帝や皇后の使者が広のもとに来ると、貴賤を問わず蕭妃とともに門に出迎え、美食と厚礼でもてなしたので、往来する婢僕はみな広の仁孝を称えた。
  • 帝と皇后が広の邸を訪れたとき、広は美姫をすべて別室に隠し、年老いて醜い者だけを残して粗末な衣を着せて給仕させ、几帳は絹の白布に取り替え、楽器の弦は切ったまま埃も払わせなかった。帝はこれを見て声色を好まぬ人物と考え、宮に戻って侍臣に語り大いに喜んだ。侍臣もみな祝したので、諸子の中でとりわけ広を愛するようになった。
  • 帝がひそかに人相見の来和に諸子を見させると、「晋王は眉の上に双骨が隆起しており、言葉にできぬほどの貴相です」と答えた。上儀同三司の韋鼎にも「わが子の誰が位を継ぐか」と問うと、「至尊と皇后が最も愛される方に与えられましょう。臣が予知すべきことではありません」と答えた。帝は笑って「卿ははっきり言わぬのだな」と言った。
  • 晋王広は容姿端麗、聡明で沈着重厚、学を好み文章に巧みで、朝廷の士に対してきわめて謙って接したので、諸王の中で群を抜く名声を得た。
  • 広は揚州総管として入朝し、任地へ戻る際に宮中で皇后に別れを告げ、地に伏して涙を流した。皇后も涙を落とした。広は「私は生まれつき愚かで、常に兄弟の情を守ってきましたが、何の罪で東宮の愛を失ったのか分かりません。東宮は常に怒りを蓄え、私を陥れ殺そうとしています。讒言が積み重なること、杯に鴆毒が入っていることを恐れ、日夜憂え、危亡を踏むのではと怯えております」と訴えた。
  • 皇后は憤って「あの睍地伐(勇の幼名)はもう我慢ならぬ。私が元氏の娘を娶らせてやったのに、ついに夫婦の礼で遇さず、阿雲ばかりを寵愛してあんな豚犬どもを産ませた。先の嫁は毒に遭って若死にしたのに、私は追及しきれなかった。それがなぜお前にまでこんな心を向けるのか。私が生きていてすらこうだ。私が死ねばお前を魚肉のように扱うだろう。東宮に正嫡がいないことを思うと、至尊の千秋万歳の後、お前たち兄弟をあの阿雲の子の前で再拝させることになる。どれほどの苦痛か」と言った。広はまた拝して嗚咽が止まらなかった。皇后も悲しみに堪えず、これより勇を廃して広を立てる決意を固めた。
  • 広は安州総管の宇文述と旧知で、側に置きたいと奏して寿州刺史とした。とくに親任していた総管司馬の張衡が広のために宗嗣奪取の策を練った。広が宇文述に計を問うと、宇文述はこう答えた。皇太子は久しく寵を失い令徳の評判もない。大王は仁孝で名高く才能は世を覆い、しばしば軍を率いて大功を挙げ、主上も内宮も深く愛しておられる。四海の望みは実に大王にある。しかし廃立は国家の大事で、父子骨肉の間に立ち入るのは容易ではない。主上の意を動かせるのは楊素だけで、楊素が謀る相手はその弟の楊約だけである。自分は楊約をよく知っているので、都に赴いて会い、ともに図りましょう、と。
  • 広は大いに喜び、多くの金宝を持たせて宇文述を関中に送った。楊約は当時大理少卿で、楊素は事を行う前に必ず楊約と相談していた。宇文述は珍器を並べて楊約を招き、酒を酌み交わし博打を打っては、わざと負けて持参した金宝をすべて渡した。楊約が受け取り過ぎて礼を言うと、宇文述は「これは晋王の賜物で、私にあなたと楽しんでこいと言われたのです」と述べた。
  • 楊約が驚いて理由を問うと、宇文述は広の意を伝えて説いた。正道を守るのは臣の常道だが、常経を離れて義にかなうことも達識の者の良策である。古来の賢人君子はみな時勢に応じて禍を避けてきた。公の兄弟は功名並びなく、要路を握って久しい。あなたの家に辱められた朝臣は数え切れない。加えて皇太子は思い通りにならぬことで執政を切歯扼腕して恨んでいる。公は人主に取り入っているとはいえ、公を害そうとする者は多い。主上がひとたび世を去れば、公は何によって身を守るのか。今、皇太子は皇后の愛を失い、主上にも廃黜の心がある。これは公もご存じのはず。今、晋王の擁立を請うのは兄君の一言にかかっている。この機に大功を立てれば、王は骨髄に銘じて忘れまい。累卵の危うきを去って泰山の安きを得る道です、と。
  • 楊約は納得して楊素に告げた。楊素は大いに喜び、手を打って「私の知恵もそこまで及ばなかった。お前のおかげで目が開けた」と言った。楊約はさらに「今、皇后の言葉は主上が必ず用いる。機会に乗じて早く結んでおけば長く栄禄を保ち、子孫に伝えられる。兄が躊躇して一朝事変があり太子が政を執れば、禍は日を経ずに至るでしょう」と説き、楊素は従った。
  • 数日後、楊素は宴に侍って「晋王は孝悌恭倹で至尊に似ておられる」とそれとなく述べて皇后の意を探った。皇后は泣いて「公の言うとおりです。あの子は大孝で、至尊や私が内使を遣ると必ず国境まで出迎え、別れの話になると必ず涙します。嫁もまた実に愛らしく、私が婢を遣ると寝食をともにします。睍地伐が阿雲と終日差し向かいで酒宴し、小人に近づいて骨肉を疑うのとは大違いです。私が阿𡡉(広の妃)をいっそう憐れむのは、いつか密かに殺されはしないかと恐れるからです」と言った。楊素は皇后の意を知って、盛んに太子は無能だと言い立てた。皇后は楊素に金を贈り、帝に廃立を勧めさせた。
  • 勇はその謀略をおおよそ察したが、憂え恐れるばかりで策がなく、新豊の人の王輔賢に厭勝の呪術を行わせ、後園に庶人の村を作り、粗末な小屋に布衣と草の褥で寝起きして、厄を避けようとした。
  • 帝は勇が不安に駆られていることを知り、仁寿宮にいたまま楊素に勇の様子を見に行かせた。楊素は東宮に着いても休んでいて入らず、勇が帯を締めて待っているのにわざと長く入らず、勇を怒らせた。勇の恨みは言葉と顔色に表れ、楊素は戻って「勇は怨望しており、異変が起きかねません。厳しく警戒なさいますよう」と報告した。帝はこの讒言を聞いて勇を深く疑った。
  • 皇后もまた人を遣って東宮を偵察させ、些細なことまで奏上し、脚色を加えて罪に仕立てた。帝はついに勇を疎んじ、玄武門から至徳門にかけて要所に見張りを置いて動静をうかがわせ、逐一報告させた。また東宮の宿衛のうち侍官以上の名簿をすべて諸衛府に移管させ、勇壮な者はみな取り除いた。左衛率の蘇孝慈を淅州刺史として出したので、勇はますます不快になった。
  • 太史令の袁充が「天文を見るに、皇太子は廃されるべきです」と奏すると、帝は「天象は久しく現れていたが、群臣が言わなかっただけだ」と言った。袁充は袁君正の子である。
  • 晋王広はさらに督王府軍事の姑臧の段達に命じ、東宮の寵臣の姫威にひそかに賄賂を贈り、太子の動静を探って楊素に密告させた。こうして内外に勇の過失の噂が日々広まった。段達は姫威を脅して「東宮の過失は主上がすべてご存じで、すでに密詔を受けて廃立が決まっている。君が告発すれば大富貴を得られる」と言い、姫威は承諾して上書し告発した。
  • 秋九月壬子、帝が仁寿宮から帰京。翌日、大興殿に出て侍臣に「都に戻ったのだから心を開いて楽しむべきなのに、どうしてこうも鬱々と愁わしいのか」と言った。吏部尚書の牛弘が「臣らが職を果たさぬゆえ、至尊にご心労をかけております」と答えた。帝は讒言を重ねて聞いていたので、朝臣はみな知っていると思い、衆中で問いを発して太子の過失を聞き出そうとしたのだが、牛弘の答えは意にそぐわなかった。
  • 帝は色をなして東宮の官属に言った。仁寿宮はここから遠くもないのに、私は帰京のたび敵国に入るように武装を固めさせられる。私は下痢のため衣も解かずに横になり、昨夜も厠に近い後房にいたが、急変があってはと前殿に移った。お前たちが私の家国を壊そうとしているのではないのか、と。そして太子左庶子の唐令則ら数人を捕らえて取り調べに付した。
  • 楊素に東宮の事情を近臣に説明するよう命じると、楊素はこう公言した。私が勅を奉じて京に赴き、皇太子に劉居士の残党の捜索を命じたところ、太子は詔を受けて色をなし、骨も飛ぶかという勢いで「居士の一党はみな処刑された。どこを捜せというのだ。お前は右僕射で軽からぬ職責を負っているのだから自分で調べろ、私に何の関係がある」と言った。さらに「昔の大事が成らず私が先に誅された。今は太子でありながら諸弟にも及ばぬ扱いを受け、一事として思い通りにならない」と言い、長く嘆いて振り返り「わが身が邪魔になっているとつくづく感じる」と言った、と。
  • 帝は言った。この子が跡継ぎに堪えぬことは久しく分かっていた。皇后は常に廃せと勧めたが、私が布衣のときの子で長子でもあるから、次第に改まることを望んで今まで我慢してきた。勇は皇后の侍女を指して「これはみな私のものだ」と人に言った。何という異常なことか。妻が死んだとき私は毒殺を疑って責めたが、勇は恨んで「そのうち元孝矩を殺してやる」と言った。これは私を害したいのを妻の父に転じたにすぎぬ。長寧が生まれたときは私と皇后とで抱いて育てたのに、隔てを設けて次々に返せと言ってきた。しかも雲定興の娘は外で私通して産んだ女だ。その素性を思えば、あれが本当に血を引く子とも限らぬ。昔、晋の太子が屠殺業の家の娘を娶ったら、その子は屠殺を好んだ。もし血筋が違えば宗廟が乱れる。私は徳では堯舜に及ばぬが、万民を不肖の子に託しはせぬ。私は常に危害を加えられぬかと大敵に備えるように恐れてきた。今これを廃して天下を安んじたい、と。
  • 左衛大将軍の五原公元旻が「廃立は大事です。詔が下れば後悔しても及びません。讒言に限りはありません。どうかお察しください」と諫めたが、帝は答えなかった。
  • 姫威が太子の罪悪を列挙した。太子は常に驕奢のことばかり口にし、「諫める者があれば斬ればよい。百人ほど殺せば自然に止む」と言い、殿閣の造営を四季やめない。先に蘇孝慈が左衛率を解かれたとき、太子は髭を逆立て肘を振るって「大丈夫たる者、いつか必ず日が来る。決して忘れぬ、思い切りやってやる」と言った。宮中の入用を尚書が法に照らして許さないと怒って「僕射以下、一人二人は殺して、私を侮る禍いを知らしめてやる」と言い、常々「至尊は私に側室の子が多いのを憎むが、高緯や陳叔宝は庶子だったか」と言っていた。また巫女に吉凶を占わせ、「至尊の忌みは開皇十八年にある。もう間近だ」と自分に語った、と。
  • 帝は涙を流して「誰しも父母から生まれた身なのに、ここまで来たか。私は近ごろ『斉書』を読み、高歓が子らを放縦にしたのを見て憤りに堪えなかった。同じ轍を踏めようか」と言った。そこで勇と諸子を拘禁し、その一党を捕らえた。楊素は法文を弄して巧みに罪をこじつけ、獄を作り上げた。
  • 数日後、有司が楊素の意を汲んで、元旻はかつて勇に取り入って結びつこうとし、帝が仁寿宮にいた間、勇が近臣の裴弘に元旻へ手紙を届けさせ、表に「人に見せるな」と書いてあった、と奏した。帝は「私が仁寿宮にいるとき、些細なことでも東宮は必ず知り、駅馬より早かった。長く不審に思っていたが、この連中の仕業だったか」と言い、武士に元旻を捕らえさせた。右衛大将軍の元冑はこのとき当直明けだったが帰らずにおり、「私が下番しなかったのは元旻を警戒するためです」と奏した。帝は元旻と裴弘を獄に下した。
  • 以前、勇が枯れた老槐を見て「これは何に使えるか」と問うと、「古い槐は火を取るのによい」と答えた者があった。当時、衛士はみな火打ち道具を帯びていたので、勇は職人に数千本作らせて側近に分け与えようとしていた。それが今、庫から見つかった。また薬蔵局に艾が数斛蓄えられていた。楊素はこれを見つけて大いに怪しみ、姫威に問うた。姫威は「太子のこの意図には別の狙いがあります。至尊が仁寿宮におられる間、太子は常に馬千匹を飼い、『まっすぐ行って城門を押さえれば自然に飢え死にする』と言っていました」と答えた。楊素がこの言を突きつけると、勇は認めず「公の家には馬が数万匹あると聞く。私は太子の端くれで馬千匹、それが謀反か」と言った。
  • 楊素はさらに東宮の調度で装飾を加えたと見えるものを庭に並べて文武百官に示し、太子の罪状とした。帝と皇后が代わる代わる使者を送って詰問したが、勇は認めなかった。
  • 冬十月乙丑、帝が人を遣って勇を召した。勇は使者を見て驚き「私を殺すのではないか」と言った。帝は戎服で兵を並べて武徳殿に出御し、百官を東に、諸親族を西に立たせ、勇と諸子を殿庭に列させ、内史侍郎の薛道衡に詔を宣させて、勇および王や公主となっていたその子女をすべて庶人に落とした。
  • 勇は再拝して「私は市に屍をさらして後世の戒めとなるべきところ、お哀れみを受けて命を全うできました」と言い、涙が襟を濡らし、舞踏の礼をして去った。左右の者はみな沈黙して憐れんだ。長寧王儼が宿衛を願う上表を奉り、その言葉は哀切で、帝も読んで憐れんだが、楊素が「どうか蜂に刺された手のように思い切り、これ以上お心を留められませぬよう」と進言した。
  • 己巳、詔して元旻・唐令則・太子家令の鄒文騰・左衛率司馬の夏侯福・典膳監の元淹・前吏部侍郎の蕭子宝・前主璽下士の何竦を斬刑とし、妻妾子孫は没官。車騎将軍の楡林の閻毗、東郡公の崔君綽、游騎尉の沈福宝、瀛州の術士の章仇太翼は特に死を免じ、各々杖百、本人と妻子・資財・田宅を没官。副将作大匠の高竜叉、率更令の晋文建、通直散騎侍郎の元衡は自尽を命じた。広陽門外に群官を集めて詔を宣し処刑した。
  • 勇は内史省に移され、五品相当の食料を給された。楊素に物三千段、元冑と楊約に各千段を賜り、勇を糾問した功に報いた。文林郎の楊孝政が「皇太子は小人に誤られたのです。訓戒を加えるべきで、廃黜すべきではありません」と上書して諫めると、帝は怒ってその胸を打った。
  • もと雲昭訓の父の雲定興は東宮への出入りに節度がなく、しばしば珍奇な服や器物を献じて機嫌を取った。左庶子の裴政がたびたび諫めたが勇は聞かず、裴政は雲定興に「公の行いは法度に合わぬ。加えて元妃の急死で世間の噂も喧しい。これは太子にとって良い評判ではない。公は自ら身を引くべきで、さもなくば禍が及ぶ」と言った。雲定興がこれを勇に告げると、勇はますます裴政を疎んじ、裴政は襄州総管として出された。
  • 唐令則は勇に狎れ親しみ、常に弦歌で内人に教えていた。右庶子の劉行本が「庶子は太子を正道で輔けるべきなのに、閨房で機嫌取りをするとは何事か」と責め、唐令則はひどく恥じたが改められなかった。
  • 当時、沛国の劉臻、平原の明克譲、魏郡の陸爽が文学の才で勇に親しまれていた。劉行本は彼らが太子を諫め守れないことに怒り、常に三人に「卿らはただ読書ができるだけだ」と言った。
  • 夏侯福が閤内で勇と戯れ、大笑いの声が外まで聞こえた。劉行本は退出するのを待って「殿下が寛容にお顔をお貸しになったからといって、お前ごとき小人が無礼をはたらくとは」と責め、執法の吏に処分させた。数日後、勇が取りなしてようやく釈放された。
  • 勇が良馬を得て、劉行本に乗らせて見物しようとすると、劉行本は色を正して「至尊が私を庶子に置かれたのは殿下を輔導させるためで、殿下の慰みものにするためではありません」と言い、勇は恥じて取りやめた。
  • 勇が敗れたとき、裴政と劉行本はすでに没していた。帝は「裴政と劉行本が生きていれば、勇もここまでにはならなかったろう」と嘆いた。
  • 勇が宮臣に宴を賜ったとき、唐令則が自ら琵琶を弾いて「娬媚娘」を歌った。洗馬の李綱が立って「令則は宮臣であり輔導の職にありながら、公の座で自ら芸人になぞらえ、淫らな音を進めて耳目を汚しています。事が上に聞こえれば令則の罪は測り知れず、殿下の累にもなりましょう。速やかに罪を治めるよう願います」と言った。勇は「私は楽しみたいだけだ。余計なことを言うな」と言い、李綱は足早に退出した。
  • 勇の廃位後、帝は東宮の官属を召して厳しく責めた。みな恐れて答えられぬ中、李綱ひとりが言った。廃立は大事で、今、文武の大臣はみな不可と知りながら誰も口に出さない。私だけがどうして死を恐れて陛下のために正直に申し上げずにおられましょう。太子の性は本来中人であり、善にも悪にも向かい得ます。もし陛下が正しい人を選んで輔けさせていれば、大業を継ぐに足りたはずです。ところが唐令則を左庶子、鄒文騰を家令とし、この二人はただ弦歌と鷹犬で太子を楽しませることしか知らなかった。こうならぬはずがありましょうか。これは陛下の過ちで、太子の罪ではありません、と。そして地に伏して涙を流し嗚咽した。
  • 帝はしばらく沈痛な面持ちで「李綱が私を責めるのは道理がないでもない。ただ一を知って二を知らぬ。私がお前を宮臣に選んでも、勇は親任しなかった。他の正しい人を得ても何になろう」と言った。李綱は「私が親任されなかったのは、まさに姦臣が側にいたからです。陛下が令則と文騰を斬り、改めて賢才を選んで太子を輔けさせれば、私も終始疎んじられるとは限りません。古来、国家が嫡子を廃立して傾かなかったためしはほとんどありません。どうか深くお考えになり、後悔を残されませぬよう」と答えた。
  • 帝は不快なまま朝を罷め、左右の者は震え上がった。ちょうど尚書右丞が欠員となり、有司が人選を請うと、帝は李綱を指して「これは良い右丞だ」と言い、そのまま任じた。
  • 十一月戊子、晋王広を皇太子に立てた。天下に地震があった。太子は章服の格を下げ、宮官が臣と称さぬよう請い、十二月戊午、詔でこれを許した。宇文述を左衛率とした。
  • 太子(広)が宗嗣を奪う謀を始めたとき、洪州総管の郭衍も加わっていたので、郭衍を召して左監門率とした。
  • 帝は廃太子勇を東宮に幽閉して太子広に管理させた。勇は自分の廃位は罪によるものではないと考え、たびたび拝謁して冤を訴えようとしたが、広が遮って帝の耳に届かなかった。そこで勇は木に登って大声で叫び、帝のもとまで声が届いて引見されることを期した。楊素は「勇は精神が錯乱し、癲鬼に取り憑かれています。もはや手の施しようがありません」と言い、帝もそう思い、ついに会うことはなかった。
  • 帝が陳を平定したとき、天下はみな太平が来ると考えたが、監察御史の房彦謙は親しい者に「主上は猜疑深く苛酷、太子は弱く、諸王が権を専らにしている。天下は安らかに見えても、危乱が心配だ」と語った。その子の房玄齢もひそかに彦謙に「主上はもともと功徳がなく、詐術で天下を取った。諸子はみな驕奢で不仁、必ず互いに殺し合う。今は太平でも、その滅亡は足を上げて待てるほど近い」と述べた。

仁寿二年(602年)――蜀王秀の廃黜

  • 益州総管の蜀王秀は容貌堂々として胆力があり、武芸を好んだ。帝は常に独孤后に「秀は必ず悪い終わり方をする。私が生きている間はよいが、兄弟の代になれば必ず謀反する」と言っていた。
  • 大将軍の劉噲が西爨を討ったとき、帝は上開府儀同三司の楊武通に兵を率いて後続させたが、秀は寵臣の万智光を楊武通の行軍司馬とした。帝は人選が不適切だとして譴責し、群臣に「私の法を壊すのは子孫だ。猛虎は他の獣に害されず、かえって毛の間の虫に食われて損なわれるようなものだ」と言い、秀の統轄地を分割した。
  • 長史の元巌が没してから、秀は次第に奢侈と僭越に走り、渾天儀を造り、山地の獠人を多く捕らえて宦官に充て、車馬と服装は天子に擬した。
  • 太子勇が讒言で廃され晋王広が太子となると、秀は大いに不満を抱いた。太子(広)は秀が後患になることを恐れ、ひそかに楊素にその罪を探させて讒言した。帝は秀を召し寄せた。
  • 秀は躊躇し病と称して行かずにいた。総管司馬の源師が諫めると、秀は色をなして「これは我が家の事だ。卿に何の関係がある」と言った。源師は涙を流して「私は幕僚の末席を汚す身、心を尽くさずにおられましょうか。聖上が王を召される勅が出てから月日が経っています。今なお遅れて出立されなければ、民は王のお心を知らず、万一異論が生じて内外が疑い驚き、雷霆の詔が下って一介の使者が来たなら、王は何によって身の潔白を示されますか。どうか熟慮を」と答えた。
  • 朝廷は秀の異変を恐れ、七月、原州総管の独孤楷を益州総管として駅伝を馳せて交代させた。独孤楷が到着しても秀はなお発とうとせず、久しく諭してようやく出立した。独孤楷は秀に後悔の色があるのを察して兵を整えて備えた。秀は四十余里行ってから引き返して独孤楷を襲おうとしたが、備えがあると知って止めた。
  • 八月甲子、皇后独孤氏が崩じた。太子(広)は帝や宮人の前では哀慟して息も絶えんばかりに振る舞い、喪に堪えぬ様子を見せたが、私室では飲食も談笑も平常どおりだった。また毎朝、米二鎰だけを進めさせる一方、ひそかに外で脂身の肉や干し肉・魚の塩辛を取り寄せ、竹筒に入れて蝋で封をし、衣類の包みに隠して運び込ませていた。
  • 冬閏十月、蜀王秀が長安に着いた。帝は会っても口をきかず、翌日、使者に厳しく責めさせた。秀は罪を謝し、太子と諸王は涙を流して庭で謝罪した。帝は「先ごろ秦王は財物を浪費したので、私は父の道で訓した。今、秀は生民を害している。君の道で処断すべきだ」と言い、執法の吏に付した。
  • 開府儀同三司の慶整が「庶人勇はすでに廃され、秦王も薨じました。陛下のお子は多くありません。なぜここまでなさるのですか。蜀王は気性がきわめて剛直、重い処罰を受ければ身を全うできぬ恐れがあります」と諫めた。帝は激怒してその舌を切ろうとし、群臣に「秀を市で斬って百姓に謝るべきだ」と言い、楊素らに取り調べさせた。
  • 太子(広)はひそかに人形を作って手を縛り心臓に釘を打ち、枷と手枷をはめ、帝と漢王諒の姓名を書き、「西岳の慈父聖母の神兵に請う。楊堅・楊諒の神魂を収め、この形のとおりにして散らさぬように」と記して、華山の下に密かに埋めた。楊素がこれを掘り出した。さらに、秀が図讖を妄りに述べて都に妖異があると称し、蜀地に瑞祥を造作し、あわせて「期日を指して罪を問う」という檄文を作ったとして、秀の文集の中に混ぜ込み、ともに奏上させた。帝は「天下にこんなことがあってよいものか」と言った。
  • 十二月癸巳、秀を廃して庶人とし、内侍省に幽閉して妻子とも会わせず、獠人の婢二人だけを使役に与えた。連坐した者は百余人。
  • 秀は上表して謝し、「どうか慈恩をもって哀れみを垂れ、残る息のあるうちに瓜子と会わせてください。一つの穴を賜って骸骨の行き場を与えてくださいますよう」と請うた。瓜子はその愛児である。帝は詔を下してその十の罪を数え、「私は今、楊堅と楊諒がお前の何にあたる者か分からぬ」と述べた。のちにその子と同居することは許された。
  • かつて楊素が軽い咎めで南台に送られ、治書侍御史の柳彧に取り調べさせたことがあった。楊素は貴顕を恃んで柳彧の床几に座った。柳彧は外から来てそれを見ると、階下で笏を正し容儀を整えて「勅を奉じて公の罪を取り調べる」と言った。楊素は慌てて下り、柳彧は机に拠って座り、楊素を庭に立たせて事情を詰問した。楊素はこれを恨んでいた。
  • 蜀王秀がかつて柳彧に李文博の著した『治道集』を求め、柳彧が与えると、秀は奴婢十人を贈った。秀が罪を得ると、楊素は柳彧が内臣でありながら諸侯と交際したと奏し、柳彧は除名されて庶民となり、懐遠鎮の守備に配された。
  • 帝は司農卿の趙仲卿を益州に遣わして秀の事件を徹底追及させた。趙仲卿は秀の賓客が通った場所ではことごとく法文を厳しく適用したので、州県の長吏の大半が連坐した。帝はこれを有能とし、厚く賞賜した。
  • しばらくして貝州長史の裴粛が使者を送って上書し、高熲は天賦の良才で元勲・佐命の臣でありながら衆に妬まれて廃棄された、大功を録して小過を忘れてほしい、また二人の庶人(勇と秀)は罪を得て久しく、心を改めていないはずがない、君父の慈しみを広め天性の義を顧みて、それぞれ小国に封じてその行いを見、善に移れれば加増し、改めなければ削っても遅くない、今のように自新の道が永く絶たれては愧悔の心も現れようがなく、哀れではないか、と述べた。
  • 上奏を見て帝は楊素に「裴粛は私の家の事を憂えている。これも至誠である」と言い、裴粛を召した。太子(広)はこれを聞いて左庶子の張衡に「勇を自新させて何をしようというのか」と言った。張衡は「裴粛の意図は、呉の太伯や後漢の東海王のようにさせることでしょう」と答えた。裴粛が着くと、帝は勇はもはや救えぬという意向を面と向かって告げ、そのまま帰らせた。裴粛は裴俠の子である。
  • 楊素の弟の楊約と従父の楊文思・楊文紀、族父の楊忌はいずれも尚書や列卿となり、諸子は汗馬の労もないのに柱国や刺史に至った。楊素は広く資産を営み、都から諸方の都会に至るまで、邸店・水車・水利のよい田宅は数え切れず、家僮は数千人、後庭で綾羅をまとう妓妾は千を数え、邸宅の豪華さは宮禁に擬するほどで、親故や属吏は要職に並んだ。
  • 一人の太子と一人の王を廃してから、その威権はいっそう盛んになり、逆らう朝臣は誅殺されることさえあり、追従する者や親戚は才能がなくても必ず抜擢された。朝廷はなびいて畏れ従い、楊素に抗して屈しなかったのは柳彧と尚書右丞の李綱、大理卿の梁毗だけだった。
  • 梁毗は楊素の専権を国家の害になると憂え、封事を上って論じた。臣たる者が威福を作れば、その家を害しその国を凶にすると聞く。左僕射越国公楊素は寵遇がいよいよ厚く権勢は日々高まり、官人はその目と耳になっている。その意に逆らえば夏でも厳霜が降り、意に従えば冬でも慈雨が注ぐ。栄枯は彼の口先から出、廃興は彼の指図次第である。親しむ相手はみな忠直の士ではなく、登用するのはみな親戚子弟で、州県にわたって並んでいる。天下無事の時なら異図を許す余地もあろうが、四海に事あればきっと禍の始まりとなる。姦臣の専断は徐々に進むもので、王莽は積年をかけ、桓玄は代を替えて基を築き、ついに漢の祭祀を絶ち晋の国祚を傾けた。陛下が楊素を阿衡(宰相)とお考えでも、その心は必ずしも伊尹ではありますまい。古今を鑑みて処置をお決めくださいますよう、と。
  • 上奏に帝は激怒して梁毗を捕らえて獄に繋ぎ、自ら詰問した。梁毗は、楊素が寵を恣にして権を弄び、将として赴いた地では無道な殺戮を行っていること、また太子と蜀王が罪を得て廃された日、百官がみな震え上がる中、楊素だけは眉を上げ肘を振るって喜色を顔に表し、国家に事あるのを自分の幸いとしていることを、余さず言い立てた。帝は言い返せず、梁毗を釈放した。
  • その後、帝も次第に楊素を疎んじ忌むようになり、「僕射は国の宰輔だから細務に自ら当たるべきではない。三、五日に一度、省に出て大事を議すればよい」と勅を下した。表向きは優遇だが、実際は権限の剥奪であった。楊素はこれ以後、仁寿の末まで省務の決裁に加われなくなった。楊約は伊州刺史として出された。楊素が疎んじられると吏部尚書の柳述がいよいよ用いられ、兵部尚書を兼ねて機密に参与したので、楊素はこれを憎んだ。

仁寿四年(604年)――文帝崩御と煬帝の即位

  • 春正月甲子、帝が仁寿宮に行幸。乙丑、賞賜と支出の事は大小を問わずすべて皇太子に委ねる詔を下した。
  • 夏四月乙卯、帝が発病。六月庚申、天下に赦。秋七月甲辰、病が重くなり、臥したまま百官と訣別し、手を握り合ってすすり泣いた。丁未、大宝殿で崩御。
  • 文献皇后(独孤后)の崩御後は、宣華夫人陳氏と容華夫人蔡氏がともに寵を受けていた。陳氏は陳の高宗の娘、蔡氏は丹楊の人である。
  • 帝が仁寿宮で病臥すると、尚書左僕射の楊素、兵部尚書の柳述、黄門侍郎の元巌がみな閤内に入って看病し、皇太子は召されて大宝殿に入って起居した。太子は万一に備えておく必要を思い、自筆の書を封じて出して楊素に問い、楊素は事の次第を箇条書きにして返答したが、宮人が誤って帝のもとへ届けてしまい、帝は読んで激怒した。
  • 陳夫人が明け方に着替えのため出たところ太子に迫られ、拒んで逃れて帝のもとに戻った。帝がその様子を怪しんで理由を問うと、夫人は涙を流して「太子が無礼を働きました」と言った。帝は寝台を叩いて「畜生めに大事を託せるか。独孤が私を誤らせた」と憤り、柳述と元巌を呼んで「わが子を召せ」と命じた。柳述らが太子を呼ぼうとすると、帝は「勇だ」と言った。柳述と元巌は閤を出て勅書を作った。
  • 楊素はこれを聞いて太子に告げ、太子は詔を偽って柳述と元巌を捕らえて大理の獄に繋ぎ、東宮の兵士を呼び寄せて宮城の宿衛に配し、門の出入りはすべて宇文述と郭衍の指図によることとし、右庶子の張衡を寝殿に入れて看病させ、後宮の者はすべて別室に出した。まもなく帝が崩じ、そのため内外に異論が絶えなかった。
  • 陳夫人と後宮の者は変事を聞いて顔を見合わせ、震えて色を失った。夕刻、太子が使者に小さな金の箱を持たせ、封じ目に紙を貼って自ら「封」の字を署して夫人に賜った。夫人は鴆毒かと恐れて開けられず、使者に促されて開けると、中には同心結が数枚入っていた。宮人はみな喜び「死は免れた」と言い合った。陳氏は憤って座を退き礼を言おうとしなかったが、宮人たちに迫られて使者に拝した。その夜、太子は陳氏を犯した。
  • 乙卯、喪を発し、太子が即位した(煬帝)。ちょうど伊州刺史の楊約が来朝しており、煬帝は楊約を長安に入れて留守の者を入れ替えさせ、高祖の詔と偽って廃太子勇に死を賜い、縊り殺した。そのうえで兵を並べ人を集めて高祖の凶事を発表した。煬帝はこれを聞いて「兄上の弟は、やはり大任に堪える」と言った。勇を房陵王に追封したが、嗣は立てなかった。

仁寿四年――漢王諒の挙兵

  • 漢王諒は高祖の寵を受け并州総管となり、山(太行山)の東から滄海に至り、南は黄河に接する五十二州を管轄した。特に便宜の処置を許され、律令に拘束されなかった。
  • 諒は自らの任地が天下の精兵の地であることを恃み、太子勇が讒言で廃されたのを見て常々鬱屈していた。蜀王秀が罪を得るとますます不安になり、ひそかに異図を抱いた。突厥が強盛だから武備を整えるべきだと高祖に説き、大々的に工役を起こして武器を修理し、亡命者を集め、私的な側近は数万に達した。
  • 突厥が辺境を侵したとき、高祖は諒に防がせたが突厥に敗れ、麾下の将帥で解任された者が八十余人、みな嶺表の守備に配された。諒は彼らが旧知であることを理由に留任を奏請した。高祖は怒って「お前は藩王として朝命を敬い従うべきなのに、私的な旧誼を論じて国家の法を廃するとは何事か。ああ小僧め、ひとたび私がいなくなって妄動しようものなら、彼らはお前を籠の中の雛のように扱う。腹心など何の役に立つか」と言った。
  • 王頍は王僧弁の子で、豪放で奇策を好み、諒の諮議参軍となった。蕭摩訶は陳の旧将である。二人とも志を得ず、常々鬱屈して乱を望んでおり、諒に親しまれてその陰謀を助けた。
  • 折しも熒惑(火星)が東井に留まった。儀曹の鄴の人の傅弈は星暦に通じており、諒が「これは何の兆しか」と問うと、「天上の東井は黄道の通り道です。熒惑が通るのは道理どおり。もし地上の井戸に入ったなら怪異でしょうが」と答えた。諒は不快に思った。
  • 高祖が崩じると、煬帝は車騎将軍の屈突通に高祖の璽書を持たせて諒を召した。これに先立ち、高祖は諒とひそかに、璽書で召す際は「敕」の字の傍らに点を一つ加え、玉麟符と合致すれば応じるよう約束していた。書を開いてもその印がなかったので、諒は変事を知り屈突通を詰問した。屈突通は答えて屈しなかったので、長安に帰らせ、諒はついに挙兵して反乱を起こした。
  • 総管司馬の安定の皇甫誕が強く諫めたが諒は容れなかった。皇甫誕は涙を流して「大王の兵力は京師の敵ではありません。加えて君臣の位は定まり、順逆の勢いは違います。兵馬が精鋭でも勝ちがたい。ひとたび叛逆の身となれば刑書にかかり、庶民に戻ろうとしてもできません」と言った。諒は怒って幽閉した。
  • 嵐州刺史の喬鍾葵が諒のもとに赴こうとすると、司馬の京兆の陶模が阻んで「漢王の企ては不軌です。公は国の厚恩を受け方伯の位にある。誠を尽くして命を捧げるべきで、どうして自ら禍の階段となるのですか」と言った。喬鍾葵は色を失って「司馬は謀反するのか」と兵で脅したが、陶模の口調は屈しなかった。喬鍾葵はその義を認めて釈放しようとしたが、軍吏が「陶模を斬らねば衆心を抑えられません」と言うので、幽閉した。
  • こうして諒に従って叛いた州は十九州に及んだ。
  • 王頍は諒に説いた。王の部下の将吏の家族はみな関西にいます。この者たちを用いるなら長駆深入して直ちに京都を押さえるべきで、いわゆる疾雷は耳を掩うに及ばずです。もし旧斉の地に割拠するだけなら、東方の人を用いるべきです、と。諒は決しかね、両策を併用した。楊素が謀反したのでこれを誅すると唱えた。
  • 総管府兵曹の聞喜の裴文安が説いた。井陘以西は王の掌中にあり、山東の兵馬も我らのもの。これを全て動員し、弱兵を分けて要害を守らせ、各方面に地を略させたうえ、精鋭を率いて直ちに蒲津に入るべきです。私が先鋒を務め、王が大軍で続けば、風のごとく雷のごとく進んで霸上に至り、咸陽以東は指図するだけで平定できます。京師は動揺して兵を集める暇もなく、上下は疑い合い群情は離れましょう。そこで兵を並べて号令すれば、誰が従わぬでしょうか。十日のうちに事は定まります、と。諒は大いに喜んだ。
  • そこで自ら任じた大将軍の余公理を太谷から河陽へ、大将軍の綦良を滏口から黎陽へ、大将軍の劉建を井陘から燕趙略取へ、柱国の喬鍾葵を雁門へ向かわせ、裴文安を柱国として柱国の紇単貴・王聃らとともに直接京師を指させた。
  • 煬帝は右武衛将軍の洛陽の丘和を蒲州刺史として蒲津に鎮させた。諒は精鋭数百騎を選び、面覆いを着けて諒の宮人と偽って長安に帰るふりをさせ、門番も気づかぬまま蒲州に入城させた。城中には呼応する豪傑もいた。丘和は異変に気づいて城を越えて長安に逃げ帰った。蒲州長史の勃海の高義明と司馬の北平の栄毗はいずれも捕らえられた。
  • 裴文安らが蒲津まで百余里に迫ったとき、諒は突然方針を変え、紇単貴に河橋を断たせて蒲州を守らせ、裴文安を呼び戻した。裴文安は戻って諒に「兵機は詭道と迅速を旨とし、もともと不意を突く策でした。王も行かれず私も戻されては、向こうの備えが整い大事は去ります」と言ったが、諒は答えなかった。王聃を蒲州刺史、裴文安を晋州刺史、薛粋を絳州刺史、梁菩薩を潞州刺史、韋道正を韓州刺史、張伯英を沢州刺史とした。
  • 代州総管の天水の李景が兵を出して諒を防いだ。諒は将の劉暠に李景を襲わせたが、李景が撃ち斬った。諒はさらに喬鍾葵に精兵三万で攻めさせた。李景の戦士は数千に過ぎず、城壁も堅固でなく、次々と崩されたが、李景は戦いながら築いて士卒はみな死を賭して戦い、喬鍾葵はしばしば敗れた。司馬の馮孝慈と司法の呂玉はともに驍勇で戦上手、儀同三司の侯莫陳乂は謀略と防守の術に長けていた。李景はこの三人が使えると見て、誠意をもって任せ、自分は関与せず、閤内で重厚に構えて時折兵を慰撫するだけだった。
  • 楊素は軽騎五千で王聃と紇単貴を蒲州に襲った。夜に黄河のほとりに至り、商人の船数百艘を集め、船内に草を敷き詰めて音を消し、枚を銜んで渡った。夜明けに攻撃すると紇単貴は敗走し、王聃は恐れて城ごと降った。楊素を召し返す詔が下った。当初、楊素は出立にあたって賊を破る日数を計算しており、すべてその見積もりどおりだった。そこで楊素を并州道行軍総管・河北道安撫大使として数万の兵を率いて諒を討たせた。
  • 諒の挙兵の当初、妃の兄の豆盧毓は府の主簿で、苦諫したが容れられなかった。ひそかに弟の懿に「私が馬一頭で朝廷に帰れば禍は免れるが、それは身の計であって国のためではない。しばらく偽って従い、機をうかがうに越したことはない」と語った。豆盧毓は豆盧勣の子である。
  • 豆盧毓の兄で顕州刺史の豆盧賢が煬帝に「弟の毓は日ごろ志節を抱いており、必ず乱に従いません。ただ凶威に迫られて思うようにできぬだけです。従軍して毓と内外呼応させてください。諒は図るに足りません」と言い、煬帝は許した。豆盧賢はひそかに家人に勅書を持たせて毓のもとに送り、計を議させた。
  • 諒が城を出て介州に向かうとき、豆盧毓と総管属の朱涛に留守を命じた。毓は朱涛に「漢王は逆を構えたが、敗北は目前だ。我らが座して族滅され家国に背いてよいものか。君とともに兵を出して防ごう」と言った。朱涛は驚いて「王は大事を託されたのに、なぜそんなことを言うのか」と言い、袖を払って去ろうとしたので、毓は追って斬った。皇甫誕を獄から出して協力させ、開府儀同三司の宿勤武らとともに城門を閉じて諒を拒んだ。
  • 配置が定まらぬうちに諒に通報する者があり、諒は襲撃した。毓は諒の到着を見て、衆を欺いて「これは賊軍だ」と言った。諒が城の南門を攻めると、南城を守る稽胡は諒と気づかず射かけ、矢が雨のように降った。諒が西門に移ると、守兵は諒と知って門を開いて迎え入れ、豆盧毓と皇甫誕はともに死んだ。
  • 綦良は慈州刺史の上官政を攻めたが落とせず、兵を転じて行相州事の薛冑を攻めたがこれも落とせず、滏口から黎州を攻め白馬津を塞いだ。余公理は太行山から河内に下った。
  • 煬帝は右衛将軍の史祥を行軍総管として河陰に駐屯させた。史祥は軍吏に「余公理は軽率で無謀、兵の多さを恃んで驕っている。破るに足りぬ」と言った。余公理が河陽に駐屯すると、史祥は南岸に船を並べ、余公理が兵を集めて対峙したところ、精鋭を選んで下流からひそかに渡った。余公理はこれを聞いて兵を率いて防ぎ、須水で戦ったが、隊列を整える前に史祥が攻めかかって大敗した。史祥が東に黎陽へ向かうと、綦良の軍は戦わずして潰えた。史祥は史寧の子である。
  • 煬帝は幽州の兵を動員しようとしたが、幽州総管の竇抗に二心があるのを疑い、楊素に竇抗を捕らえられる者を尋ねた。楊素は前江州刺史の勃海の李子雄を推し、上大将軍を授けて広州刺史とした。また左領軍将軍の長孫晟を相州刺史として山東の兵を動員し、李子雄とともに経略させた。長孫晟は子の行布が諒の管轄下にいることを理由に辞退したが、煬帝は「公の国を思う心は深く、子のために義を害しはすまい。今、卿に委ねる。辞退するな」と言った。
  • 李子雄は幽州に馳せ、宿舎に留まって募兵し千余人を得た。竇抗が李子雄のもとに来ると、伏兵を置いて捕らえた。竇抗は竇栄定の子である。李子雄は幽州の歩騎三万を動員し、井陘から西進して諒を撃った。ときに劉建が井陘で戍将の京兆の張祥を囲んでいたが、李子雄は抱犢山の下で劉建を破り、劉建は逃走した。
  • 李景が囲まれて一月余、詔で朔州刺史の代の人の楊義臣に救援させた。楊義臣は歩騎二万を率いて夜に西陘を出た。喬鍾葵は全軍で防いだ。楊義臣は自軍が少ないため、軍中の牛驢を集めて数千頭を得、兵数百人に太鼓を一つずつ持たせてひそかに追い立て、谷間に隠しておいた。夕刻、楊義臣が再び喬鍾葵と交戦し、兵が接するや牛驢を駆る者に急進させ、一斉に太鼓を鳴らさせた。土煙が空を覆い、喬鍾葵の軍は伏兵が現れたと思って潰走した。楊義臣は追撃して大破した。
  • 晋・絳・呂の三州は諒のために城を守っていたが、楊素は各々二千人を当てて牽制し、先へ進んだ。
  • 諒は将の趙子開に十余万を率いさせ、柵で道を絶ち高璧に拠って五十里に陣を布かせた。楊素は諸将に正面から当たらせ、自らは奇兵を率いてひそかに霍山に入り、崖と谷を伝って進んだ。楊素は谷口に営を構え、自分は営外に座って、軍司に営に入って三百人を残して守らせよと命じた。兵は北軍の強さを恐れて出撃を嫌い、多くが留守を望んだので手間取った。楊素が理由を問うと軍司がありのまま答えたので、楊素はその残留予定の三百人を呼び出してことごとく斬った。改めて選ばせると、誰も残留を望まなかった。楊素は軍を率いて疾駆し、北軍の背後に回って直接その営を突き、太鼓を鳴らして火を放った。北軍は対処できず互いに踏みつけ合い、死傷数万に及んだ。
  • 諒が任じた介州刺史の梁脩羅は介休に駐屯していたが、楊素来襲を聞いて城を捨てて逃げた。
  • 諒は趙子開の敗報に大いに恐れ、自ら十万近い兵を率いて蒿沢で楊素に対峙した。折しも大雨となり、諒は軍を退こうとした。王頍が「楊素は孤軍で深入りし、兵馬は疲弊しています。王が精鋭を自ら率いて撃てば必ず勝てます。今、敵を目前に退けば、人に怯えを示して戦士の心をくじき、西軍の気を高めるだけです。どうかお退きになりませぬよう」と諫めたが、諒は従わず、清源まで退いて守った。王頍は子に「気配がまるでよくない。必ず敗れる。お前は私についてこい」と言った。
  • 楊素が進撃して諒を大破し、蕭摩訶を捕らえた。諒は晋陽に退いて守り、楊素は進んで包囲した。諒は窮して降伏を請い、残党もすべて平定された。煬帝は楊約に自筆の詔を持たせて楊素を労った。
  • 王頍は突厥へ逃れようとしたが、山中で道が絶え、逃れられぬと悟って子に「私の計略は楊素に劣らなかった。ただ進言が容れられなかったためにここに至った。座して捕らえられ小僧の名を成さしめるわけにはいかぬ。私の死後、決して知人のもとを訪ねるな」と言い、自殺した。子は石窟の中に埋めたが、数日食を得られず、ついに父の旧知を訪ねて捕らえられ、王頍の屍も掘り出されて晋陽で梟された。
  • 群臣は漢王諒を死罪とすべきだと奏したが、煬帝は許さず、除名して庶民とし、属籍から外した。諒は結局、幽閉のうちに死んだ。諒の管轄下の官民で、諒に連坐して死罪や流刑になった者は二十余万家に及んだ。
  • もと高祖と独孤后は互いに深く愛し敬い、他の女に子を産ませぬと誓っていた。高祖はかつて群臣に「前世の天子は寵姫に溺れ、嫡庶が争って廃立に至り、国を滅ぼすことさえあった。朕には側室の侍女もなく、五子は同母で真の兄弟といえる。そんな憂いがあろうか」と言った。また北周の諸王が弱体だったのを戒めとして、諸子を大鎮に分封して方面を専制させ、権勢は帝室に匹敵した。しかし晩年には父子兄弟が互いに猜疑し、五子はみな天寿を全うできなかった。

史論(臣光曰)

  • 昔、辛伯が周の桓公を諫めて、内寵が后と並び、外寵が政を二分し、寵子が嫡子と並び、大都市が国都に匹敵することは乱の本だと述べた。人主がこの四つを慎めば、乱はどこから生じようか。
  • 隋の高祖は嫡庶が多ければ争い、孤立すれば揺らぎやすいことだけを知り、勢力が均しく位が迫れば、同腹の至親であっても互いに奪い合わずにはいられないことを知らなかった。辛伯の言に照らせば、その一を得て三を失ったというべきである。