通鑑紀事本末魏、柔然を伐つ(魏伐柔然)

柔然が漠北に興って北魏と対峙し、突厥に滅ぼされるまでの百六十余年を追う。社崙が漠北を統一して可汗を号してから、大檀・吐賀真らが代々魏の北辺を侵し、魏の太武帝は崔浩の策を容れて栗水で大勝し、三十余万落を降して柔然を衰えさせた。のち高車の離反で弱まったが伏跋のとき再び強盛となり、阿那瓌は魏に亡命ののち帰国して東西両魏の争奪する外交相手となった。最後は突厥の土門・木杆に破られ、西魏に逃れた鄧叔子ら三千余人が長安で殺されて滅んだ。

年表(29件)
  • 晉武帝
  • 太元十六年391年魏王拓跋珪が三日分の糧で柔然を追い、牀山の下で大破する
  • 安帝
  • 元興元年402年社崙が漠北で諸部を併せ、豆代可汗を号して軍法を定める
  • 六年410年魏主が北征し、社崙は逃げる途中で死んで斛律が立つ
  • 十年414年大檀が歩鹿真を殺して牟汗紇升蓋可汗を号する
  • 宋營陽王
  • 景平元年423年魏が赤城から五原まで二千余里の長城を築いて備える
  • 文帝
  • 元嘉元年424年大檀が六万騎で雲中を侵し、魏の世祖を五十余重に囲む
  • 二年425年魏主が五道から大挙して漠を渡り、柔然は跡を絶って北へ逃げる
  • 六年429年崔浩の策で栗水を襲い、三十余万落が降って戎馬百余万を獲る
  • 十一年434年魏主が西海公主を敕連可汗に嫁がせ、和親が成る
  • 十三年436年柔然が和親を絶って魏の辺を犯す
  • 二十年443年鹿渾谷で敕連可汗に遭うが劉絜の諫めで撃たず、取り逃がす
  • 二十一年444年矯詔が露見して劉絜が三族を滅ぼされ、吐賀真が処羅可汗となる
  • 二十六年449年高涼王那が処羅を追って輜重を奪い、柔然は衰えて魏塞を犯さなくなる
  • 明帝
  • 泰始六年470年魏主が親征して女水で五万級を斬り、十九日で六千余里を往復する
  • 五年487年高車の阿伏至羅が伏名敦に叛いて西へ走り、自ら王に立つ
  • 十年492年国人が伏名敦を殺して那蓋を立て、候其伏代庫者可汗と号する
  • 梁武帝
  • 天監三年504年源懐が北辺に東西九城を築いて柔然に備える策を上表する
  • 十五年516年伏跋可汗が高車王彌俄突を殺し、その頭に漆を塗って器とする
  • 普通元年520年内乱で阿那瓌が魏に亡命し、朔方公・蠕蠕王に立てられる
  • 二年521年魏が阿那瓌を送り返そうとするが、婆羅門が可汗に立って果たせない
  • 四年523年阿那瓌が元孚を拘留して南下し掠奪、李崇が十万騎で追うが及ばない
  • 六年525年阿那瓌が魏のため破六韓抜陵を討ち、敕連頭兵豆伐可汗を自称する
  • 大同元年535年頭兵可汗が東魏に婚を求め、高歓が蘭陵公主を嫁がせる
  • 四年538年西魏が乙弗后を廃して頭兵の娘を悼后に迎える
  • 六年540年柔然の南侵に際し、西魏の文帝が乙弗后に自尽を賜う
  • 十一年545年高歓が自ら頭兵の娘を娶り、蠕蠕公主と号する
  • 元帝
  • 承聖元年552年突厥の土門が柔然を大破し、頭兵可汗が自殺する
  • 三年554年斉主が菴羅辰を黄瓜堆に破り、三万余口を虜とする
  • 敬帝
  • 紹泰元年555年突厥の木杆が鄧叔子を滅ぼし、西魏が亡命者三千余人を殺す

晉武帝太元十六年(391年)

  • はじめ柔然の部人は代々代(拓跋氏)に服していた。その大人の郁久閭地粟袁が没すると部落は二つに分かれ、長子の匹候跋が父を継いで東辺に居り、次子の緼紇提が別に西辺に居た。秦王苻堅が代を滅ぼすと、柔然は劉衛辰に付いた。
  • 魏王拓跋珪が即位して高車など諸部を攻撃すると、おおむねみな服従したが、柔然だけが魏に仕えなかった。戊戌、珪が兵を率いて撃つと、柔然は部を挙げて逃げた。珪は六百里追った。諸将は張衮を通じて珪に「賊は遠く、糧は尽きました。早く還るにしくはありません」と言った。珪は諸将に「副馬(予備の馬)を殺して三日分の食とすれば足りるか」と問い、みな「足ります」と答えた。そこでまた道を倍して追い、大磧の南、牀山の下で追いついて大破し、その半分の部を捕らえた。匹候跋と別部の帥屋撃はそれぞれ残った衆を収めて逃げた。珪は長孫嵩と長孫肥を遣わして追わせた。
  • 珪は将佐に「卿らはさきに私が三日分の糧と問うた意が分かるか」と言った。「分かりません」と答えると、珪は「柔然は家畜を駆り立てて逃げ、数日で水に着けば必ず留まる。私が軽騎で追えば、道のりを計って三日を過ぎずして追いつく」と言い、みな「及びもつきません」と言った。
  • 嵩は平望川で屋撃を追って斬り、肥は涿邪山まで匹候跋を追った。匹候跋は衆を挙げて降った。緼紇提の子の曷多汗、兄の子の社崙・斛律ら宗党数百人を捕らえた。緼紇提が劉衛辰のもとへ逃げようとしたが、珪が追いついて緼紇提も降った。珪はその部衆をことごとく雲中に移した。

十九年(394年)

  • 冬十月、柔然の曷多汗がその父を棄て、社崙と衆を率いて西へ逃げた。魏の長孫肥が追い、上郡の跋那山で追いついて曷多汗を斬った。社崙は残った衆数百を収めて匹候跋のもとへ逃げ、匹候跋は南の辺に置いた。社崙は匹候跋を襲って殺し、匹候跋の子の啓跋・呉頡らはみな魏へ逃げた。社崙は五原以西の諸部を掠め、漠北へ逃げ渡った。

安帝元興元年(402年)

  • 春正月戊子、魏の材官将軍和突が黜弗・素古延ら諸部を攻めて破った。
  • はじめ魏主珪は北部大人賀狄干に馬千匹を献じて秦に婚を求めさせたが、秦王姚興は珪がすでに慕容后を立てたと聞いて狄干を留め置き婚を断った。沒弈干・黜弗・素古延はみな秦の属国だったのに魏が攻めた。これで秦と魏に隙が生じた。
  • 庚寅、珪が士馬を大閲し、并州の諸郡に平陽の乾壁に穀を積ませて秦に備えた。柔然の社崙はちょうど秦と親しく、将を遣わして黜弗・素古延を救わせた。辛卯、和突が迎え撃って大破した。
  • 社崙はその部落を率いて遠く漠北に遁れ、高車の地を奪って住んだ。斛律部の帥の倍侯利が社崙を撃ったが大敗し、倍侯利は魏へ逃げた。社崙はそこで西北の匈奴の遺種である日抜也鶏を撃って大破し、そのまま諸部を呑併して士馬は繁盛し、北方に雄となった。その地は西は焉耆に至り、東は朝鮮に接し、南は大漠に臨み、周囲の小国はみな羈属した。豆代可汗を自号し、初めて約束を立て、千人を一軍とし、軍には将を置き、百人を一幢として幢には帥を置いた。攻戦で先登した者には獲た捕虜を賜り、怯えた者は石でその頭を撃って殺した。
  • 十二月、柔然の可汗社崙は珪が秦を伐つと聞き、参合陂から魏を侵し、豺山および善無の北の沢に至った。魏の常山王拓跋遵が一万騎で追ったが、追いつかずに還った。

三年(404年)

  • 夏四月、柔然の可汗社崙の従弟の悦代大郍が社崙を殺そうと謀って果たせず、魏へ逃げた。

義熙二年(406年)

  • 夏四月、柔然の社崙が魏の辺を侵した。

五年(409年)

  • 十二月、柔然が魏を侵した。

六年(410年)

  • 春正月、魏の長孫嵩が兵を率いて柔然を伐った。
  • 夏五月、長孫嵩は漠北に至って還った。柔然が追って牛川で囲んだ。壬申、魏主拓跋嗣が北して柔然を撃った。可汗社崙はこれを聞いて逃げ、道中で死んだ。その子の度跋はまだ幼く、部衆は社崙の弟の斛律を立てて藹苦蓋可汗と号した。嗣は兵を引いて参合陂に還った。

十年(414年)

  • はじめ社崙が高車を移したとき、高車の人の叱洛侯が道案内をして諸部を併せた。社崙はこれを徳として大人とした。歩鹿真が社崙の子の社跋とともに叱洛侯の家に至り、その若い妻と通じた。妻は歩鹿真に「叱洛侯は大檀を主に奉じようとしている」と告げた。大檀とは社崙の季父の僕渾の子で、別部を領して西境に鎮し、日ごろ衆心を得ていた。
  • 歩鹿真は帰って兵を発して叱洛侯を囲み、叱洛侯は自殺した。そのまま兵を率いて大檀を襲ったが、大檀は迎え撃って破り、歩鹿真と社跋を捕らえて殺し、自ら可汗に立って牟汗紇升蓋可汗と号した。
  • 斛律は和竜に至った。燕王馮跋は斛律に上谷侯の爵を賜って遼東に住まわせ、客の礼で遇し、その娘を納れて昭儀とした。斛律が上書して帰国を請うと、跋は「今、国を棄てて万里の彼方におり、また内応もない。重兵で送れば糧の輸送が続かず、兵が少なければ功を成すに足りぬ。どうして還れようか」と言った。斛律は固く請うて「重兵を煩わすには及びません。三百騎を給わって敕勒まで送ってくだされば、国人は必ず喜んで迎えに来ます」と言った。跋はそこで単于前輔の万陵に騎三百を率いて送らせた。陵は遠征を憚り、黒山で斛律を殺して還った。大檀もまた使者を遣わして馬三千匹と羊一万口を燕に献じた。
  • 十二月丙戌朔、柔然の可汗大檀が魏を侵した。丙申、魏主嗣が北してこれを撃った。大檀は逃げ、奚斤らを遣わして追わせたが、大雪に遭って士卒で凍死する者と指を失う者が十のうち二、三に及んだ。

宋營陽王景平元年(423年)

  • 春正月、柔然が魏の辺を侵した。二月戊辰、魏が長城を築いた。赤城から西の五原まで延々二千余里、戍卒を配置して柔然に備えた。
  • 八月、柔然が河西を侵した。河西王沮渠蒙遜が世子の沮渠政徳に撃たせたが、政徳は軽騎で進み戦って柔然に殺された。

文帝元嘉元年(424年)

  • 秋八月、柔然の紇升蓋可汗が魏の太宗の崩御を聞き、六万騎を率いて雲中に入り、吏民を殺し掠め、盛楽宮を攻め落とした。魏の世祖は自ら軽騎を率いて討ち、三日二夜で雲中に至った。紇升蓋は騎を率いて魏主を五十余重に囲み、騎兵が馬首を突き合わせて並び、垣のようだった。将士は大いに恐れたが、魏主は顔色が自若としていたので、衆情はようやく安んじた。紇升蓋は弟の子の於陟斤を大将としていたが、魏人が射殺した。紇升蓋は恐れて遁げ去った。
  • 尚書令劉絜が魏主に「大檀はその衆を恃んで必ずまた来ます。田の収穫が済むのを待って大々的に兵を発し、二道から東西に並び進んで討たれますよう」と言い、魏主は然りとした。
  • 十二月、魏主は安集将軍長孫翰と安北将軍尉眷に北して柔然を撃たせ、自ら祚山に屯した。柔然は北に遁げ、諸軍が追って大いに獲て還った。翰は長孫肥の子である。

二年(425年)

  • 冬十月癸卯、魏主が大挙して柔然を伐った。五道から並び進み、長孫翰らが東道から黒漠へ出、廷尉卿長孫道生らが白漠・黒漠の間へ出、魏主は中道、東平公娥清が栗園へ、奚斤らが西道から爾寒山へ出た。諸軍は漠南に至って輜重を捨て、軽騎で十五日分の糧を携えて漠を渡って撃った。柔然の部落は大いに驚き、跡を絶って北へ逃げた。

四年(427年)

  • 夏五月、魏主は龍驤将軍である代人の陸俟に諸軍を督して大磧に鎮させ、柔然に備えた。
  • 秋七月、柔然が雲中を侵したが、魏がすでに統万を落としたと聞いて遁げ去った。

五年(428年)

  • 秋八月、魏主が広寧に行って温泉を観た。柔然の紇升蓋可汗が子に一万余騎を率いさせて魏の辺を侵した。魏主は広寧から還って追ったが追いつかなかった。

六年(429年)

  • 夏四月、魏主が柔然を撃とうとして南郊で兵を整え、まず天を祭ってから行陣を配置した。内外の群臣はみな行くのを望まず、保太后も固く止めた。ただ崔浩だけが勧めた。
  • 尚書令劉絜らはそろって太史令張淵と徐辯を推して魏主に言わせた。「今年は己巳、三陰の歳です。歳星が月を襲い、太白が西方にあります。兵を挙げて北伐すべきではなく、必ず敗れます。勝っても上に不利です」。群臣はそれに乗じてそろって賛成し、「淵らは若い頃、苻堅の南伐を諫めました。堅は従わずに敗れました。その言に中らぬものはありません。違えてはなりません」と言った。
  • 魏主は意に快からず、詔で浩と淵・辯に御前で論難させた。浩が淵と辯を詰った。「陽は徳、陰は刑である。ゆえに日食には徳を修め、月食には刑を修める。そもそも王者が刑を用いるのに、小なら市朝に晒し、大なら原野に陳ねる。今、兵を出して罪ある者を討つのは、まさに刑を修めるものだ。臣がひそかに天文を観るに、近年来、月の運行が昴を掩い、今もなおそうである。その占は三年のうちに天子が旄頭の国を大破するというもの。蠕蠕と高車は旄頭の衆である。陛下、お疑いなさいますな」。
  • 淵と辯はまた「蠕蠕は荒外の無用の物です。その地を得ても耕して食えず、その民を得ても臣として使えません。軽捷で定まりなく、制しがたい。何を急いで士馬を労して伐つのですか」と言った。
  • 浩は言った。「淵と辯が天道を言うのはなおその職である。人事と形勢に至っては、まったく知るところではない。これは漢代の常談であって、今日に施しても事宜にまるで合わぬ。なぜか。蠕蠕はもと国家の北辺の臣で、途中で叛き去った。今その元凶を誅してその良民を収め、旧の役に復させるのだから、無用ではない。世人はみな淵と辯が数術に通じ成敗を明らかに決すると言う。臣は試みに問いたい。先ごろ統万がまだ亡ぶ前に、敗れる兆しはあったのか、なかったのか。知らなかったのなら術がないということ。知っていて言わなかったのなら忠でないということだ」。
  • 当時、赫連昌が座にいた。淵らは何も言った覚えがなく、恥じて答えられなかった。魏主は大いに喜んだ。
  • 議が終わってから、公卿のある者が浩を咎めて「今、南の敵が国の隙をうかがっているのに、それを捨てて北伐する。もし蠕蠕が遠く遁げ、前に獲るものがなく後ろに強敵があれば、どうするのか」と言った。
  • 浩は答えた。「そうではない。今、先に蠕蠕を破らねば南の敵に当たれぬ。南の人は国家が統万を落として以来、内心恐れており、ゆえに声を張り衆を動かして淮北を衛っているのだ。私が蠕蠕を破って往還する間に、南の敵は必ず動かぬ。それに彼は歩兵、我は騎兵。彼が北へ来られるなら我も南へ行ける。彼にとっては甚だ困難でも、我にとっては労とならぬ。まして南北は俗を異にし、水と陸で宜しきが異なる。かりに国家が河南を彼に与えても、彼はやはり守れまい。なぜそう言えるか。劉裕ほどの雄傑が関中を呑併し、愛子を留めて良将と精兵数万で輔けさせても守れず、全軍が覆没して、号哭の声は今なお止まぬ。まして義隆の今日の君臣は裕の時の比ではない。主上は英武で士馬は精強である。彼が本当に来るなら、虎狼を〔羊に当てる〕ようなもの。何を恐れることがあろう。 蠕蠕はその遥かな遠さを恃み、国家の力では制せられぬと思って、長らく気を緩めている。ゆえに夏は衆を散らして家畜を放ち、秋に肥えて集まり、寒を背にして温に向かい、南へ来て掠奪する。今その不備を掩えば、必ず塵を望んで驚き散る。牡馬は牝を護り、牝馬は駒を恋うて、駆り立てても制しがたい。水草を得られねば数日を過ぎずして必ず集まって困憊する。一挙に滅ぼせる。しばらくの労で永く逸せるのだ。時は失えぬ。憂うべきは上にその意がないことだが、今、上の意はすでに決まっている。どうして止められよう」。
  • 寇謙之が浩に「蠕蠕は本当に勝てるか」と問うた。浩は「必ず勝てる。ただ諸将が細かいことにこだわって前後を顧慮し、勝ちに乗じて深入りできず、全きを挙げられぬのを恐れるだけだ」と答えた。
  • これに先立ち、帝(宋の文帝)は魏の使者が還るのに託して魏主に「お前は急いで我が河南の地を返せ。さもなくば我が将士の力を尽くすことになる」と告げていた。魏主はまさに柔然討伐を議しているところで、これを聞いて大笑し、公卿に「亀や鼈のような小僧が、自らを救うのにも手一杯なのに、何ができようか。かりに来られるとしても、先に蠕蠕を滅ぼさねば、それこそ座して敵の到来を待ち腹背に敵を受けることになる。良策ではない。私の出征は決まった」と言った。
  • 庚寅、魏主が平城を発ち、北平王長孫嵩と広陵公楼伏連に留守させた。魏主は東道から黒山へ向かい、平陽王長孫翰に西道から大娥山へ向かわせ、柔然の本拠で合流することとした。
  • 五月丁未、魏主が漠南に至り、輜重を捨て、軽騎に替え馬を伴わせて柔然を襲撃した。栗水に至ると、柔然の紇升蓋可汗はあらかじめ備えておらず、民も家畜も野に満ちていた。驚き怖れて散り走り、誰も収拾できなかった。紇升蓋は廬舎を焼いて跡を絶って西へ逃げ、行方は知れなかった。その弟の匹黎は先に東部を主どっていたが、魏の敵が来たと聞いて衆を率いて兄のもとへ行こうとし、長孫翰に出会った。翰は迎え撃って大破し、その大人数百人を殺した。
  • 六月、紇升蓋可汗が逃げると部落は四散して山谷に隠れ、雑多な家畜が野に散らばって収める人もなかった。魏主は栗水に沿って西へ行き、菟園水に至って軍を分けて捜索し、東西五千里・南北三千里に及び、捕虜と斬首は甚だ多かった。高車の諸部が魏兵の勢いに乗じて柔然を掠め、柔然の種族で前後に魏に降った者は三十余万落、獲た戎馬は百余万匹、家畜・車・廬は山や沢に満ちて、およそ数百万に及んだ。
  • 魏主は弱水に沿って西へ行き、涿邪山に至った。諸将は深入りして伏兵があるのを慮り、魏主に留まるよう勧めた。寇謙之が崔浩の言を魏主に告げたが、魏主は従わなかった。秋七月、兵を引いて東へ還り、黒山に至って獲たものを差をつけて将士に分け賜った。
  • やがて降人の言によれば、可汗は先に病んでおり、魏兵の到来を聞いてどうしてよいか分からず、穹廬を焼いて車に身を載せ、数百人を率いて南山に入った。民も家畜も追い詰められて六十里四方に集まり、統率する者がなく、〔魏軍とは〕百八十里離れていたが、追兵が至らなかったので、ゆっくり西へ遁げ、これだけが免れたという。のちに涼州の胡商が「もう二日進んでいたらすべて滅ぼせたのに」と言うのを聞き、魏主は深く悔いた。
  • 紇升蓋可汗は憤り塞いで没した。子の呉提が立ち、敕連可汗と号した。
  • 八月、魏主が漠南に至り、高車の東部が已尼陂に屯して人も家畜も甚だ多く、魏軍から千余里の距離だと聞き、左僕射安原らに一万騎で撃たせた。高車の諸部で迎えて降る者は数十万落、獲た馬牛は千百余万に及んだ。
  • 冬十月、魏主が平城に還り、柔然と高車の降附した民を漠南に移した。東は濡源から西は五原・陰山まで三千里の間で耕作牧畜させ、その貢賦を収めた。長孫翰・劉絜・安原および侍中である代人の古弼に共に鎮撫させた。これより魏の民間では馬・牛・羊および氈・皮の値が下がった。魏主は崔浩に侍中・特進・撫軍大将軍を加え、その謀画の功に報いた。

八年(431年)

  • 夏六月、魏の辺吏が柔然の巡邏の者二十余人を捕らえた。魏主は衣服を賜って帰した。柔然は感じ喜んだ。閏月乙未、柔然の敕連可汗が使者を魏に遣わし、魏主は厚く礼遇した。
  • 魏主が漠南に行った。十一月丙辰、北部の敕勒の莫弗庫若干が配下数万騎を率い、鹿数百万頭を駆り立てて魏主の行在に詣でた。魏主は大々的に狩りをして従官に賜った。十二月丁丑、宮に還った。

十一年(434年)

  • 春正月、魏主が西海公主を柔然の敕連可汗に嫁がせ、またその妹を納れて夫人とし、潁川王元提を遣わして迎えさせた。丁卯、敕連は異母兄の禿鹿傀に妹を送らせ、あわせて馬二千匹を献じた。魏主はその妹を左昭儀とした。提は拓跋曜の子である。

十三年(436年)

  • 冬十一月、柔然が魏と和親を絶ち、魏の辺を犯した。

十五年(438年)

  • 夏五月丙申、魏主が五原に行った。秋七月、五原から北して柔然を伐ち、楽平王拓跋丕に十五将を督して東道から、永昌王拓跋健に十五将を督して西道から出させ、魏主自ら中道から出て浚稽山に至った。さらに中道を二つに分け、陳留王拓跋崇に大沢から涿邪山へ向かわせ、魏主は浚稽から北の大山へ向かい、西の白阜に登ったが、柔然を見ずに還った。当時、漠北は大旱魃で水草がなく、人も馬も多く死んだ。

十六年(439年)

  • 魏王が河西を伐ち、六月、大将軍長楽王嵇敬と輔国大将軍建寧王拓跋崇に二万人を漠南に屯させて柔然に備えた。

十九年(442年)

  • 冬十月甲申、柔然が使者を建康に遣わした。

二十年(443年)

  • 九月辛巳、魏主が漠南に行った。甲辰、輜重を捨てて軽騎で柔然を襲い、軍を四道に分けた。楽安王拓跋範と建寧王崇がそれぞれ十五将を統べて東道から、楽平王丕が十五将を督して西道から、魏王が中道から出、中山王拓跋辰が十五将を督して後続とした。
  • 魏主が鹿渾谷に至って敕連可汗に遭遇した。太子晃が魏主に「賊は大軍が突然来るとは思っていません。その不備を掩い、速やかに進撃すべきです」と言った。尚書令劉絜が固く諫めて「賊の営中には塵が盛んに立っており、その衆は必ず多い。平地に出れば囲まれるのを恐れます。諸軍が大集するのを待って撃つにしくはありません」と言った。晃は「塵が盛んなのは軍士が驚き恐れて乱れているからです。どうして営の上にこんな塵が立ちましょう」と言った。魏王は疑って急いで撃たず、柔然は遁げ去った。石水まで追ったが追いつかず還った。
  • やがて柔然の斥候の騎を捕らえたところ、「柔然は魏軍の到来に気づかず、上下は恐れ騒いで衆を率いて北へ走った。六、七日経って追う者がないと知って、ようやくゆっくり行った」と言った。魏主は深く恨んだ。これより軍国の大事はみな太子と謀った。
  • 司馬楚之が別に兵を率いて軍糧を督していた。鎮北将軍封沓が逃げて柔然に降り、柔然に楚之を撃って軍食を絶つよう説いた。ほどなく軍中に驢馬の耳を失ったと告げる者があった。諸将はその理由が分からなかったが、楚之は「これは必ず賊が姦人を営に入れてうかがわせ、驢馬の耳を割いて証としたのだ。賊の到来は遠くない。急ぎ備えるべきだ」と言い、柳を伐って城を作り、水を灌いで凍らせた。城が立つと柔然が至ったが、氷が堅く滑って攻められず、散り走った。

二十一年(444年)

  • 春二月辛未、魏の中山王辰、内都坐大官薛辨、尚書奚眷ら八将が柔然を撃つのに期日に後れた罪で都の南で斬られた。
  • はじめ魏の尚書令劉絜は長く機要を掌り、寵を恃んで専断したので、魏主は内心憎んでいた。柔然を襲おうとしたとき、絜は「蠕蠕は移り住んで定まりがありません。先の出師も労して功なし。広く農を勧め穀を積んでその到来を待つにしくはありません」と諫めた。崔浩が固く魏主に行くよう勧め、魏主は従った。絜は自分の言が用いられなかったのを恥じ、魏軍を敗らせようとした。
  • 魏主は諸将と鹿渾谷で会う期日を約したが、絜は詔を偽ってその期日を変えた。帝が鹿渾谷に至って柔然を撃とうとすると、絜は諫め止めて諸将を待たせた。帝は鹿渾谷に六日留まったが諸将は来ず、柔然はついに遠く遁げ、追っても追いつかなかった。軍が還って漢中を経るとき糧が尽き、士卒に多くの死者が出た。絜はひそかに人に魏軍を驚かせ、帝に軍を委ねて身軽に還るよう勧めさせたが、帝は従わなかった。
  • 絜は軍が出て功がなかったとして崔浩の罪を治めるよう請うた。帝は「諸将が期日を失し、賊に遭って撃たなかったのだ。浩に何の罪があろう」と言った。浩は絜の矯詔の事を帝に告げた。帝は五原に至って絜を捕らえて囚えた。
  • 帝の北行のとき、絜は親しい者に「もし車駕が返らねば、私は楽平王を立てる」と言っていた。絜は尚書右丞張嵩の家に図讖があると聞いて「劉氏が王となって国家の後を継ぐとあるが、私の姓名はあるか」と問うた。嵩は「姓はあるが名はない」と答えた。帝はこれを聞き、有司に徹底追及を命じ、嵩の家を捜索して讖書を得た。事は南康公狄鄰に連なり、絜・嵩・鄰はみな三族を滅ぼされ、死者は百余人に及んだ。
  • 九月丁未、魏主が漠南に行って柔然を襲おうとしたが、敕連可汗が遠く遁げたので取りやめた。敕連はまもなく没し、子の吐賀真が立って処羅可汗と号した。

二十二年(445年)

  • 秋八月、魏主が陰山の北に行った。諸州の兵の三分の二を発し、それぞれの州で戒厳して後の命を待たせた。諸種の雑民五千余家を北辺に移し、北で牧畜させて柔然の餌とした。

二十五年(448年)

  • 秋八月、西域の般悦は平城から一万余里離れているが、使者を魏に遣わし、魏と東西から合わせて柔然を撃ちたいと請うた。魏主は許し、中外を戒厳した。
  • 十二月、魏の太子が行宮に朝し、そのまま柔然討伐に従った。受降城に至ったが柔然を見ず、そこで糧を城内に積み、戍を置いて還った。

二十六年(449年)

  • 春正月戊辰朔、魏主が漠南で群臣を饗した。甲戌、また柔然を伐ち、高涼王拓跋那が東道、略陽王拓跋羯児が西道から出、魏主と太子は涿邪山に出て数千里を行った。柔然の処羅可汗は恐れて遠く遁げた。
  • 九月、魏主が柔然を伐った。高涼王那が東道、略陽王羯児が中道から出た。柔然の処羅可汗は国中の精兵をことごとく挙げて那を数千里にわたって囲んだ。那は塹を掘って堅守し、数日対峙した。処羅がたびたび挑戦したが、その都度那に破られた。那の衆が少ないのに堅守するので大軍が来るのかと疑い、囲みを解いて夜に去った。那が兵を率いて追い、九日九夜に及んだ。処羅はいよいよ恐れて輜重を棄て、穹隆嶺を越えて遠く遁げた。那はその輜重を収めて軍を引いて還り、広沢で魏主と会した。略陽王羯児は柔然の民と家畜九百余万を収めた。
  • これより柔然は衰弱し、跡を隠して魏の塞を犯す勇気がなくなった。冬十二月戊申、魏主が平城に還った。

武帝大明二年(458年)

  • 冬十月甲戌、魏主が北巡して柔然を伐とうとし、陰山に至ったところで雨雪に遭った。魏主が還ろうとすると、太尉尉眷が「今、大衆を動かして北の敵に威を示そうというときに、都からさほど遠くない所で車駕が急に還れば、敵は必ずわれに内難があると疑います。将士は寒くとも、進まぬわけにいきません」と言い、魏主は従った。辛卯、車崙山に陣した。
  • 十一月、魏主が自ら騎十万と車十五万両を率いて柔然を撃った。大漠を渡り、旌旗は千里に連なった。柔然の処羅可汗は遠く遁げ、その別部の烏朱駕頽らが数千落を率いて魏に降った。魏主は石に刻んで功を記して還った。

八年(464年)

  • 秋七月、柔然の処羅可汗が没し、子の于成が立って受羅部真可汗と号し、永康と改元した。部真が衆を率いて魏を侵したが、辛丑、魏の北鎮の遊軍が撃ち破った。

明帝泰始六年(470年)

  • 夏六月、柔然の部真可汗が魏を侵した。魏主が群臣を引いて議した。尚書右僕射南平公目辰は「もし車駕が親征されれば京師は危ぶみ恐れます。慎重に固守するにしくはありません。敵は孤軍で深入りしており、糧運が続かず、久しからずして自ら退きます。将を遣わして追撃すれば必ず破れます」と言った。
  • 給事中張白沢は「愚かな荒外の者がみだりに王の威令を犯しております。もし鑾輿が自ら行かれれば、必ず麾を望んで崩れ敗れましょう。どうして座して敵を放っておけますか。万乗の尊をもって城に籠って自ら守るのは、四夷を威服させる道ではありません」と言った。魏主は従った。白沢は張袞の孫である。
  • 魏主は京兆王元子推らに諸軍を督して西道から、任城王元雲らに東道から出させ、汝陰王元賜らに諸軍を督して前鋒とし、隴西王源賀らに後続とさせ、鎮西将軍呂羅漢らに留台の事を掌らせた。諸将は女水のほとりで魏主と会し、柔然と戦って柔然を大敗させ、勝ちに乗じて追撃し、五万級を斬り、降る者は一万余人、獲た戎馬と器械は数えきれなかった。十九日で六千余里を往復し、女水を武川と改めた。司徒東安王劉尼は酔って軍陣を整えなかった罪で免官された。壬申、平城に還った。
  • 冬十月、柔然が于闐を攻めた。于闐は使者素目伽を遣わして表を奉じて魏に救援を求めた。魏主が公卿に議させると、みな「于闐は京師から幾万里も離れております。蠕蠕は野で掠めることしか知らず城を攻められません。もし攻められるなら、とうに亡んでいましょう。師を遣わそうとしても、勢いとして及ぶところがありません」と言った。魏主が議を使者に示すと、使者もそう思った。そこで詔を下した。「朕はただちに諸軍に敕して汝の難を拯おうとしたが、汝は遥かに遠く隔たり、必ず当時の急を救えぬ。汝はこれを知れ。朕は今、甲を練り士を養い、一、二年のうちに自ら猛将を率いて汝のために患いを除く。汝は謹んで警戒し斥候を修めて大挙を待て」。

七年(471年)

  • 冬十月、詔で太尉源賀に三道の諸軍を都督させて漠南に屯させた。これに先立ち、魏は毎年秋冬に三道から軍を並び出して柔然に備え、春の半ばに還っていた。賀は往来の疲労で長くは支えられぬとして、諸州鎮の武健な者三万余人を募り、三城を築いて住まわせ、冬は講武し春は耕種させるよう請うたが、従われなかった。

泰豫元年(472年)

  • 春二月、柔然が魏を侵した。上皇(献文帝)が将を遣わして撃つと柔然は逃げた。東部の敕勒が叛いて柔然に奔り、上皇が自ら追って石磧まで至ったが追いつかずに還った。
  • 秋七月、柔然の部帥無盧真が三万騎で魏の敦煌を侵した。鎮将尉多侯が撃退した。多侯は尉眷の子である。また晉昌を侵したが、守将薛奴が撃退した。
  • 冬十月、柔然が魏を侵して五原に及んだ。十一月、上皇が自ら討ち、漠を渡ろうとすると柔然は北へ数千里逃げ、上皇はそこで還った。

蒼梧王元徽元年(473年)

  • 十二月壬子、柔然が魏の柔玄鎮を侵し、二部の敕勒が呼応した。

二年(474年)

  • 夏五月、柔然が使者を送って聘問した。
  • 秋七月癸巳、柔然が魏の敦煌を侵し、尉多侯が撃ち破った。尚書が「敦煌は僻遠で西北の二つの強敵の間に介在しており、自ら固められぬのを恐れます。内へ移して涼州に就けたい」と奏した。群臣が集まって議し、みなそう思った。
  • 給事中である昌黎の韓秀だけが反対した。「敦煌が置かれてすでに久しい。強敵に迫られていても、人は戦闘に慣れており、たとえ掠奪があっても大害にはなりません。常のとおり戍を置けば自ら全うするに足り、しかも西北の二虜を隔てて互いに通じさせぬことができます。今、移して涼州に就ければ、国を縮めたという名を負うだけでなく、姑臧は敦煌から千余里あって巡邏が甚だ難しく、二虜は必ず互いに通じて隙をうかがう志を抱きます。もし涼州を騒がせれば関中も枕を高くできません。また士民は土地に安んじて移住を重んずるもの。外の敵を招き入れて国の深い患いとなるのを慮らぬわけにいきません」。そこで取りやめた。

斉高帝建元元年(479年)

  • 上が宋を輔けていた頃、驍騎将軍王洪範を柔然に遣わして共に魏を攻める約を結ばせた。洪範は蜀から出て吐谷渾を経、西域を歴てようやく到達した。ここに至って柔然の十余万騎が魏を侵し、塞上まで来て還った。

三年(481年)

  • 秋七月、柔然の別帥他稽が衆を率いて魏に降った。
  • 九月辛未、柔然主が使者を送って聘問した。上への書で上を「足下」と呼び、自らを「吾」と称した。上に獅子の皮の袴褶を贈り、共に魏を伐とうと約した。

武帝永明三年(485年)

  • 冬十二月、柔然が魏の塞を犯した。魏の任城王元澄が衆を率いて防ぎ、柔然は遁げ去った。澄は拓跋雲の子である。
  • この年、柔然の部真可汗が没し、子の豆崙が立って伏名敦可汗と号し、太平と改元した。

四年(486年)

  • 春正月壬午、柔然が魏の辺を侵した。
  • 二月丙申、柔然が使者の牟提を魏に遣わした。当時、敕勒が柔然に叛き、柔然の伏名敦可汗が自ら討って敗走する敵を西漠まで追っていた。魏の左僕射穆亮らが虚に乗じて撃つよう請うたが、中書監高閭は「秦漢の世は海内が一統だったから遠く匈奴を征せました。今、南に呉の敵があるのに、どうしてそれを捨てて虜の庭に深入りできましょう」と言った。魏主は「兵は凶器である。聖人はやむを得ずして用いる。先帝がたびたび征伐に出られたのは、まだ服さぬ敵があったからだ。今、朕は太平の業を承けている。どうして理由もなく兵革を動かせようか」と言い、その使者を厚く礼遇して帰した。
  • 冬十二月、柔然が魏の辺を侵した。

五年(487年)

  • 秋七月、柔然の伏名敦可汗が残暴だったので、臣の侯医垔と石洛候がたびたび諫め止め、あわせて魏との和親を勧めた。伏名敦は怒って族滅した。これで部衆は離心した。
  • 八月、柔然が魏の辺を侵した。魏は尚書陸叡を都督として柔然を撃ち、大破した。叡は陸麗の子である。
  • はじめ高車の阿伏至羅は十余万の部落を有し、柔然に役属していた。伏名敦が魏を侵したとき、阿伏至羅は諫めたが聞かれなかった。阿伏至羅は怒って従弟の窮奇と部落を率いて西へ走り、前部の西北に至って自ら王に立った。国人は「候婁匐勒」(夏の言葉で天子)と号し、窮奇を「候倍」(夏の言葉で太子)と号した。二人は甚だ親睦し、部を分けて立ち、阿伏至羅が北、窮奇が南に居た。伏名敦が追撃したが、たびたび阿伏至羅に敗れ、そこで衆を率いて東へ移った。

六年(488年)

  • 冬十二月、柔然の伊吾の戍主高羔子が三千の衆を率いて城を挙げて魏に付いた。

七年(489年)

  • 冬十二月、柔然の別帥叱呂勒が衆を率いて魏に降った。

八年(490年)

  • 冬十二月、高車の阿伏至羅と窮奇が使者を魏に遣わし、天子のために群賊(柔然)を討ち除きたいと請うた。魏主は繍の袴褶と雑綵百匹を賜った。

十年(492年)

  • 秋八月乙未、魏は懐朔鎮将陽平王元頤と鎮北大将軍陸叡をともに都督とし、十二将・歩騎十万を督して三道に分けて柔然を撃たせた。中道は黒山へ出、東道は士盧河へ、西道は侯延河へ向かった。軍は大磧を過ぎ、柔然を大破して還った。
  • はじめ柔然の伏名敦可汗はその叔父の那蓋と道を分けて高車の阿伏至羅を撃った。伏名敦はたびたび敗れ、那蓋はたびたび勝った。国人は那蓋が天の助けを得たとして、伏名敦を殺して那蓋を立て、候其伏代庫者可汗と号し、大安と改元した。

和帝中興元年(501年)

  • 秋七月乙巳、柔然が魏の辺を犯した。

梁武帝天監三年(504年)

  • 秋九月、柔然が魏の沃野および懐朔鎮を侵した。詔で車騎大将軍源懐に北辺を巡らせ規略を指授させ、必要に応じた徴発をみな便宜に従って処理させた。懐が雲中に至ると柔然は遁げ去った。
  • 懐は夏(中国)の制で夷を用いるには城郭に勝るものはないと考え、恒・代に還って諸鎮の左右の要害の地で城を築き戍を置ける所を視察し、東西に九城を作ることとし、糧の貯えと武器の備え、犬牙のように互いに救い合う勢いなど、総計五十八条を上表した。 「今、鼎を成周に定め、北から遥かに遠くなりました。代の外の諸国はしばしば外に叛き、そのうえ旱魃と飢饉に遭い、戎馬と甲兵は十のうち八まで欠けております。旧の鎮に準じて東西に相望ませ、今の形勢を接続させ、城を築いて戍を置き、兵を要害に分け、農を勧め粟を積み、警急の日には便に随って剪り討つべきです。かの遊騎の敵は、ついに城を攻める勇気はなく、また城を越えて南へ出る勇気もありません。こうすれば北方に憂いはなくなります」。魏主は従った。

五年(506年)

  • 冬十月、柔然の庫者可汗が没し、子の伏図が立って佗汗可汗と号し、始平と改元した。戊申、佗汗が使者の紇奚勿六跋を魏に遣わして和を請うたが、魏主は返答せず、勿六跋に言わせた。「蠕蠕の遠祖の社崙は魏の叛臣である。かつては包容してしばらく通使を許した。今、蠕蠕は衰微して昔に及ばず、大魏の徳はまさに周・漢より隆んである。ただ江南が未平なので、しばらく北の略を緩めているだけで、通和の事はまだ許せぬ。もし藩の礼を修め、真心を明らかに示すなら、こう素っ気なくはせぬ」。

七年(508年)

  • はじめ顕祖の世に柔然の一万余戸が魏に降り、高平・薄骨律の二鎮に置かれた。太和の末に叛き去ってほぼ尽き、ただ千余戸が残っていた。太中大夫王通が淮北に移して叛くのを絶つよう請い、詔で太僕卿楊椿に節を持たせて移させようとした。
  • 椿が上言した。「先朝が彼らを辺境に置かれたのは、異俗の者を招き附け、かつ華と戎を別つためです。今、新たに附いた戸が甚だ多い。もし旧来の者が移されるのを見れば、新しい者は必ず自ら安んじられません。これは彼らを駆って叛かせるものです。それにこの者たちは毛を着て肉を食い、冬を楽しみ寒に慣れております。南の地は湿って暑く、行けば必ず殲滅するでしょう。進んでは帰附の心を失い、退いては藩衛の益もありません。中夏に置けばあるいは後患を生じます。良策ではありません」。従われず、済州に移して黄河沿いに住まわせた。京兆王元愉の乱のとき、みな黄河を渡って愉のもとへ赴き、行く先々で掠奪した。椿の言のとおりだった。
  • 柔然の佗汗可汗がまた紇奚勿六跋を遣わして貂裘を魏に献じたが、魏主は受けず、前と同じ返答をした。
  • はじめ高車の候倍窮奇は嚈噠に殺され、その子の彌俄突は連れ去られ、衆は分散して魏へ、あるいは柔然へ奔った。魏主は羽林監である河南の孟威を遣わして降った戸を撫し受け入れ、高平鎮に置いた。
  • 高車王阿伏至羅は残暴で、国人が殺し、その宗人の跋利延を立てた。嚈噠が彌俄突を奉じて高車を伐つと、国人は跋利延を殺して彌俄突を迎え立てた。彌俄突は佗汗可汗と蒲類海で戦って勝てず、西へ三百余里逃げた。佗汗は伊吾の北山に陣した。
  • 折しも高昌王麴嘉が魏への内徙を求めた。当時、孟威は龍驤将軍だった。魏主は威に涼州の兵三千人を発して迎えに行かせた。伊吾に至ると、佗汗は威の軍を見て怖れて遁げ去った。彌俄突はその離散を聞いて追撃して大破し、蒲類海の北で佗汗を殺し、その髪を切って威に送り、あわせて使者を魏に入貢させた。魏主は東城子于亮を遣わして報い、賜与は甚だ厚かった。高昌王嘉は期日に来ず、威は兵を引いて還った。
  • 佗汗可汗の子の醜奴が立ち、豆羅伏跋豆伐可汗と号し、建昌と改元した。

十五年(516年)

  • 柔然の伏跋可汗は壮健で用兵に巧みだった。この年、西の高車を撃って大破し、その王彌俄突を捕らえ、足を駑馬に繋いで引きずり回して殺し、その頭に漆を塗って飲み器とした。隣国で先に柔然に羈属して後に叛き去った者を、伏跋はみな撃ち滅ぼした。その国はまた強くなった。

十六年(517年)

  • 冬十二月、柔然の伏跋可汗が俟近尉比建らを遣わして魏に和を請い、敵国(対等の国)の礼を用いた。

十七年(518年)

  • 春二月、魏主が柔然の使者を引見し、藩の礼が備わらぬことを責め、漢が匈奴を待遇した故事に依って使者を返す議を出した。
  • 司農少卿張倫が上表した。「太祖は帝業を経営して日も足りず、そのため小僧に一方を跳梁させました。また中国に憂いが多く、諸華を急ぎ夷狄を緩めたためでもあります。高祖は南轅に事とし北伐の暇がなく、世宗は遺志を述べ遵い、虜の使者が来ても受けて答えませんでした。大明が臨御し、国は富み兵は強い今、対等の礼など何を憚って行い、何を求めて行うのですか。今、虜は徳を慕って来たとはいえ、我らの強弱を観ようともしております。王人に命を銜えて虜の庭に赴かせ、昆弟の交わりを結ばせるのは、おそらく祖宗の意ではありません。かりにやむを得ぬのなら、詔を制して上下の儀を示し、宰臣に書を致させて帰順の道を諭し、その従うか違うかを観、徐々に恩と威で進退させれば、王者の体は正されます。どうして戎狄が兼併したからといって、にわかに典礼を欠かれるのですか」。従われなかった。倫は張白沢の子である。

普通元年(520年)

  • はじめ柔然の佗汗可汗は伏名敦の妻の候呂陵氏を納れ、伏跋可汗と阿那瓌ら六人の子を生んだ。伏跋が立ってから、末子の祖恵を突然失った。募って探しても見つからなかった。巫の地万という者が「祖恵は今、天上にいる。私が呼べる」と言い、大沢の中に帳幄を設けて天神を祀ると、祖恵が突然帳の中に現れ、自ら「ずっと天上にいた」と言った。
  • 伏跋は大いに喜び、地万を聖女と号し、納れて可賀敦(可汗の后)とした。地万は邪法を挟むうえ容色もあり、伏跋は敬い愛してその言を信用したので、国政が乱れた。こうして年を重ね、祖恵は次第に長じて母に「私はいつも地万の家にいた。天に上ったことはない。天に上ったというのは地万が教えたのだ」と言った。母は詳しく伏跋に告げたが、伏跋は「地万は未然を予知できる。讒言するな」と言った。やがて地万は恐れて祖恵を伏跋に讒言して殺させた。候呂陵氏は大臣の具列らを遣わして地万を絞め殺した。
  • 伏跋は怒って具列らを誅そうとした。折しも阿至羅が侵入し、伏跋が撃ったが軍は敗れて還った。候呂陵氏は大臣とともに伏跋を殺し、その弟の阿那瓌を可汗に立てた。
  • 阿那瓌が立って十日、族兄の示発が数万の衆を率いて撃った。阿那瓌は敗れ、弟の乙居伐と軽騎で魏へ逃げた。示発は候呂陵氏および阿那瓌の二人の弟を殺した。
  • 柔然の可汗阿那瓌が魏に着こうとすると、魏主は司空京兆王元継と侍中崔光らに次々と迎えさせ、賜与と慰労は甚だ厚かった。魏主は顕陽殿で阿那瓌を引見し、そのついでに宴を設け、阿那瓌の席を親王の下に置いた。
  • 宴が終わろうとするとき、阿那瓌は啓を執って座の後ろに立った。詔で御座の前に引かれると、阿那瓌は再拝して言った。「臣は家の難で軽々しく闕に参りました。本国の臣民はみなすでに逃げ散っております。陛下の恩は天地よりも隆く、兵を賜って本国に送り返し、叛逆を誅剪し亡散を収集させていただきたい。臣は遺民を統帥して陛下にお仕えします。言葉では尽くせませぬゆえ、別に啓を陳べます」。そのまま啓を中書舎人常景に授けて奏させた。景は常爽の孫である。
  • 十一月己亥、魏は阿那瓌を朔方公・蠕蠕王に立て、衣服・軺車・禄恤・儀衛を賜ること、すべて親王と同じにした。
  • 当時、魏はまさに強盛で、洛水橋の南の御道の東に四つの館を作り、道の西に四つの里を立てた。江南から降って来た者は金陵館に置き、三年後に帰正里に宅を賜った。北夷から降った者は燕然館に置き、帰徳里に宅を賜った。東夷から降った者は扶桑館に置き、慕化里に宅を賜った。西夷から降った者は崦嵫館に置き、慕義里に宅を賜った。阿那瓌が入朝すると、燕然館に置いた。
  • 阿那瓌はたびたび帰国を求めた。朝議は異同があって決まらなかったが、阿那瓌が金百斤を元乂に賄賂し、ついに北帰が許された。十二月壬子、魏は懐朔都督に敕して鋭騎二千を選んで阿那瓌を護送させ、境の入口に着いたら機を見て招き入れさせ、彼らが迎えるようなら繒帛・車馬を賜って礼をもって送り出して返らせ、受け入れられぬようなら闕庭に還らせ、その行装と旅費は尚書に量って給させることとした。

二年(521年)

  • 春正月、魏が近郡の兵一万五千人を発し、懐朔鎮将楊鈞に率いさせて柔然の可汗阿那瓌を帰国させた。
  • 尚書右丞張普恵が上書した。「蠕蠕は久しく辺の患いでした。今、天が喪乱を降し、その心を苦しめております。これは彼らに道ある者の楽しむべきを知らせ、面を革めて稽首し大魏に奉じさせようとしてのことでしょう。陛下は民を安んじ己を恭しくして、その心を悦服させるべきです。阿那瓌が身を束ねて帰命した以上、撫すれば足ります。それをかえって自ら先に労し騒ぎ、郊甸の内に師を興し、荒裔の外に投じ、累世の強敵を救い、天が亡ぼそうとする醜虜を資けるのは、臣の愚見では可とは見えません。これは辺将が一時の功を貪り窃もうとするもので、兵は凶器で王者はやむを得ず用いると考えておりません。まして今、旱魃が甚だしく、聖慈は膳を減らしておられる。それを一万五千人で、楊鈞を将として蠕蠕を定めようというのですか。時を得て動いてこそ成るもの。うまくいきましょうか。かりに顚覆の変があれば、楊鈞の肉が食うに足りましょうか。宰輔はもっぱら小さな名を好み、安危の大計を図っておりません。これぞ微臣の寒心するところ。それに阿那瓌が還らずに信義を担っているかどうかは、臣は賤しくて議に与れませんが、文書が手を経る以上、陳べぬわけにいきません」。聴かれなかった。
  • 阿那瓌が西堂で辞去した。詔で軍器・衣被・雑綵・糧・家畜を賜り、事ごとに手厚くし、侍中崔光らに外郭で労って送らせた。
  • 阿那瓌が南へ逃げたとき、その従父兄の婆羅門が数万の衆を率いて示発を討ち破った。示発は地豆干へ逃げたが、地豆干が殺した。国人は婆羅門を推して彌偶可社句可汗とした。
  • 楊鈞が上表して「柔然はすでに君長を立てております。兄を殺した人の弟を郊迎する気はありますまい。軽々しく行って空しく返れば、いたずらに国威を損なうだけ。広く兵衆を加えるのでなければ、その人を北へ送れません」と言った。
  • 二月、魏は以前に柔然へ使いしたことのある牒云具仁を遣わして婆羅門に諭し、阿那瓌を迎えさせようとした。
  • 夏四月、牒云具仁が柔然に至った。婆羅門はことに驕慢で謙る心がなく、具仁に礼敬を求めたが、具仁は屈しなかった。婆羅門はそこで大臣の丘升頭らに二千の兵を率いて具仁に随って阿那瓌を迎えに行かせた。五月、具仁が鎮に還ってその様子を詳しく述べた。阿那瓌は恐れて進む勇気がなく、上表して洛陽へ還ることを請うた。
  • はじめ高車王彌俄突が死ぬと、その衆はみな嚈噠に帰した。数年後、嚈噠は彌俄突の弟の伊匐に残った衆を率いて帰国させた。伊匐は柔然の可汗婆羅門を撃って大破した。婆羅門は十の部落を率いて涼州に赴き魏に降を請うた。
  • 柔然の残る衆数万が連れ立って阿那瓌を迎えた。阿那瓌は「本国は大いに乱れ、姓ごとに別居して互いに掠め合っております。今、北の人は首を伸ばして救いを待っております。前の恩に依って精兵一万を賜り、臣を磧に送っていただき、荒れた民を撫定させてください」と啓した。詔で中書・門下に付して広く議させた。
  • 涼州刺史袁翻が言った。「国家が洛に都して以来、蠕蠕と高車は互いに呑み合ってきました。初めは蠕蠕が首を差し出し、次いで高車が捕らえられた。今、高車が衰微の中から自ら奮い立って讐と恥を雪いだのは、まことに種類が繁多で、ついに滅ぼし合えぬからです。二虜が交々闘って以来、辺境に塵は立たず数十年になります。これは中国の利です。 今、蠕蠕の二人の主が相次いで誠を寄せております。戎狄は禽獣で、ついに純固の節はないにせよ、亡を存し絶を継ぐのは帝王の本務です。棄てて受けねばわが大徳を欠き、納れて撫養すればわが資と蓄えを損じます。あるいはすべて内地に移せば、彼らの情が願わぬだけでなく、ついに後患となるのを恐れます。劉淵・石勒がそれです。 それに蠕蠕がなお存すれば、高車はなお内を顧みる憂いがあり、上国をうかがう暇がありません。もし全滅すれば、高車の跋扈の勢いがどうなるか、たやすくは分かりません。今、蠕蠕は乱れていても部落はなお多く、至るところ碁石のように散らばって旧主を待ち望んでおります。高車は強いとはいえ、まだすべては服させられません。 愚見では、蠕蠕の二主をともに存すべきです。阿那瓌を東に置き、婆羅門を西に処し、降った民を分けてそれぞれに属させる。阿那瓌の居所は臣が見ておらぬので臆測できませんが、婆羅門については西海の故城を修めて置きたく存じます。西海は酒泉の北にあり、高車の居る金山から千余里、実に北虜往来の要衝で、土地は沃えて広く、耕稼に大いに適します。良将一人を遣わして兵と武器を配し、婆羅門を監護させ、そのついでに屯田させれば輸送の労を省けます。その北は大磧に臨み野獣の集まる所ですから、蠕蠕に狩猟させれば彼此相資けて自ら固めるに足ります。外には蠕蠕の微弱を輔け、内には高車の叛渙を防ぐ。これぞ辺を安んじ塞を保つ長計です。もし婆羅門が離散した者を収め集めてその国を復興できれば、次第に北へ移して流沙を渡らせる。それはわが外藩となり、高車という強敵と西北の憂いは慮るに及ばなくなります。かりに姦悪で反覆しても、逃亡した敵となるに過ぎず、われに何の損がありましょう」。朝議はこれを是とした。
  • 九月、柔然の可汗俟匿伐が懐朔鎮に赴いて兵を請い、あわせて阿那瓌を迎えたいと言った。俟匿伐は阿那瓌の兄である。
  • 冬十月、録尚書事高陽王元雍らが「懐朔鎮の北の吐若奚泉は原野が平らで沃えております。阿那瓌を吐若奚泉に、婆羅門を旧西海郡に置き、それぞれ部落を率いて離散した者を収集させたい。阿那瓌の居所は境外ですから少し手厚く遣わすべきで、婆羅門は同列にはできません。婆羅門が降る以前に蠕蠕から帰化した者は、すべて州鎮に懐朔鎮まで送らせて阿那瓌に付すべきです」と奏し、詔で従われた。

三年(522年)

  • 冬十二月、柔然の阿那瓌が種籾に粟を求め、魏は一万石を与えた。
  • 婆羅門が部落を率いて魏に叛き、嚈噠へ逃げ帰ろうとした。魏は平西府長史である代人の費穆に尚書右丞・西北道行台を兼ねさせ、兵を率いて討たせた。柔然は遁げ去った。穆は諸将に「戎狄の性は敵を見れば逃げ、虚に乗じてまた出る。胆を潰させねば、ついに奔命に疲れることになる」と言い、精騎を選んで山谷に伏せ、痩せ弱い歩兵で外営を作った。柔然は果たして来て、奮撃して大破した。婆羅門は涼州の軍に捕らえられ、洛陽に送られた。

四年(523年)

  • 春二月、柔然が大飢饉となり、阿那瓌が衆を率いて魏の境に入り、表を奉じて賑給を求めた。己亥、魏は尚書左丞元孚を行台尚書・持節として柔然を撫諭させた。孚は元譚の孫である。
  • 出発に際して表を奉じて便宜を陳べた。「蠕蠕は久しく強大で、昔、代京にあった頃は常に重い備えを要しました。今、天が大魏を祚けて彼らが自ら乱れ亡び、稽首して服を請うております。朝廷はその散亡を集め、礼をもって送り返そうとしております。この機によく遠謀をお考えになるべきです。昔、漢の宣帝の世に呼韓邪が塞に款を通じたとき、漢は董忠と韓昌を遣わして辺郡の士馬を率いて朔方まで送り出させ、そのまま留めて守衛を助けさせました。また光武の時にも中郎将段彬を遣わし、安集掾史を置いて単于の所在に随って動静を参察させました。今もおおよそ旧事に依り、閑いた地を貸してそこで田牧させ、ざっと官属を置いて慰撫の意を示し、辺兵を厳しく戒めてそれとなく防察させれば、親しくとも詐りに至らず、疎くとも叛くには至らない。最も得策です」。魏人は従わなかった。
  • 柔然の俟匿伐が魏に入朝した。
  • 夏四月、魏の元孚が白虎幡を持って柔玄・懐荒の二鎮の間で阿那瓌を労った。阿那瓌の衆は三十万と号し、ひそかに異志を抱いていた。ついに孚を拘留し、輼車に載せ、衆を集めるたび孚を東の廂に坐らせて「行台」と称し、甚だ礼敬を加えた。そして兵を率いて南下し、通るところ剽掠した。平城に至ってようやく孚を還した。有司は孚が命を辱めた罪を奏した。
  • 甲申、魏は尚書令李崇と左僕射元纂を遣わし、騎十万で柔然を撃たせた。阿那瓌はこれを聞き、良民二千と公私の馬牛羊数十万を駆り立てて北へ遁げた。崇は三千余里追ったが追いつかずに還った。纂は鎧曹参軍于謹に騎二千で柔然を郁対原まで追わせ、前後十七戦してたびたび破った。謹は于忠の従曽孫である。

六年(525年)

  • 春三月、柔然王阿那瓌が魏のために破六韓抜陵を討った。魏は牒云具仁を遣わして雑物を賜って労わせた。阿那瓌は十万の衆を率いて武川から西の沃野へ向かい、たびたび抜陵の兵を破った。
  • 夏四月、魏主はまた中書舎人馮儁を遣わして阿那瓌を労い賜った。阿那瓌の部落は次第に強くなり、敕連頭兵豆伐可汗を自称した。

大通元年(527年)

  • 夏四月己酉、柔然の頭兵可汗が使者を魏に入貢させ、あわせて群賊の討伐を請うた。魏人はその反覆を畏れ、詔で盛暑を理由にひとまず後の敕を待たせた。

二年(528年)

  • 夏四月、柔然の頭兵可汗がたびたび魏に入貢した。魏は詔で頭兵に、儀礼で名を称さず、上書に臣と称さぬことを許した。

大同元年(535年)

  • 冬十二月、柔然の頭兵可汗が東魏に婚を求めた。丞相高歓は常山王の妹の蘭陵公主を嫁がせた。柔然はたびたび魏を侵していたが、魏は中書舎人庫狄峙を使者として柔然に赴かせ和親を約させた。これで柔然は二度と侵さなくなった。

三年(537年)

  • 秋九月、柔然が魏のために東魏の三堆を侵した。丞相歓が撃ち、柔然は退き走った。

四年(538年)

  • はじめ柔然の頭兵可汗は帰国を得た当初、魏に仕えて礼を尽くしたが、永安以後は北方に雄拠して礼が次第に驕慢になり、信使は絶やさぬものの二度と臣と称さなくなった。頭兵はかつて洛陽に至り、心に中国を慕って侍中・黄門などの官を置いた。のちに魏の汝陽王の典籤淳于覃を得て親しく寵して任じ、秘書監として文翰を掌らせた。
  • 両魏が分裂すると、頭兵はいよいよ不遜になり、たびたび辺の患いとなった。魏の丞相宇文泰は、関中に新たに都してまさに山東に事があるので、婚を結んで撫そうと考え、舎人元翌の娘を化政公主として頭兵の弟の塔寒に嫁がせた。また魏主に、乙弗后を廃して頭兵の娘を納れるよう請うた。二月甲辰、乙弗后を尼とし、扶風王元孚を遣わして頭兵の娘を迎えて后とした。頭兵はそこで東魏の使者元整を留めてその使いに答えなかった。
  • 三月、柔然が悼后を魏に送った。車七百乗、馬一万匹、駝二千頭。黒塩池に至って魏の遣わした鹵簿と儀衛に出会った。柔然の営幕は戸も席もみな東を向いていた。扶風王孚が正しく南面するよう請うと、后は「私はまだ魏主に会っていない。もとより柔然の女である。魏の儀仗が南面するなら、私は東に向く」と言った。丙子、皇后郁久閭氏を立てた。

六年(540年)

  • 魏の文后(乙弗后)は尼となって別宮に居たが、悼后はなお忌んで、その子の武都王元戊を秦州刺史とし、文后を随って赴任させた。魏主は大計に縛られながらも恩と好を忘れず、ひそかに髪を伸ばさせて呼び戻す意があった。
  • 折しも柔然が国を挙げて黄河を渡って南侵した。当時、柔然が悼后のゆえに師を興したと言う者がかなりあった。帝は「百万の衆を興すのが一人の女のためなどということがあろうか」と言ったが、「そうはいえ、人にこう言わせては、朕もどの顔で将帥にまみえられよう」と言い、中常侍曹寵に手ずからの敕を持たせて文后に自尽を賜った。文后は泣いて寵に「願わくは至尊が千万歳、天下が康寧でありますよう。死んでも恨みはありません」と言い、そのまま自殺した。麦積の崖を鑿って葬り、寂陵と号した。
  • 夏、丞相泰は諸軍を召して沙苑に屯させ柔然に備えた。右僕射周恵達が士馬を発して京城を守り、諸々の街巷に塹を掘り、雍州刺史王羆を召して議した。羆は召しに応ぜず、使者に「もし蠕蠕が渭北に来るなら、王羆が自ら郷里の者を率いて破る。国家の兵馬を煩わすに及ばぬ。なぜ天子の城中でこんな驚き騒ぎをするのか。周家の小僧が怯えたせいでこうなったのだ」と言った。柔然は夏州まで来て退いた。まもなく悼后が病んで没した。

十一年(545年)

  • 夏六月、魏と柔然の頭兵可汗が兵を連ねて東魏を伐つ謀を巡らせた。丞相歓はこれを患え、行台郎中杜弼を柔然に遣わし、世子の高澄のために婚を求めさせた。頭兵は「高王が自ら娶るなら可だ」と言った。歓は猶予して決めなかったが、婁妃が「国家の大計です。どうかお疑いなさいますな」と言い、世子澄と尉景も勧めたので、歓は鎮南将軍慕容儼を遣わして聘し、「蠕蠕公主」と号した。
  • 秋八月、歓が下館で親迎した。公主が到着すると婁妃は正室を避けて他に移った。歓が跪いて拝謝すると、妃は「彼女が気づきましょう。絶ってお顧みなさいますな」と言った。頭兵は弟の禿突佳を遣わして娘を送り、あわせて結納に報い、そのうえで「外孫を見てから帰れ」と戒めた。公主は厳毅な性で、終身、華(中国)の言葉を話そうとしなかった。歓がかつて病んで行けなかったとき、禿突佳が怨み怒ったので、歓は病を押して輿で赴いた。

元帝承聖元年(552年)

  • 春正月、突厥の土門が柔然を襲撃して大破し、頭兵可汗は自殺した。その太子の菴羅辰および阿那瓌の従弟の登注俟利、登注の子の庫提がそろって衆を率いて斉へ奔った。残った衆は改めて登注の次子の鉄伐を主に立てた。

二年(553年)

  • 春二月、斉王が柔然の可汗鉄伐の父の登注とその兄の庫提を国に送り返した。鉄伐はまもなく契丹に殺され、国人は登注を可汗に立てた。登注はまたその大人の阿富提に殺され、国人は庫提を立てた。
  • 三月、柔然の別部がまた阿那瓌の叔父の鄧叔子を可汗に立てた。突厥の乙息記が沃野の北の木頼山で鄧叔子を撃ち破った。
  • 冬十一月己未、突厥がまた柔然を攻め、柔然は国を挙げて斉へ奔った。

三年(554年)

  • 春三月、柔然の可汗菴羅辰が斉に叛いた。斉主は自ら出て撃って大破し、菴羅辰父子は北へ走った。
  • 夏四月、柔然が斉の肆州を侵した。斉主が晉陽から討ちに出て恒州に至ると、柔然は散り走った。帝は二千余騎を殿軍として黄瓜堆に宿った。柔然の別部数万騎が突如至ったが、帝は安らかに臥し、夜明けに起き、神色は自若として形勢を指し示し、兵を放って奮撃した。柔然は靡き、そのまま囲みを破って出た。柔然が逃げると追撃し、屍が二十余里に伏し、菴羅辰の妻子を捕らえ、三万余口を虜とした。
  • 都督である善無の高阿那肱に騎数千でその逃げ道を塞がせた。当時、柔然の軍はなお盛んで、阿那肱は兵が少ないとして増援を請うたが、帝はかえって半分に減らした。阿那肱は奮撃して大破し、菴羅辰は巌や谷を跳び越えてかろうじて身一つで免れた。
  • 丁未、斉主がまた自ら柔然を撃って大破した。
  • 五月、柔然の乙旃達宮が魏の広武を侵し、柱国李弼が追撃して破った。
  • 六月、柔然が残る衆を率いて東へ移り、あわせて南を侵そうとした。斉主は軽騎を率いて金川で迎え撃とうとした。柔然はこれを聞いて遠く遁げた。営州刺史霊丘の王峻が伏兵を設けて撃ち、その名王数十人を捕らえた。

敬帝紹泰元年(555年)

  • 夏六月丁卯、斉主が晉陽に行った。壬申、自ら柔然を撃った。秋七月己卯、白道に至り、輜重を留めて軽騎五千を率いて柔然を追い、壬午、懐朔鎮で追いついた。斉主は自ら矢石を冒し、しきりに戦って大破した。沃野に至り、その酋長および捕虜二万余、牛羊数十万を獲た。壬辰、晉陽に還った。
  • 冬十二月、突厥の木杆可汗が柔然主の鄧叔子を撃って滅ぼした。叔子は残った者を収めて魏へ奔った。木杆はその強さを恃み、鄧叔子らをことごとく誅するよう魏に請い、使者が道に相次いだ。太師泰は叔子以下三千余人を捕らえてその使者に付し、青門の外でことごとく殺した。