通鑑紀事本末彭城王の専政(彭城王專政)
宋の文帝の弟である彭城王義康が、王弘に代わって朝政を総べ、劉湛を頼みとして殷景仁と争い、檀道済を誅し、権勢が朝野を圧するに至って兄の帝に忌まれ、劉湛らの誅殺とともに豫章・安成へ退けられるまで。范曄・孔熙先らが義康を奉じて謀反を企てて誅され、胡誕世の反乱も起きたため、ついに義康は死を賜った。永初元年(420年)から元嘉二十八年(451年)までの32年間。
年表(15件)
- 宋高祖
- 永初元年420年皇子劉義康を彭城王に立てる
- 文帝
- 元嘉五年428年范泰が王弘に、義康を召して朝政に参与させるよう勧める
- 六年429年義康が司徒・録尚書事となり、内外の政務を専ら総べる
- 七年430年揚州を望む義康に王弘の府の兵二千人が割かれる
- 九年432年義康が揚州刺史を領する
- 十二年435年劉湛が殷景仁と対立し、義康に寄って景仁を除こうと図る
- 十二年つづき(檀道済の誅殺)檀道済が召されて誅され、魏人が呉の小僧を侮る
- 十六年439年義康を大将軍・領司徒・南兖州刺史に進める
- 十七年440年劉湛らが誅され、義康は江州刺史として豫章に出される
- 十七年つづき江夏王義恭が録尚書事となり、殷景仁が没する
- 十八年441年扶令育が義康の召還を上表して死を賜る
- 二十二年445年孔熙先と范曄が義康擁立を謀って発覚し、誅される
- 二十二年つづき義康が庶人に落とされ、安成郡に移される
- 二十四年447年胡誕世が豫章に拠って反し、檀和之に斬られる
- 二十八年451年義康が布団を被せられて殺される
宋高祖永初元年(420年)
- 夏六月、皇子劉義康を彭城王に立てた。
文帝元嘉五年(428年)
- 春正月、荊州刺史彭城王義康は聡明で洞察力があり、州にあって職務をよく修めた。左光禄大夫范泰が司徒王弘に「天下の事は重く、権要の地位は居がたい。卿ら兄弟は満ち足りすぎている。深く身を低くすべきだ。彭城王は帝の次弟であり、召し返して入朝させ、ともに朝政に参与させるべきだ」と言った。弘はその言を容れた。当時は大旱魃と疫病があり、弘は上表して咎を引いて位を退こうとしたが、帝は許さなかった。
六年(429年)
- 春正月、王弘が上表して州と録尚書の職を解いて彭城王義康に授けるよう乞うたが、帝は優詔で許さなかった。癸丑、義康を侍中・都督揚南徐兖三州諸軍事・司徒・録尚書事・領南徐州刺史とした。弘と義康の二府にはともに佐を置き兵を領させ、共に朝政を輔けさせた。弘は病がちで、また大権を遠ざけたいと思い、事ごとに義康に譲った。こうして義康が内外の政務を専ら総べることになった。
七年(430年)
- 彭城王義康は王弘と並んで録尚書となったが、なお不満で揚州刺史の職を得たいと願い、それが言葉の端に出た。弘の弟の曇首が中央にあって上に親しく信任されていることも、いよいよ不快だった。弘は老病を理由にたびたび辞職を乞い、曇首も自ら呉郡への転出を求めたが、上はいずれも許さなかった。義康は人に「王公は長く病んで起き上がれぬ。神州(揚州)を寝たまま治めてよいものか」と言った。曇首が弘に、府中の文武の半分を減らして義康に授けるよう勧め、上は二千人を割くことを認めた。義康はそれで喜んだ。
九年(432年)
- 夏六月戊寅、司徒・南徐州刺史彭城王義康を揚州刺史に改め領させた。
十二年(435年)
- 春三月、領軍将軍劉湛と僕射殷景仁はもともと親しく、湛が朝廷に入ったのも実は景仁が引いたのである。ところが湛は、景仁の位も待遇ももとは自分を越えていなかったのに、一朝にして前に出たので、甚だ憤った。二人ともに時めいていたが、景仁が内政の任を専管したので、自分を締め出していると思い、猜疑と隙が次第に生じた。帝が景仁を信任しており動かせぬと知ると、当時、司徒義康が朝権を専断しており、湛はかつて義康の上佐だったので、心を寄せて自ら結び、宰相の力で上の意を翻して景仁を退け、独り政務を担おうとした。
- 夏四月己巳、帝は景仁に中書令・中護軍を加え、自邸をそのまま府とした。湛には太子詹事を加えた。湛はいよいよ憤り、義康に景仁を帝の前で誹謗させたが、帝の待遇はますます厚くなった。景仁は旧知に「引き入れて中に入れたら、いきなり人に噛みついてきた」と嘆じ、病と称して職を辞し、表と疏を重ねて上ったが、帝は許さず、家に留まって養病させた。
- 湛は、盗賊のように装った者を外に出して景仁を殺す議を出した。帝が知ってもうまく言い抜けられるし、義康との至親の愛を損なわずに済むと考えたのである。帝はうっすらこれを聞いて、護軍府を西掖門の外に移して宮禁の近くに置いたので、湛の謀は行えなくなった。
- 義康の僚属や湛に付いた者はひそかに申し合わせ、殷氏の門を通る者すらいなかった。彭城王主簿の沛郡の劉敬文は、父の劉成がその機微を悟らず景仁のもとに郡を求めに行ってしまった。敬文は慌てて湛のもとへ謝りに行き、「老父が耄碌して殷鉄(景仁)のところへ禄を求めに行きました。敬文の暗愚のせいで、お育てくださった恩に背きました。一門は恥じ恐れ、身の置き所もありません」と言った。
- ただ後将軍司馬の庾炳之だけが二人の間を行き来してどちらの歓心も得ながら、ひそかに朝廷に忠を尽くした。景仁は家に臥して朝謁せず、帝は常に炳之に命を含ませて往来させたが、湛は疑わなかった。炳之は庾登之の弟である。
十二年つづき(檀道済の誅殺)
- 春二月、司空・江州刺史・永脩公の檀道済は前朝で功を立てて威名が甚だ重く、腹心の側近はみな百戦を経ており、諸子にも才気があったので、朝廷は疑い畏れていた。帝の病が長く癒えず、劉湛は司徒義康に「宮車がひとたび晏駕(崩御)すれば、道済はもう制せられません」と説いた。
- 折しも帝の病が篤くなり、義康の進言で道済を入朝させた。妻の向氏は道済に「世に高い勲功は古来忌まれるもの。今、事もないのに召されるとは、禍が来たのでしょう」と言った。到着すると幾月も留め置かれ、帝がやや快方に向かったので帰そうとし、すでに渚に下って出発前だったところ、帝の病がぶり返した。義康は詔と偽って道済を召し、送別の宴と称して捕らえた。
- 三月己未、詔を下し、「道済はひそかに金貨をばらまいて剽悍な者を誘い、朕の病臥に乗じて禍心を逞しくしようとした」と称して廷尉に引き渡し、子の給事黄門侍郎檀植ら十一人とともに誅した。ただ孫の檀孺だけを赦した。また司空参軍の薛彤と高進之を殺した。二人はいずれも道済の腹心で勇力があり、当時の人は関羽・張飛になぞらえていた。
- 道済は捕らえられたとき憤怒して目を炬のように光らせ、幘(頭巾)を脱いで地に投げ「よくもお前たちの万里の長城を壊したものだ」と言った。魏人はこれを聞いて喜び、「道済が死んだ。呉の小僧どもはもう恐れるに足らぬ」と言った。
- 庚申、大赦し、中軍将軍南譙王義宣を江州刺史とした。
十六年(439年)
- 春正月庚寅、司徒義康を大将軍・領司徒・南兖州刺史に進め、江夏王義恭を司空に進めた。
十七年(440年)
- 司徒義康が朝権を専ら総べた。上は長年痩せ衰える病で、心労するたびに発病してたびたび危篤に陥った。義康は心を尽くして看護し、薬も食も自ら口にして味見せぬものは進めず、幾晩も眠らぬこともあった。内外の諸事はすべて専断で処理した。
- 義康は吏務を好み、文案を糾し洗い出して精密を極めた。上はそのため多くの事を委ね、上奏したことで容れられぬものはなかった。方伯以下はみな義康に選任させ、生殺の大事も録尚書の命で断ずることがあり、権勢は遠近を圧し、朝野が集まった。毎朝、府門には常に数百乗の車があり、義康は身を傾けて応接して倦むことがなかった。
- また記憶力が強く、目や耳で経験したことは生涯忘れず、大勢の席で覚えていることを言い立てて聡明ぶりを示すのを好んだ。士で幹練な者の多くが厚遇された。かつて劉湛に「王敬弘や王球の類は、いったい何ができるのか。座ったまま富貴を取っているが、どうにもならぬな」と言った。
- しかしもとより学術がなく大体を弁えなかった。朝士で才ある者はみな自分の府に引き入れ、府僚で功のない者や意に逆らう者は台官(朝廷の官)に追い出した。兄弟の至親だからと君臣の隔てを置かず、心のままに振る舞って猜疑も警戒もなく、私に僮六千余人を置いて朝廷に届けもしなかった。四方からの献上品はみな上等を義康に薦め、次等を御用に供した。上がある冬、柑を食べて形も味も劣ると嘆じると、義康は「今年の柑には特によいのがあります」と言い、人を東府へやって柑を取り寄せた。それは御用のものより三寸も大きかった。
- 領軍劉湛は僕射殷景仁と隙があり、義康の重みに頼って景仁を倒そうとした。義康の権勢はすでに盛んだったが、湛はいよいよ義康を推し崇め、もはや人臣の礼がなかった。上は次第に不快になった。
- 湛が入朝した当初、上の恩礼は甚だ厚かった。湛は治道を論ずるのが巧みで前代の故事に通じ、筋道立てて述べるので聴く者は疲れを忘れた。雲竜門に入るたび、御者はすぐ馬を外し、左右や羽儀は思い思いに散じ、夕方まで出て来ないのが常だった。だが晩年に義康を煽動するようになると、上の心は内心離れたが、応接は変えなかった。上はかつて親しい者に「劉班(湛)が西から帰ってきた当初は、宮中で語り合っていても、いつも日の高さを見て、もう帰ってしまうかと案じたものだ。近ごろは入って来ると、やはり日の高さを見るが、いつまでも帰らぬのに閉口している」と言った。
- 殷景仁がひそかに上に「相王(義康)の権が重すぎるのは社稷のためになりません。少し抑えるべきです」と言い、上はひそかに然りとした。
- 司徒左長史劉斌は湛の同族、大将軍従事中郎の王履は王謐の孫である。彼らと主簿劉敬文、祭酒である魯郡の孔胤秀らはみな諂って義康に寵せられた。上に病が多いのを見て、みな「宮車がひとたび晏駕すれば長君を立てるべきだ」と言い合っていた。上はかつて病篤いとき、義康に顧命の詔を用意させた。義康は役所に戻り、涙を流して湛と景仁に告げた。湛は「天下は難儀な折、幼主に御せるものではない」と言い、義康も景仁も答えなかった。ところが胤秀らは勝手に尚書議曹に行って、晉の咸康末に康帝を立てた先例を取り寄せた。義康はそれを知らなかった。
- 上の病が癒えてこれをうっすら聞いた。斌らはひそかに大業を最後は義康に帰させようと謀り、徒党を結び、禁中を伺い、自分たちと同じでない者は必ず百方に陥れようとした。また景仁の欠点を拾い集め、あるいは虚偽の異説を作って湛に告げた。ここから主(帝)と相(義康)の勢いは分かれた。
- 義康は劉斌を丹陽尹にしようとして、話のついでに上にその家の貧しさを述べたが、言い終わらぬうちに上は「呉郡の太守にしよう」と言った。のちに会稽太守羊玄保が帰任を求めたので、義康はまた斌を代わりに就けようとして「羊玄保が帰りたいと申しております。会稽は誰にお任せでしょうか」と伺った。上はそのときまだ心づもりがなかったが、とっさに「私はもう王鴻を用いた」と答えた。前年の秋から、上は東府(義康の邸)に行かなくなっていた。
- 五月癸巳、劉湛が母の喪に遭って職を去った。湛は自分の罪過がすでに露わで、身の置き所がないと知り、親しい者に「今年は必ず失敗する」と言った。常々「ひとえに弁舌で争ったからこそ切り抜けてきた。今はもう窮まって、その望みもない。禍が来るのに長くはかかるまい」と言っていた。
- 上は司徒彭城王義康との隙がすでに明らかで、いずれ禍乱になると見た。冬十月戊申、劉湛を捕らえて廷尉に引き渡し、詔を下してその罪悪を暴き、獄中で誅した。あわせて子の劉黯・劉亮・劉儼およびその一党の劉斌・劉敬文・孔胤秀ら八人を誅し、尚書庫部郎の何黙子ら五人を広州に移し、そのうえで大赦した。
- この日、勅で義康を宿直に入れ、中書省に留めた。その夕、手分けして湛らを捕らえ、青州刺史杜驥が殿内に兵を整えて非常に備えた。人を遣わして義康に湛らの罪状を告げると、義康は上表して位を退いた。詔により義康を江州刺史とし、侍中・大将軍はそのままとして豫章に出鎮させた。
- はじめ殷景仁は病臥して五年、上に会わなかったが、密書の往来は日に十数通に及び、朝政の大小は必ず諮られた。その痕跡は周到に隠され、誰もその実際をうかがえなかった。湛を捕らえた日、景仁は衣冠を払い清めさせたが、左右は誰もその意を解さなかった。その夜、上は華林園の延賢堂に出て景仁を召した。景仁はなお脚の病と称して小さな床に載せられて座に着き、誅討の処分はすべて彼に委ねられた。
- はじめ檀道済が呉興の沈慶之を忠実謹直で兵に通じていると薦め、上は隊を領させて東掖門を守らせた。劉湛が領軍だったとき、慶之に「卿は省にいて久しい。近く取り計らってやろう」と言うと、慶之は色を正して「下官は省に十年おりますから当然転任があってしかるべきです。この件でご迷惑をおかけするつもりはありません」と答えた。湛を捕らえた夕、上が門を開けて慶之を召すと、慶之は戎服に袴を縛って入って来た。上が「なぜそんなに急な出で立ちなのか」と問うと、「夜半に隊主を召されるのに、緩い服でいるわけにはまいりません」と答えた。上は慶之を遣わして劉斌を捕らえて殺した。
- 驍騎将軍徐湛之は徐逵之の子で、義康と特に親しかったので、上は深く恨んでいた。義康が失脚すると湛之も捕らえられ、罪は死に当たった。その母の会稽公主は兄弟のうち最年長の嫡子で、日ごろから上に礼遇され、家事は大小を問わず必ず諮ってから行われていた。高祖が微賤だった頃、自ら新洲で荻を刈っていた時の綿入れの布の衫と襖があり、臧皇后が手ずから作ったものだった。貴くなってから公主に預けて「後世、驕り奢って節度のない者があれば、この衣を示せ」と言い置いていた。ここに至って公主は宮に入り、上に会うと号泣し、もはや臣妾の礼も取らず、錦の袋に入れた綿入れを地に投げて「お前の家はもと貧賤だった。これは私の母がお前の父のために作ったものだ。今日、腹一杯食えるようになったとたん、私の子を殺す気か」と言った。上はそこで湛之を赦した。
- 吏部尚書王球は王履の叔父で、簡素淡泊で美名があり、上に重んじられた。履は利に走る性で義康と湛に深く結んでいた。球がたびたび戒めても従わなかった。湛が誅された夕、履は裸足で球のもとへ知らせに来た。球は左右に履物を取ってやらせ、まず酒を温めて与え、「日ごろ、お前に何と言っていた」と言った。履は怖れて答えられなかった。球はゆっくりと「阿父(この叔父)がいるのだ。お前が何を憂えることがある」と言った。上は球のゆえに履を死罪から免じ、家に廃した。
- 義康が権を握っていた頃、人は争って近づこうとしたが、司徒主簿の江湛だけは早くから自ら疎遠にし、外任を求めて武陵内史となった。檀道済がかつて子のために湛に婚を求めたが、湛は固辞した。道済が義康を通じて請うと、湛はいよいよ堅く拒んだ。そのため二公(義康・道済)の難に巻き込まれなかった。上はこれを聞いて賞した。湛は江夷の子である。
- 彭城王義康は省に留まること十余日、上に会って別れを告げるとすぐ渚に下った。上はただ向かい合って慟哭するばかりで、他に何も言わなかった。上は沙門の慧琳を遣わして見舞わせた。義康が「弟子(私)に帰る道理はあるだろうか」と問うと、慧琳は「公が数百巻の書物をお読みにならなかったのが残念です」と言った。
- はじめ呉興太守の謝述は謝裕の弟で、たびたび義康を輔佐して多く益するところがあったが、早くに没した。義康は南へ下るとき「昔、謝述はただ私に退くことを勧め、劉班はただ進むことを勧めた。今、班が生きていて述が死んだ。私が失敗したのも当然だ」と嘆じた。上もまた「謝述が生きていれば、義康は必ずここまで至らなかった」と言った。
- 征虜司馬蕭斌を義康の諮議参軍・領豫章太守とし、事の大小をすべて委ねた。斌は蕭摹之の子である。龍驤将軍蕭承之に兵を率いて防守させ、義康の側近で慕う者はみな随行を許した。物資の支給は手厚く、便りも下賜も相次ぎ、朝廷の大事はすべて報せて示した。
- 久しくして、上が会稽公主のもとで宴を開き、大いに歓を尽くした。主は立って再拝し叩頭して悲しみをこらえきれなかった。上は意味が分からず、自ら立って助け起こした。主は「車子(義康の幼名)は年の暮れには必ず陛下に容れられなくなりましょう。今、特にその命を請います」と言い、慟哭した。上も涙を流し、蔣山を指して「決してそのような心配はない。この誓いに背けば初寧陵に背くことになる」と言い、その場で飲んでいた酒を封じて義康に賜り、あわせて「会稽の姉との宴で弟のことを思い出した。残った酒を今、封じて送る」と書いた。そのため主が存命の間、義康は無事だった。
史論(臣光曰)
- 文帝の義康に対する友愛の情は、初めは決して薄くなかった。それが終わりには兄弟の歓を失い、君臣の義を損なった。その乱の階梯を辿れば、まさに劉湛の権利を求める心に飽くところがなかったことに由来する。詩に「貪る人は同類を損なう」というのは、このことであろう。
十七年つづき
- 南兖州刺史江夏王義恭を召して司徒・録尚書事とした。戊寅、臨川王義慶を南兖州刺史とした。
- 冬十一月、殷景仁は揚州刺史を拝したが、痩せ衰える病が篤くなった。上は彼のために西州へ通じる道で車の音を立てぬよう勅した。癸丑、景仁が没した。
- 十二月癸亥、光禄大夫王球を僕射とした。戊辰、始興王劉濬を揚州刺史とした。当時、濬はまだ幼く、州の事はすべて後軍長史范曄と主簿沈璞に委ねた。曄は范泰の子、璞は沈林子の子である。曄はまもなく左衛将軍に遷り、吏部郎沈演之を右衛将軍として、ともに禁軍を掌らせ、また庾炳之を吏部郎とし、いずれも機密に参与させた。演之は沈勁の曽孫である。
- 曄には俊才があったが、情が薄く行いが浅く、たびたび名教を犯して士流に軽んじられた。性は焦って競い、自分の才が使い尽くされていないと思い、常に不満で志を得なかった。吏部尚書何尚之が帝に「范曄の志向は尋常でありません。広州刺史として出されますよう。内におれば禍を成し、鈇鉞を加えざるを得なくなります。鈇鉞をしばしば用いるのは国家の美ではありません」と言った。帝は「劉湛を誅したばかりでまた范曄を遷せば、人は卿らが才を容れられぬと言うだろう。朕が讒言を信じたことになる。ただ彼がそういう男だと承知しているだけで、害をなすことはできまい」と言った。
十八年(441年)
- 春正月、彭城王義康が豫章に至り、刺史の職を辞した。甲辰、義康を都督江交広三州諸軍事とした。
- 前龍驤参軍である巴東の扶令育が闕に赴いて上表した。「昔、袁盎は漢の文帝を諫めて『淮南王が道中で霜露に遭って死ねば、陛下は弟を殺した名を負われます』と申しました。文帝は用いず、追悔しても及びませんでした。彭城王義康は先朝の愛子、陛下の次弟です。迷い誤った咎があるなら、善悪を数え上げ義の方向に導けばよいのに、なぜ疑わしいだけの嫌疑を信じ、一朝にして退けて南の果てへ遠く送られるのですか。草莱の民までみな陛下のために心を痛めております。廬陵の往事は鑑とするに足ります。義康が年尽き命尽きて南で亡くなるのを恐れます。臣は微賤の身ですが、ひそかに陛下のために恥じ入ります。陛下は悪しき枝を伐つべきことはご存じでも、枝を伐って樹を傷つけることはご存じないのでしょうか。伏して願わくは速やかに義康を召して京畿に返し、兄弟が和し君臣が睦まじくなれば、四海の望みは満たされ、多言の道も絶えましょう。何も司徒公・揚州牧にしなければ彭城王を置けぬわけではありますまい。もし臣の申したことが国にとって非であるなら、重い誅に服して陛下にお詫びいたします」。表が奏されると、ただちに建康の獄に下されて死を賜った。
史論(裴子野論曰)
- 上に立つ者が善を行えば、雲が流れ雨が降るように万物がその恵みを受ける。悪を行えば、天が裂け地が震えるように万物が驚愕する。誰が知らずにおれよう、誰が見ずにおれよう。一人の身を戮し一人の口を塞いだところで、逃れられるものでも消せるものでもない。それは怒りに堪えかねて病をいっそう重くするだけである。太祖(文帝)の寛大さをもってしても、彭城王の件では耳を塞いだ。これ以後、誰が気安くものを言えよう。宋の歴代を通じて直言諒直の士を聞くことがまれなのは、骨のある気概が今の世で古に劣るからか、それとも時の王の刑政がそうさせたのか。張約之は権臣に斃れ、扶令育は賢明な君主に斃れた。宋の鼎鑊は、ああ、恐るべきものだ。
二十二年(445年)
- はじめ魯国の孔熙先は文史に博く、あわせて数術に通じ、縦横の才と志があったが、員外散騎侍郎に留まって世に知られず、憤って志を得なかった。父の孔黙之が広州刺史のとき収賄で罪を得たが、大将軍彭城王義康が取りなして免れた。義康が豫章に遷されると、熙先はひそかに恩に報いようと思い、また天文と図讖から、帝は必ず尋常でない形で崩じ、骨肉相残ずることから、江州から天子が出ると考えた。
- 范曄が志を満たされずにいるのを見て、仲間に引き入れようとしたが、熙先はもとより曄に重んじられていなかった。太子中舎人の謝綜は曄の甥だったので、熙先は身を入れて綜に仕え、綜が熙先を曄に引き合わせた。熙先の家は財が豊かで、たびたび曄と博打をしては、わざと下手を打って財を渡した。曄はその財を利とし、またその文芸を愛して、次第に親密になった。
- そこで熙先はゆるゆると曄に説いた。「大将軍は英断で聡明、人も神も心を寄せております。職を失って南の果てにおられ、天下は憤り怨んでおります。小人(私)は亡父の遺命を受け、死をもって大将軍の徳に報いるつもりです。近ごろ人心は騒がしく、天文も乱れております。これこそ時運が到来して動かしがたいというものです。天と人の心に順い、英豪の士と結び、内外相応じて肘腋の間から事を発し、しかるのち自分と異なる者を誅除し、明聖を崇め奉って天下に号令すれば、誰が従わぬでしょう。小人はこの七尺の身と三寸の舌で功を立て事を成し、それを君子にお返ししたい。丈人(あなた)はどうお考えですか」。曄は大いに驚いた。
- 熙先は続けた。「昔、毛玠は魏武に節を尽くし、張温は孫権に議を尽くしました。この二人はいずれも国の俊才です。言行に瑕があって禍と辱めに至ったのでしょうか。みな廉直で剛直だったために長く容れられなかったのです。丈人と本朝の関係はあの二人の主君との関係ほど深くなく、世間の名声はあの二人の臣より高い。讒言する者が横目で見て久しい。肩を並べて競い合って、うまくいくものでしょうか。近くは殷鉄(景仁)の一言で劉班(湛)は首を砕かれました。あれは父兄の仇や百世の怨みでしょうか。争ったのは栄名と勢利の先後にすぎません。それが終わりには、陥れ方が足りぬ、発するのが遅かったと恐れ、一族百人を戮してなお足らぬと言う。まさに寒心し恐懼すべきこと。書物の中の遠い昔の話ではありません。今、大勲を建てて賢哲を奉じ、難事を易きに図り、危うきを安きに易え、厚い利を享け大いなる名を収める。それを一挙に手にできるのに、捨てて取らずにおれましょうか」。
- 曄はまだ迷って決めかねた。熙先は「さらにこれ以上のことがありますが、愚かな私にはまだ申せません」と言った。曄が「何のことだ」と問うと、熙先は「丈人は代々清らかに世に通じた家柄でありながら帝室と婚を結べず、人は犬や豚のように遇しております。それを丈人は恥とも思わず、そんな朝廷のために死のうというのは、迷いではありませんか」と言った。曄の家には内輪の行状に問題があったので、熙先はこれで刺激した。曄は黙って答えず、そして謀反の意を決めた。
- 曄は沈演之とともに帝に知られていたが、曄が先に来ても必ず演之を待って共に入るのに、演之が先に来たときは独り引見されることがあり、曄はこれを怨んでいた。曄はたびたび義康の府の佐となっていたが、途中で義康に罪を得たことがあった。謝綜とその父の謝述はいずれも義康に厚遇され、綜の弟の謝約は義康の娘を娶り、綜は義康の記室参軍だった。綜は豫章から帰って義康の意を伝え、曄に後年の隙を解いて旧交を篤くするよう求めさせた。
- 大将軍府の史である仲承祖は義康に寵せられ、熙先に謀があると聞いてひそかに結んだ。丹陽尹徐湛之はもとより義康に愛されており、承祖はこれを頼って湛之に仕え、密計を告げた。僧の法略と尼の法静はいずれも義康の旧恩に感じ、ともに熙先と往来した。法静の妹の夫の許曜は隊を領して台内におり、内応を約した。法静が豫章へ行くとき、熙先は書状を託して図讖を説かせた。こうしてひそかに官職を割り振り、日ごろ好まぬ者はみな死すべき者の名簿に入れた。
- 熙先はまた弟の孔休先に檄文を作らせた。「賊臣趙伯符が兵を恣にして天子の車駕を犯し、禍は儲宰に及んだ。湛之・曄らは命を投げうって戈を奮い、即日、伯符の首とその一党を斬った。今、護軍将軍臧質を遣わして璽綬を奉り、彭城王を迎えて辰極(帝位)に正しく即けさせる」という内容である。熙先は大事を挙げるには義康の意向で衆を諭すべきだとし、曄はまた義康が湛之に宛てた偽の書状を作って君側の悪を誅せよと命じ、同党に示した。
- 帝が武帳岡で宴を開いたとき、曄らはその日に乱を起こす謀だった。許曜は帝に侍して刀に手をかけ、曄に目配せしたが、曄は顔を上げられなかった。まもなく座が散じた。徐湛之は事が成らぬと恐れ、ひそかにその謀を帝に告げた。帝は湛之に一部始終を探らせ、檄書と割り振った姓名を得て奉らせた。
- 帝は有司に命じて一斉に捕らえ徹底的に調べさせた。その夜、曄を呼んで客省に置き、先に外で謝綜と熙先兄弟を捕らえると、みな自白した。帝が使者を送って問い詰めても曄はなお隠して否認した。熙先はこれを聞いて笑い、「およそ手配も符檄も書状もみな范が作ったものだ。今さらどうしてそんな言い逃れをするのか」と言った。帝が曄に筆跡を示すと、ようやく一部始終を述べた。
- 翌日、武装兵が廷尉に送り届けた。熙先は風を望んで自白し、辞気も屈しなかった。上はその才に驚き、人を遣わして慰めさせ、「卿ほどの才で集書省に埋もれていたのなら、異心を抱くのも道理だ。これは私が卿に負い目がある」と言った。また前の吏部尚書何尚之を責めて「孔熙先を三十近くになるまで散騎郎にしておいて、賊にならぬはずがあろうか」と言った。
- 熙先は獄中で上書して恩に謝し、あわせて図讖を述べ、上に骨肉の禍を深く戒めて「どうか見捨てず、中書にお留め置きください。囚が死んだのちに追って記録されることがあれば、九泉の下で少しは罪責を塞げましょう」と言った。
- 曄は獄中で詩を作り、「嵇生の琴はないが、夏侯の顔色には同じくありたい」と詠んだ。曄はもともと大獄に落ちればすぐ死ぬと思っていたが、上が徹底追及したので二旬に及び、曄は生き延びる望みを抱くようになった。獄吏がからかって「外の噂では、詹事どのは長く繋がれるだけかもしれぬそうです」と言うと、曄は驚き喜んだ。綜と熙先はこれを笑って「詹事どのは以前、袖をまくり目を怒らせ馬を躍らせて睥睨し、一世の雄をもって任じていた。今こうも取り乱して死を畏れるとは。かりに命を賜っても、人臣として主を図った者がどの面下げて生きられるか」と言った。
- 十二月乙未、曄・綜・熙先およびその子弟・党与がみな誅された。曄の母が市に来て涙を流して曄を責め、手で曄の首を打った。曄は恥じる色もなかった。妹と妓妾が別れに来ると、曄は悲しんで涙を流した。綜が「舅上はまるで夏侯の顔色に及びませんな」と言うと、曄は涙を収めた。
- 謝約は謀反に与らなかったが、兄の綜が熙先と交わるのを見てかつて諫め、「この人は事を軽んじ奇を好み、道に近くない。果断で鋭いが慎みがない。馴れ合ってはなりません」と言っていた。綜は従わずに敗れた。綜の母は子弟が自ら逆乱を踏んだとして独り見に出なかった。曄は綜に「姉上が今日来られぬのは、多くの人に勝っている」と言った。
- 曄の家を没収すると、楽器も服も調度もみな珍しく美しく、妓妾は珠玉の飾りに埋もれていた。だが母の住まいは粗末で、薪を盛った厨が一つあるだけ、弟の子には冬でも布団がなく、叔父は単衣の布の服だった。
史論(裴子野論曰)
- 群を抜く才があれば必ず天を衝く地位を思い、俗を蓋う器量があれば凡人の下に置かれることに憤る。それを道をもって守り、礼をもって導ける者は、まことに稀であろう。劉弘仁(湛)も范蔚宗(曄)も、志をねじ曲げて権を貪り、才を誇って逆事に走った。代々の家風は一朝にして滅びた。かつて智能と呼ばれたものが、翻って身を亡ぼす道具となったのである。
二十二年つづき
- 徐湛之が述べたところは多く尽くされていなかったが、曄らの供述に引かれた者を上は赦して問わなかった。臧質は臧熹の子で、先に徐兖二州刺史であり、曄と親しかったので、曄の失脚で義興太守とされた。
- 有司が彭城王義康の爵を削って廷尉に引き渡し罪を治めるよう奏した。丁酉、詔により義康およびその男女をみな庶人として属籍を絶ち、安成郡に移した。寧朔将軍沈邵を安成相として兵を領して防守させた。邵は沈璞の兄である。
- 義康は安成で読書していて淮南の厲王劉長の故事を見、書を置いて「昔からこういうことはあったのだな。私は知らなかった。罪を得たのも当然だ」と嘆じた。
- 庚戌、前豫州刺史趙伯符を護軍将軍とした。伯符は孝穆皇后の弟の子である。
二十四年(447年)
- 冬十月壬午、胡藩の子の胡誕世が豫章太守桓隆之を殺して郡に拠って反し、前の彭城王義康を主に奉じようとした。前交州刺史檀和之が官を去って帰る途中、豫章を通りかかり、撃って斬った。
二十八年(451年)
- 胡誕世の反乱の際、江夏王義恭らが「彭城王義康はたびたび怨言を吐いて民の心を揺さぶっている。だから不逞の輩がそれで心を起こすのだ」と奏し、広州へ移すよう請うた。上が義康を移そうとしてまず使者に告げさせると、義康は「人は生まれれば必ず死ぬ。私とて生を惜しむものか。もし私が必ず乱の階梯となるのなら、遠くへやっても何の益もない。ここで死なせてほしい。たびたび遷されるのは恥だ」と言った。結局まだ移されぬうちに、魏軍が瓜歩に至り人心が恐れ騒いだ。上は不逞の者がまた義康を奉じて乱を起こすのを慮り、太子劉劭と武陵王劉駿、尚書左僕射何尚之がたびたび早く処置するよう啓した。上は中書舎人厳竜に薬を持たせて義康に死を賜った。義康は飲もうとせず、「仏教は自殺を許さぬ。適宜に処分してほしい」と言った。使者は布団を被せて殺した。