通鑑紀事本末劉裕、南燕を滅ぼす(劉裕滅南燕)

秦で狂を装って生き延びた慕容超が金刀を証として南燕へ帰り、慕容備徳の跡を継いで帝位に即くところから、南燕滅亡までの六年間。超は公孫五楼を寵任して宗室の重臣を外へ追いやり、諫言を退けて遊猟と改制に耽り、母妻を秦から取り戻すために伎人を献じ、さらに楽人を補うため晉の宿豫・済南を掠める。これを機に劉裕が北伐し、大峴を越えて臨朐で大破、広固を包囲して陥れ、超は建康で斬られた。

年表(6件)
  • 晉安帝
  • 義熙元年・慕容超の生い立ち405年慕容超が南燕へ帰り、備徳の没後に即位して太上と改元する
  • 二年406年公孫五楼の讒言から慕容鍾・慕容法らが叛き、宗室の重臣が相次いで亡命する
  • 三年407年秦に藩と称し太楽の伎人を献じて、母と妻を返してもらう
  • 四年408年南郊の怪異に恐れて大赦し五楼を退けるが、まもなく再び用いる
  • 五年409年伎人を得ようと宿豫・済南を掠め、劉裕の北伐を招いて臨朐で大敗する
  • 六年410年広固が陥落して慕容超は捕らえられ、建康へ送られて斬られる

晉安帝義熙元年(405年)・慕容超の生い立ち

  • 南燕主慕容備徳はかつて秦に仕えて張掖太守となり、兄の慕容納と母の公孫氏は張掖にいた。備徳が秦王苻堅の淮南侵攻に従った際、金の刀を母に預けて別れた。のち備徳が燕主慕容垂とともに山東で挙兵すると、張掖太守の苻昌が納と備徳の子らを捕らえて皆殺した。公孫氏は高齢ゆえに免れ、納の妻段氏は妊娠中で判決が下っていなかった。獄掾の呼延平は備徳の旧吏で、ひそかに公孫氏と段氏を羌の地に逃がした。
  • 段氏は子の慕容超を生んだ。超が十歳のとき公孫氏が病没し、臨終に金刀を超に授け「東に帰れたらこの刀を叔父に返せ」と言い残した。呼延平は超母子を涼に逃がし、呂隆が秦に降ると超は涼州の民とともに長安に移された。呼延平の没後、段氏は超にその娘を娶らせた。
  • 超は秦に登用されるのを恐れて狂人を装い物乞いをした。秦人は超を軽んじたが、東平公苻紹だけは非凡と見て秦王姚興に「慕容超は容貌堂々として本当の狂人ではあるまい。官爵を与えて繋ぎとめては」と進言した。興が召して語らせると超はわざと的外れに答え、あるいは黙り込んだ。興は紹に「妍皮不裹癡骨(美しい皮は愚かな骨を包まぬ)というが、あれは出まかせだな」と言って帰した。
  • 備徳は納の遺腹の子が秦にいると聞き、済陰の人呉辯を派して探らせた。辯は同郷で長安で占いをしていた宗正謙を通じて超に伝え、超は母と妻にも告げずひそかに謙と姓名を変えて南燕へ逃れた。梁父に至ったとき、鎮南長史の悦寿が兖州刺史慕容法に報せたが、法は「昔漢に衛太子を騙る占者がいた。その類かもしれぬ」と礼遇しなかった。超はこれを恨み、法と溝ができた。
  • 備徳は超の到着を大いに喜び、騎三百を迎えにやった。超が広固で金刀を献ずると、備徳は慟哭して悲しみをこらえきれず、超を北海王に封じ、侍中・驃騎大将軍・司隷校尉に任じ、府を開いて当代の賢者を僚佐に選ばせた。備徳には子がなく、超を跡継ぎにしようとした。超は宮中では孝養を尽くし、外では身を低くして士に接したので、内外の人望が一挙に集まった。
  • 秋九月、汝水が涸れた。備徳はこれを凶兆として嫌い、まもなく病臥した。超が祈禱を願い出ると備徳は「人主の寿命は天にあり、汝水が左右するものではない」と拒み、強く願っても許さなかった。
  • 戊午、備徳は東陽殿に群臣を引見して超の立太子を議した。ところが地震が起こり百官は驚き恐れ、備徳も落ち着かぬまま宮に還った。その夜病が重くなり、目も開かず口もきけなくなった。段后が大声で「中書を召して超を太子に立てる詔を作らせてよいか」と問うと、備徳は目を開いてうなずいた。そこで超を皇太子に立て、大赦した。備徳はまもなく没し、十余の棺を作って夜半に四門から出し、山谷にひそかに埋葬した。
  • 己未、超が皇帝に即位して大赦し、太上と改元、段后を皇太后とした。北地王慕容鍾を都督中外諸軍・録尚書事、慕容法を征南大将軍・都督徐兖揚南兖四州諸軍事とし、慕容鎮に開府儀同三司を加え、尚書令封孚を太尉、麴仲を司空、封嵩を尚書左僕射とした。癸亥、備徳を東陽陵に虚葬し、諡を献武皇帝、廟号を世宗とした。
  • 超は側近の公孫五楼を腹心とした。備徳以来の大臣である北地王鍾や段宏らは不安を覚えて外任を求め、超は鍾を青州牧、宏を徐州刺史とし、公孫五楼を武衛将軍・領屯騎校尉として内政に参与させた。封孚は「親しき者は外に置かず、旅人は内に置かぬもの。鍾は宗室の重臣、宏は外戚の望まれる人で、朝廷で補佐すべきであって遠方に鎮すべきではない。鍾らを外藩に出して五楼を内で輔けさせるのは危うい」と諫めたが、超は聞かなかった。鍾と宏は不満で「黄犬の皮ではしょせん狐裘の繕いはできまい」と語り合い、五楼はこれを聞いて恨んだ。

二年(406年)

  • 南燕主超の猜疑と暴虐が日ごとに募り、政は権臣・寵臣から出て、超は遊猟に耽った。封孚と韓□がたびたび諫めても聞かない。あるとき超が孚に「朕は前代のどの君主に比べられるか」と問うと、孚は「桀・紂です」と答えた。超は恥じて怒ったが、孚は顔色も変えずゆっくり退出した。鞠仲が「天子に対してその言い方はない。戻って謝罪せよ」と言うと、孚は「七十になって求めるのは死に場所だけだ」と言い、ついに謝らなかった。超は当時の名望ゆえに容認した。
  • 秋九月、公孫五楼が朝権を独占しようとして北地王鍾を讒言し、誅殺を請うた。備徳の死に際して慕容法が奔喪しなかったため、超は使者を送って責めていた。法は恐れて鍾・段宏と謀反を謀った。超はこれを聞いて鍾を召したが鍾は病と称して来ず、その一党の侍中慕容統らを捕らえて殺した。征南司馬の卜珍が「左僕射封嵩がしばしば法と行き来している」と告発し、超は嵩を廷尉に下した。太后は恐れて泣きながら超に「嵩はしばしば黄門令の牟常を遣わして『帝は太后の生んだ子ではない、永康の故事のように殺されるかもしれぬ』と言ってきた。私は女の浅知恵で法に話し、法はそれで謀を起こした。私が誤らせたのだ」と告げた。超は嵩を車裂きにした。西中郎将封融は魏へ亡命した。
  • 超は慕容鎮に青州、慕容昱に徐州、右僕射の済陽王慕容凝と韓範に兖州を攻めさせた。昱は莒城を陥れ、段宏は魏へ亡命した。封融は群盗と石塞城を襲い、鎮西大将軍慕容余鬱を殺したので国中が動揺した。済陽王凝は韓範を殺して広固を襲おうと謀ったが、範が察知して兵を挙げて凝を攻め、凝は梁父へ逃げた。範は凝の軍も併せて梁父を攻略し、法は魏へ、凝は秦へ亡命した。慕容鎮は青州を平定し、鍾は妻子を殺して地下道から脱出し、高都公慕容始とともに秦へ亡命した。秦は鍾を始平太守、凝を侍中とした。
  • 超は旧制を改めるのを好み、朝野の不興を買った。さらに肉刑を復活させ、烹殺・車裂の法を加えようとしたが、衆議が合わず取りやめた。
  • 冬十月、封孚が没した。

三年(407年)

  • 超の母と妻はなお秦にいた。超は御史中丞の封愷を秦に遣わして返還を請うた。秦王姚興は「昔苻氏が敗れたとき太楽の伎人はみな燕に入った。燕が今藩を称して伎人を送るか、あるいは呉の捕虜千人を送れば、願いは叶えよう」と答えた。
  • 超が群臣と議すると、左僕射段暉は「陛下は社稷を継がれた身、私的な肉親のために尊号を下げるべきではない。太楽は先代の遺音で渡せぬ。呉の民を掠って与えるほうがよい」と言い、尚書張華は「隣国を侵せば兵禍が連鎖する。こちらが行けるなら向こうも来られる。国家の福ではない。慈母が人の手中にあるのに、虚名を惜しんで身を屈しないでよいか」と言った。中書令韓範はかつて秦王とともに苻氏の太子舎人だったので、彼を遣わせば志を得られるという。超はこれに従い、韓範を秦に遣わして藩を称し表を奉らせた。
  • 慕容凝は姚興に「燕王が母妻を得れば二度と臣従しません。まず伎人を送らせるべきです」と言った。興は範に「燕王の家族は必ず返す。ただ今は暑いから秋の涼しくなるのを待て」と告げた。
  • 八月、秦が員外散騎常侍の韋宗を燕に遣わした。超が韋宗に会う礼を群臣と議すると、張華は「すでに表を奉った以上、北面して詔を受けるべきだ」と言い、封逞は「大燕は七代にわたり栄えてきた。なぜ一朝にして小僧に節を屈するのか」と言った。超は「私は太后のために屈するのだ。皆もう言うな」と言い、北面して詔を受けた。
  • 冬十月、超は左僕射張華と給事中宗正元に太楽の伎人百二十人を秦に献じさせた。秦王興は超の母と妻を返し、手厚く資を添えて送り出した。超は後宮を率いて馬耳関まで出迎えた。

四年(408年)

  • 春正月、超は母段氏を皇太后、妻呼延氏を皇后とした。超が南郊を祀ると、鼠に似て赤く馬ほど大きい獣が壇の傍らに来た。まもなく大風が吹いて昼なお暗くなり、儀仗も帷幕も破れ裂けた。超が恐れて太史令成公綏に問うと、「陛下が姦佞を信任し賢良を誅戮し、賦斂が多く労役が重いためです」と答えた。超は大赦して公孫五楼らを退けたが、まもなくまた用いた。
  • 冬十一月、南燕で汝水が涸れ、黄河も凍結したのに澠水だけ凍らなかった。超が凶兆として嫌い李宣に問うと、「澠水が凍らぬのは京城に近く日月の光を帯びているからです」と答え、超は大喜びして朝服一具を賜った。

五年(409年)

  • 春正月庚寅朔、超は群臣の朝会で太楽の楽人が足りないと嘆き、晉の民を掠って伎人を補う議を出した。領軍将軍韓□は「先帝は旧都が陥落したため三斉に翼を収められた。陛下は士を養い民を休ませて魏の隙を伺い先業を回復すべきなのに、逆に南の隣国を侵して仇敵を増やしてよいのですか」と諫めたが、超は「私の計はもう決まっている。お前とは話さぬ」と言った。
  • 二月、南燕の将慕容興宗・斛穀提・公孫帰らが騎兵で宿豫を襲って陥れ、大いに掠奪して去り、男女二千五百人を選んで太楽に付し伎を教えた。帰は五楼の兄である。当時五楼は侍中・尚書・領左衛将軍として朝政を専断し、一族もみな顕職に就き、王公も内外の者もみな憚った。
  • 超は宿豫の功を論じて斛穀提らを郡公・県公に封じた。桂林王慕容鎮は「この者たちは民を苦しめ兵を疲れさせ、国のために怨みを結んだだけ。何の功があって封ずるのか」と諫めたが、超は怒って答えなかった。尚書都令史の王儼は五楼に諂って毎年昇進し左丞に至り、国人は「侯になりたければ五楼に仕えよ」と言い交わした。
  • 超はさらに公孫帰らに済南を侵させ、男女千余人を捕らえて去った。彭城以南の民はみな砦に籠って自衛し、朝廷は并州刺史劉道憐に淮陰を鎮させて備えさせた。
  • 三月、劉裕が上表して南燕討伐を主張した。朝議はみな不可としたが、左僕射孟昶・車騎司馬謝裕・参軍臧熹だけは必勝と見て出兵を勧めた。裕は孟昶に中軍留府の事を監させた。謝裕は謝安の兄の孫である。
  • 己巳、劉裕は建康を発ち、水軍を率いて淮から泗に入った。五月に下邳に至り、船艦と輜重を残して徒歩で琅邪まで進み、通過する地に城を築いて兵を残し守らせた。ある者が「燕人が大峴の険を塞ぎ、堅壁清野の策を取れば、大軍は深入りして功もなく帰ることもできなくなる」と言うと、裕は「熟考済みだ。鮮卑は貪欲で遠謀を知らぬ。進んでは獲物を求め、退いては禾苗を惜しむ。わが軍を孤軍深入りで長続きしないと見て、せいぜい臨朐に拠るか広固に退くかで、険を守り野を焼くことなどできぬ。諸君に保証する」と答えた。
  • 超は晉軍の来襲を聞いて群臣を集めた。征虜将軍公孫五楼は三策を挙げた。上策は、呉兵は軽捷で速戦を利とするから正面から争わず大峴に拠って入らせず、時を延ばして鋭気を挫き、しかるのち精騎二千を選んで海沿いに南下させ糧道を断ち、別に段暉に兖州の兵で山伝いに東から下らせて挟撃する。中策は、各地の長官に険に拠って自守させ、必要な蓄え以外はすべて焼き払い、禾苗を刈って敵に資するものを無くす。敵は補給なき遠征軍で、戦おうにも戦えず、一月ほどで座して制せる。下策は、賊を大峴に入らせて城を出て迎え撃つこと。
  • 超は「今年は歳星が斉にある。天道から言えば戦わずして勝てる。人事から言っても敵は遠来で疲れており長続きしない。わが方は五州の地に拠り富裕な民を擁し、鉄騎は万を数え麦も野に満ちている。なぜ苗を刈り民を移して自ら弱めるのか。大峴に入らせて精騎で踏みにじればよい」と言った。輔国将軍広寧王賀頼盧が苦諫しても聞かず、盧は退いて五楼に「これでは滅亡は目前だ」と言った。
  • 太尉桂林王鎮も「陛下が騎兵は平地に利ありとお考えなら、大峴を出て迎え撃つべきです。負けてもなお退いて守れます。敵を峴に入れて自ら険固を捨てるべきではありません」と言ったが、超は従わなかった。鎮は退いて韓□に「主上は迎え撃って敵を退けることもせず、民を移して野を清めることもせず、敵を腹中に引き入れて包囲を待つ。まるで劉璋だ。今年国は滅び、私は必ず死ぬ。あなたは中華の士なのにまた入れ墨の民に戻るのか」と語った。超は激怒して鎮を投獄した。そのうえで莒・梁父の二戍を引き上げ、城濠を修め兵馬を整えて待った。
  • 劉裕が大峴を越えても燕兵は出てこなかった。裕は天を指して喜色を浮かべた。左右が「敵を見ぬうちから喜ぶのはなぜですか」と問うと、「兵はすでに険を越え、士には必死の志がある。余った糧は畝に積まれ、人に欠乏の憂いがない。敵はすでにわが掌中だ」と答えた。
  • 六月己巳、裕は東莞に至った。超は先に公孫五楼・賀頼盧・左将軍段暉らに歩騎五万を与えて臨朐に駐屯させ、晉兵が峴を越えたと聞いて自ら歩騎四万を率いて合流し、五楼に騎兵で巨蔑水を押さえさせた。前鋒の孟龍符がこれと戦って破り、五楼は退いた。裕は車四千乗を左右の翼とし、隊列を組んで徐々に進み、臨朐の南で燕兵と戦った。日が傾いても勝負がつかない。
  • 参軍胡藩が「燕は全兵力を出して戦っており、臨朐城の守りは手薄なはず。奇兵を間道からやって城を取るべきです。韓信が趙を破った手です」と進言した。裕は藩と諮議参軍檀韶・建威将軍の河内向彌にひそかに燕兵の背後へ回らせ、臨朐を攻めさせて「軽兵が海路から来たぞ」と言い触らした。向彌が甲冑を着けて先登し、城を陥れた。超は大いに驚き単騎で城南の段暉のもとへ走った。裕は乗じて兵を放って奮撃し、燕軍は大敗、段暉ら大将十余人が斬られた。超は広固に逃げ帰り、玉璽・輦・豹尾が奪われた。
  • 裕は勝ちに乗じて広固まで追い、丙子に大城を陥れた。超は兵を収めて小城に籠った。裕は長囲を築いて包囲し、囲いは高さ三丈、塹壕は三重に穿った。降伏する者を受け入れ賢俊を抜擢したので、華夷ともに大いに喜んだ。斉の地の糧を用いることができたので、江淮からの漕運はすべて停止した。
  • 超は尚書郎張綱を秦へ派して救援を乞い、桂林王鎮を赦して録尚書・都督中外諸軍事とし、引見して謝したうえで策を問うた。鎮は「百姓の心は一人に懸かる。今陛下は自ら六師を率いて敗走され、群臣は離心し士民は気を落としています。秦は内患を抱え兵を分けて人を救う余裕はありますまい。散った兵で戻った者はなお数万います。金帛をすべて出して餌とし、もう一戦を決すべきです。天命がわれを助けるなら敵を破れましょうし、そうでなくとも死ねば美名が残る。門を閉じて滅びを待つよりましです」と言った。
  • 司徒楽浪王慕容恵は「そうではない。晉兵は勝ちに乗じて気勢は百倍。敗軍の卒で当たるのは難しい。秦は勃勃と対峙しているが憂うるに足らず、中原を分け合う唇歯の関係だから救わぬはずがない。ただし大臣を遣わさねば重兵は得られぬ。尚書令韓範は燕でも秦でも重んじられているから彼を遣わすべきだ」と言った。超はこれに従った。
  • 秋七月、劉裕に北青州・冀州二州刺史が加えられた。南燕の尚書である略陽の垣尊とその弟の京兆太守垣苗が城を越えて降った。裕は行参軍とした。尊と苗は超が腹心として重用していた者である。
  • ある者が「張綱は巧妙な工作の才がある。彼に攻城具を作らせれば広固は必ず落ちる」と裕に言った。ちょうど綱が長安から戻るところを太山太守申宣が捕らえて裕に送った。裕は綱を楼車に載せて城を回らせ、「劉勃勃が秦軍を大破した。救援はない」と叫ばせた。城中は色を失った。江南から兵や使者が広固に来るたび、裕はひそかに夜のうちに迎え、翌日に旗を張り鼓を鳴らして到着させた。北方の民で武器を執り糧を負って裕に帰する者が日に千を数えた。
  • 包囲が厳しくなり、張華と封愷も裕に捕らえられた。超は大峴以南の地を割いて藩臣となると申し出たが裕は許さなかった。
  • 秦王姚興が使者を送って裕に「慕容氏とは隣好の間柄。今晉の攻めが急なので、秦はすでに鉄騎十万を洛陽に置いた。晉軍が退かねば長駆して進む」と伝えた。裕は秦の使者を呼びつけ「姚興に伝えよ。燕を平らげたら三年兵を休め、それから関中と洛陽を取る。今すぐ来たいなら早く来い」と言った。劉穆之は秦使が来たと聞いて駆けつけたがすでに去っており、裕から内容を聞いて咎めた。「常日ごろ大小を問わずお計りくださるのに、これこそ慎重に考えるべきでした。なぜ即答されたのですか。あの言葉では敵を威すに足りず、怒らせるだけです。広固が落ちぬうちに羌の軍が来たらどうなさる」。裕は笑って「これは兵機だ、君にはわからぬから話さなかった。兵は神速を貴ぶ。本当に救援に来られるなら、こちらに知られるのを恐れて先に使者など寄こすまい。あれは誇張だ。晉軍が出て久しいのに動かぬのは、羌が斉討伐を見て内心恐れ、自保に手一杯だからだ。人を救う余裕などない」と答えた。
  • 秋八月、封融が裕のもとに来て降った。
  • 先に秦王興は衛将軍姚彊に歩騎一万を与え、韓範に従って洛陽の姚紹と合流し南燕を救わせようとしていたが、勃勃に敗れたため姚彊の兵を長安に呼び戻した。韓範は「天が燕を滅ぼすのだ」と嘆じた。
  • 南燕の尚書張俊が長安から戻って劉裕に降り、「燕人が頼みとするのは韓範が秦の援軍を連れてくることです。範を得て示せば燕は必ず降ります」と説いた。裕は範を散騎常侍に推挙する表を出し、書状で招いた。長水校尉の王蒲は範に秦へ亡命するよう勧めたが、範は「劉裕は布衣から起って桓玄を滅ぼし晉室を回復した。今燕を伐って向かうところ崩れる。これは天授であって人力ではない。燕が滅べば次は秦だ。二度も辱めを受けるわけにいかぬ」と言い、裕に降った。裕は範を城の周りに連れて回らせ、城中の人心は離れ沮喪した。ある者が超に範の一族を誅すよう勧めたが、超は範の弟の韓□が忠を尽くして二心なきことを理由に、範の一族もろとも赦した。
  • 冬十月、段宏が魏から裕のもとへ来た。張綱は裕のために攻城具を造り、あらゆる巧みな仕掛けを尽くした。超は怒って綱の母を城上に吊るし、手足を切り離して殺した。
  • 冬十二月乙巳、太白星が虚・危の宿を犯した。南燕の霊台令張光が超に降伏を勧め、超は自ら手を下して殺した。

六年(410年)

  • 春正月甲寅朔、超は天門に登り、城上で群臣の朝を受けた。乙卯、超は寵姫の魏夫人とともに城に登り、晉兵の盛んなさまを見て手を取り合って泣いた。韓□が「陛下は塞がれた運に遭われた今こそ努めて自ら強くし、士民の志を奮い立たせるべきなのに、女子供のように泣かれるのか」と諫めると、超は目を拭って謝した。尚書令の董銑が降伏を勧めると、超は怒って投獄した。
  • 二月、南燕の賀頼盧と公孫五楼が地下道を掘って出撃したが晉兵を退けられなかった。城を閉ざして久しく、城中の男女は脚気を患う者が過半となり、降る者が相次いだ。超は輦に乗って城に登った。尚書の悦寿が「今や天が敵を助けて猛威をふるい、戦士は疲弊し、孤城を守るのみで外援の望みは絶えました。歴数が終わったなら堯舜も位を譲りました。陛下も変通の計をお考えになっては」と説いたが、超は「興廃は運命だ。私は剣を振るって死ぬことはあっても、璧を銜えて生き延びはせぬ」と嘆じた。
  • 丁亥、劉裕が全軍で城を攻めた。ある者が「今日は往亡の日で出師に不利です」と言うと、裕は「われが往って彼が亡ぶのだ。何が不利か」と言い、四面から急攻した。悦寿が門を開いて晉軍を入れた。超は左右数十騎とともに城を越えて包囲を突破したが、追いつかれて捕らえられた。裕が降らなかった罪を数え立てても、超は顔色ひとつ変えず一言も発せず、ただ母を劉敬宣に託しただけだった。
  • 裕は広固がなかなか落ちなかったのを怒り、城中の者をみな坑にして妻女を将士への褒賞にしようとした。韓範が「晉室が南遷して中原は鼎の沸くごとく、士民は援けなく、強い者に付いてきました。ひとたび君臣となれば力を尽くさねばなりません。彼らはみな衣冠の旧族、先帝の遺民です。今、王師が罪を問い民を弔うと称しながら皆殺しにすれば、彼らはどこへ帰せばよいのか。西北の人々が蘇生を望む心を失うのではと恐れます」と諫めた。裕は顔色を改めて謝したが、なお王公以下三千人を斬り、一万余の家族を没収し、城と濠を平らげた。超は建康に送られて斬られた。

史論(臣光曰)

  • 晉は江を渡って以来威光が振るわず、戎狄が横行して中原を食い荒らしてきた。劉裕は初めて王師をもって東夏を平定した。まさにこのときにこそ賢俊を礼遇し疲れた民を慰撫し、和やかな風を広め残虐な政治を洗い流して、士人を靡かせ遺民に希望を抱かせるべきだった。ところが逆に恣意の殺戮で憤りを晴らした。そのやり口は苻氏・姚氏にすら及ばない。四海を統一して大業を成せなかったのも当然である。智勇はあっても仁義がなかったからだ。