通鑑紀事本末乞伏氏、金城に拠る(乞伏據金城)
隴西の鮮卑の乞伏氏が苑川に興り、司繁が前秦に降ったのち、その子の国仁が肥水の敗に乗じて自立し、弟の乾帰が金城・苑川に都して西秦王を称するまで。乾帰は後秦の姚碩徳に大敗して南涼を経て姚興に降り、のち苑川に還って再び秦王に即く。最後は乞伏公府に弑され、子の熾磐が公府を誅して河南王、のち秦王を称する。晉の咸和四年(329年)から義熙十年(414年)までの八十六年間。
年表(29件)
- 晉成帝
- 咸和四年329年乞伏述延が苑川に拠って強盛となり、趙の滅亡を恐れて麦田へ移る
- 簡文帝
- 咸安元年371年乞伏司繁が王統に破れて秦に降り、南単于として長安に留められる
- 孝武帝
- 寧康元年[^1]373年司繁が勃寒を降し、そのまま勇士川を鎮する
- 太元元年376年司繁が死んで子の国仁が立つ
- 太元八年383年苻堅の敗に乗じ、国仁が諸部を併せて衆十余万を得る
- 太元十年385年国仁が大都督・大単于を称して建義と改元し、勇士城に都する
- 太元十一年386年祕宜の五万を破り、のちその三万余戸の帰服を受ける
- 太元十二年387年苻登に苑川王とされ、没奕干・金熙を渇渾川に破る
- 太元十三年388年国仁が死に、弟の乾帰が河南王に推されて金城に遷都する
- 太元十四年389年苻登に金城王とされ、秦涼の鮮卑・羌胡が多く帰服する
- 太元十五年390年越質詰帰が平襄に拠って叛く
- 太元十六年391年乾帰が詰帰を降し、宗室の女を妻とさせる
- 太元十八年393年子の熾磐を太子に立てる
- 太元十九年394年楊定と苻崇を斬って隴西を尽く有し、自ら秦王と称する
- 太元二十年395年魏武・晉文の故事に倣って官を整え、西城へ移る
- 太元二十一年396年越質詰帰が二万戸を率いて叛き、秦に降る
- 安帝
- 隆安元年397年吕光の四道の侵攻を受けるが、吕延を誘い出して戦死させ退ける
- 隆安三年399年丞相の出連乞都が死に、辛静を右丞相とする
- 隆安四年400年姚碩徳に大敗して部衆を失い、南涼を経て後秦に降る
- 隆安五年401年姚興に許されて苑川へ還り、旧部衆を返される
- 元興元年402年熾磐が苑川へ逃げ帰り、秦に入朝して興晉太守となる
- 義熙二年406年乾帰が後秦に入朝する
- 義熙三年407年姚興が乾帰を長安に留め、熾磐にその部衆を監させる
- 義熙四年408年熾磐が二万余人を集めて嵻㟍山に城を築き自立の構えを取る
- 義熙五年409年熾磐が枹罕を取り、乾帰は度堅山で改めて秦王に即く
- 義熙六年410年金城郡と略陽・南安・隴西を攻め取り、苑川に都を戻す
- 義熙七年411年姚興に謝して河南王を受け、諸部を移して子弟を諸城に鎮させる
- 義熙八年412年乞伏公府が乾帰を弑し、熾磐がこれを誅して河南王を称する
- 義熙十年414年熾磐が改めて秦王と称し、百官を置く
晉成帝咸和四年(329年)
- 初め、隴西の鮮卑の乞伏述延が苑川に居て、隣の部を侵し併せ、士馬は強盛だった。趙が滅ぶと、述延は恐れて麦田へ移った。述延が死んで子の傉大寒が立ち、傉大寒が死んで子の司繁が立った。
簡文帝咸安元年(371年)
- 秦の益州刺史の王統が隴西の鮮卑の乞伏司繁を度堅山に攻めた。司繁は騎三万を率いて苑川で王統を拒んだが、統は密かに度堅山を襲い、司繁の部落五万余がみな統に降った。その衆は妻子がすでに秦に降ったと聞いて、戦わずに潰えた。
- 司繁は帰る所がなく、彼もまた王統のもとへ詣でて降った。秦王の苻堅は司繁を南単于として長安に留め、司繁の従叔の乞伏吐雷を勇士護軍としてその部衆を撫させた。
孝武帝寧康元年(373年)
- 鮮卑の勃寒が隴右を侵し掠めた。秦王の苻堅は乞伏司繁に討たせ、勃寒は降を請うた。そのまま司繁に勇士川を鎮させた。
太元元年(376年)
- 乞伏司繁が死に、子の国仁が立った。
太元八年(383年)
- 秦王の苻堅が晋を侵したとき、乞伏国仁を前将軍として先鋒の騎を領させた。ちょうど国仁の叔父の乞伏歩頽が隴西で反いたので、堅は国仁を還して討たせた。
- 歩頽はこれを聞いて大いに喜び、国仁を路に迎えた。国仁は酒を置いて大言した——苻氏は民を疲れさせ兵を逞しくしている。まさに亡びようとしているのだ。私は諸君と共に一方の業を建てよう。
- 苻堅が敗れると、国仁は諸部を逼り脅し、従わぬ者は撃って併せ、衆は十余万に達した。
太元十年(385年)
- 秋九月、乞伏国仁が自ら大都督・大将軍・単于・領秦河二州牧と称し、建義と改元した。乙旃童渥を左相、屋引出支を右相、独孤匹蹄を左輔、武羣勇士を右輔とし、弟の乞伏乾帰を上将軍とした。その地を分けて武城など十二郡を置き、勇士城を築いて都とした。
太元十一年(386年)
- 春正月、南安の祕宜が羌胡五万余人を率いて乞伏国仁を攻めた。国仁は兵五千を率いて迎え撃ち大破し、祕宜は南安へ走り帰った。
- 秋七月、祕宜が莫侯悌眷とともにその衆三万余戸を率いて乞伏国仁に降った。国仁は祕宜を東秦州刺史、悌眷を梁州刺史に拝した。
太元十二年(387年)
- 春三月、秦主の苻登が乞伏国仁を大将軍・大単于・苑川王とした。
- 夏六月、苑川王の国仁が騎三万を率いて鮮卑の大人の密貴・裕苟・提倫の三部を六泉に襲った。秋七月、没奕干・金熙と渇渾川で戦い、没奕干と金熙は大敗し、三部はみな降った。
太元十三年(388年)
- 夏四月、苑川王の国仁が鮮卑の越質叱黎を平襄で破り、その子の詰帰を捕らえた。
- 六月、苑川王の乞伏国仁が死に、宣烈と諡し、廟号を烈祖とした。その子の乞伏公府はまだ幼く、部下は国仁の弟の乾帰を大都督・大将軍・大単于・河南王に推し、大赦して太初と改元した。
- 秋七月、河南王の乾帰がその妻の辺氏を王后に立て、漢の制に倣って百官を置いた。南川侯の出連乞都を丞相、梁州刺史の悌眷を御史大夫、辺芮(金城の人)を左長史、東秦州刺史の祕宜を右長史、翟勍(武始の人)を左司馬、王松寿(略陽の人)を主簿、従弟の軻弾を梁州牧、弟の乞伏益州を秦州牧、乞伏屈眷を河州牧とした。
- 九月、河南王が金城に遷都した。
太元十四年(389年)
- 春正月、秦主の苻登が河南王の乾帰を大将軍・大単于・金城王とした。
- 夏五月、金城王の乾帰が侯年部を撃って大破した。こうして秦・涼の鮮卑・羌胡の多くが乾帰に付いた。
- 冬十一月、抱罕の羌の彭奚念が乾帰に付き、奚念を北河州刺史とした。
太元十五年(390年)
- 冬十二月、越質詰帰が平襄に拠って金城王の乾帰に叛いた。
太元十六年(391年)
- 春正月、金城王の乾帰が越質詰帰を撃ち、詰帰は降った。乾帰は宗室の女を妻とさせた。
太元十八年(393年)
- 金城王の乾帰がその子の熾磐を太子に立てた。熾磐は勇略と明察・決断が父に勝っていた。
太元十九年(394年)
- 春正月、秦主の苻登が使者を遣って金城王の乾帰を左丞相・河南王・領秦梁益涼沙五州牧に拝し、九錫を加えた。
- 夏六月、秦主の苻登が乾帰を梁王に進封し、その妹を納れて梁王后とした。
- 冬十月、秦主の苻崇が梁王の乾帰に逐われ、隴西王の楊定のもとへ走った。定は苻崇とともに乾帰を攻めた。乾帰は涼州牧の軻弾、秦州牧の乞伏益州、立義将軍の詰帰に騎三万を率いさせて拒ませ、楊定の兵を大敗させて楊定と苻崇を殺し、斬首一万七千級。乾帰はこうして隴西の地をことごとく有した。
- 十一月、梁王の乾帰が自ら秦王と称し、大赦した。
太元二十年(395年)
- 春正月、西秦王の乾帰が太子の熾磐に尚書令を領させ、左長史の辺芮を左僕射、右長史の祕宜を右僕射とした。官の設置はみな魏の武帝・晋の文帝の故事に倣ったが、なお大単于・大将軍と称し、辺芮らは府佐をもとのまま領した。
- 夏六月、西秦王の乾帰が西城へ移った。
太元二十一年(396年)
- 越質詰帰が二万戸を率いて西秦に叛き、秦に降った。
安帝隆安元年(397年)
- 春正月、涼王の吕光が、西秦王の乾帰のたびたびの反覆を理由に兵を挙げて伐った。乾帰の部下は東の成紀へ走って避けるよう請うたが、乾帰は言った——軍の勝敗は巧拙にあって衆寡にはない。光の兵は多いが法がなく、その弟の吕延は勇はあっても謀がない。憚るに足りぬ。しかもその精兵はみな吕延のもとにある。延が敗れれば光は自ら走ろう。
- 光は長最に軍し、太原公の吕纂らに歩騎三万を率いさせて金城を攻めさせた。乾帰は二万を率いて救ったが、着かぬうちに吕纂らが金城を落とした。光はまた将の梁恭らに甲卒一万余で陽武の下峡を出させ、秦州刺史の没奕干とともにその東を攻めさせ、天水公の吕延に枹罕の衆で臨洮・武始・河関を攻めさせ、みな克した。
- 乾帰は人を遣って吕延に偽って告げた——乾帰の衆は潰えて成紀へ走った。延が軽騎で追おうとすると司馬の耿稚が諫めたが、延は従わず、進んで乾帰と遭遇して戦い、延は戦死した。耿稚は将軍の姜顕とともに散兵を収めて枹罕に屯し、光もまた兵を率いて姑臧に還った。
- 夏六月、西秦王の乾帰が北河州刺史の彭奚念を徴して鎮衛将軍とし、鎮西将軍の屋弘破光を河州牧、定州刺史の翟瑥を晋興太守として枹罕に鎮させた。
隆安三年(399年)
- 西秦の丞相の出連乞都が死んだ。冬十月、金城太守の辛静を右丞相とした。
隆安四年(400年)
- 春正月、西秦王の乾帰が苑川へ遷都した。
- 夏五月、秦の征西大将軍・隴西公の姚碩徳が兵五千を率いて西秦を伐ち、南安峡から入った。西秦王の乾帰は諸将を率いて拒み、隴西に軍した。
- 秋七月、西秦王の乾帰が武衛将軍の慕兀らを屯守させ、秦軍の樵採の路を絶った。秦王の姚興は密かに兵を率いて救った。
- 乾帰はこれを聞いて慕兀に中軍二万を率いさせて柏楊に屯させ、鎮軍将軍の羅敦に外軍四万を率いさせて侯辰谷に屯させ、自ら軽騎数千を率いて前へ出て秦兵を偵察した。ところが大風と霧に遭って中軍とはぐれ、追騎に逼られて外軍に入った。翌朝、秦と戦って大敗し、苑川へ走り帰った。その部衆三万六千はみな秦に降った。
- 姚興が枹罕へ進軍し、乾帰は金城へ走り、諸豪帥に言った——私は不才ながら名号を盗んで一紀を過ぎた。今こうして敗れ散り、敵に当たる術がない。西へ允吾を保とうと思うが、国を挙げて去れば必ず免れまい。卿らはここに留まり、それぞれの衆をもって秦に降り、宗族を全うせよ。私に随ってはならぬ。
- みな言った——生死ともに陛下に従いたい。乾帰は言った——私はこれから人に寄食する身だ。天が私を亡ぼさぬなら、いつか旧業を回復して改めて卿らと会えよう。今、随って死んでも益はない。そして大いに哭して別れた。
- 乾帰は独り数百騎を率いて允吾へ走り、武威王の禿髪利鹿孤に降を乞うた。利鹿孤は広武公の禿髪傉檀を遣って迎え、晋興に置いて上賓の礼で待遇した。
- 鎮北将軍の禿髪俱延が利鹿孤に言った——乾帰はもと我らの属国でしたが、乱に因って自ら尊んだ。今、勢いが窮まって命を帰したので、その誠意ではありません。もし逃げて姚氏に帰せば必ず国の患いとなる。乙弗の間へ移し置いて去れぬようにするほうがよい。
- 利鹿孤は言った——彼は窮して我に帰したのだ。それを迎えるなり心を疑っては、何をもって来る者を勧められよう。俱延は利鹿孤の弟である。
- 秦兵が退くと、南羌の梁戈らが密かに乾帰を招いた。乾帰が応じようとすると、その臣の屋引阿落が晋興太守の陰暢に告げ、暢は馳せて利鹿孤に報せた。利鹿孤は弟の吐雷に騎三千を率いさせて捫天嶺に屯させた。
- 乾帰は利鹿孤に殺されるのを恐れ、太子の熾磐に言った——我ら父子はここにいては必ず利鹿孤に容れられぬ。今、姚氏はまさに強い。私は帰そうと思う。一族すべてで行けば必ず追騎に及ばれる。お前たち兄弟とお前の母を人質とすれば、彼は必ず疑わぬ。私が長安にいれば、彼もついにお前たちを害すまい。そして熾磐らを西平へ送った。
- 八月、乾帰は南の枹罕へ走り、そのまま秦に降った。
- 冬十一月、乞伏乾帰が長安に至り、秦王の姚興は都督河南諸軍事・河州刺史・帰義侯とした。
- しばらくして乞伏熾磐が逃げて乾帰のもとへ行こうとしたが、武威王の利鹿孤が追い捕らえた。利鹿孤が熾磐を殺そうとすると、広武公の傉檀が言った——子が父のもとへ帰ろうとしたのは深く責めるには足りません。宥して大度を示すべきです。利鹿孤は従った。
隆安五年(401年)
- 春二月、秦王の姚興が乞伏乾帰を還して苑川に鎮させ、その旧部衆をことごとく配した。
- 夏四月、乞伏乾帰が苑川に至り、辺芮を長史、王松寿を司馬とした。公卿や将帥はみな降されて僚佐や偏裨となった。
元興元年(402年)
- 夏四月、乞伏熾磐が西平から苑川へ逃げ帰り、南涼王の傉檀がその妻子を帰した。乞伏乾帰は熾磐を秦へ入朝させ、秦主の姚興は熾磐を興晋太守とした。
義熙二年(406年)
- 十一月、乞伏乾帰が秦に入朝した。
義熙三年(407年)
- 春正月、秦主の姚興は乞伏乾帰がしだいに強くなって制しがたいと見て、留めて主客尚書とし、その世子の熾磐に行西夷校尉としてその部衆を監させた。
義熙四年(408年)
- 乞伏熾磐は秦の政がしだいに衰えたのを見、しかも秦の攻撃を畏れて、冬十月、諸部二万余人を招き結び、嵻㟍山に城を築いて拠った。
- 冬十二月、乞伏熾磐が彭奚念を枹罕に攻めたが、奚念に敗れて還った。
義熙五年(409年)
- 春二月、乞伏熾磐が上邽で秦の太原公の姚懿に入見した。彭奚念が虚に乗じて伐ったので、熾磐はこれを聞いて怒り、姚懿に告げずに帰り、奚念を撃ち破ってそのまま枹罕を囲んだ。
- 乞伏乾帰は秦王の姚興に従って平涼へ行っていた。熾磐は枹罕を克して人を遣って乾帰に告げ、乾帰は逃げて苑川へ還った。
- 夏四月、乞伏乾帰が枹罕へ行き、世子の熾磐を留めて鎮させ、その衆を収めて二万を得、度堅山へ遷都した。
- 秋七月、乞伏乾帰が改めて秦王の位に即き、大赦して更始と改元した。公卿以下はみな本位に復した。
- 冬十月、西秦王の乾帰が夫人の辺氏を王后、世子の熾磐を太子に立て、そのまま熾磐に都督中外諸軍・録尚書事を命じ、屋引破光を河州刺史として枹罕に鎮させ、焦遺(南安の人)を太子太師として国の大謀に参与させた。
義熙六年(410年)
- 春三月、西秦王の乾帰が秦の金城郡を攻めて落とした。
- 秋七月乙丑、西秦王の乾帰が越質屈機ら十余部を討ち、その衆二万五千を降して苑川へ移した。八月、乾帰は改めて苑川に都した。
- 九月、西秦王の乾帰が秦の略陽・南安・隴西の諸郡を攻めてみな克し、民二万五千戸を苑川と枹罕へ移した。
義熙七年(411年)
- 春正月、秦王の姚興が太常の索稜に西秦を招き撫させた。西秦王の乾帰は使者を遣って掠めた守宰を送り返して謝罪し、降を請うた。姚興は鴻臚を遣って乾帰を都督隴西嶺北匈奴雑胡諸軍事・征西大将軍・河州牧・単于・河南王に拝し、太子の熾磐を鎮西将軍・左賢王・平昌公とした。
- 二月、河南王の乾帰が鮮卑の僕渾部を度堅城へ移し、子の乞伏敕勃を秦興太守として鎮させた。
- 夏四月、河南王の乾帰が羌の句豈らの部衆を畳蘭城へ移し、兄の子の乞伏阿柴を興国太守として鎮させた。五月、また子の乞伏木奕干を武威太守として嵻㟍城に鎮させた。
- 秋八月、河南王の乾帰が秦の略陽太守の姚竜を柏陽堡に攻めて克した。冬十一月、進んで南平太守の王憬を水洛城に攻めてまた克し、民三千余戸を譚郊へ移し、乞伏審虔に二万を率いさせて譚郊に城を築かせた。
- 十二月、西羌の彭利髪が枹罕を襲って拠り、乾帰は討ったが克てなかった。
義熙八年(412年)
- 春正月、河南王の乾帰が改めて彭利髪を討った。利髪は南へ走り、追って斬った。乞伏審虔を河州刺史として枹罕に鎮させて還った。
- 二月、乾帰が譚郊へ遷都し、平昌公の熾磐に苑川を鎮させた。
- 夏六月、乞伏公府が河南王の乾帰を弑し、あわせてその諸子十余人を殺し、走って大夏を保った。平昌公の熾磐は弟の広武将軍の乞伏智達と揚武将軍の乞伏木奕干に騎三千を率いさせて討たせ、弟の乞伏曇達を鎮京将軍として譚郊に、驍騎将軍の婁機を苑川に鎮させ、熾磐は文武および民二万余戸を率いて枹罕へ遷った。
- 秋七月、乞伏智達らが乞伏公府を大夏で撃ち破った。公府は畳蘭城へ走って弟の阿柴に就いたが、智達らが攻め落として阿柴父子五人を斬った。公府は嵻㟍の南山へ走ったが追い捕らえられ、その四子とともに譚郊で車裂きにされた。
- 八月、乞伏熾磐が自ら大将軍・河南王と称し、大赦して永康と改元した。乾帰を枹罕に葬り、武元王と諡し、廟号を高祖とした。
- 九月、河南王の熾磐が尚書令の翟勍(武始の人)を相国、侍中・太子詹事の趙景を御史大夫とし、尚書令・僕射・尚書・六卿・侍中などの官を廃した。
義熙十年(414年)
- 冬十月、河南王の熾磐が改めて秦王と称し、百官を置いた。