通鑑紀事本末漢、西南夷に通ず(漢通西南夷)

唐蒙が南越で蜀の枸醤を見たことから夜郎への道が開かれ、司馬相如が邛・筰を懐柔して郡県を置く。工事の犠牲と費用がかさんで公孫弘の建言でいったん縮小されるが、張騫の身毒国の報告を機に再び西南へ乗り出し、滇と通じる。南越平定の兵威で且蘭を誅して牂柯郡を置き、滇王も降って益州郡となる。昭帝の代には益州の夷が度々叛き、鉤町侯が功を立てて王に立てられる。漢武帝元光五年(前130年)から漢昭帝始元六年(前81年)まで。

年表(10件)
  • 漢武帝
  • 元光五年前130年唐蒙が夜郎と約して犍為郡を置き、司馬相如が邛・筰を内臣とする
  • 元朔三年前126年公孫弘の建言で蒼海郡と西夷を廃し、朔方の築城に力を集中する
  • 元狩元年前122年身毒国への道を探る過程で滇国と通じ、再び西南夷に力を入れる
  • 元狩三年前120年昆明討伐のため昆明池を掘らせ、水戦を訓練させる
  • 元鼎六年前111年叛いた且蘭を誅して牂柯郡を置き、夜郎侯を夜郎王とする
  • 元封二年前109年勞深・靡莫を滅ぼして滇王を降し、益州郡を置いて王印を賜う
  • 元封六年前105年大夏へ通じようとするが昆明に阻まれ、郭昌が撃つも道は開けない
  • 漢昭帝
  • 始元元年前86年益州の夷、二十四邑・三万余人が叛き、呂破胡が撃って大いに破る
  • 始元四年前83年姑繒・葉榆が叛いて益州太守を殺し、田廣明を遣って撃たせる
  • 始元六年前81年叛乱者を撃った功により鉤町侯の母波を鉤町王に立てる

漢武帝元光五年(前130年)

  • かつて王恢が東越を討ったとき、番陽令の唐蒙を遣って南越に事情を伝えさせた。南越は蒙に蜀の枸醤を食わせた。蒙がどこから来た品かと問うと、「西北の牂柯江の道による。牂柯江は幅数里、番禺城の下に出る」と答えた。
  • 蒙は長安に帰って蜀の商人に問うた。商人は「枸醤は蜀だけで産する。多くはひそかに持ち出して夜郎で売る。夜郎は牂柯江に臨み、江の幅は百余歩、船を通すに足る。南越は財物で夜郎を従属させ、西は桐師に及ぶが、臣として使役するまでには至っていない」と言った。
  • 蒙は上書して説いた。「南越王は黄色の車蓋に左纛を立て、地は東西一万余里、名は外臣でも実は一州の主です。今、長沙・豫章から行く水路は途切れが多く通りにくい。ひそかに聞けば夜郎には十余万の精兵があるとか。牂柯江に船を浮かべて不意を突けば、越を制する一つの奇策です。漢の強さと巴蜀の豊かさをもってすれば、夜郎への道を通して吏を置くのは甚だ容易です」と。
  • 上は許し、蒙を中郎将として千人を率いさせ、輜重を運ぶ者一万余人を伴って巴蜀の筰關から入らせた。蒙は夜郎侯の多同に会い、厚く賜って威徳を諭し、吏を置く約を結び、その子を令とした。夜郎の周辺の小邑はみな漢の絹布を欲しがり、漢への道は険しく結局は支配できまいと考えて、ひとまず蒙の約を受け入れた。
  • 帰って報告すると、上はそこを犍為郡とした。巴蜀の卒を発して道を整備させ、僰道から牂柯江へ向かわせた。工事に当たる者は数万人、士卒の死亡が多く逃亡する者もあった。軍興の法を適用してその頭目を誅したので、巴蜀の民は大いに驚き恐れた。
  • 上はこれを聞き、司馬相如を遣って唐蒙らを責め、あわせて巴蜀の民に上の意ではないと告げ諭させた。相如は帰って報告した。
  • このころ邛・筰の君長は、南夷が漢と通じて多くの賜り物を得たと聞き、多くが内臣となって南夷並みに吏を置いてほしいと願った。天子が相如に諮ると、相如は「邛・筰・冉・駹は蜀に近く道も通じやすい。秦のときは通じて郡県となり、漢が興って廃止された。今、改めて通じて郡県を置けば、南夷よりよいでしょう」と答えた。
  • 天子はもっともとし、相如を中郎将として節を立てて使いさせた。副使の王然于らとともに伝馬に乗り、巴蜀の吏と幣物によって西夷を懐柔した。邛・筰・冉・駹・斯榆の君はみな内臣となることを請うた。辺境の關を撤して關をさらに外へ広げ、西は沫水・若水、南は牂柯までを境とした。零關の道を通し、孫水に橋を架けて邛都に通じ、都尉一人と十余県を置いて蜀に属させた。天子は大いに喜んだ。
  • このころ巴蜀の四郡は山を掘って西南夷への道を千余里通した。守備兵と輸送が互いに食糧を送り合い、数年かけても道は通じず、士は疲れ飢え、暑気と湿気に遭って死ぬ者が甚だ多かった。西南夷もまた度々叛き、兵を発して撃つ費用は巨万を数えたが功はなかった。
  • 上は憂え、詔して公孫弘に視察させた。弘は帰って奏し、西南夷は役に立たないと大いに貶したが、上は聴かなかった。

漢武帝元朔三年(前126年)

  • 冬、公孫弘を御史大夫とした。当時、西南夷への道を通し、東には蒼海郡を置き、北には朔方郡を築いていた。公孫弘は何度も諫め、中国を疲弊させて役に立たない土地に奉じるものだとして廃止を願った。
  • 天子は朱買臣らに朔方を置く利点を挙げて論難させ、十の論点を出した。弘は一つも答えられず、詫びて「山東の田舎者ゆえ、これほど有益とは知りませんでした。西南夷と蒼海を廃して朔方に専念されるよう願います」と言った。上は許した。
  • 春、蒼海郡を廃した。
  • 秋、西夷を廃し、南夷の夜郎に二県一都尉だけを置き、次第に犍為郡に自力で保たせ、朔方の築城に力を集中させた。

漢武帝元狩元年(前122年)

  • かつて張騫が月氏から帰り、天子に「身毒国は蜀から遠くありません」と述べた。天子は喜び、騫に蜀・犍為から密使を出させた。王然于らが四つの道を並行して出発し、駹・冉・徙・邛僰からそれぞれ出て身毒国を目指した。
  • 各々一、二千里進んだが、北方は氐・筰に阻まれ、南方は嶲・昆明に阻まれた。昆明の類は君長がなく盗みを好み、そのたびに漢の使者を殺し略奪したので、ついに通じなかった。
  • そこで漢は身毒への道を求めることによって、はじめて滇国と通じた。滇王の當羌は漢の使者に「漢と我と、どちらが大きいか」と問うた。夜郎侯も同様であった。道が通じていなかったので、各々自分が一州の主だと思い、漢の広大さを知らなかったのである。
  • 使者は帰って滇は大国で懐柔して親しませるに足ると強調し、天子は関心を寄せて、再び西南夷に力を入れるようになった。

漢武帝元狩三年(前120年)

  • 秋、上は昆明を討とうとした。昆明には方三百里の滇池があるので、昆明池を作って水戦を訓練させた。
  • 当時、法はますます厳しくなり、吏は罷免される者が多く、兵事が度々起こって民は爵の免除や五大夫の資格を買う者が多く、徴発できる士がますます少なくなった。そこで千夫・五大夫を吏に採用し、望まない者には馬を出させた。これによって法をもてあそんだ吏はみな謫として上林の棘を伐り昆明池を掘らされた。

漢武帝元鼎六年(前111年)

  • 冬、馳義侯が南夷の兵を発して南越を撃とうとした。且蘭君は遠征のあいだに近隣の国が自国の老弱を捕虜にすることを恐れ、その衆とともに叛いて使者と犍為太守を殺した。
  • 漢は巴蜀の罪人で南越を撃つはずだった者と八人の校尉を発し、中郎将の郭昌と衛廣に率いさせて撃った。且蘭および邛君・筰侯を誅し、南夷を平定して牂柯郡とした。
  • 夜郎侯ははじめ南越を頼っていたが、南越が滅ぶと入朝したので、上は夜郎王とした。冉・駹はみな震え恐れて臣従と吏の設置を請うた。そこで邛都を越嶲郡、筰都を沈黎郡、冉駹を汶山郡、廣漢の西の白馬を武都郡とした。

漢武帝元封二年(前109年)

  • かつて上は王然于を遣り、越を破り南夷を誅した兵威によって滇王に入朝を説かせた。滇王の衆は数万人で、その東北には勞深・靡莫があり、いずれも同姓で互いに頼り合って聴こうとしなかった。勞深・靡莫は度々使者や吏卒を侵犯した。
  • そこで上は将軍の郭昌と中郎将の衛廣を遣り、巴蜀の兵を発して勞深・靡莫を撃ち滅ぼし、兵を滇に臨ませた。滇王は国を挙げて降り、吏を置くことと入朝を請うた。そこで益州郡とし、滇王に王の印を賜って引き続きその民を治めさせた。
  • このころ漢は南越と東越を滅ぼし西南夷を平定して、新設の郡十七を置いた。ひとまずその旧来の習俗のままに治めて賦税を課さず、南陽・漢中以西の郡が、それぞれ近い地の新設郡に吏卒の食糧・幣物・伝車・馬・装備を供給した。
  • しかし新設郡は時々小さな叛乱を起こして吏を殺し、漢は南方の吏卒を発して誅しに行かせた。一年おきに一万余人が動員され、費用はみな大農に頼った。大農は均輸で塩鉄を調え賦を助けたので賄うことができた。とはいえ兵が通過する県は、その財で供給して不足がないようにするだけで、勝手に賦を課す法とは言わなかった。

漢武帝元封六年(前105年)

  • 漢は西南夷に通じて五郡を開き、地を接して大夏へ通じようとし、毎年使者を十余組、この新設郡から出したが、みな昆明に阻まれ、殺されて幣物を奪われた。
  • そこで天子は京師の亡命者を赦して従軍させ、拔胡将軍の郭昌に率いさせて撃たせ、数十万を斬った。その後また使者を送ったが、ついに通じなかった。

漢昭帝始元元年(前86年)

  • 夏、益州の夷、二十四邑・三万余人がみな叛いた。水衡都尉の呂破胡を遣り、吏民を募り犍為・蜀郡の奔命の兵を発して撃たせ、大いに破った。

漢昭帝始元四年(前83年)

  • 西南夷の姑繒・葉榆が再び叛いた。水衡都尉の呂辟胡に益州の兵を率いさせて撃たせたが、辟胡は進まず、蛮夷はついに益州太守を殺し、勝ちに乗じて辟胡と戦った。戦死および溺死した者は四千余人に上った。
  • 冬、大鴻臚の田廣明を遣って撃たせた。

漢昭帝始元六年(前81年)

  • 詔して、鉤町侯の母波がその邑の君長と人民を率いて叛乱者を撃ち功があったとして、鉤町王に立てた。田廣明に關内侯の爵を賜った。