通鑑紀事本末秦、六国を併合する(秦并六國)
秦の孝公が衛鞅(商君)を用いて変法を行い、国制と軍制を作り替えるところから始まる。蘇秦の合従と張儀の連衡が争うなか、秦は蜀を併せ、楚を丹陽・藍田に破り、白起が伊闕・郢・長平で韓魏楚趙を打ち砕く。范睢の遠交近攻で外交方針が定まり、周室も滅んだのち、王政のもとで韓・趙・魏・楚・燕・齊が次々に倒れる。周顯王七年(前362年)の孝公即位から秦始皇帝二十六年(前221年)の統一まで141年間。
年表(29件)
- 周顯王
- 七年前362年秦の孝公が二十一歳で立ち、諸国に夷狄扱いされた秦を強くすると決意する
- 八年前361年孝公が奇策を出す者に高位と領地を与える令を下し、衛の公孫鞅が入秦する
- 十年前359年衛鞅を左庶長として変法の令を定め、木を移した者に賞を与えて令を信じさせる
- 十九年前350年咸陽に遷都し、郷聚を併せて三十一県を置き、井田を廃して度量衡を統一する
- 二十九年前340年衛鞅が会盟と偽って公子卬を捕らえ魏軍を破り、魏は河西を献じ大梁へ遷る
- 三十一年前338年孝公が没し、謀反を訴えられた商君は殺されて車裂きにされ一族も滅ぼされる
- 三十六年前333年蘇秦が燕から順に六国を説いて合従を成し、従約の長として六国の相を兼ねる
- 四十四年前325年夏四月戊午、秦がはじめて王を称する
- 周慎靚王
- 三年前318年楚趙魏韓燕の五国が函谷關を攻めたが、迎え撃つ秦軍に敗れて走る
- 五年前316年張儀の三川案を退けて司馬錯の計を採り、蜀を取って国は富み諸侯を軽んじる
- 周赧王
- 三年前312年丹陽で楚を大破して漢中郡を取り、藍田でも重ねて破る
- 八年前307年甘茂が宜陽を抜く。武王が鼎を挙げて没し、燕にいた稷が迎えられ昭襄王となる
- 十六年前299年武關の会盟と偽って楚の懷王を捕らえ咸陽へ連れ去り、割地を迫って抑留する
- 二十二年前293年白起が伊闕で韓魏の軍を破って二十四万を斬り、公孫喜を捕らえる
- 三十七年前278年白起が郢を抜いて夷陵を焼き、楚は陳へ遷都。秦は南郡を置く
- 四十五年前270年范睢が穰侯の遠征を失計と難じて遠交近攻を説き、客卿となる
- 四十九年前266年范睢の進言で太后を廃し穰侯ら四貴を関外に追い、范睢が丞相となる
- 五十三年前262年白起が野王を抜き、孤立した上黨は趙に帰して秦趙の衝突を招く
- 五十五年前260年反間で趙括を将に立てさせ、長平で趙軍を破って降兵四十万を生き埋めにする
- 五十八年前257年白起が杜郵で剣を賜って自殺し、信陵君が秦軍を破って邯鄲の囲みが解ける
- 五十九年前256年赧王が秦に背いて敗れ、邑三十六を献じて頓首し、その年に崩じる
- 秦莊襄王
- 元年前249年相国呂不韋が東周君を滅ぼし、周はここで祭祀を絶つ
- 秦始皇帝
- 十年前237年李斯の上書で逐客令を廃し、金玉と刺客で諸侯の君臣を離間する策を採る
- 十七年前230年内史勝が韓を滅ぼして韓王安を捕らえ、その地に潁川郡を置く
- 十九年前228年王翦が邯鄲を落として趙王遷を捕らえ、公子嘉は代に走って代王を称する
- 二十年前227年荊軻の暗殺が失敗し、怒った王は増兵して燕軍を易水の西で大破する
- 二十二年前225年王賁が黄河の水を大梁に注いで城を崩し、魏を滅ぼす
- 二十四年前223年王翦と蒙武が楚王負芻を捕らえ、その地に楚郡を置く
- 二十六年前221年王賁が臨淄に入り、降った齊王建を松柏のあいだに置いて餓死させる
周顯王七年(前362年)
- 秦の獻公が没し、子の孝公が二十一歳で立った。当時、黄河・崤山以東には強国が六つ、淮水・泗水のあいだに小国が十余りあった。
- 楚と魏が秦と境を接し、魏は鄭から洛水沿いに北へ長城を築いて上郡を領し、楚は漢中から南に巴・黔中を領した。諸国は秦を夷狄扱いして中原の会盟から排除しており、孝公はこれを憤って徳を布き政を修め、秦を強くしようと決意した。
周顯王八年(前361年)
- 孝公が国中に令を下した。穆公が岐・雍のあいだから東は晉の乱を平らげて黄河を境とし、西は戎狄に覇を唱えて千里を開き、天子から伯の称を受けた栄光を回顧する一方、厲公・躁公・簡公・出子の代に内憂が続き、三晉に河西の地を奪われた恥を述べる。獻公が邊境を鎮め櫟陽に遷都して東征を志したことを継ぎ、秦を強くする奇策を出す者には高位と領地を分け与えると布告した。
- 衛の公孫鞅がこの令を聞いて西へ入秦した。鞅は衛の庶出の公孫で刑名の学を好み、魏の宰相公孫痤に仕えていた。痤は病床で魏の惠王に、若いが奇才の衛鞅に国政を委ねるよう勧め、用いないなら国外に出す前に殺せと言い添えた。王は生返事で去った。痤は鞅を呼んで「君を先に臣を後にしたので先に王に進言し、後から告げる。早く逃げよ」と詫びたが、鞅は「王が私を用いよという言葉を聞かぬのに、殺せという言葉だけ聞くはずがない」と言って動かなかった。王は側近に「公叔は病が重くて錯乱している」と笑った。
- 入秦した衛鞅は寵臣の景監を通じて孝公に謁見し、富国強兵の術を説いて厚く迎えられた。
周顯王十年(前359年)
- 衛鞅が変法を行おうとすると秦人は不満を示した。鞅は「民とは事の始まりを謀れないが成果は共に楽しめる。至高の徳を論じる者は俗に迎合せず、大功を成す者は衆議に頼らない」と説き、甘龍の「旧法に従うほうが吏も民も安んじる」という反論に対して、「智者は法を作り愚者はそれに縛られ、賢者は礼を改め不肖者は拘束される」と応じた。孝公は鞅を左庶長として変法の令を定めた。
- 新法の内容は、民を什伍に編成して相互監視・連坐させ、姦を告げる者には敵首を斬った者と同じ賞、告げない者には敵に降った者と同じ罰を科すこと。軍功のある者は等級に応じて爵を受け、私闘する者は軽重に応じて刑を受ける。農耕と機織りに励んで穀物・布帛を多く納めた者は徭役を免じ、商業や怠惰で貧しくなった者は妻子ともども官奴とする。宗室でも軍功がなければ族籍に載せない。尊卑・爵秩の等級を明らかにし、田宅・臣妾・衣服をその序列に応じて定め、功のある者は栄え、功のない者は富んでも華やげない。
- 令が整っても民が信じないことを恐れ、都の市の南門に三丈の木を立て、北門へ移した者に十金を与えると募った。誰も動かないので五十金に引き上げると、一人が移し、ただちに五十金が与えられた。そこで令が下された。
- 施行から一年、都に来て新法の不便を訴える者が千を数えた。折しも太子が法を犯した。鞅は「法が行われないのは上の者が犯すからだ」と言い、太子は君の跡継ぎゆえ刑せられないとして、傅の公子虔を刑し、師の公孫賈を黥した。翌日から秦人は令に従うようになった。
- 施行十年で秦は道に落ちた物を拾わず、山に盗賊なく、民は公戦に勇み私闘を怯むようになり、郷邑はよく治まった。当初「令は不便」と言った者が今度は「便利だ」と言いに来ると、鞅は「これらはみな法を乱す民だ」として辺境へ移した。以後、民は令を論評しなくなった。
史論(臣光曰・信について)
- 信は君主の大宝である。国は民によって保たれ、民は信によって保たれる。信なくして民を使えず、民なくして国を守れない。
- 古の王者は四海を欺かず、覇者は隣国を欺かず、よく治める者は民を欺かず、よく家を治める者は親を欺かない。上下が互いを信じなければ離心して敗れ、得た利は傷を癒さず、獲た物は失った物を補わない。
- 齊の桓公は曹沬との盟を破らず、晉の文公は原を伐つ利を貪らず、魏の文侯は虞人との約束を捨てず、秦の孝公は木を移した者への賞を廃さなかった。四君の道は純白ではなく、商君はとりわけ刻薄だったが、詐力の横行する戦国の世にあってなお信を忘れず民を養った。まして天下泰平の政を行う者はなおさらである。
周顯王十一年(前358年)
- 秦が韓の軍を西山で破った。
周顯王十四年(前355年)
- 秦の孝公と魏の惠王が杜平で会見した。
周顯王十五年(前354年)
- 秦が魏の軍を元里で破り、七千級を斬って少梁を取った。
周顯王十七年(前352年)
- 秦の大良造・衛鞅が魏を伐った。
周顯王十八年(前351年)
- 秦の衛鞅が魏の固陽を囲んで降した。
周顯王十九年(前350年)
- 秦の商鞅が咸陽に冀闕と宮庭を築いて遷都した。父子兄弟が同じ部屋で寝起きすることを禁じ、小さな郷・聚を併せて一県とし、県ごとに令と丞を置いて合計三十一県とした。井田を廃して阡陌を開き、斗桶・権衡・丈尺を統一した。
周顯王二十一年(前348年)
- 秦の商鞅が賦税の法を改めて施行した。
周顯王二十六年(前343年)
- 周王が秦に伯の称号を与え、諸侯はみな秦を祝賀した。孝公は公子少官に軍を率いさせ、逢澤で諸侯を集めて周王に朝した。
周顯王二十九年(前340年)
- 衛鞅が孝公に、秦と魏は腹心の病のようなもので、魏が秦を併せるか秦が魏を併せるかしかない、と説いた。魏は険阻の西に拠って安邑に都し、黄河を境として山東の利を独占し、有利なら西の秦を侵し不利なら東で地を取る。魏が齊に大敗して諸侯に背かれた今こそ伐つべきで、魏が支えきれず東へ遷れば、秦は河山の険に拠って東に諸侯を制する帝王の業を成せる、と。
- 孝公は従い、衛鞅に兵を与えて魏を伐たせた。魏は公子卬に防がせたが、鞅は「旧知の間柄で攻め合うのは忍びない、会盟して酒を飲み兵を退こう」と書を送った。卬が応じて会盟し酒宴が終わったところで、鞅は伏せた甲士に襲わせて卬を捕らえ、魏軍を大破した。
- 恐れた惠王は河西の地を献じて和を請い、安邑を去って大梁に遷都し、「公叔の言に従わなかったのが悔やまれる」と嘆いた。秦は衛鞅に商於の十五邑を封じ、商君と号した。
周顯王三十一年(前338年)
- 秦の孝公が没し、子の惠文王が立った。公子虔の一党が商君の謀反を訴え、吏を発して捕らえようとした。商君は魏に逃れたが受け入れられず秦に送り返された。商君は配下と商於に入って兵を発し北の鄭を攻めたが、秦軍に攻められて殺され、車裂きにして晒され、一族は皆殺しにされた。
周顯王三十四年(前335年)
- 秦が韓を伐って宜陽を抜いた。
周顯王三十六年(前333年)
- 洛陽の蘇秦が秦王に天下併呑の術を説いたが用いられず、去って燕の文公を説いた。燕が侵されないのは南に趙が盾となっているからで、秦が燕を攻めれば千里の外での戦いだが趙が攻めれば百里の内での戦いになる。近い憂いを軽んじて遠い脅威を重んじるのは誤りだとして、趙との合従を勧めた。文公は従い、車馬を与えて蘇秦を送り出した。
- 蘇秦は趙の肅侯に説いた。山東の建国で趙より強い国はなく、秦が最も害と見るのも趙だが、秦が趙を攻めないのは韓・魏が背後を衝くのを恐れるからである。韓・魏は山川の険がなく蚕食されて臣従するほかなく、そうなれば禍は趙に及ぶ。地図で見れば諸侯の地は秦の五倍、兵は十倍で、六国が一体となって西へ攻めれば秦は必ず破れる。連衡を説く者は諸侯の地を割いて秦に与え、自らは富栄を得るだけで国の憂いを分担しない。ゆえに韓・魏・齊・楚・燕・趙が合従して秦に背き、洹水のほとりで将相が会盟し、「秦が一国を攻めれば五国が精鋭を出して秦を撓めるか救援する。約に背く者は五国で伐つ」と誓うべきだ、と。肅侯は大いに喜び、蘇秦を厚遇して諸侯との盟約に当たらせた。
- 折しも秦の犀首が魏を伐って四万余を破り、将の龍賈を捕らえ雕陰を取り、さらに東へ兵を進めようとした。蘇秦は秦兵が趙に至って合従が壊れることを恐れ、秦で使える者を探した末、張儀を怒らせて秦へ送り込んだ。
- 張儀は魏人で、蘇秦とともに鬼谷先生に縦横の術を学び、蘇秦自身が及ばないと認める人物だった。諸侯を遊説して用いられず楚で困窮していたところ、蘇秦がわざと招いて辱めた。怒った儀は、趙を苦しめられるのは秦だけだと考えて入秦した。蘇秦は密かに舎人に金幣を持たせて援助させ、儀は秦王に見えて客卿となった。舎人が去り際に真相を明かすと、儀は「蘇君の術中にありながら悟らなかった。蘇君が在職のうちは何も言うまい」と伝言した。
- 蘇秦は韓の宣惠王を説いた。韓は方九百余里、甲兵数十万、天下の強弓・勁弩・利剣はみな韓から出る。その勇兵をもって一人が百人に当たれる。秦に仕えれば宜陽・成皋を求められ、今年応じても翌年また割地を求められる。地には限りがあり秦の求めには限りがない。「鶏口となるも牛後となるなかれ」の諺を引き、牛後の名を恥とせよと説いた。韓王は従った。
- 魏王には、地は方千里といえど田舎・廬舎が密で人馬の往来が絶えず三軍の勢いがあり、国力は楚に劣らないと述べ、武士二十万・蒼頭二十万・奮撃二十万・厮徒十万・車六百乗・騎五千匹を擁しながら群臣の説に従って秦に臣事しようとするのは不可と説いた。魏王は聴き入れた。
- 齊王には、齊は四方に塞のある国で方二千余里、甲兵数十万、粟は丘山のごとしと述べる。臨淄だけで七万戸、一戸三男子として二十一万の兵が遠県を待たずに集まる。臨淄は富み栄え、闘鶏・走狗・六博・蹴鞠に興じ、車轂は触れ合い肩は摩れ、袂を連ねれば帷となり汗を揮えば雨となる。韓・魏が秦を畏れるのは境を接するからだが、秦が齊を攻めるには韓・魏の地を背にし衛の陽晉の道を過ぎ亢父の険を経ねばならず、車も騎も並べず百人が険を守れば千人が通れない。秦は深入りすれば韓・魏の背後を恐れて狼顧するほかない。齊王は承知した。
- 楚の威王には、楚は方六千余里、甲兵百万、車千乗、騎万匹、粟は十年を支える覇王の資であり、秦が最も害とするのは楚だと説いた。楚が強ければ秦が弱く、両立しない。合従して秦を孤立させれば山東の国が四時の献を捧げ、社稷も宗廟も士も兵も楚の用に供される。合従なら諸侯が地を割いて楚に仕え、連衡なら楚が地を割いて秦に仕えることになる、と。楚王も承知した。
- こうして蘇秦は従約の長となり六国の相を兼ね、北へ趙に報告する車騎輜重は王者に比する規模だった。
周顯王三十七年(前332年)
- 秦の惠王が犀首を使って齊・魏を欺き、共に趙を伐たせて合従を破らせた。趙の肅侯が蘇秦を責めると、蘇秦は恐れて燕への使者を願い出、必ず齊に報復すると言った。蘇秦が趙を去ると従約はことごとく解けた。趙は黄河を決して齊・魏の軍を水攻めにし、両軍は退いた。
- 魏が陰晉を秦に与えて和した。
周顯王三十九年(前330年)
- 秦が魏を伐って焦・曲沃を囲み、魏は少梁と河西の地を秦に入れた。
周顯王四十年(前329年)
- 秦が魏を伐ち、黄河を渡って汾陰・皮氏を取り、焦を抜いた。
周顯王四十一年(前328年)
- 秦の公子華と張儀が兵を率いて魏の蒲陽を囲み、これを取った。張儀は秦王に、蒲陽を魏に返し公子繇を人質として魏に送るよう請うた。そのうえで魏王に「秦は魏を厚遇している。魏も秦に無礼であってはならない」と説き、魏は上郡十五県をことごとく秦に入れて謝した。儀は帰って秦の相となった。
周顯王四十二年(前327年)
- 秦が焦・曲沃を魏に返した。
周顯王四十四年(前325年)
- 夏四月戊午、秦がはじめて王を称した。
周顯王四十五年(前324年)
- 秦の張儀が兵を率いて魏を伐ち、陝を取った。
周顯王四十六年(前323年)
- 秦の張儀が齊・楚の相と齧桑で会した。
周顯王四十七年(前322年)
- 張儀が齧桑から帰って相を免ぜられ、魏の相となった。魏をまず秦に仕えさせ諸侯に倣わせようとしたが、魏王は聴かなかった。秦王は魏を伐って曲沃・平周を取り、ひそかに張儀への待遇を一層厚くした。
周顯王四十八年(前321年)
- 顯王が崩じ、子の慎靚王定が立った。
周慎靚王二年(前319年)
- 秦が韓を伐って鄢を取った。
周慎靚王三年(前318年)
- 楚・趙・魏・韓・燕が共に秦を伐って函谷關を攻めたが、迎え撃った秦軍に五国の師はみな敗走した。
周慎靚王四年(前317年)
- 秦が韓の軍を脩魚で破り八万級を斬り、将の䱸と申差を濁澤で捕らえた。諸侯は震え恐れた。
- 齊の大夫が蘇秦と寵を争い、刺客を送って蘇秦を殺した。
- 張儀が魏の襄王を説いた。梁の地は千里に満たず兵は三十万を超えず、四方平坦で山川の険がない。楚・韓・齊・趙との境の守備に十万を要し、地勢は元来戦場である。洹水の従約は兄弟の誓いだが、実の兄弟でさえ財を争って殺し合う。反覆常なき蘇秦の残した謀に頼るのは無理だ。秦に仕えなければ秦は河外を攻め、卷・衍・酸棗に拠り衛を脅して陽晉を取る。そうなれば趙は南下できず、趙が南下しなければ梁は北上できず、従の道は絶える、と。魏王は従約に背き、儀を介して秦に和を請うた。儀は帰って再び秦の相となった。
周慎靚王五年(前316年)
- 巴と蜀が攻め合って共に秦に急を告げた。惠王は蜀を伐とうとしたが道が険しく、韓も侵してくるので決めかねた。司馬錯は蜀を伐てと言い、張儀は韓を伐てと言った。
- 張儀の説は、魏と親しみ楚と善くして三川に兵を下し新城・宜陽を攻め、二周の郊に臨んで九鼎を押さえ図籍を按じ、天子を挟んで天下に号令する王業である、というもの。「名を争う者は朝で、利を争う者は市で争う。三川と周室は天下の朝市だ」と説いた。
- 司馬錯は反論した。国を富ませたければ地を広げ、兵を強くしたければ民を富ませ、王たらんとすれば徳を博くする。秦は今なお地小さく民貧しいので、まず易きから始めるべきだ。蜀は西の僻国で戎狄の長、桀紂のごとき乱がある。攻めれば豺狼が羊を追うようなもので、地は国を広げるに足り、財は民を富ますに足り、兵を損なわずに服属させられる。一国を取っても天下は暴とせず、西海の利を尽くしても貪とはしない。一挙にして名実ともに得られ、暴を禁じ乱を止めた名も立つ。対して韓を攻めて天子を脅すのは悪名であって必ずしも利がなく、不義の名を負って天下の望まぬことをするのは危うい。周は天下の宗室、齊は韓の与国であり、周が九鼎を失うと知り韓が三川を失うと知れば、両国は力を合わせ齊・趙に頼り楚・魏に和解を求め、鼎を楚に地を魏に与えるだろう。それは止められない、と。
- 惠王は司馬錯の計を採り、十月に蜀を取った。蜀王を貶して侯とし、陳莊を蜀の相とした。蜀が秦に属して秦は一層強く富み、諸侯を軽んじるようになった。
周慎靚王六年(前315年)
- 慎靚王が崩じ、子の赧王延が立った。なお原文はこの年の数字を欠く。
周赧王元年(前314年)
- 魏人が秦に叛いたので、秦は魏を伐って曲沃を取り、その民は帰した。さらに韓を岸門で破り、韓の太子倉が秦に人質として入って和した。
周赧王二年(前313年)
- 秦の右更・疾が趙を伐って藺を抜き、将の莊豹を捕らえた。
- 秦王は齊を伐ちたいが齊・楚の合従を憂え、張儀を楚に遣わした。儀は楚王に「関を閉じ齊と絶交すれば商於の地六百里を献じ、秦の女を大王の側室として差し上げ、秦楚は長く兄弟の国となる」と持ちかけた。楚王は喜んで承知し群臣は祝ったが、陳軫だけが弔意を示した。
- 陳軫は説く。秦が楚を重んじるのは楚に齊があるからで、齊と絶てば楚は孤立し、秦が孤国に六百里を与える理由がなくなる。張儀は秦に帰れば必ず約を反故にし、楚は北に齊との交わりを絶ち西に秦との禍を生む。表向き齊と絶ち内実は結んでおき、人をやって張儀に随わせ、地が得られてから絶っても遅くない、と。楚王は「黙って地が手に入るのを待て」と退け、相印を張儀に授けて厚く賜い、関を閉じて齊と絶ち、一将軍を張儀に随行させた。
- 張儀は秦に着くと車から落ちたふりをして三月出仕しなかった。楚王は絶交が足りないのかと考え、勇士の宋遺に宋の割符を借りさせて北へ行かせ齊王を罵らせた。齊王は激怒して節を折って秦に仕え、齊秦は結んだ。
- そこで張儀は出仕し、楚の使者に「なぜ地を受け取らぬ。某から某まで、縦横六里だ」と言った。使者が怒って報告すると楚王は激怒し兵を出そうとした。陳軫は「私はもう口を開いてよいか。攻めるより、名都一つを秦に贈り、共に齊を攻めるほうがよい。秦に失った地を齊から償えるからだ。今、齊と絶ったうえで秦の欺きを責めれば、秦齊の交わりを固めて天下の兵を招き、国は大いに傷つく」と諫めたが、楚王は聴かず屈匄に兵を率いさせて秦を伐たせた。秦も庶長章に迎撃させた。
周赧王三年(前312年)
- 春、秦軍と楚軍が丹陽で戦い、楚は大敗して甲士八万を斬られ、屈匄と列侯・執珪七十余人を捕らえられ、漢中郡を取られた。
- 楚王は国内の兵を総動員して秦を襲い藍田で戦ったが再び大敗した。韓・魏が楚の窮状を聞いて南へ襲い鄧に至ったため、楚は兵を引き、二城を割いて秦に和を請うた。
周赧王四年(前311年)
- 秦の惠王が楚の懷王に、武關の外と黔中の地を交換したいと申し入れた。楚王は「地の交換は望まない。張儀を得られるなら黔中を献じよう」と答えた。張儀は自ら赴くことを願い出、秦は強く楚は弱いから殺されはしまい、楚の寵臣靳尚と親しく、靳尚は愛姫鄭袖に通じており、袖の言なら楚王は必ず聴く、と述べた。
- 楚王は儀を捕らえて殺そうとしたが、靳尚は鄭袖に「秦王は儀を溺愛しており、上庸六県と美女で贖おうとしている。王は地を重んじ秦を尊ぶから、秦の女が貴ばれて夫人は退けられる」と吹き込んだ。袖は日夜楚王に泣きつき、「臣はそれぞれ主のために働くだけ。今張儀を殺せば秦は激怒する。母子ともども江南へ移してほしい、秦の餌食になりたくない」と訴えた。王は儀を赦し厚遇した。
- 張儀は楚王に説く。合従は羊の群れを駆って猛虎を攻めるようなもの。秦に仕えなければ、秦は韓を脅し魏を駆って楚を攻める。秦は西に巴蜀を有し、船を仕立て粟を積んで岷江を下れば一日三百余里、十日足らずで扞關に達する。扞關が驚けば以東はみな籠城となり、黔中・巫郡は楚のものでなくなる。秦が武關から兵を出せば北の地は絶たれる。秦の攻撃は三月以内に迫るが、諸侯の救援は半年以上先だ。秦楚が長く兄弟の国となって攻め合わぬようにしよう、と。楚王は儀を得ていたので黔中を出し渋り、これを承知した。
- 張儀は韓へ行き韓王に説いた。韓は地険しく山住まいで、産する五穀は豆と麦、二年分の蓄えもなく、兵は二十万に過ぎない。秦は甲百余万、山東の士が甲冑をつけて会戦するのに対し、秦人は甲を脱ぎ裸で敵に迫り、左手に首を提げ右手に生け捕りを抱える。孟賁・烏獲のごとき士で不服の弱国を攻めるのは、千鈞の重みを鳥の卵に載せるようなもの。秦が宜陽に拠り成皋を塞げば韓は分断され、鴻臺の宮も桑林の苑も失う。秦に仕えて楚を攻め、禍を転じて秦を喜ばせるに如くはない、と。韓王は承知した。
- 張儀が帰って報告すると、秦王は六邑を封じ武信君と号した。さらに東へ齊王を説いた。合従論者は齊は三晉に遮られ地広く民多く兵強く士勇であって百の秦も如何ともしがたいと言うが、実情を見ていない。今や秦楚は婚姻して兄弟の国となり、韓は宜陽を、魏は河外を献じ、趙王は入朝して河間を割いて秦に仕えた。齊が秦に仕えなければ、秦は韓・魏を駆って齊の南を攻め、趙の兵を挙げて清河を渡り博關を指す。臨淄・即墨も王のものでなくなり、そのとき秦に仕えようとしても叶わない、と。齊王も承知した。
- 次に趙王を説いた。大王が天下を率いて秦を斥け、秦兵は十五年函谷關を出られず、威は山東に行き渡った。だが今、秦は巴蜀を挙げ漢中を併せ二周を包み白馬の津を守る。澠池に兵を置き、河を渡り漳を越え番吾に拠って邯鄲の下で甲子の日に決戦したいと申し入れる。今や楚は秦と兄弟、韓・魏は東の藩臣を称し、齊は魚塩の地を献じた。これは趙の右肩を断つに等しい。右肩を断たれ党を失って独り戦って危うくならぬはずがない。秦は三軍を発し、一軍は午道を塞いで齊に清河を渡らせ邯鄲の東に、一軍は成皋に、韓・魏を駆って河外に、一軍は澠池に置き、四国が一体となって趙を攻めれば趙は服して地は四分される。秦王と直接盟い、兄弟の国となるに如くはない、と。趙王も承知した。
- 北へ燕へ赴き燕王に説いた。趙王はすでに入朝し河間を献じて秦に仕えた。秦に仕えなければ、秦は雲中・九原に兵を下し趙を駆って燕を攻め、易水も長城も失う。今や齊・趙は秦にとって郡県同然で妄りに兵を挙げられない。秦に仕えれば齊・趙の患いは永くなくなる、と。燕王は常山の端の五城を献じて和を請うた。
- 張儀が帰路、咸陽に着かぬうちに惠王が没し子の武王が立った。武王は太子時代から儀を好まず、即位すると群臣が儀を誹謗した。諸侯は儀と秦王の不和を聞いて連衡に背き、再び合従した。
周赧王五年(前310年)
- 張儀が武王に「東方に変が起これば王は多くの地を割き取れる。齊王は私を憎み、私のいる国を必ず伐つ。この身を梁へ移せば齊は必ず梁を伐ち、齊梁が交戦して離れられぬ隙に韓を伐ち三川に入り、天子を挟んで図籍を按ずれば王業だ」と説いた。王は許した。
- はたして齊王が梁を伐ち、梁王は恐れた。儀は舎人を楚へやり、楚の使者の口を借りて齊王に伝えさせた。「王が儀を秦に押しつけたのは行き過ぎだ。儀が秦を去ったのは元より秦王との謀で、齊梁を戦わせて秦に三川を取らせるためだ。今まさに梁を伐てば、内は国を疲れさせ外は与国を伐って、秦王に対する儀の信を立ててやるだけだ」と。齊王は兵を解いて帰った。
- 張儀は魏の相となり一年で死んだ。儀と蘇秦はともに縦横の術で諸侯に遊説して富貴を得、天下は競ってこれに倣った。魏人の公孫衍(犀首)も弁説で名を挙げ、ほかに蘇代・蘇厲・周最・樓緩の類が天下に満ちて弁と詐を競ったが、儀・秦・衍が最も著名だった。
- 秦王と魏王が臨晉で会した。
周赧王六年(前309年)
- 秦がはじめて丞相を置き、樗里疾を右丞相とした。
周赧王七年(前308年)
- 秦と魏が應で会した。
- 秦王は甘茂に魏と約して韓を伐たせようとし、向壽を補佐につけた。甘茂は魏に着くと向壽を帰らせ「魏は承知したが、王は伐たないでほしい」と伝えさせた。王が息壤で理由を問うと、甘茂は答えた。宜陽は大県で実質は郡であり、幾重もの険を越え千里を行って攻めるのは難しい。曾參と同姓同名の者が人を殺したとき、三人目が告げて曾參の母は機を捨てて逃げた。自分の賢は曾參に及ばず、王の自分への信は母の子への信に及ばず、疑う者は三人どころではない。王が機を投げ出すのを恐れる、と。さらに魏の文侯が樂羊に中山を三年で抜かせた後、誹謗の文書一箱を見せた故事を引き、自分は他国から来た臣であり、樗里子や公孫奭が韓に肩入れして異を唱えれば王は必ず聴き、王は魏王を欺いたことになり自分は公仲侈の恨みを買う、と述べた。王は「聴かぬ」と誓い、息壤で盟った。秋、甘茂と庶長封が宜陽を伐った。
周赧王八年(前307年)
- 甘茂は宜陽を五か月攻めて抜けず、樗里子と公孫奭が果たして反対した。秦王が甘茂を召して撤兵しようとすると、甘茂は「息壤は彼処にあり」と言い、王は誓いを思い出して大挙増援した。六万を斬って宜陽を抜き、韓の公仲侈が秦に謝して和を請うた。
- 秦の武王は力比べを好み、力士の任鄙・烏獲・孟説はみな高位に上った。八月、王は孟説と鼎を挙げて血管を切って没した。孟説は族滅された。武王に子がなく、燕に人質となっていた異母弟の稷を国人が迎えて立てた。これが昭襄王である。
周赧王九年(前306年)
- 秦の昭王は向壽に宜陽を平定させ、樗里子・甘茂に魏を伐たせた。甘茂が武遂を韓に返すよう進言し、向壽と公孫奭が争ったが通らず、これを恨んで甘茂を讒言した。甘茂は恐れて魏征伐を中止し蒲阪から逃亡した。樗里子は魏と講和して兵を罷めた。甘茂は齊へ亡命し、趙王は樓緩を秦へ遣わした。
- 楚王が齊・韓と合従した。
周赧王十年(前305年)
- 秦の宣太后の異父弟が穰侯魏冉、同父弟が垂陽君羋戎、昭王の同母弟が高陵君と涇陽君である。魏冉が最も賢く、惠王・武王の代から任にあった。武王の死後、諸弟が位を争ったが、昭王を立てられたのは魏冉の力だった。昭王即位後、冉は将軍として咸陽を守った。
- この年、庶長壯および大臣・諸公子が乱を謀り、魏冉がこれを誅した。惠文后も良い死に方をせず、悼武王后は魏に帰され、王の兄弟で不穏な者は魏冉がことごとく除いた。王が幼かったため宣太后が自ら政を執り、魏冉に政を任せ、その威は秦国を震わせた。
周赧王十一年(前304年)
- 秦王と楚王が黄棘で盟い、秦は上庸を楚に返した。
周赧王十二年(前303年)
- 秦が魏の蒲阪・晉陽・封陵を取り、さらに韓の武遂を取った。
- 齊・韓・魏は楚が合従に背いたとして兵を合わせて楚を伐った。楚王は太子横を秦への人質として救援を請い、秦の客卿通が兵を率いて楚を救い、三国は兵を引いた。
周赧王十三年(前302年)
- 秦王・魏王・韓の太子嬰が臨晉で会した。韓の太子は咸陽まで行って帰り、秦は蒲阪を魏に返した。
- 秦の大夫が私的に楚の太子と闘い、太子はこれを殺して逃げ帰った。
周赧王十四年(前301年)
- 秦人が韓の穰を取った。
- 秦の庶長奐が韓・魏・齊の兵と合して楚を伐ち、重丘で楚軍を破って将の唐昧を殺し、重丘を取った。
周赧王十五年(前300年)
- 秦の涇陽君が齊への人質となった。
- 秦の華陽君が楚を伐って大破し、三万を斬って将の景缺を殺し、襄城を取った。楚王は恐れて太子を齊への人質として和を請うた。
- 秦の樗里疾が没し、趙人の樓緩が丞相となった。
周赧王十六年(前299年)
- 五月、趙の武靈王が末子の何に国を譲り、自ら主父と号した。子に国を治めさせ、自身は胡服して士大夫を率い西北の胡地を攻略し、雲中・九原から南下して咸陽を襲おうと考えた。使者を装って入秦し、秦の地形と王の人物を観察した。秦王はその場では気づかなかったが、風貌が人臣らしからぬのを怪しんで追わせた。主父はすでに関を出ており、正体が知れて秦人は驚愕した。
- 齊王と魏王が韓で会した。
- 秦が楚を伐って八城を取った。秦王は楚王に書を送り、黄棘の盟と太子の入質で親交が始まったのに、太子が重臣を殺して謝罪もなく逃げ帰ったため怒って国境を侵した、と述べ、今また太子を齊に人質としたと聞くが、秦楚は境を接し婚姻で親しむ間柄であり不和では諸侯に号令できない、武關で会盟したいと申し入れた。
- 楚王は迷った。昭睢は「行かずに兵を発して自守すべきだ。秦は虎狼で諸侯併呑の心があり信じられない」と諫めたが、懷王の子の子蘭が勧めたため入秦した。秦王は一将軍を王に仮装させ武關に伏兵を置き、楚王が至ると関を閉じて捕らえ、西の咸陽へ連れて章臺に朝させ藩臣の礼を取らせ、巫・黔中郡の割譲を迫った。楚王が盟を先にしようとし秦王が地を先に求めたので、楚王は「秦は我を欺いたうえ地を強要する」と怒って承知せず、秦は王を抑留した。
- 楚の大臣は「王は秦から帰れず割地を迫られ、太子は齊の人質だ。齊秦が結べば楚は国を失う」と憂え、国内の王子を立てようとした。昭睢は「王も太子も諸侯のもとで困窮しているのに、王命に背いて庶子を立てるのは不当だ」として、齊に王の死を偽って告げた。
- 齊の湣王が群臣に諮ると、太子を留めて楚の淮北を取れという意見が出た。齊の相は「郢で王が立てば人質は空となり天下に不義を行うことになる」と反対した。しかし発言者は「郢で王が立てばその新王と取引し、下東國を寄越せば太子を殺す、さもなくば三国と共に太子を立てると迫ればよい」と言った。齊王は結局この相の計を用いて楚の太子を帰し、楚人はこれを立てた。
- 秦王は孟嘗君の賢を聞き、涇陽君を齊への人質として招請した。孟嘗君が入秦すると、秦王はこれを丞相とした。
周赧王十七年(前298年)
- ある者が秦王に「孟嘗君が秦の相となれば必ず齊を先にし秦を後にする。秦は危うい」と言った。秦王は樓緩を相とし、孟嘗君を囚えて殺そうとした。
- 孟嘗君は秦王の愛姫に取りなしを求めたが、姫は狐白裘を望んだ。すでに秦王に献じてしまっていたので、食客のうち狗盗の巧みな者が秦の蔵に忍び込んで狐白裘を盗み出し、姫に献じた。姫のとりなしで釈放されたが、王は後悔して追わせた。孟嘗君が関に至ったとき、関の法では鶏が鳴かねば出られず、まだ夜明け前だった。鶏の鳴き真似の巧みな食客が鳴くと、野鶏がみな和して鳴き、孟嘗君は脱出できた。
- 楚が秦に「社稷の霊のおかげで国には王が立った」と告げた。秦王は怒って武關から出兵して楚を撃ち、五万を斬って十六城を取った。
周赧王十八年(前297年)
- 楚の懷王が脱走したが、秦人は察知して楚への道を遮った。懷王は間道から趙へ走ったが、趙の主父は代におり、趙人は受け入れなかった。魏へ走ろうとしたところを秦人に追いつかれ連れ戻された。
周赧王十九年(前296年)
- 楚の懷王が病を発して秦で没した。秦が遺骸を返すと、楚人はみな肉親を悼むように憐れみ、諸侯はこれによって秦を正しからずとした。
- 齊・韓・魏・趙・宋が共に秦を撃ち、鹽氏まで至って還った。
- 秦は武遂を韓に、封陵を魏に返して和した。
周赧王二十年(前295年)
- 秦の尉錯が魏の襄城を伐った。
- 秦の樓緩が相を免ぜられ、魏冉が代わった。
周赧王二十一年(前294年)
- 秦が魏の軍を解で破った。
周赧王二十二年(前293年)
- 韓の公孫喜と魏人が秦を伐った。穰侯が左更の白起を推挙し、向壽に代えて将とした。白起は伊闕で魏・韓の軍を破り二十四万級を斬り、公孫喜を捕らえ五城を抜いた。秦王は白起を国尉とした。
- 秦王が楚王に「楚が秦に背けば秦は諸侯を率いて楚を伐つ。士卒を整えて一戦を交えよう」と書を送った。楚王は憂えて再び秦と和親した。
周赧王二十三年(前292年)
- 楚の襄王が秦から妃を迎えた。
史論(臣光曰・楚の秦への屈従)
- 秦の無道は甚だしく、父を殺してその子を脅した。楚の不甲斐なさもまた甚だしく、父の死を忍んで仇と婚姻した。楚の君主が道を得、臣が人を得ていれば、秦がいかに強くとも侮られはしなかった。
-
荀卿の「道はよく用いれば百里の地でも独立でき、悪く用いれば六千里の楚も仇の使役に甘んじる」という論を引き、君主が道を求めずに勢力だけ広げるのが危うさの元だと説く。
-
秦の魏冉が病と称して相を免じ、客卿の燭壽が丞相となった。
周赧王二十四年(前291年)
- 秦が韓を伐って宛を抜いた。
- 秦の燭壽が免ぜられ、魏冉が再び丞相となった。穰と陶に封じられ、穰侯と称された。
周赧王二十五年(前290年)
- 魏が河東の地四百里を、韓が武遂の地二百里を秦に入れた。
周赧王二十六年(前289年)
- 秦の大良造・白起と客卿の錯が魏を伐ち、軹に至って大小六十一城を取った。
周赧王二十七年(前288年)
- 冬十月、秦王が西帝を称し、使者を送って齊王を東帝に立て、共に趙を伐つ約を結ぼうとした。
- 燕から来た蘇代に齊王が意見を求めると、「帝号は受けても称さぬがよい。秦が称して天下が安んじれば後から称せばよく、秦が称して天下が憎めば、称さぬことで天下の人心を収められる。これこそ大きな資本だ。趙を伐つのと桀宋(宋)を伐つのとどちらが利か。帝号を捨てて天下の望みを集め、兵を発して宋を伐てば、宋が落ちて楚・趙・梁・衛はみな恐れる。名を以て秦を尊びつつ天下に秦を憎ませる、いわゆる卑を以て尊と為す策だ」と答えた。齊王は従い、二日称して返上した。
- 十二月、呂禮が齊から秦に入り、秦王も帝号を去って王を称した。
- 秦が趙を攻めて杜陽を抜いた。
周赧王二十八年(前287年)
- 秦が魏を攻めて新垣・曲陽を抜いた。
周赧王二十九年(前286年)
- 秦の司馬錯が魏の河内を撃ち、魏は安巴を献じて和した。秦はその民を出して魏に帰した。
- 秦が韓の軍を夏山で破った。
周赧王三十年(前285年)
- 秦王が楚王と宛で、趙王と中陽で会した。
- 秦の蒙武が齊を撃って九城を抜いた。
- 燕の昭王が樂毅と齊征伐を謀った。樂毅は「齊は覇国の遺業を持ち地は大きく人は多い。単独では攻めにくいので、趙および楚・魏と約すべきだ」と説いた。樂毅が趙と約し、別に使者を楚・魏に送り、趙には齊を伐つ利で秦を誘わせた。諸侯は齊王の驕暴を害と見て、こぞって燕と共に齊を伐つ謀に加わった。
周赧王三十一年(前284年)
- 燕王が総動員し、樂毅を上将軍とした。秦の尉斯離が兵を率いて三晉の軍と合し、趙王は相国の印を樂毅に授けた。樂毅は秦・魏・韓・趙の兵を併せ率いて齊を伐ち、齊の湣王は国中の兵を挙げて拒んだが、濟西の戦いで大敗した。
- 秦王・魏王・韓王が京師で会した。
周赧王三十二年(前283年)
- 秦と趙が穰で会した。秦は魏の安城を抜き、兵は大梁に達して還った。
- 趙王が楚の和氏の璧を得た。秦の昭王が十五城との交換を申し入れると、趙王は与えたくないが秦の強さを恐れ、与えれば欺かれるのを恐れて藺相如に諮った。相如は「秦が城を出して璧を求めるのに趙が許さなければ非は趙にある。趙が璧を与えて秦が城を渡さなければ非は秦にある。二つのうちなら、許して秦に非を負わせるほうがよい。私が璧を奉じて赴き、城が入らなければ璧を完うして持ち帰る」と答えた。
- 相如が秦に至ると秦王に城を渡す意思がなかったので、偽って璧を取り戻し、従者に懐に入れさせて間道から趙へ帰し、自身は秦で処分を待った。秦王は賢として誅さず、礼を尽くして帰した。趙王は相如を上大夫とした。
周赧王三十三年(前282年)
- 秦が趙を伐って二城を抜いた。
周赧王三十四年(前281年)
- 秦が趙を伐って石城を抜いた。
- 秦の穰侯が再び丞相となった。
- 楚が齊・韓と共に秦を伐ち、ついでに周を図ろうとした。周王は東周の武公を遣わし、楚の令尹昭子に説かせた。武公は言う。西周の地は長短を均しても百里に過ぎず、天下の共主という名はあっても、その地を裂いても国は肥えず、その民を得ても兵は強くならない。それでも攻めようとする者がいるのは祭器(九鼎)があるからだ。虎は肉が臭く牙は身を守るのに人はなお攻める。沢の麋が虎の皮を被れば、攻める者は万倍になる。楚の地を裂けば国は肥え、楚の名を屈すれば王は尊ばれる。今、天下の共主を誅し三代伝来の器を占めれば、器が南へ動いた途端に兵が至る、と。楚は計画を取りやめた。
周赧王三十五年(前280年)
- 秦の白起が趙軍を破って二万を斬り、代の光狼城を取った。
- また司馬錯に隴西の兵を発させ、蜀を経て楚の黔中を攻めて抜いた。楚は漢北と上庸の地を献じた。
周赧王三十六年(前279年)
- 秦の白起が楚を伐って鄢・鄧・西陵を取った。
- 秦王が趙王に、河外の澠池での友好の会を申し入れた。趙王は行きたくなかったが、廉頗と藺相如は「行かなければ趙が弱く怯えていると示すことになる」と説き、趙王は赴いた。廉頗は国境まで送り、「往復と会見の礼で三十日を超えないはず。三十日で戻らなければ太子を立てて秦の望みを絶ちたい」と願い、王は許した。
- 澠池の会で酒がたけなわになると、秦王は趙王に瑟を弾かせた。趙王が弾くと、藺相如は今度は秦王に缶を撃つよう求めた。秦王が拒むと相如は「五歩の内、この首の血を大王に浴びせます」と迫った。左右が相如に刃を向けようとしたが、相如が目を怒らせて叱すると皆退いた。王は不快ながら一度缶を撃った。酒宴は終わり、秦は趙に対して何も加えられなかった。趙も十分に備えていたので秦は動けなかった。趙王は帰国して藺相如を上卿とした。
周赧王三十七年(前278年)
- 秦の大良造・白起が楚を伐って郢を抜き、夷陵を焼いた。楚の襄王は兵が散って戦えず、東北の陳に遷都した。秦は郢に南郡を置き、白起を武安君に封じた。
周赧王三十八年(前277年)
- 秦の武安君が巫・黔中を平定し、はじめて黔中郡を置いた。
周赧王三十九年(前276年)
- 秦の武安君が魏を伐って二城を抜いた。
周赧王四十年(前275年)
- 秦の相国穰侯が魏を伐った。韓の暴鳶が魏を救ったが穰侯は大破して四万を斬り、暴鳶は開封へ走った。魏は八城を納れて和した。
- 穰侯は再び魏を伐って芒卯を走らせ、北宅に入って大梁を囲んだ。魏は温を割いて和した。
周赧王四十一年(前274年)
- 魏が再び齊と合従したため、秦の穰侯が魏を伐って四城を抜き四万を斬った。
周赧王四十二年(前273年)
- 趙と魏が韓の華陽を伐ち、韓は秦に急を告げたが秦王は救わなかった。韓の相国が陳筮に、病でも一夜の行を頼むと依頼した。陳筮が穰侯に会うと、穰侯は「事が急だから来たのだろう」と言った。陳筮が「まだ急ではない」と答えたので穰侯が怒ると、陳筮は「韓が本当に急なら他国に鞍替えします。まだ急でないから来たのです」と応じた。穰侯は出兵を約した。
- 武安君と客卿の胡陽を伴い八日で到着し、華陽の下で魏軍を破って芒卯を走らせ、三将を捕らえ十三万を斬った。武安君はさらに趙将の賈偃と戦い、その兵二万を黄河に沈めた。
- 魏の段干子が南陽を秦に割いて和を請うた。蘇代は魏王に「璽(権勢)を欲するのが段干子、地を欲するのが秦です。欲地の者に璽を握らせ欲璽の者に地を握らせれば、魏の地は尽きます。地で秦に仕えるのは薪を抱いて火を消すようなもので、薪が尽きるまで火は消えません」と諫めた。魏王は「その通りだが事はすでに始まっており改められない」と言い、蘇代は「博打で梟の目が貴ばれるのは、有利なら取り不利なら止めるからです。王の智の使い方は梟にも及ばない」と重ねたが、魏王は聴かず南陽を割いて和した。
- 韓・魏が秦に服したので、秦王は武安君に韓・魏と共に楚を伐たせようとした。出発前に楚の使者黄歇が到着し、秦が勝ちに乗じて一挙に楚を滅ぼすことを恐れ、上書して説いた。
- 物事は極まれば反転する(冬と夏)、至れば危うくなる(積み重ねた碁石)。今、秦は天下の地の三分の二に及び、有史以来これほどの万乗の国はない。先王三代は齊と地を接して合従の要を断つことを忘れなかった。盛橋が韓で任にあたり韓の地を秦に入れたのは、兵も威も用いずに百里を得た手腕である。魏を攻めて大梁の門を塞ぎ河内を挙げ燕・酸棗・虚・桃を抜いて邢に入り、魏兵は動けなかった。二年休養して再び兵を出し、蒲・衍・首垣に迫って仁・平丘・黄・濟陽を臨み、魏は籠城して服した。濮・磨の北を割いて齊秦の要衝を通し楚趙の背骨を断ち、天下が五度合し六度集まっても救えなかった。威はすでに極まっている。
- 功と威を保ち攻取の心を抑えて仁義の地を厚くすれば、三王に加えて四人目、五伯に加えて六人目となる。しかし人の多さと兵の強さを恃み、魏を破った威に乗じて力で天下の主を臣従させようとすれば後患がある。『詩』の「初め有らざるなく、克く終わり有るは鮮し」、『易』の「狐、水を渉りて其の尾を濡らす」を引き、始めは易く終わりは難いと説く。
- 呉は越を信じて齊を伐ち、艾陵で勝ったのに帰って越王に捕らわれた。智氏は韓魏を信じて趙を伐ち、晉陽が落ちる寸前に韓魏が叛いて智伯瑤は鑿臺の下で殺された。今、王は楚が破れないことを妬んで、楚を破れば韓魏が強くなることを忘れている。楚は援国、隣国は敵国である。韓魏の善意を信じるのは呉が越を信じたのと同じで、韓魏は卑辞で禍を除きつつ実は大国を欺こうとしているのではないか。王は韓魏に代々の徳を施しておらず、累世の怨みがある。韓魏の父子兄弟が秦のために踵を接して死んで十世に及ぶ。韓魏が滅びないことこそ秦の憂いであり、これを助けて楚を攻めるのは誤りだ。
- 楚を攻めるにも、仇敵の韓魏に道を借りれば兵が帰らぬ心配があり、借りなければ随水右壤という広川大水・山林谿谷の不毛の地を攻めることになり、楚を破った名だけで地の実は得られない。攻楚の日には四国が総起して応じ、秦楚の兵は離れられなくなる。魏は留・方与・銍・湖陵・碭・蕭・相といった旧宋の地を尽く取り、齊は南面して楚を攻め泗上を挙げる。いずれも平原四通の肥沃の地で、そうなれば天下に齊・魏より強い国はなくなる。
- むしろ楚と善くし、秦楚が一体となって韓に臨めば韓は手を歛めて朝し、東山の険と曲河の利を得て韓は関内侯となる。十万で鄭を守れば梁氏は肝を冷やし、許・鄢陵は籠城して上蔡・召陵との往来も絶え、魏も関内侯となる。楚と善くして関内に二つの万乗の主を得、齊に兵を注げば齊の右壤は手を拱いて取れる。王の地は東西二つの海に及び天下を要約でき、燕趙は齊楚を、齊楚は燕趙を失う。しかる後に燕趙を揺さぶり齊楚を動かせば、四国は痛めつけずとも服する。
- 秦王は従い、武安君を止めて韓魏に断りを入れ、黄歇を帰して楚と親交を約させた。
周赧王四十三年(前272年)
- 楚が左徒の黄歇に太子完を伴わせて秦への人質とした。
- 秦が南陽郡を置いた。
- 秦・魏・楚が共に燕を伐った。
周赧王四十五年(前270年)
- 秦が趙を伐って閼與を囲んだ。趙王が廉頗・樂乗に救援の可否を問うと、いずれも「道は遠く険しく狭いので救い難い」と答えた。趙奢は「道が遠く険しく狭いのは、二匹の鼠が穴の中で闘うようなもので、勇なる将が勝つ」と答えた。
- 趙王は趙奢に兵を与えた。趙奢は邯鄲を出て三十里で止まり、「軍事について諫言する者は死罪」と令した。秦軍が武安の西で鬨を上げ兵を動かし、武安の屋根瓦が震えたとき、軍中の斥候の一人が武安を急ぎ救えと言った。趙奢はただちに斬った。塁を固めて二十八日動かず、さらに塁を増した。秦の間諜が趙軍に入ると、趙奢は厚く食わせて帰した。間諜の報告を聞いた秦将は「国を出て三十里で動かず塁を増しているとは、閼與は趙の地ではなくなった」と大喜びした。
- 趙奢は間諜を送り返すや甲を巻いて急行し、一日一夜で閼與の五十里手前に着いて陣を築いた。秦軍はこれを聞いて全軍で向かった。趙の兵士許歷が軍事の諫言を願い出ると趙奢は許した。許歷は「秦は趙軍の到着を予想しておらず来る勢いが盛んです。陣を厚く集めて待たねば必ず敗れます」と言った。趙奢は「教えを受けよう」と答え、許歷が令に触れた罰を求めると「後の令を待て」と言った。邯鄲に至って許歷が再び「先に北山の上を押さえた者が勝ちます」と諫めると、趙奢は承知して一万を急派した。秦軍は後れて山を争ったが登れず、趙奢が兵を放って大破し、秦軍は閼與の囲みを解いて還った。趙王は趙奢を馬服君に封じた。
- 穰侯が客卿の竈を秦王に推し、齊を伐って剛・壽を取らせ、自分の封地である陶を広げようとした。
- かつて魏人の范睢は中大夫の須賈に従って齊に使いした。齊の襄王がその弁舌を聞いて私かに金と牛酒を賜った。須賈は范睢が国の機密を齊に告げたと考え、帰国して相の魏齊に告げた。魏齊は怒って范睢を笞打ち、肋を折り歯を砕いた。范睢が死んだふりをすると、簀に巻いて厠に置き、酔客に代わる代わる小便をかけさせて見せしめとした。范睢は番人に「助けてくれれば必ず厚く報いる」と持ちかけ、番人は「簀の中の死人を捨てたい」と願い出た。酔った魏齊が許したので范睢は脱出した。魏齊は後悔して捜させたが、魏人の鄭安平が范睢を連れて隠し、張禄と改名させた。
- 秦の謁者王稽が魏に使いした際、范睢は夜に会い、王稽は密かに載せて連れ帰り、秦王に推挙した。王が離宮で会おうとしたとき、范睢はわざと知らぬふりで永巷に入り込み、宦者が「王が来られる」と怒って追い出そうとすると、「秦に王などいるものか。秦には太后と穰侯があるだけだ」と嘯いた。王はこれを漏れ聞き、左右を退けて跪き教えを請うた。范睢は三度促されても「唯唯」と答えるばかりだった。
- 范睢は言う。自分は他国から来た臣で王との交わりも浅いのに、述べたいのは君を正す事柄であり、王の骨肉のあいだに関わる。愚忠を尽くしたいが王の心が分からない。今日述べて明日誅されても厭わないが、自分の死後に天下が口を閉ざし足を包んで秦に向かわなくなることだけが心配だ、と。王は「今日先生に会えたのは天が私を煩わせて先王の宗廟を存えさせるためだ。大小を問わず、上は太后、下は大臣に至るまですべて教えてほしい」と応じ、互いに拝礼した。
- 范睢は続けた。秦の大きさと士卒の勇で諸侯を治めるのは、韓盧(名犬)を走らせて足萎えの兎を捕らえるようなものなのに、十五年も関を閉ざして山東に兵を窺わせないのは、穰侯が秦のために忠実に謀っていないからであり、王の計にも失があるからだ、と。王が失計を聞きたいと言ったが、左右に立ち聞きする者が多かったので、范睢はまず内政を避けて外事から述べ、王の反応を窺った。
- そして進言した。穰侯が韓魏を越えて齊の剛・壽を攻めるのは失計である。齊の湣王は南へ楚を攻めて軍を破り将を殺し、千里の地を開いたが、齊は一尺の地も得られなかった。地が欲しくなかったのではなく、形勢が保有を許さなかったのだ。諸侯は齊の疲弊を見て兵を挙げて齊を大破し、齊は滅亡寸前になった。楚を伐って韓魏を肥やしたからである。
- そこで「遠交近攻」を説く。遠くと交わり近くを攻めれば、一寸得れば王の一寸、一尺得れば王の一尺となる。韓魏は中原に位置し天下の枢である。覇たらんとすれば中原と親しんで天下の枢を握り、楚と趙を威圧すべきだ。楚が強ければ趙に付き、趙が強ければ楚に付く。楚趙がともに付けば齊は必ず恐れ、齊が付けば韓魏は虜にできる、と。王は「善し」と言い、范睢を客卿として兵事を謀らせた。
周赧王四十六年(前269年)
- 秦の中更・胡傷が趙の閼與を攻めたが抜けなかった。
周赧王四十七年(前268年)
- 秦王が范睢の謀を用い、五大夫の綰に魏を伐たせて懷を抜いた。
周赧王四十八年(前267年)
- 秦の悼太子が魏で人質となっていて没した。
周赧王四十九年(前266年)
- 秦が魏の邢丘を抜いた。
- 范睢は日ごとに信任されて政に関わり、機を捉えて王に説いた。山東にいたころ、齊には孟嘗君がいると聞いたが齊王がいるとは聞かず、秦には太后と穰侯がいると聞いたが秦王がいるとは聞かなかった。国を専らにするのが王、利害を左右するのが王、生殺を制するのが王である。今、太后は勝手に行い、穰侯は使者を出しても報告せず、華陽君・涇陽君は憚りなく断を下し、高陵君は進退を伺わない。四貴が揃って国が危うくならなかった例はない。四貴の下では王がないに等しい。
- 穰侯の使者は王の権威を操って諸侯に決を下し、天下に符を割き、敵を征し国を伐って誰も逆らえない。勝てば利は陶(穰侯の封地)に帰し、敗れれば怨みは百姓に結ばれ禍は社稷に帰する。木の実が多ければ枝を裂き、枝を裂けば幹を傷める。都を大きくすれば国が危うく、臣を尊べば主が卑しくなる。淖齒は齊を握って王の股を射て筋を抜き、廟の梁に吊るして一夜で死なせた。李兌は趙を握って主父を沙丘に囚え百日で餓死させた。今の四貴は淖齒・李兌の類である。
- 三代が国を失ったのは、君が政を臣に専任して酒と狩りに耽り、任された者が賢を妬み下を抑え上を蔽って私を成し、主のために謀らず主も気づかなかったからだ。今、有秩以上の諸大吏から王の側近まで相国の人でない者はなく、王は朝廷に孤立している。万世の後、秦国を持つ者が王の子孫でなくなることを恐れる、と。
- 王はもっともとして、太后を廃し、穰侯・高陵君・華陽君・涇陽君を関外に追い、范睢を丞相として應侯に封じた。
- 魏王が須賈を秦に遣わした。應侯は粗末な衣で徒歩で訪ね、須賈は「范叔、無事だったか」と驚いて座らせ飲食させ、綈袍一枚を贈った。范睢は須賈の御者となって相府に至り、「先に相君に取り次いでくる」と言って入った。長く出てこないので須賈が門下に尋ねると、「范叔などおらぬ。先ほどのは我らが相の張君だ」と言われた。欺かれたと知った須賈は膝行して謝罪した。
- 應侯は座したまま責め、「お前が死を免れたのは、綈袍を贈った旧情がまだ残っていたからだ」と言い、大宴を開いて諸侯の賓客を招き、須賈を堂下に座らせて秣豆を前に置き馬のように食わせた。そして「速やかに魏齊の首を斬って持って来い、さもなくば大梁を屠る」と魏王に伝えさせた。須賈が報告すると魏齊は趙へ逃げ、平原君の家に隠れた。
周赧王五十年(前265年)
- 秦の宣太后が没した。九月、穰侯が陶へ去った。
史論(臣光曰・穰侯と范睢)
- 穰侯は昭王を擁立して災いを除き、白起を将に推挙して南は鄢・郢を取り東は齊に地を接し、天下の諸侯に秦へ頭を下げさせた。秦が強大になったのは穰侯の功である。
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専横と驕貪が禍を招いたのは確かだが、范睢の言うほどではなかった。范睢もまた秦のために忠実に謀ったのではなく、ただ穰侯の地位が欲しくて喉笛を締めて奪ったにすぎない。その結果、秦王は母子の義を絶ち舅甥の恩を失った。范睢は要するに人を陥れる危険な人物であった。
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秦王が子の安國君を太子とした。
- 秦が趙を伐って三城を取った。趙王は即位したばかりで太后が政を執っていたため齊に救援を求めたが、齊は長安君を人質に出すことを条件とした。太后は拒み、齊軍は出なかった。大臣が強く諫めると、太后は「重ねて長安君を人質にと言う者には、老婦が必ず顔に唾を吐く」と言い放った。
- 左師の觸龍が拝謁を願い出た。太后が身構えて待つと、觸龍はゆっくり進んで座り、「足を病んで長く伺えず、御体を案じて参りました」と詫び、食事の話から入った。太后の不機嫌が少し解けたところで、「私の末子の舒祺は不肖ですが、老いた身には不憫で、王宮の護衛の欠員に補ってやりたい」と願った。太后が「男も末子を愛するのか」と問うと、觸龍は「女よりも甚だしい」と答え、太后は笑って「女のほうがずっと甚だしい」と言った。
- 觸龍は「私の見るところ、あなたは長安君より燕后のほうを深く愛しておられる」と言った。太后が否定すると、觸龍は「父母が子を愛するとは、その子のために遠い先を計ることです。燕后を嫁がせるとき、踵を抱えて泣かれたのは遠くへ行くのを哀しんでのこと。行った後も思わぬではないが、祭りのたびに『どうか帰されませぬように』と祈られる。それは長く続き、子孫が代々王となることを願うからではありませんか」と説いた。太后は認めた。
- さらに「三代前まで遡って、趙王の子孫で侯となった者のうち、今も家が続いている者はいますか」と問い、太后は「いない」と答えた。觸龍は「近い者は本人に、遠い者は子孫に禍が及ぶ。君主の子で侯となった者が皆不肖なのではなく、位が尊くて功がなく、俸が厚くて労がなく、重器を多く持ちすぎるからです。今、あなたは長安君の位を尊くし肥沃の地を封じ重器を多く与えながら、今のうちに国への功を立てさせない。ひとたび山陵が崩れれば、長安君は何を頼りに趙に身を託すのですか」と述べた。太后は「よろしい、思うようにお使いなさい」と応じた。
- こうして長安君のために車百乗を仕立てて齊へ人質に出すと、齊軍が出て秦軍は退いた。
周赧王五十一年(前264年)
- 秦の武安君が韓を伐って九城を抜き、五万を斬った。
周赧王五十二年(前263年)
- 秦の武安君が韓を伐って南陽を取り、太行の道を攻めて絶った。
- 楚の頃襄王が重病となり、黄歇は應侯に説いた。楚王が起てないなら、秦は太子を帰すべきだ。太子が立てば必ず重く秦に仕え相国に限りなく感謝する。与国と親しみ万乗の国を手元に置くことになる。帰さなければ太子は咸陽の一庶民にすぎず、楚が別の君を立てれば秦に仕えず、与国も万乗の和も失う、と。
- 應侯が伝えると王は「太子の傅をまず遣って病を見舞わせ、帰ってから決める」と言った。黄歇は太子に謀った。秦が太子を留めるのは利を得るためだが、今の太子には秦に与えられる利がない。一方、陽文君の子が二人国内にいる。王が薨じたとき太子が国にいなければ、陽文君の子が後継に立ち、太子は宗廟を奉じられない。楚の使者に紛れて秦を脱するべきで、自分は残って死をもって当たる、と。太子は服を変えて楚の使者の御者となって関を出た。
- 黄歇は宿舎に残って太子の病を装い続け、十分に遠ざかった頃に自ら王に告げた。「楚の太子はすでに帰り、遠く去りました。歇は死を賜りたい」と。王は怒って許そうとしたが、應侯は「歇は臣として身を捨てて主に殉じた。太子が立てば必ず歇を用いる。罪なきものとして帰し、楚と親しむに如くはない」と説き、王は従った。
- 黄歇が楚に着いて三月、秋に頃襄王が没して考烈王が即位し、黄歇を相として淮北の地に封じ春申君と号した。
周赧王五十三年(前262年)
- 楚が州を秦に納れて和した。
- 武安君が韓を伐って野王を抜き、上黨への道が絶たれた。上黨の守馮亭は民と謀り、「鄭への道はすでに絶たれ秦兵は日々進み、韓は応じられない。上黨を趙に帰したほうがよい。趙が受ければ秦は必ず趙を攻め、趙は秦兵を受けて韓と親しむ。韓趙が一体となれば秦に当たれる」と言い、趙に「韓は上黨を守れず秦に入れることになるが、吏民はみな趙に属することを望み秦を望まない。城市・邑十七を献じたい」と伝えた。
- 趙王が平陽君豹に諮ると、「聖人は理由のない利を大きな禍とします」と反対した。王が「人が我が徳を慕うのに、なぜ理由がないと言うのか」と問うと、豹は「秦は韓の地を蚕食し、中を断って通じさせず、座って上黨を得られると思っている。韓が秦に入れないのは禍を趙に嫁するためで、秦が労し趙が利を得る。強大な者ですら得られぬものを弱小な者が得られようか。これを理由なしと言わずして何と言おう。受けぬがよい」と答えた。
- 王が平原君に諮ると受けるよう勧めたので、王は平原君を遣わして地を受け取らせ、太守を万戸都三つで華陽君に、県令を千戸都三つで侯に封じ、吏民の爵をみな三級進めた。馮亭は涙を流して使者に会わず、「主の地を売って食むのは忍びない」と言った。
周赧王五十五年(前260年)
- 秦の左庶長王齕が上黨を攻めて抜き、上黨の民は趙へ逃げた。趙の廉頗は長平に軍を置いて上黨の民を収容した。王齕はそのまま趙を伐ち、趙軍は連戦して勝てず、裨将一人と尉四人を失った。
- 趙王が樓昌・虞卿と謀ると、樓昌は重臣を使者に立てて和を請えと言った。虞卿は「今、和を制するのは秦であり、秦は必ず趙軍を破ろうとしている。行っても聴かれない。重宝を楚・魏に贈り、楚魏がこれを受ければ、秦は天下の合従を疑い、はじめて和が成る」と述べた。王は聴かず鄭朱を秦に遣わし、秦はこれを受け入れた。
- 王が「秦は鄭朱を受け入れた」と言うと、虞卿は「和は成らず軍は破れます。戦勝を祝う天下の者がみな秦にいる。鄭朱は貴人だから、秦王と應侯は必ずこれを厚遇して天下に見せる。天下は趙が秦と和すると見て救わない。秦は趙が救われないと知れば和に応じない」と答えた。果たして秦は鄭朱を厚遇しつつ趙とは和さなかった。
- 秦が趙軍を度々破ると廉頗は塁を固めて出なくなった。趙王は廉頗が損害を出したうえに怯えて戦わないと怒り、何度も責めた。應侯はさらに千金を趙にばらまいて反間を行い、「秦が恐れるのは馬服君の子の趙括だけだ。廉頗は御しやすくもう降参しそうだ」と流させた。趙王は趙括を廉頗に代えて将とした。藺相如は「王は名声だけで括を用いようとしている。柱を膠づけして瑟を弾くようなものだ。括は父の兵書を読めるだけで変化に応じられない」と諫めたが、聴かれなかった。
- 趙括は少年時から兵法を学び天下に敵なしと自負し、父の趙奢と兵事を論じて奢も言い負かせなかったが、奢は括を善しとしなかった。理由を問う母に、奢は「戦は死地なのに括は軽々しく語る。趙が括を将としなければよいが、必ず将とすれば趙軍を破るのは括だ」と答えた。
- 括の出陣に際し、母は上書して不可を訴えた。王が理由を問うと、「夫が将だったころ、自ら食事を運んで奉じた者が十数人、友とした者が百数人、王や宗室からの賜り物はすべて軍吏・士大夫に与え、命を受けた日から家事を問いませんでした。今、括は将となるや東向して朝を受け、軍吏は仰ぎ見ることもできず、賜った金帛は家に蔵し、日々買える田宅を物色しています。父と子で心が違います。遣らないでください」と答えた。王が「もう決めた」と言うと、母は「もし不首尾でも私を連坐させないでほしい」と願い、王は許した。
- 秦王は括が趙将となったと聞き、密かに武安君を上将軍とし王齕を裨将とし、武安君が将であると漏らした者は斬ると軍中に令した。趙括は着任するや軍規をすべて改め軍吏を入れ替え、出撃した。武安君は敗走を装い、二隊の伏兵を配して誘い込んだ。趙括が勝ちに乗じて秦の塁まで追うと塁は堅く入れず、伏兵二万五千が趙軍の後を断ち、五千騎が趙の塁との間を断った。趙軍は二分され糧道を絶たれた。武安君が軽兵で撃つと趙は不利となり、塁を築いて堅守し救援を待った。
- 秦王は趙の糧道が絶えたと聞くと自ら河内へ赴き、十五歳以上の民をすべて長平に送り、趙の救援と糧食を遮断した。齊人と楚人が趙を救った。趙は食糧が尽き齊に粟を請うたが齊王は許さなかった。周子は「趙は齊楚にとって盾であり、唇と歯の関係だ。今日趙が滅べば明日は齊楚に禍が及ぶ。趙を救うのは、漏れた甕を持って焦げた釜に注ぐような急務だ。趙を救うのは高義であり、秦を退けるのは名を顕す。亡国を義もて救い、威もて強秦を退ける。それをせずに粟を惜しむのは国策として誤りだ」と説いたが、齊王は聴かなかった。
- 九月、趙軍は食糧が絶えて四十六日、内では密かに殺し合って食う有様となり、急ぎ秦の塁を攻めて四隊に分かれ四、五度突撃したが破れなかった。趙括自ら精鋭を率いて戦い、秦人に射殺された。趙軍は大敗し、四十万が降伏した。
- 武安君は「秦はすでに上黨を抜いたが、上黨の民は秦を嫌って趙に帰した。趙の兵は変心しやすく、皆殺しにしなければ乱を起こす」と言い、詐って全員を生き埋めにした。年少の二百四十人だけを趙へ帰した。前後で斬首・捕虜は四十五万に上り、趙は大いに震撼した。
周赧王五十六年(前259年)
- 十月、武安君は軍を三分し、王齕が趙の武安・皮牢を攻めて抜き、司馬梗が北へ太原を平定して上黨の地をすべて手に入れた。
- 韓・魏は恐れて蘇代に厚い贈り物を持たせ應侯を説かせた。「武安君が邯鄲を囲めば、趙が滅んで秦王は王者となり武安君は三公となる。あなたはその下に立てるか。立ちたくなくとも已むを得なくなる。秦はかつて韓を攻めて邢丘を囲み上黨を苦しめたが、上黨の民はみな趙に転じた。天下が秦の民となるのを嫌って久しい。今、趙が滅べば北の地は燕に、東の地は齊に、南の地は韓魏に入り、あなたが得る民はいくらもない。ここは割地で和し、武安君の功としないほうがよい」と。
- 應侯は秦王に「秦兵は疲れている。韓趙の割地を許して和し、士卒を休ませたい」と進言し、王は聴いた。韓の垣雍と趙の六城を割いて和し、正月に全軍を罷めた。武安君はこれによって應侯と不和になった。
- 趙王が趙郝を秦に遣わして六県の割譲を約させようとすると、虞卿は「秦が趙を攻めて引き上げたのは、疲れたからか、なお進む力がありながら王を愛しんで攻めなかったのか」と問うた。王が「秦は余力を残さず、疲れて帰った」と答えると、虞卿は「秦は力を尽くしても取れなかったのに、取れなかったものを王が自ら送るのは、秦を助けて自らを攻めさせるに等しい。来年秦が攻めてくれば救いはない」と述べた。
- 趙王が決めかねているところへ樓緩が趙に来た。樓緩は「虞卿は一面しか見ていない。秦趙が事を構えれば天下が喜ぶのは、強に乗じて弱を叩こうとするからだ。趙は速やかに割地して和し天下を惑わせ秦の心を慰めるべきだ。さもなくば天下は秦の怒りに乗じ趙の疲弊に乗じて瓜分し、趙は滅ぶ。秦を図るどころではない」と述べた。
- 虞卿は聞いて再び進み出た。「樓子の計は天下の疑いを深めるだけで、どうして秦の心を慰めよう。天下に趙の弱さを示すとは言わないのか。私が与えるなと言うのは、ただ出し惜しめということではない。秦が六城を求めるなら、王はその六城を齊に贈るのだ。齊と秦は深い仇敵だから、齊は言い終わらぬうちに応じる。齊で失って秦から償いを取り、天下に趙のなしうるところを示せる。この方針を公にすれば、兵が国境を窺う前に秦の重い贈り物が趙に来て、逆に秦から和を請うてくる。秦との和が成れば韓魏も必ず王を重んじる。一挙にして三国と親しみ、秦との立場が入れ替わる」と説いた。
- 趙王は善しとして虞卿を東の齊王のもとへ遣わし秦への対策を謀らせた。虞卿が帰らぬうちに秦の使者がすでに趙に来ていた。樓緩はこれを聞いて逃げ去り、趙王は虞卿に一城を封じた。
- 秦が趙を伐ちはじめたころ、魏王が諸大夫に問うと、みな秦の趙征伐は魏に好都合だと答えた。孔斌(子順)が理由を問うと、「趙に勝てば我らは従えばよく、勝てなければ疲弊に乗じて撃てる」と言う。子順は「秦は孝公以来戦って屈したことがなく、しかも良将を用いている。どんな疲弊に乗じるのか」と反論した。大夫が「趙に勝っても我らに何の損がある。隣国の恥は自国の福だ」と言うと、子順は「秦は貪欲・凶暴の国だ。趙に勝てば必ず他を求め、そのとき魏が兵を受けることを恐れる」と述べ、燕雀が屋根で親子睦まじく安んじているうちに竈の煙が上って棟が焼けようとしているのに顔色も変えない譬えを引き、「趙が破れれば禍は自分に及ぶ。人でありながら燕雀と同じでよいのか」と言った。
- 子順は孔子の六世の孫である。魏の相となって九か月、大計を陳べても用いられず、病と称して退いた。「王が用いないなら他国へ行くのか」と問われると、「行ってどこへ。山東の国は秦に併呑される。秦は不義の国で、義の入る所ではない」と答え、家に籠った。
- 新垣固が「賢者のいる所は必ず教化が興り治まる。あなたが魏の相となって特筆すべき政も聞かぬうちに退くのは、志を得なかったからか。なぜ去るのが速いのか」と問うた。子順は「特筆すべき政がないからこそ退くのだ。死病に良医はいない。今、秦は天下を呑む心を持ち、義をもって仕えても安泰は得られず、亡国を救う暇もない。何の教化を興せよう。伊摯が夏に、呂望が商にいながら両国が治まらなかったのは、二人が望まなかったからではなく勢いがそうさせなかったのだ。今、山東の国は疲れて振るわず、三晉は割地して安を求め、二周は折れて秦に入り、燕・齊・楚もすでに屈服した。この分では二十年を出ずに天下はすべて秦のものになろう」と答えた。
- 秦王は應侯のために必ず仇を報じさせようと、魏齊が平原君のもとにいると聞き、甘言で平原君を秦に誘って捕らえ、趙王に「齊の首を得なければ王の弟を関から出さぬ」と伝えた。魏齊は窮して虞卿を頼り、虞卿は相印を捨てて魏齊とともに逃げ、魏に至って信陵君を頼り楚へ走ろうとした。信陵君が会うのを渋ると、魏齊は怒って自殺した。趙王はついにその首を秦に渡し、秦は平原君を帰した。
- 九月、五大夫の王陵が兵を率いて再び趙を伐った。武安君は病で従軍できなかった。
周赧王五十七年(前258年)
- 正月、王陵が邯鄲を攻めたが戦果が乏しく、増援を送っても五校を失った。武安君の病が癒えたので王は交代させようとしたが、武安君は「邯鄲は実際には攻めやすくない。諸侯の救援が日々到着している。諸侯が秦を怨んで久しい。長平で勝ったとはいえ士卒の死者は半ばを超え国内は空である。遠く河山を隔てて他国の都を争えば、趙が内で応じ諸侯が外から攻めて秦軍は必ず破れる」と述べた。王が自ら命じても動かず、應侯に請わせても病を理由に固辞した。そこで王齕を王陵に代えた。
- 趙王は平原君を楚へ救援に遣わした。平原君は食客のうち文武を備えた二十人を選ぼうとしたが十九人しか揃わず、毛遂が自薦した。平原君は「賢士が世にあるのは錐が袋の中にあるようなもので、先が必ず現れる。三年いて誰も称えず私も聞かない。それは何も持たぬということだ。残りなさい」と言った。毛遂は「今日はじめて袋に入れてほしいと願うのです。早く袋に入れられていれば、先だけでなく穂ごと突き出ていました」と答え、同行を許された。十九人は目配せして笑った。
- 楚に着き、平原君が楚王と合従の利害を日の出から日中まで論じても決しなかった。毛遂は剣を按じて階を上り、「合従の利害は二言で決まるのに、なぜ決まらないのか」と言った。楚王が怒って「下がれ、私はお前の主君と話しているのだ」と叱ると、毛遂は剣を按じて進み出た。
- 「王が私を叱れるのは楚の人数のおかげだが、今、十歩の内では楚の人数は頼れない。王の命は私の手にある。我が君の前で叱るとは何事か。湯は七十里の地で天下に王となり、文王は百里の地で諸侯を臣従させた。士卒が多かったからではなく、勢いに拠って威を奮ったからだ。今、楚は方五千里、戟を持つ者百万、覇王の資である。楚の強さは天下に当たるものがない。白起は小僧に過ぎないのに、数万を率いて一戦で鄢・郢を挙げ、二戦で夷陵を焼き、三戦で王の先祖を辱めた。百世の怨みであり趙ですら恥じているのに、王は憎むことも知らない。合従は楚のためであって趙のためではない。我が君の前で叱るとは何事か」と言い放った。
- 楚王は「唯唯、まことに先生の言う通りだ。謹んで社稷を挙げて従おう」と答えた。毛遂が「合従は定まったか」と念を押し、王が「定まった」と言うと、毛遂は左右に鶏・犬・馬の血を持ってこさせ、銅盤を捧げて跪き進めた。「王がまず血をすすって従を定め、次は我が君、その次が私です」と言い、殿上で従を定めた。そして左手に血の盤を持ち右手で十九人を招き、「諸君は堂下でともに血をすすれ。諸君は取るに足らぬ、人に乗って事を成す類だ」と言った。
- 平原君は帰国して「私はもう天下の士を相することはすまい」と言い、毛遂を上客とした。
- 楚王は春申君に兵を率いて趙を救わせ、魏王も将軍晉鄙に十万を率いて趙を救わせた。秦王が魏王に「趙は朝夕にも落ちる。救う諸侯があれば、趙を抜いた後にまずそこへ兵を移す」と告げると、魏王は恐れて晉鄙を止め、鄴に留めて塁を築かせ、名は救趙、実は両にらみとした。
- さらに将軍新垣衍を密かに邯鄲へ入れ、平原君を通じて趙王に、共に秦を帝と尊んで兵を退かせようと説かせた。齊人の魯仲連が邯鄲にいてこれを聞き、新垣衍に会って言った。「秦は礼義を捨てて首級の功を尚ぶ国だ。もし秦が天下に帝を称するなら、私は東海を踏んで死ぬ。その民とはなりたくない。梁はまだ秦が帝を称する害を見ていないだけだ。私は秦王に梁王を煮て塩辛にさせてみせる」と。
- 新垣衍が不快げに理由を問うと、魯仲連は九侯・鄂侯・文王が紂の三公だったときの話を引いた。九侯が美しい娘を紂に献じたが紂は悪しとして九侯を塩辛にし、鄂侯が激しく争ったので干し肉にし、文王が嘆息したので牖里の庫に百日拘留して死なせようとした。今、秦も梁も同じ万乗の国で王を称しているのに、一度戦って勝ったのを見て帝と仰ぎ、干し肉や塩辛にされる立場に身を落とすのか。
- さらに、秦が帝となれば天子の礼を行って天下に号令し、諸侯の大臣を入れ替えて、憎む者から奪い愛する者に与える。娘や讒言する妾を諸侯の妃として梁の宮に置く。梁王は安穏でいられず、将軍もどうして今の寵を保てようか、と説いた。新垣衍は立ち上がって再拝し、「先生こそ天下の士だと今わかった。出て行き、二度と秦を帝とすることは口にすまい」と答えた。
- かつて魏の公子無忌(信陵君)は仁にして士に謙り、食客三千を集めた。魏に侯嬴という隠士がおり、七十歳で貧しく大梁の夷門の門番をしていた。公子は酒宴を開いて賓客を集め、席が定まると車騎を従え左席を空けて自ら侯生を迎えに行った。侯生は粗末な衣冠のまま公子の上席に乗り、遠慮しなかった。公子はますます恭しく手綱を執った。
- 侯生はさらに「市の屠殺場に客がいる。車で寄ってほしい」と言い、公子は市に入った。侯生は降りて客の朱亥と会い、公子を横目で窺いながらわざと長く立ち話をした。公子の顔色はますます和やかだった。やがて客に別れて車に戻り、公子の家に至ると、公子は侯生を上座に据え、賓客にあまねく紹介した。賓客はみな驚いた。
- 秦が趙を囲んだとき、趙の平原君の夫人は公子無忌の姉であった。平原君は使者を続々と魏へ送り、「私が婚姻を頼みとしたのは、公子が高義で人の急を救うからだ。今、邯鄲は朝夕にも秦に降ろうというのに魏の救援は来ない。私を見捨てるのはよいとしても、公子の姉が憐れではないのか」と責めた。
- 公子は憂えて何度も魏王に晉鄙への出動命令を求め、賓客や弁士も万端の説得を試みたが、王はついに聴かなかった。公子は賓客を集め車騎百余乗で趙へ赴き死ぬ覚悟を決め、夷門を通って侯生に会った。侯生は「公子、しっかりやりなさい。老臣は同行できません」とだけ言った。
- 数里行って気が晴れず引き返すと、侯生は笑って「公子が戻ると思っていました。他に手立てもなく秦軍に突入するのは、肉を飢えた虎に投げるようなもの。何の功がありましょう」と言った。公子が再拝して計を問うと、侯生は人を退けて言った。「晉鄙の兵符は王の寝室にあり、寵愛されている如姫なら盗み出せる。公子はかつて如姫の父の仇を討ってやった。如姫は公子のために死ぬのも辞さぬはず。一言口を開けば虎符は手に入り、晉鄙の兵を奪って北は趙を救い西は秦を退けられる。五伯の功です」と。
- 公子はその通りにして兵符を得た。出発しようとすると侯生は「将は外にあっては君命を受けぬこともある。晉鄙が符を合わせても兵を渡さず再度確認を求めれば危うい。私の客の朱亥は力士だから同行させなさい。晉鄙が聴けばよし、聴かねば撃たせなさい」と言った。
- 公子は朱亥を伴って鄴に至った。晉鄙は符を合わせても疑い、手を挙げて公子を見つめ「私は十万の兵を擁して国境に屯している。国の重任だ。今、単車で来て代われとはどういうことか」と言った。朱亥は袖の中の四十斤の鉄槌で晉鄙を打ち殺した。
- 公子は軍を掌握し、「父子ともに軍中にある者は父が帰れ。兄弟ともにある者は兄が帰れ。一人子で兄弟のない者は帰って親を養え」と令し、精兵八万を選んで進んだ。
- 王齕は長く邯鄲を囲んで抜けず、諸侯の救援が来て戦況は度々不利になった。武安君はこれを聞いて「王が私の計を聴かなかった結果がこれだ」と言った。王は怒って武安君を無理に起こそうとしたが、武安君は重病と称して起たなかった。
周赧王五十八年(前257年)
- 十月、武安君を士伍に落として陰密へ流した。十二月、さらに兵を発して汾城のあたりに軍を置いた。武安君は病で発たなかった。
- 諸侯が王齕を攻め、齕は度々退き、使者が日々急を告げた。王は人を遣わして武安君を送り出させ、咸陽中に留まることを許さなかった。武安君が咸陽の西門を出て十里、杜郵に至ったとき、王は應侯・群臣と謀り「白起の流謫に不満があり、なお言い分があるようだ」として使者に剣を賜った。武安君は自殺した。秦人は憐れみ、郷邑はみなこれを祀った。
- 魏の公子無忌が邯鄲の下で秦軍を大破し、王齕は邯鄲の囲みを解いて走った。鄭安平は趙に囲まれ、二万を率いて趙に降った。應侯はこれによって罪を得た。
周赧王五十九年(前256年)
- 秦の将軍摎が韓を伐って陽城・負黍を取り四万を斬り、趙を伐って二十余県を取り九万を斬った。
- 赧王は恐れて秦に背き、諸侯と合従を約し、天下の精鋭を伊闕から出して秦を攻め、陽城への道を通じさせないようにした。秦王は将軍摎に西周を攻めさせた。赧王は入秦して頓首して罪を受け、邑三十六・口三万をことごとく献じた。秦は献上を受けて赧王を周に帰した。この年、赧王が崩じた。
秦昭襄王五十二年(前255年)
- 河東守の王稽が諸侯と通じた罪で棄市となった。應侯は日ごとに不快となった。王が朝廷で嘆いたので理由を問うと、王は「武安君が死に、鄭安平・王稽らはみな叛いた。内に良将なく外に敵国が多い。それが憂いだ」と答えた。應侯は恐れて策を出せなかった。
- 燕の客・蔡澤がこれを聞いて西へ入秦し、まず「蔡澤は天下の雄弁の士。秦王に会えば必ずあなたを困らせて位を奪う」と應侯に言い触らさせた。應侯が怒って召すと、蔡澤は無礼な態度で現れた。應侯が「私に代わって相になりたいと言い触らしたそうだが、その説を聞こう」と責めると、蔡澤は「ああ、あなたの見識の遅いことよ。四時の順で功を成した者は去る。秦の商君、楚の呉起、越の大夫種を見なかったのか。あれが願わしいものか」と言った。
- 應侯はわざと「なぜいけない。三人は義の極み、忠の極みだ。君子は身を殺して名を成し、死んでも恨まない」と答えた。蔡澤は「人が功を立てるのは、身も名も全うすることを期してのはず。身名ともに全きが上、名は法とすべきだが身は死ぬのが次、名は辱められて身だけ全いのが下です。商君・呉起・大夫種は臣として忠を尽くし功を致した点では願わしいが、閎夭や周公とてまた忠かつ聖ではないか。三人と閎夭・周公、どちらが願わしいか」と問い、應侯は「善し」と認めた。
- 蔡澤は続けて「では、あなたの主君が旧誼を篤くし功臣に背かない度合いは、孝公・楚王・越王と比べてどうか」と問い、應侯は「分からない」と答えた。「あなたの功と能は三人と比べてどうか」と問うと「及ばない」と答えた。蔡澤は「ならば、退かなければ患いは三人よりも甚だしいでしょう。日は中すれば移り、月は満ちれば欠ける。進退・伸縮を時とともに変化させるのが聖人の道です。今、あなたは怨みも報い恩も返して意は極まったのに、方針を変えようとしない。危ういと思います」と説いた。
- 應侯は蔡澤を上客として王に推した。王は召して語り大いに喜び、客卿とした。應侯は病と称して免ぜられ、王は蔡澤の計画を気に入って相国とした。蔡澤は数か月で免ぜられた。
- 周の民が東へ逃げ、秦人はその宝器を取り、西周公を㦰狐の聚へ遷した。
秦昭襄王五十三年(前254年)
- 摎が魏を伐って呉城を取った。韓王が入朝し、魏は国を挙げて秦の指図に従った。
秦昭襄王五十六年(前251年)
- 秋、昭襄王が没し、孝文王が立って子の子楚を太子とした。
秦孝文王元年(前250年)
- 冬十月己亥、王が即位して三日で没し、子楚が立った。これが莊襄王である。
秦莊襄王元年(前249年)
- 呂不韋が相国となった。
- 東周君が諸侯と秦征伐を謀ったので、王は相国に兵を率いさせて滅ぼし、東周君を陽人の聚へ遷した。周はここで祭祀を絶った。周が滅ぶ直前に領していたのは河南・洛陽・穀城・平陰・偃師・鞏・緱氏の七邑であった。
- 河南・洛陽の十万戸を相国不韋に封じ、文信侯とした。
- 蒙驁が韓を伐って成皋・滎陽を取り、はじめて三川郡を置いた。
秦莊襄王二年(前248年)
- 蒙驁が趙を伐って太原を平定し、榆次・狼孟など三十七城を取った。
秦莊襄王三年(前247年)
- 王齕が上黨の諸城を攻めてすべて抜き、はじめて太原郡を置いた。
- 蒙驁が魏を伐って高都・汲を取り、魏軍は度々敗れた。魏王は憂えて趙にいる信陵君に帰国を請うたが、信陵君は罪を恐れて帰らず、「魏の使者を取り次ぐ者は死罪」と門下に戒めたので誰も諫められなかった。毛公と薛公が「公子が諸侯に重んじられるのは魏があるからです。今、魏が危急なのに顧みず、ひとたび秦が大梁を落として先王の宗廟を踏みにじれば、どんな顔で天下に立つのですか」と言うと、言い終わらぬうちに信陵君は顔色を変え、急ぎ車を出して魏へ帰った。
- 魏王は信陵君を抱いて泣き、上将軍とした。信陵君が諸侯に援を求めると、諸侯は信陵君が再び魏の将となったと聞いてみな兵を送った。信陵君は五国の兵を率いて河外で蒙驁を破り、蒙驁は逃げ、信陵君は函谷關まで追って押さえ込んで還った。
- 安陵人の縮高の子が秦に仕えて管を守っていた。信陵君は管を攻めて落とせず、安陵君に「縮高を寄越せ。五大夫に取り立てて執節尉としよう」と伝えた。安陵君は「安陵は小国で民を強いることはできない。使者が自ら行って頼まれよ」と答え、吏に案内させた。
- 縮高は使者に答えた。「信陵君が私を厚遇するのは、私に管を攻めさせるためでしょう。父が攻め子が守るのは人の笑いもの。私を見て子が降れば主に背くことになる。父が子に背かせるのも君の喜ぶところではありますまい」と辞退した。
- 信陵君は激怒して安陵君に「安陵の地も魏である。今、管を落とせなければ秦兵が我らに及び社稷は危うい。縮高を生きたまま縛って寄越せ。さもなくば無忌は十万の兵を安陵の城下に至らせる」と伝えた。
- 安陵君は答えた。「わが先君成侯は襄王の詔を受けてこの城を守り、太府の憲を手ずから受けた。憲の上篇に『子が父を弑し臣が君を弑すは常に赦さず。国が大赦しても、城を降した者・亡命した子は与らず』とある。今、縮高は大位を辞して父子の義を全うしたのに、生きたまま連行せよと言われるのは、私に襄王の詔に背き太府の憲を廃させることだ。死んでも行えない」と。
- 縮高はこれを聞き、「信陵君は激しく独断的な人物だ。この返答が届けば必ず国の禍となる。私はすでに身を全うし人臣の義に背かずに済んだ。わが君に魏の患いを負わせてよいものか」と言い、使者の宿舎へ行って自ら首を刎ねて死んだ。
- 五月丙午、莊襄王が没し、太子政が立った。十三歳であった。国事はすべて文信侯に委ねられ、仲父と称された。
秦始皇帝元年(前246年)
- 韓は秦を疲れさせて東征させまいと、水工の鄭國を間諜として送り込み、涇水を仲山から引いて北山沿いに東の洛水へ注ぐ渠を掘らせた。工事の途中で発覚し秦人が殺そうとすると、鄭國は「私は韓のために数年の延命を図りましたが、渠が完成すれば秦の万世の利にもなります」と言った。そこで工事を続けさせた。泥を含む水を塩害地に注いだ結果、四万余頃が灌漑され、収穫はいずれも畝あたり一鍾となり、關中はこれによって一層富み栄えた。
秦始皇帝三年(前244年)
- 蒙驁が韓を伐って十二城を取った。
秦始皇帝四年(前243年)
- 春、蒙驁が魏を伐って畼・有詭を取り、三月に軍を罷めた。
- 秦の人質の子が趙から帰り、趙の太子も帰国した。
秦始皇帝五年(前242年)
- 蒙驁が魏を伐って酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽など二十城を取り、はじめて東郡を置いた。
秦始皇帝六年(前241年)
- 楚・趙・魏・韓・衛が合従して秦を伐った。楚王が従の長となり春申君が事に当たり、壽陵を取って函谷まで進んだが、秦軍が出ると五国の兵はみな敗走した。楚王はこれを春申君の責とし、春申君は以後疎んじられた。
- 観津の朱英が春申君に説いた。「皆は楚を強いと思っているが、あなたが用いて弱くなったと言う。私はそうは思わない。先君の時、秦は楚と善くして二十年攻めなかった。それは秦が黽阨の塞を越えて楚を攻めるのが不便であり、二周に道を借り韓魏を背にして楚を攻めるわけにいかなかったからだ。だが今は違う。魏は朝夕にも滅び、許・鄢陵を惜しむ余裕はなく、割いて秦に与えるだろう。そうなれば秦兵は陳から百六十里の所に来る。私に見えるのは、秦と楚が日々戦うことだ」と。
- 楚はこれを受けて陳を去り壽春に遷って郢と名づけた。春申君は封地の呉に赴き、そこで相の事を執った。
- 秦が魏の朝歌および衛の濮陽を抜いた。衛の元君は一族を率いて野王に移り、山に拠って魏の河内を保った。
秦始皇帝七年(前240年)
- 魏を伐って汲を取った。
- 蒙驁が没した。
秦始皇帝九年(前238年)
- 魏を伐って垣・蒲を取った。
- 楊端和が魏を伐って衍氏を取った。
秦始皇帝十年(前237年)
- 文信侯が相を免ぜられ封国へ去った。
- 宗室・大臣が「諸侯の国から来て仕える者はみな主君のための間諜だ。一切追放すべきだ」と議し、大々的な捜索と追放が行われた。客卿の楚人李斯も追放の対象となり、去るにあたって上書した。
- 昔、穆公は士を求め、西は戎から由余を、東は宛から百里奚を得、宋から蹇叔を迎え、晉から丕豹・公孫支を求め、二十国を併せて西戎に覇となった。孝公は商鞅の法を用いて諸侯を服させ、今なお治まり強い。惠王は張儀の計で六国の合従を散らして秦に仕えさせ、昭王は范睢を得て公室を強くし私門を塞いだ。四君はみな客の功による。客が秦に何の負い目があるのか。
- 女色・音楽・珠玉は秦の産ではないのに王は多く用いるのに、人については可否も曲直も問わず、秦人でなければ去らせ、客であれば追う。それは色・楽・珠玉を重んじ人民を軽んじることだ。
- 泰山は土壌を辞さないから大きく、河海は細流を択ばないから深く、王者は衆庶を却けないから徳が明らかになる。五帝三王が無敵だったのはこれである。今、民を棄てて敵国を助け、賓客を却けて諸侯の業を成すのは、敵に兵を貸し盗に糧を贈るに等しい、と。
- 王は李斯を召し返して官に復し、逐客の令を廃した。李斯は驪邑まで行って引き返した。
- 王はついに李斯の謀を用い、密かに弁士に金玉を持たせて諸侯に遊説させた。財で懐柔できる諸侯の名士は厚く贈って結び、応じない者は利剣で刺殺し、君臣の間を離間させたうえで良将を差し向けた。こうして数年のうちに天下を併合した。
秦始皇帝十一年(前236年)
- 趙が燕を伐って貍陽を取り、まだ兵を収めぬうちに、将軍の王翦・桓齮・楊端和が趙を伐って鄴を攻め九城を取った。王翦は閼與・撩陽を攻め、桓齮は鄴・安陽を取った。
秦始皇帝十二年(前235年)
- 四郡の兵を発して魏の楚征伐を助けた。
秦始皇帝十三年(前234年)
- 桓齮が趙を伐ち、趙将の扈輒を平陽で破って十万を斬り扈輒を殺した。趙王は李牧を大将軍とし、宜安・肥下で再戦して秦軍は大敗し、桓齮は逃げ帰った。
秦始皇帝十四年(前233年)
- 桓齮が趙を伐って宜安・平陽・武城を取った。
- 韓王が土地を納め璽を差し出して藩臣となることを請い、韓非を使者として送った。韓非は上書して説いた。「今、秦の地は方数千里、軍は百万を号し、号令・賞罰は天下に比類がない。死を賭して大王に拝謁し、天下の合従を破る計を申し上げたい。私の説を聴いて一挙に合従が破れず、趙が落ちず韓が滅びず、楚魏が臣従せず齊燕が親しまず、覇王の名が成らず四隣の諸侯が朝さなければ、私を斬って国中に晒し、王のために不忠に謀る者への戒めとされたい」と。
- 王は喜んだがまだ任用しなかった。李斯が妬んで「韓非は韓の公子です。今、諸侯を併合しようというのに、韓非は結局韓のために動き秦のためには動かない。それが人情です。用いずに長く留めて帰せば、後患を残します。法によって誅すべきです」と言った。王は然りとして吏に下して裁かせ、李斯は人をやって毒薬を届け早く自殺させた。韓非は自ら弁明しようとしたが謁見できなかった。王は後で悔いて赦そうとしたが、韓非はすでに死んでいた。
史論(臣光曰・韓非)
- 君子は自らの親を親しむことから他人の親に及ぼし、自らの国を愛することから他人の国に及ぼす。だからこそ功は大きく名は美しく、多くの福を享受できる。
- 韓非は秦のために謀をめぐらし、まず自分の宗国を覆すことで自説を売り込んだ。その罪は死をもってしても償えない。
秦始皇帝十五年(前232年)
- 王が大挙して趙を伐った。一軍は太原に至って狼孟・番吾を取ったが、李牧と遭遇して還った。
- かつて燕の太子丹は趙で人質となっており、そこにいた王(政)と親しかった。王が即位すると丹は秦への人質となったが、王が礼遇しなかったので怒って逃げ帰った。
秦始皇帝十六年(前231年)
- 韓が南陽の地を献じ、九月に兵を発して韓から地を受け取った。
- 魏人も地を献じた。
秦始皇帝十七年(前230年)
- 内史勝が韓を滅ぼし、韓王安を捕らえ、その地に潁川郡を置いた。
秦始皇帝十八年(前229年)
- 王翦が上地の兵を率いて井陘を下り、楊端和が河内の兵を率いて共に趙を伐った。趙は李牧・司馬尚に防がせた。
- 秦は趙王の寵臣郭開に多額の金を贈り、李牧と司馬尚を讒言させて謀反の心ありと言わせた。趙王は趙葱と齊の将顔聚を代わりに立てた。李牧が命に従わなかったので趙人はこれを捕らえて殺し、司馬尚を罷免した。
秦始皇帝十九年(前228年)
- 王翦が趙軍を大破して趙葱を殺し、顔聚は逃げた。ついに邯鄲を落として趙王遷を捕らえた。王は邯鄲に赴き、かつて母方の家と仇怨のあった者をことごとく殺し、太原・上郡を経て帰った。
- 王翦は中山に駐屯して燕・趙に臨んだ。趙の公子嘉は一族数百人を率いて代へ走り、自ら代王と称した。趙の亡命した大夫が次第にこれに帰し、燕と兵を合わせて上谷に軍を置いた。
- 燕の太子丹は秦王を怨んで報復を志し、傅の鞠武に諮った。鞠武は西に三晉と約し南に齊楚と連なり北に匈奴と和して秦を図るよう説いたが、太子は「太傅の計は日数がかかりすぎる。心が焦れて待てない」と言った。
- ほどなく将軍樊於期が罪を得て燕へ亡命し、太子はこれを受け入れて住まわせた。鞠武は「秦王の暴虐と燕への積年の怒りだけでも寒心すべきなのに、まして樊将軍の所在が知れれば。これは飢えた虎の通り道に肉を置くようなものです。速やかに樊将軍を匈奴へ送り出してください」と諫めた。太子は「樊将軍は天下に窮して私に身を寄せた。それは私の命が尽きるときまで守るということだ。他を考えてほしい」と答えた。鞠武は「危険を冒して安を求め、禍を作って福とするのは、計が浅く怨みが深い。一人との交わりのために国家の大害を顧みないのは、怨みを助け禍を招くことです」と言ったが、太子は聴かなかった。
- 太子は衛人の荊軻の賢を聞き、卑辞厚礼で招いて言った。「今、秦はすでに韓王を捕らえ、南は楚を伐ち北は趙に臨んでいる。趙が支えきれなければ禍は必ず燕に及ぶ。燕は小さく弱く度々兵に苦しみ、秦に当たれない。諸侯は秦に服し合従を敢えてしない。私の考えでは、天下の勇士を秦に遣わし、秦王を脅して諸侯から侵した地をすべて返させるのが最上、曹沬と齊桓公のように。それが叶わなければ刺殺する。大将が外で兵を握り内が乱れれば君臣は疑い合い、その隙に諸侯が合従すれば秦は必ず破れる。荊卿、心にとめてほしい」と。荊軻は承知した。太子は荊軻を上等の宿舎に住まわせ、日々門下に通って手厚く養った。
- 王翦が趙を滅ぼすと、太子は恐れて荊軻を出発させようとした。荊軻は「今行っても信物がなければ秦に近づけません。樊将軍の首と燕の督亢の地図を秦王に献じれば、秦王は必ず喜んで会うでしょう。そうすれば報いることができます」と言った。太子は「樊将軍は窮して私に頼ってきた。忍びない」と答えた。
- 荊軻は密かに樊於期に会って言った。「秦のあなたへの仕打ちは深い。父母も宗族もみな殺された。今、あなたの首に千斤の金と一万戸の邑が懸けられていると聞く。どうされるか」と。樊於期が涙を流して「どんな計があるのか」と問うと、荊軻は「あなたの首を秦王に献じたい。秦王は喜んで私に会う。私は左手でその袖を掴み右手で胸を刺す。そうすればあなたの仇は報われ、燕が侮られた恥も雪がれる」と述べた。樊於期は「これこそ日夜歯噛みし心を腐らせてきたことだ」と言って自刎した。太子は駆けつけて伏して哭したが、どうにもならず、首を箱に納めた。
- 太子はあらかじめ天下の鋭い匕首を求め、工に薬を焼き入れさせ、人で試したところ、血が糸ほど滲むだけで必ず即死した。これを装って荊軻を送り出し、燕の勇士秦舞陽を副使として入秦させた。
秦始皇帝二十年(前227年)
- 荊軻は咸陽に至り、王の寵臣蒙嘉を通じて卑辞で謁見を求めた。王は大いに喜び、朝服を着て九賓の礼を設けて会った。
- 荊軻が地図を捧げて進み、図が開ききると匕首が現れた。王の袖を掴んで刺そうとしたが届かず、王は驚いて立ち上がり袖が切れた。荊軻が追い、王は柱を巡って逃げた。群臣は驚愕し、不意の事態に対処を失した。秦の法では殿上に侍る群臣は寸尺の武器も持てず、左右は素手で打ちかかりながら「王よ、剣を背負って(抜け)」と叫んだ。王は剣を抜いて荊軻を撃ち、左の股を断った。荊軻は動けなくなり匕首を投げつけたが銅柱に当たった。事の成らぬのを知って「成らなかったのは、生け捕りにして必ず契約を取りつけ太子に報いようとしたからだ」と罵った。荊軻は体を裂いて晒された。
- 王は大いに怒り、増兵して趙にいる王翦のもとへ送り燕を伐たせた。易水の西で燕軍と戦い大破した。
秦始皇帝二十一年(前226年)
- 冬十月、王翦が薊を抜いた。燕王と太子は精兵を率いて東の遼東へ退き、李信が急追した。代王嘉が燕王に書を送って太子丹を殺して献じるよう勧めた。丹は衍水の中に隠れたが、燕王は使者を送って丹を斬り、秦王に献じようとした。王はさらに兵を進めて攻めた。
- 王賁が楚を伐って十余城を取った。王が将軍李信に「楚を取るには何人必要か」と問うと、李信は「二十万で足ります」と答えた。王翦に問うと「六十万でなければ不可」と答えた。王は「王将軍は老いた。何と臆病な」と言い、李信と蒙恬に二十万を与えて楚を伐たせた。王翦は病と称して頻陽に帰った。
秦始皇帝二十二年(前225年)
- 王賁が魏を伐り、黄河の水路を引いて大梁に注いだ。三月で城壁が崩れ、魏王假は降ったが殺され、魏は滅んだ。
- 王が安陵君に「五百里の地と安陵を交換したい」と伝えると、安陵君は「大王が大をもって小と換える恩恵は幸いですが、私は魏の先王から地を受けており、終生守りたく、換えることはできません」と答えた。王はこれを義として許した。
- 李信が平輿を攻め蒙恬が寑を攻めて楚軍を大破した。李信はさらに鄢郢を攻めて破り、兵を西へ引いて城父で蒙恬と合流した。楚人は三日三晩休まず追撃し、李信を大敗させて二つの塁に攻め入り、七人の都尉を殺した。李信は逃げ帰った。
- 王は激怒し、自ら頻陽へ赴いて王翦に詫び、「将軍の謀を用いず、李信は果たして秦軍を辱めた。将軍は病でも私を見捨てるのか」と言った。王翦が病で将たり得ないと辞すると、王は「もうよい、言うな」と言った。王翦は「どうしてもと言われるなら、六十万でなければ不可です」と述べ、王は「将軍の計に従おう」と答えた。王翦は六十万を率いて楚を伐ち、王は覇上まで見送った。
秦始皇帝二十三年(前224年)
- 王翦が陳から南、平輿までを取った。楚人は王翦が兵を増して来たと聞いて国中の兵を挙げて防いだ。王翦は塁を固めて戦わず、楚人が何度挑発しても出なかった。
- 王翦は日々士卒を休ませて沐浴させ、食事をよくして労わり、自ら士卒と同じものを食べた。しばらくして軍中の様子を尋ねさせると「石投げや跳躍をしています」と答えたので、「使える」と言った。
- 楚は戦えぬまま東へ引き上げた。王翦は追撃し、壮士に撃たせて楚軍を大破し、蘄の南で将軍項燕を殺した。楚軍は敗走し、王翦は勝ちに乗じて城邑を平定した。
秦始皇帝二十四年(前223年)
- 王翦と蒙武が楚王負芻を捕らえ、その地に楚郡を置いた。
秦始皇帝二十五年(前222年)
- 大挙して兵を興し、王賁に遼東を攻めさせて燕王喜を捕らえた。
史論(臣光曰・燕丹と荊軻)
- 燕の太子丹は一時の怒りを抑えられずに虎狼の秦を犯し、軽率な考えと浅い謀で怨みを挑発して禍を早め、召公の廟の祭祀をたちまち絶えさせた。これ以上の罪はないのに、賢と評する者がいるのは間違いである。
- 国を治める者は才で官を任じ、礼で政を立て、仁で民を懐け、信で隣国と交わる。そうすれば官は人を得、政は節を得、百姓はその徳を慕い、四隣はその義に親しむ。国家は磐石のごとく安く、燃え盛る火のごとく、触れる者は砕け犯す者は焦げる。強暴な国があっても恐るるに足りない。
- 丹はこれを行わず、万乗の国を挙げて匹夫の怒りを決し、盗賊の謀を遂げて、功は崩れ身は殺され社稷は廃墟となった。膝行して這うのは恭ではなく、言を重ね諾を重んじるのは信ではなく、金玉を撒くのは恵ではなく、首を刎ね腹を切るのは勇ではない。要するに謀は遠くなく行いは義でない。楚の白公勝の類である。
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荊軻は養われた私恩に報いようとして七族を顧みず、八寸の匕首で燕を強くし秦を弱くしようとした。愚かというほかない。楊子(揚雄)が要離を蛛蝥の類、聶政を壮士の類、荊軻を刺客の類として、いずれも義とは言えないとし、「荊軻は君子から見れば盗の類だ」と評したのは適切である。
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王賁が代を攻めて代王嘉を捕らえた。
- 王翦が楚の江南の地をことごとく平定し、百越の君を降して會稽郡を置いた。
- かつて齊の君王后は賢く、秦に慎重に仕え諸侯とも信をもって交わった。齊は東の海辺にあり、秦が日夜三晉・燕・楚を攻めても五国はそれぞれ自救に追われたため、齊王建は在位四十余年にわたって兵を受けなかった。君王后は死に際して建に「群臣で用いるべき者は某だ」と言い、王が書き留めようとして筆と牘を取ると、「老婦はもう忘れました」と言った。
- 君王后の死後、后勝が齊の相となった。后勝は秦の間諜の金を多く受け、その賓客も入秦し、秦もまた多くの金を与えたので、みな反間となって王に秦へ朝するよう勧め、攻戦の備えをせず五国の秦攻めを助けさせなかった。秦が五国を滅ぼせたのはこのためである。
- 齊王が入朝しようとすると、雍門の司馬が進み出て「王を立てたのは社稷のためか、王のためか」と問うた。王が「社稷のためだ」と答えると、司馬は「社稷のために王を立てたのに、なぜ社稷を捨てて秦へ入るのか」と言い、齊王は車を返した。
- 即墨の大夫がこれを聞いて齊王に会い、「齊は方数千里、甲兵数百万。三晉の大夫はみな秦を不便とし、阿・甄のあたりに百を数える。王がこれを収めて百万の衆を与え、三晉の故地を収めさせれば臨晉の関から入れる。鄢郢の大夫で秦に仕えたくない者も城南の下に百を数える。これを収めて百万の師を与え楚の故地を収めさせれば武關から入れる。そうすれば齊の威は立ち秦は滅ぼせる。国家を保つどころの話ではない」と説いたが、齊王は聴かなかった。
秦始皇帝二十六年(前221年)
- 王賁が燕から南下して齊を攻め、突如臨淄に入った。民は誰も抗せず、秦は齊王を誘って五百里の地に封じると約した。齊王は降り、秦は共に移して松柏のあいだに置き、餓死させた。
- 齊人は建が早く諸侯と合従せず、姦人や賓客の言を聴いて国を失ったことを怨み、「松か、柏か、建を共に住まわせたのは客か」と歌った。建が客を用いるのに慎重さを欠いたことを責めたのである。
史論(臣光曰・合従連衡の総括)
- 合従・連衡の説は百様に反覆したが、大要において合従は六国の利であった。
- 昔、先王が万国を建て諸侯を親しませ、朝聘で交わり饗宴で楽しみ会盟で結ばせたのは、心を同じくし力を合わせて家国を保たせるためにほかならない。
- 六国が信義をもって互いに親しんでいれば、秦がいかに強暴でも滅ぼせはしなかった。三晉は齊楚の藩屏であり、齊楚は三晉の根柢である。形勢は互いに支え合い、表裏は互いに依存する。
- ゆえに三晉が齊楚を攻めるのは自ら根を絶つことであり、齊楚が三晉を攻めるのは自ら垣根を取り払うことである。垣根を取り払って盗に媚び、「盗は我を愛して攻めまい」と言うのは、まったく道理に合わない。