通鑑紀事本末三家、晋を分かつ(三家分晉)
周の威烈王が晋の大夫だった魏斯・趙籍・韓虔を諸侯に列した前403年の一事と、そこに至る智氏滅亡の経緯。智伯は不仁を理由に反対された身で宗主となり、韓・魏から土地を奪って驕り、趙襄子の拒否に怒って晋陽を囲み水攻めにした。韓・魏が趙と内応して堤を切り、智氏は滅ぶ。遺臣の豫讓は二度の復讐に失敗して死んだ。三家は領地を分け、魏の文侯が趙と韓の争いを仲裁して三晋の中で抜きん出た。司馬光は、礼を壊したのは三晋ではなく天子自身だと断ずる。
年表(6件)
- 周威烈王
- 二十三年前403年威烈王が魏斯・趙籍・韓虔をはじめて諸侯に列する
- 智氏の台頭と後継者選び(回想)智果が瑤の不仁を説いて別族を立て、趙は無恤を後継とする
- 智伯の専横(回想)韓・魏から万戸の邑を取り上げ、拒んだ趙を韓魏の兵で攻める
- 晉陽の攻防と智氏の滅亡(回想)水攻めの最中に韓魏が趙と通じ、堤を切って智伯を殺す
- 智氏の遺領分割と豫讓の復讐襄子が智伯の頭蓋を酒器とし、豫讓は身を毀って報復を図る
- 趙・魏・韓三氏の継承と魏の隆盛魏の文侯が趙韓の争いを断り、両国が魏に朝する
周威烈王二十三年(前403年)
- 周の威烈王が、晉の大夫であった魏斯・趙籍・韓虔の三人を、はじめて正式に諸侯として認める命を下した。
史論(臣光曰・礼と名分について)
- 司馬光は、天子の職務のうち最大のものは礼であり、礼の根幹は分(身分の別)、分の根幹は名(爵位の呼称)だと説く。天下の万民が一人の君主に従うのは、礼が綱紀として機能しているからにほかならない。
- 名と器(爵位と儀礼の道具立て)は君主が独占して手放してはならないもので、衛の仲叔于奚が領邑を辞退して繁纓を求めた話に孔子が難色を示したこと、孔子が政治に際してまず名を正そうとしたことを、その証拠として挙げる。小さな兆しのうちに処置するのが聖人の遠慮である。
- 幽王・厲王以後、周の綱紀は崩れ礼の大半は失われたが、なお数百年も宗主でいられたのは名分が残っていたためだとする。晉の文公が襄王に隧の礼を求めて拒まれ、恐れて従った例を引く。
- 季氏・田常・白公・智伯はいずれも君を追う力を持ちながら実行しなかった。名を犯せば天下から討たれると恐れたからである。ところが今、晉の大夫が主君を蔑ろにして国を分割したのを、天子は討伐できないばかりか爵位を与えて諸侯に列した。三晉が諸侯となったのは三晉が礼を壊したのではなく、天子自らが壊したのだ、と司馬光は断じる。
- 周室が微弱で三晉が強盛だったからやむを得なかった、という弁護も退ける。三晉が天子の許しを得ずに自立していれば悖逆の臣であり、桓公・文公のような君主が現れれば討てたはずだ、というのがその理由である。君臣の礼が壊れた結果、天下は智力の争いとなり、聖賢の子孫たる諸侯の社稷はことごとく絶え、人民は殺し尽くされた、と嘆じて結ぶ。
智氏の台頭と後継者選び(回想)
- かつて智宣子が瑤(智伯)を後継に立てようとしたとき、一族の智果は宵のほうがよいと反対した。瑤は容貌・武芸・技能・弁舌・果断の五点で人に勝るが、不仁という一点で劣る。五つの長所で人を圧し不仁で行動すれば誰も耐えられず、智氏一族は滅ぶと説いた。聞き入れられなかったため、智果は太史に願い出て族籍を分け、輔氏を名乗った。
- 趙簡子は長男の伯魯と末子の無恤のどちらを後継にするか決めかね、訓戒の言葉を書いた竹簡を二人に与えて三年後に問うた。伯魯は言葉も竹簡も失っていたが、無恤はそらんじ、袖から竹簡を取り出した。簡子は無恤を賢しとして後継に立てた。
- 簡子は尹鐸を晉陽の統治に遣わした。尹鐸が「収奪の場とするか、それとも守りの拠点とするか」と問うと簡子は後者と答え、尹鐸は課税戸数を減らした。簡子は無恤に、晉に難が起きたら尹鐸と晉陽を頼れと言い残した。
智伯の専横(回想)
- 智宣子の死後、智襄子(智伯)が政を執り、藍臺の宴で韓康子をからかい段規を辱めた。智国が諫めても「難は自分次第だ」と取り合わなかった。
- 智伯が韓康子に領地を要求すると、段規は与えるよう勧めた。智伯は得地に味を占めて他家にも要求し、拒まれれば兵を向ける。そうすれば韓は難を免れて情勢の変化を待てるという計である。康子は万戸の邑を差し出した。
- 次に魏桓子に要求すると、任章が同じ理屈で献上を勧めた。与えれば智伯は驕り、諸大夫は恐れて互いに親しむ。驕って敵を侮る者に、結束した兵で当たれば智氏は長くない。周書の「敗らんと欲すれば姑く輔けよ、取らんと欲すれば姑く与えよ」を引き、魏だけが智氏の的になるのを避けよと説いた。桓子も万戸の邑を与えた。
- 智伯がさらに蔡・皋狼の地を趙襄子に求めると襄子は拒み、怒った智伯は韓・魏の兵を率いて趙を攻めた。
晉陽の攻防と智氏の滅亡(回想)
- 襄子は逃げ先を検討し、長子城は民が疲弊して築いた城、邯鄲は民の膏を絞って蓄えた倉だとしていずれも退け、先君が託し尹鐸が寛政を敷いた晉陽を選んだ。
- 三家は国人を動員して晉陽を囲み、水を引いて灌いだ。城壁は三版を残すのみとなり、竈は水没して蛙が湧いたが、民に叛く気配はなかった。
- 智伯が水勢を視察した際、魏桓子が御し韓康子が陪乗していた。智伯が「水で人の国を滅ぼせると今わかった」と漏らすと、桓子と康子は肘と足で合図を交わした。汾水は安邑を、絳水は平陽を灌げるからである。
- 絺疵は韓・魏の離反を予見して智伯に告げた。趙が滅べば次は韓・魏であり、勝利目前なのに二人に喜色がなく憂色があるのがその証だという。智伯が二人に問いただすと、二人は讒言だと否定した。絺疵は智伯が自分の言を漏らしたことを察し、齊への使者を願い出て去った。
- 趙襄子は張孟談を密かに送り、唇亡べば歯寒しの理で韓・魏を説いた。二家は日を約して内応を決めた。襄子は夜に堤の番人を殺して水を決壊させ、智伯の軍に注いだ。混乱するところを韓・魏が両翼から、襄子が正面から突き、智伯を殺して智氏一族をことごとく滅ぼした。族を分けていた輔果だけが残った。
史論(臣光曰・才と徳)
- 智伯が滅んだのは才が徳に勝ったためだと司馬光は言う。世間は才と徳を区別せず一括して「賢」と呼ぶために人選を誤る。
- 聡明果断が才、正直中和が徳であり、才は徳の資材、徳は才の統率者である。雲夢の竹も矯めなければ堅物を貫けず、棠谿の金も研がなければ強敵を撃てない。
- 才徳ともに備わるのが聖人、ともに欠けるのが愚人、徳が才に勝るのが君子、才が徳に勝るのが小人である。聖人・君子が得られないなら、小人を得るより愚人を得るほうがましだ。愚人は悪をなそうとしても力が及ばないが、小人は知恵で姦を遂げ勇で暴を決する、翼のある虎だからである。
- 徳は敬われ才は愛される。愛は親しみやすく敬は疎くなりやすいので、人を観る者は才に目を奪われ徳を見落とす。古来、国の乱臣・家の不肖の子で才余りて徳足らず破滅した例は数知れず、智伯だけの話ではない、と結ぶ。
智氏の遺領分割と豫讓の復讐
- 三家は智氏の領地を分割した。趙襄子は智伯の頭蓋に漆を塗って酒器とした。
- 智伯の臣豫讓が報復を志し、刑余の者を装って匕首を懐に襄子の宮中に入り、便所の壁を塗る仕事に紛れ込んだ。襄子は胸騒ぎがして捜索させ豫讓を捕らえたが、「智伯には後嗣がないのに仇を報じようとする真の義士だ」として釈放し、以後は用心すると述べた。
- 豫讓は身に漆を塗って癩を装い、炭を呑んで唖となり、市で物乞いをした。妻さえ気づかなかったが、旧友が見破って泣き、趙孟に仕えて近づけば容易に果たせるのにと諭した。豫讓は、臣として身を委ねながら殺そうとするのは二心であり、あえて困難な道を選ぶのは、後世の二心を抱く臣を恥じ入らせるためだと答えた。
- 襄子の外出時、豫讓は橋の下に潜んだが、橋にさしかかった馬が驚いたため捜索され、捕らえられて殺された。
趙・魏・韓三氏の継承と魏の隆盛
- 襄子は兄の伯魯が後継になれなかったことを気にかけ、自分に五人の子がありながら後嗣を立てず、伯魯の子を代に封じて代成君とした。代成君が早世すると、その子の浣を趙氏の後継に立てた。
- 襄子の死後、弟の桓子が浣を追って自立したが一年で死んだ。趙氏の人々は桓子の即位が襄子の意に反すると考えて桓子の子を殺し、浣を迎えて立てた。これが献子である。献子の子が籍、すなわち烈侯である。
- 魏斯は魏桓子の孫で、これが文侯。韓康子の子が武子、その子が虔で、これが景侯である。
- 韓が魏に兵を借りて趙を伐とうとすると、文侯は趙とは兄弟だと言って断った。趙が魏に兵を借りて韓を伐とうとしたときも同様に断った。両国は当初怒って引き上げたが、文侯が自分たちのために仲裁したのだと知ると、そろって魏に朝した。魏はこれによって三晉の中で抜きん出て大きくなり、諸侯も争えなくなった。