略歴
- 武王は名を発、文王の太子。周公旦・召公奭を補佐とし、太公望を師として殷討伐を謀った。
- 兵を進めて鮪水に至ったとき、王の足袋の紐が解けたが、前に控えた五人の従者は誰も結び直そうとせず、皆「私が王に仕えるのは足袋を結ぶためではありません」と言った。王は旄(指揮の旗)を置いて自ら屈み紐を結んだという。
- 外出して暑さに苦しむ人を見ると車を止めて扇いでやり、黄河を渡る際には白魚が舟に飛び込んだ。
- 紂を討ち滅ぼした後、比干の墓に土を盛って弔い、商容の住む里の門に敬意を表し、箕子の幽閉を解いて釈放し、傾宮に囚われていた女性たちを故郷へ帰し、鹿台に蓄えられた財貨を民に分け与えた。
- 馬を華山の南に放ち、牛を桃林の塞に放牧し、武具を逆さに積んで再び用いないことを示した。
- 九十三歳で崩じ、太子が立って成王となった。
史論(公子との問答)
- 公子は、文王は天下の三分の二を有する盛業を成しながら道を屈して殷に仕え、武王は八百の諸侯の軍を率いて兵を挙げ紂を滅ぼした。徳に優劣があるのか、それとも時運の窮通の違いなのか、二人の聖人がこれほど異なる道を歩んだのはなぜか、羑里での忍従を是とすれば牧野の戦いは非となり、殷を討ったことを正しいとすれば殷に仕えたことは屈することになる、どちらが正しいのか教えてほしいと尋ねた。
- 先生は、四季が均等に分かれていても冬夏には寒暖の違いがあり、五行が巡っていても水火には剛柔の違いがあるように、万物を利し事を成すという道においては両者は同じであるとする。文王が才知を隠し力を蓄えたのは仁を厚くするためであり、武王が果断に振る舞い正々堂々と兵を進めたのは乱を鎮めるためであった。世を救い民を安んじるという点では二人の道筋は一つであり、必ずしも文治を是とし武断を非とする必要はなく、ただ至公(この上ない公正さ)を期すのみである、と結ぶ。