帝王略論卷一 殷湯

略歴

  • 殷の湯王は名を履、姓は子、卨の後裔で壬癸(主癸)の子。
  • 隣国の葛伯が祭祀を行わないため、湯が使者を送って尋ねると、葛伯は「供え物(栥盛)を用意できない」と答えた。湯は人々に耕作させ、童子に食事を運ばせたが、葛伯はその食を奪い童子を殺した。そこで湯は葛伯を討った。
  • 東を征すれば西の夷が湯の来訪を待ち望み、南を征すれば北の狄が待ち望んだという。
  • 網を張る者を見て、四方すべてから来る獲物を網にかけようとする呪いの言葉を耳にした湯は、三面の網を取り除いて一面だけを残し、「左に行きたい者は左へ、右に行きたい者は右へ、南へ行きたい者は南へ、北へ行きたい者は北へ、高きを望む者は高く、低きを望む者は低く。私はただ命に背く者だけを捕らえよう」と呪い直した。この話を聞いた諸侯のうち、一時に三十六国が湯に帰服した。
  • 白狼が鉤をくわえて朝廷に入り、黄魚・黒玉の瑞兆も現れた。
  • 伊尹を宰相とし、桀を討って南巣の山に追放した。
  • その後七年間大旱魃が続き、卜占は「人を犠牲に祈るべし」と告げたが、湯は自ら髪と爪を切って犠牲となり、桑林の社で祈った。言葉が終わらぬうちに大雨が千里四方に降り注いだという。
  • 天子の位に十三年在り、崩じた後九代を経て太戊に至る。

史論(公子との問答)

  • 公子が、成湯の徳のうち何が第一かと問うと、先生は「仁人である」と答えた。
  • 公子がさらに仁人とは何かと問うと、先生は、三面の網を解いたことで飛ぶ鳥までその恩恵を受け、髪を切って犠牲となったことで民衆がその恵みを蒙ったとし、仁人の利益はまことに広く及ぶものだと述べた。『易』に「君子は室にいてもその言葉が善ければ千里の外まで応じる」とあるように、近い者ならなおさらだとする。
  • 公子が、湯は武力によって乱を平定し天下に功を施したのに、その武ではなく仁が称えられるのはなぜかと問うと、先生は孔子の言葉「駿馬はその力ではなく徳が称えられる」を引き、葛伯は礼を失った君主、夏の桀は道を失った君主であり、礼を失えば乱れ道を失えば虐げが起こる、その乱虐によって民に害が及んだのを湯が救い天下を安んじたのだから、東征西怨(東を征すれば西が待ち望むこと)こそ仁人の効験であると答えた。