虞世南の上表文
- 太子中舎人・弘文館学士の臣虞世南が勅を奉じて本書を撰したことを述べる。
- 上古では結縄で政を行い、軒轅(黄帝)の代に学問が興り、史官の記録もここに始まったとする。史書の役割は事跡と言葉を記して善を勧め悪を懲らしめ、褒貶によって規戒を示すことにあり、これは歴代・百王が等しく守ってきたところとする。
- 炎帝・伏羲(炎昊)の盛んな時代は記録が乏しく、唐虞(堯舜)の代になって初めて教えの言葉が残ったとする。
- 春秋の世には魯の史書だけが完全に伝わり、孔子(夫子)がこれをもとに経を説き、左丘明(丘明)がこれを受けて伝を作った。魯史は昇進や退けを王道に帰し、亡国が再興し乱臣が畏れを知る手本となった、日月に掛けて改められることのない書であるとする。
- しかし孔子没後は微言(深い教え)が絶え、諸学派が分立して疑論が並び起こった。『公羊伝』は『穀梁伝』と異なり、鄒氏・夾氏の説は『左氏伝』と違い、同じ経を奉じながら矛盾し合い、同門でありながら楚と越ほどにかけ離れた。
- それ以来長い年月、多くの人が筆削・品評を重ね、著述は竹簡に満ちたが、極めても際限を測れず、一生かけても説き尽くせない。燕石と周の宝玉のように真偽の見分けがつかず、繁雑な議論が正しい説と入り交じる。
- 当代の史書はいずれも隠し立てが多く、王沈には事実を伝えぬ書があり、孫盛には遼東で改めた本があるとする。これはいずれも身を全うし害を避けるためで、そのために史道が時勢に屈してきた。
- また私情による偏りもある。司馬遷(史遷)は漢の武帝を述べるにあたり妖しい巫術の話を多く記し、鄧粲は晋の元帝を紀すにあたり自家の功業を盛んに称え、陳寿は蜀の丞相(諸葛亮)を憾みに思う記述をし、沈約は宋の皇后に対する遺恨を書に残した。良史を得ることの難しさは古今の嘆くところであり、公正な折衷は容易な才ではないとする。
- 伏して思うに、陛下は古を稽え天に則り、天命の図籙を受けて世の運を治め、武功文徳ともに遠近を安んじながらも、なお夙夜(衣を求める間もなく)政治に心を尽くし、大同の世を思い、南風の詩を喜び東戸の治を追い求めようとされている。政務の余暇に典籍へ心を留め、歴代の興亡と前人の得失を鑑みるため、有司に命じて四部の書を刪正させ、翰林・秘府の蔵書を整えさせた。
- 乙部(史部)の書は数多く、前後の伝記は互いに継承しつつも道は同じくする。班固(孟堅)は劉歆(歆の書)に依り、范曄は華嶠の草稿を用い、虞預と王隠は同じ文を伝え、謝沈と孫山松の説にも違いはない。溝洫(水利)は河渠に当たり、恩沢は佞幸に当たるなど、名は異なっても実は同じという例も一つではない。
- 一方で旧来の体裁に従わず新奇な体裁を作り、殊更な称号や奇抜な名を掲げる者もある。載記の体は鄧珍に始まり、雑録は何法盛に見られるが、いずれも人目を驚かせ時流に誇るだけで、変革ばかり多く義に取るところがないとする。
- そこで冗長な言葉を削り簡要な内容だけを残し、順を追って論じることとし、臣(虞世南)に命じて文を集め草稿を作らせた。また従来の史論はいずれも一方的な述べ方に留まり、道理を尽くさぬところがあるため、賓主(問答)の形を設けて互いに啓発させることとした。
- 臣は謹んで筆を執り勅命を奉じたが、老いと才の乏しさから聞き受けにも暗く、綴り合わせも拙いことを恐縮しつつ、書き上げたものを謹んで奏上する、と結ぶ。
斉国の公子と知微先生
- 斉国の公子は聡明で学を好み、鄒魯の地に遊学して多くの書を読んだが、かえって疑問が深まった。「多岐亡羊」(道が多岐に分かれると羊を見失う)ということわざを引き、博学だけでは要を得ないと嘆き、上国にいるという知微先生を訪ねることにした。
- 公子は笠を背負い先生の門を叩き、跪いて教えを請うた。先生は席を整えて迎え、遠路訪ねた理由を尋ねた。
- 公子は、田舎で耕作の合間に書を読み、古今の治乱の君主を見てきたが、在位が長く続く者と危難で滅びる者があるのはなぜか、天意によるのか人事によるのか、疑いを解いてほしいと願った。
先生の総論
- 先生は「大きな問いである」として、次のように説く。人は霊気を備え草木とは異なり、剛柔の性と喜怒の情を持つため、愛憎が生じ是非が起こる。人々が群れて主がなければ乱れるほかなく、そこで君長を立てて民を治めさせた。
- 善を行えば天は福を降し瑞祥が現れ、悪を行えば天は禍を報い妖孽が生じる。これは響きが声に応じ、影が形に従うのと同じ必然の理である。
- 瑞祥とは黄龍・丹鳳・甘露・醴泉に限らず、周(文王)が磻渓で太公望を得た兆しや、殷(武丁)が傅巌の夢を得たことのような例を指す。妖孽とは鬼哭・山鳴・日食・星の墜落に限らず、周の褒姒や晋の孫強のような例を指すという。
- 天意と人事は互いに関わり合って結果をなすとし、これから賢愚二通りの君主について治乱の跡を説くとする。
- ただし三皇五帝は徳が天地と合致し明知が日月に並ぶほどで、微妙玄妙は凡庸の及ぶところではないため、事跡を略述するに留め論評は加えないとする。三代(夏殷周)以降になると君主に明暗があり世に治乱があるため、興亡の理を論じることができ、明君は模範に、暗君は戒めにできるとする。狂瞽(浅学)の身ながら試みに論じるとし、太平が守られ功罪の由来がはっきりしない代については論じない、とする。