宋史紀事本末賈似道、君を脅す(賈似道要君)

建儲の策を献じた功で度宗に「師臣」と呼ばれた賈似道が、辞職を申し出ては引き止めさせる手口で君を脅し、権を専らにした経緯。江万里を逐い、葛嶺の半閑堂に籠もって朝政を廖瑩中・翁応龍に任せ、襄陽・樊城の危急を隠して辺事を言う者を斥けた。咸淳元年(1265)の太師加官から咸淳十年(1274)の母の喪と起復までの十年間で、南宋の政治は決定的に傾いた。

年表(6件)

度宗咸淳元年夏四月(1265年)

  • 賈似道に太師を加え魏国公に封じた。
  • もと理宗が在位して久しく儲宮がまだ空だったころ、帝はそのとき忠王邸におられ、理宗は嗣に立てようとして宰相の呉潜に問うた。潜は密奏して、臣に史弥遠の才はなく、忠王に陛下の福はありませんと述べた。理宗は怒った。似道はこれを聞いて建儲の策を陳べた。意は潜を倒すことにあった。潜が去って似道が独り宰相となり、帝はそこで太子に立てられた。
  • 即位すると、似道に策を定めた功があるとして、朝するたびに必ず答拝し、「師臣」と呼んで名を呼ばず、朝臣はみな周公と称した。
  • 理宗の山陵の事が終わると、似道はそのまま官を棄てて越に帰り、密かに呂文德に、蒙古兵が下沱を攻め落としたと偽って急報させた。朝廷は大いに驚き、帝と太后が手詔で起用した。似道はそこで至った。
  • 経筵の功で太師に拝そうとしたが、典故として節度使を経る必要があったので、鎮東軍節度使を授けた。似道は怒って、節度使など粗野な者の行き着く先だと言い、そのまま節を出すよう命じた。都の人が集まって見物すると、節が出たところで、日が悪いと言ってすぐ返させた。旧制では、節が出れば関を撤し屋を壊してでも進み、節を戻す道理はなく、それで屈しないことを示した。ここに至って人はみな驚き怪しんだ。

咸淳二年春正月(1266年)

  • 江万里が罷められた。当時、賈似道は去ることで君を脅していた。帝は拝してまで留めようとした。万里は身をもって帝を支えて、古来こうした君臣の礼はありません、陛下は拝されてはならず、似道も重ねて去ると言ってはならないと述べた。似道はなす術を知らず殿を下り、そこで笏を挙げて万里に、公がなければ似道は危うく千古の罪人となるところだったと言った。しかしこれによっていっそう忌んだ。
  • 帝は経筵で経史の疑義や古人の姓名を問うたが、似道は答えられず、万里が常に傍らから代わって答えた。似道の王夫人はいささか書を知っており、帝は夫人にそのことを語って笑いとした。似道は恥と怒りを積もらせ、万里を逐う謀を立てた。万里も四度、上疏して退くことを求め、そこで資政殿大学士として祠禄に就いた。

咸淳三年二月(1267年)

  • 賈似道が上疏して母の養いのため帰ることを乞うた。帝は大臣と侍従に旨を伝えて固く留めさせ、日に四、五度も遣り、中使の加賜は日に十数度に及び、夜は寝所を邸の外に交えて守らせた。特に平章軍国重事を授け、一月に三度、経筵に赴き、三日に一度、朝して都堂で事を執ることとし、西湖の葛嶺に邸を賜って母を迎えて養わせた。
  • 似道はこうして五日に一度、湖の船に乗って入朝し、都堂へは事を執りに行かなかった。吏が文書を抱えて邸へ来て署名を仰ぎ、大小の朝政はすべて館客の廖瑩中と堂吏の翁応龍が決し、宰執は位を埋めるだけだった。
  • 似道は深く籠もって出ることが少なかったが、台諫の弾劾、諸司の推薦、京兆尹や畿内の漕運に至るまで、一切の事は報告なしには行えず、正しい端正な士はほとんど斥け罷められた。吏は競って賄賂を納れて美職を求め、帥閫・監司・郡守を望む者の貢献は数え切れなかった。一時、貪風は大いにほしいままとなった。兵が外で失われても隠して上聞せず、民が下で怨んでも誅求に限りがなく、あえて言う者はなかった。
  • 太府寺主簿の陳蒙がかつて入対して、似道が宰相となって国政に欠失があると極言した。後に淮東総領となったとき、似道は貪汚を誣いて建昌軍に安置し、その家を没収した。

咸淳六年八月(1270年)

  • 癸巳、賈似道がたびたび病と称して去ることを求めた。帝は涙を流して留めたが従わなかった。詔して六日に一度、朝し、一月に二度、経筵に赴くこととした。まもなくまた入朝しても拝さないことを詔し、朝が退くと帝は必ず席を立って避け、目送して殿廷を出てから坐した。続いてまた十日に一度、朝することを詔した。
  • 当時、蒙古の襄陽・樊城の攻囲はきわめて急だったが、似道は日々、葛嶺に坐して楼閣・亭榭を建て、「半閑堂」を作り、道士を招いて自分の像を塑らせ、宮人の葉氏と美貌の娼尼を妾とし、日々、淫楽をほしいままにし、昔の博打仲間と存分に博打を打った。人はあえてその邸を覗く者がなかった。妾の兄が府の門に立って入ろうとしたことがあり、似道は見つけて縛って火に投じた。かつて多くの妾と地に踞って蟋蟀を闘わせていたとき、狎れた客が戯れて、これが軍国の重事ですかと言った。
  • 宝玩をひどく好み、多宝閣を建てて日に一度は登って玩んだ。余玠に玉帯があると聞いて求めたが、すでに殉葬されていたので、その墓を暴いて取った。人が物を持ちながら求めに応じなければ、たちまち罪を得た。
  • これ以来、数か月も朝しないことがあり、景霊宮の朝享にも車駕に従わなかった。辺事を言う者があれば、たちまち貶し斥けた。ある日、帝が、襄陽は囲まれて三年になる、どうするのかと問うた。似道は、北の兵はもう退きました、陛下はどこからその言葉を得られたのかと答えた。折しも女官が言ったのだと答えると、似道はその人を詰り、他の事にかこつけて死を賜った。これによって辺事は日に急でもあえて言う者がなくなった。
  • 当時、賈似道は東南の士心を制しようとして、御史の陳伯大に士籍の制定を請わせた。郷里・姓名・年齢・三代・妻室を書き出させ、郷隣に照合させ、科挙の条制に障りがなければ答案の提出を許すこととした。また後省の覆試の法を厳しくし、省元の答案と照合して字の運びに少しでも違いがあれば黜けた。覆試の日には裸にして持ち込みを調べた。李鈁孫という者が若いころ戯れに股に彫り物をしていた。調べる者が見て驚き、これは入れ墨の者だと言った。事が知れて黜けられた。当時、辺事は危急で手をこまねいて策がないのに、科挙で士人を煩わせた。その悖謬はここまで至った。

咸淳八年九月(1272年)

  • 辛未、明堂で祭事を行い、賈似道を大礼使とした。礼が成って景霊宮に行幸し、帰ろうとしたところ大雨に遭った。似道は帝が雨のやむのを待って輅に乗ることを期していたが、胡貴嬪の兄の胡顕祖が帯御器械として、開禧の故事に依って輅を退け逍遥輦で宮に帰られたいと請うた。帝が、平章が承知しないのではと言うと、顕祖は偽って、平章はすでに承知していますと言い、帝はそのまま帰った。
  • 似道は大いに怒り、臣は大礼使でありながら陛下のご挙動を与り知れなかった、政を罷めさせていただきたいと言い、その日のうちに嘉会門を出た。帝は固く留めたが叶わず、そこで顕祖を罷め、涙を流して貴嬪を出して尼とし、似道はようやく戻った。
  • 似道の専恣は日々ひどくなった。人が自分を議するのを畏れ、権謀術数で上下を御することに努め、官爵で一時の名士を籠絡した。だから言路は絶え、威福はほしいままに行われ、人は目配せで見交わすだけだった。

咸淳十年春正月(1274年)

  • 賈似道の母の胡氏が死んだ。似道は越に帰って喪を治めた。詔して天子の鹵簿で葬らせ、山陵になぞらえた墳を築き、百官が葬儀に奉仕し、大雨の中で終日立って、あえて位置を変える者はなかった。葬り終えると詔して似道を起復させ、そのまま朝に戻った。