宋史紀事本末余玠、蜀を守る(余玠守蜀)

淳祐三年(1243年)から宝祐二年(1254年)まで、余玠が四川制置使として蜀を建て直し、讒言に倒れるまでの十二年間。玠は招賢館を開いて冉璉・冉璞の献策を容れ、釣魚山など十余城を山に因って築いて諸郡の治所を移し、驕将の王夔を斬って軍紀を正した。しかし姚世安と丞相謝方叔の結託、徐清叟の讒言によって召還され、宝祐元年に急死し、死後は官秩を追削されて家財を没収された。

年表(9件)

理宗淳祐三年二月(1243年)

  • 余玠を兵部侍郎・四川制置使とした。玠は家が貧しく落魄して行いを顧みず、功名を好んで大言を吐いた。かつて長短句を作って淮東制置使の趙葵に謁した。葵はこれを壮として幕府に留め、水軍を率いて淮をさかのぼり黄河から汴に至らせ、向かうところ功があり、たびたび昇って淮東制置副使となった。
  • 入対して、今、名家の子弟も科挙の士も郷里の豪傑も、ひとたび軍に就けばたちまち粗野な者と指され仲買人の類と斥けられる、陛下は文武の士を一つと見て、偏って一方を重んじられないように、偏れば必ず激し、文と武が激し合えば国の福ではないと述べた。帝は、卿は人物も議論も尋常でない、一方を独り担えると言い、そこで四川宣諭使を授け、ここに至って制置使を加え知重慶府とした。
  • 蜀中の財賦は戸部の三司に入るものが五百余万緡、四総領所に入るものが二千五百余万緡、金銀や綾錦の類はこれに含まない。宝慶三年に関外を失い端平二年に蜀の地が残破して以来、残る州郡はいくらもなく、国用はいよいよ窮した。ここまでの十六年間、宣撫使に任じられた者は三人、制置使は九人、副使は四人。ある者は老い、ある者は暫定、ある者は凡庸、ある者は貪欲、ある者は残酷、ある者は誤り、ある者は遥領して赴任せず、ある者は隙を作って各々に謀り、ついに成績がなかった。こうして両川に紀律がなくなり、監司と戎帥はそれぞれ号令を専らにし、擅に守宰を任じて綱紀はまったくなかった。
  • 玠は着任すると招賢館を府の左に築き、設営は帥の居所と変わらないようにして、令を下して言った。衆の思いを集めて忠益を広げるのは、諸葛孔明が蜀を用いた道である。士で謀があって自分に告げたい者は、近ければまっすぐ公府へ来い、遠ければ所在の州郡に申し出よ、礼をもって送らせる。高い爵と重い賞を朝廷は功に報いるのに惜しまない。豪傑の士が時を得て事を立てるのは今だ、と。
  • 来た士に玠は倦まず礼をもって接し、みなその歓心を得た。用いうる言があれば才に随って任じ、用いられなくとも厚く贈って謝した。
  • 播州の冉璉・冉璞の兄弟は文武の才があり蛮の地に隠棲していた。歴代の閫帥が招いても来なかったが、玠が賢いと聞いて兄弟そろって謁した。玠は賓客の礼で遇し、館と食を手厚くした。数か月いても何も言わなかったので、玠は別の館を設けて住まわせ、しかも常に人にその様子をうかがわせた。兄弟は終日、物を言わず、ただ向き合ってしゃがみ、白土で地に山川と城池の形を描き、立てば消してしまう。こうしてさらに十日余りたって、面会を請うた。
  • 玠が人を退けると、二人は、今日の西蜀の計は合州の城を移すことにあると言った。玠は思わず躍り上がって、それが自分の志だ、ただ移す所を得なかっただけだと言った。二人は、蜀の入り口の形勝の地は釣魚山に及ぶものがない、そこへ移し、任に人を得て粟を積んで守れば、十万の師よりはるかに勝る、そうでなければ巴蜀は守れないと言った。玠は大いに喜び、衆に諮らず密かにその謀を朝廷に報せ、序列によらぬ官を請うた。詔して璉を承事郎・権発遣合州、璞を承務郎・権通判州事とし、城を移す事はすべて任せた。
  • 命が下ると府じゅうが騒然として不可を唱えた。玠は怒って、城が成れば蜀はこれによって安んじ、成らなければ玠ひとりがその責を負う、諸君に関わりはないと言った。そこで青居・大獲・釣魚・雲頂・天生など十余城を築き、いずれも山に因って塁とし、碁石のように星のように分け置いて諸郡の治所とした。また金州の兵を大獲に移して蜀の入り口を護らせ、沔州の兵を青居に移し、興州の兵はもと合州の旧城にあったのを釣魚に移して内水に備えさせ、利州の兵を雲頂に移して外水に備えさせた。こうして腕が指を使うように気勢が連なり、兵を屯し糧を集めて必守の計とし、民は初めて土地に安んじる心を持った。

淳祐十年冬十月(1250年)

  • 余玠が出師して興元を衝いたが落とせなかった。玠は慷慨して自負し、故地を天子に返すという言葉を口にしていた。数年の間に城堡を建て関隘を築き屯堡を増やして辺境の警報はやや息んだ。そこでひたすら出師に意を注ぎ、諸将を率いて辺を巡り、まっすぐ興元を衝いたが、蒙古の将の汪德臣・鄭鼎に遭って大戦して戻った。

淳祐十二年二月(1252年)

  • 蒙古の将の汪德臣が沔州に城を築き、まもなくまた利州に城を築いた。これ以来、蒙古は耕しつつ戦い、蜀の地はついに回復できなくなった。

淳祐十二年冬十月(1252年)

  • 蒙古の汪德臣が兵を率いて成都を掠め、嘉定に迫り、四川は大いに震えた。余玠は諸将の愈興元らを率い、夜に関を開いて力戦し、ようやく解いて去らせた。

宝祐元年五月(1253年)

  • 甲午、余玠を召し還した。

宝祐元年六月(1253年)

  • 庚申、余晦を四川宣諭使として余玠に代えた。
  • もと利州都統の王夔はかねて残忍剽悍で「王夜叉」と呼ばれ、功を恃んで驕り恣に振る舞い、荒々しく節度を受けず、行く先々で掠奪して蜀の人は苦しんだ。もと玠が蜀の帥として嘉定に至ったとき、夔は部下を率いて迎え謁したが、痩せ弱った二百人だけだった。玠が、久しく都統の兵は精しいと聞いていたが、これほど疲弊しているとは望みに合わないと言うと、夔は、夔の兵が精しくないのではない、すぐ見せなかったのは、お供の方々を驚かせることを恐れたからですと答えた。ほどなく喊声が雷のように上がり、江の水は沸き立ち、旗は鮮やかで、舟中の者はみな震えて色を失ったが、玠は平然としていた。おもむろに吏に賞を差等をつけて与えるよう命じた。夔は退いて人に、儒者の中にもこういう人がいるのかと語った。
  • 玠は長く夔を誅そうとしていたが、重兵を握って外にあるので、軽々に動けば蜀を危うくすると恐れ、親しい将の楊成に謀った。成は、今、誅さずにその勢いを養えば、いずれひとたび足を上げただけで西蜀は危うくなる、夔は蜀に長くいて威名があるとはいえ、呉氏に比べてどうか、呉氏は中興の危難のとき百戦して蜀を保ち、四代に伝えて恩威はいよいよ張った、それが一朝、呉曦が叛くと、諸将が誅すること孤豚を取るようだった、まして夔には呉氏の功がなくて呉曦の逆心があり、猪突の勇を恃んで法度を侮り、兵を放って民を害し、同列を奴視している、呉氏のように人心を得て固いわけではない、今、誅すのは一人の力で足りる、その発するのを待って取るのは難しくなると述べた。
  • 玠の意はついに決した。夜に夔を召して事を計り、密かに成に代わってその衆を率いさせた。夔が営を離れたばかりで新しい将が単騎で入った。将士はみな驚いて顔を見合わせ、なす術を知らなかった。成が帥の意を説いて諭すと、そのまま相率いて拝した。夔が着くと玠は斬り、そのうえで成を文州刺史に薦めた。
  • 折しも戎州の帥が統制の姚世安を後任に挙げようとした。玠はかねて軍中の後任推挙の弊を改めようとしており、三千騎で雲頂山の下に至り、将を遣って世安に代えようとした。世安は関を閉ざして入れなかった。世安はかねて丞相の謝方叔の子姪と結んでおり、ここに至って方叔に援けを求めた。方叔はそこで、玠は利州の兵の心を失った、自分が調停しなければ朝夕にも変事が起こると言い触らし、あわせて密かに世安をそそのかして玠の短所を探させ、帝の前に陳べた。帝は惑わされ、こうして世安は玠に抗するようになった。玠は鬱々として楽しまなかった。
  • 玠は四川を専制し、奏疏の言葉遣いも慎まなかったので、帝は快く思っていなかった。折しも徐清叟が入対して玠のことに話が及び、玠は君に事える礼を知りません、陛下はなぜ不意を突いて召されないのかと述べた。帝が答えないと、清叟は、陛下は玠が大兵を握っているので召しても来ないとお思いか、臣が測るに玠はかねて士心を失っており、必ず来ずにはいられませんと言った。帝はもっともとし、資政殿学士として召し、知鄂州の余晦を代わりとした。

宝祐元年秋七月(1253年)

  • 余玠が没した。玠が蜀を治めるにあたっては、都統の張実に軍旅を、安撫の王惟忠に財賦を、監簿の朱文炳に賓客の応接を任せ、いずれも定まった規範があった。学を修め士を養い、徭役を軽くして民力を寛くし、税を薄くして商賈を通じ、蜀が富み実ってからは京湖からの糧送を罷め、辺関に警報がなくなると東南の守備兵も撤した。宝慶以来、蜀の閫帥でこれに及ぶ者はなかった。
  • しかし長く便宜の権を借りて嫌疑を顧みず、勇退の道に暗かったため、讒賊の口を招いた。また機捕官を置いたので士の情を探るには足りたが、耳目を多くの小人に託したので、人の多くは疑い恐れた。ここに至って召しを聞いて自ら安んじられず、ある夕、急死した。毒を仰いだとも言われる。蜀の人で悲しまない者はなかった。

史論(薛應旂曰)

  • 宋が振るわなかったのは、天が限りを設けたかのようだ。ようやく一人の人材を得ると讒言と嫉妬がすぐ入り込む。盛世でさえすでにそうだった。熙寧・元豊以後はおしなべて相容れず、南渡に至って日に日にひどくなった。嘉熙・宝祐の間、金国は亡んだが蒙古はまさに熾んだった。余玠が蜀を治めて措置に方があり、なお一本の木で支えるに足りた。それを謝方叔や徐清叟の徒が必ず疑いを差し挟んで死に至らしめた。ああ、玠の死の後、蜀が宋の有でなくなっただけでなく、国祚もまた推して知るべきである。まもなくまた玠の家財を没収して軍を労った。忠義の士で心を離さない者があろうか。

宝祐二年八月(1254年)

  • 利州西路安撫の王惟忠を大理の獄に下した。余晦が蜀の帥となり、惟忠が密かに北国と通じたとして獄に下し、ついに市で斬った。

宝祐二年九月(1254年)

  • 余玠の官秩を追削し、その子の余如孫の告身を奪った。それ以前、侍御史の呉燧らが玠の聚斂と利を貪った七つの罪を論じた。玠が死ぬとその子の如孫が府庫の蓄えをすべて盗んで帰ったとして、詔して玠の家財を帳簿に記して軍を労い辺境を賑わせた。如孫は銭三千万を認め、数年かけてようやく徴収し終えた。