宋史紀事本末蒙古との連年の兵(蒙古連兵)

端平二年(1235年)から淳祐六年(1246年)まで、金の滅亡後に蒙古が蜀・京湖・江淮の三方から宋へ攻め寄せた十二年間。曹友聞は陽平関で戦死して蜀の三路が陥ち、王旻らの叛乱で襄陽は灰燼に帰したが、孟珙が郢州・襄陽・信陽を回復し夔州路に屯田を布き、杜杲は安豊・廬州で察罕を退けた。王檝・伊埒黙色の和議は実らず、蒙古の侵入は途切れなかった。

年表(28件)

理宗端平二年春正月(1235年)

  • 丙辰、詔して孟珙を黄州に駐屯させた。珙は襄陽に留まって中原の精鋭一万五千余を招き、漅北・樊城・新野・唐州・鄧州の間に分屯させて蒙古に備え、鎮北軍と名づけた。そのまま襄陽都統制とされた。

端平二年六月(1235年)

  • 蒙古主が子の奎騰に諾海らを率いて蜀を侵させ、特們德爾と張柔らに漢水一帯を侵させ、扣肯布哈および察罕らに江淮を侵させた。

端平二年秋七月(1235年)

  • 蒙古の将の扣肯布哈が唐州を侵し、全子才らは軍を棄てて逃げた。趙范が兵を率いて上閘児で蒙古を破って戻った。

端平二年冬十月(1235年)

  • 蒙古の奎騰が蜀に入り鞏昌に泊まった。金の総帥の汪世顕が降った。当時、金は亡んで郡県はみな降ったが、世顕だけが堅く守って下らなかった。奎騰が至ると、世顕はその衆を率いて牛と酒を持って迎え謁した。奎騰が、自分は征討して年を重ね、至るところみな下ったのに、お前だけが固守したのはなぜかと問うと、世顕は、上に君があるうちは、国を売って恩を買う真似は取らぬところですと答えた。奎騰は大いに喜び、配下に秋毫も犯すなと戒め、世顕を旧職のままとし、その日のうちに部下を率いて従軍させた。世顕はそのまま嘉陵を断って大安へ向かった。

端平二年十二月(1235年)

  • 蒙古の奎騰が沔州に入り、知州事の高稼を殺した。稼は沔にあって荒廃を整え、流散した者を招き集め、みな背負って帰ってきた。蒙古とたびたび力戦して奇功がきわめて多かった。
  • ここに至って奎騰が鳳州から西川に入り、東路の軍は多く敗れ、そのまま西池谷を衝いた。沔まで九十里である。吏民は退いて大安を保つことを議したが、稼は制置使の趙彦呐に、今日の事は進むのみで退くことはない、進んで険地に拠り身をもって蜀を守れば、敵は後ろを顧みて必ず深入りしない、慌てて兵を召して退き内地を守れば、敵は長駆して前進し蜀の事は去ると述べた。彦呐は、それが自分の志だと言いながら、結局は行き、稼を留めて沔を守らせた。
  • 蒙古が白水関から六股𣒌に入り、沔まで六十里に迫った。沔には城がなく山に依って阻みとしていた。稼は高みに登って鼓を打ち喊声を上げ、旗と鼓を盛んに立てて疑兵とした。彦呐は蜀の入り口に至って帳前総管の和彦威に檄して軍を沔へ戻させ、小校の楊俊・何璘を召して兵を合わせさせ、さらに精兵千人を選んで王宣に率いさせて助けた。
  • まもなく蒙古が大挙して至り、何璘は逃げ、沔州はついに陥ちた。衆は稼を擁して戸外へ出そうとした。稼は叱ったが止められず、敵に囲まれて殺された。
  • 彦呐は稼の死と沔州の陥落を聞き、進んで青野原に駐屯した。蒙古が囲むと、曹友聞は、青野は蜀の咽喉だ、緩められないと言い、ただちに救援に向かい、夜半に敵を截って戦い、その囲みを解いた。まもなく蒙古の先鋒の汪世顕が大安を衝くと、友聞はまた救援した。指揮を終えたばかりのところへ蒙古の大軍数万が突然、至った。友聞は迎え撃ってまた破り、敵は退いた。友聞はそのまま兵を率いて仙人関を扼した。

端平三年春正月(1236年)

  • 蒙古兵が洪山を攻め、張順・翁成大らが兵で防いだ。蒙古の将の特們德爾が江陵を侵し、統制の李復明が奮戦して死んだ。

端平三年三月(1236年)

  • 襄陽の北軍の主将の王旻らが乱を起こした。当時、制置使の趙范は襄陽にあり、王旻・李伯淵・樊文彬・黄国弼らを腹心として朝夕、酔い戯れ、上下の序はまったくなく、民の訴訟も辺防も一切、廃れていた。まもなく南軍と北軍が争い合ったが、范は御し損ねた。そこで旻と伯淵は襄陽の城郭と倉庫を焼き、相次いで蒙古に降った。
  • 当時、城中の官民はなお四万七千余、倉庫の財と粟はおよそ三十万、軍器の庫二十四はみな蒙古のものとなり、金銀と塩鈔はこれに含まない。南軍の将の李虎が勝ちに乗じて掠奪し、城中は空となった。襄陽は岳飛が回復して以来百三十年、人が集まり栄えて城は高く濠は深く、両辺境の第一だったのが、一朝にして灰燼に帰した。詔して趙范は撫御を誤ったとして三官を削られ、職はもとのままとされた。
  • 当時、軍はたびたび蒙古に敗れ、襄陽・漢水・淮・蜀は日に急となった。帝は先の事を悔い、学士の呉泳に自らを責める詔を草させた。監察御史の王万が泳に、兵はまことに失われたが、それを言えばひどく人を怯えさせる、それもよくない、今、辺民の生きる望みは髪一筋だ、振るい起こして人心を感じ動かすべきだと言い、そこで沿革の事宜を条列した。泳はその言に従って詔を草し進めた。要旨は――数年の間、多難は極まった。仇の金が滅ぶのに乗じて蒙古と隣り合い、謀を合わせて蔡を破る功を成したが、道を借りて虞を滅ぼした勢いになるのではと恐れる。心は憂え、臍を噬んでも及ぶまい――というもので、また――兵民は戦って死に、戸口は流離に困り、家屋は残らず、骨と屍が相望む。これはみな朕の明が照らせず德が及ばず、上は天心に格らず下は民志を定められなかったためだ。今、令を施し政を発して慰撫を図り、兵を補い馬を集めて守禦の備えを厳しくする。目に溢れる傷を思うことは、病が身にあるかのようだ――とあった。
  • この月、蒙古が随州・郢州・荊門軍を陥れた。

端平三年八月(1236年)

  • 蒙古が棗陽軍と德安府を陥れた。

端平三年九月(1236年)

  • 壬午、御前諸軍統制の曹友聞が大安軍の陽平関で蒙古と戦って敗れ、戦死した。
  • もと友聞は軍を率いて仙人関を扼していた。蒙古が蕃漢の軍五十余万を合わせて来ると諜報があり、友聞は弟の曹万に、国家の安危はこの一挙にある、衆寡敵せず、みだりに戦ってよいものか、ただ高きに乗り険に拠り、奇を出し伏を設けて待つべきだと言った。
  • 蒙古が武休関を攻めて都統の李顕忠の軍を破り、そのまま興元に入って大安軍を衝こうとした。制置使の趙彦呐は友聞に檄して大安を押さえ蜀の入り口を保つよう命じた。友聞は不可としたが、彦呐は従わなかった。
  • 友聞はそこで弟の万と曹友諒に兵を率いて鶏冠隘に登らせ、旗を多く立てて敵に堅守を示させた。友聞は精鋭一万を選んで夜に江を渡り、密かに流溪へ行って伏兵を置き、敵が来たら内で鼓を鳴らし火を挙げて合図とし、外では喊声を上げよと約した。
  • 蒙古兵が果たして至り、万が出て迎え撃った。蒙古の巴図魯と諾海が歩騎一万余を率いて往来して搏戦し、矢石は雨のようで、万は傷を負って諸軍に烽火を挙げさせた。友聞は部隊を三つに分けて敵を防ぎ、自ら精兵三千を率いて疾駆して隘の下に至り、まず統領の劉虎に決死の士五百を率いさせて敵を衝いたが、先鋒は動かなかった。友聞はそこで三百騎を道端に伏せ、虎に枚を含ませて陣を突かせた。
  • 折しも大風雨となり、諸将は、雨がやまず泥濘が足を没する、少し晴れるのを待つべきだと請うた。友聞は叱って、敵は我らの伏兵がここにあると知っている、緩めれば必ず機を失うと言い、そのまま兵を擁して一斉に進んだ。西の軍は平素、綿の裘を鉄の甲の代わりにしており、雨に濡れて歩戦に不利だった。夜明けに蒙古が鉄騎で四面を囲み、友聞は嘆じて、これは天か、自分には死あるのみと言い、そこで血戦していよいよ激しく戦い、万とともに死に、軍は全滅した。
  • 蒙古兵はそのまま長駆して蜀に入り、一月のうちに成都・利州・潼州の三路がともに陥落した。西蜀に残ったのは夔州一路と潼川・順慶府だけとなった。

端平三年冬十月(1236年)

  • 壬寅、蒙古兵が固始県を陥れた。
  • 丙午、蒙古の奎騰の兵が成都を離れて文州に入った。知州の劉鋭と通判の趙汝曏は城に拠って固守し、昼夜、搏戦すること一か月余り、援兵は来なかった。鋭は免れないと察し、家人を集めてみな薬を飲ませて死なせ、その屍と公私の金帛・辞令を集めて焼いた。家にはもとより礼法があり、六歳の末子でさえ薬を飲むとき拝して受けた。左右は感じ入った。城が破れると鋭とその二子は自刎して死に、汝曏は捕らえられて切り刻まれて殺された。軍民でともに死んだ者は数万人に上った。

端平三年十一月(1236年)

  • 蒙古の扣肯布哈が淮西に入り、蘄州・舒州・光州の守臣はみな逃げた。扣肯布哈は三州の人馬と糧・武器を合わせて黄州へ向かい、遊撃騎は信陽から合肥へ向かった。詔して淮西の史嵩之に光州を援けさせ、淮東の趙葵に合肥を援けさせ、沿江の陳韡に和州を通って淮西の後押しをさせた。
  • 蒙古の特們德爾が江陵を攻め、史嵩之は孟珙を遣って救援させた。珙は張順を先に渡らせ、自らは全軍で救援に赴き、旗と服の色を変えて循環して往来し、夜は松明を並べて江を数十里にわたって照らし連ねた。珙はさらに趙武らを遣って戦わせ、自ら赴いて指揮し、蒙古の二十四砦を破り、民二万を返して帰った。
  • 蒙古の将の察罕が真州を攻めた。知州の丘岳は部隊の配置が厳明で守備の具も周到だったので、蒙古兵は城に迫るたびに敗れた。岳は勝ちに乗じて出て胥浦橋で戦い、強弩で挑戦してきた者一人を射殺した。敵兵はやや退いた。岳は、敵は我らの十倍だ、力では勝てないと言い、三つの伏兵を置き砲石を設けて西城で待った。敵が至ると伏兵が起こり砲が発してその驍将を殺し、敵の衆は大いに乱れた。岳は勇士を選んで敵の陣営を襲い、その廬と帳を焼いた。二日後、みな引き揚げた。

嘉熙元年冬十月(1237年)

  • 蒙古の扣肯布哈が黄州を攻め、孟珙が軍を率いて救援して退けた。そこで安豊を攻めた。杜杲は守禦の備えを整えた。蒙古が火砲で楼櫓を焼くと、杲は焼けるたびに補い直した。
  • 蒙古は巴図爾に牌を斫らせ木を伐らせた。巴図爾とはみな死刑囚で、城攻めをして罪を贖う者である。杲は射の上手な者を募って小さな矢でその目を射させ、巴図爾は多く傷ついて退いた。
  • 蒙古が濠を埋めて二十七の堤とすると、杲は兵を分けて堤を扼した。蒙古が風に乗じて火を放つと、たちまち風雪が急に起こった。杲は壮士を募って堤の路を奪わせ、士はみな奮い躍って死戦した。折しも池州都統制の呂文德が囲みを破って入城し、力を合わせて防ぎ、蒙古は引き揚げた。淮右は安んじた。
  • 文德は安豊の人で、体格は大きく勇悍だった。かつて城中で薪を売っていたとき、趙葵はその脱ぎ捨てた履が一尺余りあるのを見て異とし訪ねた。折しも文德は狩りに出ていて、日暮れに虎と鹿を一頭ずつ背負って帰った。葵は召して帳下に置き、そのまま功を重ねて軍職に抜擢された。

嘉熙二年春正月(1238年)

  • 己未、詔して史嵩之と趙葵に黄州・安豊を援けさせ、功を立てた将士の等級と名を速やかに報告させた。

嘉熙二年二月(1238年)

  • 蒙古がまた王檝を遣って歳幣として銀・絹各二十万を求めた。僉書枢密の李宗勉は、軽々に諾する者は後患が多い、もとの約を守ればよい、しかも開禧のころに比べて物価は高騰し、数倍どころではないと述べた。
  • 史嵩之は督府を開いて力めて和議を主張した。宗勉は、使者に疑わしい点が三つある、嵩之の職は督戦にあり、襄陽・光州の回復、施州・澧州の要害を扼すること、山砦を招集して長江の流れを固めることは、いずれも今なすべきことだ、主とするところが和にあれば、乗ずべき機会があっても退き縮む意がないとは言えず、必ずいたずらに歳月を空費して座して事功を失うと述べた。

嘉熙二年三月(1238年)

  • 己丑、将作監の周次説を蒙古通好使とした。

嘉熙二年九月(1238年)

  • 蒙古の察罕が兵を率いて八十万と号し廬州を囲んだ。廬州を破ったあと巣湖で舟を造って江左をうかがうつもりだった。濠の外に土城を六十里築き、二重の濠を掘り、攻具はみな安豊を攻めたときの数倍だった。
  • 杜杲は力を尽くして守った。蒙古が城楼より高い堤を築くと、杲は油を草に注いで堤の下で焼き、みな灰燼にした。また串楼の内に雁の翼のような七層の構えを立てた。ほどなく砲が堤の上に当たって衆が驚くと、杲は勝ちに乗じて出て戦い、蒙古は敗走した。杲は数十里追撃し、さらに水軍を練って淮河を扼し、子の杜庶に呂文德・聶斌を監させて精鋭を要害に伏せさせた。蒙古は進めず、そのまま北へ引き揚げた。詔して杲に淮西制置使を加えた。

嘉熙二年冬十月(1238年)

  • 孟珙を荊湖制置使とした。詔して珙に京城・襄陽の回復を命じた。珙は、必ず郢を得てこそ補給を通じられ、荊門を得てこそ奇兵を出せると考えた。岳州に至ると江陵節制司に檄して襄陽・郢州を衝かせ、諸将を召して方略を授け、兵を発して深く入り、そのまま郢州と荊門軍を回復した。

嘉熙三年三月(1239年)

  • 孟珙が兵を遣って蒙古と三度戦っていずれも勝ち、そのまま信陽・光化軍・樊城・襄陽を回復した。そこで上疏して、襄陽を取るのは難しくないが守るのが難しい、将士が勇でないからでも車馬・器械が精しくないからでもなく、実に事の力が足りないからだ、襄陽は朝廷の根本である、今、百戦して得た以上、経営を加えて元気を護るようにすべきだ、甲兵十万でなければ分け守るに足りない、戦の後で兵を抜き取るより、この全勝を保つほうがよい、上兵は謀を伐つという、これは争わずして争うものだと述べた。そこで蔡州・息州の降人で忠衛軍を置き、襄陽・郢州の降人で先鋒軍を置いた。

嘉熙三年八月(1239年)

  • 蒙古の諾海が兵を率いて蜀に入った。制置使の丁黼は聞いて、先に妻子を南へ帰らせ、自ら死守を誓った。ここに至って諾海が新井から入り、偽って宋の将の旗を立てた。黼は潰兵かと思い、旗と榜で招いたが、そうでないと確かめると、兵を率いて夜に城の南へ出て迎え撃ち、戦死した。蒙古はそのまま漢州・卭州・簡州・眉州・蓬州・遂寧・重慶・順慶府を取り、まもなく引き揚げた。黼は蜀の帥として政が寛大で、蜀の人は慕った。

嘉熙三年十二月(1239年)

  • 孟珙は諜報で蒙古の諾海らが八十万と号する衆で南侵しようとしていると知り、必ず施州・黔州を経て湖湘に抜けると読み、粟十万石を請うて軍餉に充て、三千人を峡州に、千人を帰州に駐屯させ、弟の孟瑛に精兵五千を率いて松滋に駐屯させて夔の後押しとし、兵を増して帰州の隘口と万戸谷を守らせた。蒙古が至ると珙は密かに将を遣って防がせ、さらに千人を施州に駐屯させた。
  • 蒙古が蜀に入ると、珙は営砦を増設し戦艦を分け布き、兵を間道から均州へ至らせて防ぎ、あわせて備えの策を設けた。まもなく蒙古が万州の湖灘を渡り、施州・夔州は震動した。珙の兄の孟璟はそのころ知峡州で、兵を率いて帰州の大埡砦で迎え防ぎ、巴東で勝ち、そのまま夔州を回復した。

嘉熙四年春正月(1240年)

  • 蒙古の張柔らが道を分けて侵入した。

嘉熙四年二月(1240年)

  • 癸丑、孟珙を四川宣撫使とした。珙はそのまま屯田を興し、上流の事宜を条陳した。折しも諜報で、蒙古が襄陽・樊城・信陽・随州で軍民を集めて種を播かせ、鄧州の順陽に船材を積んでいると知り、兵を分けてその勢いを乱し、密かに兵で積んだ船材を焼き、さらに必ず蔡で糧を得ると読んで兵を遣ってその蓄えを焼いた。
  • そのまま四川安撫使・知夔州に拝され、帰州・峡州・鼎州・澧州の軍馬を節制した。珙は鎮所に至って散った民を招き集めて寧武軍とし、降人の回鶻の阿里巴図爾を飛鶻軍とし、蜀の政の弊を整えて条にして諸郡県に頒ち、あわせて、要害を択んで砦柵を立てなければ兵に民を衛る責を負わせがたく、流離した者を集めて安んじて耕作させなければ民に兵を養う責を負わせがたいと述べた。そこで賞罰を立てて優劣を課し、諸司に奉行させた。
  • まもなく夔州路制置を兼ね、屯田を置き、人夫を調えて堰を築き、農を募って種を給した。首は秭帰、尾は漢口まで、屯二十、頃数は十八万八千二百八十。
  • 李庭芝を権施州建始県とした。庭芝は農を教え兵を治め、壮士を選んで官軍に交ぜて教え、一年で民はみな戦守を知り駆け引きに長け、事がなければ戈を立てて耕し、敵が来ればみな出て戦った。珙はその法を管内に下して行わせた。

嘉熙四年夏四月(1240年)

  • 蒙古がまた王檝を遣ってきた。檝は前後五度来たが、和議が決しないので憂いを抱いて病を得て没した。使者を遣ってその柩を蒙古へ帰した。

淳祐元年十一月(1241年)

  • 蒙古の諾海の部の汪世顕らがまた蜀に入り、進んで成都を囲んだ。制置使の陳隆之は固く守ること十日余り、城と存亡をともにすると誓った。部将の田世顕が密かに蒙古に降を通じ、夜に乗じて門を開き、北の兵が突入した。隆之の一家数百口はみな死んだ。隆之は枷をはめて漢州へ送られ、守臣の王夔に降を諭すよう命じられた。隆之は大声で、大丈夫は死ぬだけだ、降るなと叫び、そのまま殺された。漢州の兵三千が出て戦い、城が閉ざされてみな蒙古に屠られた。

淳祐元年十二月(1241年)

  • 蒙古の伊埒黙色が和を議しに来た。従う者は七十余人。伊埒黙色は、自分とお前たちは命を奉じて南下する、楚の人は詐りが多い、死を誓って我が君を辱めるなと言った。まもなく駆けて淮上に至ると、守将が兵で脅して、お前の命は自分の手にある、生死は一瞬だ、降れば官爵はすぐ得られる、そうでなければ決して赦さないと言った。伊埒黙色は、自分は節を持って南へ来て国の好を通じるのだ、それを不義で誘うのか、死あるのみだと答えた。守将は迫れないと知り、そこで長沙の飛虎寨に囚えた。

淳祐二年二月(1242年)

  • 蒙古の伊克諾延と耶律珠格が京兆から商州・房州を経て三川へ向かい、そのまま瀘州を攻めた。孟珙は一軍を江陵および郢州に、一軍を沙市に、一軍を江陵から襄へ出して諸軍と合流させ、さらに一軍を涪州に駐屯させ、あわせて、出て守る主兵の官は寸土も失ってはならないと令した。権開州の梁棟が糧が乏しくて司に戻ると、珙は、これは城を棄てるものだと言って斬って晒した。これによって諸将は謹んで命を奉じた。

淳祐二年冬十月(1242年)

  • 蒙古が通州を陥れてその民を屠り、守将の杜霆は城を棄てて逃げた。

淳祐二年十二月(1242年)

  • 蒙古兵が敘州を攻め、都統の楊大全が戦死した。

淳祐三年春正月(1243年)

  • 蒙古の張柔が兵を分けて襄城で屯田した。

淳祐三年秋七月(1243年)

  • 蒙古兵が大安軍を破った。忠義副総管の楊世安が魚孔隘を守り、力戦して退けた。詔して世安をそのまま知大安軍とした。

淳祐四年五月(1244年)

  • 蒙古兵が寿春を囲み、呂文德が諸軍を率いて防いだ。

淳祐四年六月(1244年)

  • 呂文德を淮西招撫使とした。まもなく文德が五河で蒙古兵を破ってその城を回復した。

淳祐四年十二月(1244年)

  • 孟珙に知江陵府を兼ねさせた。珙は江陵に至って城に登り、嘆じて、江陵の頼みは三海だが、湿地が桑田に変わることもあると知らない、敵が鞭を一鳴らしすれば城外に至ると言った。城から東は古嶺・先峰から三汊まで遮るものがなかったからである。
  • そこで内の隘十一か所を修復し、別に外に十の隘を作り、城から数十里離れたものもあった。沮水と漳水の水はもと城の西から江に入っていたが、堰いて東へ流し、城の北を巡らせて漢水に入れ、三海はこうして一つに通じた。高低に応じて堰を作り水を溜め排し、三百里の間は渺々たる大水となった。土木の工は百千万に及んだが、民は使役されたと感じなかった。そこで図に描いて上呈した。

淳祐五年五月(1245年)

  • 詔して沿江・湖南・江西・湖広・両浙の制置使と漕司にともに軽快な戦船を造らせ、遊撃軍を置き、壮士を分けて防禦に備えさせた。

淳祐五年七月(1245年)

  • 蒙古の察罕が張柔と合わせて淮西を掠め、揚州まで至って去った。

淳祐六年十一月(1246年)

  • 蒙古兵が荊湖・江淮の境を侵し、虎頭関を攻め抜き、そのまま黄州に至った。