宋史紀事本末三京の回復(三京之復)
端平元年(1234年)、金の滅亡後に趙范・趙葵と鄭清之が主張した三京回復の出兵と、その半年での破綻。喬行簡・呉潜・史嵩之・杜杲らの反対を押し切って全子才が汴に入り、徐敏子が洛陽を回復したが、糧が続かず楊誼の軍は洛東で伏兵に大敗、蒙古の水攻めもあって全軍が南へ引き揚げた。趙葵・全子才らは降秩され、以後、河淮の間に安らかな日はなくなった。
年表(5件)
- 理宗
- 端平元年六月1234年三京回復の詔が下り、全子才が汴に入る。崔立は李伯淵に殺される
- 端平元年秋七月1234年徐敏子が洛陽に入城するが、楊誼の軍が洛東で蒙古の伏兵に大潰する
- 端平元年八月1234年糧尽き、蒙古の水攻めもあって趙葵・全子才が汴から南へ退く
- 端平元年九月1234年趙范の弾劾により趙葵・全子才・徐敏子らが降秩・罷免される
- 端平元年十二月1234年蒙古が王檝を遣って盟約違反を責め、河淮の間に安日がなくなる
理宗端平元年六月(1234年)
- 詔して出師し三京を回復することとした。当時、趙范と趙葵は時に乗じて中原を撫定しようとし、黄河を守り関を押さえて三京を回復するという議を立てた。朝臣の多くはまだ不可としたが、鄭清之ひとりが力めてその説を主張した。そこで趙范に軍を黄州へ移させ、日を刻んで進兵させた。
- 范の参議官の丘岳は、勢い盛んな敵が盟を結んだばかりで退いており、気は盛んで鋒は鋭い、どうして得たものを捨てて人に与えようか、我が師が行けば彼は必ず突然、現れる。進退の拠り所を失うだけでなく、釁を開いて兵を招くのは必ずここから始まる。まして千里を長駆して空城を争い、得たところで補給に苦しみ、後で必ず悔いると述べたが、范は聴かなかった。
- 史嵩之もまた、荊襄はいま飢饉で出師すべきでないと述べ、杜杲も改めて境を守る利と出師の害を陳べた。喬行簡はそのころ休職中だったが上疏して述べた。 八陵に参る路があり、中原に回復の機がある。大いに為すだけの資をもって大いに為すべき機に当たれば、事の成るのは坐して見込める。臣は師を出して功のないことを憂えるのではなく、事の力が続かないことを憂える。功があってなお続かないとなれば、その憂いはいっそう深い。 古来、英明な君は必ず内を治めてから外を治めた。陛下は今日の内治がすでに挙がっているとお思いか、まだとお思いか。まだ権を執られなかった前の弊はいくつあったか。今、自ら政に当たられてから改まったものはいくつあるか。君子を用いようとしてもその志は伸び切らず、小人を除こうとしてもその心は改まらない。上には精を励まして始めを改める意があるのに、士大夫はなおその場しのぎで責を負おうとしない。朝廷には贈答を禁じ貪汚を禁じる令があるのに、州県はなお財を貪って飽くことを知らない。楮幣の令を加えようとしても外郡の新券は値を下げても売れず、物価を平らげようとしても京師の百貨は旧値と変わらない。紀綱と法度の多くは崩れて張られず、賞刑と号令はみな軽んじられて粛まらない。これらはみな陛下の国内の臣子でありながら、令しても従わず、促しても応じない。それでいて乾坤を開閉し宇内を混一し、姦雄を制し遠人を服させようとして、すべて意のままになろうか。これが臣の憂いの第一である。 古来、帝王がその民を用いようとすれば、必ずまずその心を得て根本とした。数十年来、上下はみな利を懐いて交わり、義というものを知らない。民が守令を恨んでいれば、緩急に際して死んでも去らぬ者があろうか。兵が将校を愛していなければ、陣に臨んで奮い勇んで直進する士があろうか。怨みを蓄え憤りを含んで平日から積もっていれば、難を見れば避け敵に遇えば逃げ、ただ利だけを顧みて他を恤む余裕はない。人心がこうなのに、陛下はまだこれを転じ結びつけておられないのに、急に駆り立てて北へ向かわせ矢石の間に従事させて、忠義の心がどこから発しよう。 まして境内の民は州県の貪酷に困り、勢家の兼併に苦しみ、飢寒の民は常に時に乗じて怨みに報いようとし、茶塩の賊は常に隙をうかがって蜂起しようとしている。内輪の憂いは保証しがたい。万一、兵が外で起こって強敵に釘づけにされて休めないうちに、池の赤子ども(民の盗賊)がまた江西・福建・東浙のような事を起こせばどうするのか。民は至って愚かだが忽せにできない。内郡の武備は手薄で、民が平素から侮っているところだ。かつて江西・福建・東浙の賊はみな辺境の兵を借りて制した。今、その類はなお多く山谷に潜んで田里をうかがっている。朝廷が北方に事を構えて手が回らないと知れば、姦心を動かさずにいようか。これが臣の憂いの第二である。 古来、英明な君が恢復と進取を図るには、必ず将を選び兵を練り、財を豊かにし食を足してから事を挙げた。今、辺境は広く、出師は一つの道にとどまらない。陛下の将で一方に当たれる者が何人あるか。指を折って二、三十人を得られなければ駆使に足りまい。陛下の兵で戦える者が何万あるか。道を分けて京城・洛陽へ向かう者が何万、留まって淮・襄を守る者が何万か。名簿で二、三十万の衆を得られなければ進取の事に足りまい。 かりに帥臣に威望があって意気で招き寄せ、功賞で励まし、行伍から抜擢すればすぐ将となり、降った者を受け入れればすぐ兵になるとしても、臣はその銭糧がどこから出るのか知らない。十万の師を興せば日に千金を費やし、千里に糧を運べば士に飢えの色が出る。今の輸送は日を重ね、月を重ね、年を重ねる。何千金でその費用を賄えるのか知らない。今、百姓の多くは家が空で、州県の多くは庫が空である。大軍がひとたび動けばその費用は多岐にわたる。何をもって給するのか。 今、陛下は金帛を惜しまず辺臣の求めに応じておられるが、一度はできても二度はできず、二度はできても三度はできない。三度の後、兵事がまだ終わらないとき、途中でやめれば前功を棄て、無理に続ければ余力がない。国はすでに足りず民も堪えられない。臣は、北方をまだ図れないうちに南方が騒動を起こすことを恐れる。 中原は蹂躙の余りで至るところ空しい。たとえ東南に運べる米があっても、道は遠く欠乏を免れよう。淮から進めば河渠が通じていても、盗賊に奪われる患いがないとは言えない。襄から進めば必ず担いで運ぶことになり、三十鍾を運んで一石が届くようなもので、届くかどうかも危うい。千里の外に軍を止めて糧道が続かなくなれば、そのとき孫子・呉子が謀主となり韓信・彭越が兵の帥となっても策はあるまい。後日、糧運が続かず進退できずに聖慮を煩わせる。これが臣の憂いの第三である。 聖意を堅く持し国論を定めて紛々たる説を絶たれることを願う、と。いずれも聴かれなかった。
- 淮西総領の呉潜もまた執政に告げて、兵を用いて河南を回復するのは軽々にすべきでないと論じた。金人が滅んで北と隣り合った以上、法として和を形とし守を実とし戦を応とすべきだ。荊襄が真っ先に空城を受け入れ、兵を合わせて蔡を攻めて以来、兵事がひとたび開かれて調達はしだいに広がり、百姓は狼狽して死者は折り重なった。生霊の肝脳を地にまみれさせて、得た城は荊棘の地にすぎず、得た俘は曖昧な骨にすぎない。それでいて我が内地はこれほど苦しんでいる。辺臣が国を誤った罪は言うまでもない。 恢復の計を進める者があると聞く。その計は雄大というべきだが、取るのは易くとも守るのは実に難しい。遠征の備えをどこから調達するのか。民は窮して堪えられず、激すれば変じて盗賊となる。今日の事はどうして軽々に議せようか、と。執政は従えなかった。
- 詔して知廬州の全子才に淮西の兵一万を合わせて汴へ赴かせた。当時、汴京の都尉の李伯淵・李琦・李遷努らは崔立に侮られて殺す謀を立てていた。子才の軍が至ると聞き、伯淵らは書で降を約しながら、表向きは立とともに防禦の策を謀った。
- 伯淵は封丘門を焼いて立を動揺させ、立が落ち着かなくなったところで火を見に行こうと誘った。立は苑秀・折希顔ら数騎と行き、戻るとき伯淵が自ら送った。慌ただしい中、馬上で立を抱えた。立が振り返って、自分を殺す気かと言うと、伯淵は、お前を殺して何の差し支えがあろうと言い、匕首を出して横に刺した。立は落馬して死に、伏兵が起こった。元帥の薩哈が苑秀と折希顔を殺した。後から来た者は立が落馬したのを見て人と争っていると思い、前へ出て止めようとしてそのまま軍に殺された。
- 伯淵は立の屍を馬の尾に繋いで内の前まで至り、衆に号して、立は殺害・掠奪・淫行・暴虐を働いた大逆不道で古今にない、殺すべきかと言った。万口が声を揃えて、寸刻みにしても足りないと応じた。そこで立の首を晒し、承天門を望んで哀宗を祭った。軍民はみな慟哭し、その心臓を割いて食う者もあった。三つの屍を闕の前の槐の樹に掛けた。
- 全子才が汴に泊まり、趙葵が滁州から淮西の兵五万で泗州を取り、泗州から汴へ向かって合流した。葵は子才に、我らは初め関を押さえ黄河を守る謀だった、汴に着いて半月になる、急いで洛陽と潼関を攻めずに何を待つのかと言った。子才が糧餉がまだ集まらないと答えると、葵の督促はいっそう急になった。
- そこで鈐轄の范用吉・樊辛・李先・胡顕らに檄して兵一万三千を率いさせ、淮西制置司機宜文字の徐敏子を監軍として、まず西へ上らせ、さらに楊誼に廬州の強弩軍一万三千を率いて続かせ、それぞれ五日分の糧を給した。
端平元年秋七月(1234年)
- 徐敏子が出発し、和州寧淮軍正将の張迪に二百人で洛陽へ向かわせた。迪が城下に至ると城中は静まり返って応じる者がなかったが、夕方になって民庶三百余家が城に登って降を申し出た。迪と敏子はそのまま衆を率いて入城した。蒙古はこれを聞いてまた兵を率いて南下した。
- 徐敏子が洛に入った翌日、軍の食はすでに尽き、蓬を採って麵に混ぜ餅にして食べた。楊誼は洛の東三十里で散らばって坐って食事をしていたが、突然、数里の外に紅と黄の涼傘を立てる者があった。衆が驚き怪しんでいると、蒙古の伏兵が深い蓬の中から突然、起こった。楊誼は慌てて備えがなく、軍はそのまま大潰し、蒙古に押されて洛水に落ちた者は数知れず、誼はかろうじて身一つで免れた。
- その夜、潰兵が洛へ駆けつけて、楊誼の一軍は蒙古の大軍に衝き散らされた、今、蒙古兵はすでに北岸を押さえていると告げた。こうして洛にいた軍はみな気を奪われた。
端平元年八月(1234年)
- 蒙古兵が洛陽の城下に至った。徐敏子が戦って勝負は相当だったが、士卒は糧に乏しく馬を殺して食った。敏子らは留まれず軍を戻した。
- 趙葵と全子才は汴京にいたが、史嵩之が糧を送らないので費用が続かず、回復した州県はみな空城で兵も食も頼るものがなかった。蒙古兵はさらに黄河の寸金淀の水を決して官軍に注ぎ、官軍は多く溺死した。そこでみな軍を率いて南へ帰った。
端平元年九月(1234年)
- 壬寅、趙范が入洛の軍が敗れたことについて上表し、趙葵と全子才が軽々に分遣隊を出し、西京を回復した趙楷と劉子澄が参賛として計を誤り、軍が退くのに紀律なく後陣を敗れさせたと弾劾した。詔して趙葵の一秩を削って河南・京東の営田と辺備を措置させ、全子才の一秩を削って唐州・鄧州・息州の営田と辺備を措置させ、劉子澄と趙楷はともに秩を削って罷免した。
- また、楊誼の一軍の敗北はみな徐敏子と范用吉が救援に赴くのを怠って支えきれなかったせいだと述べた。詔して范用吉を武翼郎に降し、徐敏子は秩を削って罷免し、楊誼は秩を削って勤務停止のうえ働きで償わせた。
端平元年十二月(1234年)
- 己卯、蒙古が王檝を遣って盟を破ったことを責めた。辛卯、鄒伸之らを遣って返答した。これ以来、黄河と淮の間に安らかな日はなくなった。