宋史紀事本末蒙古の兵と会して金を滅ぼす(㑹蒙古兵滅金)

蒙古の誘いに応じて宋が金を挟撃し、金を滅ぼすまでの三年間。史嵩之・孟珙が唐州・鄧州から武仙を破って河南を席巻する一方、金主守緒は帰德で富察古納の乱に苦しみ蔡州へ移る。完顔呼沙呼が籠城を支えるが糧は尽き、端平元年正月に蔡州が陥落、守緒は自縊し、位を継いだ承麟も乱兵に殺されて金は亡んだ。宋は守緒の遺骨を臨安に献じたが、洪咨夔は誇示を戒めた。

年表(11件)

理宗紹定五年十二月(1232年)

  • 蒙古が王檝を京湖へ遣って金を挟撃することを議させた。史嵩之が上聞すると、朝臣はみな復讐の挙をなすべきだとした。ただ趙范だけが喜ばず、宣和の海上の盟は初めきわめて堅かったのについに禍を招いた、鑑としないわけにいかないと言った。帝は従わず、嵩之に返答して許させた。嵩之はそこで鄒伸之を遣って蒙古に返答し、成功の暁には河南の地を返してもらうこととした。

紹定六年三月(1233年)

  • 金主は帰德にあった。随駕の親軍と河北の潰兵がしだいに集まり、持嘉紐勒歓は養い切れないことを恐れて金主に申し上げ、城外へ出して徐州・陳州・宿州の三州で糧に就かせることを乞うた。金主はやむなく従い、元帥の富察古納と忠孝の馬軍四百五十人、馬用の軍七百人だけを城中に留めた。
  • 諸軍が城を出ると、金主は古納を召して、紐勒歓が衛兵をすべて散じてしまった、卿は用心せよと言った。古納は馬用がもと帰德の小校から一朝にして抜擢された者なので常に軽んじており、しかも金主が時に馬用だけを召して事を計り自分に及ばないことから、用を図る謀を立てた。
  • 当時、蒙古の特們德爾が亳州を囲み、日々、兵を遣って帰德に迫っていた。古納は北へ河を渡って改めて恢復を図ることを請うたが、紐勒歓が阻んだ。古納は不快で、密かに完顔用安と謀って金主を海州へ迎え移そうとした。金主は従わず、古納の憤りは積もり異心はいっそう固まった。李蹊が上聞し、金主は深く憂え、馬軍総領の赫舎哩阿里哈と皇族の錫馨に密かにその動静を探らせたが、阿里哈は逆に金主の意を古納に告げた。
  • 金主はさらに古納と馬用が互いに図って乱になることを恐れ、宰執に酒を置いて和解させるよう命じた。馬用がすぐ備えを解くと、古納は隙に乗じて衆を率いて用を攻めて殺し、そのまま兵五十人で行宮を守り、朝官を脅して都水の毛和寧の宅に集めて兵で監視した。紐勒歓をその家へ駆り立てて所有の金と貝をすべて出させたうえで殺した。
  • そして都尉の馬実に甲を着け刃を持たせて金主の前で直長の把納紳を脅させた。金主は握っていた剣を地に投げて実に、自分に代わって元帥に言え、朕の左右にはこの者しかいない、留めて侍らせよと言った。実は退いた。古納はそこで朝官を大量に殺し、李蹊以下三百人、軍士の死者は三千人に上った。夕暮れ、古納は兵を率いて拝謁し、紐勒歓が叛いたので臣が殺しましたと言った。金主はやむなく紐勒歓の罪を暴き、古納を権参知政事とした。

紹定六年夏四月(1233年)

  • 金の唐鄧行省の武仙が順陽に泊まり、唐州の守将の武天錫、鄧州の守将の伊喇瓊と犄角をなし、金主を迎えて蜀に入れることを謀り、そのまま光化を侵した。その鋒はきわめて鋭かった。
  • 孟珙が天錫の塁に迫って一鼓で抜き、壮士の張子良が天錫の首を斬って献じ、将士四百余人を捕虜にした。さらに呂堰で金人を破って捕獲は数え切れず、そのまま順陽を攻め、武仙は馬蹬山へ敗走した。県令の李英と申州安撫の張林はみな城ごと降った。伊喇瓊は孤立して恐れ、使者を遣って降を謀り、珙は受け入れて衣冠を改めさせ賓客の礼で会った。こうして降る者が相次いだ。
  • 珙は史嵩之に、帰属した人はその郷土に因って耕させ、その人民に因って長を立て、壮健な者は登録して軍とし、自ら耕し自ら守らせ、才能ある者には土地を分け職事を任せ、それぞれその徒を招かせてその勢いを削ぐべきだと述べ、嵩之は従った。

紹定六年五月(1233年)

  • 金の富察古納が亳州で蒙古軍を襲って破った。もと衛州の白公廟の潰走のとき、古納の母が蒙古に捕らえられた。金主は古納にその母を通じて計で和を請わせた。古納はそこで密かに特們德爾に、金主を脅して降らせたいと言った。特們德爾は信じてその母を返し、和議を定めた。古納は日々往来して協議し、あるいは舟で流れの中ほどで会飲した。金主はさらに密かに古納に金銀の牌を来使に与えて拘えさせ、そのまま陣営を襲う策を定めた。
  • 端午の日、軍中で天を祭り、密かに火槍と戦具を備えた。古納は忠孝軍四百五十人を率いて南門から舟に乗り、東から北へ回り、夜に堤を守る巡邏兵を殺してまっすぐ王家寺の特們德爾の陣営に至った。金主は北門に出て舟を繋いで待ち、勝てなければ徐州へ逃げるつもりだった。
  • 四更に交戦し、忠孝軍は退いてまた進んだ。古納は小船に軍を五、七十人ずつ分けて柵の外へ出し、腹背から攻め、火槍を持って蒙古軍の中に突入した。特們德爾は支えきれず大潰し、溺死する者三千五百人。古納はその柵をすべて焼いて戻り、正式に左副元帥・参知政事に拝され、錫馨に軍を統べて亳州を守らせた。
  • 金の富察古納は特們德爾を破ってから勢いはいよいよ暴横になり、金主を照碧堂に押し込め、側近で一人としてあえて奏対する者がなかった。金主はただ悲しんで泣き、近侍に、古来、亡びない国も死なない君もない、ただ自分が人を知らずこの奴に苦しめられたことが恨めしいと語った。
  • そこで内侍局令の宋珪、奉御の努色爾・恩楚・烏克遜愛新らが密かに古納の討伐を図った。あわせて蔡州は城が堅く濠は深く兵は多く糧も豊かだと聞き、そこへ行幸して飢えと窮迫を救うようこぞって勧めた。折しも蔡州・息州・陳州・潁州などの州の便宜総帥の烏庫哩鎬が米四百斛を帰德へ運び、あわせて行幸を請うたので、金主の意はついに決した。
  • 古納が亳州から戻ると、金主は蔡州への行幸を諭した。古納は力めて不可を述べ、腕を握りしめ足を踏み鳴らし、意図は測りがたかった。そのうえ衆に、南へ遷ることを言う者は斬ると号令した。衆は古納に君を無みする心があるとし、金主に早く計を立てるよう勧めた。
  • 金主はそこで珪らと謀り、宰相を召して議事するとして恩楚を照碧堂の門の間に伏せさせた。古納が進み入ると、恩楚が背後からその脇腹を刺し、金主も剣を抜いて斬った。古納は傷を負って城の下へ投げ身のようにして逃げたが、恩楚と愛実が追って殺した。忠孝軍は変を聞いてみな甲を着けた。恩楚が金主に自ら慰撫するよう請い、そこで金主は双門に出て忠孝軍を赦し、動揺を鎮めた。
  • それ以前、金主は斉克紳が中京を守って功があったので詔を降して褒め諭し、中京留守を授けた。また参政で皇族の思烈が南山から十余万の軍を率いて洛に入り行省の事を執った。斉克紳は洛川駅の東に堂を建てて「報恩」と名づけ、詔の文を石に刻んで死をもって尽くすことを願った。
  • まもなく蒙古が汴から思烈の子を金昌府の東門の下へ引き立てて思烈に降を誘った。思烈は左右に命じてこれを射させた。崔立の変を聞いて病んで物も言えずに死んだ。総帥の烏凌阿呼図が行省の事を代行し、斉克紳が総帥府の事を執った。
  • 一か月余りで糧が尽き軍民はしだいに散じた。蒙古兵がまた来て洛の南に陣を敷き、斉克紳は水の北に陣を敷いた。蒙古の韓元帥が単騎で水際に立って降を招くと、斉克紳は躍り上がって射た。韓は陣に逃げ帰り、歩兵数百を率いて橋を奪った。斉克紳の旗手の一兵が独り出て防ぎ数人を殺した。斉克紳はその場で都統の銀牌を解いて与えて佩びさせ、士卒の気はまた振るった。
  • もと城の四隅から五門まで、内外にみな屏があって「迷魂墻」と呼ばれた。蒙古が五百騎で迫ると、斉克紳は兵二百を率いて鼓を打ち喊声を上げて出、蒙古は退いた。朝士は蒙古兵が強いので多くは軽騎で妻子を連れて蔡州へ逃げた。そこで鷹揚都尉が西門を献じて降った。斉克紳は城が守れないと知り、決死の士数十人を率いて東門から突出し、転戦して偃師に至り、力尽きて捕らえられた。蒙古の帥に会って言葉が無礼だったので、左右が北を向かせようとした。斉克紳は首をねじって南を向き、そのまま殺された。
  • 金主の守緒は元帥の王璧を留めて帰德を守らせ、そのまま蔡州へ向かった。当時、長雨で扈従の朝士は泥水の中を徒歩で行き、青い棗を拾って糧とし、足と脛はすっかり腫れた。
  • 翌日、亳州に至った。金主は黄の衣に黒い笠、金の兎鶻の帯で、青と黄の旗二本を前導とし、黄の傘を後ろに従え、供は二、三百人、馬は五十匹だけだった。城中を行くと父老が道の左に拝伏した。金主は近侍を遣って、国家がお前たちを養って百有余年、今、朕に德がなくてお前たちを塗炭に落とした、朕には言うべきこともない、お前たちは祖宗の德を忘れないでほしいと諭させた。みな万歳を呼んで涙を流した。
  • 一日留まり、進んで亳州の南六十里に泊まり、雨を双溝寺で避けた。よもぎばかりで人の跡もなく、金主は嘆息して、生霊は尽きたと言い、そのために慟哭した。
  • 蔡に入ると父老が道に並んで拝した。金主の儀衛の寂しさを見て感泣しない者はなく、金主も嘆息した。そこで完顔呼沙呼を尚書右丞・総領省院事、烏庫哩鎬を御史大夫として総帥はそのままとし、張天綱を権参知政事、富珠哩小羅索を僉書枢密院事とした。
  • 呼沙呼は文武の才があり、事は大小を問わずみな自ら行い、士を選び馬を集め甲兵を整え、一日として金主を秦州・鞏州へ移し奉る志を忘れなかった。しかし近侍は長く睢陽で苦しんだので汝陽の安らかさを幸いとし、みな妻を娶り生業を営んで移ることを望まず、日夕、西へ行くのは不便だと言上した。金主は信じ、呼沙呼はただ深く籠もって目を閉じて嘆息するばかりだった。
  • 当時、蒙古兵は蔡からやや遠く、商人がしだいに集まった。金主は安んじて、良家の娘を選んで後宮に備え、山亭を修めて遊息の場とするよう命じた。呼沙呼が切に諫めてやめた。
  • 呼沙呼は馬を献じた者の昇進と賞の格を定め、馬千余匹を得た。また使者を諸道に遣って兵を選んで蔡へ来させ、精鋭一万余を得て、兵威はやや振るった。
  • 忠孝軍提控の李德が十余人と馬に乗って省に入り、月の糧が手厚くないと大声で言い、ほとんど罵るようだった。呼沙呼は德を縛って杖打った。金主が、この軍は力になる、頼りにしているところだ、卿はなぜ堪え忍ばずにこう責め罰するのかと言うと、呼沙呼は、時は多難で、功を録し過ちを隠すのは陛下の德ですが、将帥の職はそうではありません、小さな罪でも決断し、大きな罪なら誅す、強い兵と荒い卒は一日も紀律の外に置いてはなりません、小人の情は放てば驕り、驕れば制しがたい、睢陽の禍はどうして古納だけの罪でしょう、有司が放任しすぎたのです、今、前の轍を改めようというなら、その威を吝しむべきではありません、賞は必ず上から出し、罰なら臣が責を負います、軍士がそれを聞けば自ずと再び法を犯す者はなくなりますと答えた。
  • このころ従官と近侍はみな窮乏し、すべて烏庫哩鎬から支給を受けていた。鎬は続けられず、日夕、金主に讒言され、食膳の供給を欠いたとまで言われた。金主はそこで鎬を疎んじ、鎬は憂え憤って病み、多くは政務に出なかった。

紹定六年秋七月(1233年)

  • 孟珙が馬蹬山で金の武仙を大破した。仙の愛将の劉儀が珙のもとへ来て降った。珙が仙の虚実を問うと、儀は、仙の拠る九つの砦のうち大砦は石穴山で、馬蹬・沙窩・岵山の三砦がその前を蔽っている、三砦を破らなければ石穴は図れない、離金砦を破れば岵山と沙窩は孤立すると述べた。
  • 珙はそこで兵を遣って離金を攻め、ほとんど殺し尽くした。その夕、また壮士に王子山砦を衝かせ、金の将の首を斬って出、そのまま馬蹬を囲んで殺戮は山と積み、沙窩の西へ戻る途中で金人に遭って大勝した。まもなく丁順が黙侯里砦を破り、こうして仙の九砦のうち六日で七つを破った。
  • 珙は儀を召して、この砦が破れた以上、板橋と石穴は必ず震える、自分のために招けるかと言った。儀は婦人三百人を選び、逃げ帰るふりをさせて招安の榜を懐に入れて行かせた。
  • 珙は仙の勢いが窮すれば必ず岵山の絶頂に登って様子をうかがうと読み、樊文彬にその下へ駐軍させた。まもなく仙の衆が果たして山に登り、半ばに至ったところで文彬が旗を振ると伏兵が四方から起こった。仙の衆はうろたえ、崖と谷に折り重なり、山は赤く染まった。その将の烏蘇展を殺し、七百三十人を捕らえ、棄てられた鎧甲は山のようだった。
  • 夕暮れ、珙は軍を進めて小水河に至った。儀は、仙は商州へ行って険に拠って守るつもりだが、老幼は北へ行きたがっていないと言った。珙は、進兵は緩められないと言い、夜の十刻に文彬らを召して方略を授け、翌日、石穴を攻めることとした。三更に食べて出発し、朝に石穴に至った。折しも長雨がやまず、文彬は憂えたが、珙は、これこそ雪の夜に呉元済を捕らえたときと同じだと言い、馬を駆ってまっすぐ石穴に至り、兵を分けて進攻した。寅から巳まで攻めて石穴を破った。仙は逃げ、鮎魚砦で追いついたが、仙は望み見て服を替えて逃げた。銀葫蘆山でまた戦って破った。仙は五、六騎と逃げ、追ったが姿を消した。その衆七万を降し、珙は襄陽に戻った。

紹定六年八月(1233年)

  • 蒙古の都元帥の塔齊爾が王機を襄陽へ遣って蔡州攻めを約した。史嵩之はまず兵を出して唐州を伐たせ、金の将の烏庫哩哈努勒が戦死して城は降った。官軍が息州の南に駐屯すると降る者が日々増えた。息州刺史の烏庫哩呼図克は恐れて増兵を請うた。
  • 金主は参知政事の穆延烏克登と僉書枢密院の富珠哩中羅索に忠孝軍五百を率いて赴かせた。出発に際して金主は、北の兵が常に勝ちを取るのは北方の馬の力を恃んで中国の技巧を用いるからだ、我らは実に彼と敵しがたい、だが宋人など言うに足りない、朕が甲士三千を得れば江淮を縦横するに余りあると諭した。呼図が畏縮したので瓜爾佳玖珠に代えた。塔齊爾は博勒呼の従孫である。

紹定六年九月(1233年)

  • 金の使者の完顔阿呼岱が糧を乞いに来た。出発に際して金主は諭して言った。宋人は朕に深く背いた。朕は即位以来、辺将を戒めて南の境を犯させず、辺臣に征討を請う者があれば必ず厳しく責めた。かつて宋の一州を得るとすぐ返した。近ごろ淮陰から帰属した者があり、彼らが多くの金幣で贖おうとしたが、朕がその財を受ければ売り渡すことになるので、城ごと返して秋毫も犯さなかった。清口の陣で数千人を生け捕ったが、みな糧を与えて帰した。 今、我が疲弊に乗じて我が寿州を占め、我が鄧州を誘い、また我が唐州を攻めている。彼の謀もまた浅い。蒙古は四十の国を滅ぼして西夏に及び、夏が亡んで我に及んだ。我が亡べば必ず宋に及ぶ。唇亡びて歯寒しは自然の理だ。我らと連和するのは、我らのためであると同時に彼らのためでもある。卿はこの意を伝えよ、と。阿呼岱が至ったが、朝廷は許さなかった。
  • 金主が節度使の庁で天を拝み、群臣が陪従して礼を成した。金主が戒め諭し、そのうえで巵酒を賜った。酒がまだ終わらぬうちに巡邏の騎が馳せて、敵兵数百が突然、城下に至ったと奏した。将士は勇み立ってこぞって一戦を請い、金主は許した。この日、兵を分けて四面と子城を防がせた。衆が出て交戦すると蒙古兵は潰走した。塔齊爾が数百騎で改めて城の東に駐まると、金主は兵を遣って交戦させ、また破った。これ以来、蒙古は城に迫らず、長い塁を分け築いて囲んだ。

紹定六年冬十月(1233年)

  • 史嵩之は孟珙と江海に軍二万を率いさせ、米三十万石を運んで蒙古との約に赴かせた。塔齊爾は大いに喜び、いっそう攻具を整えた。木を斬る音が城中に聞こえ、城中はいよいよ恐れ、しばしば密かに降伏が議された。
  • 金の呼沙呼は日々、国家の恩沢と君臣の分義でその民を撫し、あわせて防禦の計を練り、私邸に入ることもなかった。軍民は感じ奮って、初めて固い志を持った。
  • 南北の両軍が攻具で城に迫ると、金は民の丁をすべて登録して防守させ、丁が足りないと壮健な婦人まで括り出し、男子の衣冠を着けさせて木石を運ばせた。金主は自ら出て撫し諭した。
  • 金人が東門から出て戦うと、孟珙がその帰路を遮った。降人から蔡城中が飢えていると聞き、珙は、もう窮している、死力を尽くして守り、囲みを破って出るのを防ごうと言った。珙は塔齊爾と、南北の軍が互いに犯さないことを約した。
  • 塔齊爾が張柔に精兵五千を率いて城に迫らせると、金人は二人の兵を鉤で引っかけて連れ去り、柔は針鼠のように流れ矢を受けた。珙は先鋒を指揮して救い、柔を脇に抱えて出た。
  • 翌朝、珙は決死で戦い、進んで柴潭に迫って潭の上に柵を立て、諸将に柴潭楼を奪わせた。金人が争いに来ると、諸軍は魚の列のように登ってついに柴潭楼を抜いた。蔡州は潭を固めとし、外はすぐ汝河で、潭は河より五、六丈高かった。城上の金字号楼には巨大な弩が伏せてあり、下に龍がいると伝えられて人は近づかず、将士は疑い畏れた。
  • 珙は麾下を召して酒を酌み、二巡して、柴潭楼は天造地設のものではない、伏せた弩は遠くは射られても近くは射られない、彼の恃みはこの水だけだ、決して流せばたちまち涸れると言い、そのまま堤を鑿った。潭は果たして決して汝水に流れ込み、珙は薪と葦で埋めさせた。蒙古も練江を決した。こうして両軍はともに渡り、その外城を攻めて破り、進んで土門に迫った。
  • 金人はその老幼を駆り立てて煮て油を取り、「人油砲」と号した。人はその苦痛に堪えなかった。珙は道士を遣って説いてやめさせた。
  • 金の総帥の富珠哩中羅索が精鋭五百を率いて夜に西門を出た。人々は藁束を担ぎその上に油を注ぎ、両軍の砦と砲具を焼こうとした。蒙古兵が先に気づいて物陰に伏し、強弩百余を引き絞った。火が上がると同時に矢も放たれ、金兵は退き、負傷者は多く、羅索はかろうじて身一つで免れた。
  • 両軍が合わせて西城を攻めて落とし、その城を崩した。それ以前、呼沙呼は砦を築き濠を浚えて備えていた。西城が崩れても両軍はまだ入れず、城上に柵を立てて身を隠すだけだった。呼沙呼は三面から精鋭を抜き出して日夕、戦って防いだ。
  • 金主は侍臣に語った。自分は金紫として十年、太子として十年、人主として十年、自ら大きな過ちや悪はなかったと思う、死んでも恨みはない。ただ恨めしいのは、祖宗が伝えた位が百年で自分に至って絶え、古の荒淫暴乱の君と同じく亡国の君となることだ、それだけが心にかかる、と。また、亡国の君はしばしば人に囚われ、あるいは俘として献じられ、あるいは階庭で辱められ、あるいは空谷に閉じ込められる、朕は必ずそこまでは至らない、卿らは見ているがよい、朕の志は決したと言った。御用の器皿を戦士に賞し、まもなく微服で兵を率いて夜に東城を出て逃げようとしたが、柵で敵兵に遭い、戦って戻った。厩の馬を殺して将士を労ったが、その勢いはもはや如何ともしがたかった。
  • 当時、金の徐州節度使の郭頁嚕が源州の叛将の麻琮と約して徐州を襲って破った。徐州の将士は蔡州が囲まれ、しかも蒙古兵に迫られていることから降伏を議した。完顔薩布は従わず、捕らえられることを恐れて河に身を投げて死のうとした。軍士が引き上げたが、ついに自ら縊れた。麻琮はそのまま州を挙げて蒙古に降った。

端平元年春正月(1234年)

  • 戊申、孟珙が蒙古兵とともに蔡州を囲み、会飲して歌と楽の声が続いた。城中は飢えて窮し嘆息するばかりだった。孟珙は黒い気が城上を圧し日に光がないのを見た。降った者は、城中は糧が絶えて三か月、鞍も靴も破れた鼓もみな煮て食い、あわせて老弱を互いに食うことを許している、諸軍は日々、人畜の骨を芹の泥と混ぜて食い、しばしば敗軍を隊ごと斬ってその肉を集めて食っていると言った。だから降ろうとする者が多かった。
  • 珙はそこで諸軍に枚を含ませ、雲梯を分けて運んで城下に並べ、攻撃を議した。金は囲まれて以来、戦死した将帥がきわめて多く、ここに至っては近侍から舎人・牌印・省部の掾属までみな役に就いて四城を分け守った。
  • 蒙古兵は西城を鑿って五つの門とし、軍を整えて入り、督戦して激戦し、暮れになって退き、明日また集まると言い触らした。
  • この夕、金主の守緒は百官を集めて東面元帥の承麟に位を伝えた。承麟は世祖和哩布の後裔で巴薩の弟である。拝して泣き、あえて受けようとしなかった。金主は、朕が卿に付すのはやむを得ないからだ、朕は肉づきが重くて鞍馬で駆け抜けられない、卿は平素、敏捷で将略がある、万一免れられれば血統は絶えない、これが朕の志だと言った。承麟は起って璽を受けた。
  • 己酉、承麟が即位した。当時、孟珙の軍は南門へ向かい、金字楼に至って雲梯を並べ、諸軍に鼓を聞いたら進めと命じた。馬義がまず登り、趙栄が続き、万衆が競って進んで城上で大いに戦った。烏庫哩鎬とその将帥二百人がみな降った。
  • 金の百官が祝賀し、礼が終わるとすぐ出て敵を防いだが、南城の城壁にはすでに宋の旗が立っていた。ほどなく四面から鼓と喊声が上がって挟撃し、声は天地を震わせた。南門を守る者が門を棄てて逃げ、門は開け放たれた。孟珙は江海と塔齊爾の軍を招き入れた。呼沙呼が精兵一千を率いて市街戦をしたが防げなかった。
  • 金主の守緒は事の急を知り、ただちに宝玉を取って幽蘭軒に置き、周りに草を積ませ、近侍に、死んだらすぐ自分を焼けと命じ、そのまま自ら縊れて死んだ。
  • 呼沙呼はこれを聞いて将士に、我が君はすでに崩じた、自分が何のために戦おうか、自分は乱兵の手にかかって死ぬことはできない、汝水に赴いて我が君に従う、諸君はよく計られよと言い、言い終えて水に赴いて死んだ。将士はみな、相公が死ねるのに我らが死ねないものかと言った。こうして参政の富珠哩小羅索、烏凌阿呼図、総帥の元志、元帥の約蘇・赫舎哩栢寿・烏庫哩和勒端および軍士五百余人がみな従って死んだ。
  • 承麟は退いて子城を保ち、守緒の死を聞いて群臣を率いて入って哭し、そのうえで衆に、先帝は在位十年、勤倹寛仁で旧業の回復を図られたが志を遂げられなかった、哀しむべきことだ、諡して哀宗とすべきだと言った。奠が終わらぬうちに城は陥ち、諸将と近侍がともに火を挙げて焼いた。奉御の絳山がその骨を収めて汝水のほとりに葬ろうとした。
  • 江海が宮に入って参政の張天綱を捕らえた。孟珙が金主の所在を問うと、天綱は、城が危うくなったとき自ら縊れましたと答えた。珙はそこで塔齊爾と金主の骨および宝玉・法物を分けた。この日、承麟も乱兵に殺され、金は亡んだ。
  • 金は宣宗の代から、宰相や枢密となる者はしばしば事に臨んで譲り合い、言葉を低く緩やかにして宰相の体を養うとした。四方に兵革や災異があるたび、聖主のお心が困るとか、改めて議しましょうとか言って、因循その場しのぎで時日を過ごした。出兵しても近侍が戦を監督して事ごとに掣肘したので、師は出ても功なく、国は乱れても上聞されず、亡びに至った。

端平元年正月(1234年)続き

  • 戊辰、史嵩之が露布で金の滅亡を告げ、陳州・蔡州の西北の地を蒙古に分け属させた。蒙古は劉福を河南道総管とした。史嵩之は郭春を遣って旧領を巡らせ、奉先県に詣でて祖宗の諸陵を清掃させた。孟珙は軍を戻して襄陽に駐屯し、江海は軍を戻して信陽に駐屯し、王旻は随州を、王安国は棗陽を、蒋成は光化を、楊恢は均州を守り、いずれも兵を増して備えを整え、唐州・鄧州で屯田を経営した。

端平元年夏四月(1234年)

  • 詔して朱復之を八陵へ遣って修奉を検分させ、荊襄が兵五十で護送した。西京に着かないうちに、敵の騎兵が来ると諜報があり、兵は進めなかった。使者は密かに数騎とともに星のように馳せて行き、礼を行って戻った。諸陵の無事かどうかはついに究めようがなかった。
  • 史嵩之が使者を遣って、孟珙の得た金主完顔守緒の遺骨および宝玉・法物、ならびに俘囚の張天綱・完顔噶海らを臨安に献じた。当時の宰相はその事を誇大にしようとした。監察御史の洪咨夔が上言して、これは朽ちた骨にすぎない、函に納めて大理寺に葬ればよい、ただ金の滅亡を九廟に告げて祖宗の德沢に帰すべきだ、まして大敵と隣り合い虎を抱き蛟を枕とするようなもので事変は測りがたい、人の手で得たものを誇って辺臣に功を論じさせ朝臣に德を頌えさせてよいものか、しかも陛下は元祐の受俘の政を慕われるなら、崇寧の端門の受降を鑑とされないのかと述べた。上はうなずいたが、すべては従わなかった。
  • 丙戌、礼を備えて太廟に告げ、金主完顔守緒の骨を大理寺の獄庫に納め、孟珙に帯御器械を加え、江海以下に功を論じてそれぞれ賞した。
  • 知臨安府の薛瓊が張天綱に、どの面下げてここへ来たのかと問うた。天綱は、国の興亡はどの代にもある、我が金の滅亡は、お前たちの二帝の場合と比べてどうかと答えた。瓊が叱り、翌日、その言葉を奏した。帝は天綱を召して、お前は本当に死を畏れないのかと問うた。天綱は、大丈夫は死が節に中らないことを患うだけです、何を畏れましょうと答え、しきりに死を願った。帝は聴かなかった。
  • 初め有司が天綱に供述書を書かせたとき、「故主」と書いたのを改めさせようとした。天綱は、殺すなら殺せ、供述書が何になるかと言い、有司は屈させられず、その供述のままにさせた。天綱はただ「故主」と書いただけだった。聞く者は憐れんだ。その後の消息は分からない。