宋史紀事本末李全の乱(李全之亂)

嘉定四年(1211)の楊安児の蜂起から紹定四年(1231)の淮安平定まで、山東の紅襖賊から出た李全が宋に帰属して忠義軍を握り、ついに叛くまでの二十年。賈渉・許国・徐晞稷・劉琸・姚翀と淮東の帥は次々に倒され、李全は青州で蒙古に降ったのち楚州に戻って揚州を囲んだが、趙范・趙葵に大破されて戦死し、妻の楊氏も淮を渡って去った。

年表(30件)

寧宗嘉定四年十一月(1211年)

  • 金の益都で楊安児の兵が起こった。もと益都の人の楊安国は若いころ無頼で、鞍の材を売って業としていたので、市の人は楊安児と呼んだ。そこで自ら楊安児と名乗った。
  • 金の泰和年間に南侵したとき、山東の無頼はしばしば集まって掠奪し、州県に命じて招き捕らえさせた。安児はそのころ群盗だったが、降伏を請うて軍籍に入り、たびたび昇進して防禦使に至った。蒙古兵が中都に迫ると、金人は鉄亢の敢戦軍を募って千余人を得、唐古哈達を都統、安児をその副として辺境を守らせた。安児は鶏鳴山まで来て進まず、逃げて山東に帰り、張汝楫と党を集めて州県を攻め掠め、官吏を殺したので、山東は大いに乱れた。

嘉定七年十二月(1214年)

  • 金の濰州で李全の兵が起こった。全は濰州北海の農家の子で、鋭い頭に蜂のような目、権謀に長け人にへりくだるのが上手く、弓馬に敏捷で鉄の槍を操れたので、人は李鉄槍と呼んだ。開禧年間、戚拱がかつて彼と結んで漣水を回復した。
  • 金主が汴に遷ってから賦斂はいよいよ横暴になり、河北・山東の遺民は砦を築いて険に拠り、群れ集まって盗となり州郡を掠めた。みな紅い綿入れを着て見分けとしたので、当時は紅襖賊と呼ばれた。全は次兄の李福とともに数千の衆を集めて山東を掠め、劉慶福・国安用・鄭衍德・田四・于洋・于潭らがみな付き従った。

嘉定八年二月(1215年)

  • 金の布薩安貞が益都で楊安児を破った。安児は登州へ逃げ、刺史の耿格が受け入れた。安児はそこで号を僭して官属を置き、天順と改元し、衆は数十万に上った。安貞はさらに山東行省の完顔霆、経歴の黄国らと花帽軍を率いて討ち破り、その衆を殲滅した。安児は舟で海に入り岠嵎山へ逃げたが、船頭の曲成らが撃ち、安児は水に落ちて死んだ。
  • 安児に子はなく、妹の四娘子は狡猾で剽悍、騎射に長けていた。劉全が残党を収めて奉じ、「姑姑」と称した。衆はなお一万余で、食を求めて磨旗山に至り、李全がその衆を率いて付いた。楊氏はそこで全と通じ、そのまま夫とした。
  • 安貞はさらに瓜爾佳錫爾格を遣って劉二祖を破って斬った。残党は霍儀を帥と称し、彭義斌・石珪・夏全・時青・裴淵・葛平・楊德広・王顕忠がこれに付いた。

嘉定十年秋七月(1217年)

  • 知楚州の応純之が山東の群盗の帰属を受けて忠義軍を置いた。当時、李全らは島々に出没し、宝貨は山と積んでいたが食を得られず、こぞって人を食った。
  • 折しも鎮江の武鋒卒の沈鐸が山陽に亡命し、米商人を誘って数十倍の利を得た。応純之が玉と貨で償い、北の人で来た者はすべて宿らせた。鐸はそこで純之に、銅銭を回収する名目で渡淮の禁を緩めるよう説き、これによって来る者を止められなくなった。
  • もと楊安児がまだ敗れないころ、朝廷に帰属する意があった。定遠の民の季先という者は大俠の劉佑の家の下働きだったが、佑に従って綱運の任で山陽に客居していたところを楊安児に見込まれ、軍職に就いた。安児が死ぬと先は山陽に至り、鐸の伝手で純之に会い、山東の豪傑が帰順を願っている意を伝えた。純之は先を機察として群豪に意を諭させ、鐸を武鋒副将として高忠皎とそれぞれ忠義の民兵を集め、二道に分けて金を伐たせた。先は五千の兵で忠皎に付き、忠皎は兵を合わせて海州を攻めたが、糧と援けが続かず退いて東海に駐屯した。
  • 純之は北の軍がたびたび勝つのを見て、密かに朝廷に中原は回復できると報せた。当時は数年、実りがまずまずで朝野に事がなく、丞相の史弥遠は開禧の事を鑑みて公然と招き入れることをせず、密かに純之に慰撫させ、忠義軍と号してその節制に従わせ、忠義の糧を給した。そこで東海の馬良・高林・宋德珍らが一万人で漣水に集まり、李全らは羨望の心を生じた。

嘉定十年十一月(1217年)

  • 李全とその兄の福が金の青州・莒州を襲って取った。

嘉定十一年春正月(1218年)

  • 壬午、李全が衆を率いて帰属した。詔して全を京東路総管とした。

嘉定十一年五月(1218年)

  • 金の石州の賊の馮天羽が敗死し、その党の国安用が降った。詔して安用を同知孟州事とした。

嘉定十二年九月(1219年)

  • 賈渉に淮東制置司を主管させ、京東・河北の軍馬を節制させた。もと山東から帰属する者は日々増えたが、石珪が計を用いて漣水で沈鐸を殺し、応純之も罷めて去った。権楚州の梁丙は養う手立てがなかった。季先が二か月分の糧を前借りしたうえで、その部下五千と馬良らの一万人を率いて密州へ食を求めに行きたいと乞うたが、丙は許さなかった。先は速やかに李全を遣ってその衆を代わりに率いさせるよう請うたが、丙はこれも許さず、石珪に軍務を代行させた。珪はそこで糧を運ぶ舟を奪って淮を渡り、大いに掠め、楚州の南渡門に至って焼き払い、ほとんど残らなかった。丙が人を遣って諭したがやまなかった。
  • 当時、渉は知盱眙軍として上書し、忠義の人が続々と来ているのに定員を立てず一軍として北岸に置かなければ、限りある財で限りない需要に応じられるはずがない、飢えれば人を噬み飽きれば命を尽くす、その勢いは当然だと述べた。朝廷はそこで渉に忠義の人兵を節制させた。
  • 渉は命を受けるとすぐ傅翼を遣って石珪と楊德広に逆順と禍福を諭させ、珪らは謝罪した。渉は衆が多くて乱を思うことを慮り、滁州・濠州の役で石珪・陳孝忠・夏全を二屯に分け、李全を五砦に分け、さらに陝西の義勇の法を用いてその手に入れ墨した。諸軍を合わせて汰した者は三万余、入れ墨した者は六万に満たず、正軍は常に七万を屯して主が客に勝つようにした。朝廷は毎年、費用の十のうち三、四を省けた。ここに至って江淮を三司に分け、渉に淮東を管させた。
  • この月、金の張林が山東の諸郡を挙げて李全に付いて帰属した。もと蒙古が益都を落としたが守らずに去り、益都府の兵の張林がその党とともにまた府を立てて金に帰し、功で治中となったが、凶険で不逞だった。知府の田琢は山東で徴収が度を越して衆心を失い、林はその党を率いて逐った。琢は敗れて汴に戻り、林はそのまま益都に拠り、山東の諸郡はみなこれに付いた。
  • 林は帰属して自らを固めたかったが決しかねていた。折しも李全が斉州から戻り、林の意を察して兵を青州の城下に迫らせ、人を遣って国家の威德を説き、早く付くよう勧めた。林は全に誘われるのを恐れてためらい受け入れなかった。全は身一つで城に入り、従うのは数人だけだった。林はそこで門を開いて入れ、会って大いに歓び、託せる先を得たと言い、酒を置いて兄弟の契りを結んだ。全は林の要領を得て、表を奉じて青州・莒州・密州・登州・莱州・濰州・淄州・濱州・棣州・寧海・済南の十二郡の版籍を挙げて帰属した。その表には「七十城の全斉を挙げて、三百年の旧主に帰す」といった語があった。詔して林に武翼大夫・安撫使兼京東総管を授けた。

嘉定十二年十二月(1219年)

  • 李全が泗州を襲ったが落とせずに戻った。当時、大雨と雪で淮の水が凍り、全は賈渉に、いつも泗州が水に阻まれることを恨んでいたが、今は平地のようだ、東西の城を取って働きたいと請い、渉は許した。全は長槍三千人を率いて夜半に淮を渡り、密かに泗州の東城へ向かい、濠の水を踏んで城下に迫り、金人の不備を衝こうとした。ところが城上で数百の葦の松明が一斉に上がり、遠くから、賊の李三よ、城を盗もうというのか、暗いから特に照らしてやると呼ばわった。全は備えがあると知って兵を引き揚げた。

嘉定十三年六月(1220年)

  • 壬午、賈渉が漣水忠義軍副都統の季先を誘い出して殺し、その配下は石珪を帥に推して渉に抗した。
  • もと李全は化湖陂の勝利以来、諸将を軽んじる心があり、季先の威望が自分の上に出ることから、密かに賈渉の任じた吏の呉覬と結んで、先が叛こうとしていると讒言させた。渉は信じ、計を用いて先に枢密院で議事するよう命じ、道中で殺し、統制の陳選を遣って漣水で先の衆を統べさせた。先の部曲の裴淵・宋德珍・孫武正・王義深・張山・張友の六人は選を拒んで入れず、密かに盱眙から石珪を迎えて統帥に奉じた。珪が楚の城を通ったのに渉は気づかず、珪はそのまま漣水に入り、選は戻った。
  • 渉は恥じて珪の軍を六つに分ける謀を立て、朝廷に請うて修武郎・京東路鈐轄の印と辞令を六通ずつ出させ、淵らに授けて先の衆を分け統べさせた。淵らは表向き従ったが実際には渉の指図を奉じなかった。渉はひどく恐れ、詔して珪を漣水忠義軍統轄とした。

嘉定十三年八月(1220年)

  • 金の長清県令の厳実は主将に疑われ、家を挙げて清崖崓に籠もり、益都の張林に依って避けた。折しも趙拱が朝命で京東を諭しに来て清崖を通ったので、実はそこで内附を求めた。賈渉は上聞した。実も兵を四方に分け出し、行く先々の州県はみな下った。こうして太行の東はみな実の節制を受け、実は魏州・博州・恩州・德州・懐州・衛州・開州・相州などの郡を挙げて帰属した。
  • 渉はそこで再び拱を遣って諭させ、兵二千を付けた。李全も行くことを請い、渉は止められなかった。全は楚州および盱眙の忠義一万人を率いて出発した。拱は全に、将軍が兵を率いて河を渡りながら用いずに帰るのは武を示すことにならない、今、勝ちに乗じて東平を取ってはどうかと説いた。全はそこで張林の軍と合わせて数万を得、東平の城南を襲った。金の行省の蒙古綱が軍を率いて固く守った。全と林は汶水を挟んで砦を築いた。
  • 翌日、金の監軍の王庭玉が騎兵三百で突然、来た。全は喜んで馬に乗り、帳前の全騎兵を率いて赴き、数人を殺してその馬を奪い、敗走を追って山谷に至った。そこで金の将の鄂博岱が兵を盛んにして出て、傍らに刺繍の旗を掲げた女将があり、槍を馳せて突きかかり、全は危うく免れないところだった。折しも諸将が救援に駆けつけ、全を助け出して退き、長清を保った。精鋭は大半を失った。全は連れてきた鎮江の軍五百が憤りを抱くことを恐れ、拱に先に率いて帰らせ、自らは残る衆を率いて滄州を経て塩の利で慰め養い、まもなく楚州に戻った。
  • 張林が金の滄州を攻め、王福が城ごと降った。

嘉定十三年冬十月(1220年)

  • 金が時青を済州宣撫使とした。もと青は叔父の時全とともに紅襖賊だったが、楊安児と劉二祖が敗れると、青は赦を受けて済州義軍万戸となり、後に李全に付いて帰属し、亀山に置かれて数万の衆を擁した。ここに至って金の帥府が人を遣って招くと、青は書で邳州を借りて老幼を駐屯させ、盱眙を襲い取って淮南をすべて定めて罪を贖いたいと乞い、金主はこの任命をした。まもなく青はまた金から来て帰属し、京東鈐轄とされた。

嘉定十三年十二月(1220年)

  • 漣水忠義軍統轄の石珪は、自分が漣水に入ったのが賈渉の本意でないことから内心不安だった。李全がまた渉に珪の討伐を請うた。渉はそこで全の統べる衆を楚州の南渡門に並べ、淮陰の戦艦を淮安へ移して珪に備えのあることを示し、あわせて一将に、珪の軍から来る者には銭糧を増し、来ない者には支給をやめると布告させた。衆心はこれで散じた。珪は術尽きて裴淵を殺し、孫武正・宋德珍を連れて蒙古に降った。珪が去って漣水の衆は帰属先を失った。李全が併せ率いることを求め、渉は退けられず全に付した。

嘉定十四年春正月(1221年)

  • 李全が山東から帰ったので緡銭六万を賜った。時青が泗州の西城に入り、二月に金人が救援に来て青は敗れて戻った。

嘉定十四年十一月(1221年)

  • 京東安撫の張林が叛いて蒙古に降った。
  • それ以前、李全は漣水忠義を併せ率いてからいっそう驕り剽悍になり、朝廷を軽んじた。金山に遊んで戦死者を弔う法事をしたとき、知鎮江府の喬行簡が舟を並べて迎え、盛大な音楽で饗した。全は帰って徒に、江南の美しさは比べるものがない、お前たちを一度連れて行かねばと語った。そこで大船を造り始め、舟運の利を争おうと謀った。
  • 膠西は登州・寧海の要衝に当たり、百貨が集まる。全は兄の福に守らせて根拠地とした。当時、互市が始まったばかりで、北の人はなお南の貨を重んじ値は十倍だった。全は商人を山陽に誘って舟にその貨を積ませて折半し、淮から海に転じて膠西に届けた。福はさらに車を用意して運び、その半ばを税として取り、そのうえで諸郡での交易を許した。車夫はみな張林に用意させたので、林は堪えられなかった。
  • 林の財政は六つの塩場に頼っていた。福は弟が林に恩があるのを恃んでその半分を分けようとした。林は福に塩を自由に取らせたが場は分けなかった。福は怒って、恩に背くのか、都統とともに軍を率いてお前の首を取ってやると言った。林は恐れ、その党の李馬児が林に蒙古へ帰することを説いた。林はそのまま京東の諸郡を挙げて蒙古の将の穆呼哩に降った。福は狼狽して楚州へ逃げ帰った。林はなお賈渉に書を送り、自分が叛いたのではなく実は李福のせいだと述べた。

嘉定十五年二月(1222年)

  • 李全が泗州を回復した。

嘉定十五年夏四月(1222年)

  • 知済南府の种贇が張林を討ち、林は敗走した。李全が青州に入って拠った。

嘉定十五年十二月(1222年)

  • 李全を保寧軍節度使・京東路鎮撫副使とした。もと全に戦功があり、史弥遠は全に官を加えようとしたが賈渉が止めた。節鉞を加えられると、渉は嘆じて、朝廷はただ官爵でその心を得られると知るだけで、驕れば手のつけられぬところに至ることを知らないと言った。

嘉定十六年六月(1223年)

  • 淮東制置使の賈渉は李全の驕暴を制しがたいとして強く帰朝を求め、道中で没した。
  • もと渉は忠義の兵を制するため、翟朝宗に鎮江副司の八千人を統べさせて楚州城中に駐屯させ、また帳前忠義一万を分けて、趙邦永と高友に五千を率いさせて城西に駐屯させ、王暉と于潭に五千を率いさせて淮陰に駐屯させた。李全は鎮江の兵を軽んじ帳前忠義を忌み、しばしば高友らの勇を称え、出軍のたびに随行させるよう請うたが、渉は許さなかった。全は麾下の宴のたびに渉の帳前の将校も呼んだので、帳前も全に属することを願うようになったが、合わせるには至らなかった。
  • 渉が没して丘寿邁が帥事を代行すると、全は、忠義は烏合で名簿も粗略だ、別に新しい名簿を作り、一通を朝廷に納め、一通を制置の役所に申し、一通を全の所に留めれば、功過を考え請給に弊がないと請うた。寿邁は従った。全はそこで帳前忠義を自軍と合わせてすべて登録し、その軍を併せ統べた。寿邁は気づかなかった。

嘉定十六年八月(1223年)

  • 李全が邳州を攻めたが落とせず、青州に戻った。

嘉定十六年十二月(1223年)

  • 許国を淮東制置使とした。もと国は淮西都統で祠禄を受けて家居しており、賈渉を倒して代わろうとして、たびたび李全は必ず叛くと述べていた。渉が没すると、折しも国が召されて入対した。国は疏で、全の奸謀はいよいよ深く反状はすでに現れている、豪傑でなければ鎮められないと述べた。自らを売り込んだのである。そこで国の文階を換えて淮東安撫制置使兼知楚州とした。命が下ると聞いた者は驚愕した。淮東の参幕の徐晞稷はかねて制置府を開くことを望んでおり、国が用いられたと聞いて国の疏に注釈を付けて全に送った。全は面白くなかった。

理宗宝慶元年二月(1225年)

  • 楚州の軍が乱を起こした。もと許国が鎮所に着いたとき、李全の妻の楊氏が郊外まで迎えたが、国は辞して会わず、楊氏は恥じて帰った。国は事を執ると北軍をひどく抑え、南軍と争う者があれば曲直を問わず一方に肩入れし、犒賞は十のうち八、九を減らした。
  • 全が青州から国に書を送ると、国は衆に誇って、全は自分の養育を仰いでいる、少し威を示せば駆けつけずにいられまいと言った。全がわざと青州に留まって来ないので、国はたびたび厚く贈り物をして全に帰るよう促した。劉慶福も人を遣って国の意向を探らせた。国の側近が探りに来た者に、制置は害する気はないと語り、慶福は全に報せた。
  • 全は将校を集めて、自分が制置の役所に参らなければ非は自分にある、今は生死を問わず必ず行くと言い、そのまま楚州に戻って謁した。賓客の案内役が全に、節度使は制置使に庭で参謁すべきだが必ず礼を免ぜられると告げた。ところが庭に趨ると国は端坐したまま全の拝を受けて止めなかった。全は退いて怒り、全は本朝に帰して人に拝することは多かった、ただお前が文臣でなくもともと自分と同格なのが恨めしい、お前はかつて淮西都統として賈制帥に謁したとき拝を免ぜられたではないか、お前に何の勲業があって一朝にして自分の上に立ち、少しも遠慮しないのか、全は赤心で朝廷に報いており叛かないと言った。
  • 国は続いて盛大な宴を開いて全を饗し、労いを厚くしたが、全はついに機嫌を直さなかった。慶福が国の幕客の章夢先に謁したとき、夢先は幕を隔てて挨拶させたので、慶福も怒った。
  • まもなく全は青州へ行きたかったが、国が厳しく留めることを恐れ、自ら考えて、彼が争うのは拝礼だけだ、拝して志を得られるなら何を惜しもうと言い、節を折って礼を尽くすことにした。会合の折に劄子を出して事を申し上げ、国が些細なことでも判じて従うと、全はその場で再拝して謝した。これ以来、動静のたびに必ず請い、請いが通れば必ず拝した。国は大いに喜び、家人に、自分はこの虜を屈服させたと語った。
  • 全が青州へ行くと、国は両淮の馬歩軍十三万を集めて楚城の外で大閲兵を行い、北の人の心を挫こうとした。楊氏および留まっていた軍校は自分たちが謀られていると恐れ、内々に備えた。後に全が慶福を楚に帰して乱を起こさせた。折しも湖州の潘壬の事が発覚し、全の一党はいっそう不安になった。ある者が楊氏に、身元の知れない男を一人養って、これは宗室だと人に言えと教え、あわせて僚佐に、いずれお前たちを朝士にしてやると語った。密かに盱眙の四将と内応を約したが、四将は従わなかった。そこで慶福の謀は途中でやみ、ただ国に一泡吹かせるだけにした。
  • 計議官の苟夢玉がこれを知って国に告げた。国は、叛かせればよい、叛けばすぐ殺す、自分は兵を知らぬ文儒ではないと言った。夢玉は禍が及ぶことを恐れ、檄を得て盱眙へ行き、慶福にも、制使はお前を図ろうとしていると告げて双方に取り入る計を立てた。
  • ここに至って国が朝、起きて事を執っていると、突然、抜き身の刃が庭に満ちた。客は驚いて逃げた。国が声を励まして、無礼をするなと言うと、矢がすでに額に当たり、血が顔を覆って流れた。国は逃げ、乱兵はその家人をすべて害し、火を放って役所や寺を焼き、両司の蓄えはすべて賊のものとなった。親兵数十人が国を助けて城楼に登らせ、縄で城を下ろして逃がし、道堂に隠れて一夜を過ごした。賊は通判の姚翀を擁して入城させ、両軍を労って営に帰らせた。この日、慶福はまず章夢先を殺してその辱めに報いた。翌日、国は道中で縊れて死んだ。
  • 事が伝わると、史弥遠は他の変を煽ることを恐れ、事を含み忍ぼうとした。徐晞稷がかつて楚州の副官や海州の守として全の歓心を得ていたので、晞稷を制置使として意を屈して全を撫させた。全は青州から楚に戻り、偽って慶福が抑えきれず忠義の乱を招いたと責め、数人を斬って表を上げて罪を待った。朝廷は問わなかった。知揚州の趙范が潰兵の中から制置の印を得て晞稷に授けた。晞稷が楚に着くと、全は門まで来て馬を下り庭下で拝した。晞稷は階を下りて止め、賊の衆は喜んだ。晞稷は着任すると全を「恩府」、楊氏を「恩堂」と呼び、手と足はすでに逆さになっていた。

宝慶元年五月(1225年)

  • 李全が山東の彭義斌に牒して、許国は謀反してすでに誅された、お前の軍はみな自分の節制を受けよと言った。義斌は大いに罵り、逆賊め、国の厚恩に背いて擅に制使を殺した、自分は必ずこの仇を報いると言い、牒を持って来た者を斬り、南に向かって天に告げて衆に誓った。見る者は憤り激した。
  • そこで全は青州から東平を攻めたが落とせず、恩州を攻めた。義斌が兵を出して戦い、全は敗走して馬二千を奪われた。劉慶福が兵を率いて全を救ったがまた敗れ、全は退いて山崓を保ち、山陽の忠義を北へ抜き取った。楊氏と劉全はみな自ら難に赴こうとしたが、折しも全が人を遣って徐晞稷の書を求めて義斌と連和しようとしたので取りやめた。
  • 義斌は沿江制置使の趙善湘に書を送り、逆賊の全を誅さなければ恢復は成らない、ただ兵を遣って淮を扼し、進んで漣水・海州に拠って圧迫し、その南への路を断てば、この賊は必ず捕らえられる、賊が平らげば一京三府を回復し、そのうえで義斌が河北で戦い、盱眙の諸将と襄陽の騎士が河南で戦えば神州は回復できると述べた。盱眙の四総管もそれぞれ使者を遣って書を送り、討賊への助力を乞うた。知揚州の趙范もそう述べた。
  • 史弥遠は范に、分を越えて兵を専らにするな、それぞれ安静の福を享けよと諭させた。范は改めて書で力説した。曰く――今、上はご一人から下は一人に至るまで、公卿百官から士民軍吏まで、賊が必ず叛くという禍を知らない者はない。先生のお心もまた必ず叛くとご存じのはずだ。衆が知って言うのに、先生は知って独り言われない。言われないのはまことに正しい。内には臥薪嘗胆の志がなく、外には戦勝攻取の備えがない。先生が隠忍して言われず、ゆっくり制する策を思われるのは、廟謨の高いところだ。しかし撫定を晞稷に責め、鎮守を范に責められる。晞稷に責められるのは鎧を作る者の仕事、范に責められるのは矢を作る者の仕事である。范に人を傷つけ損ねることを恐れる仕事を責めておきながら、人を傷つける行いを禁じ、人を傷つける言葉を憎まれるのはなぜか。 賊は范が備えるのを見れば必ず忌み、姦をほしいままにできない。後日、必ず范を禍を招き変を煽った者だと指し、朝廷を脅して范を除かせようとするだろう。先生は初め信じられまい。だが側近が可と言い卿大夫が可と言えば、先生は必ず、一人の趙范を惜しんで禍を緩めないことがあろうかと言われる。必ず范を縛って賊に渡され、范は宋の晁錯となる。とはいえ范を賊に渡して本当に国の禍を和らげられるなら、范が死んで何の害があろう。 諺に、家を守る犬は盗賊に憎まれるという。だから盗賊は家を守る犬を見れば必ず主人に告げてまず除かせ、そのうえで穴を穿つ姦を憚りなく行う。犬を殺したところで盗賊を鎮めることの益にはならない。どうか憐れんで別に閑職を与えていただきたい――と。弥遠は聴かなかった。

宝慶元年六月(1225年)

  • 彭義斌は山東を落とし、さらに李全の降兵を受け入れて兵勢は大いに振るい、そのまま東平を囲んだ。厳実は密かに蒙古の将の博囉罕と兵を合わせて攻める約をしたが、兵が長く来ず城中の食が尽きたので、義斌と連和した。義斌も実を借りて河朔を取り、そのうえで図ろうと考え、兄の礼で実に事えた。当時、実の衆はなお数千あったが、義斌は奪わず、掠め取った実の青崖の家族も留めて返さなかった。

宝慶元年秋七月(1225年)

  • 彭義斌が真定を下し、西山の道で博囉罕らの軍と対峙した。義斌は厳実の帳下の兵を分けて表向き助けさせながら密かに監視した。実は勢いが迫ったと知ってすぐ博囉罕の軍に赴いて合流し、そのまま義斌と内黄の五馬山で戦った。義斌の兵は潰え、史天沢が精鋭でその背後を衝き、義斌を捕らえて降伏を説いた。義斌は声を励まして、自分は大宋の臣だ、義として他人の臣属になるものかと言い、そのまま死んだ。こうして京東の州県はまた実の有となった。

宝慶二年六月(1226年)

  • 蒙古が李全を青州に囲んだ。全は北は山東を掠め、南は朝廷の銭糧に頼り、しかも朝廷を笠に着て蒙古を疑わせていた。蒙古が攻め、全は大小百戦したがついに不利で、城に拠って守った。蒙古が長い囲みを築き、夜には犬の砦を布いて、全は糧も援けも路を絶たれた。
  • 兄の福と謀ると、福は、二人とも死んでは益がない、お前の身は南北の軽重にかかわる、自分が孤城を死守するから、お前は間道から南へ帰って兵を率いて救援に来い、それが生きる路になろうと言った。全は、数千万の強敵で容易には支えられないと言い、朝に城を出て夕には落ち込んだ。こうして全は青州に留まり、福は楚に戻った。

宝慶二年九月(1226年)

  • 徐晞稷を罷め、劉琸を淮東制置使とした。朝廷は李全が蒙古に囲まれたと聞き、ようやく図ろうとし、晞稷が臆病なので帥を替える謀を立てた。劉琸はかねて制置府を開くことを望んでおり、鎮江副都統の彭𤩽に名誉を広めさせた。𤩽もまた琸に代わって知盱眙となることを狙って強く後押ししたので、琸を晞稷に代え、𤩽を琸に代えて知盱眙とした。

宝慶二年十一月(1226年)

  • 劉琸が楚州に着いた。盱眙の四総管を制御できないと自ら知り、鎮江の兵三万だけを従えた。夏全が従いたいと請うたが、琸はかねてその狡さを畏れて許さなかった。彭𤩽は自らの資望が琸よりさらに浅いので、琸が夏全を止めるのは患いを盱眙に残すためだ、琸でさえ夏全を憚るのに自分にどうして使えようと言い、そこで夏全を煽って、楚城の賊の党は三千にも満たず、有力な将はまた山東にいる、劉制使が図れば功を収めるのは目前だ、太尉はなぜ行って事に赴かれないのかと言った。
  • 夏全は喜んで兵を率いてまっすぐ楚城に入った。時青も淮陰から入って城内に駐屯した。琸は驚き恐れたが、勢いとして退けられず、改めて二人に謀った。当時、李全はすでに死んだと伝えられ、李福が兵を分けて青州へ赴こうとしていた。琸は夏全に兵を楚城に盛んに並べさせ、李全の党は震え恐れた。
  • 李全の妻の楊氏は人を遣って夏全と和を通じ、将軍も山東から帰属した身ではないか、狐が死ねば兎が悲しむ、李氏が滅んで夏氏だけ存せようか、どうか目をかけていただきたいと言わせた。全は承知した。楊氏は盛装して迎えに出、ともに営塁を見回って、人は三哥が死んだと伝えている、自分は一介の婦人でどうして自立できよう、これからは太尉に夫として仕える、子女玉帛も干戈も倉廩もみな太尉のものだ、どうか引き受けてほしい、多くは言わないと言った。夏全は心を動かされ、酒宴を設けて大いに歓び、酔って寝所に就くこと我が家のようで、仇を転じて好となり、逆に福と謀って琸を逐うことにした。
  • そこで楚州の役所を囲み、官民の家を焼き、蔵を守る吏を殺して貨物を奪った。当時、琸の精兵はなお一万いたが、窮して一つの令も発せられず、嘆息するばかりだった。夜半、琸は縄で城を下りてかろうじて身一つで免れた。鎮江の軍は賊と戦って大半が死に、将校の多くも死に、器甲と銭穀はすべて賊のものとなった。琸は歩いて揚州に至り、兵を借りて自らを守った。
  • 夏全は琸を逐ってから夕に李全の陣営に帰ったが、楊氏は拒んだ。全は楊氏に図られることを恐れ、そこで大いに掠めて盱眙へ向かい乱を起こそうとした。盱眙の将の張恵と范成進が城門を閉ざしたので、夏全は入れず、狼狽して金に降った。朝廷はこれを聞いて大いに恐れた。琸は自ら弾劾し、まもなく死んだ。

宝慶三年春正月(1227年)

  • 姚翀を淮東制置使とした。朝廷は翀がかつて李全と親しく交わっていたので命じた。翀が朝廷に暇乞いすると、帝は、南も北もみな我が赤子だ、どうして彼此を分けよう、卿は朕のためにこれを撫定せよと語った。
  • 翀は楚城の東に舟を寄せて事を執り、折を見て入城して李全の妻の楊氏に会い、徐晞稷の故事に依ってそれ以上の礼を尽くした。楊氏は翀の入城を許し、翀は入って僧寺に仮住まいして意を尽くして楊氏を娯しませた。

宝慶三年三月(1227年)

  • 趙范が史弥遠に上書して述べた。淮東の事は日ごとに変わっている。しかし淮があれば江があり、淮がなければ長江以北の入り江や葦の茂る所から敵はみな密かに軍を渡せる。江面数千里をどこから防ぐのか。 今、ある者は言葉を低くし恵みを厚くすれば賊を釣れると言うが、彼の兵を留める計に陥ることを知らない。ある者は兵を収めて退屯すれば賊を緩められると言うが、彼の深入りの謀を成すことを知らない。ある者は清野して城に拠ろうとし、ある者は烏合の衆を集めてやみくもに戦おうとする。ある者は賊の言葉が順になったり逆らったりするのに喜び懼れ、ある者は賊の兵が進んだり退いたりするのに寛いだり張り詰めたりする。みな失策である。策を失えば淮を失い、淮を失えば江を失う。その失は悔いても及ばない。 そもそも敵を遏める兵、遊撃の兵、討賊の兵がある。今、宝応は山陽に迫り、天長は盱眙に迫る。それぞれ守備兵一万を増し、良将を遣って統べさせ、賊が来れば壁を堅くしてその鋒を挫き、来なければ武を耀かしてその境を圧し、さらに隙をうかがって時に分遣隊を遣って不備を衝き、敢えて戦う姿勢を示す。そうすれば深入りしたくとも我らが虚を衝くのを畏れる。これが敵を遏める兵だ。 盱眙の賊はもともと蓄えがなく、金人にも養う力がない。兵を分けて掠奪して食うしかない。精兵を量って出し、勇ある校尉に授け、土豪を募って奇を出し伏を設けて討ち殺す。これが遊撃の兵だ。 揚州・金陵・合肥にそれぞれ二、三万を集め、人物は必ず精しく、将校は必ず勇み、器械は必ず鋭く、教練は必ず熟し、紀律は必ず厳しく、賞罰は必ず公平にし、その心術と思慮において人ごとに上に親しみ長のために死ぬことを思わせる。まことにこれを行えれば、半年で国を強くでき、一年で賊を討てる。 賊はもはや深入りできず掠奪しても得るところなく、しかも討たれる恐れを抱けば、必ず翻って金に養いを求める。金に余力はない。そうなれば必ず怨み怒る。我らはそこで禍を金人に嫁せる。 ある者は、揚州に重兵を屯すれば賊の禍を早めると言うが、そうではない。揚州は国の北門で、一つには淮を統べ、一つには江を蔽い、一つには運河を守る。どうして備えなしでいられよう。善く守る者には敵が攻めどころを知らない。今、宝応と天長の二屯を設けてその要衝を扼し、さらに二、三の帥府を重ねて軍勢を張れば、賊は攻めどころが分からず、どうして我が揚州を犯せよう。かりに賊が兵勢を知らずに揚州を犯すなら、それは死に来るようなものだ――と。朝廷はそこで范を召して議に加えたが、また知池州とした。

宝慶三年五月(1227年)

  • 李全が青州を挙げて蒙古に降った。全は囲まれて一年、牛馬と人を食い尽くし、今にも自分の軍を食おうとしていた。全は降ろうとしたが衆の異論を恐れ、香を焚いて南に向かって再拝し、自ら縊れようとした。すると党の鄭衍德と田四が救って、譬えば衣を作るのに身頃があるのに袖がないのを愁えるようなものだ、今、北に帰るのも福でないとは限らないと言った。全はそこで蒙古に降った。
  • 劉慶福は山陽にあって、自分が禍の元凶だと自覚して不安になり、李福を図って朝廷に罪を贖おうとした。李福もこれを知って慶福を殺す謀を立て、二人は互いに猜疑して顔を合わせなくなった。ある日、李福が病と偽って十日余り出て来なかった。慶福が見舞いに行くと、李福は躍り起きて刀を抜いて慶福を傷つけた。慶福は逃げたが、左右が殺した。李福は慶福の首を姚翀に納れ、翀は大いに喜んだ。幕客の杜来は、慶福は禍の元凶で一世の奸雄だ、その首が書生の手に落ちるとはと言った。
  • 当時、楚州は夏全の乱以来、蓄えが残らず、綱運も続かなかった。賊の党は騒然として福のせいだと言った。福は衆口を畏れ、たびたび翀に会って督促したが、翀は朝廷の支給がまだ下りないと詫びた。

宝慶三年六月(1227年)

  • 李福は衆の怒りに乗じ、李全の妻の楊氏と謀って翀を飲みに招いた。翀が来ても楊氏は出て来ず、賓客の席に着いた。左右が散じると、福は自分の命で幕客たちを召し、楊氏の命として翀の二人の妾を召した。幕客たちは変事を察したが、やむなく赴いた。杜来が八字橋まで来たところで福の兵が腰斬にした。福の兵は翀も害そうとしたが、鄭衍德が救って免れ、鬚と鬢を剃り落とし縄で城を下りて夜に逃げ、明州に帰って死んだ。
  • 朝廷は淮の乱が相次ぎ、帥を遣れば必ず斃れることから、しばらく淮を軽くして江を重くしようとし、楚州には二度と制置府を置かず、その帥の楊紹雲に制置を兼ねさせ、楚州を淮安軍と改め、通判の張国明に権守させた。羈縻州のような扱いだった。

宝慶三年秋七月(1227年)

  • 張林らが淮安に帰属して李福を討って斬った。もと李全の党は軍を養う銭糧が続かないことにたびたび怨言を漏らしていた。全の将の国安用と閻通は嘆じて、我らは米のほかに日に銅銭二百を受け、楚州は物が安いから楽に暮らせるのに、劉慶福が悪事をなし怨みと仇が重なって、我らに衣食のあてがなくなったと言った。
  • 当時、張林と邢德も楚にあり、自らかつて朝廷の恩を受けながら全の離間で二心を抱くことになった、今ここに帰した以上、朝廷のために事を立てずにいられようかと言った。王義深はかつて全に辱められ、しかも自分はもと賈帥の帳前の人で彭義斌とともに義を挙げて成らず帰した身だと言った。五人は語り合って、朝廷が銭糧を下さないのは叛く者がまだ除かれていないからだと言い、そこで李福と全の妻の楊氏を殺して献じることを議した。衆を率いて楊氏の家へ趨り、福が逃げ出したところを邢德が手ずから斬った。殺し合った者は数百人。郭統制という者が全の次子の李通と全の妾の劉氏を殺し、偽って楊氏だと称してその首と福の首を楊紹雲に献じた。紹雲は馳せて臨安へ送り、朝廷は挙って喜んだ。

宝慶三年八月(1227年)

  • 知盱眙軍の彭𤩽および総管の張恵・范成進・時青に檄して兵を合わせて楚州へ行かせ、便宜に従って李全の残党をすべて誅させた。𤩽は軽薄で恵らに服されておらず、檄を得ても自ら決せず、制置府と朝廷に処置を請うた。朝議は時青の望が重いとして青に檄して処置させた。青は禍が及ぶことを恐れ、密かに人を遣って青州の全に報せ、ぐずぐずして決しなかった。恵と成進は朝廷の檄がもっぱら青に委ねて自分たちに及ばないことから、盱眙に帰り、宴を設けて𤩽を招き、酔ったところを縛って淮を渡り、盱眙を挙げて金に降った。
  • 李全は時青の報せを得て慟哭し、蒙古の大将に力めて南へ帰ることを願ったが、許されなかった。全はそこで指を一本切って示し、南に帰れば必ず蒙古に叛くことはないと誓った。蒙古の大将はそこで制を承けて全に山東淮南行省を授け、山東を専制させ、毎年、金幣を献じさせた。
  • 全はそのまま蒙古の張宣差と通事数人を連れて楚州に戻った。蒙古の衣冠を着け、文書には干支を記して年号を用いなかった。楊紹雲はその到来を聞いて揚州に留まって戻らなかった。王義深は金へ逃げ、国安用は張林と邢德を殺して自ら罪を贖い、郭統制も全に殺された。

宝慶三年十二月(1227年)

  • 金が李全を淮南王に封じたが、全は受けなかった。時に全が亀山で完顔額爾克を破ったからである。
  • 李全が時青を誘って殺し、その衆を併せた。

紹定三年二月(1230年)

  • 趙范と趙葵を喪中から起用して鎮江・滁州の軍馬を節制させた。

紹定三年五月(1230年)

  • 李全を彰化・保康節度使、京東鎮撫使としたが、全は命を受けなかった。
  • もと全は楚に戻ってから手厚く人を募って兵とし、南北を問わなかった。天長の民は保聚して十六の砦をなしていたが、近年、生業を失って官の賑給も続かず、壮健な者はみな募りに応じた。射陽湖の水上生活者数万家は家ごとに武器を持ち、侵し掠めて制しがたく、その豪族の周安民・谷汝礪・王十五が長となり、やはり水砦を結んで成り行きを見ていた。
  • 全は東南が舟に利があると知って水戦を習わせることを謀り、米商人が来ると舟ごと買い上げ、その舵取りを留めて一人が十人に教えさせた。また人を遣って江湖で桐油と粘りのある筏材を買い、南の職人を募って大船を大いに造らせ、淮口から海まで相望むほどにし、たびたび射陽湖と外海で舟を試した。さらに糧が少ないことを口実に海船を蘇州洋から平江・嘉興へ入らせた。実は海道に習熟して都のあたりをうかがおうとしたのである。
  • ただ山東の経営がまだ定まらず、蒙古への歳貢を欠かせないので、表向きは恭順にした。朝廷から銭糧を受け、それで貨を買って蒙古に納めた。朝廷もまた、全が山東を往来することで北を顧みる憂いが少し寛ぐと考え、糧を絶えず送った。全はそこで朝廷に遊説の者を放ち、改めて山陽に制置府を建てることを請い、また使者を金に遣った。
  • あわせて朝廷の軍備を削ごうとして軍士の穆椿を密かに京師へ潜入させ、皇城で火を放って御前の軍器庫を焼かせた。こうして先朝の兵甲はすべて失われた。
  • 全はまず揚州を押さえて渡江し、兵を分けて通州・泰州を巡って海へ趨ろうとした。配下はみな、通州・泰州には塩場がある、まず取って財源とし、あわせて朝廷に塩の利を失わせるほうがよいと言った。全は朝廷に備えさせず、しかも叛いても急には支給を絶たれないようにしようとして、蒙古の李宣差・宋宣差を連れて虚勢で脅した。だが蒙古は実際には全に兵を出しておらず、その李宣差というのも青州の薬売りだった。朝廷はその姦を知りながら、しばらくその場しのぎで詰問しなかった。
  • 全が麦を売る舟が塩城を通ったとき、知揚州の翟朝宗が尉の兵をそそのかして奪わせた。全は怒り、盗賊捕縛を名目に水陸数万でまっすぐ塩城を衝いた。戍将の陳益、樓彊、知県の陳遇はみな逃げ、全は入城して拠った。朝廷は慌てて幹官の王節を遣って全に退軍を懇請したが、全は許さず、鄭祥と董友を留めて塩城を守らせ、自ら兵を率いて楚州に戻り、朝廷に、兵を遣って盗賊を捕らえるのに塩城を通ったところ、県令が自ら城を棄てて逃げた、軍民が驚き騒ぐことを慮ってやむなく入城して衆を安んじたと申し立てた。
  • 朝廷はそこで全に節鉞を授けて兵を解くよう命じ、制置司の幹官を遣って諭させた。全は、朝廷は自分を小児のように扱う、泣けば果物をくれるのだと言い、制命を受けなかった。朝廷は朝宗を罷めて通判の趙敬夫に州事を代行させた。
  • それ以前、士大夫は賢愚を問わずみな李全が必ず叛くと見ていたが、あえて言わなかった。国子監丞の度正だけが上疏して極言し、あわせて全を斃す策を三つ献じた。その言葉は率直で激切だったが、当時は用いられなかった。ここに至って趙范と趙葵は全が必ず叛くことを深く憂え、たびたび疏で力説したが、史弥遠は容れなかった。

紹定三年冬十月(1230年)

  • 趙善湘を江淮制置使とした。当時、李全は舟の建造をいっそう急ぎ、墓を暴いて粘板を取り、鉄銭を鋳潰して釘とし、囚人の脂を煮て油灰に搗き、松明を並べて夜を継ぎ、沿海の亡命者を招いて水手とした。また趙敬夫を蒙古のことにかこつけて欺き、五千人分の銭糧の増額を求め、誓書と鉄券を求めた。朝廷はなお糧を絶えず送り、全は米を得るとそのまま淮海へ転送し、塩城に入れてその衆を養った。他の軍士は見て、朝廷は賊が飽きないことだけを恐れている、我らはどう力を尽くして賊を殺すのかと言い、射陽湖の人はみな怨んで、賊を養って民を害するという言葉さえあった。聞く者は嘆息せずにいなかった。全はさらに人を遣って金牌で周安民らを誘い脅し、喩口に浮橋を造らせて塩城との往来を便にした。
  • 当時、史弥遠は休みがちで、他の執政も気に留めなかった。ただ鄭清之が深く憂え、力めて帝に全の討伐を勧めた。帝はそこで趙善湘に江淮を制置させ便宜に従うことを許した。それでもなお、内には進討を図りつつ外では調停するという説があり、ただ趙范・趙葵の兄弟だけが進兵して討つことを力めて請うた。

紹定三年十二月(1230年)

  • 庚申、李全が突然、揚州の湾頭に至った。揚州副都統の丁勝が防ぎ、全はそこで城の南門を攻めた。趙敬夫は史弥遠の書を得て、一万五千人分の糧を増すことを許し、全に楚州へ帰るよう勧めた。すぐ劉易を遣って全の塁に届けさせると、全は笑って、史丞相は自分に帰れと勧め、丁都統は自分と戦う、欺いているのではないかと言い、書を投げ捨てて受けなかった。
  • 敬夫は恐れ、急ぎ趙范を鎮江から迎えた。范も日を刻んで葵と約し、葵は雄勝・寧淮・武定・強勇の四軍一万四千を率いて赴いた。
  • 当時、全は兵を率いて泰州を攻め、知州の宋済は迎えて降り、全は郡の役所に入って坐し、その子女と貨幣をすべて収め、揚州へ向かおうとした。范と葵がすでに揚州に入ったと聞くと、鄭衍德を鞭打って、自分の計はまず揚州を取って渡江することだったのに、お前たちが通州・泰州を取れと勧めた、今、二趙がもう揚州に入った、江を渡れようかと言った。まもなく、今はただ揚州を直撃するのみだと言い、兵を分けて泰州を守らせ、全軍で揚州を攻めた。
  • 湾頭に至って砦を立て、運河の要衝を押さえ、胡義に先鋒を率いて平山堂に至らせ、三城の機会をうかがわせた。全が東門を攻めると、葵は自ら搏った。全の将の張友が城門に呼ばわって葵に出るよう請うた。葵が出て、全と濠を隔てて馬を並べて互いに労い、全に何しに来たのかと問うた。全は、朝廷は動くたびに猜疑する、今また自分の糧餉を絶った、自分は背叛するのではなく銭糧を求めるだけだと言った。葵は、朝廷はお前を忠臣孝子として遇したのに、お前は戈を返して城邑を攻め陥れた、朝廷がどうしてお前の糧餉を絶たずにいられよう、叛いていないと言うのは人を欺くのか天を欺くのかと言った。全は答えられず、弓を引いて矢を抜き、葵に向けて去った。
  • これ以来たびたび戦い、全の兵は多く敗れた。全はいつも、自分は淮上の州県は要らない、江を渡り海を浮かんでまっすぐ蘇州・杭州に至る、誰が当たれようかと言った。しかし全は揚州の三城を呑む志がありながら、兵は城下に迫れなかった。宗雄武が策を献じて、城中にはもとより薪がなく、しかも蓄えは総領所が借り出してほとんど尽きている、長い囲みを築けば三城は自ずと困窮すると言った。
  • 全はそこで全軍と駆り集めた郷の農民、合わせて数十万で砦を並べて三城を囲んだ。制置司と総領所の糧も援けもともに絶えた。范と葵は三城の諸門からそれぞれ兵を出して砦を襲わせ、火を挙げて合図とし、夜半に兵を放って衝撃し、賊を多く殲滅した。これ以来、全はひたすら長囲で持久して官軍を困らせ、二度と城に迫らなくなった。
  • 全は平山堂に蓋を張り楽を奏させて囲いの築造を差配した。范は諸門から軽兵で牽制させ、自ら将士を率いて堡砦の西へ出て攻めた。全は兵を諸門に分けて激戦し、辰から未まで殺傷は相当し、官兵の王青が力戦して死んだ。翌日、范が出師して大いに戦い、全の糧船数十艘を得、葵もまた力戦して破った。

紹定四年春正月(1231年)

  • 壬寅、趙范と趙葵が揚州で李全を大破した。当時、全は城を囲む塹を深くしていた。范と葵は諸将を揚州の東門から出して襲わせた。全は城に走り登り、官軍が追って踏み合い溺れる者が多かった。
  • 范が西門に陣を敷くと、賊は塁を閉ざして出なかった。葵は、賊は我らが兵を収めるのを待って出るつもりだと言い、騎兵を垣の間に伏せ、歩兵を収めて誘った。賊兵数千が果たして濠のそばへ趨り、李虎が力戦した。城上から矢石が雨のように注ぎ、賊は退いた。ほどなく賊の別隊が東北から駆けつけた。范と葵は歩騎を指揮して浮橋と吊橋を挟んで並び出、三重の陣を敷いて待ち、巳から未まで賊と大いに戦った。別に李虎らに馬歩五百で賊の背後に出させ、葵は軽兵で横から衝いた。三道から挟撃し、賊は敗走した。
  • もと全の反謀はすでに成っていたが、憚るところが多く、しかもその党が順わないことを恐れていた。ところが辺境で事を好む者が全を担いで重んじようとして後押ししたので、全はついに反を決した。趙善湘・趙范・趙葵が事に当たり、罪を鳴らして討ち、銭糧の支給を罷め、城は攻めても落ちず、戦っても不利になると、全は初めて大いに悔い、鬱々として楽しまなかった。あるとき左右にその腕を抱かせて、これは自分の手かと言い、人はみな怪しんだ。
  • 范と葵は夜、翌朝どこへ向かうかを議した。葵は東門から出ると言い、范は、西へ出るのはいつも不利だから賊は必ず侮る、その侮るところに因って図れば必ず勝つ、堡砦へ出て西門を塞ぐに越したことはないと言った。全は平山堂で酒宴を張っていた。堡砦の物見の兵が、全の槍に二筋の払いが垂れているのを目印と識って范に告げた。范は喜んで葵に、この賊は勇にして軽い、本当に出てくれば必ず捕らえられると言った。
  • そこで精鋭数千を挙げて西へ向かい、官軍のうちかねて賊に侮られていた者の旗を掲げて偽装した。全は望み見て喜び、李・宋の二宣差に、我が南軍を掃くのを見よと言った。官軍は賊が突進してくるのを見て前へ出たが、それが全だとは知らなかった。范が兵を指揮して並び進み、葵が自ら搏戦すると、諸軍は争って奮った。賊は初めて先日の軍ではないと疑い、土城に逃げ込もうとしたが、李虎の軍がすでにその甕門を塞いでいた。
  • 全は窮して数十騎で北へ走った。葵は諸将を率いて制勇・寧淮の二軍で追い迫った。全は新塘へ向かったが、自ら決壊させた水の後で泥は数尺の深さだった。折しも晴れが続いて浮いた戦塵が乾いた土のように見え、全の騎はそこを通ってみな泥に落ちて抜け出せなかった。制勇軍が追いつき、長槍三十余で乱れ突いた。全は、自分を殺すな、自分は頭目だと叫んだが、兵たちはその屍を砕き、鞍馬と器甲を分け、あわせて三十余人を殺した。みな将校だった。
  • 全が死ぬと残党は潰えようとした。国安用は従わず、一人を首領に推そうと議したが、誰も互いに譲らず、淮安に戻って全の妻の楊氏を奉じようとした。范と葵が追撃して大破し、そこで散り去った。范は揚州に戻った。
  • 捷報が届くと、趙善湘に江淮制置大使、范に淮東安撫使、葵に淮東提刑を加えた。善湘の末子の趙汝楳は史弥遠の婿で、奏請が阻まれず、しかも善湘も范と葵の進取に方があるのを見て懇ろに慰め労ったので、功を成せた。

紹定四年五月(1231年)

  • 趙范と趙葵がまた歩騎十万を率いて塩城を攻め、たびたび賊の衆を破り、そのまま淮安城に迫って賊を万を数えて殺し、二千余家を焼いた。城中の哭する声は天を震わせた。淮安の五城はみな破れ、数千の首を斬り、砦柵一万余家を焼いた。淮北の賊が救援に来ると、水軍がまた討ち撃ってその水柵を焼き、五城の残る址を平らげ、賊は初めて恐れた。
  • 王旻・趙必勝・全子才らが砦を西門へ移して賊と大いに戦い、また破った。全の妻の楊氏は鄭衍德に、二十年の梨花槍は天下に敵手なしだったが、今は事勢すでに去って支えられない、お前たちがまだ降らないのは自分がいるからだと言い、そのまま淮を渡って去った。その党はただちに馮垍らを遣って軍門に降を納れ、趙范は許した。淮安は平定された。