宋史紀事本末隆興の和議(隆興和議)

紹興三十二年(1162年)の孝宗即位から乾道六年(1170年)の范成大の使いまでの九年間。張浚が都督となって恢復を図り、李顕忠・邵宏淵が霊璧・虹県・宿州を回復したが、二将の不和から符離で大潰し、湯思退ら和議派が台頭した。胡銓・張闡・王十朋・陳俊卿らの反対を押して四州を割き、金軍の再侵を招いたのち、魏杞の使いで叔姪の国とし歳幣を十万減じる和議が成った。范成大は書を受ける礼を正そうとして果たせなかった。

年表(26件)

高宗紹興三十二年六月(1162年)

  • 帝が太子に位を伝え、太子が即位した。

紹興三十二年七月(1162年)

  • 帝は手書で張浚を召して謁見させた。浚が着くと帝は顔を改め、長らく公の名を聞いていた、今、朝廷の頼みは公だけだと言い、坐を賜った。浚は落ち着いて、人主の学は心を本とする、一心が天に合えば何事も成る、天とは天下の公理にほかならない、必ず戦々兢々と自らを持し、清明が身に備われば、賞罰も措置もすべて当を得て人心は自ずと帰し、仇敵にも報いられると述べた。帝は粛然として、公の言を忘れないと言い、浚に少傅・魏国公を加え、江淮を宣撫させた。
  • 浚は帝が英武なのを見て和議の非を力説し、意を堅くして恢復を図るよう勧め、水軍を海路から山東へ突入させ、諸将に出師させて犄角の勢いで中原へ向かわせようとした。翰林学士の史浩は潜邸以来の旧臣で、当時は枢密と議して采石と瓜洲に城を築こうとした。浚は、両淮を守らず長江の岸を守るのは敵に弱みを示し戦守の気を怠らせるものだ、まず泗州に城を築くほうがよいと述べた。浩は不快になり、以後、隙ができ、浚の立てる計画を浩はしばしば妨げた。

紹興三十二年十一月(1162年)

  • 金が布薩忠義を都元帥、赫舎哩志寧をその副とした。当時、金主は朝廷が敵国としての礼を正そうとしていると知り、忠義に詔して軍事を統べさせ南京に置いて諸軍を節制させ、あわせて志寧に淮陽へ駐軍させた。忠義が出発するとき金主は、宋が侵した領土を返し貢の礼を旧のようにするなら兵を罷めてよいと諭した。忠義は汴に至って士卒を検閲し、要害に分屯させた。

孝宗隆興元年春正月(1163年)

  • 庚子、張浚を枢密使・都督江淮東西路軍馬とし、建康に府を開かせた。浚は陳俊卿を江淮宣撫判官に薦めた。それ以前、帝は俊卿と浚の子の張栻を行在に召した。浚は上奏を託し、帝が建康に行幸して中原の心を動かし、淮のほとりで用兵して呉璘の後押しとされるよう請うた。帝は俊卿に会って浚の動静・飲食・顔色を問い、朕は魏公を長城のように頼りにしている、浮説で揺るがせはしないと述べた。
  • 浚が江淮に府を開くと、参佐はみな当代一の人選だった。栻は若年ながら内では密謀を助け外では庶務に参与し、その統轄ぶりに幕府の面々はみな及ばないと思った。入って奏事したとき栻は、陛下は上には祖宗の讐と恥を念い、下には中原の塗炭を憫れみ、心に痛みを覚えて振るい起こそうと思っておられる、この心の発するところこそ天理の存するところだ、いっそう省察を加え、古に稽え賢に親しんで自らを輔け、少しも息ませないでいただければ、今日の功はただちに成せると述べた。帝は嘉して容れた。

隆興元年三月(1163年)

  • 壬辰、金の帥の赫舎哩志寧が書を送り、海州・泗州・唐州・鄧州・商州の地と歳幣を求めてきた。それ以前、金人十万が河南に駐屯して両淮を取ると言い触らし、朝廷は震え恐れ、張浚は大兵を盱眙・泗州・濠州・廬州に置いて備えることを請うた。ここに至って志寧は浚に書を送り、万事を皇統以来の旧約どおりにせよ、さもなければ兵を会して相見えたいと述べ、あわせて富察棟摩・大周仁を虹県に、蕭琦を霊璧に駐屯させ、糧を蓄え城を修めて南攻の計を立てた。

隆興元年夏四月(1163年)

  • 戊辰、張浚が命を受けて拝謁した。帝は恢復に意を鋭くしており、浚はその日のうちに詔を下して建康へ行幸されるよう請うた。帝が史浩に問うと、浩は、まず守りを備えるのが良い方策だ、戦を議するか和を議するかは向こうにあってこちらにはない、もし浅慮の士の言を聴いて訓練もされていない師をたびたび興せば、敵が退けば賞を論じて功を求め、敵が来れば兵を収めて姿を隠す、一時の快を取って万世に冤を残すと答えた。退いてからは浚を詰り、帝王の兵は万全から出るべきで、どうして試しに動かして僥倖を図れようかと言い、さらに殿上で弁論した。
  • 浚は内に召されて奏し、浩の意は変えられそうにない、機会を失うことを恐れる、しかも金人は秋になれば必ず辺境の患いとなる、動く前に攻めるべきだと述べた。帝はその言を是とし、そこで出師して淮を渡ることを議した。三省と枢密院はこれに与らなかった。折しも李顕忠と邵宏淵も虹県と霊璧を衝く策を献じたので、帝はまず二城を図るよう命じ、浚は顕忠を濠州から霊璧へ、宏淵を泗州から虹県へ向かわせた。

隆興元年五月(1163年)

  • 甲辰、李顕忠と邵宏淵が宿州で金人を破った。
  • 乙巳、史浩が罷められた。省中で突然、邵宏淵の出兵の文書を見て、初めて三省を経ずに直接、諸将に檄したことを知った。浩は陳康伯に、我らはともに枢密を兼ねているのに出兵に与れない、宰相が何の役に立つ、去らずに何を待とうかと言った。入対して、陳康伯が帰順者を受け入れようとしているが、いずれ子孫の憂いとなろう、張浚が意を鋭くして兵を用いており、ひとたび失えば陛下は二度と中原を望めなくなると奏し、そのうえで強く辞任を請うた。
  • 王十朋が浩の八つの罪を論じた。姦を懐いて国を誤り、党を植えて権を盗み、言を忌み賢を蔽い、君を欺き上を謗ったというものだった。帝は浩を知紹興府として出し、十朋が重ねて論じたので祠禄を与えた。
  • 李顕忠は濠梁から淮を渡って陡溝に至った。金の右翼都統の蕭琦が拐子馬で防いだが、顕忠は力戦して破り、霊璧を回復した。顕忠は入城して德意を宣布し、一人も殺さなかったので、中原から帰属する者が相次いだ。
  • 宏淵は虹県を囲んだが長く落とせなかった。顕忠が霊璧の降兵を遣って禍福を諭させると、金の守将の富察棟摩と大周仁はみな出て降った。宏淵は功が自分から出なかったことを恥じた。折しも降った千戸が、宏淵の兵に佩刀を奪われたと訴え、顕忠はその場でその兵を斬った。これによって二将は協調しなくなった。まもなく蕭琦も顕忠に降った。
  • 丙午、李顕忠の兵が宿州の城に迫った。金人が防ぎに来たが、顕忠はその衆を大敗させ、二十余里追撃した。邵宏淵は着いて顕忠に、招撫はまことに関西の将軍だと言った。顕忠が営を閉ざして士を休ませ攻城の計を立てようとすると、宏淵らは従わなかった。顕忠は麾下の楊椿を率いて城に登り北門を開き、時を移さずその城を抜いた。宏淵らは後ろに控えて後から駆けつけ、初めて濠を渡って城に登った。城中で市街戦となり、続けて数千人を斬り、八千余人を捕らえて宿州を回復し、中原は震動した。
  • 捷報が届くと、帝は手書で張浚を労い、近ごろの辺報に中外は沸き立っている、十年来これほどの勝利はなかったと述べた。
  • まもなく宏淵が倉庫を開いて兵を労おうとしたが、顕忠は許さず、軍を城外に移し、手持ちの銭だけで士を労った。士はみな不満だった。詔して顕忠を淮南京東河北招討使、宏淵をその副とした。
  • 癸丑、金の赫舎哩志寧が睢陽から兵を率いて宿州を攻めたが、李顕忠が撃退した。金の巴薩がさらに汴から歩騎十万を率いて宿州を攻め、朝に城下に迫って大陣を敷いた。顕忠は宏淵に力を合わせて挟撃しようと言ったが、宏淵は兵を按じて動かなかった。顕忠は独り部隊で力戦した。まもなく敵が大挙して至ると、顕忠は克敵弓で射て退けた。
  • 宏淵は衆を顧みて、この盛夏に扇を使って涼んでいても堪えがたいのに、まして烈日に甲を着けて苦戦できるかと言った。人心はこれで揺らぎ、闘志を失った。夜に中軍統制の周宏が鼓を鳴らして大騒ぎし、敵兵が来たと偽って、邵世雍・劉侁とともにそれぞれ部隊を率いて逃げ、続いて統制の左師淵と統領の李彦孚も逃げた。顕忠が軍を城内に移すと、統制の張訓通・張師顔・荔沢・張淵らも顕忠と宏淵の不和を見てそれぞれ逃げ去った。
  • 金人が虚に乗じてまた城を攻めた。顕忠は力を尽くして防ぎ、二千余の首を斬った。屍と牛馬が積み上がって城壁と同じ高さになった。城の東北の角では敵兵二十余人がすでに百余歩まで登ったが、顕忠は兵の持つ斧を取って斬りかかり、敵はようやく退いた。顕忠は嘆いて、諸軍が犄角の勢いで城外から襲えば敵兵は殲滅でき敵帥も捕らえられ、河南の地は日を指して回復できたのに、と言った。
  • 宏淵はさらに、金は新手二十万を加えて来る、我が兵が戻らなければ不測の変が生じかねないと言った。顕忠は宏淵に固く守る志がなく、孤立しては勢いを保てないと知り、天はまだ中原を平らげるつもりがないのか、なぜこうも妨げられるのかと嘆き、夜のうちに軍を引き揚げた。甲寅、符離に至って軍は大潰した。この一挙で軍資と器械をほぼすべて失った。幸い金は再び南下しなかった。
  • 当時、張浚は盱眙にいた。顕忠は会いに来て印を返し罪を待った。浚は劉宝を鎮江諸軍都統制とし、淮を渡って泗州に入り将士を撫し、揚州に戻って上疏して自らを弾劾した。
  • 乙卯、詔を下して親征することとした。
  • 癸亥、張浚が致仕を願い出た。もと宿州の軍が退いたとき、和を主張する士大夫はみな浚の非を論じた。帝は浚に書を賜り、今日の辺事は卿を重んじて頼りにしている、卿は人の言を畏れてためらってはならない、先日、事を起こした初めに朕は卿とともに任じた、今日もまた卿とともに終えねばならないと述べた。
  • 浚はそこで魏勝に海州、陳敏に泗州、戚方に濠州、郭振に六合を守らせ、高郵と巣県の二城を整えて大勢を成し、滁州の関山を修めて敵の要衝を扼し、水軍を淮陰に、馬軍を寿春に集め、両淮の守備を大いに整えた。
  • 帝が浚の子の栻を召して奏事させたとき、浚は奏を託して、古来、事を為す君主には心腹の臣があって謀を合わせ志を同じくして治功を成した、今、自分は孤立して動けば掣肘される、陛下はどうして自分を用いられようかと述べ、そのうえで骸骨を乞うた。帝は奏を読んで栻に、朕は魏公をひときわ厚遇している、辞任の章が日々上がっても朕は決して許さないと述べた。帝は近臣に対して必ず「魏公」と言い、その名を呼ばなかった。督府へ使者を遣るたびに必ず浚の飲食の量と肥せ具合を見て来させた。
  • ここに至って帝は符離の潰走を受けて講和を議し、湯思退を醴泉観使として朝請に列した。癸酉、詔を下して自らを責めた。そこで尹穡が湯思退に付いて張浚を弾劾し、浚は江淮東西路宣撫使に降され、邵宏淵は官階を降されたがそのまま建康都統制とされた。
  • 王十朋が上疏して述べた。臣はもともと浚と面識がないが、敵とともに生きないと誓ったと聞いて心から慕った。先に輪対の折、金は必ず盟を破ると述べ浚を用いるよう請うた。陛下は位を継いで浚に江淮の督師を命じられ、今、浚は将を遣って二県を取り、一月に三度勝った。みな陛下が浚を任じた難しさに服した。ところが王師がひとたび不利になるや横議が蜂起した。臣は、今日の師は祖宗の陵寝のため、二帝の讐を復すため、二百年の領土のため、万民の家と住まいを守るためのもので、前代の誇大に事を起こした者の比ではないと考える。いっそう内を修め時を待って動くべきだ。陛下の恢復の志は固く立っており、一度の敗北で群議に揺らぐことはない。だが異論が紛々として浚が罪を待つ以上、臣が風紀の職に留まってよいはずがない、処罰を賜りたい、と。あわせて、近ごろ龍大淵を淮南の撫諭に遣ろうとしていると聞くが本当かと問うと、上は、そんなことはないと答えた。また楊存中を御営使にしようとしていると聞くと言うと、上は黙った。十朋は吏部侍郎に改められ、さらに知饒州として出された。
  • 己卯、李顕忠の官を貶して筠州に安置した。

隆興元年八月(1163年)

  • 丙寅、陳俊卿は張浚が官を降されて任地を移されたことを受けて上疏した。浚を用いないなら別の賢将に委ねるべきだ、後日の働きを求めるなら官を降して罰を示すだけでよい。今、都督の重権を削って揚州という死地に置き、奏請があれば台諫が妨げるのでは、人心は解体する。どうして後の効を図れよう。論者はただ浚を憎んで殺そうとするばかりで、宗社のために計らない。詔を下して中外を戒め協力させ、浚に自ら働かせられたい、と。疏が入ると帝は悟り、ただちに浚を都督江淮軍馬に復した。浚はそこで劉宝を淮東招撫使とした。
  • 戊寅、金の赫舎哩志寧が改めて三省・枢密院に書を送り、海州・泗州・唐州・鄧州の地と歳幣を求め、臣と称して中原の帰順者を返せば兵を止める、さもなければ農閑期を待って戦うと述べた。帝はこれを張浚に渡した。浚は、金は強ければ来て弱ければ止まる、和するか否かによらないと述べた。
  • 湯思退は秦檜の党で和を急いだ。陳康伯・周葵らもみな上疏して、敵に和の意があるなら我が軍民は休息を得て自ら治める計を立て、中原の変を待って図れる、これが万全の計だと述べた。工部侍郎の張闡ひとりが、彼が和を欲するのは我らを畏れてか、我らを愛してか、ただ我らを足止めしたいだけだと述べ、六つの害を挙げて許すべきでないと力説した。帝は、朕の意も同じだ、しばらく宜しきに従って応じておこうと述べた。
  • 丙戌、盧仲賢に返書を持たせて金の軍へ遣り、海州・泗州・唐州・鄧州などの州は正隆が盟を破った後、本朝がまだ使者を遣る前に得たものであること、歳幣についてはもとより争わないが、両淮が疲弊した後なのでその額どおりにはできないかもしれないことを伝えさせた。仲賢が辞去するとき、帝は四郡を許すなと戒めたが、思退らは許すよう命じた。張浚は、仲賢は小人で妄言が多く委ねられないと奏したが、聴かれなかった。

隆興元年冬十月(1163年)

  • 戊午、廷臣に金の帥の言う四事を議させた。説は分かれた。帝は、四州の地と歳幣は許せるが、名分と帰順者は従えないと述べた。

隆興元年十一月(1163年)

  • 己丑、盧仲賢が宿州に至った。布薩忠義が威で脅すと、仲賢は恐れ入り、帰って命を仰ぐと答え、そのまま忠義が三省・枢密院に宛てた書を持ち帰って上申した。そこに定められた四事は、第一に書を通じて叔と甥と称すること、第二に唐州・鄧州・海州・泗州の四州を得ること、第三に歳幣の銀絹の額を旧のとおりにすること、第四に金の叛臣および帰順者を返すことだった。仲賢が帰ると帝は大いに悔いた。
  • 庚子、湯思退が奏して王之望を金国通問使、龍大淵をその副とし、四州を割いて棄てることを許して歳幣の半減を求めさせようとした。もと之望は都督府参賛軍事のとき、人主が兵を論じるのは臣下とは違い、ただ天意を承けるだけだ、天意を見るに南北の形勢はすでに定まって容易には兼ねられない、我らが淮を越えて北へ行けないのは、敵が江を越えて南へ来られないのと同じだ、攻戦の力を自守に移し、守りが固まってから機に随って変に応じ、利を択んで応じるほうがよい、と奏していた。思退はその言を喜んでこの人選を奏した。
  • 折しも右正言の陳良翰が、先に遣った使者はすでに命を辱めた、大臣が前の失を悔いずまた王之望を遣るのは、金が一兵も損なわずに四千里の要害の地を座して収めることになる、今は四郡を許すべきでなく、歳幣も陵寝を得てから初めて名目が立つ、議がまだ決まらないうちに之望が急ぎ発てば、その辱国は仲賢どころではない、まず一人を先に馳せさせ、議が決してから行っても遅くないと述べた。帝は同意した。
  • 癸丑、胡昉と楊由義を金国通問所審議官とした。張浚は金と和すべきでないと力説し、帝に建康へ行幸して進兵を図られたいと請うた。帝は手詔して王之望らに一行の礼物ともども引き返して国境で命を待たせ、胡昉らを先に遣って四州は割けない旨を金に諭させた。
  • 詔して和戎と遣使について廷臣に広く諮問した。侍従・台諫で議に加わった者は十四人。和を主張する者が半ば、可否を決めかねる者が半ばだった。胡銓ひとりが議を上げ、京師の失陥は汪伯彦・黄潜善が和を主張したことに始まり、完顔亮の変は秦檜が和を主張したことに始まる、論者は、外は和しても内では戦を忘れないと言うが、これは従来の権臣が国を誤った言葉だ、ひとたび和に溺れれば自ら振るえない、それでどうして戦えようかと述べた。
  • 陳康伯らは、金人が和を通じてきたので朝廷は盧仲賢を遣って返答した、その論じる最大のものは三事である、我らの望む旧礼の削除は彼も従うだろう、彼の望む歳幣の額どおりの支払いは我らも深くは争わない、決していないのは彼が四州を得ようとしている点で、我らは祖宗の陵寝と欽宗の梓宮を持ち出してまだ与えていない、張浚を召し還してとくに諮問し、あわせて侍従・台諫に合議させられたいと述べ、帝は従った。
  • 群臣の多くは金人の請いに従おうとしたが、張浚および虞允文・胡銓・閻安中が上疏して力争し、和すべきでないとした。湯思退は、みな利害が自分に切実でないのをよいことに大言して国を誤り美名を求めているだけだ、宗社の大事が芝居であってたまるかと言い、帝の意はついに定まった。
  • 浚は辺境にあって王之望が出発したと聞き、上疏してその失を力説した。秦檜が和を主張して密かに他心を抱き、ついに金の亮の禍を招いた。檜の大罪が朝廷で正されないまま、その党が再び出て悪をなしている。臣は、大事を立てる者は人心を本とすると聞く。今、内外の議がまだ決まらないうちに遣使の詔が下り、中原の将士と四海が傾け慕う心を失った。後日、誰が陛下のために命を尽くそう。人心はひとたび失えば覆った水のように収めがたい。まして天には順わず義には安んじない。ひそかに陛下のために憂える、と。聴かれなかった。

隆興二年春正月(1164年)

  • 丙午、金の帥の布薩忠義がまた書を送って和を議した。

隆興二年二月(1164年)

  • 胡昉が宿州から帰った。もと昉が金に至ると、金人は信を失ったとして拘えた。帝は昉が捕らえられたと聞き、張浚に、和議が成らないのは天だ、これで事は一つに帰すと語り、王之望に幣を持って戻るよう詔した。まもなく布薩忠義が書を金主に進めると、金主は読んで、使者に何の罪があるかと言い、ただちに返し、辺境の事は元帥府に宜しく処置させた。

隆興二年三月(1164年)

  • 丙戌、張浚に江淮で事に当たるよう詔し、金軍は退いた。もと湯思退は和議が成らないことを恐れ、宗社の大計を上皇に奏してから事を進めるよう請うた。帝は三省に批して、金がこれほど無礼なのに卿はなお和を議そうというのか、今日の事勢は秦檜の時とは違う、卿の議論は秦檜にも及ばないと示した。思退は大いに驚き、密かに浚を除く謀を立て、王之望らに駅から、兵は少なく糧は乏しく櫓も器械も未整備だと奏させ、あわせて四万の衆を委ねて泗州を守らせるのは誤りだと述べさせた。帝はこれに惑わされた。折しも戸部侍郎の銭端礼が、兵は凶器だ、符離の潰走を戒めとし、早く国是を決するのが社稷の至計だと述べたので、浚に江淮を巡視するよう詔した。
  • 当時、浚が招き寄せた山東・淮北の忠義の士は建康・鎮江の両軍を充実させ、合わせて一万二千人、万弩営が招いた淮南の壮士と江西の群盗もまた一万余で、陳敏がこれを統べて泗州を守った。要害の地にはすべて城堡を築き、水を利用して険とできる所にはみな水を溜めて堰とし、江淮の戦艦を増やし、諸軍の弓矢・器械はすべて備わった。金人は重兵を屯して虚勢を張り和を迫り、日を刻んで決戦すると言っていたが、浚がまた軍を視察すると聞くと急ぎ兵を撤して帰った。こうして淮北から帰属する者は日々絶えず、山東の豪傑はみな節度を受けたいと願った。浚は蕭琦が契丹の名族で沈勇にして謀があるとして、降った衆をすべて統べさせ、あわせて檄で契丹を諭して応援を約させた。金人はいっそう恐れた。
  • 丁亥、盧仲賢を貶し、枷をはめて彬州に送って編管した。張浚が子の栻を遣って、仲賢が国を辱めた不始末を奏した。帝は怒って大理に下し、四州を擅に許した罪を問い、三官を奪い、まもなく除名して彬州に流した。

隆興二年夏四月(1164年)

  • 丁丑、張浚を罷めて判福州とした。湯思退は右正言の尹穡をそそのかし、浚は跋扈しており国費も莫大だ、張深に泗州を守らせて趙廓の交代を受けさせなかったのは命に背くものだと論じさせ、さらに督府参議官の馮方を論じて罷めさせた。浚はそこで督府を解くことを請うた。詔して銭端礼と王之望に両淮を宣諭させ、浚を召し還した。端礼は入って奏し、両淮は守りに備えると言うが備わっておらず、兵を治めると言うが精しくないと述べた。浚を誹ったものである。
  • 浚は平江に留まり、八度も上疏して致仕を請うた。帝は浚の忠を察し、その去り際を全うさせようとして、少師・保信節度使・判福州とした。右司諫の陳良翰と侍御史の周操が、浚は忠勤で人望の帰するところ、都を去らせるべきでないと述べたが、いずれも連座して罷められた。

隆興二年秋七月(1164年)

  • 己巳、両淮の辺備を撤するよう命じた。湯思退は和好の成立を急ぎ、自ら辺備を撤し、寿春の築城をやめ、万弩営の兵を解散し、海船の修理を止め、水を溜めた堰を壊し、軍功の賞典を認めず、海州・泗州・唐州・鄧州の守備兵まで撤した。

隆興二年八月(1164年)

  • 胡銓が上疏して述べた。靖康から今日まで四十年、三度の大変があり、いずれも和議の折に起こった。金人と和せないことは明白だ。それなのに肉を食う俗物どもが万口一様に唱えて動かないのは、和議の害を知らないのではない。争って和を言う者には三つの理由がある。臆病で怠惰、その場しのぎ、付和雷同である。臆病で怠惰な者は国を立てることを知らず、その場しのぎの者は毒酒を戒めず、付和雷同する者は美官を狙う。小人の情はここに尽きている。 今日の議が成れば弔うべきことが十あり、成らなければ賀すべきことも十ある。陛下のために極言しよう。 弔うべき第一。真宗の代、宰相の李沆が王旦に、自分が死んだら公は必ず宰相になる、決して敵と講和するな、外に敵国や外患がなければ国は常に亡ぶと聞く、敵と和せば中国は必ず多事になると言った。旦は納得しなかったが、和が成って海内は疲弊し、旦は初めて文靖の言に従わなかったことを悔いた。 弔うべき第二。中原で帰りたいと嘆く人々は日夜首を伸ばして陛下が溺れる者を救い焼ける者を助けてくださるのを望んでいる。赤子が慈父母を望むどころではない。ひとたび敵と和せば中原は望みを絶つ。後悔しても及ばない。 弔うべき第三。海州・泗州は今日の垣であり喉である。彼が海州・泗州を得れば、我が垣を破って我が部屋をうかがい、我が喉を扼して我が命を制する。両淮は決して保てず、両淮を保てなければ大江は守れず、大江を守れなければ江浙は安んじられない。 弔うべき第四。紹興戊午に和議が成ると、檜は路允迪ら二、三の大臣を南京などの州へ分け遣って返還地を引き継がせた。ところが敵は一朝にして盟を破り允迪らを捕らえ、こちらは親征の詔を下した。すると敵はまた和を請うた。その反覆と変詐はこの通りなのに、檜はなお悟らず、初めのように奉じ、いっそう謹んで事え、いっそう厚く賄賂した。ついに不意の変が起こって都を驚かせ、太上は海へ入ろうと謀り、行朝の居民は空になった。覆った轍は遠くないのに、忽せにして戒めない。臣は後の車もまた覆ると恐れる。 弔うべき第五。紹興の和議では、まず帰順者は決して返さないと議した。ところが口の血も乾かぬうちに前議をすべて変え、帰順者を一切送り返した。陳師回・趙良嗣らは一族数百を集めて、あわや内輪の憂いとなるところだった。今また帰順者をことごとく求められる。与えれば動揺して変が生じ、与えなければ敵は決して黙るまい。動揺すれば肘腋の変は深く、敵が黙らなければ必ず別の釁端を起こし、突然の意外の謀が出る。何をもって備えるのか。 弔うべき第六。檜が国を執った二十年、民の膏血を絞り尽くして強敵に餌とした。今に至るまで府庫に十日分の蓄えもなく、千村万落は生計が寂れている。そこに蝗と水害が重なった。ここでまた和せば、国を蝕み民を害することはいっそう甚だしい。 弔うべき第七。今日の患いは兵費がすでに広いことだ。兵を養う以外に歳幣が加わる。試みに十年で計れば、その費用はおよそ数千億。歳幣の外に私的な贈答の費用があり、その外に賀正と生辰の使があり、その外にさらに臨時の使がある。一つの使が去らぬうちに次の使が来る。民は奔命に疲れ、国庫は送迎に涸れる。中国を痩せさせて敵を肥やす。陛下は何を憚ってこれをなさるのか。 弔うべき第八。伝え聞くに、敵の無礼な書は、御名を書かせ、国号の「大」の字を削らせ、再拝させようとしている。論者はこれを些末な形式で計るに足りないと言う。臣は、そう言う者こそ斬るべきだと考える。四郊に塁が多いのは卿大夫の恥であり、楚子が鼎を問うたのは義士の深く恥じるところだ。「献納」の二字は富弼が死を賭して争った。今、強敵が横行するのと塁が多いのと、どちらが辱めか。国号の大小と鼎の軽重と、どちらが重いか。「献納」の二字と再拝と、どちらが重いか。臣子が君父に身を屈して従わせようとするなら、塁が多くとも辱めではなく、鼎を問われても恥ではなく、献納も争うに及ばないことになる。 弔うべき第九。臣は、再拝がやまなければ必ず臣と称するに至り、称臣がやまなければ必ず降を請うに至り、降を請うことがやまなければ必ず土を納めるに至り、納土がやまなければ必ず璧を銜むに至り、銜璧がやまなければ必ず柩車を引くに至り、それがやまなければついに晋の帝が青衣で酒を注いだようになって、ようやく彼らの気が済むのだと恐れる。 弔うべき第十。事がここに至れば、匹夫となることさえ望めようか。 ひそかに今日の勢いを見るに、和は決して成らない。もし独断で使者の魏杞・康湑らを呼び戻し、和議を請うことを絶って戦士を鼓舞し、哀痛の詔を下して民心を収められれば、天下はまだ為すところがある。そうすれば賀すべきことも十ある。数千億の歳幣を省けるのが一。武備に専心して兵と食を足せるのが二。名を書く恥がないのが三。「大」の字を削られる辱めがないのが四。再拝の屈辱がないのが五。称臣の憤りがないのが六。請降の禍がないのが七。納土の悲しみがないのが八。銜璧・輿櫬の惨がないのが九。青衣で酒を注ぐ惨めさがないのが十。 十の弔いを去って十の賀に就く。利害は明白で三尺の童子でも分かるのに、陛下は悟られない。春秋左氏は勇なき者を婦人と言った。今、朝廷じゅうの士はみな婦人である。臣の言が違うと思われるなら、流放や誅殺を賜り、臣子が分を越えて犯した戒めとされたい、と。
  • 壬午、宗正少卿の魏杞を金に遣って和を議させた。書は「姪の大宋皇帝某、再拝して叔の大金皇帝に奉る」と称し、歳幣は二十万とした。帝は杞に面と向かって、今回の使いは、第一に名を正すこと、第二に軍を退かせること、第三に歳幣を減らすこと、第四に帰順者を送り返さないことだと諭した。杞は十七条を条陳して問答を想定し、帝は事ごとに可を与えた。辞去のとき杞は、臣は旨を奉じて国境を出る以上、努めないはずがない、万一、彼が飽くことを知らなければ、速やかに兵を加えられたいと奏した。帝は善しとした。
  • 銭端礼はさらに、国信所大通事の王抃を金の軍へ遣り、周葵の書を布薩忠義と赫舎哩志寧に届けさせることを請うた。

隆興二年九月(1164年)

  • 癸卯、湯思退に江淮の軍馬を都督させたが、実行されなかった。もと思退は和を求めることを急ぎ、侍御史の尹穡をそそのかして、獄を設けて備えの撤去に応じない者や地を棄てることに反対した者二十余人を取って罪を論じるよう請わせ、そのうえで穡を諫議大夫に抜擢していた。ここに至って思退に江淮の都督を命じたが、固辞して行かなかった。
  • 乙巳、改めて楊存中を同都督とした。

隆興二年冬十月(1164年)

  • 辛巳、金兵がまた淮を渡った。もと湯思退は帝が悔い悟ったのを見て事が成らないことを恐れ、密かに孫造を遣って敵に重兵で和を迫るよう告げた。金の布薩忠義らはそこで渡淮を議した。
  • はじめ魏杞が盱眙に泊まったとき、忠義は趙房長を遣って杞の来意を問い、国書を見せるよう求めた。杞は、書には御封がある、主君に会って朝廷で授けると答えた。房長が馳せて忠義に告げると、忠義は国書が形式どおりでないと疑い、さらに商州・秦州の地の割譲と帰順者の返還を求め、あわせて歳幣二十万を望んだ。杞が上聞すると、帝は当初の形式どおりにし、四州の割譲を許し、歳幣も彼の額どおりとして国書を書き改めるよう命じた。それでも忠義は望みに満たないとした。
  • ここに至って赫舎哩志寧と兵を分けて清河口から楚州を侵した。都統制の劉宝は城を棄てて逃げた。当時、知楚州の魏勝は詔を奉じてもっぱら清河口の措置に当たっていた。金人が隙に乗じて舟に器甲と糧を積み清河から淮へ出て辺境を侵そうとした。勝はこれを察知し、忠義の士を率いて河口で防いだ。金兵は糧を泗州へ運ぶだけだと偽り、清河口から淮に入った。勝が防ごうとすると、劉宝は和を議しているところだから駄目だと戒めた。

隆興二年十一月(1164年)

  • 乙酉、金兵が境を越えた。魏勝は諸軍を率いて淮陽で防ぎ、卯の刻から申の刻まで勝負が決しなかった。金の図克坦克寧が新手を率いて至ると、勝は力戦したが矢が尽き、土の高みに拠って陣を敷き、士卒に、自分はここで死ぬ、脱出できた者は天子に報告せよと言った。そして歩兵を前に、騎兵を殿に置いた。淮陰の東十八里で矢に中って落馬して死に、楚州はついに陥ちた。金人は濠州・滁州に入り、都統制の王彦は昭関を棄てて逃げた。
  • 庚寅、楊存中に江淮の軍馬を都督させた。当時、諸軍はそれぞれ持ち場を守るだけで統一が取れていなかったが、存中が諸将を集めて調整し、初めて互いに援けるようになった。朝議は淮を捨てて江を保とうとしたが、存中が不可としてやめた。
  • 辛卯、湯思退が罷められ、職を落として永州に居住させられた。太学生の張観ら七十二人が上書し、思退および王之望・尹穡の姦邪で国を誤り敵を招き寄せた罪を論じ、三人を斬って天下に謝し、あわせてその党の洪适・晁公武を追放し、陳康伯・胡銓・陳良翰・王十朋・安節・虞允文・王大宝・陳俊卿・黄中・龔茂良・張栻を用いて大計を済すよう請うた。思退は信州まで行ってこれを聞き、憂え悸えて死んだ。
  • 戊戌、再び陳康伯を尚書左僕射・同平章事兼枢密使とした。当時、金兵が淮を侵して人心は驚き恐れ、張浚はすでに没していたので、みな康伯の再任を望み、この任命となった。
  • 癸卯、王之望を遣って江上の軍を労わせた。
  • 丙辰、王抃が金の二帥に会い、返書を得て帰った。
  • 乙亥、王之望が罷められた。それ以前、金人が揚州に至ったとき、撃つよう請う者があったが、楊存中は渡江を敢えてせず、江に臨んで塁を固めて守るだけだった。之望は湯思退と表裏をなし、もっぱら地を割いて敵に与えるのを得策としていた。帝が督府に利害を択んで金軍を撃つよう詔したのに、之望は諸将にみだりに進むなと命じた。論者がこれを弾劾し、罷められた。
  • 丙子、王抃が金への使いとして陳康伯の返書を持って出発した。

隆興二年十二月(1164年)

  • 丙申、金人と和を議したとして詔を下した。曰く――さきに王抃を遣って遠く潁のほとりに至らせ、その要約を得た。澶淵の盟誓の信に倣い、大遼の書式の儀に倣い、皇帝の称を正して叔姪の国とし、歳幣は十万を減じ、地界は紹興の時のままとする。彼此の無辜を憐れみ、叛亡の者を送り返さないことを約した。帰順の士がみな安んじて住む心を起こせるようにするためである。重ねて念うに、数州の民はこの一時の難に遭い、老幼には離散の災いがあり、丁壮には縛られる苦しみがあった。宥しを広く施し、疲弊した情を少しでも慰めたい。沿辺で兵禍を受けた州軍については、逃亡した官吏を赦さないほかは、すべて放免する――と。洪适の起草である。論者は、先日の譲歩は四方がまだ知らなかったのに、これを赦文に載せたのは国体を失うものだと言った。

乾道元年三月(1165年)

  • 魏杞が金から帰った。もと杞が燕山に至ると、金の館伴の張恭愈は国書が「大宋」と称しているとして「大」の字を削るよう脅した。杞は拒み、天子は聡明で才傑が奮い起こり、人々に敵愾の意がある、北朝は兵を用いて必ず勝てると保証できるかと述べた。金の君臣は取り巻いて聴き入り、粛然とした。金主は歳幣を減らし帰順者を送り返さないことを許し、元帥府に兵を罷めて分屯するよう命じた。杞はついに敵国の礼を正して帰り、帝は手厚く労った。

乾道元年夏四月(1165年)

  • 庚子、金の報問使の完顔仲らが拝謁した。

乾道元年十一月(1165年)

  • 詔して両淮に流散した忠義の人々を収容した。

乾道三年五月(1167年)

  • 乙亥、金が使者を遣って捕虜となった人を返すよう求めた。詔して、実際に民間にいる俘虜は返し、軍中の者と叛亡の者は与えないこととした。

乾道六年閏五月(1170年)

  • 起居郎の范成大を金国祈請使とし、陵寝の地を求め、あわせて国書を受ける礼を改めさせることとした。臨時の使である。
  • もと紹興に盟を結んだ折、金は先に大臣を擅に替えないことを約させた。秦檜はいっそう金に媚びようとしたので、礼の形式には議論の余地が多く、なかでも書を受ける儀はひどかった。金の使者が来ると、書を捧げて殿に上り、北を向いて榻の前に立って跪いて進め、帝は榻を下りて書を受け、内侍に渡すのである。金主が即位したばかりのころ使者が来たとき、陳康伯は伴使に書を取って進めさせた。だが湯思退が国を執ると、また紹興の故事に戻った。帝は常に悔いており、たびたび臨時の使を遣ってこれを正そうとした。陳俊卿はしばしば諫めたが聴かれず、罷めて去った。
  • ここに至って成大を金へ遣ることとした。出発に際して帝は、朕は卿の気宇が群を抜いているので自ら選んだ、外の議論は騒然として官属はみな行くことを憚っていると聞くが本当かと問うた。成大は、故なく臨時の使を遣るのは釁端を起こすに近く、拘えられなければ殺される、臣はすでに後嗣を立てて帰らない覚悟をしていると答えた。帝は憂わしげに、朕が盟を破って兵を発するわけでもないのに、どうして卿を害することがあろう、雪を噛み氈を食らうようなことはあるかもしれないがと言った。成大は国書に書を受ける礼の一節も載せることを願い出たが、許されず、そのまま出発した。
  • 辛卯、吏部尚書の陳良祐が論奏した。陛下の恢復の志は片時も忘れられていない。しかし言葉は一致していることを貴ぶのだから察しないわけにいかず、広く諮って独断に帰するのだから審らかにしないわけにいかない。衆を用いて興る場合もあれば、衆を用いて亡ぶ場合もあり、独断で成る場合もあれば、独断で敗れる場合もある。今、使者を遣るのは釁端を開く元だ。万一、敵の騎兵が辺境を侵せば、民力は供出に困り、州郡は徴発に疲れ、兵が連なり禍が結ばれて息む期がない。将帥は凡庸で遠謀に乏しく、君父に対しては死力を尽くすと言いながら、戦陣に臨めばそれぞれ生を求める。符離の役では戦わずに潰え、瓜洲では敵を望んで驚き逃げた。誰を頼れるのか。だから臣は万全を保証しかねる。 まして金が地を求めるのは河南を得ようとするものだ。かつて版図に戻ったが、たちまちまた失った。許されなければ往来の費用だけが無駄になり、許されたとしても必ず重い幣を要求され、経営が定まらず根本が虚しいうちにまた取られる。先の四郡でさえ得るのは難しかった。今また故なく侵された地を求めて、陛下は虚しい言葉で従わせられるとお考えか。まして陵寝を求めるといってもその中の一部にすぎない。かつてもこれを議したが、その返書を見れば戯れに近い。この二つはいずれも釁を開く。どうしても使者を遣らねばならないなら、欽宗の梓宮を求めるほうがまだ言い分がある。内の事さえ足りないのに、外の事に構う暇があろうか。近くの者をまだ懐けられずに遠くを綏んじられようか、と。奏は旨に忤って瑞州に貶されて居住し、まもなく信州に移された。
  • 起居郎の張栻が入対した。帝が、卿は敵国の事を知っているかと問うと、栻は知らないと答えた。帝が、金国は連年飢饉で盗賊が四方に起こっていると言うと、栻は、金人の事は臣はまだ知りませんが、境内の事なら知っておりますと答えた。帝が何かと問うと、栻は、ひそかに見るに近年は諸道に水害と旱魃が多く民の貧しさは日々増しており、国家は兵が弱く財は乏しく官吏は誕妄で頼りにならない、たとえ彼が本当に図れるとしても、我らが彼を図るには足りないことを恐れると答えた。帝は長く黙った。
  • 栻はさらに奏した。陵寝が隔てられているのはまことに臣子として言うに忍びない痛みである。しかし今日、辞を奉じて討つこともできず、名を正して絶つこともできず、そのうえ言葉を低くし礼を厚くして彼に求めようとするのは、大義においてすでに尽くしていない。それでもなお憂うる者があるのは、我らにまだ必勝の形がないと見るからだ。必勝の形は早く正し平素から定めておくことにあり、両陣で機を決する日にあるのではない。今日はただ哀痛の詔を下し、復讐の義を明らかにし、金人と絶って使者を通わせず、そのうえで德を修め政を立て、賢を用い民を養い、将を選び兵を練って恢復を図るべきだ。進んで戦うことと退いて守ることを一つの事として、必ずその実を治めて虚文をなさなければ、必勝の形は隠然と現れる。浅陋で臆病な者でさえ奮い立って先を争うだろう、と。帝は深く容れた。

乾道六年九月(1170年)

  • 壬辰、范成大が金から帰った。もと成大は金に至って密かに奏を草し、書を受ける形式と陵寝の地を求める件を書いて懐に入れておいた。最初に国書を進めたとき、その言葉と気迫は慷慨としており、金の君臣は耳を傾けていた。成大は突然、両国はすでに叔姪となったのに書を受ける礼が称っていないと奏し、疏があると言って笏に挟んで出した。金主は大いに驚いて、ここは書を献じる場ではないと言い、左右が笏で突いて立たせようとしたが、成大は屹然として動かず、どうしても書を届けようとした。やがて館に戻ると金の朝廷は騒然となり、その太子の允恭は成大を殺そうとしたが、止める者があった。
  • 返書の要旨は――和好が再び成り、境の河山は旧のとおりである。それなのに突然の書簡が届き、鞏や洛のことを言ってきた。祀りが廃されたことを言い、追遠の思いを伸べたいというなら、遷し奉ることだけはできる、期日の返答を待つ。まだ返していない旅の柩についても、あわせて途に発しよう。ただ、付け加えた願いに書を受ける礼を変えたいというのは、尊卑の分にどうか。信誓の誠はどこにあるのか――というものだった。こうして二つの事はいずれも成らなかった。