宋史紀事本末建炎・紹興の諸政(朝臣の言事を付す)(建炎紹興諸政(朝臣言事附))

建炎二年(1128年)の科挙法の制定から紹興二十五年(1155年)の台諫を戒める詔まで、南渡後三十年間の内政と朝臣の言論をまとめる。三省を一つに合わせ、内侍の干政を禁じ、経制銭に総制銭を加えて財源とし、范冲に実録を重修させて宣仁太后の誣いを雪いだ。趙鼎・張守・林勲・汪藻・常同・李綱・胡宏らの上疏を載せ、李綱は和議と退避を斥けて六事を条陳した。秦檜の専権下で言路が塞がれた末を史論が嘆く。

年表(14件)

高宗建炎二年五月(1128年)

  • 詩賦と経義で士を試す法を定めた。もと元祐年間の科挙は経義と詩賦を兼ねて取っていたが、紹聖以来、詩賦の試験は廃されていた。ここに至って元祐の科挙の条制を参酌して試士の法を定めた。中書省は、詩賦を修める挙人は経義を兼ねず、経義を修める者は一経だけを修めること、解試と省試は合わせて点数を計り、それぞれ通算して高下を取ることを請い、殿試ではなお策三道を課すこととした。
  • 故事では廷試の上位十名について、内侍がまず答案を奏して高下を定めていた。帝は、士を取るには至公を務めるべきで、どうして自分の意で上げ下げしてよいものか、今後は先に答案を進めるなと述べた。

建炎三年夏四月(1129年)

  • 内侍が朝政に干与することを禁じ、兵を統べる官と交わり、贈答や貸借をし、禁軍を私に使役することを禁じた。外の官も親戚でなければ往来してはならず、違反者は軍法で処すこととした。
  • 三省の官名を正した。元豊に三省を建てて以来、軍国の事は中書が量って議し、門下が審査し、尚書が実行することとし、三省にはいずれも長官を置かず、左右僕射が両省の侍郎を兼ねていた。二人の宰相が班を分けて奏上したので、首相は朝廷の議論に与らなくなっていた。元祐の初め、司馬光が三省の合班奏事と分省の事務処理を請うたことがある。ここに至って呂頤浩の言に従い、左右僕射をともに同中書門下平章事とし、中書門下侍郎を参知政事に改め、尚書左右丞を省き、三省は初めて一つに合わさった。

建炎三年六月(1129年)

  • 長雨と曇天が続いたので、郎官以上に政の欠を述べさせる詔を出した。司勲員外郎の趙鼎が上疏して述べた。熙寧年間に王安石が政を執って祖宗の法を変え、民が病み始めた。国を開く謀にかこつけて辺境の患いを生み、理財の政を興して民力を窮乏させ、空虚な学を設けて人材を損なった。崇寧の初めには蔡京が紹述の名を借りて安石の政をことごとく踏襲した。今日の患いはすべて安石に始まり蔡京に成ったものだ。今なお安石が神宗に配享され、蔡京の党も除かれていない。時政の欠でこれ以上のものはない、と。帝は従い、安石の配享をやめた。
  • まもなく詔を下して四つの失をもって自らを責めた。第一に国を治める大略に暗いこと、第二に難を鎮める遠図に暗いこと、第三に人を安んじる德がないこと、第四に臣を御する権を失ったこと。あわせて朝堂に掲示し、天下にあまねく諭して、朕が過ちを悔いる意を知らせた。
  • 中丞の張守が上疏して述べた。陛下は宮室の安らぎに居られるときは、二帝と母后が穹廬や毛皮の幕に住まわれることを思われよ。膳の供えを享けられるときは、二帝と母后が生臭い肉と乳の飲み物を口にされることを思われよ。細やかで暖かい衣を着られるときは、二帝と母后が辺塞の寒さにおられることを思われよ。与奪の権を執られるときは、二帝と母后が言葉も動作も人に制せられていることを思われよ。妃嬪の快さを享けられるときは、二帝と母后に誰が仕えているかを思われよ。臣下の朝に臨まれるときは、二帝と母后を誰が尊び礼遇しているかを思われよ。思いに思って戦々兢々とし聖心が倦まなければ、天が助け順わないことは万に一つもない。今、自らを責める詔がたびたび下っても天がまだ禍を悔いないのは、実に至らぬところがあるからだ、と。

建炎三年七月(1129年)

  • 広州教授の林勲が『本政書』十三篇を上った。その要旨は――本朝の兵農の政はおおむね唐末のままである。今、農民は貧しくて職を失う者が多く、兵は驕って使えない。だから飢えた民や逃げた兵がおしなべて盗賊となる。古の井田の制に倣い、民には一夫あたり五十畝を占めさせ、余分の田を持つ家には田を買わせず、田のない者と遊惰して末業に就く者はみな駆り立てて隷農とし、余った田を耕させ、銭と穀を組み合わせて十分の一の税とすべきである。米の二税の額は唐に比べて七倍にも増えている。今の本政の制では十六夫を一井とし、封域百里を三千四百井として、税米五万一千斛、銭を石に換算して二千緡となる。一井ごとに兵二人・馬一匹を賦し、合わせて兵六千八百人・馬三千四百匹となる。毎年その五分の一を上番の額として征役に充て、事がなければさらに四番に分けて官府に当直させ守衛に充てる。民は三十五年に一度、役に当たる勘定である。すべてを上番させれば年に米一万九千余斛・銭三千六百余緡を要するが、事がなければ四分の三に減り、いずれも一同の租税で賄える。婦人一人あたりの貢は絹三尺・綿一両で、百里の県では年に絹四千余匹・綿三千四百斤を収める。養蚕の地でなければ布六尺・麻二両とし、収める量は絹綿の倍になる。これを十年行えば、民の人頭税、官の酒の専売、および茶・塩・香・礬の専売はすべて緩めて民に与えられる――というもので、その説はきわめて詳しかった。書が奏されると、勛を桂州節度使掌書記とした。
  • のち勛はさらに『比較書』二篇を献じた。要旨は――桂州の地は東西六百里、古の尺で記せば方百里の国四十に当たり、墾田は二百二十五万二千八百頃あるべきで、田夫二百四万八千人、米二十四万八千斛を出し、卿大夫以下四千人に禄を給し兵三十万人を養えるはずだ。ところが今の桂州の墾田はおよそ一万四十二頃、丁は二十一万六千六百十五、税銭は一万五千余緡、苗米は五万二百斛あまり、州県の官は百員に満たず、官兵は五千百人にすぎない。土地が荒れて遊手や末業の者が多いから、地の利は多く遺され財用は足りない。いずれも本政が修まらないためだ――というものだった。当時の論者はみなその言を正しいとした。

紹興元年九月(1131年)

  • 知潮州の汪藻が上言した。本朝の実録は、艱難以来、金匱石室の蔵はもはや残っていない。歴代の帝のうち哲宗以上はいずれも成書があり民間にも伝わっていて、真本もかなりあり、朝廷はすでに収めて御府に蔵している。しかし太上皇帝・欽宗および陛下の建炎改元から今日まで三十余年、日暦が一つもない。 自古、国に史のないことはなく、史に一日として書のないことはなかった。晋は「乗」といい、楚は「檮杌」といい、魯は「春秋」といった。国に史のないことはないと分かる。春秋は事を日に繋ぎ、日を月に繋ぎ、月を時に繋ぎ、時を年に繋ぎ、必ず四時を備えて編年という。史に一日も書のなかったことはないと分かる。漢の法では太史公の位は丞相の上で、天下の計書はまず太史公に上げ、副本を丞相に上げた。唐および本朝では宰相がみな史官を兼ねた。その重んじようはこの通りである。だから御前の議論の言葉を書けば時政記があり、柱下で見聞した事実を録すれば起居注があり、それを分類して次第するのを日暦といい、修めて成すのを実録という。広く記し備さに言って一代の典とするためである。三十年もの長きを空白にして一字も伝えるところがなければ、何をもって後世に示すのか。これが纂述せずにいられない第一の理由である。 韓宣子は魯へ行って易象と春秋を見、周礼はすべて魯にある、自分は今こそ周公の德と周が王たり得た所以を知ったと言った。国家の守成には史がなくてはならない。蕭何は秦に入ってまず丞相・御史の律令と図書を収めて蔵し、沛公は天下の要害、戸口の多少、強弱の所在、民の苦しむところをすべて知った。何が秦の図書を得たからである。国家の創業にも史がなくてはならない。今、陛下は自ら天命を受け、名は中興だが実は創業と守成を兼ねておられる。それなのに一代の典章がこれほど欠けているのは理に安んじない。これが第二の理由である。 太上皇帝と欽宗は姦臣が朝を誤ったせいで遠く連れ去られた。今、事実を記す書がなければ、千載の後、ただ一朝の衰亡の禍だけが見えて、二聖の積み重ねた功の深さが知られなくなる。これは小事ではなく、群臣が責めを負うべきだ。これが第三の理由である。 自古、史官は記さないものがない。まして三十年の間の朝廷の施策、豪傑の謀、政事の興廃、人材の進退、礼文の沿革、法度の存廃、年ごとの豊凶、羌戎の服叛には、本末があり源流がある。一つの法が緩んで書かれなければ一つの法が消え、一つの事が略されて載らなければ一つの事が失われる。当時の群臣で存命の者もあるが、忠賢だとしてもその平素の行いを著さなければ何が嘉すべきか分からず、邪佞だとしてもその積年の姦を条陳しなければ何が棄てるべきか分からない。散逸したからといって書を廃するのは、孔子が史の闕文を惜しんだ意ではない。これが第四の理由である。 公羊伝に、見たことと聞いたことと伝え聞いたことでは詞が異なるとある。孔子が春秋を作るにあたり、定公・哀公の代は詳しく、隠公・荘公の代は略した。聖人でさえそうなのだから、他は言うまでもない。中原を失ってから閏を三度見た。今なら耳目の及ぶ範囲でなお追い求められるが、あと数年もすれば事は埋もれ、良史がいても拠りどころを知れなくなる。まして近年は風俗が衰えて公論が立たず、士大夫の取捨はみな愛憎から出る。一つの事、一人のために書を作って世に行う者も多い。今の時に乗じて訂正しなければ、数世の後には信を信として伝え疑を疑として伝えるべきものが混淆し、白と赤が転倒し、小人の説が行われて君子は誣いを受ける。恐るべきことだ。これが第五の理由である。 臣は政和年間に著作佐郎として太上皇帝の日暦を修め、東観の凡例に与った。今治める州は幸い兵火の後も焼け残り、諸々の旧府に比べて案牘が揃っている。御筆の手詔、功を賞し罪を罰する文書もなお歴然と考証できる。今それを集めなければ実に惜しい。古の国家を有つ者は流離のさなかでも史官を廃さなかった。臣に郡政の余暇をもって、本州にある文書を元符庚辰から建炎己酉までの三十年間について年ごとに分類し、書き写して進呈することを許され、日暦を修める官の採択に備えさせていただきたい、と。帝は従って藻に命じたが、のち綦崇礼の言により、その事はもっぱら史官に委ねられた。

紹興三年二月(1133年)

  • 知柳州の常同を召し還した。同はまず朋党の禍を論じた。元豊の新法が行われてから党派が分かれ、邪と正が攻め合って五十余年になる。章惇が紹聖の初めに唱え、蔡京が崇寧ののちに和し、元祐の臣僚は追放され貶されて死に、上下が覆い隠されて辺敵の禍を育てた。今、国歩は艱難なのに、朋を分け交わりを結び公に背いて党に死ぬ者は相変わらずだ。恩は私門に帰し朝廷の尊さを知らず、私怨に報いて公議を顧みない。臣は、朋党を破ろうとするならまず是非を明らかにし、是非を明らかにしようとするならまず邪正を弁じるべきだと考える。そうすれば公道が開けて姦邪は止む、と。
  • 上が、朋党は破りがたいと言うと、同は答えた。朋党が結ばれるのは邪正が分かれないためだ。君子にも小人にも党はあるが、党のありようは違う。君子の党は心を合わせて国を済し、小人の党は私を挟んで公を害する。たとえば元祐の臣僚は讒謗に遭って追放され流され死に、その後で禍乱が起こった。今、朝にある士はなお元祐の政は行えない、元祐の子孫は用いられないと言っている、と。上が、そういう議論があると聞いていると言うと、同は、禍乱がまだ起こらないうちは元祐の臣僚も自ら明らかにできなかったが、今は是非が定まっている、それでもなおこの有様なのは、今日の士大夫がなお蔡京・王黼らの傾邪不正の論を宗としているからだ、朋党がこうでは公論はどこから出るのか、陛下には終始、善良な人々を支持され、小人に惑わされないでいただきたいと答えた。

紹興四年夏四月(1134年)

  • 范冲を直史館として神宗・哲宗の実録を重修させた。冲は范祖禹の子である。それ以前、隆祐太后の誕生日に宮中で酒宴があり、太后はくつろいで帝に、宣仁太后の賢明さは古今の母后に比べるものがない、昔、姦臣がほしいままに謗り誣い、詔を下して弁明したこともあったが、国史はまだ改められていない、これで信を伝えられようか、自分の思いは、天にあるあの方の霊も帝に望むところがないはずはないということだ、と語った。帝は粛然とした。
  • ここに至って冲を召して直史館とし、神宗・哲宗の実録を重修させた。冲は神宗の考異を作って取捨を明示し、旧文は墨で、削ったものは黄で、新たに修めたものは朱で書いた。世にこれを朱墨史と呼んだ。また哲宗の弁誣録を作った。これによって二つの史は正しさを得、姦臣の実情はいっそう明らかになった。
  • まもなく常同を起居郎・中書舎人・史館修撰とし、あわせて、この任命は卿の家に代々伝わる見聞に事実が多いからだと諭した。ある日、事を奏したとき、上は憂わしげに、かつて昭慈(隆祐太后)が、宣仁には保佑の大功があり哲宗も自ら言えたのに、宮中に宣仁に対して不遇だった者がいて誣謗が生じたと語った、その事を弁じて明らかにするには実録を重修し、擁立と保護の労効を備さに記して後世に示さねばならない、これが朕が卿を選んだ意だと語った。同は、賜った聖語を史館に付し、あわせて実録の巻末に記すことを請うた。

紹興四年十一月(1134年)

  • 金と斉の兵が退いたので、前の宰執に攻戦・防禦・措置・綏懐の方策を議させた。李綱が上疏して述べた。 陛下は敵が退いたことを喜ばず、仇敵にまだ報いていないことを憤られよ。東南が安らかだと思わず、中原がまだ回復されていないことを恥とされよ。諸将がたびたび勝ったことを賀とせず、軍政がまだ修まらず士気がまだ振るわないことを憂いとされよ。 論者は、敵の騎馬が退いた以上、兵を用いて大挙すべきだと言う。だが臣は、生計の基がまだ固まらないうちに軽々に戦って僥倖を求めるのは、勝ちを制する術ではないと考える。漢の高祖はまず関中を保ったからこそ東へ向かって項籍と争えた。光武はまず河内を保ったからこそ赤眉・銅馬の類を降せた。唐の肅宗は霊武を保ったからこそ安史を破って両京を回復した。今、朝廷は東南を根本としている。守備を大いに整えてまず自ら固める計を立てなければ、どうして万全を期して敵を制せよう。 また論者は、敵が退いた以上、一隅に拠って当面の安きを偸むべきだとも言う。臣はこれも違うと考える。秦は三度晋を伐って殽の役に報い、諸葛亮は蜀を輔けて連年出師して中原を図った。そうでなければ国を立てるに足りない。高祖は漢中にあって蕭何に、自分も東へ出たいと言い、光武は隗囂を破って隴を平らげるとさらに蜀を望んだ。いずれも天下を度量としたもので、そうでなければ天下を混一し禍乱を鎮定するに足りない。まして祖宗の領土が沈むのを座視して恢復を思わずにいられようか。今年征せず明年戦わなければ、敵の勢いはますます張り、我らが糾合した精鋭の士馬は日々磨り減る。どうして敵を図れよう。ただ防守が固まり軍政が修まったうえで攻討を議すのが得策である。 守備の方策としては、淮甸と荊襄を経営して東南の屏蔽とすべきである。六朝が江左を保てたのは、強兵と巨鎮がみな淮南・荊襄の間にあったからだ。だから魏武の雄、苻堅・石勒の衆、宇文・拓跋の盛でも、ついに江表をうかがえなかった。後唐の李氏は淮南を有したから金陵に都せた。その後、淮南が世宗に取られてついに衰えた。近年、大将は重兵を江南に擁し、官吏は空城を江北に守り、天険はあっても戦艦と水軍の制がない。だから敵に侵され窺われる。今こそ淮の東西および荊襄に三大帥を置いて重兵を屯し、分遣隊で支郡を守らせ、加えて戦艦と水軍で上下を連ねて自ら防守すれば、藩籬の勢いが成る。守備の要はこれに勝るものがない。 そのうえで攻戦の利を議し、諸路の大帥に責を分けて、利に因り便に乗じて京畿から旧都までを回復させ、必ず為すという志で断じて機会を失わなければ、弱を強に転じ威を取り乱を定め、逆臣を誅し強敵を滅ぼせる。攻戦の利はこれに勝るものがない。 万乗の居所は必ず形勝を択んで駐蹕の地とすべきである。臣はかつて天下の形勢から関中を上と申し上げた。今、東南の形勢で言えば建康が便である。旧都がまだ回復されない以上、仮に建康に駐蹕し、城池を整え宮闕を修め官府を立て営壁を築き、おおよその体裁を整えて行幸に備えるべきだ。これが措置の先とすべきところである。 西北の民もみな陛下の赤子で、祖宗の涵養の深さを受け、その心はいまだ宋を忘れていない。ただ強敵に制せられて自ら帰れないだけだ。天威が震えば必ず内応を願う者が出る。手厚く撫し慰め、沈んだ民に頼るところを知らせ、宋を戴く心をいっそう堅くさせるべきだ。これが綏懐の先とすべきところである。 臣がひそかに見るに、陛下が位に即かれて九年、国は開けず日々縮まり、事は立たず日々壊れ、将は驕って御しがたく、卒は惰って練れておらず、国用は乏しくて余蓄がなく、民力は困って休む期もない。陛下の憂勤は至っているのに中興の効が聞こえないのは、群臣が陛下を誤らせているからだ。近年に用いられた臣で、慨然として天下の重きを自ら任じた者が何人あったか。平生無事のときは小さく廉直で細かく慎ましく過ちがないように見えるが、いざ騒ぎが起こると狼狽して手足の置き所もなく、身を全うして退くだけで、天下の安危の重きを陛下に委ねてしまう。こんな臣がいて国に何の補いがあろう。 おおむね近年は、閑暇のときは和議を得策とし治兵を失策とし、危急のときは退避を君を愛することとし進んで防ぐのを国を誤ることとしてきた。上下が安を偸んで長久の計を立てず、国勢がいっそう弱まったのはこのためである。今、天が陛下の御心を啓き、先日の和議と退避の失を悟らせ、自ら大敵に臨まれた。天威の臨むところ、北軍数十万の衆は震え恐れて南へ渡れず、密かに夜逃げした。和議と治兵、退避と進禦の効はこれで分かる。 とはいえ敵兵は退いたが大きく懲りたわけではない。秋が深まり馬が肥えたころ再び来て我が国境を騒がせ、奔命に疲れさせないとどうして言えよう。臣は日夜、陛下のために善後の策を考えた。昔から創業中興の主は必ず自ら矢石を冒し陣に立つことを避けなかった。高祖は天下を得てからも韓王信・陳豨・黥布を撃つのに自ら行かないことはなかった。光武は即位から公孫述を平らげるまで十三年、親征しない年は一年もなかった。本朝の太祖・太宗が維揚を定め沢州・潞州を平らげ河東を下したときも、みな自ら戎車に乗られた。真宗にも澶淵の行があり、天下を大安に置いた。これを、始めは憂え勤め終わりは逸楽するというのである。 退避の策は一時のもので常のものではなく、一度きりで二度はできない。一歩退けば一歩を失い、一尺退けば一尺を失う。かつて南都から維揚へ退いて河北・河東・関陝を失い、維揚から江浙へ退いて京東西を失った。万一、敵の騎兵が南下したらまた退避されるのか。どこへ行けばよいのか。まして航海の策は万乗の身で風濤の測りがたい危険を冒すもので、なおのこと不可である。ただ国家に閑暇のあるうちに政刑を明らかにし軍旅を治め、将帥を選び車馬を修め器械を備え、糧を蓄え金帛を積み、敵が来れば防ぎ、時を待って奮い、祖宗の大業を光復する。これが最上の策である。臣は陛下が今後、退避の計を立てられないことを願う。 臣がまた見るに、古は敵国と善隣であれば和親があったが、仇讐の国とは使者を交わすことがまれだった。それは隙が深くなれば結局、好を講じ睦みを修める道理がないからではないか。東晋が江を渡ったとき、石勒が晋に使者を遣ると、元帝はその幣を焼いて使者を退けた。向こうから遣ってきた使者でさえ退けたのだ。まして、こちらから行かせてよいものか。金人の起こした釁は深く、我らが必ず報いると知っている。その心構えがどうであるかは知れているのに、我らは言葉を低くし幣を厚くし体を屈して求めている。誠を推して信を得られないのは明らかだ。器幣や礼物の費用は莫大で、使者の車が往来する間にも士気は座して失われ、しかも従えるはずのない事を要求され、なしえない謀を強いられる。和は結局成らず、いたずらに騒がしいだけだ。まして自ら治め自ら強くする計と、動くたびに食い違う。臣は今後、和議の使を遣られないことを願う。 この二つが定まれば、なすべきことを一切、至誠をもって行い、政事が修まり倉廩が実り府庫が充ち器用が備わり士気が振るい、力に為すところがあってから大挙を議せば、兵が交わる前にすでに勝負の勢いは決している。ただ陛下が心を正して朝廷を正し、百官に君子と小人それぞれの分を得させれば、是非は明らかになり賞罰は当を得、自然に藩鎮は力を合わせ将士は命を尽くす。強敵も畏るるに足りず、逆臣も憂うるに足りない。これはひとえに陛下の胸中にかかっている。 臣は死を冒して六事を条陳する。第一に輔弼を信任すること、第二に人材を公選すること、第三に士風を変革すること、第四に日々の時間を惜しむこと、第五に人事を尽くすこと、第六に天威を畏れ慎むことである。 輔弼を信任するとは何か。衰えを興し乱を収める主には必ず心と德を同じくする臣があり、ともに事をなす。頭と手足が一身にあるように、父子兄弟が一家にあるようであってこそ助け合える。今、陛下は衆から択んで任じ、大敵を防げた。人を得たと言える。ただ願わくは至誠で待って形跡にこだわらず、長く任せて成功を責め、小人に離間させないでいただきたい。そうすれば君臣の美は無窮に伝わる。 人材を公選するとは何か。天下を治めるには必ず人材による。まして創業中興の主が必要とするものは多い。統を継いで守成するなら旧章に従い中庸の才でも共に治められるが、艱難のときには卓越し優れた才を得なければ済しがたい。だから大いに為す主には必ず不世出の才があって輔佐し大業を成す。ところが昔から抜きん出た才を抱く者は多く小人に忌み妬まれる。あるいは暗愚だと中傷され、あるいは党与だと指され、あるいは大悪を誣いられ、あるいは些細な過失をあげつらわれる。道をもって君に仕える者は、できなければ止めるので、自ら進むことを難しとし、自ら弁明するのを恥じる。重い謗りを負い深い譴責を受けても義命に安んじて弁じない。至明の主が人の情と偽りを深く察するのでなければ、どうしてその無実を弁じられよう。陛下は即位以来、多くの人を用いられた。世に端正な士と認められる者はしばしば無用の地に閑却され、陛下は寝ても覚めても席を側めて人材の乏しさを嘆いておられる。少し意を留めて察していただきたい。 士風を変革するとは何か。用兵と士風は無関係のようで実は表裏をなす。士風が厚ければ議論は正しく是非は明らかになり、朝廷の賞罰は功罪に当たって人心は服する。本朝の嘉祐・治平以前を考えれば分かる。ここ数十年、競って先を争う風が日々進み、議論は私に阿り、邪説と利口が人主の聴を惑わすに足りるまでになった。元祐の大臣で正論を持した司馬光の類はみな社稷の臣だったのに、多くの邪な者が妬んで姦党と指し、是非は転倒し政事は大いに壊れ、ついに靖康の変に至った。偶然ではない。近年の士風はとりわけ薄く、時に随って好悪を変えて世渡りの資とし、へつらいと謗りが風をなしている。朝廷の福であろうか。おおむね朝廷が耳目の官や献納・論思の官を置くのは、風聞による発言を許すためだが、重大な事は必ず事実を確かめてから言わせるべきだ。事実がないのに言えば、人を誣いる罪が伏し、讒言と隠れた悪意が善良を害することになる。政を修めるゆえんではない。 日々の時間を惜しむとは何か。創業中興は大きな家を建てるようなもので、堂室や奥座敷の規模は一日で決められるが、工を集め材を積むのは一日ではできない。陛下は位に即かれて九年になるのに、領土は回復されず僭逆は誅されず仇敵に報いられず、中興の業が遅れているのは、まことに初めに規模を立てず後に積み重ねなかったからだ。辺事がやや定まったときに朝廷が推し進めたのは、帳簿や期日の処理といった切実でない細務ばかりで、攻討と防守の策という国の大計には意を留めなかった。天下になしえない事はなく、なしえない時もない。ただその時を失えば、小さい事は日々大きくなり、易しい事は日々難しくなる。 人事を尽くすとは何か。天と人の道は実は一つで、人のなすことがすなわち天のなすことである。人事を前に尽くせば天理は後に応じる。これは自然の符合である。だから創業中興の主は自分にできることを尽くすだけで、成功は天に帰した。今、人事を尽くしもせず、敵が来れば先に自ら退き屈しておきながら、成功を天に責めてよいものか。臣は陛下が二、三の大臣に詔して心を合わせ力を尽くし、人事を尽くして天命を聴かれることを願う。そうすれば領土を恢復し鯨鯢を屠り両宮を迎え還す日は必ず来る。 天威を畏れ慎むとは何か。天が王者に対するのは父母が子に対するようなもので、愛が至れば戒めもまた至る。だから人主は天の戒めに対して必ず恐懼し反省し、畏れ慎む誠を尽くす。近年、熒惑は位を失い、太白は昼に見え、地は震え水は溢れ、あるいは久しく曇って雨が降らず、あるいは久しく雨がやまず、あるいは暑いはずが寒く、正月の朔には日食があった。これらはみな天意が陛下を眷佑して繰り返し告げ戒めているのだ。陛下が至誠の意を推して事を正して応じられれば、災いは祥に変わる。 この六つはいずれも中興の業にかかわり、陛下がまず務められるべきものである。今、朝廷に人材は乏しくなく、将士は用いるに足り、財用にも余りがあり、中興の資となるに足りる。陛下は壮年で大いに為そうとされるなら何ができないことがあろう。要は先日の轍を改め、断じて行うことにある。昔、唐の太宗が魏徴を敢言の士と言うと、徴は、陛下が臣を導いて言わせてくださるのだ、そうでなければ誰が逆鱗に触れようかと謝した。今、臣に魏徴ほどの敢言はないが、思うところを尽くしたのは考えを極めた末である。陛下にはその愚直を赦し、その懇ろな忠を採っていただきたい――と。疏が奏されると詔を賜って褒め諭したが、用いられはしなかった。

紹興五年二月(1135年)

  • 総制司を置いた。それ以前、帝が揚州にあったとき、四方の貢賦が期日どおりに届かなかった。呂頤浩・葉夢得らは、政和年間に陳亨伯が転運使として経制銭を創設し、おおむね酒価を加え税額を増やし、契紙を官売し、公家の出納すべてに千あたり頭子銭二十三文を取った、その後これを東南および京東西・河北に行って年に数百万緡が入り、補いは小さくなかった、今は辺事が定まらず費用が日々広がっているので、諸路で再び行えば一年でおよそ数百万を数え、緩急に急な取り立てをするよりはるかによいと述べた。帝は従った。
  • ここに至って経制の額に基づいてさらに分けて総制銭とし、年収は七百八十余万緡に達した。戸部侍郎の張致遠は、陛下が国を富ませ兵を強くして天下に大いに為そうとされるなら、大臣に詔して節約に努め奢侈を厳禁し、朝廷から始められたい、員数は減らせるものを減らし、官司は併せられるものを併せ、州県に無駄な支出をさせずその余りを監司へ返させ、監司に無駄な支出をさせずその余りを朝廷へ返させ、朝廷が無駄に費やさずに日々積み月々蓄えて軍需だけを慮れば、中興の業は成せると述べた。帝はその言を善しとした。

紹興十四年三月(1144年)

  • 太学の孔子廟が完成し、司業の高閌が上表して臨席を請い、帝は従った。太学に臨み、聖殿の門外で輦を止め、歩いて昇り降りし、退いて敦化堂に出て、礼部侍郎の秦熺に経を執らせ、高閌に易の泰卦を講じさせた。
  • 胡宏は書を送って閌を責めた。太学は人倫を明らかにする場である。太上皇帝は強敵に脅かされ、生きて行き死んで帰られた。臣子が心を痛め骨に徹し、薪に臥し胆を嘗めて必ず報いるべき大讐を思うべきところだ。太母は天下の母であるのに、その釈放は金人の手にあった。これは中華の大辱で臣子として言うに忍びない。それなのに権を握る臣は敢えて天を欺き人を誣い、大讐大辱を大恩としている。師儒の臣は大論を建てて天人の理を明らかにし君心を正すこともできず、権臣に阿諛して意を迎え、太平の典を挙げることを求め、そのうえその文飾までする。欺きと誣いでこれ以上のものがあろうか、と。

紹興十六年春正月(1146年)

  • 帝が東郊で先農を祀り、籍田の礼を行った。詔して、朕は兵が起こって以来、田畝の多くが荒れたので、身を低くして民とともに休息することを厭わなかった、今は国境の警報がやみ、流亡した者も生業に戻った、朕は自ら籍田を耕して民に先んじ、三たび鋤を推してさらに進み、老人を労い賜り、世とともに豊かさに至ることを願う、昔、漢の文帝は年ごとに詔を下してまず農を本とし、上下が足り田租を免じて史冊に光を残した、朕の心もそれに倣いたいと述べた。

紹興十八年秋七月(1148年)

  • 諸郡の雑税を緩めた。帝は、人は取ることが取ることだと知っていて、与えることが取ることだと知らない、少しずつ免除して家々が足り人が豊かになるのを待てば、税の取り立ては自然に容易になると述べた。そこで廬州・光州の上供の銭米、汀州・漳州の秋税、処州三県の水害を受けた民家の紬絹、鄂州の旧額の絹をそれぞれ一年免じ、さらに四川で積み重なった常平銭十三万緡、京西路の請作の田租および州県の場務の税銭を免じた。

紹興二十四年八月(1154年)

  • 百官が輪番の対奏を避けることを禁じた。秦檜が政を専らにして以来、人の言を塞ぎ上の耳目を覆い、当時の献言者は檜の功德を誦えるか、人の言葉をあげつらって善良を中傷するかだった。物を言いたい者も忌諱に触れるのを恐れ、わずかに金の飾りや翠の装飾、鹿の胎の冠のたぐいを禁じるよう論じて責めを塞ぐだけだった。だからみな輪対を避けていた。ここに至って上は執政に、百官の輪対はまさに聞いていないことを聞くためだ、近ごろ輪対の者は多く休みを願い出て避けている、検挙して取り締まれと諭した。

紹興二十五年十二月(1155年)

  • 詔して述べた。台諫は風紀を糺す場であるのに、その任にふさわしくない者を用い、大臣に党して喜怒を助け、耳目の役目にまったく背いた。朕は今、自ら公正の士を任じて前の弊を改める。これに続く者は職務に心を尽くし、党を組んで交わりを結び成法を乱してはならない、この戒めを謹め、自ら咎を招くな、と。

史論(陳邦瞻曰)

  • 建炎・紹興の間、その時勢はきわめて切迫していたと言える。だが君臣が為そうとしたところはおおむね見て取れる。李綱は、辺事がやや定まったときに朝廷が推し進めたのは帳簿や期日の処理といった切実でない細務ばかりで、攻討と防守の策という国の大計には意を留めなかった、と言った。ああ、それでいてなお大難を鎮め大功を成すことを望むのは、難しいというものではないか。講和ののちは人主の耳目が塞がれ、自ら通じようとしても手立てがなかった。輪対を取り締まる詔と台諫を戒める詔の二つを読めば、やはり悲しむべきことである。