宋史紀事本末金の完顔亮の南侵(金人が亮を殺し雍を立てるを付す)(金亮南侵(金人殺亮立雍附))
紹興二十年(1150年)に完顔亮が南侵の意を漏らしてから、紹興三十二年(1162年)に和議が議されるまでの十三年間。亮は李通・張仲軻らの阿諛を得て汴に遷都し、六十万と号する兵で淮を渡ったが、虞允文が采石で敗り、李宝が陳家島で水軍を焼き、魏勝が海州を守り抜いた。金では東京留守の烏禄が即位して雍となり、瓜洲では耶律元宜らが亮を弑した。宋では張浚が起用され、辛棄疾・耿京ら山東の義兵も呼応した。
年表(28件)
- 高宗
- 紹興二十年三月1150年余堯弼への言に金主亮の南侵の意が現れる
- 紹興二十一年二月1151年巫伋が靖康帝の帰国を請うが金主に拒まれる
- 紹興二十三年三月1153年亮が燕へ移り汴京を南京として南侵の足がかりとする
- 紹興二十六年三月1156年金の挙兵を警告した梁勛が編管され、和議堅持の詔が出る
- 紹興二十七年二月1157年亮が天から宋を征せよと命じられた夢を語り南侵の議が固まる
- 紹興二十八年五月1158年遷都と伐宋の可否を問い、諫めた翟永固が退けられる
- 紹興二十八年秋七月1158年李通を参知政事として南伐の挙兵を議する
- 紹興二十八年冬十月1158年張浩らに汴京の宮室を営建させ、諫めた黄中が貶される
- 紹興二十九年春正月1159年通州で戦船を造り丁壮五十一万を徴発する
- 紹興二十九年五月1159年孫道夫が帰り、金が兵端の口実二つを挙げたと伝える
- 紹興二十九年六月1159年王綸が金に他意なしと復命し備えが遅れる
- 紹興三十年春正月1160年施宜生が隠語で金の出兵を洩らし、帰国後に煮殺される
- 紹興三十年八月1160年賀允中の警告が容れられず致仕する
- 紹興三十一年三月1161年陳康伯が挙兵を議し、呉拱を襄陽に置いて備える
- 紹興三十一年五月1161年金の王全が淮南・漢水の地を求め、欽宗の崩御が知れる
- 紹興三十一年六月1161年金主の亮が汴に遷都する
- 紹興三十一年秋七月1161年諸路の馬を徴発して国内が騒然となり盗賊が蜂起する
- 紹興三十一年八月1161年魏勝が兵を起こして海州を回復し金軍を新橋に破る
- 紹興三十一年九月1161年亮が六十万を号して大挙南侵し、王友直が大名を回復する
- 紹興三十一年冬十月1161年虞允文が采石で亮を破り、李宝が陳家島で金の水軍を焼く
- 紹興三十一年十一月1161年瓜洲で耶律元宜らが金主亮を弑し、金軍が北へ帰る
- 紹興三十一年十二月1161年両淮の州郡を回復し、帝が建康へ行幸する
- 紹興三十二年春正月1162年耿京が東平を回復し、辛棄疾が帰順の表を奉じる
- 紹興三十二年二月1162年帝が建康を発ち、張浚を留めて守らせる
- 紹興三十二年閏二月1162年辛棄疾が金営から張安国を縛って臨安に献じる
- 紹興三十二年夏四月1162年洪邁を賀登極使とし敵国の礼を用いて金へ遣る
- 紹興三十二年金人の海州再攻1162年張子蓋と魏勝が石湫堰で金の大軍を破る
- 紹興三十二年六月1162年和議のため三招討司を廃し、李顕忠の北伐計画がやむ
高宗紹興二十年三月(1150年)
- 参知政事の余堯弼を金に遣って即位を賀した。帰るとき、金主の亮は上皇の玉帯を託して帝に贈った。その秘書の張仲軻が、これは世にまれな宝だと言うと、亮は、江南の地はいずれ我が物になる、これはその外府に置いてあるだけだと言った。仲軻はこれによって金主に南侵の意があると知り、以後は何事も先回りしてその意を迎えた。
紹興二十一年二月(1151年)
- 巫伋を金国祈請使とした。伋は金に至ってまず靖康帝の帰国を請うた。金主は、帰したところでどこに置くつもりか分からぬと言い、伋はただ承って退いた。
紹興二十三年三月(1153年)
- 金主の亮が上京から燕へ移り、燕京を中都大興府、汴京を南京と改め、上京の名を削って会寧府とだけ称し、また中都大定府を北京と改めた。東京遼陽府と西京大同府はもとのままとした。完顔長寧を南京留守として経営させ、南侵の足がかりとした。まもなく汴京で大火があり宮室が焼け尽くしたので、金主は大いに怒って長寧を杖殺した。
紹興二十六年三月(1156年)
- 東平の進士の梁勛が上書して、金人は必ず兵を挙げるから備えるべきだと述べた。帝は怒って勛を千里の外の州軍に編管し、詔を下して、講和の策は朕の意で決めたもので、秦檜はそれを助けたにすぎない、その存亡で定めた議を変えるものか、近ごろ無知の輩が浮説を唱えて衆の耳を惑わし、詔命を偽造して旧臣を召し用いさせようとし、公車に上章してみだりに辺事を議している、朕ははなはだ驚いた、今後こうしたことがあれば重く法に処すと述べた。
紹興二十七年二月(1157年)
- 金主の亮が武德殿に出て、臣下の吏部尚書の李通、刑部尚書の胡厲、翰林直学士の蕭廉を召し、坐を賜って語った。曰く――朕は即位以来、章奏を閲し宮中の事を治めてしばしば夜半に及んでようやく寝所に入る。先夜、床に就いたとき、恍惚として青衣の者二人が幢節を持って天から降り、朕に牒のような紙を授け、上帝の宣命だと言うのを目の当たりにした。朕は再拝して受け、弓矢を佩び兜と鎧をつけて従おうとすると、朕がいつも乗る小駿の「小将軍」がすでに鞍を置かれて階の下に控えていた。青衣に促されて騎乗して行くと、雲霧が馬蹄の間から立ちのぼり、下は海の波が湧き立つようで、胸が高鳴った。一つの門が開いていて金碧が輝いており、青衣が天門だと指した。入って一里ほどで鈞天の宮に至った。厳かで奥深く壮麗で、光が目を奪った。朕が馳せようとすると、金の甲を着た二人が、ここは人間の界ではない、馬を下りて歩いて入れと言った。殿の下では簾が垂れ、何かを待つようだった。しばらくして朱衣の者が出て拝礼を唱え、殿上で嬰児のような声がした。青衣が伝えて朕に、天策上将として宋国を征せよと告げた。朕は伏して謝し、また馬に乗ると、鬼のような兵が前後左右に果てしなく並んでいた。一矢を射ると万の鬼が一斉に応え、その声は雷のようだった。驚いて目覚めても、その応える声がなお耳に残っていた。朕はすぐ内侍を厩へ遣って小将軍を見させると、喘いで汗をびっしょりかいていた。箙を取って数えると矢が一本なくなっていた。これほどの符合は、天が我が手を借りて江南の車書を混一させようというのではないか――と。一同はみな祝賀し、南侵の議はいよいよ固まった。
紹興二十八年五月(1158年)
- 金主の亮が李通および翰林学士承旨の翟永固、宣徽使の敬嗣暉、翰林直学士の韓汝嘉を薫風殿に召して、朕は都を汴に遷し、そのまま宋を伐って海内を統一したいがどう思うかと問うた。通は、天の時と人の事を逃してはならないと答え、亮は大いに喜んだ。
- 永固が柱の間に退いて立っていたので、亮が見咎めて理由を問うと、永固は進み出て述べた。臣には愚見がある、一得を尽くさせていただきたい。本朝は海上に国を建てて以来、民はまだ德を見ないうちに兵を弄ぶことばかり聞かされている。古に、兵は火のようなもので収めなければ自らを焼くと言う。だから梁王ほどの武毅でさえ和を上策とした。今、宋室は一方に安んじ天命はまだ改まらず、金や絹で好を結んで年ごとの務めも欠けていない。それを名目のない師を出して遠征に事えようとするのは不都合だと考える。加えて中都は完成して数年もたたず、国庫は空虚で丁壮は疲れている。汴を営んで居るのは、根本の富裕の力を尽くして戦乱で荒れた地を修繕することになり、なおのこと適切でない。臣は陛下にお仕えする以上、正論で答えないわけにいかない、と言って地に伏して死を請うた。
- 亮が敬嗣暉と韓汝嘉に問うと、暉は通を是とし、汝嘉は永固を是とした。亮は大いに怒って袖を払って立ち、二人の臣を殿の脇に控えさせて旨を待たせた。続いて翰林待制の綦戩を召して漢の史と陸賈の新語のことを講じさせると、亮の怒りはやや解け、二人を赦した。翌日、汝嘉を右丞、嗣暉を参知政事とし、永固は致仕を願い出た。
紹興二十八年秋七月(1158年)
- 金が李通を参知政事とした。もと金主の亮は寵臣の秘書少監の張仲軻、左諫議大夫の馬欽、校書郎の田与信らを便殿に召して侍らせ、仲軻に、漢の疆域は七、八千里に過ぎなかったが、今の我が国は幅員万里、大と言えようと言った。仲軻は、本朝の疆土は大きいが、天下には四人の主がいる、これを一つにできてこそ大と言えると答えた。金主が、彼らに何の罪があって伐つのかと問うと、仲軻は、宋人が馬を買い器械を整え山東の叛亡の者を招き寄せていると聞く、罪がないとは言えないと答えた。
- 金主は喜んで、かつて梁珫が朕に、宋に劉貴妃という美貌の者がいると言った、今、一挙に両方が手に入る、俗に言う「ついでに腕を振る」というやつだ、江南は我が挙兵を聞けば必ず遠くへ逃げるだろうと言った。欽と与信もそろって、海島や南越の地までも臣らはみな道を知っている、彼らはどこへ行けようと答えた。金主は、それなら天が我に与えたのだ、朕が兵を挙げて宋を滅ぼすのは遠くとも二、三年、そのうえで高麗と夏国を平らげ、統一のあとに功を論じて位を進め将士に分け賞せば、彼らは労苦を忘れるだろうと言った。
- 当時、金主は累世の強盛を恃んで大いに征伐して天下を統一しようとし、天下が一家となってこそ正統と言えると言っていた。李通を参知政事とすると、通は金主の意を承け、仲軻・欽および側近の小人どもとともに、江南の富裕と子女玉帛の多さを盛んに言い立てて欲をそそった。金主は通を謀の主として南伐の挙兵を議した。
紹興二十八年冬十月(1158年)
- 金主の亮が左丞相の張浩と参政の敬嗣暉を汴京へ遣って宮室を営建させた。国子司業の黄中が使いから帰って上言し、金人が汴京を整えているのは必ず移り住んで我らに迫るためだ、早く備えねばならない、彼が本当に汴に来れば、精強な兵馬は数日で我が境に達すると述べた。宰相の湯思退は大いに怒り、中の官を貶した。
紹興二十九年春正月(1159年)
- 金主の亮は左丞相の張浩および敬嗣暉、内侍の梁漢臣と、中国の叛臣の孔彦舟に通州で戦船を造らせた。使者を遣って諸路の猛安・部族および契丹・奚の人を丁の数を問わず登録して徴発し、二十四万を得た。また中都・南都・中原・渤海の丁壮で二十歳以上五十歳以下の者をみな登録し、二十七万を得た。親が老いて丁が多くとも、一子を残して仕えさせてほしいという願いは容れられなかった。
- また使者を諸道の総管府へ分け遣って兵器の製造を督し、諸路に旧蔵の兵器をすべて燕に集めさせた。さらに汴の宮を建て燕の城を修めたので、民は堪えられなかった。矢羽根は一尺が千銭に達し、村々ではしばしば牛を殺して筋と革に充て、烏や鵲、犬や豚に至るまで害を受けないものはなかった。
紹興二十九年五月(1159年)
- 礼部侍郎の孫道夫が金から帰った。金主の亮は道夫に、帰ってお前の帝に伝えよ、我が上国に仕えながら不誠実なことが多い、今、二つだけ挙げる。お前の民で我が境に逃げ込む者は辺吏がみなただちに送り返しているのに、我が民でお前の境へ叛き入った者は、有司が求めても口実をつけて返さない。これが一つ。お前は沿辺で密かに鞍馬を買って戦陣に備えている。これが二つ、と言った。南侵しようとしてこの二つを口実に立てたのである。
- 道夫は帰って詳しく奏した。帝が、朝廷はきわめて手厚く遇しているのに、彼は何を名目に兵端を開くのかと言うと、道夫は、彼は自ら君を弑して位を奪った者だ、兵を起こすのに名目など問いましょうかと答えた。湯思退と沈該は同意しなかった。道夫は帝に対するたび武備を説いたので、該は張浚を引き立てようとしているのではないかと疑って忌み、知綿州に貶した。
紹興二十九年六月(1159年)
- 帝は金主の亮に南侵の意があると聞いて疑い、王綸を遣って探らせた。綸は帰って入対し、隣国は恭順で和好に他意はない、みな陛下の威德の致すところだと述べた。湯思退らはみな祝賀した。帝は、中外の議論はみな沿辺に軍馬を駐屯させ将帥を入れ替えて進取の計を立てよというが、万一軽々に動いて兵が連なり禍が結ばれれば、いつ終わるのかと言った。
紹興三十年春正月(1160年)
- 金が施宜生を遣って元旦を賀した。宜生は閩の人である。上は吏部尚書の張燾に都亭で接待させた。当時、諜者が金の亮が船を造り兵を調えていることを伝えていたが、上は深くは信じていなかった。接待役が故郷を懐かしむ話で宜生の気を引いて実情をそれとなく問うと、宜生は隠語で、今日は北風がひどく強いと言い、さらに机の筆を取って叩きながら、「筆来、筆来(速く来る、の意にかけた)」と言った。宜生は帰ってから副使に告げられ、金主に煮殺された。
紹興三十年八月(1160年)
- 賀允中が金から帰り、金人は必ず盟を破るから備えるべきだと述べたが、聴かれず、允中は致仕した。
紹興三十一年三月(1161年)
- 詔して廷臣に辺事を議させた。それ以前、陳康伯は金人が必ず盟を破るとして早く備えるよう請うていた。金人の南侵が決まったと聞くと、楊存中および三衙の帥を都堂に召して挙兵を議し、さらに詔して侍従・台諫にも合議させた。
- 康伯は上の旨を伝え、今日はもう和か守かは論じない、ただ戦うならどうするかを問う、と述べた。当時、上の意はしきりに軍を視察したがっていたが、内侍省都知の張去為は密かに用兵を妨げ、しかも退避の策を述べた。中外では閩や蜀への行幸という噂が乱れ飛び、人心は騒然としていた。朱倬は一言も述べなかった。
- 康伯は奏して、金の敵が盟を破ったのは天も人も憤るところ、今日の事は進むのみで退くことはない、聖意が固まれば将士の意気も倍する、三衙の禁軍を分けて襄陽・漢水を助け、敵が先に動くのを待って応じられたいと述べた。そこで利州路都統の呉拱を知襄陽として三千の兵で守らせ、退いて荊南を守らせ緩急に備えさせた。
紹興三十一年五月(1161年)
- 金人が淮南・漢水の地を求めてきた。もと金主の亮は行在の景物が繁華だと人に聞き、密かに画工を使者に紛れ込ませて臨安の湖山を描かせて持ち帰らせ、屏風にして自分の像を呉山の絶頂に馬を止めた姿で描き、その上に詩を題した。「馬を立つ呉山第一峰」の句がある。
- ここに至って僉書枢密院事の高景山と右司員外郎の王全を天申節の賀を名目に遣った。亮は全に、お前は宋主に会ったら、南京の宮室を焼いたこと、沿辺で馬を買ったこと、叛亡の者を招いたことの罪を面と向かって数え上げ、大臣をここへ来させよ、朕が自ら詰問すると言え、あわせて淮南・漢水の地を求めよ、従わなければ声を荒らげて罵れ、彼は決してお前を害せないと言った。怒らせて南侵の名目にしようとしたのである。また景山に、帰ったら全の言ったことを奏聞せよと言った。
- 全は臨安に至って金主の言うとおりに帝を罵った。帝が、公は北方の名家と聞くのに、なぜこうなのかと言うと、全はさらに、趙桓(欽宗)はもう死んだと言った。帝は初めて欽宗の崩御を聞き、そのまま挙哀し、王全の言葉を諸路の統制・帥守・監司に諭して、宜しきに従って変に応じ機会を失うなと命じた。
紹興三十一年六月(1161年)
- 金主の亮が汴に遷都した。
紹興三十一年秋七月(1161年)
- 金が諸路で馬を大量に徴発した。もと金は諸路から戸口に応じて馬を調え、五、六十万匹を数え、各戸に飼わせて待たせていた。ここに至ってさらに騾馬を大量に徴発し、官は七品まで一匹だけ留めることを許し、旧来登録した民の馬とあわせ、東にある馬は西軍へ、西にある馬は東軍へと交互に往来させた。昼夜絶え間なく、死んだ馬が道に散乱した。逃亡や紛失の多い者は官吏が罪を恐れて自殺することもあった。通る先々で民の田を踏み荒らし、馬を牽く人夫を徴発した。
- 河南の州県に、蓄えた糧米は大軍のためのもので他に用いてはならないと詔した。騾馬が至る所では秣を給すべきなのに給するものがなく、有司が請うと、金主の亮は、北方は近年、民間の蓄えがなお多い、今は稲が野に満ちているから田で放牧すればよい、かりに二年収穫がなくても何ほどのことかと言った。こうして国内は騒然となり盗賊が蜂起し、大きいものは城邑に連なり、小さいものは山沢に拠った。盗賊の事を報告する者があると、亮はそのつど杖打ってその官を退けた。太医使の祈宰が上疏して南伐を諫めると、亮は殺した。これによって群臣は物を言えなくなった。
- 金主の亮が国内にいた宋と遼の宗室を大量に殺した。全部で百三十余人。
- 徐嚞を金に遣って遷都を賀させた。嚞が盱眙に着くと、金主の亮は韓汝嘉を境まで遣って止めさせ、朕はここに着いたばかりだが、北方に小さな騒ぎがあると聞いたので中都へ戻るつもりだ、賀に来るには及ばないと言わせた。嚞は帰った。
紹興三十一年八月(1161年)
- 辛丑、宿遷の人の魏勝が兵を起こして海州を回復し、総管の李宝が制を承けて勝に州事を執らせた。勝は智勇に富み、初めは募りに応じて弓箭手となり山陽に住んでいた。金人が諸路の民を登録して兵にすると、勝は躍り上がって、今こそその時だと言い、義士三百を集めて北へ淮を渡り、漣水軍を取った。朝廷の德意を宣布して一人も殺さず、経営を整え、酒の課税と塩の専売を行った。北から帰順して来る兵卒があると、勝は寝食をともにして疑わないことを示し、貧しい者を援けて感激させた。これ以来、河北・山東から帰属する者は日ごとに増えた。
- 知海州事の高文富が兵を出して勝を捕らえようとしたが、勝は迎え撃って走らせ、城下まで追った。文富は門を閉じて固守した。勝は城外に多くの旗を立て烽火を上げて疑兵とし、また人を遣って諸門に向かって、金人が信を棄て盟に背いて名目もなく兵を興したこと、本朝の寛大な意を告げさせた。城中の者は聞いてすぐ門を開いた。ただ文富とその子の安仁が牙兵を率いて防いだので、勝は安仁と州兵千余人を殺し、文富を捕らえた。民はみな元どおり落ち着いた。
- 勝は人を遣って朐山・懐仁・沭陽・東海の諸県を諭してみな平定し、租税を免じ、罪囚を釈き、倉庫を開いて戦士を労い、忠義の士を五軍に分けた。紀律は明らかで統率は宿将のようだった。勝はさらに忠義の士を募って回復を図り、遠近は聞いて呼応し、十日で数千の兵を得た。勝の将の董成は部下千余人を率いて沂州に直入し、金の守将および軍士二千余人を殺して残らず降らせ、器甲数万を得た。
- 金は蒙恬・鎮国に一万余の兵で海州を取らせようとした。州の北二十里の新橋に至ると、勝は兵を率いて迎え、隘路に伏兵を置き陣を敷いて待った。衆が決死で戦い伏兵が起こって賊は大敗し、鎮国を殺して千人の首を取り三百人を降らせた。軍声はいよいよ振るい、山東の民はこぞって帰属を望んだ。勝は檄を伝えて招き諭し、結集して王師の到着を待った。
- 沂の民が蒼山に数十万で塁を築いていて金人に囲まれ、長く落ちなかった。砦の首領の滕𡒃が勝に急を告げ、勝は兵を率いて救援に向かい、山の下に陣を敷いた。金人は伏兵が多く、勝の兵は伏兵に遭ってみな砦へ駆け込んだ。金人が襲うと、勝は単騎で殿を務め、大刀で奮って撃った。金人は勝を望み見て将と知り、五百騎で幾重にも囲んだ。勝は駆け回って四方を撃ち、金の陣は開いてはまた合わさった。長く戦って身に数十の槍を受けながら、刃を冒して囲みを出た。金兵が追い、馬が矢に中って倒れると、歩いて砦に入り、当たる者はなかった。
- 金人はさらに急攻して水を絶ち、砦の中では乾飯を食い、牛馬を殺してその血を飲んだ。勝が黙って祈ると、にわかに雨が降った。金人はいっそう急に攻め、山を囲んで営を置いた。勝は金人が必ずまた海州を攻めると読み、隙を見て砦を出て城中へ向かった。金人は果たして蒼山の囲みを解き、新橋から城下に迫った。勝は出て戦っていずれも勝った。金兵は四面から攻め、勝は兵を募って城に登らせて防ぎ、矢石が雨のように降ること七日、金兵は死傷が多くて逃げ去った。
- 乙卯、劉錡が兵を率いて揚州に駐屯し、統制の王剛中に五千の兵で宝応に駐屯させた。
- 己巳、成閔を喪中から起用して京湖制置使とし、両路の軍馬を節制させた。
紹興三十一年九月(1161年)
- 金主の亮が大挙して侵入した。亮は諸道の兵を三十二軍に分け、左右の大都督および三道の都統制府を置いて統べさせた。賓都を左大都督、李通をその副、赫舎哩良弼を右大都督、烏延富勒琿をその副とし、蘇保衡を浙東道水軍都統制、完顔鄭家をその副として海路から臨安へ直行させた。劉萼を漢南道行営兵馬都統制として蔡州から進んで荊襄をうかがわせ、図克坦喀齊喀を西蜀道行営兵馬都統制として鳳翔から大散関へ向かわせ、駐軍して後命を待たせた。左監軍の図克坦津には別に二万の兵で淮陰に入らせた。
- 金主の亮は諸将を召して方略を授け、尚書省で宴を賜り、后の図克坦氏と太子の光英に留守させ、張浩・蕭玉・敬嗣暉を留めて省事を治めさせた。亮は戎服で馬に乗り装備を整えて出発し、妃嬪もみな従った。衆は六十万、百万と号し、氈の帳が連なり、鉦鼓の音が絶えなかった。李通が淮水の上に浮橋を架け、清河口から淮東に入ろうとしたので、遠近は大いに震えた。
- 庚辰、劉錡・王権・李顕忠・戚方に清河・潁河・渦河の口を守るよう詔した。
- 丁亥、高平の人の王友直が兵を起こして大名を回復し、使者を朝廷に遣った。友直は幼いころから父の王佐に従って中原回復の志を抱いていた。金主の亮が盟を破ったと聞き、豪傑と結んで、権道は事を済すためのもので、権が正に帰するなら理に背かないと述べ、そのまま制を偽って自ら河北等路安撫制置使と称し、その徒の王任を副使として州県にあまねく勤王を諭した。まもなく数万の衆を得て十三軍に編制し、統制などの官を置いて統べさせた。進んで大名を攻め、一挙に落とし、民衆を撫して紹興の年号を告げ、人を遣って朝廷に上申した。まもなく寿春から帰順し、詔して忠義都統制とした。
紹興三十一年冬十月(1161年)
- 金主の亮が淮を渡った。魏勝が背後をうかがうことを慮り、数万の軍を分けて海州を囲んだ。折しも李宝が水軍を率いて海路から膠西で敵を防ごうとしていた。勝が人を遣って迎え、宝は風に逆らって東海に至り、慷慨して士卒を励まして救援に赴き、勝とともに西橋で金兵を撃って破った。
- 勝は戻って北関を守った。金兵が関に迫ると、勝は関門に登って楽を張り酒を飲んで軍士を労い、固く守って出戦するなと命じた。しばらくして少数の兵を出し、険隘に拠って撃たせた。金人は攻められないと知り、軍を転じて河を渡り関の背後を襲った。勝は兵を収めて入城した。金人が沙堰を越えて城を囲んで営を置こうとしたが、勝は先に堰を押さえて防いだ。まもなく単騎で東門の外へ敵を追い、大声で叱ると、金の騎兵五百は風を望んで退いた。勝はさらに十数里追い、金兵は驚いて散った。
- 翌朝、金兵は濃霧に乗じて四面から城に迫って急攻した。勝は力を尽くして防ぎ、城上から溶かした金属を火牛に注いだ。金兵は前へ進めず死傷が多く、砦を払って逃げた。
- 辛丑、劉錡が兵を清河口に置いて金の軍を扼した。金人が氈で船を包み糧を積んで来たので、錡は潜水に長けた者にその舟を穿って沈めさせた。金人は渦口から淮を渡り、錡は淮陰に泊まって運河の岸に兵を並べて防いだ。
- 丁未、金人が曹国公の烏禄を遼陽で帝に立て、名を雍と改めた。金主の亮が汴京を発ってから、将士で道中に逃げ帰る者が多かった。哈斯罕明安の福寿、高忠建、盧万家の博索、路総管の黙音、東京穆琨の錦珠らは大名で甲を受けるとすぐ部隊ごと逃げ帰り、従う者は二万余に及び、みな道で公然と、我らはこれから東京へ行って新しい天子を立てるのだと言った。
- 当時、東京留守の烏禄は許王鄂爾多の子で太祖の孫である。仁孝で沈着、明達で衆心が帰していた。亮はかつて摩囉歓に淮北の諸王を図らせたことがあり、烏禄は聞いて憂え恐れていた。折しも旧吏の魯爾錦が汴から帰り、金主が母を殺したことなどを詳しく語り、あわせて宗室の兄弟を害する使者を遣ろうとしていると言った。烏禄はいっそう恐れ、舅の興元少尹の李石に謀った。石は先に副留守の高存福を殺すよう勧めた。烏禄が存福を捕らえて殺そうとしていたとき、ちょうど福寿らが軍を率いて東京に入ったので、ともに存福らを殺した。烏禄は宣政殿に出て即位し、大赦して大定と改元し、詔を下して亮の罪悪十か条を暴き、鄂爾多を帝に追尊した。
- 戊申、劉錡が都統の王権を遣って淮西に措置させた。権は錡の節制に従わず、金兵が大挙して来ると聞くとすぐ廬州を棄てて昭関に退き、兵はみな潰えた。錡はこれを聞いて淮陰から揚州へ退いた。金主の亮は廬州に入り、権は昭関から退いて和州を保った。
- 呉拱と成閔が兵を遣って唐州・鄧州の諸州を回復した。
- 丁巳、帝は王権の敗北を聞き、楊存中を内殿に召して敵を防ぐ策を議し、存中に陳康伯と議させた。海路に出て敵を避けようとしたのである。康伯は存中を招き入れ、衣を解いて酒を出した。帝はこれを聞いて自ら気を落ち着けた。
- 翌日、康伯は入って奏し、陛下に越や閩へ行幸するよう勧める者があると聞く、そのとおりなら大事は去る、静かに待たれるべきだと述べた。ある日、帝が突然、手詔を下して、敵が退かなければ百官を解散すると告げた。康伯は詔を焼いたうえで奏し、百官が散れば主の勢いは孤立すると述べた。帝の意が固まると、康伯は詔を下して親征することを請い、帝は従った。詔には、天と祖宗がともに基運を昌んにしてくださったのに、民と社稷を持ちながら自ら安逸に耽ってよいものか、といった語や、歳星が呉の分野に臨んでおり必ず淝水の勲を成す、闘士は晋の師に倍するのだから韓原の勝を決められる、といった語があった。
- 帝は平江に泊まり、葉義問に江淮の軍馬を督視させ、中書舎人の虞允文を参賛軍事とし、まもなく楊存中を御営宿衛使とした。
- 金人が真州を陥れ、統制の邵宏淵は迎え撃って敗走した。
- 庚申、王権が退いて采石に駐屯した。金主の亮は和州に入ったが、梁山濼の水が涸れて先に造った戦船が進めなかったので、李通に改めて船を造らせ、督責はきわめて厳しく、将士は日夜休めなかった。城中の民家を壊して材木とし、死人の脂を煮て油として用いた。
- 乙丑、金人が揚州を陥れた。劉錡は舟で真州・揚州の民を長江の南へ渡し、瓜洲に留まって駐屯した。金人が争ってくると、錡は歩将の呉超・員琦・王佐らに皂角林で防がせた。錡は重囲に陥り、馬を下りて決死で戦った。佐は歩兵を林中に伏せさせ、金人が入ったところで弩を張って一斉に放った。金人は運河の岸が狭く騎兵に不利なのでしだいに退き、追撃して大破し、その統軍の高景山を斬った。
- 丙寅、李宝が陳家島で金人を大破し、その将の完顔鄭嘉努を殺した。宝は海州の囲みを解いたあと、子の公佐とともに水軍を率いて膠西の石臼島に至った。敵の舟はすでに海口を出て陳家島に泊まり、山一つ隔てて対峙していた。当時は北風が強かったが、宝が石臼の神に祈ると、風が舵楼の中から起こり、鐘や鐸のような音がした。衆はみな奮い立ち、舟を進めて刃を握り戦いを待った。
- 敵の舟を操るのはみな中原の遺民だったので、遠くに宝の船を見ると敵兵を欺いて船内に入れ、王師が突然来たことを知らせなかった。風は速く舟は疾く、山を回って敵に迫った。鼓の音が震え海の波が躍り、敵は大いに驚いて碇を上げ帆を張った。帆はみな油を引いた纈で数里に連なり、風と浪に一隅へ巻き集められて隊列を保てなくなった。宝は火矢を射させ、煙と炎が上がって数百艘を焼いた。火の及ばぬ舟がなお前へ出て防ごうとすると、宝は壮士に叱咤してその舟に躍り込ませ、短兵で撃ち殺した。三千余人を降らせ、その帥の完顔鄭嘉努ら六人を斬り、倪詢らを捕らえて朝廷に送った。その統軍の符印と文書・器甲・糧穀を万を数えるほど得、運びきれない残りはすべて焼いた。火は四昼夜消えなかった。
紹興三十一年十一月(1161年)
- 壬申、張浚を召して判建康とした。それ以前、秦檜が和を主張してからは安穏に構えて辺事を顧みなかった。浚は時事を力説しようとしたが、母の計氏が高齢で、言えば必ず禍を受けると思っていた。計氏はそれを知り、その父の計咸が紹聖の初めに書いた制策の、臣は言って斧鉞に死ぬほうがよい、言わずに陛下に背くには忍びない、という句を誦した。浚の意は決まり、上疏して、当今の事勢は頭や心腹の間に大きな腫れ物を養うようなもので、切らなければ止まらない、遅ければ禍は大きく治しにくく、早ければ禍は軽く治しやすい、陛下には心に謀り独りで断じ、真偽を慎んで察し不意に備えられたい、そうしてこそ社稷は安全だ、さもなければ後で臍を噬むことになると述べた。事が三省に下されると檜は大いに怒り、浚を連州に貶して居住させた。
- 檜が死んでも朝廷はまた檜のときと同じく和を頼れるものとしていた。浚はそのころ喪中だったが、星の異変で言論が求められた折、金が数年のうちに必ず口実を作って兵を用いるのに、こちらは安逸に溺れて備えないことを憂えた。沈該と万俟卨が宰相の位にあって、とりわけ天下の望みに応えていなかった。浚は大臣として休戚を同じくする義があるとして喪中を憚らず、また上疏して極言した。台諫が、浚は罪籍に名があるのに異議を唱えて国是を動かしていると論じ、また永州居住に貶された。
- ここに至って殿中侍御史の陳俊卿が上疏して浚の忠誠を極言し、帝は悟ってこの任命となった。
- 王権を行在に召し、李顕忠を代わりにその軍を率いさせた。
- 金人が瓜洲を侵した。当時、劉錡は重病で兵権を解くことを求め、甥の中軍統制の劉汜に千五百人で瓜洲を塞がせ、李横に八千人で固守させていた。詔で錡を鎮江へ戻して江の防備に専念させたので、両淮の地はすべて失われた。金人の攻囲はいよいよ急になり、汜は克敵弓で射て退けた。
- 葉義問が鎮江に至って錡の病が重いのを見て、李横に錡の軍を代行させ、そのまま兵を督して渡江させた。衆は不可としたが、義問は強行した。汜が出戦を請うたが錡は許さなかった。汜は家廟に拝して出た。金人の鉄騎が突然、長江のほとりに至ると、汜が先に退き、李横は孤軍で当たれずやはり退いて都統制の印を失った。横の左軍統制の魏俊、右軍統制の王方が戦死し、横と汜はかろうじて身一つで免れた。義問はこれを聞いて陸路で建康へ逃げた。
- 乙亥、金主の亮が長江に臨んで台を築き、自ら金の甲を着けて台に登り、黒い馬を殺して天を祭り、羊一頭と豚一頭を長江に投じた。璸都らを召して、舟はもう揃った、江を渡れると言った。富勒琿が、宋の舟はきわめて大きく、我が舟は小さくて遅い、渡れないかもしれないと言うと、亮は怒って、お前は昔、梁王に従って趙構を海島まで追ったではないか、あれもみな大舟だったのかと言い、明日渡江して朝食を玉麟堂で摂ると誓い、先に渡った者には黄金一両を与えるとした。亮は岸に黄旗と紅旗を立てて進退の号令とした。
- 当時、葉義問は虞允文に蕪湖へ行って李顕忠を迎え、王権の軍を引き継がせ、あわせて軍を労わせようとしていた。允文が采石に着くと、権はすでに去り顕忠はまだ来ておらず、敵の騎兵が満ち、官軍は三々五々散らばって鞍を外し甲を解いて道端に坐っていた。みな権の敗兵だった。允文は、坐して顕忠を待てば国事を誤ると考え、ただちに諸将を召して忠義をもって励まし、金帛と辞令はすべてここにある、功ある者に与えると述べた。衆は、これで主ができた、死戦させてくれと言った。
- ある者が允文に、公は軍を労う命を受けたので督戦の命は受けていない、他人が壊した責めを公が負うのかと言った。允文は叱って、危機が社稷に及んでいる、自分がどこへ避けようかと言った。
- そこで諸将に大陣を敷いて動かないよう命じ、戦船を五つに分け、二つを東西の岸に、一つを中流に置いて精兵を隠して戦いを待たせ、二つを小さな入り江に隠して不測に備えた。配置がちょうど終わったところで敵が大声を上げ、亮が小さな紅旗を振って数百の船を指揮して江を渡って来た。瞬く間に南岸に着いた七十艘が官軍に迫り、軍はやや退いた。允文は陣中に入って統制の魏俊の背を撫でて、お前の胆略は四方に聞こえている、陣の後ろに立っているのは女子のすることだと言った。俊はただちに双刀を振るって出、士は決死で戦った。中流では官軍が海鰌船で敵の舟に衝き当たり、いずれも真っ二つに沈めた。敵は半ば死に半ば戦い、日暮れになっても退かなかった。折しも光州から潰兵が来たので、允文は鉦鼓を授けて山の後ろから回り出させた。敵は援軍が来たと疑って初めて逃げ、允文はさらに強弩で追い射させて大敗させた。
- 金兵が和州に戻ると、亮は長江で死ななかった者をみな打ち殺した。折しも曹国公が東京で即位して大定と改元したという報せが届いた。亮は腿を打って嘆き、朕はもともと江南を平らげて大定と改元するつもりだった、これは天ではないかと言い、かねて書いておいた「一たび戎衣を取れば天下大定す」と改元の件を出して群臣に示した。そして諸将帥を召して北へ帰ることを謀り、あわせて兵を分けて渡江させようとした。
- 李通は、陛下は親征して深く異境に入られた、功なくして帰り、衆が前で散り敵が後ろに乗じては万全の計ではない、兵を留めて渡江させ車駕が北へ帰れば諸将も心を離す、今、燕北の諸軍で遼陽に近い者には異志があるかもしれない、まず兵を出して渡江させ、舟を集めて焼き、帰る望みを絶ち、そのうえで陛下が帰れば南北ともに日を指して定まると述べ、亮は同意した。
- 允文は亮が敗れた以上、翌日また来ると読み、夜半に諸将を配置し、海船を分けて上流へ引き上げ、別に盛新に水軍で楊林河口の金人を遮らせた。翌朝、敵は果たして来たので挟撃してまた大敗させ、その舟三百を焼いた。
- 敵が偽の詔を送って王権を諭し、前から約束があったかのように装った。允文は、これは反間だと言い、返書して、権は退軍のため法に処した、新しい将は李顕忠だ、快く戦って雌雄を決したいと述べた。亮は書を得て大いに怒り、龍鳳の舟を焼き、梁漢臣と船を造った二人を斬り、軍を率いて揚州へ向かい、符宝郎の耶律満達に神果軍を護らせて淮の渡しを扼させ、軍中から淮上へ戻る者で都督府の文書を持たない者はみな殺した。
- 丁亥、劉錡が病で罷められた。李顕忠が采石に着き、虞允文は、敵が揚州に入れば必ず瓜洲の兵と合流する、京口には備えがない、自分が行く、公は兵を分けて助けてくれるかと言った。顕忠は一万六千を分け与え、允文は京口に戻った。
- 当時、敵は滁河に重兵を置き、三つの水門を造って水を数尺ためて瓜洲の口を塞いでいた。楊存中・成閔・邵宏淵の諸軍はみな京口に集まり、合わせて二十余万。允文は戦艦が少なくて足りないので材木を集めて改造させ、張深に滁河口を守らせて大江の要衝を扼させ、苗定を下蜀に置いて援けとした。
- あわせて劉錡を訪ねて病を見舞った。錡は允文の手を執って、病など問うに及ばない、朝廷は三十年も兵を養いながら一つの技も施せず、大功はかえって一人の儒生から出た、我らは恥じ入って死にたいほどだと言った。錡は重病のため召し還されて提挙万寿観となった。詔して成閔らを招討使とし、閔は淮東、李顕忠は淮西、呉拱は湖北・京西を担当した。
- 乙未、金主の亮が瓜洲に至り、亀山寺に居た。虞允文は楊存中と長江に臨んで演習し、戦士に踏車船を漕がせた。中流を上下して金山を三度回り、飛ぶように旋回した。敵は弓を引き絞って待っていたが、顔を見合わせて驚いた。亮は笑って、紙の船だと言った。ある将が跪いて、南軍には備えがあり軽んじられない、揚州に留まってゆっくり進取を図られたいと奏したが、亮は怒って五十回杖打った。
- 諸将を召して三日以内に渡江せよ、さもなければ皆殺しにすると約した。驍騎の高僧が仲間を誘って逃げようとして露見すると、亮は衆に刃で切り刻ませた。そして令を下し、軍士が逃げればその富勒堅を殺し、富勒堅が逃げればその穆琨を殺し、穆琨が逃げればその明安を殺し、明安が逃げればその総管を殺すとした。これで軍士はいよいよ危ぶみ恐れた。
- 亮はさらに軍中に鴉鶻船を瓜洲へ運ばせ、翌日渡江する、遅れる者は死罪と定めた。衆は逃げ帰ろうとし、浙西都統制の耶律元宜および明安の唐古烏葉と計を決め、前は淮に阻まれて渡ればみな捕らわれる、近ごろ遼陽で新しい天子が即位したと聞く、共に大事を行い、そのうえで軍を挙げて北へ帰るほうがよいと言った。元宜は同意し、翌朝、衛軍の交替の際に決行すると期した。
- 夜明け、元宜らは諸将を率いて衆で亮の陣営に迫った。亮は騒ぎを聞いて宋兵が突然来たと思い、衣を取って急いで起きたところ、矢が帳の中に入った。亮が取って見て驚き、これは我が兵の矢だと言った。近侍の大慶山が、事は急です、出て避けられよと言うと、亮は、逃げてどこへ行けようと言い、弓を取ろうとしたところで矢に中って倒れた。延安少尹の納哈塔斡里雅布がまず刃を加え、手足がなお動いていたので縊り殺した。軍士は行営の調度を残らず奪い、驍騎指揮使の大磐の衣と頭巾でその屍を包んで焼いた。その妃嬪および李通・郭安国・図克坦永年・梁珫・大慶山らを捕らえてみな殺した。元宜は自ら左領軍副大都督となり、人を遣って太子の光英を汴で殺させ、軍を三十里退け、人に檄を持たせて鎮江の軍へ和を議しに行かせた。まもなく荊襄・両淮にいた金軍もみな柵を払って北へ帰った。
- もと金人が辺境を侵したとき、鄭樵は歳星の分野が宋にあるから金主は自滅すると言ったが、果たしてそのとおりになった。
- 金主の雍は亮が殺されたと知って燕京に入った。
紹興三十一年十二月(1161年)
- 成閔と李顕忠が両淮の州郡を回復した。
- 張浚が建康に至った。それ以前、浚は召されて岳陽に至り、舟を雇って風雪を冒して進んだ。当時は金兵が満ちており、浚は東から来た者に、敵兵は盛んで采石を焼いて煙と炎が天を覆っている、軽々に進まぬようにと言われた。浚は、自分は君父の急に赴くのだ、ただ前へ進んで乗輿の所在を求めるだけだと答えた。当時、長江には北岸へ向かう舟が一艘もなかったが、浚は小舟でまっすぐ進んだ。
- 池陽を過ぎたとき、金の亮が敗れ、残る二万がなお和州に駐屯し、李顕忠の兵が砂州にいると聞き、赴いて労った。一軍は浚を見て天から降ったようだと思った。浚は軍を労い終えるとすぐ建康へ向かい、先に通判の劉子昂に牒して行宮の儀物を整えさせ、ここに至って車駕の行幸を請うた。帝は従った。
- 戊申、帝が建康へ行幸した。張浚が道の左で迎え拝すると、衛士で手を額に当てて拝まない者はなかった。浚は喪中から起用されて用いられ、風格は隠然として、軍民はみなこれを頼りとした。
紹興三十二年春正月(1162年)
- 山東の人の耿京が兵を起こして東平を回復した。当時、金の亮が死んで中原の豪傑が並び起こった。京は東平に拠って自ら東平節度使と称し、歴城の人の辛棄疾を掌書記とした。棄疾が京に帰順を勧め、京は棄疾に表を奉じて行在へ赴かせた。帝は大いに喜んで厚く賜り、京を知東平府とした。
- 金主の雍が南征の軍を解散するよう令を下し、高忠建を報諭宋国使として即位を告げさせた。
紹興三十二年二月(1162年)
- 癸卯、帝が建康を発った。出発に際して張浚に、卿がここにいれば朕は北を顧みる憂いがないと語った。御史の呉芾は、建康は襄陽・漢水を控え淮甸を経略できる、大駕は留まって中原の望みをつなぐべきだ、臨安に還れば西北の勢いと呼応できなくなると述べたが、容れられなかった。
紹興三十二年閏二月(1162年)
- 辛棄疾が山東に至ると、耿京の将の張安国がすでに京を殺して金に降っていた。棄疾は海州まで戻り、衆と謀って、自分は主帥のおかげで朝廷に帰順したのに、思いがけず事が変わった、どう復命しようかと言い、李宝・統制の王世隆・忠義の人の馬全福らと約してまっすぐ金の陣営へ向かい、その帳中で安国を縛って臨安へ献じ、斬った。詔して棄疾に江淮判官を授けた。
紹興三十二年夏四月(1162年)
- 戊子、金の高忠建が臨安に至り、返礼の使者を遣って即位を賀することを議した。工部侍郎の張闡は、使者を遣る命を厳しくして敵国としての礼を正すべきだ、彼が従わなければ戦うまでだ、そうすれば中国の威は再び振るえると請い、帝は同意した。
- そこで洪邁を賀登極使とした。帝は執政に、先ごろの講和はもともと梓宮と太后のためで、身を屈し言葉を低くすることも厭わなかった、今は両国の盟がすでに絶えた以上、名を正し境を画し、朝儀と歳幣をまず定めるべきだと語った。邁はそこで接伴の礼儀十四か条を奏した。まもなく忠建が臣下の礼で応対することや新たに回復した州郡を返すことを求めたが、陳康伯が道義で退けたのでやめた。
- 邁は敵国の礼で書を用いて出発した。帝は手札を邁に賜り、祖宗の陵寝は三十年も隔てられ、時に応じて清掃も祭祀もできない、心から痛む、彼が河北を返すというなら、たとえ尊位を旧のままにしたいと言われても、身を屈することを何ほど惜しもうかと述べた。
- 燕に至ると、金の閤門は国書を見て形式が違うと言い、その場で表中の「陪臣」の二字を改めさせ、朝見の儀もどうしても旧礼を用いさせようとした。邁は不可として譲らなかった。金は使館を鎖して三日、水も食物も通さなかった。金人に会っても言葉は無礼で、邁を抑留しようとしたが張浩が不可としたので帰された。
紹興三十二年(1162年)金人の海州再攻
- 金人がまた海州を攻め、鎮江都統の張子蓋と魏勝がこれを破った。金人は改めて烏津太師を遣り、諸路の兵二十余万を発して海州を攻めた。まず一軍を州の西南へ遣って勝の軍の糧道を断とうとしたので、勝は精悍な三千余騎を選んで石闥堰で防いだ。金軍は進めず、夜になってようやく引き揚げ、千人を残して険隘に備えさせた。金兵十万が奪いに来ると、勝は衆を率いて激戦し数千人を殺し、残りはみな逃げ、勝は城に戻った。
- まもなく金兵が城を幾重にも囲んだ。勝は郭蔚と兵を分けて防ぎ、あるいは単独で出て撹乱して休ませず、あるいは夜に兵を出して陣営を襲い、あるいはその攻城具を焼いた。やがて金人が力を合わせて急攻したので、勝は李宝に急を告げ、宝は上申した。命じて張子蓋を援けに赴かせ、石湫堰に泊まった。金人が一万騎を河の東に並べると、子蓋は精鋭数千騎を率いて撃った。統制の張汜が陣を横切ったところで流れ矢に中って死んだ。子蓋は、事は急だと言い、腕を振るって大喝して陣に駆け入り、勝らも続いて決死で戦った。賊は大敗し、押し合って石湫河に溺れ死ぬ者が半ばに及び、囲みは解けた。
紹興三十二年六月(1162年)
- 三招討司を廃した。金人と和を議したためである。
- もと李顕忠は密かに金の都統の蕭琦と結んで内応させ、出師を請うていた。宿州・亳州から汴へ向かい、汴京から関中・陝西へ通じさせ、関陝が通じれば鄜延一路は自分の威名をよく知っているので必ず呼応すると考え、あわせて旧部曲数万を起こして河東を取ろうとしていた。折しも罷兵の詔が出てやめになった。
- 顕忠はもとの名を世輔といい、綏德青澗の人で、代々蘇尾九族都巡検使を務めた。十七歳で父の永奇に従って陣に出入りし、勇猛敏捷で知られた。もと金人が延安を陥れて永奇父子に官を授けたとき、永奇は集まって泣き、我らは宋の臣だ、代々国恩を受けながら彼に用いられるのかと言った。
- 折しも劉豫が世輔に馬軍を率いて東京へ赴かせた。永奇は密かに、お前が機に乗じられるなら本朝に帰れ、自分のために志を二つにするな、事が成れば自分も朽ちないと戒めた。世輔は東京に至り、烏珠に従って一万騎で淮上に狩りをした。世輔は呉俊を遣って淮水の馬で渡れる所を探らせ、烏珠を捕らえて帰朝しようとしたが、俊が戻って竹の刺で馬を傷めたと言ったのでやめた。
- 烏珠は世輔を知同州とした。世輔は鄜へ行って父を訪ねた。永奇は、同州から南山に入る道は金人の往来する駅路だ、そこでその首領を捕らえ、洛水・渭水を渡り商州・虢州から帰朝せよ、ただ自分に知らせてくれれば、自分は兵で延安を取って帰ると言った。
- 金の薩里罕が同州に来ると、世輔は計を用いて捕らえ、城を出て洛河まで駆けたが、舟が遅れて渡れず、追撃の騎兵とたびたび戦っていずれも勝った。世輔が高台で休んで見ると追手はいよいよ多い。薩里罕が頬を打って哀れを乞うたので、世輔は矢を折って誓わせ、同州の人を殺さないこと、自分の肉親を害さないことを約させた。薩里罕が承知したので突き落とすと、追兵が争って救い、薩里罕は助かった。
- 世輔は老幼を連れて長駆して北へ向かい、鄜城に至って急ぎ人を遣って永奇に告げた。永奇はただちに家を挙げて城を出たが、馬翅谷で金人に追いつかれ、家族三百口はみな害された。世輔はわずか二十六人で夏へ奔った。
- 夏に着くと夏人が事情を問うた。世輔は泣いて父母妻子を失った次第を語り、歯噛みして憤り、すぐにも死にたいほどだ、二十万の衆を得て薩里罕を生け捕り、陝西五路を取って夏に帰したいと述べた。夏主は世輔を延安経略使とし、その臣の王樞・伊特阿とともに出師させた。紹興九年五月のことである。
- 世輔が延安に至ると、総管の趙惟清が大声で、鄜延は今また本朝に帰し、赦書も出ていると言った。世輔は赦文を取って見、官属とともに並んで拝した。そして旧部八百余騎で王樞・伊特阿に会いに行き、自分はすでに延安府を得た、講和の赦書もある、招撫として自分の部隊を率いて帰国したいと諭した。伊特阿は従わず、初めは経略が兵を乞うて陝西を取ると言ったのに、着いた途端に自分たちに帰れと言うのかと言った。世輔は勢いが許さないと見て刀を抜いて伊特阿に斬りかかったが当たらず、王樞を捕らえて縛った。夏人が鉄鷂子軍で来ると、世輔は部下を率いて駆け、双刀を振るって向かうところ靡かぬものがなく、夏兵は大潰した。
- 世輔は榜を掲げて兵を募り、驍勇の者一万を得た。そのうえで父母や弟・甥を害した者を捕らえて東市で斬った。鄜州まで来ると馬歩の軍四万余りとなり、河池で呉玠に会い、まもなく行在へ赴いた。帝は再三慰労し、顕忠の名を賜った。