宋史紀事本末西夏への用兵(西夏用兵)

英宗治平の大順城の戦いから徽宗宣和の童貫の敗戦まで、宋と西夏の攻防。种諤の綏州奪取が端緒となり、元豊四年の五路の大挙は霊州で潰え、翌年の永楽城では徐禧らが敗死して神宗は西伐の意を失った。元祐には四砦を返して和したが、紹聖に章楶が平夏城を築いて夏を圧し、元符に和議が成った。徽宗朝は蔡京・童貫が功を偽って辺を騒がせ、劉法の敗死に至る約50年間。

年表(14件)

英宗治平三年夏四月(1066年)・大順城の戦い

  • 夏人が辺を侵し、経略使の蔡挺が撃退した。
  • 先に夏主の諒祚が呉宗を遣わして即位を賀したが、宗の言葉が不遜だったので、詔して諒祚に宗を懲戒させた。諒祚は詔を奉ぜず、秦鳳・涇原に出兵して熟戸を掠め、辺塞を騒がせ、殺し掠めた人畜は万を数えた。
  • そのうえ大順城を侵した。環慶経略使の蔡挺は蕃官の趙明にこれを撃たせた。諒祚は銀の甲に氈の帽子で督戦したが、挺は先に強弩を壕の外に並べて矢を注いで射下ろし、諒祚は流れ矢に当たって逃げた。転じて柔遠を侵すと、挺はまた副総管の張玉に三千人で夜に出て営を騒がせ、賊は驚いて潰えて金湯に退いて屯した。
  • そして「さらに十万騎を出して大順を囲む」と言い触らした。折しも朝廷が歳賜の銀と幣を送るところだった。知延州の陸詵は「朝廷が姑息に慣れているから敵が狂悖を敢えてするのです。少しでも咎めなければ国威が立ちません」と言い、留めて与えず、宥州に牒を移して理由を問うた。諒祚は大いに気を挫かれて塞下を彷徨い、そこで使者を送って謝罪し、「辺の吏が勝手に兵を興したので、まもなく誅する」と言った。
  • もともと諒祚が侵入したとき、韓琦はその歳賜を停め、和市を絶ち、使者を遣わして罪を問うことを議した。文彦博は難色を示し、宝元・康定の頃の事を挙げた。琦は「諒祚は狂った小僧です。元昊のような智計はなく、しかもわが辺の備えは当時より遥かに勝っております。速やかに詰問すれば必ず服します」と言った。折しも陸詵の策が琦と合致し、諒祚は果たして帰順した。帝は琦を顧みて「まったくそなたの読みどおりだ」と言った。

治平四年(1067年)・詔と綏州の奪取

  • 春、夏主の諒祚が使者を遣わして土産を献じ謝罪した。当時、神宗が即位したばかりで、そこで詔を賜って言うには――私は夏国が数年来しばしば兵を興して辺陲を侵犯し、人民を驚かせ騒がせ、熟戸を誘い迫り、去秋にはさらに直接、大順を侵し、城砦を囲み迫り、村落を焼き、官軍に抗したと聞いている。辺からの奏が重ねて聞こえ、人情はともに憤り、群臣はみな夏国がすでに誓詔に違えたとして拒絶を請うた。先皇帝は寛恕を旨とし、ひとまずその端緒を詰して逆順の情を観、多くの議論を決しようとされた。そなたの遜った文書が命を受けるに及んだが、すでに仙馭が上賓されたことは悲しい。私が位を継いだばかりで、荒れを包む心を念とし、仰いで先の志に循い、俯してそなたの誠を諒とする。すでに前の咎を自ら省み、あらためて永い好を堅くしたいというのだから、もし奏封に述べた忠信が変わらぬなら、恩礼を加えることは年ごとに従来どおりとする。民を安んじ福を保つのは、よいことではないか。
  • 冬十月癸酉、青澗の守将の种諤が夏の監軍の嵬名山を襲って捕らえ、そのまま綏州を回復した。
  • 嵬名山の部落は旧綏州にあった。名山の弟の夷山が种諤に降伏を請うたので、諤は夷山を通じて名山を誘い、金の盂で賄賂した。名山の小吏の李文喜がこれを受け、ひそかに帰順を約したが、名山は知らなかった。諤はただちに報告し、あわせてこれに乗じて河南の地を取ろうとした。
  • 知延州の陸詵は「衆を率いて降ると言っても、実情は真偽が分かりません」と言い、諤にみだりに動かぬよう戒めた。諤は強く主張した。詔して詵に諤を召して事情を問わせ、あわせて転運使の薛向と撫納を議させた。そこで三策を画き、幕府の張穆之に入奏させたが、穆之は向の指図を受けて偽って「必ず成ります」と言った。帝は詵が協力しないと思い、秦鳳に移した。
  • 諤は命を待たず部下の兵をすべて起こして長駆し、名山の帳を囲んだ。名山はやむなく衆を挙げて諤に従って南下し、首領三百・戸一万五千・兵一万を得、そこでその地に城を築いた。夏人が争いに来たが、諤は撃破した。詵は初め諤の擅興の罪を弾劾して捕らえて処罰しようとしたが、果たさぬうちに秦州への転任の命が至った。西方の用兵はここから始まった。
  • 种諤が嵬名山の降伏を受けてから十一月に至り、夏主の諒祚は会議と偽って知保安軍の楊定らを誘い出して殺し、辺の釁がふたたび起こった。朝議は諤が事を起こしたとして綏州を棄て諤を誅そうとした。
  • 陝西宣撫主管機宜文字の趙卨は「敵はすでに王官を殺しました。そのうえ綏州を棄てて守らなければ、弱さを示すことが甚だしい。しかも名山は一族を挙げて帰順しました。どう処するのですか」と言い、あわせて執政に書を送って綏州を保って兵勢を張ることを請い、大理河川を測量して堡を建て、耕作の地三十里を画して降った者を住まわせることを請うたが、従われなかった。
  • そこで韓琦を判永興軍として陝西を経略させた。琦は初め綏州を取るべきでないと言ったが、楊定らが殺されると、あらためて綏州は棄てるべきでないと言った。枢密が初めの議で詰ると、琦は詳しくその理由を論じ、ついに綏州を保った。
  • 当時、言者は次々に种諤を論じ、そこで獄吏に下し、諤を四官降して随州に安置した。
  • この月、郭逵は楊定らを殺した首領の姓名が李崇貴・韓道善であることを探り出した。夏主の諒祚はそこで崇貴らを拘禁して差し出した。

神宗熙寧元年三月(1068年)・楊定の事の真相

  • 庚辰、夏主の諒祚が死に、子の秉常が立った。臣の薛宗道らを遣わして哀を告げた。帝が楊定を殺した事を問うと、宗道は「殺した者はすでに捕らえて送りました」と言った。
  • 李崇貴らが至って述べたところによれば、楊定が使いに来たとき諒祚は拝して臣を称し、あわせて沿辺の熟戸を返すことを許し、諒祚は宝剣・宝鑑および金銀の品を贈った。ところが定は帰るとき剣と鑑は上申しながら金銀は隠し、「諒祚は刺せます」と言った。帝は喜んで知保安軍に抜擢した。やがて夏人は綏州を失い、定が自分たちを売ったと考えて殺したのである。
  • ここに至って事が露見し、帝は崇貴らを軽く責めるにとどめ、定の官を削り、その万を数える田宅を没収した。劉航を遣わして秉常を夏国主に冊した。

熙寧三年八月(1070年)・環慶の侵入と韓絳

  • 己卯、夏人が環慶州を侵し、韓絳を陝西宣撫使とした。
  • 先に夏人が閙訛堡を築いたので、知慶州の李復圭は蕃漢の兵三千を合わせ、副将の李信と劉甫を遣わして防がせた。信らは大敗して還った。復圭は恐れて自ら言い逃れようとし、信らを捕らえて斬り、あらためて出兵して夏人を追い、その老幼二百人を殺して戦功として報告した。
  • ここに至って夏人が大挙して環慶に入り、大順城・柔遠砦・茘原堡を攻めた。兵は多いところは二十万と号し、少なくとも一、二万を下らず、榆林に屯し、遊騎は慶州の城下まで至り、九日たって退いた。鈐轄の郭慶ら数人が戦死した。
  • 韓絳が辺を巡ることを請い、王安石も請うた。絳は「朝廷はまさに安石を頼りとしております。臣が行くべきです」と言い、そこで絳を陝西宣撫使とし、空白の告身と敕を授けて自ら吏を任免できるようにした。ほどなく河東宣撫使を兼ねさせた。

熙寧四年正月~三月(1071年)・撫寧の失陥

  • 春正月己丑、韓絳が种諤に夏人を襲わせて破った。
  • 絳はもともと兵事に習熟せず、延安に幕府を開いたが措置は的外れだった。蕃兵を選んで七軍とし、あらためて种諤を鄜延鈐轄・知青澗城として信任し、諸将にみなその節制を受けさせたので、蕃兵はみな怨んだ。
  • 絳は諤と謀って兵を出して横山を取ろうとした。安撫使の郭逵は「諤は狂った書生にすぎません。朝廷はただ种氏の家柄で用いているだけです。必ず大事を誤ります」と言った。絳は逵が軍事を沮んだと奏して召し還した。
  • やがて諤は軍を率いて鄂羅特で夏人を襲って破り、そのまま二万の衆で城を築いた。以来、夏人は日ごとに兵を集めて報復を図った。呂公弼は「諤は辺の患いを熟させております。戒めるべきです」と言ったが、聴かれなかった。やがて絳が諤の夏に入った功を挙げて表彰を乞い、詔して従われた。
  • 三月丁亥、夏人が撫寧の諸城を落とした。
  • もともと种諤は進んで永楽川・賞逋嶺の二砦を築き、都監の趙璞と燕達を分け遣わして撫寧の故城および分荒堆・三泉・吐渾川・開光嶺・葭蘆川の四砦を築かせ、河東路の修築と互いに四十余里ずつ隔てていた。
  • やがて夏人が順寧砦を攻めに来、そのまま撫寧を囲んだ。折継昌と高永能らは兵を擁して細浮図に駐まり、撫寧とは目と鼻の先だった。羅鄂特の兵勢はまだ完全だった。諤は綏德で諸軍を節制していたが、夏人の到来を聞いて茫然として為す術を失い、書を作って燕達を呼ぼうとしても震えて筆が下ろせず、運判の李南公を顧みて涙を流しやまなかった。これにより新築の諸堡はことごとく陥ち、将士の死者は千余人に及んだ。
  • 詔して羅鄂特の城を棄て、諤の罪を治めて汝州団練副使に責授し、潭州に安置した。絳は師を興して敗れた咎で罷めて知鄧州となった。果たして郭逵の読みどおりであった。

元豊四年六月~十月(1081年)・五路の大挙

  • 六月、夏人がその主の秉常を幽閉した。知慶州の俞充は帝に用兵の意があると知り、たびたび夏の征伐を請い、あわせて「諜報によれば、夏の将の李清はもと秦の人で、秉常に河南の地を献じて帰属するよう説きました。秉常の母の梁氏がこれを知って清を誅し、秉常の政を奪って幽閉しました。師を興して罪を問うべきです。これは千載一遇の時です」と言った。帝はもっともとした。
  • 秋七月庚寅、熙河経制の李憲らに陝西・河東の五路の師を集めて大挙して夏を伐つよう詔し、鄜延副総管の种諤を召して入対させた。諤は至って大言して「夏国に人はありません。秉常は小僧です。行ってその腕を取って連れて来るだけです」と言い、帝は壮とし、そこで西伐を決意した。
  • 出師を議していたとき、孫固が「兵を挙げるのは易く、禍を解くのは難しい。なりません」と諫めた。帝が「夏に隙がある。取らねば遼人のものになる。失うわけにいかぬ」と言うと、固は「どうしてもというなら、その罪を鳴らして軽く伐ち、その地を分裂させて酋長に自ら守らせられたい」と言った。帝は笑って「これはまさに酈生の説だ」と言った。
  • そのとき執政に「まっすぐ河を渡るべきで、留まってはならぬ」と言う者があった。固は「では誰が陛下のためにこれを担うのですか」と言った。帝が「すでに李憲に属した」と言うと、固は「国を伐つのは大事です。それを宦者にさせては、士大夫の誰が用いられようとしましょうか」と言い、帝は不快だった。
  • 後日、固はまた「今、五路が進軍するのに大帥がありません。かりに成功しても兵は必ず乱れます」と言った。帝が適任者がいないと諭すと、呂公著が進み出て「罪を問う師には、まず帥を択ぶべきです。その人がなければ、やめるに如くはありません」と言い、固も「公著の言が正しい」と言った。
  • 帝は聴かず、ついに李憲に熙河から、种諤に鄜延から、高遵裕に環慶から、劉昌祚に涇原から、王中正に河東から出て分道して進むよう命じ、さらに吐蕃の首領の董氈に詔して兵を集めて合わせ伐たせた。
  • 八月丁丑、李憲は熙秦の七軍および董氈の兵三万を総べ、西市新城で夏人を破った。庚申、また女遮谷で襲って破り、斬獲は甚だ多かった。そこで古の蘭州城を回復し、帥府とすることを請うた。
  • 辛亥、鄜延経略副使の种諤が鄜延の兵を率いて綏德城から出て米脂を攻めた。夏人八万が救援に来たので、諤は無定川で戦って破り、ついに米脂を落とした。
  • 冬十月庚午、環慶経略使の高遵裕が歩騎八万七千を率いて慶州から出、夏人と戦って破り、通遠軍を回復した。种諤は曲珍に兵を率いさせて黒水・安定堡に通じさせ、夏人に遭ってこれも大破した。
  • 内使の王中正は涇原の兵を率いて麟州から出、無定河を渡り、水に沿って北へ行ったが、地はみな砂で湿り、士も馬も多く沈み、糧が続かなくなった。しかも功のないことを恥じて宥州に入った。当時、夏人は城を棄てて河北に走り、城中には遺民百余家がいたが、中正はこれを屠り、その牛馬を奪って食糧に充てた。
  • 当時、劉昌祚は蕃漢の兵五万を率いて高遵裕の節制を受け、両路の軍を合わせて夏を伐つことになっていた。境内に入っても慶州の兵が来ない。昌祚が瑪伊克隘に至ると夏の衆十万が険を扼していたので、大破し、そのまま霊州城に迫った。兵が門に入りかけたところ、遵裕はその功を嫉んで使者を馳せて止めさせ、昌祚は兵を按じて進めなかった。
  • 遵裕は到着して十八日、城を囲んだが落とせなかった。夏人が黄河の七級渠を決して営に注ぎ、さらに糧道を断ったので、士卒は凍え溺れて死に、そのまま潰えて還った。残る軍はわずか一万三千。夏人が追撃してまた破った。昌祚もまた涇原に還った。
  • 种諤は千人を留めて米脂を守らせ、自ら大軍を率いて銀州・石州・夏州を攻め、そのまま石堡城を破り、夏州に進んで索家平に駐屯した。折しも大校の劉帰仁が衆を率いて潰え、しかも軍の食が乏しく、さらに大雪に遭ったので引き揚げた。死者は数え切れず、塞に入った者はわずか三万人だった。
  • 王中正は宥州から奈王井まで行って糧が尽き、士卒の死者は二万人。そこで引き揚げた。
  • もともと詔して李憲に五路の兵を帥いて興州・霊州へ直行させるはずだった。憲は軍を総べて東上し、天都山の下に営し、夏の南牟の内殿とその館・庫を焼き、その統軍の星多哩鼎を追撃して破り、葫蘆河に駐まって、そのまま班師した。五路の兵はみな霊州に至ったが、憲だけが至らなかった。

元豊五年(1082年)・敗軍の処分と李憲の再挙

  • 春正月庚子、高遵裕らを貶した。
  • もともと夏人は朝廷の大挙を聞き、母の梁氏が廷で策を問うた。諸将の若い者はみな戦うことを請うたが、一人の老将だけが「ただ壁を堅くし野を清め、深く入らせておいて、精兵を霊州・夏州に集め、軽騎を遣わしてその輸送を断てば、戦わずして困らせられます」と言った。梁氏は従い、宋軍はついに功なく還った。
  • 帝は「私は初め孫固の言を迂遠と思ったが、今は悔いても及ばない」と言った。ここに至って敗軍の罪を問い、高遵裕を郢州団練副使に責授して本州に安置し、种諤・王中正・劉昌祚はいずれも降官した。
  • 李憲は蘭州・会州を開いた功で罪を贖おうとしたが、孫固は「兵法では期に後れた者は斬ります。まして諸路がみな至ったのに憲だけが行かなかった。赦せません」と言った。帝は憲に功があるとして、ただ勝手に還った理由を詰らせるにとどめ、憲は糧の輸送が続かなかったと言い訳したので、釈して誅さなかった。
  • 憲はさらに再挙の策を上げ、詔して涇原経略安撫制置使・知蘭州とし、李浩を副とした。
  • 三月壬寅、鄜延路副総管の曲珍が金湯で夏人を破った。
  • 夏四月、李憲が再挙して夏を伐つことを乞うた。帝が輔臣に諮ると、王珪は「先に憂えたのは費用の不足でした。朝廷が今、銭鈔五百万緡を出して軍食に供すれば余りがあります」と答えた。王安礼は「鈔は食べられません。必ず銭に換え、銭をさらに秣と粟に換えねばなりません。今、出征の期日まで二か月しかありません。どうして事を集められましょう」と言った。
  • 帝は「李憲は自ら備えがあると言っている。あの宦者ですらそうできるのに、そなたたちだけ意がないのか。唐が淮蔡を平らげたときは、ただ裴度の謀議だけが主と同じだった。今、公卿から出ず閹寺から出ている。私は甚だ恥じる」と言った。安礼は「淮西は三州にすぎませんが、裴度の謀があり、李光顔・李愬の将がありました。それでも天下の兵力を引いて年を重ねてようやく定まったのです。今の夏氏の強さは淮蔡の比ではなく、憲の才は裴度に匹敵せず、諸将に光顔・李愬の輩はおりません。臣は聖意に副えぬことを恐れます」と言った。
  • 六月辛亥、環慶経略司が将を遣わして夏人と戦って破った。戊辰、曲珍らが明堂川で夏人を破った。

元豊五年九月(1082年)・永楽城の惨敗

  • 知延州の沈括が、横山にことごとく城を築いて平夏を見下ろし、敵が沙漠を越えて侵入できぬようにすることを議した。种諤は自ら西討に功がなかったので、この策を朝廷に上げ、あわせて「工事を興すなら銀州から始めるべきです」と言った。帝はもっともとし、給事中の徐禧と内侍の李舜挙を鄜延に派して議させた。
  • 舜挙が退いて執政に赴くと、王珪は迎えて「朝廷が辺事を押班(舜挙)と李留後(憲)に属したからには、西を顧みる憂いはありませんな」と言った。舜挙は「四郊に壘が多いのは卿大夫の恥です。相公が国を執りながら辺事を二人の内臣に属してよいものでしょうか。内臣はただ禁廷の掃除の職に当たるべきで、どうして将帥の任に当たれましょう」と言った。珪に恥じた色はなく、聞く者は恥じた。
  • 徐禧が鄜延に至ると、种諤は「横山は延々千里、馬が多く耕作に適し、人物は勁悍で戦に長け、しかも塩と鉄の利があります。夏人はこれを頼りに生きております。その城壘はみな険を扼して守禦に足ります。今、工事を興すなら銀州から始め、次に宥州を移し、次に夏州を移す。三郡が鼎立すれば横山の地はすでに囊の中です。さらに次に塩州を修めれば、横山の強兵・戦馬・山沢の利はことごとく中国に帰します。その勢いは高きに居て見下ろすもの、興州・霊州もまっすぐ巣穴を覆せます」と上言した。
  • 徐禧は「銀州は明堂川と無定河の合流に拠るとはいえ、故城の東南はすでに河水に呑まれ、その西北はまた天塹に阻まれ、実は永楽の形勢の険阻さに及びません。まず永楽に城を築かれたい。ひそかに思うに、銀・夏・宥の三州が陥落して百年、一日にして回復するのはまことに壮挙です。ただ州を建てる初めは費用が莫大です。要衝を選んで堡砦を建置すれば、名は州でなくとも実はその地を有し、旧来の疆塞は腹心から出ることになります。すでに沈括と議して砦を各六つ築くことにしました」と上言した。
  • 諤は「もし永楽に城を築けば西夏は必ず力を尽くして争います。なりません」と言った。帝は禧の議に従い、詔して禧に諸将を護らせて永楽に城を築かせ、括には府を移して塞沿いに兵を総べて援けとさせ、陝西転運判官の李稷に糧食を主管させた。禧は諤が跋扈するとして、諤を留めて延州を守らせるよう奏し、自ら諸将を率いて築き、十四日で完成した。旧銀州から二十五里の地で、銀川砦の名を賜った。禧・括および李舜挙らは米脂に退き還り、兵一万を曲珍に属して永楽を守らせた。
  • 九月丁亥、夏人が永楽を落とし、徐禧らが敗死した。
  • 禧らが城を築いて去って九日後、夏人が千騎で新城に向かった。曲珍が禧に報せると、禧は李舜挙・李稷とともに救援に赴き、沈括を留めて米脂を守らせた。
  • 当時、夏人三十万がすでに涇原の北に屯していた。辺の人で告げに来る者が十数人あった。禧は「彼らが大挙して来るなら、これこそ私が功名を立て富貴を取る日だ」と言った。大将の高永亨は「城は小さく人は少なく、しかも水の泉がありません。守れぬのではないかと恐れます」と言ったが、禧は衆を沮むものとして械を着けて延州の獄に送った。
  • 禧が永楽に着くと、夏人は国を傾けて至った。大将の高永能は「先に至った者はみな精兵です。まだ陣を組まぬうちに急撃すれば驚き散り、後から至る者も敢えて進めますまい。これが常の勢いです」と言った。禧は「お前に何が分かる。王師は鼓を鳴らさず、隊列を成さぬうちに撃たぬものだ」と言い、刀を執って自ら士卒を率いて拒み戦った。
  • 夏人の衆は進んで城下に迫った。珍の兵は水際に陣したが、将士はみな恐れの色があった。珍は禧に「今、衆心はすでに揺れております。戦えません。戦えば必ず敗れます。兵を収めて城に入られたい」と言った。禧は「君は大将だ。どうして敵に遭って自ら先に退くのか」と言い、そこで七万人で城下に陣した。
  • 夏人が鉄騎を放って河を渡らせた。珍は「これは鉄鷂子軍です。半ば渡ったところを撃ってこそ勝てます。地を得られればその鋒は当たれません」と言ったが、禧は従わなかった。鉄騎が渡り終えると震わせ衝き、大軍が続いた。珍の精鋭は敗れて奔り、後陣を踏みにじった。夏人がこれに乗じ、珍の衆は大潰した。
  • 珍は残る衆を収めて城に入り、夏人は数里の厚さで囲み、しかもその水砦を占拠した。珍の士卒は昼夜、血戦した。城中は水が乏しくすでに数日、井戸を掘っても泉に届かず、渇死する者が十のうち六、七に及び、馬糞の汁を絞って飲むまでになった。
  • 括と李憲の援兵および糧食はいずれも夏人に隔てられて進めなかった。种諤は禧を怨んで救援の師を送らなかった。城中が大いに急を告げていたとき、折しも夜半に大雨となり、夏人が城を巡って急攻して城はついに陥ちた。
  • 禧・舜挙・稷・永能はみな乱兵に殺され、ただ珍だけが裸足で逃れた。将校の死者は数百人、失った士卒と役夫は二十余万。夏人は米脂城の下で兵を耀かして還った。
  • 熙寧以来、兵を用いて夏から葭蘆・呉保・義合・米脂・浮図・塞門の六堡を得たが、霊州と永楽の役で、官軍・熟羌・義保の死者は六十万人、銭穀・銀絹は数え切れなかった。
  • 報が届くと帝は朝に臨んで痛み悼み、そのために食を絶った。霊武の敗以来、秦晋は困窮し、天下は兵を息めることを待ち望んでいたのに、括と諤が攻め取る策を進め、禧は日ごろ辺事を自らの任として狂った謀で敵を侮り、ついに覆敗を招いた。以来、帝は初めて辺臣が頼りにならぬことを知って深く自ら悔い、西伐の意をなくした。夏人もまた困弊した。
  • もともと帝が禧を遣わしたとき、王安礼は「禧は志が大きく才が疎かです。必ず国事を誤ります」と諫めたが、帝は聴かなかった。敗れると帝は「安礼はいつも私に兵を用いず獄を減らすよう勧めた。まさにこのためだったのだ」と言った。また朝に臨むたびに「辺民の疲弊がこれほどとは。ただ呂公著だけがいつも私に言ってくれた」と嘆じ、そこで公著を知揚州に移した。

元豊六年~七年(1083-1084年)・蘭州の防衛と夏の和議申し入れ

  • 六年二月、夏人数十万が蘭州を囲み、すでに二つの関を占拠した。李浩は城を閉ざして拒み守った。鈐轄の王文郁は撃つことを請うたが、浩は「城中の騎兵は数百に満たない。どうして戦えようか」と言った。文郁は「賊は衆く我は寡ない。まさにその鋒を折って衆心を安んじ、しかる後に守るべきです。これが張遼が合肥を破った所以です」と言い、夜に決死の士七百余人を集め、城壁から縄で下り、短刀を持って衝いた。賊の衆は驚いて潰えた。当時、文郁を尉遅敬徳になぞらえ、知州事に抜擢した。
  • ほどなく夏人はふたたび分道して侵入したが、これも多く諸路に敗れた。中丞の劉摯は「熙河経略使の李憲は功を貪って事を起こし、一切が欺き罔うことから出ております。興慶で師を会わせる期日を避け、兵を止めて蘭州に城を築き、患いを今に遺しました」と言い、詔して憲を熙河安撫経略都総管に貶した。
  • 五月、夏人が麟州の神堂砦を侵し、知州の訾虎が自ら兵を督して出戦して破った。詔して虎に「今後、軽々しく出入りしてはならぬ。辺を侵されたときは副将に兵を出して防ぎ逐わせよ。利を失って威を損ない、敵の勢いを張るのを恐れる」と命じた。
  • 閏月、夏主の秉常もまた兵で困弊し、西南都統の昴星威明済勒に涇原の劉昌祚へ書を送らせ、従来どおり好を通じることを乞うた。昌祚が報告すると、帝は昌祚に諭して答えさせた。
  • 侵入してたびたび敗れ、国用がいよいよ尽きたので、夏は摩格・蔑密伊裕を遣わして貢を納め、表を上げて「臣は代々、朝廷に貢奉して欠かしたことがなく、近年に至ってもなお甚だ歓和でした。思いがけず佞人が誣いて離間し、朝廷はことさら大兵を起こして疆土と城砦を侵し奪いました。これによって怨みが結ばれ、年ごとに交戦するに至りました。今、朝廷が大義を示し、特に侵したところを返してくださるよう乞います。もし受け入れてくださるなら、あらためて忠勤を効します」と述べた。
  • 帝は詔を賜って「先ごろ権を握る強者が敢えて廃辱を行った。私はこれに震え驚き、辺臣に問わせたが、隠して報せなかった。王師が征いたのは罪を討ったのである。今、使者を遣わして庭に来り、辞と礼が恭順で、しかも国政がことごとく元に復したと聞く。いよいよ嘉して納れる。すでに辺の吏を戒めてみだりに出兵させぬこととした。そなたもまた慎んで先の盟を守れ」と言った。あわせて陝西・河東の経略司に、新たに回復した城砦の巡邏は二、三里を出ぬよう詔し、夏への歳賜はことごとく従来どおりとした。ただし侵した疆土の返還の乞いは許さなかった。
  • 七年春正月癸丑、夏人が蘭州を侵した。もともと李憲は、夏人がたびたび蘭州の河外に至りながら翺翔して進まないのを、必ず大挙するつもりだと考え、城守の備えを増していた。果たして大挙して侵入し、歩騎は八十万と号して蘭州を囲み、必ず取ろうとして衆を督して急攻した。矢は雨や霰のように降り、雲梯と革洞が百通りに進んだ。十昼夜に及んだが落とせず、糧が尽きて引き揚げた。ほどなくまた延州・德順軍・定西城および熙河の諸砦を侵した。
  • 九月、夏人が定州城を囲み、熙河の将の秦貴が破った。

哲宗元祐元年~七年(1086-1092年)・四砦の返還

  • 元祐元年秋七月乙丑、夏国主の秉常が没し、子の乾順が立った。
  • もともと秉常は阿拉雅を遣わして蘭州・米脂などの五砦を求めたが、神宗は許さなかった。帝が即位すると、秉常はあらためて使者を遣わして請うた。
  • 司馬光は「これは辺鄙の安危の機です。察せずにはおれません。霊夏の役はもともと我々から起こしたものです。今、その内附を許した以上、もし惜しんで与えなければ、彼らは必ず恭順しても益がないと考え、武力で取るに如くはないとするでしょう。小さくは上書して悖慢となり、大きくは新城を攻め落とす。そのときやむを得ず与えるなら、その国の恥は今日より甚だしくなりませんか。群臣は小を見て大を忘れ、近きを守って遠きを遺し、この無用の地を惜しんで兵を連ねて解けぬようにしております。どうか聖心を決して億民のために計られたい」と言った。文彦博も光と一致した。
  • 太后が許そうとしたとき、光はさらに熙河をも棄てようとした。安燾は固く争って「霊武から東はみな中国の故地です。先帝にこの武功がありました。今、理由もなく棄てれば、外藩に軽んじられるではありませんか」と言った。邢恕もまた「これは些細な事ではありません。辺の人に諮うべきです」と言った。
  • 光はそこで礼部員外郎で前の通判河州の孫路を召して問うた。路は輿地図を携えて光に示し、「通遠から熙州まではやっと一筋の径が通じているだけです。熙州の北はすでに夏の境に接しております。今、北関から大河に沿って蘭州に城を築いて初めて防ぎ蔽えるのです。もし敵に与えれば一道が危うくなります」と言い、光はやめた。
  • 折しも秉常が没して使者を遣わして哀を告げたので、詔して、元豊四年の用兵で得た城砦は、我が永楽で捕らわれた民を返したうえで、ことごとく画して返すこととし、穆衍を遣わして弔祭させた。衍は「蘭州を棄てれば熙州が危うく、熙州が危うければ関中が震えます。唐は河湟を失って以来、西辺に一つでも不順があれば警めが京都に及びました。今、二百余年、先帝の英武でなければ誰が回復できたでしょう。もし一朝にして委ねれば、後患がいよいよ前になり、悔いても及びますまい」と奏し、議はそこで止んだ。ほどなく使者を遣わして乾順を夏国主に封じた。
  • 五年二月己亥、夏人が永楽で掠めた吏士百四十九人を返した。そこで詔して米脂・葭蘆・浮図・安疆の四砦を返した。夏は地を得ていよいよ驕った。
  • 秋七月、夏人が来て疆界の画定を議した。
  • 六年九月、夏人が麟州を侵し、さらに府州を侵した。
  • 七年冬十月、夏人が環州を侵した。

紹聖三年~四年(1096-1097年)・金明の失陥と平夏城

  • 三年冬十月壬戌、夏人が鄜延を侵し、金明砦を落とした。
  • 夏人は四砦を得てから、連年、境界が定まらぬことを口実に辺境を侵擾し、しかも使者を遣わして蘭州一帯と塞門の二砦を交換したいと言ったが、朝廷は許さなかった。
  • 夏主の乾順はそこで母を奉じ、五十万の衆を率いて大挙して鄜延に入った。西は順寧・招安砦から、東は黒水・安定から、中は塞門・龍安・金明以南二百里の間を相次いで絶え間なく進み、延州の北五里まで至った。この月、長城から一日で金明に馳せ、営を連ねて城を囲んだ。乾順の母子は自ら桴と鼓を督し、騎を放って四方を掠めた。知麟州に備えがあると知ってふたたび金明に還り、しかる後、騎兵の精鋭は龍安に留めた。
  • 辺の将が兵をすべて挙げて襲ったが退かず、金明はついに陥ちた。守兵二千八百のうち脱れ得たのはわずか五人。城中の糧五万石、草千万束はみな失われ、将官の張輿は戦死した。
  • もともと帝は夏の侵入を聞いて泰然と笑い、「五十万の衆でわが境に深く入っても、数日を出ずして、勝っても一、二の砦にすぎず、必ず去る」と言った。やがて果たして金明を破って引き揚げた。
  • 四年夏四月甲辰、知渭州の章楶が平夏に城を築いた。楶は夏人の猖獗を見て、葫蘆河川に城を築き形勝に拠って夏に迫ることを上言し、朝廷は許した。
  • そこで熙河・秦鳳・環慶・鄜延の四路の師を合わせ、表向きは他の砦数十か所を修繕して怯えたふりをし、ひそかに版築と守戦の備えを整え、葫蘆河川に出て石門峡の江口と好水川の北岸に二砦を築いた。夏人はこれを聞いて衆を率いて襲いに来たが、楶は迎え撃って破った。二十二日で城が成り、平夏城・霊平砦の名を賜った。
  • 章惇はこれに因って夏人への歳賜を絶ち、あわせて沿辺の諸路に相次いで要害に城を築いて境土を進め拓かせた。全部で五十余か所に及んだ。
  • 八月、鄜延経略使の呂恵卿が宥州を回復した。恵卿が諸路の出兵と便に乗じた討撃を乞い、詔して河東と環慶をあわせて恵卿の期約に従わせた。恵卿はそこで将官の王愍を遣わして宥州を攻め破り、ほどなくまた威戎・威羌の二城を築くことを奏し、恵卿に銀青光禄大夫を加えた。当時、章惇はほしいままに辺の隙を開いたので、諸道が役を興して城を築き、たびたび爵と賞を受けた。

元符元年~二年(1098-1099年)・平夏の勝利と和議

  • 冬十月己亥、夏人が平夏を囲み、章楶が防いでその勇将の威明阿密西と寿監軍の美楞多布を捕らえ、斬獲は甚だ多かった。夏人は震え驚いた。勝報が届き、帝は紫宸殿に出御して賀を受けた。
  • 楶は涇原にあること久しく、かつて「夏は利を嗜み威を畏れます。懲らしめなければ辺は休まりません。少しずつその土地を取り、古の削地の制のようにしてわが囲いを固め、しかる後に諸路が兵を出して要害を択び、一度ならず二度と挙げれば、勢いは自ずと縮まります」と言っていた。章惇は楶と同宗で、その言は多く採られ、これにより州一つ、城砦九つを新設し、たびたび夏人を破った。しかも諸路が多く城砦を建てて夏に迫り、ここに至って平夏の勝利があり、夏人はふたたび振るわなくなった。
  • 二年三月丙辰、夏人が遼に援けを求めた。遼主は僉書枢密院事の蕭德崇を遣わして夏人のために和を議させ、あわせて玉帯を献じた。詔して郭知章に返答させ、返書に「もし果たして至誠から出て深く悔いて謝罪するなら、ゆっくり宜しきを測って自新の路を開こう」と述べた。
  • 冬十月、夏人と好を通じることを許した。夏人はたびたび敗れ、臣の凌囊・威明済勒らを遣わして謝罪し、あわせて誓表を進めた。詔して通好を許し、歳賜は従来どおりとした。以来、西陲の民はやや安んじた。

徽宗崇寧三年~四年(1104-1105年)・陶節夫と王厚

  • 崇寧三年十二月、陶節夫に陝西・河東の五路を経制させた。
  • もともと蔡京は節夫を任じて鄜延の帥とした。節夫は誕妄が格別ひどく、一つ城砦を築いて進むたびに「これは西人の要害で必ず争う地です」と奏した。一年たたぬうちに常調から枢密直学士に昇った。しかし一騎一卒も塞に出したことがない。敵と戦えば勝敗があるが、ただ築いて進むだけなら憂いがなく、しかもみな霊武から数百里も遠い、敵の来ぬ地だったので、みな成功として賞を論じられた。京が力を尽くしてこれを主張し、それでこの命があった。
  • 四年三月、王厚を郢州に貶した。
  • もともと蔡京は王厚に夏の卓羅右廂監軍の星多保忠を招かせようとした。厚は「保忠に帰順の意があっても、下に付き従う者がありません」と言い、たびたび上申した。京は厚をいよいよ厳しく責めた。厚はそこで弟を保忠のもとへ遣わしたが、帰りに夏の巡邏に捕らえられ、保忠は牙帳に召し出された。厚は「保忠はかりに夏に殺されなくとも、二度と軍政を領せまい。得たところで一匹夫にすぎず、事に何の益があろう」と言った。
  • 京は怒り、金帛で招き寄せるよう命じた。夏はそこで渭・延・慶の三路に兵を点検してそれぞれ数千騎を出没させ、遼に兵を借りると言い触らした。朝廷は京の計を用い、さらに西辺で夏人を招き寄せられる者があれば首謀・従者を問わず賞を斬級と同じくすると命じ、陶節夫に延安で大いに招き誘わせた。夏主が使者を遣わして遜って請うたが、いずれも拒み、さらにその放牧の者を殺させた。
  • 夏人はそこで鎮戎に入って数万口を掠め、羌の酋長の錫羅薩勒と兵を合わせて宣威城に迫った。知鄯州の高永年が防ぎに出たが、三十里行ったところで羌人に捕らえられた。都爾伯はその配下に「この者はわが国を奪い、わが宗族を漂泊させて居場所をなくした」と言い、そのまま殺してその心肝を探って食った。
  • やがて羌の衆はまた大通河の橋を分けて叛き、新しい疆土は大いに震えた。
  • 事が伝わると帝は怒り、自ら五路の将帥の劉仲武ら十八人の姓名を書き、御史の侯蒙に敕して秦州へ行って逮捕・処罰させた。蒙が秦州に至ると仲武らは囚人の服で命を聴いた。蒙は諭して「君らはみな侯伯である。獄吏に辱められる必要はない。ただ事実を答えよ」と言った。
  • 獄が成ると蒙は「漢の武帝が王恢を殺したのは、秦の穆公が孟明を赦したのに及びません。子玉が縊れて晋侯は喜び、孔明が亡んで蜀国は軽んじられました。今、羌がわが一都護を殺しただけで十八の将をこれによって死なせるのは、自ら手足を切るようなものです。身が病まずにいられましょうか」と奏した。帝は悟って処罰せず、ただ王厚だけが逗留の咎で郢州防禦使に貶された。

政和五年~宣和元年(1115-1119年)・童貫の用兵

  • 政和五年春正月、童貫は熙河経略使の劉法に歩騎十五万を率いて湟州から出させ、秦鳳経略使の劉仲武に兵五万を率いて会州から出させ、貫は中軍を率いて蘭州に駐まって両路の声援とした。仲武は清水河に至って城を築き屯守して還った。法は夏の右廂軍と古骨龍で戦って大破し、三千余級を斬った。
  • 二月、童貫に六路の辺事を領させた。当時、永興・鄜延・環慶・秦鳳・涇原・熙河にそれぞれ経略安撫司を置き、貫にこれを統領させた。かくて西辺の権はみな貫に属した。
  • 九月、王厚と劉仲武が涇原・鄜延・環慶・秦鳳の師を合わせて夏の臧底河城を攻めたが敗れ、死者は十のうち四、五に及んだ。童貫は隠して報告しなかった。ほどなく夏人が蕭関を大いに掠めて去った。
  • 六年春正月、童貫は劉法と劉仲武に熙秦の師十万を合わせて夏を攻めさせた。仁多泉城は城中の力が孤立し、守りも援けも至らなかったので降った。法はこれを受け入れながら屠った。渭州の将の种師道が夏の臧底河城を落とした。師道は种世衡の孫である。
  • 宣和元年三月、童貫は熙河経略使の劉法に朔方を取らせようとした。法は行きたがらなかったが強いて遣わされ、そこで兵二万を率いて出、統安城に至って夏主の弟の察克に遭った。察克は歩騎を三陣に分けて法の前軍に当たらせ、別に精騎を山に登らせてその背後に出した。
  • 大戦は七つの時(十四時間ほど)に及んだ。前軍の楊惟忠は敗れて中軍に入り、後軍の焦安節は敗れて左軍に入り、朱定国は力戦した。朝から暮れまで兵は飢え馬は渇き、死者は甚だ多かった。法は夜に乗じて逃げ、夜明けまでに七十里走って蓋朱峗に至ったが、守兵が追って首を斬って去った。
  • 察克は法の首を見て憐れみ、配下に「劉将軍は先に古骨龍と仁多泉で我らを破った。私はかつてその鋒を避け、天が生んだ神将と思っていた。今、一介の小卒に首を梟されようとは。その失は勝ちを恃んで軽々しく出たことにある。戒めずにはおれぬ」と語った。
  • そのまま勝ちに乗じて震武を囲んだ。震武は山峡の中にあり、熙秦の両路から糧を送れなかった。築城から三年の間に知軍の李明と孟清はいずれも夏に殺された。ここに至って城もまた陥ちようとしたが、察克は「この城を破るな。南朝の病巣として残しておけ」と言い、自ら引き揚げた。
  • 当時、諸将の築いた城砦はみな不毛で夏が争わぬ地だったが、関中と輔郡はそのために蕭条となった。
  • 劉法が敗死すると、童貫はかえって勝報として報告し、賞を受けた者が数百人に及んだ。
  • 六月、夏人が使者を遣わして帰順を申し出、詔して童貫に兵を罷めさせた。