宋史紀事本末蜀の賊を平定する(蜀盗之平)

博買務の設置と苛斂で困窮した蜀の民が、淳化四年に王小波の「貧富の不均を均す」の呼びかけで蜂起し、その死後は李順が大蜀王を号して成都に拠った乱と、その平定。王継恩・上官正・雷有終らがこれを破り、張詠が知益州として恩信と塩米の交換で蜀を治めた。数年後の咸平三年には益州の守備兵が符昭寿を殺して王均を推し再び大蜀を号したが、雷有終が益州を回復し、王均は富順で敗れて自死した。淳化四年(993年)から咸平六年(1003年)までを記す。

年表(8件)

太宗淳化四年春~十二月(993年)・王小波の乱

  • 蜀の青神の民の王小波が乱を起こした。もともと蜀が滅んだとき、その府庫の蓄えはことごとく汴京に運ばれた。その後、任にあたる者は競って功利を喜び、通常の賦税のほかに博買務を設け、商人が私的に布帛を売買することを禁じた。蜀の地は狭く民は多く、耕作だけでは足りないので、小民は貧窮し、兼併する者は安く買い高く売っていよいよ利を貪った。
  • 小波はそこで衆を集めて乱を起こし、「私は貧富の不均を憎む。今、お前たちのために均してやる」と言った。貧しい者が争って付き従い、青神を攻め、彭山を掠め、県令の齊元振を殺してその腹を裂いて銭を詰めた。日ごろ銭を愛したからである。賊党はこれによっていよいよ盛んになり、周辺の邑も呼応した。
  • 十二月、西川都巡検使の張玘が王小波と江原で戦い、玘は小波を射当てたが、その後、小波に殺された。小波も傷がもとで死んだ。その一党は小波の妻の弟の李順を帥に推し、州県を掠め、邛州と永康軍を落とし、衆は数十万に達した。

淳化五年正月~五月(994年)・李順の乱と平定

  • 春正月戊午、李順が漢州を攻め落とし、さらに彭州を落として成都を攻めた。転運使の樊知古、知府の郭載および官属は梓州へ逃れた。順は入城して占拠し、僭して大蜀王と号し、一党を四方に遣わして州県を攻め掠め、両川は大いに震えた。
  • 帝は大臣を遣わして撫諭することを議したが、趙昌言だけは「兵を遣わして急ぎ討ち、蔓延させないように」と請い、帝はこれに従った。宦者の王継恩を両川招安使として分路して討たせ、雷有終を峡路転運使とした。
  • 二月乙未、李順は楊広に数万の衆を分け与えて剣門を侵させた。上官正が剣門都監で、手勢に疲れた兵数百がいるだけだったが、忠義をもって励ましたところ勇気は百倍し、力戦して守った。折しも成都監軍の宿翰の兵が至り、正はこれと合わせて迎え撃ち、ほとんど斬り尽くした。残る三百人が成都に帰ると、順は衆を動揺させたと怒ってことごとく斬った。これ以来、賊の気勢は挫けた。
  • 当時、朝廷は蜀の賊の勢いを聞いて桟道を深く憂えていたが、正が孤軍で力戦して賊を破ったので、閣道の塞がりが解け、宋軍は長駆して進めた。
  • 李順が梓州を囲んだ。もともと知梓州の張雍は王小波の蜂起を聞くとただちに士卒を訓練し、強壮な者を募って城守の計を立て、綿州の金帛を運んで帑蔵を満たし、官属に武器を作らせて守備の備えをことごとく整えていた。ここに至って順は一党に二十万の衆を率いて梓州を囲ませたが、城中の兵はわずか三千。雍は智力を尽くして防ぎ、八十日に及んだ。王継恩が石智顒を援軍に送ると、賊はついに潰えて去った。
  • 己亥、王継恩の軍が綿州に至り、賊は潰走した。追撃して殺し、綿州を回復した。曹習を遣わして老渓で賊を破り、閬州・巴州・蓬州・剣州などを回復した。
  • 五月、宋軍は成都に至って賊の十万の衆を破り、三万級を斬り、李順を捕らえて成都を回復した。その一党の張余はさらに嘉・戎・瀘・渝・涪・忠・万・開の八州を攻め落とし、開州監軍の秦伝序が戦死した。
  • 辛未、成都府を降格して益州とした。

淳化五年八月(994年)・張詠の益州統治

  • 甲午、王継恩を宣政使とした。もともと中書は継恩の蜀の賊討伐の功により宣徽使に任じようとしたが、帝は「私は前代の史を読み、宦官に政に与らせたくないと思っている。宣徽は執政への足がかりだ。他の官を授けるにとどめよ」と言った。宰相が「継恩には大功があります。これでなければ報いるに足りません」と強く言うと、帝は怒って宰相を深く責め、学士の張洎・銭若水に議させて別に宣政使を立てて授けた。
  • 辛丑、張詠を知益州とした。当時、王継恩・上官正・宿翰らは兵を統べて賊を討ち、次第に成果を挙げていたが、軍を止めて進まず、もっぱら酒と博打に耽り、その部下は横暴に振る舞って掠奪し、残る賊がときおり勢いを盛り返していた。詠は着任すると正らを励まして自ら出陣させ、出発に際して酒杯を挙げて軍校に「そなたたちは国の厚恩を蒙っている。この行きで醜類を平らげるべきだ。もし軍を疲れさせて日を空費すれば、この地がそのままそなたたちの死に場所となろう」と告げた。正はこれによって深く入る決意を固め、大いに勝ちを収めた。
  • 当時、掠奪の折に民の多くが脅されて従っていた。詠は恩信をもって諭し、それぞれ田里に帰らせ、「先日、李順は民を脅して賊とした。今日、私は賊を化して民とする。これもまたよいではないか」と言った。
  • そのころ民間に「白頭の翁が午後に人の子女を食う」という流言が広まり、一郡が騒然として、日暮れには道に人影がなくなった。やがて流言を作った者を捕らえて処刑すると、民はようやく落ち着いた。詠は「妖と訛は沴気に乗じて起こる。妖には形があり、訛には声がある。訛を止める術は見識と決断にあり、まじないにあるのではない」と言った。
  • もともと蜀の士は学を志しながら仕官を喜ばなかった。詠は郡の人の張及・李畋・張逵の三人がいずれも学行があって郷里に称えられているのを見て取り、励まして挙に応じさせた。士はこれによって奮い立つことを知った。
  • 民に訴訟を起こす者があると、詠は情と法の軽重を酌んで数語を判じて示した。蜀の人はこれを刻んで戒めとし、民の習俗はこれによって敦厚になった。
  • 先に城中には屯兵がなお三万おり、半月分の食糧もなかった。詠は民間が塩の高値に苦しみ、倉には余剰があることを知り、塩の値を下げて民が米と塩を交換できるようにした。一か月とたたぬうちに米数十万斛を得た。詠は二年分の備えができたと見て、陝西からの糧運の停止を奏した。帝はこれを聞いて喜び、「この人なら何事も果たせぬことはない。私に憂いはない」と言った。
  • 癸卯、参知政事の趙昌言を川峡都部署とした。当時、王継恩は蜀にあって衆を統制できず、帝はかなり兵事に厭き、昌言を召して「西川はもと一国だった。太祖が平定して今や三十年になる」と語った。昌言は帝の意を察してただちに攻守の策を述べた。帝は喜んで昌言に蜀を帥いさせ、継恩以下すべてその節制を受けさせた。ところが出発後、「昌言には反相があり、重兵を握らせるべきでない」と奏する者があり、ほどなく罷めて知鳳翔府とした。
  • 上官正が雲安軍を回復した。先に張余の賊衆が夔州を攻めたとき、白継贇が西津口で大破して二万級を斬り、船千余艘を得た。正はさらに広安・嘉陵・合州で賊を連破した。賊が陵州に進攻したときも、知州の張旦に敗れた。ここに至って正らは雲安軍で張余を大破し、その城を回復した。

至道元年二月(995年)

  • 丙午、四川都監の宿翰が嘉州で張余を捕らえた。先に西川行営の衛紹欽・楊瓊がたびたび賊衆を破って蜀州・邛州などを回復していた。帝は蜀の賊が次第に平らぐのを見て、詔を下して自ら罪した。その大略は――私の任用が適切でなく、道理を見通せなかったために、民に親しむべき官が恵和を政としてくれず、専売を掌る吏がひたすら苛斂を功とし、わが民をかき乱して狂寇に立たせた。この失徳を思い、身を責めることに努め、永く前非を鑑として、二度と過たぬようにしたい。聞く者は感じ入って喜んだ。
  • ここに至って張余が眉州を攻めたが、翰が撃破した。余は嘉州へ逃げたが軍士に捕らえられた。
  • この年、王継恩を召還し、上官正と雷有終を四川招安使とした。蜀の賊はことごとく平らいだ。だが数年後、ふたたび王均の変が起こる。

真宗咸平三年正月(1000年)・王均の乱

  • 春正月甲午、益州の守備兵が乱を起こし、王均を首領に推した。もともと神衛の兵が益州を守備し、都虞候の王均と董福が分けて率いていた。福は統率に法があり、部下はみな豊かだったが、均は酒と博打を好み、軍装まで費用に充てていた。
  • ここに至って兵馬鈐轄の符昭寿と知益州の牛冕が東郊で大閲兵を行い、蜀の人が見物に集まった。二軍の衣服は新しさが揃わず、均の衆はこれで恥じ憤った。しかも昭寿は驕り高ぶって軍士を侵害したので、日ごろから怨まれていた。
  • この月の朔日、守備兵の趙延順ら八人が乱を起こして昭寿を殺した。益州の官吏はちょうど正月の賀を交わしていたが、変を聞いてみな逃げ散り、知州の牛冕と転運使の張適は城壁から縄で下りて去った。ただ都巡検使の劉紹栄だけが刃を冒して格闘したが、衆寡敵せず敗れた。叛卒はまだ主がなく、紹栄を推そうとしたが、紹栄は弓矢を執って「私はもと燕の人で、敵を棄てて朝廷に帰した者だ。どうしてお前たちと逆らえようか。すぐ殺されようとも、朝廷には背かぬ」と罵った。
  • 監軍の王沢が王均を召して「そなたの部下が乱を起こした。行って招安せよ」と言った。だが叛卒は均を見るとただちに擁して主とし、紹栄は首を吊って死んだ。均は僭して大蜀と号し、化順と改元して官職を設け、小校の張鍇を謀主とした。
  • 均は衆を率いて漢州を攻め落とし、進んで綿州を攻めたが落とせず、まっすぐ剣州へ向かったが知州の李士衡に敗れ、益州に還って守った。
  • 帝はそのとき河朔に行幸中で大名を発とうとしていたが、これを聞いて戸部使の雷有終を川峡招安使、李恵・石普・李守倫をいずれも巡検使とし、歩騎八千を与えて討たせた。上官正・李継昌らもみなその配下とした。
  • 当時、知蜀州の楊懐忠は乱を聞くとただちに郷丁を徴発し、諸州の巡検兵を集めて討った。懐忠は益州に入って城の北門を焼き、三井橋で賊党と数合戦ったが、不利で退いた。さらに嘉州・眉州など七州に檄して兵を合わせ、再び益州を攻めて破り、勝ちに乗じて賊を州の南十五里まで追い、鶏鳴原に砦を築いて宋軍を待った。均もまた門を閉ざして固守した。

咸平三年二月~十月(1000年)・益州の回復

  • 二月癸亥、雷有終らが益州に至った。当時、都巡検の張思鈞がすでに漢州を落としていたので、進んで升仙橋に壁を築いた。賊が砦を攻めに出たが、有終が撃退した。
  • 丁卯、王均は城門を開いて逃げると見せかけた。雷有終らが兵を率いて城に入ると、号令が引き締まらず官軍は競って掠奪した。賊は関を閉ざして伏兵を出し、路口に牀や榻を並べたので官軍は出られず、殺された。有終らは城壁を伝って落ちてかろうじて逃れ、李恵は戦死した。官軍は漢州に退いて守った。
  • 益州城中の民はみな四方に逃げ散ったが、また賊党に追われて殺され、あるいは捕らえられて八つ裂きにされ一族を誅されて衆を脅した。さらに士民のうち若く壮健な者を脅して兵とし、まず手の甲に刺し、次に髪を剃り、次に顔に黥を入れ、軍装を与えて城壁に上がらせ、もとの賊党と混ぜて配置した。有終は榜を掲げて招いたので、来る者があればその衣の袖に印を付けて釈放し、一日数百人に及んだ。
  • 冬十月甲辰、雷有終が益州を回復した。もともと賊が升仙橋から分かれて宋軍を襲ったとき、有終は兵を率いて迎え撃って大破した。王均は単騎で城に逃げ帰り、橋を撤して門を塞いだ。
  • 有終は石普とともに城の北に進んで屯し、将校を分けて三面から城を攻めた。賊は出戦してたびたび敗れたが、宋軍が城に迫るたびに雨が降り、城壁が滑って登れなかった。有終は洞屋を作って進ませ、均も敵楼を設けて対抗した。有終が兵を送ってこれを焼くと、賊はいよいよ気力を失い、月城を築いて自ら固めた。有終は兵に氈をかぶり松明を持って入らせ、その望楼と投石機をことごとく焼いた。まず東・西・南の砦に鬨の声を上げて攻めさせ、有終と普は洞屋を分け担って進み、ついに城に入って大破した。
  • 均は夜、一党二万人とともに囲みを突破して逃げた。有終は伏兵を疑い、人を遣わして城中に火を放たせた。翌日、かつて偽の官職を受けた者数百人を捕らえてことごとく焼き殺した。当時、これは冤罪の酷刑と言われた。
  • 均は逃げる先々で橋を断ち道を塞ぎ、倉庫を焼いて去った。己丑、有終は楊懐忠に均を追わせ、富順で追いついて大破し、そのまま城に入った。均は首を吊って死んだ。懐忠は均の首と僭号の法物を取り、その一党六千人を降した。詔して有終・懐忠らの官秩を進め、牛冕を儋州、張適を連州に流した。

咸平四年十二月(1001年)

  • 丁未、詔して蜀の賊が平定された以上、亡命者の追捕を除いて、誤って巻き込まれた民はみな不問に付し、流言で衆を動かす者は有司が斬って報告するよう命じた。

咸平六年冬十月(1003年)

  • ふたたび張詠を知益州とした。民は詠の再来を聞いてみな喜び踊って祝った。転運使の黄観がその治績を上申し、詔して褒め称えた。折しも謝濤を西蜀の巡撫に遣わすにあたり、帝は詠に「卿が蜀にいてくれれば、私に西を顧みる憂いはない」と伝えさせた。
  • 当時、内地でもまた盗賊が多かった。濮州の賊が夜に城に入って知州の王守信と監軍の王昭度の家を掠めた。王禹偁はそのとき黄州を守っており、上疏して次のように述べた。
  • 国を体し野を経るのは王者が国を保つ制度です。『易』に「王公は険を設けてその国を守る」とあります。五季の乱離以来、それぞれ城壘に拠って豆のように分かれ瓜のように割れること七十余年。太祖・太宗が僭偽を削平して天下は一家となりました。当時の議者は江淮の諸郡に城隍を毀たせ、兵甲を収め、武備を撤させ、それが二十余年になります。書生が州を領し、大郡でも二十人、小郡では五人に減らして常時の従者とし、長吏と号しながら実は旅人と同じ。郡城と名づけながら平地のように何もない。京師を尊んで郡県を抑え、幹を強くして枝を弱くする術ではありますが、中道を得たとは言えません。
  • 臣が滁州にいたころ、兵を出して漕運を引かせたため、関城に守る者がなく、白直(雑役の者)に城門の開閉を代行させただけでした。城池は崩れ、鎧や武具も揃わない。維揚(揚州)に移ってみると、重鎮と称しながら滁州と変わらず、鎧甲三十副を出して巡警の使臣に与えようとしたところ、弩を張り弓を引いてみると十のうち四、五は壊れていました。勝手に修理できないので、上も下もそのままにして、こうなったのです。今の黄州の城池と器械は滁州・揚州にも及びません。万一、水旱の災いがあり、盗賊が起これば、防ごうと思っても何をもって支えられましょうか。
  • もとより太祖が諸侯の跋扈の勢いを削り、太宗が僭偽の野心を断ったのは、そうせざるを得なかったのです。しかし法を設けて世を維持しても、久しければ弊が生じます。弊を救う道は宜しきに従うことにあり、規(コンパス)を回すように速やかであるべきで、柱を膠づけして瑟を弾くわけにはまいりません。
  • 今、江淮の諸州には大きな患いが三つあります。城池が崩れているのが一つ、兵仗が揃わないのが二つ、軍が訓練されていないのが三つ。濮州の賊の蜂起で、防備の緩みは明らかです。どうか陛下の御決断で、諸郡が民戸の多少と城池の大小を酌んで守捉の軍士を置くこと、多くとも五百人を超えないこと、弓と剣を訓練させ、しかる後に次第に城壁を修め甲冑を整えることをお許しください。そうすれば郡国に外敵を防ぐ備えができ、長吏も掠奪される憂いを免れます。