宋史卷四百九十六 列傳第二百五十五 叙州三路蠻

叙州三路蠻・威茂渝州蠻

叙州三路蛮(董蛮・石門蕃部・南広蛮)

  • 叙州三路蛮は西北を董蛮、正西を石門部、東南を南広蛮という。董蛮は馬湖江の右にあり僰候国であった。唐の覊縻馴・騁・浪・商四州の地で、その酋は董氏。宋初、董春惜なる者が馬を貢し自ら「馬湖路三十七部落都王子」と称した。その地は北は犍為の沭川頼因砦に近く、砦は蛮険を阨し蛮がしばしば寇抄したため熙寧・紹聖中(1068-1098年)朝廷はみな頼因の監押を徙し榮丁砦に駐めさせ県吏に控截させたが、政和5年(1115年)初めて監押を改差し知砦事とし、蛮寇掠は依然として止まなかった。
  • 南広蛮は叙州慶符県以西で州とすること十四に及ぶ。大観3年(1109年)、夷酋羅永順・楊光栄・李世恭らが各々地をもって内属し、詔して滋・純・祥三州を建てたが後にみな廃された。
  • 石門蕃部は臨洮土羌に接し唐の曲播等十二州の地であった。俗は椎髻に氈を披い刀を佩び居は必ず欄棚を用い耕稼を喜ばず蓄牧に厚く、その人は精悍で戦鬬を善くし、馬湖・南広の諸族はみなこれを畏れた。おおむね古の浪稽・魯望諸部である。

威茂渝州蛮(威州保覇蛮・茂州諸部落・渝州蛮)

  • 威州保覇蛮は唐の保・覇二州で天宝中に置かれ後に陥没し、酋の董氏が世々その地を有し威州と相錯して覊縻された。保州には董仲元、覇州には董永錫なる者があり嘉祐及び熙寧中(1056-1077年)みな朝命を請うた。政和3年(1113年)、知成都龎恭孫が初めて開拓を建言し、董舜咨の保州地を褀州、董彦博の覇州地を亨州とし、舜咨を刺史、彦博を団練使に授け、舜咨はまもなく観察使、彦博は留後を経て節度使に進んだ。成都に居第・田12頃を給させ、両州の経費は歳ごとに銭12100緡・米麦14700石・絹2850匹を要し紬布綾綿茶塩銀等は含まれなかった。後にみな砦となった。
  • 茂州諸部落は塗・静・当・直・時・飛・宕・恭ら9州の蛮である。蛮は自ら一人を推して州将とし衆を治めさせ、常に茂州で約束を受けた。茂州は羣蛮の中に居し地は数十里に過ぎず、宋初は城隍がなくただ鹿角を植えて自固していたが蛮がしばしば夜に入寇し民は苦しんだ。熙寧8年(1075年)、相率いて州に築城を請い、知州事范百常が主にその役を実施したが、蛮はこれを地の侵犯と見て衆を率いて奄至し百常が撃走した。すると静・時等の蛮が来寇し百常は拒守すること凡そ70日、詔して王中正に陝西兵を将いて援けさせ恭州・宕州に入って誅殺すること頗る多く蛮はついに降った。
  • 政和5年(1115年)、直州将の至永寿湯延俊・董承有らが各々地をもって内属し、永寿の地に寿寧軍、延俊・承有の地に延寧軍を建てることを詔したが、時に威州もまた亨・褀二州を建てたものの亨から威まで僅か90里、寿寧から茂まで僅か5里で大早江の外にあり扼控の所ではなかったため、まもなくみな廃された。政和7年(1117年)、塗・静・時・非等州の蛮が再び茂州に反し千余人を殺掠、知成都周燾が兵馬鈐轄張永鐸らを遣って撃たせたが畏懦して進まず坐して黜せられ、孫羲叟を綿茂軍の節制とし中軍将种友直らがその都・祿・板・舎原諸族蛮を破り敗散させ酋の旺烈らが茂州に降を請うたため班師し旺烈に官・月給茶綵を授けた。以後蛮もまた驕り、宣和5年(1123年)宕・恭・直諸部落が入寇、宣和6年(1124年)塗静蛮が再び茂州を犯した。
  • 渝州蛮は古の板楯七姓蛮、唐の南平獠である。その地は西南で烏蛮・昆明・哥蛮・大小播州部族数十と接し居した。治平中(1064-1067年)、熟夷の李光吉・梁秀らの三族がその地に拠り各々衆数千家を有し威勢で漢戸を脅誘し、従わない者は屠り土田を没入したため往々にして客戸に投じて「納身」と呼び税賦はみな里胥が代償した。亡命を匿し偽って生獠と称し辺民を劫し官軍の追捕を逃れることを常とし、密かに黠民に賂を贈って守令の動静を覘い、城堡を築いて器甲を繕い遠近の患いとなった。熙寧3年(1070年)、転運使孫固・判官張詵が兵馬使馮儀弁・簡杜安行を遣して禍福を開諭させ、兵を進めて賔化砦を復し三族を平蕩、その地の租を民に賦して租3万5千石・糸綿1万6千両を得、賔化砦を隆化県として涪州に隷させ栄懿・扶歓の両砦を建て、その外の銅仏垻は渝州南川県に隷させた。地はみな膏腴で光吉らが平げられた後は他部族がこれに拠り、朝廷は土人王才進を廵検に補し控扼を委ねたが才進の死後、部族は統べる者なく再びしばしば辺を寇したため熊本に討平させ南平軍を建て渝州南川・涪州隆化をこれに隷させた。元豊4年(1081年)、楊光震という者が官軍の乞弟討伐を助け党の阿訛を殺した。大観2年(1108年)、木攀首領趙泰・播州夷族楊光榮が各々地をもって内属し詔して溱・播二州を建てたが後にみな廃された。