宋史卷四百九十二 列傳第二百五十一 趙思忠

趙思忠(木征)

  • 趙思忠は即ち瞎氊の子木征である。瞎氊の死後、木征は自立できず、青唐の族酋瞎薬鶏囉及び僧鹿遵がこれを洮州に迎え、洮・岷・疊・宕・武勝軍の諸羌を復興しようとしたが、秦州が近辺のため逐い、河州に還り、後に安江城に徙った。董氊はこれを覊属しようとしたが有し得なかった。母弟の瞎吳叱は別に銀川の聶家山に居し、至和初(1054年頃)に本族副軍主に補された。
  • 嘉祐中(1056-1063年)、河州刺史王韶が熙河を経略し、僧智圓を遣わして木征を説き厚利で誘い、兵を進めてその老弱数千を殺し族帳万数を焚き、腹心酋領十余人を得、その妻子を禽えたが殺さなかった。熙寧7年(1074年)4月、木征は洮河二州を挙げて降り、姓名を賜わり栄州団練使に任じられた。母の郢成結は遂寧郡太夫人、妻の包氏は咸寧郡君に封じられた。弟の董谷は「継忠」、結呉延征は「済忠」、瞎吳叱は「紹忠」、巴氊角は「醇忠」、巴氊抹は「存忠」の名を賜わり、長子の邦辟勿丁咓は「懐義」、次子の蓋咓は「秉義」とされ、いずれも官に超拝された。思忠は秦州鈐轄とされたが涖事せず、熙河の羌部経略司の管掌を乞うたが不可とされ、二州に給地五十頃を賜わり、後に合州防禦使に遷って卒し、鎮洮軍節度観察留後を贈られた。