日本国
- 日本国はもと倭奴国という。自国が日の出る所に近いことから日本と号したとも、旧名を嫌って改めたともいう。地は東西南北各数千里、西南は海に至り東北は大山を隔てて毛人国に接する。後漢の頃から朝貢が始まり、魏・晋・宋・隋を通じて貢献があり、唐の永徽・顕慶・長安・開元・天宝・上元・貞元・元和・開成の各年間にも遣使入朝が続いた。
- 雍熙元年、日本国僧奝然がその徒五、六人と共に渡海して来朝し、銅器十余事と本国の職員令・今王年代紀各一巻を献じた。奝然は緑衣を着け自ら藤原氏(父は真連、五品官)と称したが、隷書を能くしたものの中国語は通じず、風土を問われると筆談で答えた。国中に五経の書や仏経・白居易集七十巻があり、中国から伝わったものという。五穀を産するが麦は少なく、銅銭(文に「乾文大宝」)で取引し、水牛・驢馬・羊を畜い、犀・象は多く産する。絹を多く織り、楽に国中楽・高麗楽の二部があり、四時の寒暑は中国に似るという。東境は海島に接し、毛のある夷人が住み、東の奥州は黄金、西の別島は白銀を産し貢賦とする。
- 国王は代々王を姓とし、今の王で六十四世に及び、文武の官吏は世襲であるという。その年代紀に記す歴代は次の通り。
- 初主・天御中主。次いで天村雲尊。以後は「尊」を号とし、天八重天尊・天弥聞尊・天忍勝尊・瞻波尊・万魂尊・利利魂尊・国狭槌尊・角龔魂尊・汲津丹尊・面垂見尊・国常立尊・天鑑尊・天万尊・沬名杵尊・伊装諾尊・素戔烏尊・天照大神尊・正哉吾勝速日天押穂耳尊・天彦尊・炎尊・彦㶑尊と続き、凡そ二十三世、みな筑紫日向宮に都した。彦㶑の第四子が神武天皇と号し、筑紫宮より大和州橿原宮に入居して即位、元年甲寅は周の僖王の代に当たるという。
- 以下、綏靖天皇・安寧天皇・懿徳天皇・孝昭天皇・孝天皇(底本のまま。孝安天皇か)・孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇・崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇・成務天皇・仲哀天皇(国人は今これを鎮国香椎大神とする)・神功天皇(開化天皇の曾孫女、また息長足姫天皇といい、国人は今これを太奈良姫大神とする)・応神天皇(甲辰歳に百済より初めて中国文字を得たとし、今は八幡菩薩と号す。大臣紀武内は年三百七歳という)・仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇・安康天皇・雄略天皇・清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇・継体天皇・安開天皇(安閑天皇)・宣化天皇・天国排開広庭天皇(欽明天皇、即位十一年壬申に百済より初めて仏法を伝えたとし、梁の承聖元年に当たる)・敏達天皇・用明天皇(子に聖徳太子あり、三歳で十人の言葉を同時に解し、七歳で菩提寺で勝鬘経を講じ天より曼陀羅華が降ったという。隋の開皇年間、入唐求法の使を海に泛べ法華経を求めたという)・崇峻天皇・推古天皇(欽明天皇の女)・舒明天皇・皇極天皇・孝徳天皇(白雉四年、律師道照が入唐求法、唐の永徽四年に当たる)・天豊財重日足姫天皇(斉明天皇、僧智通らを入唐させ大乗法相の教を求めさせた、唐の顕慶三年に当たる)・天智天皇・天武天皇・持統天皇(原文「天總天皇」)・文武天皇(大宝三年、唐の長安元年に当たり、粟田真人を入唐させ書籍を、律師道慈に経を求めさせた)・阿閉天皇(元明天皇)・皈依天皇(元正天皇。「皈依」は底本のまま)・聖武天皇(宝亀二年に僧正玄昉を入朝させた、開元四年に当たる)・孝明天皇(聖武天皇の女、天平勝宝四年に唐の天宝年間に当たり、遣使・僧を入唐させ内外の経教・伝戒を求めさせた)・天炊天皇(淳仁天皇)・高野姫天皇(聖武天皇の女)・白璧天皇(光仁天皇、二十四年に僧霊仙・行賀を入唐させ五台山で仏法を学ばせた)・桓武天皇(藤原葛野麻呂と空海大師、延暦寺僧最澄〈原文「澄」〉を入唐させ天台山で智者の正観の義を伝えさせた、唐の元和元年に当たる)・諾楽天皇(平城天皇)・嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇(唐の開成・会昌年間に当たり僧を入唐させ五台に礼させた)・文徳天皇(唐の大中年間に当たる)・清和天皇・陽成天皇・光孝天皇(僧宗叡を入唐させ教を伝えさせた、唐の光啓元年に当たる)・仁和天皇(後梁の龍徳年間に当たり僧寛建らを入朝させた)・醍醐天皇・天慶天皇(朱雀天皇)・封上天皇(村上天皇、後周の広順年間に当たる)・冷泉天皇(今は太上天皇となる)・守平天皇(円融天皇、すなわち今の王)――以上、凡そ六十四世。
- 畿内は山城・大和・河内・和泉・摂津の五州、五十三郡。東海道は伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・常陸の十四州、百十六郡。東山道は近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八州、百二十二郡。北陸道は若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の七州、三十郡。山陰道は丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の八州、五十二郡。山陽道は播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の八州、六十七郡。南海道は紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の六州、四十八郡。西海道は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の九州、九十三郡。さらに壱岐・対馬・多褹の三島は各二郡を統べる。合わせて五畿七道三島、凡そ三千七百七十二郷、四百一十四駅、課丁八十八万三千三百二十九人(課丁以外は詳らかにできない)という。これらはみな奝然の記すところである。
- 按ずるに、隋の開皇二十年、倭王姓阿毎名自多利思比孤が使いを遣わして書を致し、唐の永徽五年には琥珀・瑪瑙を献じ、長安二年には朝臣真人を遣わして方物を貢いだ。開元初にも遣使朝貢し、天宝十二年、元和元年(高階真人が来貢)、開成四年にも遣使があった。これは奝然の記録とも一致する。大中・光啓・龍徳・後周の広順年間にも僧が中国に至ったが、唐書・五代史はその伝を欠く。唐咸亨年間(実は開元二十三年、大暦十二年、建中元年)の来朝はその記録にも見えない。
- 太宗は奝然を召見して厚く存撫し、紫衣を賜り太平興国寺に館させた。日本が一姓を伝え臣下も世官である由を聞き、宰相に嘆じて「この島夷でさえ世祚は久しく臣も継襲が絶えない、これは古の道である。中国は唐末の乱以来、梁・周の五代を通じ享国は短く大臣の家も続かなかった。朕は徳は往聖に及ばぬが、日夜治を求め、無窮の業を建て、子孫のために大臣の後を世襲させたい」と述べたという。
- 奝然が持参したものに孝経一巻・越王孝経新義第十五一巻があり、いずれも金縷紅羅の表紙、水晶の軸であった(孝経は鄭氏注のもの、越王とは唐太宗の子越王貞、新義は記室参軍任希古らの撰)。奝然はさらに五台山参詣を願い許され、大蔵経の印本も賜られた。雍熙二年、台州寧海県の商人鄭仁徳の船で帰国、後年、仁徳が再び来た際、奝然は弟子の嘉因に託して謝表を送った。表は美文で、法済大師の号を得た喜びと帰国の道中の様子、五台山参詣の感激、伝来した書物や様々な献上品(貝多羅の念珠、螺鈿の器、藤原佐理の手書二巻、進物目録、金銀蒔絵の硯箱・扇箱、螺鈿の梳函・書案・書几、鹿皮籠の裘、鞍轡、屏風、硫黄七百斤など)が詳しく記される。この表は本国の永延二年戊子二月八日、宋の端拱元年に当たると記される。
- 咸平五年、建州の海賈周世昌が暴風で日本に漂着し七年を経て帰還、日本人滕木吉と共に上京し召見された。世昌が持ち帰った日本人の唱和詩は雕琢に過ぎ膚浅であったという。婦人は皆髪を垂らし一衣で二、三の絹を重ねるなどの風俗が語られた。滕木吉に持参の木弓矢を射させたが遠くまで飛ばず、国中に戦闘の習いがないためと説明された。景徳元年、僧寂照ら八人が来朝し、寂照は中国語は話せないが文字は解し筆談で応答、円通大師の号と紫方袍を賜られた。
- 天聖四年、明州は「日本国太宰府が人を遣わして方物を貢いだが本国の表を持たなかった」と報告し、朝廷はこれを却下、以後正式の朝貢はなくなったが、南方の商人が時に物貨を伝えることはあった。熙寧五年、僧誠尋が台州の天台国清寺に至り留まることを願い、詔により闕下に召され、銀香炉・木楼子・白琉璃・水晶・紫檀・琥珀の飾りの念珠や青色織物を献じた。神宗は遠人でありながら戒業を有することを重んじ開宝寺に住まわせ、同行の僧にも紫方袍を賜った。以後は僧による貢物の連絡が続いた。元豊元年、通事僧仲回が来て慕化懐徳大師の号を賜り、明州は太宰府の牒と商人孫忠の帰還に関する報告を伝え、孫忠が海商の身で他国と異なる礼で貢したことから、以後は牒による報告とし物は仲回に付して帰す方式が取られた。
- 乾道九年、初めて明州の綱首(船主)に付して方物を献じるようになった。淳熙二年、倭船の火児(下級船員)滕太明が鄭作を殴殺した事件で、太明は本国の法により処罰するため綱首に引き渡された。淳熙三年、風で明州に漂着した日本船の乗員が食に窮し臨安府まで乞食して至った際、朝廷は日ごとに銭五十文・米二升を給し帰国の便を待たせた。淳熙十年にも日本人七十三人が秀州華亭県に漂着し常平義倉の銭米で救済された。紹熙四年、泰州・秀州華亭県にも風で漂着した倭人があり、その貨物への課税を免じて常平米を給し帰した。慶元六年には平江府、嘉泰二年には定海県に漂着した者にそれぞれ銭米を給して帰国させた。