宋史卷四百八十一 列傳第二百四十 世家四 南漢劉氏
南漢劉氏一族の記録。劉隠が嶺南に基盤を築き、弟の劉龑(劉陟)が帝号を僭称して大漢を建国した。暴政を敷いた劉鋹の代に太祖の討伐を受けて滅亡、鋹は宋に降って厚遇され、その一族・重臣の末路も併せて記す。
年表(12件)
- 後梁の開平初年(907年頃CE)劉隠が静海軍節度使を兼ね南海王に封じられる
- 貞明三年917年劉陟が帝号を僭称し国号を大漢とし乾亨と改元する
- 晋の天福七年942年劉龑が卒し子の劉玢が位を継ぐ
- 後周の顕徳五年958年劉晟が卒する
- 乾徳年間(963-)968年太祖が郴州を克し宦官余延業から鋹の暴政の実情を聞く
- 開宝初年968年鋹が兵を発して道州を侵す
- 開宝三年970年太祖が潘美・尹崇珂に討伐を命じ賀州が陥落する
- 開宝四年正月971年宋軍が英・雄二州を破り都統潘崇徹が来降する
- 開宝四年鋹に月銭・米麦が加給される
- 太平興国初年衛国公に進む
- 開宝八年975年左監門衛上将軍に転じ彭城郡公に進封される
- 太平興国五年980年鋹が卒する(39歳)
出自と生い立ち
- 南漢の劉鋹の先祖は蔡州上蔡の人。高祖の劉仁安は唐に仕えて潮州刺史となり、嶺南に家を構えた。
- 劉仁安の子・劉謙は広州牙校から累遷して封州刺史・賀水鎮遏使となった。謙の子が劉隠。謙の死後、隠がその任を継いだ。
- 唐の昭宗は薛王の知柔を鎮南海に任じ、隠を行軍司馬として兵権を委ねた。宰相・徐彦若が知柔に代わって節度副使となると、唐室はすでに衰え、彦若の威令は行われず、事はすべて隠が決した。彦若が没する際、隠を自らの後任に推挙する遺表を出したが、昭宗はこれを用いず崔逺を代わりに任じた。崔逺は江陵に至って進まず、そのため隠が留後とされ、まもなく節旄を授けられた。
- 後梁の開平初年(907年頃CE)、隠は静海軍節度使を兼ね、南海王に封じられた。隠の死後、弟の劉陟(のち龑)が位を継いだ。
- 貞明三年(917年)、劉陟は帝号を僭称し、国号を大漢とし、乾亨と改元、郊祀の礼を行い、名を巖と改め、さらに龔、最後に龑(音は儼、字書にない自作の字)と改めた。
- 晋の天福七年(942年)、劉龑は卒し、子の劉玢が位を継いだが、弟の劉晟に殺され、晟が自立した。晟は性がとりわけ酷薄で、後周の顕徳五年(958年)に卒した(事は『五代史』に見える)。
劉鋹の即位と暴政
- 劉鋹は晟の長子。初名は継興、衛王に封ぜられ、父の位を継いで名を改め、大宝と改元した。性は昏愚で、政事を宦官の龔澄樞と才人の盧瓊仙に委ね、可否の裁定はすべて瓊仙が指図した。
- 鋹は日々宮人・波斯(ペルシア)の女らと戯れ、内官の陳延受は女巫の樊胡を宮中に引き入れた。樊胡は「玉皇が鋹を太子皇帝に任ずる」と称し、宮中に帷幄を張って玉皇の座を設け、樊胡が冠・霞帔をつけて福禍を宣し、鋹に再拝させた。瓊仙・澄樞・延受らは皆「玉皇が太子皇帝を輔けるために遣わした者であり、過失があっても罰せられない」と自称した。梁師・馬媪・何擬らも宮掖に出入りし、宮中の婦人が外事を統べた。
- 宦官の数は劉隠の時代は三百余だったが、晟の時代には千余人に増え、鋹の代には七千余に達した。三師三公の位号に「内」の字を冠する者、諸使の名号は二百を超え、女官にも師傅・令僕の称があった。
- 群臣・士人で才略ある者は些細な過ちでも去勢して宮闈に出入りさせ、焼煮・剥剔・刀山剣樹の刑を科し、罪人に虎や象と闘わせることもあった。
- 賦斂は苛重で、邕州民の入城には一人一銭を課し、瓊州の米には一斗ごとに四、五銭の税を課した。媚川都を置いて課役を定め、海に五百尺潜って真珠を採らせた。宮殿は真珠・玳瑁で飾られ、陳延受は淫巧な事業に日々数万金を費やした。宮城左右には数十の離宮があり、鋹の遊幸は常に月余、あるいは旬日に及び、豪民に課戸として宴犒の費を負わせた。
太祖との対峙と征討開始
- 乾徳年間(963-968年)、太祖は師を発して郴州を克し、宦官十余人を得た。その中の余延業に太祖が嶺南の政治について問うと、延業は鋹の奢侈・酷薄の実情を詳しく述べ、太祖は驚いて「わたしは必ずこの一方の民を救おう」と語った。
- 劉晟の代、湖南馬氏の乱に乗じて桂・郴・賀等州を奪い取っていた。開宝初年(968年)、鋹はさらに兵を発して道州を侵した。刺史・王継勲が鋹の暴政を上言し討伐を請うたが、太祖は事を重んじ、まず江南の李煜に書をもって鋹に称臣と湖南旧地の返還を諭させた。鋹は従わなかった。
- 李煜は給事中の龔慎儀を遣わして再度長文の書を送り、両国の友好の歴史を説き、大朝(宋)に抗すれば必敗すること、和議に応じるよう繰り返し説得した。しかし鋹は使者・慎儀を捕らえて幽閉し、驛書で不遜な返答をした。李煜はその書を宋に上呈した。
宋軍の南漢征討
- 開宝三年(970年)、太祖は潭州防禦使・潘美、朗州団練使・尹崇珂に討伐を命じた。八月、宋軍は白霞に至り、賀州刺史の陳守忠が鋹に急を告げた。当時、南漢の旧将は讒言により多く誅殺され、宗室もほぼ滅ぼされ、兵権は宦官数輩のみが握っていた。晟以来、遊宴に耽り、城壁・壕溝も荒廃し、武器も朽ちていた。
- 鋹は龔澄樞を賀州へ、郭崇岳を桂州へ、李托を韶州へ遣わして防備を図らせた。九月、潘美・尹崇珂が賀州を包囲すると澄樞は逃げ帰り、鋹は大将・伍彦柔に兵を率いて賀州救援に向かわせた。宋軍は南岸に伏兵を配置し、彦柔を急襲して大混乱に陥れ、千人余を討ち取って彦柔を斬首、その首を城中に示した。翌日、賀州は陥落した。
- 潘美らはさらに軍船で広州へ向かうと声言。鋹は都統・潘崇徹に兵五万を率いさせ賀江に駐屯させた。十月、宋軍は昭州に進んで開建砦を破り、数百を殺し砦将の靳暉を捕らえた。昭州刺史の田行稠は逃走し、城は陥落。桂州刺史の李承進も城を棄てて逃げた。十一月、連州が陥落し、招討使の盧収は清遠まで退いた。
- 十二月、潘美らは韶州を攻め、都統・李承渥は数万の兵を蓮葉山下に布陣させた。鋹はかつて象に十数人を乗せ武装させて陣頭に置き軍威を示す戦法を教えていたが、宋軍は強弩をそろえて象を射たため、象が驚いて暴れ、乗っていた兵ごと踏み潰し、承渥の軍は大敗、承渥はかろうじて逃れた。韶州は陥落し、刺史・幸延渥、諫議大夫・卿文逺が捕らえられた。
- 鋹は広州東側の壕を掘らせ、郭崇岳に兵六万を率いさせて馬逕に柵を築いて防がせた。開宝四年(971年)正月、宋軍は英・雄の二州を破り、都統・潘崇徹が来降。翌日、瀧頭に至った鋹は使者を送って和を請い師の緩めを求めたが、瀧頭は山水が険悪で宋軍は伏兵を疑い、使者を留めて諸険を急ぎ通過した。
- 二月、宋軍は馬逕を越えて広州城十里の雙女山下に陣を張った。鋹はこれを聞き、船十余艘に金宝・妃嬪を積んで海に逃れようとしたが果たせず、宦官の楽範が衛兵千余とともに船を奪って逃走した。宋軍が城に迫ると鋹は恐れ、右僕射の蕭漼に降伏の表を持たせて軍門に赴かせた。潘美は太祖の意を諭した(この経緯は『潘美伝』にある)。使者は部送して都に赴くことを乞い、宋軍は城外に留まった。
- 鋹はさらに弟の保興に百官を率いさせて出迎えさせようとしたが、郭崇岳に阻まれた。崇岳は知略も勇もなく、ただ鬼神に祈祷するのみで防備を続けた。宋軍が保興を攻めると保興は大敗し、潘美は風に乗じて火を放ち、煙が立ちこめる中、崇岳は乱兵の中で死んだ。城が陥落すると鋹は府庫を焼き尽くした。
- 潘美は鋹および龔澄樞・李托・薛崇譽と宗室・文武官九十七人を捕らえ、龍徳宮に幽閉した。逃げていた保興も民家で捕らえられ、みな都へ送られた。宦官五百余人が斬られた。得た州は六十、県は二百四十、戸は十七万であった。
開封護送と処断
- 鋹が江陵に至ると邸吏の龎師進が出迎えた。学士の黄徳昭が鋹に侍していたので、鋹が師進について問うと、徳昭は「もとは本国の人で、先主が大朝に歳貢していた際の輜重が荊州に至るたび、師進を邸に留めて車を造らせ運搬にあてていた」と答えた。鋹は嘆じて「わたしは在位十四年、今日初めてこのことを知った。祖宗の山河、そして大朝の広大な国土を今日初めて知った」と泣いた。
- 都に至ると玉津園に宿舎を与えられた。太祖は参知政事の呂餘慶を遣わし、鋹の翻覆(裏切り)と府庫を焼いた罪を問わせた。鋹は罪を龔澄樞・李托・薛崇譽に帰した。翌日、有司は鋹とその官属を帛で繋いで太廟・太社に献じた。太祖は明徳門に御して摂刑部尚書・盧多遜に詔を宣させ鋹を責めた。
- 鋹は「臣は年十六にして僭偽の位を継ぎ、澄樞らはみな先臣の旧臣で、事はすべて彼らが専断し、臣は臣下に過ぎず、澄樞こそが国主であった」と答え、地に伏して罪を待った。太祖は摂大理卿の高継申に命じ、澄樞・李托・薛崇譽を千秋門外で斬らせた。鋹の罪は赦され、襲衣・冠帯・器幣・鞍勒馬を賜り、金紫光禄大夫・検校太保・右千牛衛大将軍員外置同正員に任じられ、恩赦侯に封じられ、朝会では上将軍の下に班した。
- 弟の保興は右監門率府率に、右僕射の蕭漼は太子中允に、中書舎人の卓惟休は太僕寺丞に任じられ、残りはみな諸州の上佐・県令・主簿に任じられた。
- かつて劉龑の時代、司天監の周傑に占わせたところ「復」の卦の「豊」を得た。龑が「享年はいくばくか」と問うと、傑は「二卦とも土に応じ、土の数は五、二五で十、上下各五で五百五十五となろう」と答えた。鋹が敗れたのは実に五十五年目であり、傑は「あえて大まかな数を挙げて一時の害を避けた」のだという。
- また広州の童謡に「羊頭二四白天雨至」とあり、識者は「羊は未の神で、この年は辛未の年、二月四日に鋹が捕らえられたのは天雨が王師が時雨のように来たことの意である」と解した。前年九月八日夜には多くの星が北へ流れ、星占いに詳しい者はこれを劉氏帰朝の兆と見た。
- 開宝四年、鋹には月に銭五万・米麦五十斛が加給された。開宝八年(975年)、李煜平定に伴い左監門衛上将軍に転じ彭城郡公に進封、太平興国初年にはさらに衛国公に進んだ。太平興国五年(980年)に卒し、年三十九。廃朝三日、太師を贈られ南越王に追封された。
人となりと逸話
- 鋹は体躯が豊かで眉目が凛々しく、口達者で性は極めて巧みだった。かつて珠を結んで鞍勒に戯れ龍の形を作り、その精妙さを太祖に献じたところ、太祖は諸宮官に示すと皆驚き伏し、銭百五十万をその値として与えた。太祖は左右に「鋹は工巧を好み習い性となった。もし治国に励む勤勉さがこれにあれば、どうして滅亡に至ろうか」と語った。
- 太祖がかつて肩輿に乗り従者十数騎で講武池に行幸した際、従官が集まる前に鋹が先に到着していたので、太祖は鋹に酒杯を賜った。鋹はこれを毒酒と疑い、泣いて「臣は祖父の基業を承けながら朝廷に抗い、王師の討伐を招いた罪は死に値します。陛下が臣を殺さず、太平の世に大梁の布衣として生きることをお許しくださるのならば、なにとぞ余生を全うさせてください。この酒はまだ飲めません」と言った。太祖は笑って「わたしは人に対して腹を割いて誠を尽くす、そのようなことはあり得ない」と言い、鋹の酒を自ら飲み、別に酌んで鋹に賜った。鋹は大いに恥じ、頓首して謝した。
- 太宗が晋陽(北漢)征討を企てた際、近臣を召して宴を開き鋹もこれに列した。鋹は自ら「朝廷の威霊は遠方にまで及び、四方の僭窃の主は今日すべてこの座にいる。太原が平定され劉継元がここに至れば、臣は先んじて朝し、諸国の降王のために梃を執って先導したい」と言い、太宗は大笑して厚く賞賜した。このような諧謔がしばしばあった。
子孫
- 鋹の子・守節と守正はともに崇儀副使に至った。守正が卒すると、帝はその家が貧しいことを聞き、月に銭万を給するよう詔した。
- 守素は咸平中に侍禁となったがやはり貧しく、真宗は白金百両を賜り、宰相に「偽主の子孫はおおむね困窮しがちだ。僭侈の後は稼穡の艱難を知らないためであろう」と語った。守素はのちに内殿崇班に至り、天禧中にはさらに閤門祗候に録された。
- 守通は供奉官、守正の子・克昌は三班奉職、国昌は借職となった。
龔澄樞
- 龔澄樞は広州南海の人。性は廉謹で妄りに交遊せず、幼くして劉龑に仕え内供奉官となり、累進して内給事となった。劉晟が位を継ぐと、宦官の林延遇が甘泉宮使としてかなり政事に関与していたが、延遇は死の際「臣が死んだら龔澄樞を用いるべきだ」と言い、その日のうちに知承宣院・兼内侍省に抜擢され、徳陵使・龍徳宮使を兼ねた。
- 鋹の即位後、特進・開府儀同三司・万華宮使・驃騎大将軍に加えられ、のちに上将軍・左龍虎軍観軍容使・内太師となり、軍国の務めはすべて澄樞が決した。澄樞は李托・薛崇譽とともに酷法の道具を設け、民は大いに苦しんだ。
- かつて劉巖が名を龔と改めた時、術者が「龔の名は不利で国を滅ぼす」と言ったため龑と改めたが、のちに鋹が澄樞を用いたことでその姓(龔)ゆえに国を滅ぼす結果となった、という。澄樞もまた誅された。
李托
- 李托は封州封川の人。若くして騎射を習い、謹愿さで劉龑に仕え内府局令となった。劉晟が位を継ぐと内侍省内侍に遷り、宮闈諸衛押番と秀華宮使を兼ねた。
- 鋹が即位すると玩華宮使・内侍監と列聖景陽二宮使を兼ねた。托は二人の娘を鋹に納れ、鋹はその長女を貴妃、次女を美人とした。政事はすべて托に諮ってから行われた。特進・開府儀同三司・甘泉宮使・兼六軍観軍容使・行内中尉に加えられ、驃騎上将軍・内太師に遷った。
- 太祖の南漢討伐で韶州が陥ちると、統軍使の李承渥は戦死し、節度副使の辛延渥はひそかに人を遣って鋹に降伏を勧めたが、托は強くこれを阻んだ。鋹が捕らえられ許田に至ると、太祖は使者を遣わし「先に降伏を約しながらまた兵を挙げて拒戦し、敗れると府庫に火を放った、これは誰の謀りごとか」と托に問うたが、托は頭を垂れて答えられなかった。
- 鋹の下にいた諫議大夫の王珪が托に「昔広州にいた際、機務はすべておまえたちが専断し、火もまた宮中から起こったのだ。今、天子が使いを遣わして問うているのに、他人に罪をなすりつけようとするのか」と言い、唾を吐いてその頬を打った。托はついに罪を認め、のちに都で斬られた。
薛崇譽
- 薛崇譽は韶州曲江の人。孫子・五曹算に通じ、劉晟に内門使兼太倉使として仕えた。鋹の代には内中尉に遷り、特進・開府儀同三司・簽書点検司事となった。
- 太祖が広州を克した際、崇譽は倉廩に火を放ったが捕らえられ、都で李托とともに戮された。
潘崇徹
- 潘崇徹は広州南海の人。劉龑に内侍省局丞として仕え、兵書をよく読み戦功を立てた。劉晟がかつて大将の呉懐恩を遣わして桂州を討たせ平定させたが、懐恩が部下に殺されると崇徹が代わって指揮を執った。
- 鋹が位を継ぐと西北面都統に加えられたが、一年余りして鋹は崇徹を疑い、薛崇譽をその軍に遣わして監視させた。崇譽は帰還後、崇徹が伶人百余人に錦繍を着せて長夜の宴を催し軍政を顧みないと告げた。鋹は怒って崇徹を召還し兵権を奪った。これ以来崇徹は常に怏々として不満であった。
- 太祖が嶺南に師を進めると、鋹は再び崇徹に兵五万を率いさせ賀江を守らせたが、崇徹は力を尽くさなかった。鋹の敗北後、都に至った際、太祖はその事情を知って特に赦し、汝州別駕を授けた。崇徹はそこで卒した。