宋史卷四百七十一 列傳第二百三十 曾布

新法官僚としての出発

  • 曾布は字を子宣といい、南豐の人。十三歳で孤となり兄の曾鞏に学び、共に登第。宣州司戸参軍・懐仁令を経て、熙寧二年、開封に移り韓維・王安石の推薦で上書し、「政の本は風俗を厲まし人材を責めることにあり、その要は農を勧め理財を興し学校を興し選挙を審らかにし吏課を責め宗室を叙し武備を修め遠人を制すことにある」と説いた。神宗に見え、太子中允・崇政殿説書・集賢校理・判司農寺検正中書五房を兼ね、三日で五度勅告を受け、呂惠卿と共に青苗・助役・保甲・農田の法を創った。
  • 旧臣・朝士の多くが新法に反対する中、布は「陛下は不世出の資で碩学遠識の臣を登用し大有為を望むが、大臣は令を怠り小臣は横議を唱えて上を惑わせている。陛下が赤心をもって君子を遇し、威断を奮って小人を屏斥すれば、何事も成らないことはない」と上疏、安石専任を支持して人々を威嚇し、修起居注・知制誥・翰林学士兼三司使に進んだ。

市易法批判と離反

  • 韓琦が新法の害を極論すると神宗はやや悟り、布は安石のために条析して反論を持続したが、七年の大旱で直言を求められると、判官の呂嘉問の市易法運用の苛酷さを論じ、「天下の財の匱乏は貨の不流通による。市易を京師に設けて価格を操作し、官が二分の利を得れば商賈は滞らないはずだった。しかし嘉問は官が四方の物貨を買い占め、客商の先買を禁じ、息の多寡で賞罰するので、官吏牙駔は搾取に走り、これは官自らが兼并をなすようなもので市易の本意ではない」と述べた。
  • この件は両制の議に付され、呂惠卿は「新法を沮む言」として安石を怒らせ、布は左遷された。惠卿が大政に参与すると布を饒州・潭州に流し、後に集賢院学士・知広州に復し、桂州・秦州・陳州・蔡州・慶州を歴任、元豐末に翰林学士・戸部尚書に戻った。司馬光の役法改正の議に対し「免役の法令は自分の手によるもので、たやすく改めるべきではない」と反対、元祐初年には龍圖閣学士・知太原府として真定・河陽・青州・瀛州を歴任した。

紹聖から徽宗擁立へ

  • 紹聖初、江寧に移る途上京師に留められ翰林学士・承旨兼侍読、同知樞密院・知院事に進んだ。章惇が相となった際、布は制詞で惇を極めて称賛し同省の執政に引き立てられることを期したが、惇は忌んで枢府に薦めるに留めた。布は惇の紹述を支持し、元祐の臣を甄賞し役法改正反対者を勧奨するよう請い、惇が大獄を起こして正人を陥れる間、布も陰でこれに加担したが、厭魅事件では「未成なら極刑には処せない」との法官の主張に「驢馬に媚び蛇に霧をかけるのは未成といえるのか」と反論して三人を死に至らしめた。
  • 惇が士心を得るため名士を薦めた(彭汝礪・陳瓘・張庭堅ら)際、布は司馬光・呂公著の贈諡を復し墓碑を建て直すことを「無益」として反対し、「人主の権柄は倒持すべきでない。丞弼から言者に至るまで宰相を畏れ陛下を畏れない」と奏し、惇打倒を狙った。
  • 哲宗崩御の際、皇太后が後継を問うと惇の異論に対し布が一喝して従わせ、徽宗の即位に貢献した。惇は罷免され、蔡京が召されて韓忠彦左僕射の詔を書かせるべく鎖院した際、京は「専任一相か分命両相か」と徽宗に伺い、専任と聞くと「子宣(曾布)は再び相にならない」と宣言したが、後に曾肇が召されて布を右僕射に任ずる制が発せられた。忠彦は上位にありながら柔懦で多くを布に決させ、布はなお満足しなかった。

宰相在任と失脚

  • 元祐・紹聖両派の均衡を図り、翌年「建中靖国」と改元されたが、邪正が雑用され忠彦は結局罷免された。布は独り国政を執り紹述の説を進め、翌年「崇寧」と改元、蔡京が左丞に召された。蔡京と対立し、布が娘婿の陳廸(佑甫)を戸部侍郎に擬したことを京に「爵禄は陛下のものであり、宰相が私すべきでない」と奏され、布は激怒したが温益に叱責されて徽宗の不興を買い、御史に弾劾されて観文殿大学士・知潤州に落とされた。
  • 蔡京の恨みは止まず、贓賄の罪で開封の呂嘉問に諸子を逮捕・拷問させて自誣させ罪を軽減、太清宮提挙・太平州居住に落とされ、さらに司農卿・分司南京、学官の趙諗の叛乱に連座して衡州安置、湟州放棄で賀州別駕、さらに廉州司戸と、四年で処分が重なった。舒州に移り大中大夫・提挙崇福宮に復し、大観元年、潤州で卒した。享年七十二。観文殿大学士を贈られ「文肅」と諡された。